県 ~ JL 大 学 人 間 文 化 学 音日 γ21 賀 耳凡 i 長 究 入居司玄化 2[IlI]eE! パ ー サ mvA H 4 Ru L m SCHOOL OF H U M A N CULT U円 ES THE UNIVERSITY O F SHIGA PREFECTU円 E 報 . ! : I : : : . 口 -もくじ・ 巻 頭 言/八木英二・ー ・ ・ ・・ ・ ー ・ ー ・ ー ー ・ー ー ・ー ー ・ー ー ・ー . 1 -論文 茶粥習慣の分布と伝播 / 早 川 史 子 一 …. 3 ベトナムにおける戦争と女性一 反戦運動と 「 英雄の母」 一 5 /京柴真帆子・伊藤哲司・岩佐淳一一. 1 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と /横山幸司... 今後の展望についての一考察 2 6 -研究ノート 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの/市川│ 秀 之 … 3 7 -史料紹介 近世近江の太鼓張替史料 墨書銘と請負証文 /中島順子… 4 6 - 滋 賀 県 の 考 古 学 第 14回 近江における中世集落研究の現状と課題/木戸雅寿一 5 7 -海外研修報告 /市川秀之... モンゴル国フブスグル調査紀行 6 7 -人間文化通信 .. . . ・ ・..……・-…………・ 7 1 人間文化セミナ一一…・・……...・ ・ 2 0 0 8年度卒業論文・修士論文・博士論文一覧・……...・ ・ . 7 3 H H H I N F O R M A T I O N. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .7 7 編集後記 -枯蓮・ 互の蓮 池は 業や花が│場に輝き誠に 美しい。秋から 冬に移り枯蓮となる 。 それはまた別の美しさに変容 叩用 ﹁ ﹁υ 日目画 ま ×筆優 oa 土 5 ぬ 彩安 顔 / ズす︿ イ材 サ画絵 ‘日凶れ uuuk F d - is--'etJ 胃 一ザ ダ . i y J' 巻 頭 一成果主義と資源評価配分)~ 木 じ 英 人間文化学部 学部長 作家の石田衣良氏が 2 0 0 8年を振り返るキイワードに「一年二世 Jをあげている。一年のうち 二つの 世を体験する変化の激しさだという 。たしかに、昨秋の好景気にわく NHK特集「就職内定ブルー J( 内 定が多くて迷う学生の心理)の放映後、世界規模の不況連鎖のもとで企業が内定取り消しに動きはじめ、 非正規雇用のもたらす社会困難を隠せない状況に 一気に急転している 。教育、文化、社会不安、政治な と守への連鎖を生み出し始めた事態一投機金融取引が実体経済を上回るパクチ社会の本質 が人々の眼に さらされている 。本年は歴史が転換する記念すべき年になるのだろうか。 事は人の命にかかわるもので、とにかく諸困難の克服が急がれる 。新年にかけて成果主義にたいする 疑問が浮上し始めたこともひとつの現れであろう 。金融危機にからめて「アメリカの市場崩壊の核に成 果主義給与がある J( 2 0 0 8年 1 2月 1 0日付、 トリビュ ー ン紙) とする社説が目についたが、政治の世界 でもアメリカの政権交代など変化の兆しがみられる 。 イギリスのブラウン首相が「野放図な自由市場の ドグマが遂に追放された J( 2 0 0 9年 l月 l日付、ガーデ イアン紙) と新年の挨拶で述べた例をあげても よい。 危機を呼び込んだ政党や責任者がそう言えるのかという批判もあり、真の解決が行く末にかかってい ることはいうまでもないが、問うべきは成果主義と市場原理主義の終駕についてである 。「成果主義に よる 一般研究費の教員評価配分」を後生大事に進めてきた大学も例外ではない 。 ご多分にもれず本学も 時流にのった「改革」をすすめてきた 。 しかし、成果主義の資源評価配分が本当に正しいやり方なのか が提起されているのである 。 秋葉原の無差別大量殺人をはじめ、誰もがただちに事件を起こすものではありえないし、犯人が許さ れてよいわけはない。ただ、 一連の凶悪事件の背景に は競争原理主義に追われる生産シス テムと 「人を モノとしか見ない」生活の荒廃が潜んでいることは明らかであろう 。 もとより研究費などの評価配分問 題までその危機と同列にできないが、ここで取り上げたいのは、「学問をモノとしか見ない」競争原理 主義 と評価方式についてである 。 教育・研究には当然ながら「お金が必要」である。だからとい って、人参をぶらさげるような資源評 価配分はその意味がまったく異なっている 。金のための「意欲と刺激」、あるいは「付和雷同」ゃ「落 伍の恐れj から、学問の強迫的な倒錯を生むからである 。切薩琢磨が大事といいつつ、本来の学問競争 よりも、「兵糧攻め Jで動機づける歪んだ成果主義の本性がそこにある 。パクチ金融取引に奔走するパ ンカー達の行動は、成果主義給与への連動で、いっそう動機づけられながら理性を失い、結局は市場全体 を崩壊させたという、先のトリビューン紙の告発と同じ性格をも っている 。 日本では、資源評価配分のための「ダメ教員」認定と処分が始動している。すでにボーナスなどで 差をつける試行を経て、評価システムは 2 0 0 7年の教育公務員特例法や教育免許法の改正にまで書き込 まれた。 2 0 0 8年には運用上のガイドラインが示されるに至っている 。対象は小中高校の教員であるが、 方針は大学全体にまで及ぶ。 法令ではレッテル「夕、メ教員」の代りに「指導力不足教員」や「指導の不適切な教員 Jなどの語句が 用いられる 。成果主義評価が世界共通の流行現象とはいえ、日本が突出しているのかもしれない。その 法制と運用については、教育界のみならず日本弁護士連合会ほか各界からも疑念が噴出しているところ である 。 人間文化・ OECDなども「資源配分が成果をあげる動機づけとなっている」という賛同意見と、「報酬は動機づ けにならない JI 客観的で公正な評価配分は技術的に不可能 JI 教員間の協力関係が失われる j などの反 T e a c h e r sM a t t e r .2 0 0 5) 。 論を対置し評価配分に関心を寄せていた C 2 0 0 8年 4月には、共同 1 L O/ユネスコ専門家委員会の調査団が来日するなど、 1 L Oやユネスコなどが 日本の現状に疑いをもっていることがあげられる 。文科省や教員組合、識者等に対して 1 L O/ユネスコ 勧告の遵守監視を担う同委員会が教員評価問題の実態調査を行ったものである 。その調査報告には次の ような内容がある 。 「職能成長の指針として自己のニ ー ドを自覚させるために自主目標を設定する制度であるが、日本で 評価には時聞がかかり管理 は、業績評価結果は教育委員会側が設けた基準をそのベースにしている 。JI 者側にも労働を加重させている 。」 「成果を測る管理制度によるものだが、必ずしも教育固有の制約やニ ー ドは反映しない。J 「資源の評価配分に大多数の現場教員は否定的である 。協力 ・協同による同僚聞のサポ ー トやチーム ワークのあり方に資源評価配分が有害な影響を与えているのは明らか。JI 教育や専門職の成功・失敗の 成果が配分評価で示されるシグナルを増大させている 。JI 専門職の創意や責任、自由にではなく、量的 目的=基準を満たす量的報酬に価値をおくメ ッセージだ。JC CEART.2008) 迷走する本学の試行 ( 研究費配分)についても批判的論点は重なる 。領域毎のそれぞれの業績評価を 合算しうるというが、何の基準で誰がどう測るのか。 どんなに精綴な計算式でも、多彩な研究成果を客 観的かっ公正な総合点で測ることはできまい。ではいったい教育研究の質はどう測るのか。本の重さよ り合理的だといって論文数や引用数を数えたところで、その意味は変わらない。研究評価の作業を受注 するソフト会社ですら、研究の質評価は不能と証言しているのである 。国際機関も、「日本の評価制度は、 量的評価に走る規範的なものにすぎず、形成的 ・発達的なアプローチをもっていないのでプロセスすべ C E A R T . 2 0 0 8 ) と見ているほどである 。 ての評価を考慮しなくてはならない質の改善は確保できない JC 問題は基準のあり方にとどまらない。そもそも賞罰的な評定一覧表を何のために作成するのか。すで に義務教育段階では、教職員が疲弊する、評価 ( 管理)者にものが言いにくい、相対評価に不利となる ので同僚への支援は行なわない、裏方の仕事に評価の目は届きにくいなど、専門職に与える深刻な弊害 が指摘されている 。大学も同じであろう 。大学教員にとって研究費は死活問題である 。 し か し そ の 評 価の脅迫によって、動機が高まるどころか、 1 L O/ユネスコ報告のいうように専門職の創意や責任、自 由や自律にダメージを与えるとなれば、元も子もなくなってしまうのである 。 評価一般、成果一般を否定する立場なのではない。評価と成果が大切だからこそ、資源評価配分の教 育研究と専門職への悪影響(バブル崩壊)に注意を向けたいのである 。本学の研究費評価配分の方式も 本質的には専門職と学問の発達を妨害するシステムである 。学生 GPA . 教職員評価、大学認証評価の 三位一体ですすむ目にみえる成果を確認するという、目標を疑わない「全体主義Jともいえる脅迫的な 遂行 ( パフォーマンス )評価は、教職員の単なる賞罰にとどまらず、結局、大学のあり方全体の悲劇的 変質をもたらす可能性があることを忘れてはならない。 以上 2 ・人間文化 論文 茶粥習慣の分布と伝播 早川史子 人間文化学部 生 活 栄 養 学 科 「 非日常的に食べられた茶粥」は近江商人の発祥の はじめに 茶粥とはコメを茶汁で炊いた粥のことである 。 地に限られたものであったことから、本論文では一 0( 1 9 9 4- 1 9 9 7)年の滋賀県にお 筆者は平成 7- 1 般的な茶粥、つまり 「日常的に食べられた茶粥 J( 以 ける茶粥に関する調査から、茶粥には 「日常的に食 下、茶粥という )について述べる 。 べられた茶粥」 と「非日常的に食べられた茶粥」が あることを明らかにしてきた 1-2)。 このうち 「非日 とも有名であるが、大正時代の主食調査3)や昭和初 常的に食べられた茶粥」は滋賀県の湖東地域に限定 期の食事調査の結果 4)-14)から、茶粥を食べる習慣 された茶粥であり、滋賀県以外の地域ではみられな は西日本に広く分布していたことがわかる 。しかし、 かった。 これらの文献はいずれも茶粥に関して組織的に検討 これらの研究から明らかにした滋賀県における 「日常的に食べられた茶粥」と「非日常的に食べら れた茶粥」の特徴と分布をそれぞれ表 1と図 lに示 した。 表 1 滋賀県における日常的茶粥と非日常的茶粥の比較 茶粥を食べる地域として和歌山県と奈良県がも っ されたものではなく、それぞれの狭い地域に限定さ れ、しかも茶粥の内容の詳細な記述がない。 「 茶粥を食べる習慣があった地域の分布 JI なぜそ の地域で定着 し 習 慣 化 し た の か JI 茶粥を食べる 習慣がどのように伝播していったのか J 、などを明 らかにするためには茶粥を食べる習慣があ った地域 材料 │主としてコメ 番茶 コメ,番茶,赤シゾの!it.黒豆, │ショウガ干したミカンの皮 i チぉガユ・チぉガイ・オ│五豆茶がゆ・豆茶 ・豆じゃ ・五 呼び名 │ ヵ サン 田オ占ユサン │粥茶(ゴカイチャ )梅干し l J 食べる │一年中 季節 │秋から冬 一日で 1 │主に朝食 l 食べる 1 ~~'f{]~4>.'_ .. & . . . . . . +_ I 寒い日の夕食,夜なべのあと 昼食,夕食にも食べた│ ; ' q : , . . . . .U ..t'<l::- ~''''''I 時間帯 │ ] : . ! : ! . . : . T t. . /j 食べる │ 1 . . . = 節米 " P" l ' 目的 I │保温,風邪予防,解熱 │ 信楽町 ( 多羅尾など)・│ 食べられ│ ぺ能登川町(能登川)・五個荘町・ │木之本町 ( 金居原・ト│ ~~;;;~'I~!!:/f'~~~~~ I 日野町・竜王町 た地域 I │ 野)・ 能登川町 ( 乙女浜)1 と茶粥の内容 を広範囲に調べ、その結果から茶粥の 全体像を把握し、詳細な情報を組み合わせて検討す る必要がある 。 本論文では平成 7- 20( 1 9 9 4- 2 0 0 8)年にかけて 和歌山県、 奈良県、大阪府、京都府、滋賀県、兵庫県、 三重県、岐阜県、愛知県、福井県、鳥取県、島根県、 山口県、広 烏県、岡山県、香川県、徳島県、佐賀県 の府県全域および佐渡島 ( 新潟県)と対馬 ( 長崎県) を対象に茶粥に関するアンケ ー ト調査と文献調査を 地理的 │山間僻地・水害多発地帯│平野 I . I, 8 e l I T 6 . 1 . l I . ~o;P.v. ll"'LJ.~ I 特徴 Ij...l.I ''' I I'llt..~ 'J' I:I;Y~"'='TT7 I 琵琶湖 注)能登川町の場合、乙女浜では節 米目的の茶粥、能登川では黒 豆などを入れた豆茶となって い る 。 図 1 滋賀県で茶粥を食べる地域(平成7-10 年謁査) 人間文化・ 3 茶粥習慣の分布と伝播 実施した。 さらに和歌 山県金谷町・龍神村、滋賀県 住吉区・東住吉区・平野区・生野区)・堺市・泉大 信楽 町多羅尾 ・木の本町金唐原・能登川町乙女浜、 津市 ・泉北郡・岸和田市 ・貝塚市・泉南市 ・高石市・ 山口県周防大島、香川県高見島・佐柳島、島根県隠 岐の島、佐渡島における現地調査を実施した。 これ 松原市・南河内郡・八尾市・東大阪市・羽曳野市 ・ らの結果から茶粥を食べる習慣のあった地域および 泉佐野市 ・和泉市 ・河内長野市 ・富田林市・狭山市 ・ 岸和田市、京都府京都市(伏見区)・城陽市・相楽 郡 ・綴喜郡 ・宇治市・熊野郡(京丹後市)・福知山市・ その地域で茶粥がなぜ食べられるようになったのか -¥ 8 ) 、茶粥を食べる習慣の伝播経路 を明らかにし 1. ¥5 綾部市 ・船井郡、滋賀県木之本町金居原・杉野・信 を推論した。 楽町多羅尾 ・神崎郡能主主川町から彦根市にかけての アンケート調査は、その地域在住の栄養士、老人 福祉施設の利用者、老人クラブなど老人施設入居者 およびその利用者の方々にご、協力願った。 琵琶湖沿岸地域、兵庫県尼崎市 ・神戸市・西宮市・ 丹波市 ・姫路市 ・伊丹市、三重県鈴鹿郡・飯南郡・ 1・北牟婁郡・南牟婁郡 ・阿山郡・名張市・熊 度合君¥ 1.茶粥を食べる習慣が認め 5れた地域 県佐渡島、鳥取県鳥取市、岡 山県岡 山市・倉敷市・ 茶粥を食べる習慣が確認できた地域の分布図を図 2に示した。 苫田市、広島県福 山市・広島市 ・呉市・ 三次市 ・安 芸高田市、島根県隠岐郡・邑智郡・飯石郡・鹿足郡・ 那賀郡・大原郡 ・益田市 ・太田市・江津市・浜田市 ・ 野市・ 一志郡・上野市、愛知県海部郡蟹江町、新潟 和歌山県全域、奈良県全域、大阪府大阪市(東成区・ ( 品) { ! ; 口茶粥習俗あり(アンケート調査) 図棚習俗あり(文献調査) ρAh 図2 茶粥を食べる地域の分布 4 ・人間文化 620¥ 島根 ( 隠岐島) 茶粥習慣の分布と伝播 仁多郡・松江市、山口県大島郡 ・宇都市 ・吉敷郡 ・ ベる茶粥は坊主茶粥といって具材 は何も入れない。 熊毛郡 ・玖珂郡 ・柳井市 ・阿武郡 ・防府市 ・徳山市・ 夕食では季節のマメ類、イモ類、季節のものがない 下関市 ・光市 ・佐波市 ・岩国市 ・新南陽市・山口市、 ときは焼きモチ、アラレ入りの茶粥を炊いた。昔は 徳島県徳島市、香川県三豊郡・高松市・坂出市・仲 一年中モチをつき、そのモチを茶粥に入れた ( 焼き 多度郡、佐賀県佐賀市・佐賀郡・小城郡 ・藤津郡 ・ モチ茶粥) 。 くず米は大寒の頃に粉にし、団子を作り、 神埼郡・西松浦郡 ・杵根島郡 ・東松浦郡、長崎県対 茶粥に入れた (ダンゴ茶粥)。サツマイモは皮をむ 馬であった。 なお、図 2の分布図において斜線で示 いて輪切りにし、粥が沸騰した時に入れた。夕食の した地域は文献では茶粥が食べられていたとされて 茶粥はいろんなものを入れた。客が来たらアズキ茶 いるが、今回の調査では このことが確認できなかっ 倍くらいである 。 粥を作った。茶粥の水加減は米の 8 た地域である 。 番茶は茶粥を作る前にホウラクで妙る 。湯の中に番 和歌山県、奈良県、島根県、 山口県では 「 茶射を 茶の入った茶袋を投じる。沸騰してきたら茶袋を取 食べる宵慣があった」者の割合が「茶粥を食べる習 り出す。次にコメを入れる 。 コメはごみを洗い流す 慣がなかった 」者の割合より有意に高かった。特に 程度に洗う 。茶粥には洗いたてのコメを使う 。煮上 和歌山県、奈良県で茶粥を食べる習慣は県全域に分 がる前まではふたをするが、その後はふたをせずに 布していた。佐賀県では「茶粥を食べる習慣があっ 強火で沸騰させ、泡が常にわき上がっているような た」者の割合と 「 茶粥を食べる習慣がなかった 」者 状態で炊き上げる 。炊きあがった茶粥はさらりとし の割合が同程度であった。大阪府、京都府、兵庫県、 た口 当たりであった。夏 は炊きたての熱い茶粥を鍋 滋賀県、三重県、愛知県、岡山県、広 島県、徳島県、 のまま谷川に漬け、冷やした 。その冷たさがおいし 香川県では 「 茶粥を食べる習慣のなかった J者の割 かった。 j 茶に含まれるカテキンにはアミロースを凝集さ 合の方が 「 茶粥を食べる習慣のあった」者の割合よ りも有意に高かったことから、これらの地域は先の せて沈澱させる作用があり、 j 殿粉の膨 1 悶が抑制さ 5県 ( 和歌山,奈良県,島根県,山口県.佐賀県) れ 191、茶粥では白粥と違いさらりとしたでき上がり に比べて 「 茶粥を食べる習慣」は比較的希薄で、あっ になり、これが茶弼の好まれる理由の一つである 。 たといえるが、限定された地域で根強く継承されて 坂口家の茶粥の作り方や茶粥に入れる具材は、今 いた。一方、岐阜県、福井県、鳥取県では 「 茶粥を 回調査したいずれの地域にも共通していた。中でも 食べる習慣があった 」者の割合はきわめて少なく、 サツマイモとモチの使用頻度はいずれの地域でも 高 いずれも茶粥を食べる習慣のあった地域からの移動 く、それぞれ約 80%と30%であった。主食の変遷は によるものであったことから、これら 3県では 「 茶 日本の人口の流れとよく一致し、人口が増加するに 粥を食べる習慣はなかった」と判断した。 「 茶粥を食べる習慣があった」者のうち、調査時点 つれて主食は堅果類(狩猟採集時代)、コメ ( 弥生時 代から 1 2- 1 3世紀頃) 、 コメと雑穀 1 4- 1 5世紀 において継続して茶粥を食べていた者の割合は和歌 頃)へと変選し、コメと雑穀にサツマイモが加わっ 山県では約 70%、奈良県と山口県ではそれぞれ約 たのは江戸時代中期の 1 9世紀以降である 仰 とされて 5 0%程度、島根県と 佐賀県ではそれぞれ約 2 5%程度 にまで減少しており、今後さらに希薄にな っていく ものと思われる 。 品としてサツマイモとモチが用いられることが多 いる 。 この時代になると節米のためにコメの代用食 かった。 コメを節約するため、茶粥にもサツマイモ やモチを入れたものと思われる 。 2 . 茶粥の作り方 カキモチ、アズキ、ソラマメ、ササゲなどもいず 和歌山市金谷町で生まれ育った坂口以勢乃 ( 明治 れの地域でも用いられた具材であったが、サツマイ 3 3年生まれ)さんから茶粥の作り方を聞き取った ( 19 9 7年)0 r 和歌山県で茶粥は 「 紀州茶ガエ」とも モやモチに比べると使用頻度が低く、また使用頻度 に地域差がみら れた。 呼ばれていた。水回もありコメがとれる地域でも、 コメを現金化するため コメを節約した 。そのために 茶粥にマメ ( ササゲ ・一寸豆 ) 、モチ、ダンゴ、サ ツマイモなどを混ぜて炊いた。坂口家では朝食で食 3 . 茶粥に用いる茶 茶粥が食べられていた地域はおおむね茶の木の生 育にも適した地域であった。 人間文化・ 5 茶粥習慣の分布と伝播 茶粥に用いた茶は和歌山県、奈良県、大阪府、京 であった ことが大きな理由であ った。茶 カテキン や 都府、兵庫県、愛知県、島根県、岡山県、広島県、 床成分の少ない 「 番茶」が茶粥 カフェインなどの苦 l 徳島県、佐渡島では 「 番茶」が80%以上を占めてい に適していたということであった。 煎茶 J33%であり、 た。佐賀県では 「 番茶 J60%、「 山口県では 「 番茶 J52%であった。大正時代、島根 県全域では 「 番茶」が飲まれていたが、 一部では「ハ 4.茶粥習慣の内容 ( 1 )呼び名 ブ茶」ゃ河原に生育している薬草の一種である 「カ 茶粥の呼び名を文献からひろってみると「オカイ ワラケツメイ 」が飲まれていた 2。 ) 1 今回の調査では サン」、「オカユサン j 、「 チャガユ」、「 チャガイ 」、「オ 山口 県、愛知県、香川県では 「カワラケツメイ 」、 チャガイ 」、「オチャガユ」、「チャゲj、「 チャゲエ」 愛知県、島根県、山口県、香川県では 「 ハブ茶」 も などであった 。 このように茶粥はさまざまな呼び名 用いられていた。 日常飲んでいた 「 番茶」、 「カワラ で呼ばれていたが、文献からは呼び名と 地域の関連 ケツメイ 」、「 ハブ茶」 を茶粥に利用したのであろう 。 は不明であった。 しかし、いずれの地域も 「 番茶」がもっともよく用 いられており、 「 番茶 j と 「 ハブ茶」、「 番茶」 と 「カ 呼び名と地域性の関連性について、今回の調査か ら次のようなことを明らかにした。 ワラケツメイ 」 との聞にはそれぞれ有意差が認めら 茶粥を古くから食べていたとされる大阪府と京都 れた。愛知県蟹江町でも 「カワラケツメイ 」 を使用 府では 「チャガユ J( 約 75%)と呼ばれ る割合がもっ していた。蟹江町での聞き取り調査 ( 2 0 0 3年)の結 約24%)であり、 とも高く、次いで 「オカイサン J( 果から昔はどの家庭でも庭に 「カワラケツメイ 」 を 「チャガイ 」 はわずかであった。現在茶粥を食べる 栽培して飲んで、いたことがわか った。蟹江町は漁師 習慣がもっとも根強く継承されている和歌山県で I S Jであり、茶の木は自生していなかった 22)ことから、 ないかと思われる 。香川県では 「 番茶」、「カワラケ 約6 0%)の方が 「チャガユ J( 約 は 「オカイサン J( 40%)よりも多く用いられ、両者 1 1 3に有意差が認め られた。和歌山県に次いで茶粥をよく食べていた奈 、「 ハフ守 茶 Jとともに発酵茶の一種である 「 碁 ツメイ J と「チャガユ」が同程度であ っ 良県では「オカイサン J すぐに手に入る 「カワラケツメイ 」 を使ったのでは 石茶」が使われていたとされているが,調査時点で 約 4%) 、「オカユ た。 島根県では 「オカイサン J( は 「 碁石茶」の使用頻度は少なかった。その理由は サン J( 約 3%)は少なく、 「チヤガユ J( 約42%)と 「 碁石茶 Jの価格の高騰にあり、 「 碁石茶」の代わり 「チャガイ に 「 番茶」が使われるようにな っていた。 また、多 佐賀県では 「チャガユ 」 と 「チャガイ 」 をあわせ J(約46%)が同程度であ った。 山口県と くの地域で茶粥に用いられていた茶は 「 煎茶」では 約45%)の ると約 80%を占めており、 「チャガユ J( なく 「番茶」であった。「煎茶」 などの高級茶は贈 方が 「チャガイ 答品として用いたこと、現金化ができたこと、など 残りの約 2 0%は 「オカイサン 」 と 「オカユサン 」 で も一因であ ったが高級煎茶の持味が茶粥には不向き J(約29%)よりも有意に高か った。 あった。茶粥を食べる習慣がやや希薄な 三重県、愛 知県、兵庫県、岡 山県、広島県、徳島県、香川県で は「チャガユ」が80%以上を占めており、 「チャガイ 」 「オカイサン JI オカユサン 」 はわずかであった。 このように呼び名は地域によって異なったものの 対象地域全体では 「 チャガユ」がも っ とも多く用い られていた。 佐渡島においても 「チャガユ」がも っとも多か っ r たが、 「チャゲ J チャゲエ」 とも呼ばれていた。佐 渡島では 「オカユ」 を 「オケェ」と呼ぶ。佐渡島で は公的な役を果たすことを 「くがい」 というが、こ れがなまり 「くげえ 」 と表現する 却 。 これらのこと から茶粥の 「ガイ 」が 「ゲエ」になま ったことによ っ 写真 1 和歌山県龍神村の石垣に繁茂する茶の木 6 ・人間文化 て 「チャゲエ」 と呼ぶようになったのではないかと 茶粥習慣の分布と伝矯 いにして食べたので「河内の泥食い」 と呼ばれたと いう報告がある 初 。 今回の調査でも和歌山県、奈良 推論した。 ( 2 )食べる時間帯 r 1 8 ∞年代. 京では中より以下は前日飲み余りの 茶汁へ水を足し、残り飯を入れて粥にした。豪冨 の家にでも朝は新たに茶粥を炊いて食べた」とあ る2 4) 。 県、大阪府で茶粥にハッタイ粉を混ぜて食べる習慣 が継承されていた。 また、ソパの産地であった滋賀県金居原における 藤田そえ ( 明治 3 3年生まれ)さんからの聞き取り調 この文章から古くは年中朝食に茶粥を食べていた 0時 、 ことがわかる 。 その後、朝食、昼食、夕食、 1 1 5時の一 日5回食べられたが、調査時点では主に朝 食で食べられるようになっていた 。 ( 3 )食べる理由 r おいしい ・ 茶粥を食べた理由には積極的な理由 ( 好き J からだによい J )と消極的な理由 単に習 慣J )があった。和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、 兵庫県、愛知県、三重県、広島県、岡山県、徳島県、 r r ( 9 7年)で、金居原では熱い茶粥にソパ粉を入れ, 査(19 かき混せ、 た 「かいかい」 と称する茶粥を食べていた ことが新たにわか った。 5 . 茶粥を作るための道具 茶粥を作るための道具は「鉄鍋」、「羽釜」、「 土鍋」、 「茶釜」などであったが、地域によって多少異なっ ていた。兵庫県では 「 土鍋」 と 「 鉄鍋」が同程度に も用いられていたが、兵庫県を除く近畿地方及び三 佐賀県では 「 積極的な理由」 をあげた者の割合の方 重県では「鉄鍋」・「茶釜」 が同程度に用いられてい が 「 消極的な理由 」 をあげた者の割合よりも有意に た。島根県では「鉄鍋Jがもっとも多く、次いで「羽 高かった。積極的な理由の中でも「おいしい・好き 」 釜」が用いられていた 。山口県では 「 羽釜 j がもっ が多かった。岡山県と香川県では「おいしい・好き 」 とも多く、次いで 「 鉄鍋 J 茶釜」であった。広島 r よりも 「 からだによい」 を理由にあげる割合が有意 に高かったことが特徴的であった 。 茶粥を食べてきた理由は島根県と山口県では 「 単 に習慣 j を理由とする割合がもっとも高かったが, 対象地域全体では 「 おいしい・好き 」の割合が高かっ た。 r r ( 4 ) 入れ茶粥J ツケゴハンJ 元治の頃(18 6 4年頃)、江戸から京へ遊んだ人の 見聞記 ( 石川明徳の京都土産) 飲食の節約 j とい う項に、浴中では一般庶民は朝,宵の茶を煎じ出し て宵の飯を炊き、塩を入れて粥にして食べていたと 記されている 。 前日の飲み残しの茶汁に水を足して、 そこに残飯を入れて粥にして朝食としていたのであ る。 このようにして作った茶粥は 「 入れ茶がゆ」 と 称され、大阪でも庶民は同様な 「 入れ茶粥 Jを食べ ていたとされる 。 また、茶粥の中に残り飯を入れて 食べる 「 ツ ケコゃハン j や「かけ茶ガエ j という食べ 方もあっ たお261。 r 写真2 金居原のてんどり r 調査時点で「入れ茶がゆ J ツケゴ‘ハン 」の習慣 は地域によって頻度に差はみられたが、いずれの地 域でも共通した食べ方として継承されていた。 奈良県で はハッタイ粉(大麦の玄殻を熔煎し、粉 にしたもので,麦こがしともいう)を粥に浮かせて 食べていた。大阪府河内市ではハッタイ粉に塩を 少々入れて湯でこねて、茶粥にまぜ真っ黒 い泥みた 写真3 山口県の茶釜 人間文化・ 7 茶弼習慣の分布と伝播 県では「土鍋」、「鉄鍋」、「羽釜」が同程度に用いら 山口県岩国市における聞き取り調査 ( 1 9 9 6年)の れていた。佐賀県では 「 羽釜」・ 「土鍋」 が多か った。 結果から「万徳院の茶粥」 として有名な岩国市の吉 愛知県、岡山県、徳島県では「土鍋」がもっとも多 川藩の 菩提寺万徳院 (真宗)で は飢縫や水害の被害 く、次いで「鉄鍋Jであった。 者に茶闘を施していたことを明らかにしてきた。 茶袋はいずれの地域でも「木綿製」 をもっとも多 佐渡島では茶粥を食べる習慣のある地域と習慣の く用いていたが、今回の調査で麻の産地では 「麻 ない地域が明確で、あった。佐渡島は地形的に大佐渡 ・ 製」を用いていたことと和歌山県日高郡の山間部で 小佐渡の両山脈とその聞に開けている国仲平野に分 は「フジ蔓製」の茶袋が用いられていたことが新た けられる 。国仲地方は水田がよく開け佐渡島の中で にわかった。 は水田率がもっとも高かった。次いで、高かったのは 両津地方で、あった 。昼食がサツマイモであったとい う相川 、 二見地方、 小木地方の水田率は低く、水源 に恵まれず、畑地が多かった。 これらの地域は佐渡 におけるコメ不足地帯であり 341、茶粥を食べる習慣 は認められなかった。茶粥を食べる習慣は一部国仲 地方 ( 金井,新穂)でもみられたが、両津湾岸地域 が中心であ った。茶粥を食べる習慣が確認された両 津湾岸地方とは両津港の北部海岸、南部海岸、加茂 湖周辺一帯をさし、漁業と農業が盛んな地域であっ た。特に茶粥を食べる習慣の根強かった加茂湖に近 い潟端では製茶が盛んであったお) 。 ここで作られた 写真 4 麻の茶袋 潟端茶は番茶が主流であり、水不足の平坦な台地で 作られていた。 6 . 茶粥を食べる習慣と主食パターン の移 出が解かれ、 夷 ・水津 ・沢根港から移出されて 佐渡年代記には文政元(18 1 8 )年佐渡国産の煎茶 1 8 0 0年代、京都では富豪の家でも朝食に茶粥を食 おり、佐渡から売り出された商品の中で茶がも っと べていた。 また、山口県では米麦の節約のために、 も多く、換金作物として大切な特産品であったお} 。 落政時代から朝食に茶粥を食べる習慣があり 如、い かなる人も茶粥で、育ってきた却 )とされている 。島根 甲斐正子 ( 大正 3年生まれ)さんからの聞き取り調 査( 2 0 0 8年)では 『昭和 6年潟端に嫁に来た。干拓 県太田市や浜田市では明治時代から大正時代にかけ 地で水田が少なく コメは大事であった。茶畑 が多 て商家や医師宅、コメから収入が得られた農家など 1 4手 1 [ 4 0 年代、畑を回んぼにした。明治 1 5年 かったが 1 でも貧富の差なく茶粥が食べられていたが地主の家 では食べられていなかった 30-311という 。 生まれの姑の時代には茶粥を食べていた。 』 という 隠岐島後では水田が少なかったが、島後より水田 がもっと少なかった島前では茶粥を食べる習慣はみ られなかった 。その理由は、コメ不足のために茶粥 すら食べることができなかったからであると思われ る。 愛知県で茶粥を食べる習慣のあった地域は蟹江町 に│ 浪 られていた。蟹江町は木曽 川下流域のデルタ 地帯に位置し、町全域が海抜 Oメートルの低湿地 に属している 。蟹江町で茶粥を食べる習慣のあった 地域は、 主に蟹江 町の中央部から蟹江川下流域に かけてであり、特に舟入地方で盛んに食べられてい た 32-33)。 8 ・人間文化 写真 5 佐渡島潟端の茶園 茶粥習慣の分布と伝播 穀食率 50%未満 )、ムギ卓越型(麦食率 50%以上)、 ことであった 。 隠岐の島や佐渡島で、明らかにしたように、茶粥を 米食率 雑穀卓越型 ( 雑 穀 食 率 50%以上)、総合型 ( 食べる習慣のあった地域ではコメが不足していた が、コメがもっと不足していた地域では茶粥を食べ 30 60%、麦食率 20-50%、雑穀食率 20-50%)に分類し た約 。 図 3に鬼頭の分類による主食の地域パターン る習慣はみられなかった。 このようなことから茶粥 を示した。 を食べる習慣と主食パタ ー ンには何らかの関連性が コメ中心型の地域は滋賀県、 三重県、島根県出雲 あると考え、茶粥を食べる習慣のあった地域の主食 地方であ った。 これらの地域では茶粥を食べる習慣 は希薄であったが、耕地の少ない府県境の山間地帯 パタ ーンを検証した 。 黒崎によると 1 8 8 0( 明治 1 3)年頃の全国平均米食 や大河の下流デルタ地帯、海岸沿いや干拓地など、 2- 53%であり、北高南低あるいは東高西低 率は 5 水田に適さない地域で茶粥を食べる習慣が確認でき の地域傾向があったとしている 37 ) 。 た。 鬼頭が 1 8 8 0年当時の主食から地域パターンをコ 藩政時代から茶粥が盛んに食べられていたと恩わ 米食率 メ中心型 ( 米食率 70%以上),コメ・ムギ型 ( れる和歌山県、奈良県、大阪府、京都府、島根県、 70%未満、麦食率 20%未満、雑穀食率 20%未満)、コ メ・雑穀型 ( 米食率 70%未満、麦食率 20%未満、雑 れらの中でも島根県石見地方(太田市・邑智郡・江 山口県、佐賀 県は コメ・ムギ型の地域であ った。 こ U O │・米中心型(米 70% 以上) 1 1 :米・麦型(米 70% 未満) 関 1 1 米・ザツコク型(米 70% 未満) 圏 円卓越型 日 V 麦・ザツコク型(米 30% 以下) .VI : 総合型(米優位)附 0~6 0%) o G gdtA d 04 v ぺ , 。 0' 1 / グ 。 図3 人間文化・ 9 茶粥習慣の分布と伝播 津町 ・浜田市・益田市・鹿足郡)や隠岐島後(隠岐 る習慣が早くから定着していた京都、大阪から次第 の島 町)は特に茶粥が多く食べられた地域であった。 に互いに隣接している 地域へと拡大していったもの また、兵庫県、岡山県の一部と広島県の一部、佐渡 と思われる 。 この ように隣接した地域への伝播は山 島の一部も コメ ・ムギ型に属していた。 口県、島根県、広島県にもみられた。 島根県の一部と広島県の一部は総合型に属してい た。佐賀県は コメ ・雑穀型であ った。 愛知県の 一部 ( 茶粥を食べる習慣のある地域)、 山口県と佐賀県への伝播はこれとは異なっていた。 山口県岩国の茶粥は「岩国茶粥」と呼ばれており、 茶粥の始まりには次のような説がある 。 ひとつは 岡山県の 一部(茶粥を食べる習慣のある地域)、香 61-1 6 2 5年)が関が原の 毛利氏一族の吉川広家(15 0%以上)に属 川県、徳島県はムギ卓越型(麦食率 5 戦い(16 0 0 年)の後に岩国に移封され、領地が減ら し米食率の低い地域であった 。ム ギ卓越型地域に属 されたことにより、 コメの収穫量が減少したことか する香川県高見島や佐柳島ではコメはひと粒もとれ ら家臣に コメを節約させる目的で茶粥を勧めた 46) ず、島で収穫できるものはムギ ・イモ ・ ト ウモロ コ という説がある 。 また、吉川広家が出雲に柵封時代 シ ・ササゲ・ダイズであり、これらが主食であっ た39)。高見島 や佐柳 烏で は大正から昭和のはじめに 屋の家で茶粥を食べた。その経験から、岩国へ移封 9 1 -1 6 0 1年)、その領土であった隠岐の島の総庄 ( 15 した 1 6 0 2 年以降、年貢米の不足に悩んだ際に、 一日 かけて多度津町から米麦を購入し、主食が米麦の混 食になった 39)。 一回の茶粥を奨励した4 7 )という説。いずれの説も務 ムギ卓越型地域であった愛知県、岡山県、徳島県 の命によって節米目的で食べられたことに始まった でコメだけの茶粥を食べるようになったのは昭和に なってからであると思われる 。 J I j 村 40) ・美山村 41)・清水町42))、三重 和歌山県 ( 龍ネ ようである 。 佐賀鍋島藩では天保元(18 3 0 )年に下された質素 県 43)、奈良県 44)、島根県(中でも石見地方、 1 ¥ 塁岐島 倹約を目的に朝食に茶粥を食べることが半ば強制さ れた 48)ことにはじまったと考えられる 。調査時点に U J ))で は時には コメの代わりにムギだ 後( 隠岐の島 I おいて佐賀県の茶粥を食べる習慣の分布は鍋島藩と け、あるいはコメとムギ、コメとアワの混じ った茶 かかわりのあった地域に多かった。封建社会では封 粥も食べられていた由 。 愛知県、岡山県、徳島県で 鎖的な経済機構が存在しており、ある地方に凶作が もコメだけの茶粥が食べられる以前には雑穀の茶粥 あった時、その他の地方では コメが凶作地域に流出 が食べられていた可能性もある 。 して、その結果コメの値上がりや食料不足をきたす ことを恐れて、語審主はコメの移出停止を命じた。 し 7 . 茶粥を食べる習慣の定着と伝播 たがって凶作の打撃の大きい務では飢鐙による打撃 大阪近郊の河内国丹北群我堂村の領主側から村方 を強く蒙ることになった制。 このような封建社会の へ出された文化 1 1( 181 4)年 1 1月の倹約申渡の 「 百 封鎖的な経済機構が茶粥習俗を限定した地域に分布 させた要因にもなったと考えられる 。 姓は麦飯を用い候は、許よりの事に候、近年に至り 候ては、 一統町家を見習い、朝飯に茶粥を用 、麦飯 一方,愛知県蟹江町では茶粥を朝食で多く食べてい とても過分に米を加え 」 とある 。 この頃次第に村人 たこと、茶粥に入れる具材ではサツマイモ、モチ、 が町家の真似をし、茶粥を食べ始めるようにな って きた ことがわかる 。 アズキの使用頻度が高かったこと、など和歌山県の 本研究では、茶粥を習慣的に食べていた地域で茶 粥が食べられた理由、茶粥の作り方、呼び名、 具材、 茶粥との共通点がみられた。特に茶粥が盛んに食べ られて いた舟入は和歌山県の漁民との交流が盛んに 行われていた港であったとされている 31.32)。 これら 食べる時間帯などいずれの地域とも共通点が多く、 のことから蟹江町の茶粥を食べる 習慣 は和歌山県の 地域間で関連性があることを明らかにしてきた。そ 漁民から海路を通して伝播したことが推論できる 。 1 6 0 0年代大阪や京都で食べられていた茶 岐阜県では茶粥を食べる習慣はなか ったと判断した 粥は、どのように各地域に伝矯したのであろうか。 が、その理由として、ムギ卓越地域であったことに れならば、 和歌山県、 奈良県、大阪府、 京都府、滋賀県、兵 加えて海に面していないことが海路を経由した茶粥 庫県、 三重県 は隣接し合 っている 。和歌山県、 奈良 習俗の伝播につながらなかったことが考えられる 。 県、滋賀県、兵庫県、三重県への伝播は茶粥を食べ 山口県大島郡大 島町 ( 現周防大 島 I I I J)ではサツマ 1 0 ・人間文化 茶粥習慣の分布と伝播 イモの入った茶粥を藩政時代から日常的に食べてい 柳 島では明治大正時代にはすでにムギ茶粥が食べら たところである 刻 。 大島 町での聞き取り調査(19 9 6 れていたものと恩われる 。 また、高見島や佐柳島で 年)でもサツマイモを入れた茶粥がよく食べられて いたことが確認できた。また 、呼び名、ツケコツ、ン とれた魚介類の大半は町の魚市場で売られたか、広 島県、岡山県あたりからくる出買いの船で買われて の習慣等において和歌 山県との共通点が見られた。 いったとされている 39)。今回の調査で、広島県や岡 大島町の茶粥を食べる習'慣もまた和歌山県の漁民か 山県で茶粥を食べる習慣がおもに海岸沿岸に分布し らの伝f 番によるものかもしれない。 ていたことや茶粥を食べる理由 として岡山県と香川 瀬戸内海塩飽諸島の高見島・佐柳島は島の真ん中 は山であり、島の狭い周辺に民家が並んでいた。 県では 「 からだによい Jを理由とする割合が 「おい しい ・好き 」 を理由とする割合よりも有意に高かっ この島で茶粥を盛んに食べるようにな ったのは近 た、広島県では有意差は認められなかったが 「から 代のことで昔は雑炊や コメ・アワの白粥を食べてい たという 51)。香川県は降雨量の少ないことから茶の れた、という共通点を明らかにしてきた 。 これらの 生育には適していなかった。したがって香川県の茶 ことからも高見島や佐柳島への出買いの船を介して、 だによい」 を理由とする割合の方が高い傾向が見ら 4( 19 4 9)年であっ た。 それま の栽培は遅く、昭和 2 広島県や岡山県の瀬戸内海沿岸地方に伝わったと考 では高知県で作られていた碁石茶を買い入れていた。 えることカ王できる 。 香川県では碁石茶のことを仁尾茶とも呼び、値段が 安いことからよく飲まれていた 52)。商人の町であり , とがわか った。 中世以来、紀州、泉州、長周周防大 今回の調査で対馬でも茶粥を食べる習慣があるこ 良港に恵まれた仁尾から仁尾商人の手によって瀬戸 内海沿岸や全讃岐の各地に販売されていた 52)。瀬戸 島の漁民たちが他国への出漁を行い、活躍し、対馬 内海塩飽諸島では早くから碁石茶が飲まれていたこ 半島の東南海岸から西北九州、瀬戸内海、山陰に至 とが推測できる 。 にも出かけ漁業を行っていた問 。 対馬を含めた朝鮮 る海域には縄文から弥生にかけて漁携民の独自の世 2( 1 8 8 9) 高見島への茶粥の伝播経路として、明治 2 界があり、中でも紀州漁民は江戸時代から明治にか 年頃、高見島から和歌 山県の地網に働きに出かけた けて果敢に外洋に出かけた先進性があ った とされて 人が、そこで茶粥を食べ、これを島で伝えたことに いる 制 。 また、久賀 (山口県大島郡周防大 島町)の はじまり、碁石茶にムギ、イモ、ササゲ、カンコロ、 ダイズなどを 一緒にして炊いたものである 19)といわ 漁民たちは早くから対馬の朝藻に出かけ漁をしてい れている 。和歌山県ではムギだけの茶粥の食べられ た。明治 3 0( 18 9 7)年頃には紀伊の国から漁民がた たが、明治 2 0( 1 8 8 7) 年、本格的に住み着くようになっ ていた時代があったことや今回の調査で和歌山県と くさん来るようになった 55)。聞き取り調査 ( 2 0 0 8年) 高見 ・佐柳島の茶粥の具材(イモ、ササゲ、カンコ 魚、民たちの移 の結果からも対馬の茶粥は周防大島の i ロ、ダイズ )に共通点がみられたこと、香川県への 住により始ま った可能性が示唆された 。 碁石茶の導入が早かったこと、などから高見島や佐 佐渡島への茶粥は和歌山県の j 魚民からの伝播の可 能性も考えられる 。その理由は佐渡島では両津港を 中心とした漁民で多く食べられていたこと、佐渡 島 が西日本と離れた位置関係にあること、佐渡島以外 新潟県では茶粥を食べる習慣が認められなか ったこ とがあげられる 。 さらに、猪俣文彦 ( 昭和 2 8年生ま れ)さんからの聞き取り調査 ( 2 0 0 8年)では佐渡島の 茶粥は 『 朝は茶のみの茶粥であり、夕食には大根や 芋を入れた茶闘であった。入れ茶粥もあ った。 』 と いう 。 これは和歌山県金谷の坂口以勢乃さんから聞 き取った茶弼の食べ方に類似していたことも和歌山 県からの伝播を裏付ける大きな要因の一つである 。 一方、佐渡島は西日本型食文化の飛び地話、加 と 写真 6 高見島 されており、北前船の影響が強い地域である 59)。北 人間文化・ 1 1 茶粥習慣の分布と伝矯 前船の航路が開けた元禄以降、京都、大阪には日本 地域では食べられていた。 海沿岸の青森 ・秋田・庄内・越後・越中 ・加賀 ・越 茶粥を食べる習慣の伝播には 4つの経路が推論で 前からコメが供給されていた。 これ らの地域間では きた 。ひとつは京都、大阪など古くから茶粥を食べ 物資だけではなく、たとえば佐渡島の正月の雑煮餅 る習慣が定着していた地域から、隣接している地域 は西日本と同様に丸型であるというように、食文化 への伝播。2 つ目は藩政時代の藩の財政を助けるた の交流も盛んに行われていたであろう 。高田は北前 め藩の命で食べることを強制されたことによる伝播。 船に寄港地として佐渡の夷(両津)を挙げている 印) 。 3つ目は和歌山県や 山口県の漁民たちによる海岸沿 寛文年間(16 61-1 6 7 2年)、北前船の西廻り航路の 岸地域や島々への伝播。 4つ目は北前船による伝播 寄港地として小木と同時に水津、大 } I I( 水津と大川 である 。 は風の方向によっていずれかが寄港地とな った。漁 一方、茶粥が盛んに食べられていた和歌山県は茶 業の船たまりであった )も寄港地であった。大川、 の生育に適し、白生茶から作った自家製の番茶を 水津も茶粥を食べる習慣のあった地域である 。 f 吏って、茶粥が作られていた 。 このように茶粥が食 隠岐の島も佐渡島同様に 北前船の寄港地であっ た6。 ) 1 隠岐の島で庄屋が食べていた茶粥は北前船に べられていた地域は自生茶の生育にも適した地域で よって大阪からもたらされた可能性も考えられる 。 なぜなら隠岐の島のアンケ ー トの結果や聞き取り調 あった。 しかし、海岸沿岸など茶の入手が困難な 一 部の地域で、はハブ茶やカワラケツメイも用いられて いた。 査の結果から隠岐の島では茶粥を朝食によく食べて 1 8 0 0年代に京都や大阪の町屋で食べられていた茶 チャガイ 」 いたこと , 茶粥の呼び名は「チャガユ JI 粥には具材は入っていなかった。 また、食べる時間 が最も多かったことなど、大阪と隠岐の島の茶粥に 共通点がみられたからである 。 帯も主に朝食であった 。農民や漁民が茶粥を食べる 今後さら対馬、隠岐の 島、佐渡島、瀬戸内海の島々 具材を入れ、食べる時間帯も朝 ・昼 ・夕食 ・間食あ ようにな ってから茶粥にサツマイモなどさまざまな および瀬戸内海沿岸地帯の茶粥についてさらに検討 わせて一日 5回食べるようになった。本研究の調査 し、茶粥の伝播経路の更なる確認が必要で、ある 。 時点 ( 1 9 9 0-2 0 0 0年頃)では具材を入れない茶粥を 主に朝食に食べるようになっていた。 おわりに 節米のため余儀なく食べはじめた茶粥であったが、 茶粥は和歌 山県や奈良県が有名である 。 このこと 茶粥を食べる習慣が定着し、さらりとした触感と番 は今回の調査結果で和歌山県や奈良県では茶粥を食 茶の風味が好まれ、さらに 「身体によい」 という付 べる習慣が県全域で分布していたことや茶粥を食べ 加価値も加わ ったことから、コメの豊富 な現在まで る習慣の継承率が高かったことから理解できた 。 茶粥が習慣的に食べられていた地域の主食パター 茶粥を食べる習慣は長く継承された。 しかし、急速 ンの特徴として次のことが明らかにな った。茶粥は 齢者に限られるようになってきており、茶粥を食べ コメ・ムギ型地域でもっとも早くから、またもっと る習慣はやがて消滅することが示唆された。 な食生活の変化から茶粥を食べる人は調査時点で高 もよく食べられていた。次いでコメ ・雑穀型地域と 総合型地域であった。 ムギ卓越型地域では雑穀 ( ム ギ ・アワ )だけの茶粥やコメに雑穀 (ムギ・サツマ 本研究の一部は京都府茶業会議所奨励寄付金、財 団法人アサヒビール学術文化振興財団奨励寄付金の イモ)が混じった茶粥を食べていたが、コメが入手 支援を受けて行ったものであり、日本食生活学会賞 できるようになってからコメだけの茶粥を食べるよ 受賞研究である 。関係各位に謝意を表します。 うになったと思われる 。 したがって、ムギ卓越型地 域で茶粥を食べるようになったのはコメ・ムギ型、 文献 コメ・雑穀型、総合型地域より遅かったと思われる 。 1)早川史子, 日比喜子 コメ中心型地域では茶粥を食べる習慣は希薄で、あっ 日本食生活学会誌、 滋賀の茶粥習俗と分布、 9 、5 2 5 7( 19 9 8 ) たが、耕地の少ない山間地帯や大河の下流デルタ地 2)早川史子 帯で地盤が低く、また柔らかい粘土質で水田には適 0、7 6 8 0( 19 9 9) 茶粥習俗一、日本食生活学会誌、 1 3 )瀬川清子:食生活の歴史、 p. 19 2 3( 19 8 2) 東京書房、 さない地域、海岸沿いや干拓地など、水田率の低い 1 2 ・人間文化 続・滋賀の茶粥習俗と分布一湖東の 茶粥習慣の分布と伝播 東京 4 )日本食生活全集編集委員会 島根の食事、 p . 2 8 8 ( 1 9 91)農山漁村文化協会、東京 5 ) 日本食生活全集編集委員会。山口の食事、 p. 3 0、 p. l2 9 、p . 21 1( 19 8 9 )農山漁村文化協会、東京 6) 日本食生活全集編集委員会:岡 山の食事、 p. 4 5、 p . 8 9( 19 8 5)農山漁村文化協会、東京 7 )日本食生活全集編集委員会和歌山の食事、 p. l0 7 、 p. l6 3( 19 8 9)農山漁村文化協会、東京 8 ) 日本食生活全集編集委員会 佐賀の食事、 p. 7 8、 p. l2 0、 p. 3 2 4( 19 9 1 )農山漁村文化協会、東京 9)日本食生活全集編集委員会:奈良の食事、 p. 221 、 p . 2 2 3、p . 2 7 6( 19 9 2 )農山漁村文化協会、東京 1 0)日本食生活全集編集委員会.香川の食事、 p . 2 8 4 ( 1 9 9 0)農山漁村文化協会、東京 1 1)日本食生活全集編集委員会・ 三重の食事、 p. l2 9、 p. l8 4、p. 2 2 8( 19 8 7 )農山漁村文化協会、東京 1 2)日本食生活全集編集委員会:ì~賀の食事、 p.324 ( 19 91)農山漁村文化協会、東京 1 3)日本食生活全集編集委員会 ー大阪の食事、 p . 2 3 3 ( 19 91)農山漁村文化協会、東京 1 4)日本食生活全集編集委員会 京都の食事、 p. l0 5 ( 1 9 8 5)農山漁村文化協会、東京 1 5)早川史子 ・前回昭子・南幸 ・ 川 井孝子 ・ 藤沢祥子: 京都 ・大阪 ・三重 ・奈良 ・和歌山の茶粥習俗と分 1、 2 5 9 ・ 2 6 7( 2 0 0 0) 布、日本食生活学会誌、 1 1 6 )早川史子・前田昭子・水野浄子 ・南幸・渋谷里美 2 、1 7 6 佐賀の茶粥習俗、日本食生活学会誌、 1 1 8 2( 2 0 0 1) 1 7) 早J I史子 ・岡崎章子 韓順子日本食生活学会誌、 1 9、3 3 4 3( 2 0 0 8) 1 8 ) 早川史子・岡崎章子・韓 } I 貢子:日本食生活学会誌、 1 9、 7 58 2( 2 0 0 8 ) 3、5 6 3 5 7 2( 19 8 2) 1 9)日比喜子:日本家政学会誌、 3 . 4 7 7 2 0 )石 毛 直 道 編 論 集 東 ア ジ ア の 食 事 文 化 、 p ( 19 8 5)平凡社、東京 2 1 )中国の民俗ー島根編一日本民族調査報告書集成、 9 7 )三一書房、東京 民俗分布図 ー朝食の内容(19 2 2 )中村羊一郎:茶の民俗学、 p. l6 0( 1 9 9 2)名著出版、 版部、東京 2 7 )谷本陽蔵.お茶のある暮らし、 p. l4 7( 19 9 3)草 思社、東京 2 8)岩田市史編纂委員会編岩国市史 ( 上)、p. 8 7 6 8 8 1 ( 1 9 7 0) l2 4 1 2 9)田布施町史編纂委員会編:田布施町史、 p. ( 1 9 9 0) ) 、 p. 5 6 65 6 7( 19 8 5) 3 0)旭町発行.旭町誌 (中 44 0 4 5 0( 19 7 3) 31)桜江町発行:桜江町誌(下)、 p. 3 2)中 村 洋 一 郎 番 茶 と 日 本 人 、 p . 5 9 6 3( 19 9 8)吉 川弘文堂、東京 3 3 )蟹江町史編纂委員会 蟹江町史 、 p . 4 21( 19 7 3) 3 4)両津市誌編纂委員会; r 両津市誌j町村編 ( 上)、 p . 6 8 26 8 4( 19 8 2) 3 5)新潟県編新潟県史資料編、民俗 ・ 文化財、 p . 2 8 3 ( 19 8 4) 19 7 6)佐渡叢書刊行会、 3 6)山 本 修 之 助 佐 渡 叢 書 9( 新潟県 3 7)黒崎千晴 .主食消費の地域的傾向 明治初期に おける米食率・米麦食率を中心として一、早稲田 2、 p. 4 2 6( 1 9 6 7) 大学高等学院研究年誌 1 3 8)鬼頭宏 明治前期の主食構成とその地域パター 04 3( 19 8 6 ) ン、上智経済論集、 3 3 9)多度津町誌編集委員会 多度津町誌、多度津町 p . 9 8 2 9 8 3( 19 9 0) 4 0)龍神村誌編さん委員会龍神村誌下巻、 p . 3 2 7 ( 19 8 7) 41)美山村史編集委員会編:美山村村史、 p . 9 4 4 ( 19 9 7) 4 2 )清水町誌編さん委員会 清水町誌下巻、 p . 7 3 1 ( 19 9 8) 4 3 ) 堀田吉雄・岩井宏美・橋本鉄男 ・曽根文省 ・中 村太郎・原泰根.近畿の衣と食、 p . 3 8( 19 7 4)明玄 書房、東京 4 4)上田正子 ・ 前回恵子:ふるさとの味をたずねて ー 隠岐地方に伝わる手料理 茶がゆ ー隠岐郡西郷町 農業改良普及所(19 8 0 ) 東京 2 3 )網野善彦 2 5 ) 奈 良 県 史 編 集 委 員 会 奈 良 県 史1 2 巻 、 p . l2 3 ( 19 8 6)名著出版、東京 2 6 )山崎あきら かでもの集、 p. 8 5( 19 4 4)月明会出 海と列島文化 第l 巻 、 p . 46 2( 19 9 0 )小 学館、東京 2 4 ) 久須美祐:日本随筆大成(浪花の風 )、p. 3 9 6 ( 19 7 7)吉川弘文堂、東京 4 5 )岩国市史編纂委員会編岩田市史(上)、p . 8 7 6 8 81 ( 19 7 0) l8 6 19 1 4 6 )山口県大島郡東和 町編:東和 町誌別編、 p. ( 2 0 0 4) 人間文化・ 1 3 茶粥習慣の分布と伝播 4 7 )周東町史編集委員会周東町史、 p . 2 8 3( 19 7 9) 4 8 ) 佐賀県教育委員会.佐賀県の民俗、佐賀県文化 5集(19 6 5 ) 財調査報告書第 1 2 巻 、 p . l1 2( 19 7 9)原書 4 9 )渋沢敬三 明治文化史第 1 房、東京 5 0 )周防大島町誌周防大島町誌、 p . 9 9 5( 19 9 4) 1)片岡英三 多度津町史、 p . 8 7 5( 19 6 3)臨川書応、 5 東京 5 2 ) 大豊町史編纂委員会:大豊町史、 p. 679-6 8 1 ( 1 9 7 4 )第一法規出版、東京 5 3 ) 仁 尾 町 誌 編 纂 委 員 会 新 修 仁 尾 町誌 、 p . l8 6 ( 19 8 4)ぎょうせい、東京 5 4 ) 田烏佳也 :日本海と 北国文化、海と列島文化第 一巻 、 p . 3 7 4-3 7 7( 19 9 0) )小学館、東京 5 5)宮本常 一 忘れられた日本人、 p. l9 2( 19 8 4)岩 波書庖、東京 5 6)新潟県:新潟県史 ・資料編 2 3、 p. 2 8 3( 19 8 4) 5 7)渋谷歌子 ・本間伸夫・石原和 夫 ・佐藤恵美子 新潟県の郷土食に関する研究 ( 第1 0報)、県立新 潟女子短期大学研究紀要、 1 7 、p . l3 7 -1 4 5( 1 9 8 0) l6 2 5 8 )浜口一夫 佐渡の味・食の民俗 ・茶ガユ、 p. 1 6 3( 1 9 7 9)野島出版、東京 5 9)本間伸夫.新潟県の食文化の他地域との交流、 、4 3 5 3( 19 9 4) 新潟県生活文化研究会誌、 l r 日本海繁盛記J 、 p6 2( 19 9 2)岩波新書、 6 0)高田宏 : 東京 61)都万村誌編纂委員会:都万村誌、 p. l3 0 0( 19 9 0) 1 4 ・人間文化 論文 ベトナムにおける戦争と女性 一反戦運動と「英雄の母 J京集真帆子・伊藤哲司・岩佐淳一 滋賀県立大学准教綬・茨城大学人文学部教授 ・茨械大学教育学部教授 ては 「 語る 」 ことができる人がまだ生存している 。 はじめに 本稿は、 2 0 0 8年夏にベトナムで、行った戦争に関す る聞き取り調査の記録である 。調査はベトナム (1) 中部のフエ、そして、南部のホーチミン市(I 日サイ 問題は、 語る ことができる環境を整えることで、そ の困難さについては後述する。 ゴン )で行い、計 1 1人の話題提供者から話を聞くこ 聞き取り 調査が難しい 中で、もう 一つの方法は、 当時のルポルタージ、ユ記録などを読み直すことであ とができた。 インタピュア ーは、伊藤哲司 (茨城大学人文学部 の視点を持って取材した記者は皆無と言っても過言 教授 ・社会心理学)、岩佐淳一(茨城大学教育学部 ではない。 しかし、彼ら彼女らの目に映ったものの 教授・社会学)、そして、京集(日本女性史)である 。 中には、 当時のジェンダーのあり方を物語 ってくれ るものがあるだろう (7) 。 ル応。ルタージュ自体を 一 異なる専門領域の研究者が共同して行ったこの調査 は、インタピュイーの語りを多角的な視点から読み 解くことを目標のーっとしている 。 本稿は、女性史研究の立場から、ベトナムにおい 9 6 0年代から 7 0年代前半にかけて、 ジェンダー る。 1 つの史料として、再評価を行う必要がある 。そこで 数々のルボルタージ、ユを読み直す中で、女性の戦争 参加を促し、また、男性をも鼓舞するために、ベト ナム古代史に出てくる 「ハイ・パー・チュン ( Ha i てあのベトナム戦争(19 5 4年 -1975年)を人々がど のように記憶し、語り、顕彰していこうとしている BaTrung)Jが活用されていることに気づいた は} 。 のかに焦点を当てて考えていきたい は) 。 なお、以 現代における古代史の 「 活用」は、歴史学において 下の文責は京楽にある。 重要な論点の一つである 。そこで、今回の聞き取り 調査においても、ハイ ・パー・ チュンについて質問 第 1章ベトナム戦争研究と女性史 ( 1 )課題の設定 戦争と女性という研究テーマのもとに議論が積み することにした。 第二の課題は、主として知識人層によって展開さ れた反戦運動に女子学生たちが参加したことをどう 重ねられている中で 川 、ベトナム戦争史にジェン 評価するか、である 。南ベトナムにおける反戦運動 ダ一分析の視点を持ち込んだのは音浮南氏であっ 2 0 0 1年)を た川。 しかし、音淳氏の議論はその死 ( の関わりが生じてくる 。合法活動ではあるが、政府 もって中断され、ベトナム戦争研究にこれ以上反映 は反戦運動家たちを弾圧していった。従来の研究で されることはなかった。 は分析の弱い論点でもあり、本研究ではここに注目 一方で、日本におけるベトナム女性史研究は、片 。 山須美子氏等に よって精力的に進められてきた (5) 中で、 一人の女性活動家の話を聞くことができた。 そして、アジア史の視点からベトナム戦争と女性に 第 2章で紹介したい。 ついての議論をさらに深めたのは、 『アジア現代女 性史j第 3号の特集「 ベトナム戦争と女性」である (6)。 る。今、日本における戦争研究のもっともホ ットな とは、すなわち、反体制運動につながり、共産党と して主にフエにおいて聞き取り調査を行った。その そして、第三の課題は、戦死者の顕彰の分析であ るのではなく、女性であるということが戦争におい 議論はこれであろう 。ベトナム戦争に関しでも、研 究が積み重ねられてきている ( 9)。 その中で、本稿 てどういう意味を持ったのかを問い直している 。 が注目するのは、「英雄の母」である 。女性を母と この中では、女性を単純に戦争の被害者と位置づけ こうした研究状況に鑑み、本稿では以下の 三つの 課題を設定したい。 いう属性で顕彰するにはどういう意味があるのかを 考えていきたい。 まず、ベトナム戦争研究の方法の模索について 。 一次史料を用いての研究が重要であることは言 うま でもない。その上で付け加えるならば、聞き取り調 査の重要性を指摘して おきたい。 日本において 1 5年 戦争に関するインタビュー調査が徐々に困難になっ てきている状況とは対照的に、ベトナム戦争につい ( 2 )調査の方法 ベトナムでは、フィールドワークなどの研究調査 活動はまだ完全には自由化されていない。 インタ ビュー調査も、基本的には当局の許可を得る必要が ある 。そのため、インタビューをしても話者が自由 5 人間文化・ 1 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母J- に持論を展開したり、個人の見解を披露したりする 両親の説得は活動をする高校生にとっては大きな課 ことは極めて国難である 。そもそも、政府筋が紹介 題であったらしく、ハンガース トライキをする高校 生もいたという 。 する話者の政治的立場には、バイアスがかかってい ると思わねばならない ( ] OJ 。 こうした限界を自覚した上で、今回の調査は行わ れた。長年ベ トナムでフィールドワークを行ってい この活動の中で、ニャンさんは将来の夫となる人 と出会う 。夫 は当時クオックホック ( 国学)高校の 教師をしており、反戦運動の指導者の一人であった。 る伊藤哲司の個人的人脈も使いながら、反戦運動と こうした反戦運動活動をする中で恋愛関係になる男 「 英雄の母」 についてのインタビューを行う公式の 女は多かったという 。ニャンさんが彼と恋人となる 承認を得ることができた。仲介の労を執って下さっ のはまだ先のことであったが、その頃から気になる たみなさまには心からの感謝を捧げたい。なお、イ 男性の一人ではあったらしい。 ンタピュイ ーには、それぞれの話の内容を日本語で 公刊することについて承諾を得ている 。 さて、当時のベ トナムでは、高校 2年生の 6月に 卒業試験を受けることが必要だが、ニャンさんはそ なお、こうした困難の上に成り立っている調査で 9 7 2年 5月に自宅で逮捕された。そし の一 ヶ月前の 1 あるので、インタビュ ーに成功した人数はまだ少な て、コンダオ刑務所へ送られ、後述するように拷聞 い。今後も人数を増やしていく努力を引き続き行っ を受けた。幸い なことに、 1 9 7 3年 1月のパリ協定に ていく 。そのため、本稿は中間報告としておきたい。 以下、 二人の話者を紹介していくが、これで戦争 よって 7月に解放されたが、刑務所で体調を崩して いたため、 1年間の療養生活を強いられた。 と女性について普遍化できるとは考えていなし、。個 1 9 7 4年に高校を卒業したが、再び反戦運動を続け 人の記憶を歴史上に位置づけていく作業は、これか ていることを警察などに知られ、ジャングルへ潜伏 らも続けていく必要がある 。 した。当時、解放された囚人は 1週間後に政府機関 に出頭しなければならなかった。そして、次は一 ヶ 第 2章ベトナムにおける反戦運動と女性 調査はフエで行った。反戦運動について語ってく 月後、というように定期的に所在確認が為され、さ らに 「 私は反戦運動をしません」という念書を書か れる人の紹介をフエ国際協力センタ ーに依頼し、 7 された。 しかしながら、ニャンさんは活動を継続し、 人と出会った。その中に、 1人の女性がいた。 レー・ そのため、身に危険が迫ってくるのを感じたので「 地 下に潜った」のである 。 L eThiNhan)さん(以下、ニャンさ ティ・ニヤン ( んと呼ぶ)である 。 2 0 0 8年 9月 7日および 8日にニャ フエからジャングルへ行くには、段階を踏まねば ンさんの自宅でお話を聞いた。 2日間に渡ってイン ならなかった。 まず、革命派の人物に会い、話を通 タビュ ーすることになったのは、ニャンさん自身に しておく 。そして、 一人がフエからフ ー ドックとい 語りたいことが多く、時間を要したためである 。通 う町へニャンさんを連れて行き、そこで 2,3泊する 。 訳は、フエ国際協力センタ ー副所長グエン・イッチ・ 安全が確認されると、また別の人がコンハイの自宅 ファンさんにお願いした。 へ連れて行ってくれる 。そこには、地下トンネルが あり、ジャングルへとつながっている 。その家の主 ( 1 )二ャンさんのライフヒストリー 1 9 5 5年、フエ生まれである。高校一年生であった 人が藁を燃やして煙を出し、ジャングルへ合図を送 1 9 7 0 年 1月から、反戦運動に参加した。反戦運動の ができたのである 。 こうしてジャングルでの生活が デモ活動では、 一度に数十人が逮捕されることが 始まったが、ほどなく、 1 9 7 5年の終戦を 迎 えた。 る。それから、ニャンさんはジャングルへ入ること あった。 しかし、ニヤンさんたちは、 「 若かったの その後、 1 9 7 5年からはフエ女性協会のスタッフを で怖 くはなかった」 という 。高校生の反戦運動につ つとめ、途中働きながら大学へ行った 。 1 9 8 7年にフ いては、父母が反対するケースも多かった。ニャン 0 0 7年に定年を エの旅行会社(公営)社長に就任。 2 さんの両親も、最初は 「 危ないし、勉強に悪影響を 迎え、現在はフエ母国戦線委員会のスタッフとして 及ぼす」 と言って反対していた。 しかし、 ニ ャンさ 活動している 。 んは 「 みんなが反戦運動に参加 している 。私がやら ない と、戦争が終わらない」 と、両親を説得した。 1 6 ・人間文化 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母J- ( 2 )反戦運動と女性 高校生の時に反戦運動に参加したきっかけについ て、ニャンさんは次のように語った 。 外の女性も執筆したが、戦争反対を訴える政治色が 強いものであった。時には、ジャングルに潜伏して いる女性が記事を寄せることもあった。 もう 一つが、女子生徒 ・女子学生のための新聞で 通っていた高校の先生が、革命派でした。今 ある 『 白いアオザイ新聞』で、ニャンさんはこちら のままでは、ベトナム人には人権がない。 この に参加した。 白いアオザイというのは、女子高校生 戦争では、ベトナム人とベトナム人が戦ってい る。それは、おかしい、と教えてくれたのです。 の制服のことである 。一ヶ月 に一度のミ ーテ イング が関かれ、発行が続けられた 111)。 これは市場で働 ある時、フエの市内でベトナム人をひき殺して く女性たちにも配られた。商売をする女性の中には 逃げ去るアメリカ箪の車を目撃しました 。それ 文字を読めない人もいたが、読める人に音読しても をきっかけに、私は反戦運動に参加することに らっていた 。 こうして、女子生徒・女子学生たちは、 しました。 反戦運動を広く社会運動へと展開させていったので こうした 「 熱き思い」を抱いて参加した運動には ある 。 さて、女子生徒たちは、先述した 「 ハイ・バ ー・ 性差はなかった、とニャンさんは語る 。運動に参加 チュン 」 をどう受け止めていたのであろうか。ニャ する女子生徒の数も多く、指導者レベルでも 三分の ンさんに尋ねたところ、「ハイ・パー・チュンは歴 ーは女性であった。 しかし、よく話を聞いてみると、 史上の人物で、国家の伝統的なシンボル。私たちの 具体的な活動 内容からは女子生徒ならではの役割と シンボルではなかった」 と答えた 。そして、当時の いうものが見えてくる。 まずは、パンフレットの印刷、その配布である 。 女子生徒たちがあこがれていた二人の女性活動家に 合法的な運動であったとはいえ、配布というのは手 ついて説明してくれた。 一人は、ヴォ ー ・ティ ー・サオさん。サイゴンの 渡しではなく、適当な場所に「落とす」 ということ であった。 これは、パック、を持って学校に行く女子 所へ送られた 。そして、拷問を 受けたが沈黙を守り 生徒には適任の仕事であった。 続け、殺されて島に埋められてしまった。その英雄 デモに参加するのはもちろんのこと、その時のプ ラカードを女子生徒が書くこともあった 。時には、 6歳で逮捕され、コン ダオ刑務 高校生であったが、 1 的な生き様が、女子生徒たちの心を打ったのである 。 そしてもう一人が、ヴォー・ティー・タンさん。 女子生徒がガソリン爆弾を作ることもあった 。が 、 同じく、サイゴンで高校生であった時、アメリカ軍 大半は女性ならではの仕事である連絡係であった。 人を殺すよう 、革命派の指示を受けて実行した。 し つまり、女性に対しては警察の警戒が緩い。そこを かし、暗殺は未遂に終わり、逮捕され、 2 0 年間の禁 利用して、市内に散らばっている運動幹部たちの家 固刑を 宣告さ れた。その時、彼女は裁判所の前で明 をまわり、資料を手渡してまわった。時には、ブラ ジャ ーの中に秘密の資料を入れて行くこともあった。 ニヤンさんも、フエ共産党委員長の連絡係をしてい た。 これは、逮捕後に女子生徒たちを窮地に陥れる ことになる 。つまり、運動幹部たちの名前を知り、 その居場所を把握していたのは、まさに女子生徒た ちであったが故に、彼女たちへの拷問が蛾烈を極め た。 さて、女性の参加者を募るのも、女性活動家たち の仕事であった。 こうした中で、女性だけのネット ワークが作り出された。そして、女性のための新聞 が発行されることになる。 その一つが、 『 生きる権利を下さい女性新聞』で 、 女性ならば誰でも参加できた。 これは、 共産党員以 写真 1 ヴ才一-ティー タンさんの「勝利の笑い」 ( ホーチミン市女性博物館の展示より ) 人間文化・ 1 7 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母」 るい笑顔を振りまき、次のように言ったという 。「 サ で逮捕され、 コンダオ刑務所に送られた。 カードに 0年間ももつのかしらね」 と。 イゴン政府こそ、あと 2 ある通り、 1 9 7 2年 6月 8日のことであ る。 この時の彼女のほほえんだ写真は、 「 勝利の笑い」 コンダオ刑務所で、いわゆる政治犯たちがどのよ として反戦運動のシンボルのーっとなった。現在で うな拷聞を受けたかについては、 川本邦衛 『 南ベト も、ハノイ及びホ ーチ ミン市の女性博物館にこの写 ナム政治犯の証言j ( [ 3) に詳しい。 コンダオ刑務所 真が展示されており、高校の教科書 にも載っている の実態は、 当時反戦運動活動を行 っていた人たちに という 。ニヤンさんはこのあこがれの女性、タンさ も知れ渡 っていた。 ニャンさんも、 「コンダオに行 んとコン夕、 オ刑務所で出会うことになる 。そして、 くと、 二つのことが当たり前だ、と 言われていた」 今でも友人関係が続いている ( 1 2) 。 と語 った。 ( 3 )刑務所での生活 ニャンさんが、一枚の身分証明カードを見せてく れた 。名刺サイズの紙の表には、こわばった顔の少 女の写真 と名前があり、父の名、母の名が書かれ、 「身 長 1メート ル5 6センチ、体重4 5キロ 」 とある 。そし 9 7 2年 6月 8日の日付が刻印され、住所が 「コ て 、 1 ンソン 」 となっている 。 コンソンとは、コンダオ刑 務所があ った島の名前である 。 ニャンさんは、反戦運動を行 っていたという罪状 そして、若い女性は強姦される、ということである 。 それは、まず、死ぬまで拷問されるということ 。 こうした情報は、反戦運動を沈静化させる情報作戦 J が意図的に流したものであろう 。そ として、政府仮I れを信じでもなおひるまなかったニヤンさんたちは、 もしコンダオに行って強姦されたら 舌 を噛んで、 死の う、と普い合っ ていたという 。 「 それでは革命のた めにならない」 と止める女性もいたが、 幸いなこと にニャンさんは強姦を受ける ことは なか った。 ここで、ニャンさんが涙ながらに諾 ったすさまじ い拷切 │の詳細について、本稿は記録をしない。 コン ダオ刑務所で行われた 「 残虐な拷問」 については、 すでに多くの書物が明らかにしているとおりである 。 ただ、ここでは、女性活動家たちがその活動の特性 ゆえに味わ った苦しみについて述べておこう 。 まずは、殴打された。そして、 2枚の紙を波された。 一枚には、 「 知 っていることを全て報告 しなさい j とあ った。もう 一枚は革命者たちの名前のリストで、 「この中に知 っている人はいますか ?その人は今ど こにいますか ?グル ープの中心はどこですか?Jと 聞かれた。いずれの質問に対しでも 、ニャンさんは 写真 2 ニャンさんの身分証明力一ド(表) 回答を拒否した 。先述したとおり、女性活動家たち は連絡係をしていたので、質問の答えを知 っていた。 もちろん、ニャンさんもすべてに答えることができ た。しかし、ニヤンさんも他の女性たちも沈黙を守 っ たのである 。 さて、刑務所内での女性たちの様子を見ておこう 。 女性たちの l 唯一の楽しみは、刺繍であ った。収監さ れた部屋 は一 日中ドアと窓が閉ま っていたが、上部 に 2つの穴がある 。空気穴であるが、そこから漏れ てくる日の光で刺繍をした。布と糸 と針とは、 看守 が差 し入れをしたりして、どこかから手に入れるこ とができたという 。ニャンさんも、刺繍をしている 時には拷問で受けた傷の痛みを忘れることができた。 写真 3 ニャンさんの身分証明カード (裏) 1 8 ・人間文化 2,3週間で一つの作品が仕上が った。 こうした女 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母J- 性囚人たちの刺繍作品は、ハノイの女性博物館に展 示されている。 刑務所内で 一番苦労したのは、月経の手当であ る1 (4)。 ジャングルに潜伏している女性たちは、蚊 帳の古布を使って手当をしていた。 しかし、刑務所 内では布は貴重品であり、月経の手当に使うには不 足していた。 もし、布があれば床の 一番下に敷き、 その上にパンの木の葉を敷き詰め、さらにビニール を載せた 。汚れた布は洗えばよいのであるが、洗濯 に使う水も不足していた。結局個人として月経の手 当をすることはできず、月経中の女性たちを部屋の かたすみに集めて処理をしたのである 。 こうした不 衛生な手当は女性たちの体に影響を残し、解放後に 写真 4 ハノイ軍事博物館の「ベトナム英雄の母J展示室 不妊に苦しむ女性もいたという 。 1 9 7 3年 7月に解放された。 日付は 紹介する内容は、フエ外国語大学日本言語文化学科 記憶に残っていない。飛行機でサイゴンのチーホワ 長ク'エン・ティ・フォン ・ チャ ー さんに後日録音テー 刑務所へ行き、そこからフエへ移動し、そのまま中 プで翻訳を確認して頂いた。 ニャンさんは、 央病院へ入院した。そこには、囚人専用の病棟があっ たのである 。先述の通り、ニヤンさんが健康を取り 戻すのには l年かかっ た。 ( 1 ) ク 工さんのライフヒストリー 話者は、 NguyenT h jQueさん(以下、クエさん と呼ぶ ) 01 9 2 8年、クワンナム省生まれ。 l才で母 ベトナムにおける反戦運動は、女性が主体的に行 と死別し、クリーニング業を営んで、いた父に育てら 動する場であった。ベ トナ ム社会において、こうし れた。 8才の時、父の仕事の都合でサイゴンへ移動 た反戦運動が女性の位置づけをどう変化させたのか、 した。小学校 を卒業した後、台湾人の家でお手伝い 今後も追究していきたい(15) として働いた 仙。 その頃、革命運動に身を投じた。 9) それは、レ ・ティ・ピンキュウという女性革命家 1 ( 第 3章ベトナム戦争の「英雄の母」 i BameVi e tNama nhhung J は直訳すると 「 英 の呼びかけに応じたものであった。そこで、看護婦 雄ベトナムの母」 という意味で ( 以下、 「英雄の母」 と記述する )、子どもを戦争で失 った母を顕彰し、 社会保障を与えるというシステムである 。 1 9 9 4年 として活動せよとの指示を革命団体の団長から受け、 ベ トミンの看護学校 (20)に通った。 1 9 4 5年から軍隊に入り 、救国女性活動に参加した 。 サイゴンではフランス 軍と 戦い、そこで傷ついた人 8月2 9日に、 「栄あるベトナム英雄の母の称号を付 1日 。 けることに関する規定 j という法令が出された 1 を助ける活動をしていた。 法令の冒頭には、 「ベトナムの母たちが国家に貢献 したこと及び犠牲になったことを思い出すために、 ちを教えていた。その一方 で 、 、 共和国成立を批判し、意志を持って共産党に入党し わが民族の革命の伝統を教え、愛国心を発揮するた 革命活動を続けていた。公安警察が活動を把握しよ 結婚後は、サイゴンで夫と私塾を開き、小学生た 1 9 5 6年の南ベトナム め、そして、母たちに恩返しをする道義のため Jに うとしていたため、恐怖を感じることもあったとい 0 0 3年 1 2月ま 制定する、とある 。 この法令により、 2 6 . 3 9 8人にこの称号が与えられている け7)。 でに 4 つ。 そしてついにクエさんの秘密活動が露見し、 1 9 5 9 今回の調査では、ホ ーチ ミン市女性博物館、ベト 年に逮捕された。 1 0年の刑を科すとの判決を 受けた ナム戦争証跡博物館(ホ ーチ ミン市)に紹介を依頼し、 6年間を刑務所で過ごした。サイゴン が、実際には 1 1人の「 英雄の母」にインタビューすることができた。 のチーホワ刑務所、ビエンホワのダンヒエップ刑務 2 0 0 8年 9月1 2日、ベ トナ ム戦争証跡博物館の一室を 所、テュードック刑務所、そして、コンダオ刑務所 お借りし、通訳を介してお話を聞いた。 なお、以下 へ行き、 1 9 7 5年に解放された ( 2 1 ) 。 その後は、共産 人間文化・ 1 9 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母」 一 9 8 2年に定 党職員として倉庫管理などの職に就き、 1 します。私は 申請の方法を知りません。 1 9 9 5年に社会傷兵労働局から呼ばれて、自分 年を迎えた。 今も 一緒に暮らす夫と結婚した年をクエさんは覚 が英雄の母になったことが初めて分かりました。 9 4 9年生まれ えていないが、一人娘のトゥイさんは 1 そこで書類をもらいました。その後、給料 ( 註: である 。夫も軍隊に入って革命活動をしていたので、 年金のことか)も上がったし、優先制度ももら その頃共に過ごした時間は短かった。夫も逮捕され、 うことになりました。 刑務所に入れられた。その問、娘は夫の両親が育て てくれた。 この申請システムについて、クエさんは次のよう その娘も高校卒業後、革命運動に身を投じていた。 に認識していた。 娘のトゥイさんが戦死したのは、 1 9 6 8年のことであ る。クエさんがそれを知ったのは 2年以上後で、チ ー 社会傷兵労働局は、戦没者とか戦争に参加し ホワ刑務所の中であった 。娘と 一緒に革命活動をし た人、戦争で障害者になった人などを管理し、 ていたメンバ ーが逮捕され、刑務所に入ってきて、 そういう人のために優先制度を作っているとこ クエさんと出会った。そして、 トゥイさんが戦死し た時の状況について語ったのである 。 クエさんの娘は、 ドックホワでの市街戦で戦車に 囲まれて逃げ遅れた少年を助けて地下トンネルに潜 ろです。国の制度をもらえる人は、自分から要 求しなくても、社会傷兵労働局が優先制度を {乍ってあげます。 1 9 9 5年からそういう制度があ ります。 り込んだところを、敵の手棺弾で殺された。 トゥイ さんが命を懸けて守った少年は、今もホーチミン市 で元気に暮らしており、クエさんとも出会っている 。 こうした娘の死について語る時、クエさんは今も 涙を流す。そして、 1 9 9 5年、「英雄の母」 となった 。 r 最後の部分は、クエさんの誤解で、 「 英雄の母」 は1 9 9 4年から認定が始まっている 。 クエさんが 「 英雄の母」 になったのは、 一人娘の トゥイさんを戦争で、失ったからである 。そのことに ついては、以下のように語った。 ( 2 ) 英雄の母」 「英雄の母」 になった時のことを、クエさんは次 のように語る 。 英雄の母になる 基準は、子どもが 3人、また は子どもと夫・妻を合わせて 3人が戦争で亡く なった人です。 もしくは、 一人しかいなかった 英雄の母になったのは、自分から申請したの 子どもを戦争で失った人です。 ではありません。坊 (22)から区、区から市へ申 私が 「 英雄の母」 になったのは、 一人しかい 請書を提出し、さらに市から中央に認定を要求 なか った子 ども、つまり一人娘を失ったからで す。 「 英雄の母」 の認定基準をもう少し詳しく見てお こう 。法令には以下の条件が掲げられている (23)。 1 烈士である 子 どもが 2人いて、夫あるい は本人が烈士。 2 子どもが 2人いて 2人とも烈士か、ある いは子 どもが 1人しかいなくて、その子 どもが烈士。 写真 5 ク工さんが持つ勲章 右は「英雄の母Jの勲章・左は「共産党員 50周年記 念」の勲章 20 ・人間文化 3 :3人以上の子どもが烈士。 4:烈士である子どもが 1人いて、夫と本人 が烈士。 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母」 一 ここで 「 烈士」というのは、戦没者のことである 。 浸透していくなかで、高齢化がすすみ、生活が困窮 一人しか クエさんは、上記条件の内、第 2の条件 「 化 している 「 烈士」の母親への社会福祉としての意 いない子どもが戦死した」ということに該当して、 味合いが強くな っている 」 。 という背景がある 問。 「 英雄の母 j となった。「英雄の母」の申請には、申 また、母親が注目された理由として、 「 戦争未亡人 請書に子どもの死亡通知書を添付する 。 ではなく、母親を 「英雄的ベ トナムの母」 として顕 さて、 「 英雄の母」 になっ た ことを、クエさんは どう思っているのだろうか。 彰しているのも、ベ トナムの特徴的なと ころで」あ り 、 「これは 一面で、戦死した兵士に未婚の若い男 娘の死で英雄の母になったことは、誇りに思 性が多かったことを物語っている 」 。 と今井氏は分 析する (26)。もちろん、母を顕彰する意味を、夫を失っ います。慰められています。 しかし、娘を 亡 く た妻 よりも子を失 った母の数の方が多か ったからだ、 したことは何よりも大きな損失で、何ものにも と単純に数の比較で理解する ことはできない。老齢 慰められません。 の母を経済的に支えるべき 子 どもが戦死したが故に、 国家が生活保障をする必要が生じたのである 。 この クエさんは、このように涙ながら語った。 クエさ ん自身も多くの勲章 を持ち、夫も、そして亡くなっ 背景には、子どもが老親を養うべきだ、とするベト ナム社会の規範がある 。 た娘も勲章を持っていた 。つまり、この「 英雄の母」 注意したいのは、 「 英雄の母」を 制定する法令と というタイトルのみが、 クエさんを顕彰するものな 同時に出された法令に、 「革命活動家・翌日士とその のではない。 家族 ・傷病兵 ・抗戦活動家 ・革命を援助した功績を 子 どもを失ったことについて、夫は以下のように 語っているという 。 もっ人を優遇する法令」がある、ということである 。 いうならば、 「 英雄の父」はこちらの法令に該当 する 。 それは、 「 英雄の兄」であったり、「英雄の妹」であっ 夫は私に、 「どうして娘を ( 安全な)北 に勉強 たりする人 々とおなじく 「 英雄の家族」 としての扱 に行かせなかったのか」とか、 「なぜ唯一の娘 いに過ぎない。 ここで 「 英雄の母」 を独立させて顕 を戦場へ行かせたのか」 とか文句をよく 言 って います。そして、私たちの 唯一の娘をなせ、戦場 彰するには、やはり意味があると考えるべきであろ つ。 へ送 ったのか、と、共産党に訴えたいとも 言い 確かに、戦死者の家族を顕彰するのは、 当事者に ました。私は、 「 私は娘を自由な地域へ送りた とっては社会福祉としての意義が大きいであろう 。 かっただけです。 うち にいたら、 ( 南政府支持 しかし、国家が顕彰するには、 「父」ではなく、や 者から )いじめられただけです 」 と言い返しま はり 「 母」である必要がある 。 ベ トナム戦争において、軍隊がいかに母を 「 活用 」 す。 してきたのかについては、以下のルボルタ ージュが インタビュ ーの中で興味深かったのは、以下の発 言である 。 参考になる 1 27)0 1 9 71 年、北ベ トナムのハイフォン で祖国戦線 ( 北ベ トナム統一戦線)主席は、会食の 席で以下のように述べている 。 夫や他のお父さんたちは、どうして 「 英雄の 英雄の父」 はないのか、中 母Jがあるのに、 「 央政府に進言したい と、言っています。 みなさん、ご存知ですかな 。わが国には、動 員令とか徴兵法 とか法律で若 い もんを兵隊にと る制度がないんで、すよ 。法律でしばることなし 同じ発言は、インタビュ ーに同席したベ トナム戦 に 、 軍隊をふやす。その ヒミツはですな。母親 争証跡博物館副館長フィン・ゴック ・ヴアン氏も 口 英雄の父」も創設して男女 にした (24)。 もちろん、 「 民軍におくることの意義 と必要をなっとくさせ を平等に扱うべきだ、 と単純に結論づけることはで たことですよ 。わしら年よりは、その先頭に立っ を宣伝 ・説得の主 B標にして、むすこ 、娘を人 きない。そもそも 「 英雄の母」が制定された事情に て、母親に語りかけてき たわけですよ 、 ワハハ ついて、今井昭夫氏が指摘する ように 「 市場経済が ハ…・ ( 原文のママ ) 人間文化・ 2 1 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と 「 英雄の母」 これが、主席の個人的見解に過ぎないのかどうか のように説明した。 は不明である 。他 の文献史料などで追検証する必 要がある ( お ) 。 しかし、これが「真実」 であるとし、 こういう ( 商政府軍を支援した )人たちはア こうした自発性を偽装した 「 徴発」の代償として子 メリカの制度を受けられました。その人たちは どもを戦争で失い、それへの見返りが 「 英雄の母 J アメリカ政府の援助でアメリカへ行けました。 という称号であるとするならば、これは戦死者の単 HOというプログラムです。(アメリカで)家 なる顕彰とは呼べなくなる 。 から仕事 まで与えました。 現代においても、ベトナム社会には家父長制が根 深く残 っている 。家父長制下では、女性は母と ( 2 9 1 しかし、今はもう平和なので、昔のことを忘 れるべきです。 フランスもアメリカも昔のこと して把握され、位置づけられる 。 「英雄の母」が創 を忘れてしまいました。戦争は歴史になりまし 出された背景には、このような家父長制的遺産が、 た。 アメリカはベ トナ ムと協定しました。 フラ 男女平等 を原則とする社会主義国家の中に表出した ンスの大統領は 「ベトナムは 1 0 0年もフランス ものと考えられよう 。「英雄の父」 の設定は単純な の植民地でしたが、それは過去です。 これから 男女平等あるいはジェンダ ーバイアスの解消に見え は将来のことについて話しましょう Jとも 言い ようが、ベトナム社会が現状のままである限り、設 ました。 定されることはありえない。 そして、 「 英雄の母」 については、忘れてはなら 現在のベトナムの状況では、こうした発言が限界 ない条件がもう 一つある 。それは、申請書類に書か であろう 。 クエさんが今住んで、 いる近所には、かつ ねばならぬ項目に表れている 。 申請書 には、氏名、 て南政府側の立場にいた人が沢山いる 。 その人達と 生年月日、本人の生死、出身地、民族、宗教、現住 は 「 普通に会話をするし、近所づきあいもある 」 と 所、子どもの数、うち戦死した子どもの数を 書 く欄 いうことであるが、「英雄の母」 として顕彰される がある 。 さらに、 1 1 9 7 5年 4月3 0日以前の家族構成 立場の意義については、話は違うようである 。 と本人の政治的立場」 を書 くことにな っている 。 こ の 1 1 9 7 5 年 4月3 0日Jとはベトナム戦争終結の日で 「 英雄の母」がかかえる問題は、例えば父や家族 あり、それ以前の 「 政治的立場」 を問う意味は、申 ではなく母が顕彰 されること、そして、共産党のた 請対象者が北ベトナム派に属していたのか否か、す めに死んだ子 どもを持つ母のみが顕彰 されることで なわち、共産党支持者であったのかどうかを問うも ある 。戦争のもと、 子 どもを失った母を国家が選別 のに他ならない。つまり、 「 子 どもを戦争で・失 った する 。「英雄の母」 が 1 9 9 4 年という戦後 2 0 年 の年 に 母」の思想信条で栄誉を与えるかどうかが別れるこ 創出された 意味を、今一度考える必要がある 。 とになる 。 このことを質問してみると、クエさんは 以下のように答えた。 おわりに ホーチ ミンは、女性の力を積極的に活用する方針 戦没者を持 っているお母さんは 「 英雄の母」 と呼ばれています。 自分自身は戦争 に参加しな くても、 「 英雄の母 Jになれます。 を打ち出して 、 女性たちの支持を得た。 その様子 は、 理想的な社会の姿として、ルボルター ー ジユが日本に も{ 云えてきている ( 却 ) 。 「 英雄の母」 は北部にたくさんいます。 しか そうした理想化された女性のあり方が、ベトナム し 南 政 府 軍 の た め に 死 ん だ子 どもを持 ってい 社会 においても前提とされているが故に、戦争期に る母は、英雄の母になれません。つまり、アメ おける女性の存在、その意味づけについて改めて聞 リカの軍隊に 貢献したら、英雄の母になれませ い直されることはなかった。 しかし、今、政治的発 ん。全部戦争のせいです。仕方のないことです。 言が制限されるベトナム社会とは違 って 、 「 外部」 である日本であるからこそ、ベ トナム戦争と女性の クエさんは、 子 どもを失 った母がその政治的立場 によ って選別されることについては、口ごも った。 そして、南政府軍 に荷担した母たちについて、以下 22 ・人間文化 関係を問い直す事ができると考える 。 なお、 「 英雄の母 j については、現在ベトナム中 部に記念公園とモニュメントを建設中であるとい ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母J- う( 31 ) 0 ["英雄の母」たちが高齢化 していく中で、国 る。 しかし、本稿では取り上げることはできな 家が母をどのように位置づけなおすつもりなのか、 かった。 (8)ハイ・パー ・チュンとは、西暦4 0年に後漢の 引き続き注視していきたい。 侵略に対抗して独立を勝ちとり、王となった姉 妹のことである 。 その歴史的評価については、 註 (1)前年度の調査については、以下のエッセイで 概略を述べた。 京祭真帆子「ベトナムの母たち 」 a 京都新聞 J2 0 0 7年 1 1月 9日)。 ( r 後藤均平 「 徴姉妹の反乱 J 中国古代史研究第 三j、吉川弘文館、 1 9 6 9年)を参照した。 また、早川雅美 「ハイ ・バア ・チ ュ ン の 紀 (2)ベトナム戦争についてベトナム人女性に行っ 義の伝承一紀義に参軍した諸将の伝承を中心 1 1ベ に一 J( r史苑J( 立教大学史学会)第4 9 巻第 2号 、 1 9 8 9年 )が 、 1 3世紀の対元戦争の時に、 「ヴエ たインタビュ ーの成果として、伊藤哲司 r茨城大学 トナム戦争の記憶と語り」ノーツ J( 人文学部紀要(人文学科論集 ) J第3 6号 、2 0 0 1年 ) 、 トナムの男子の戦闘意欲を掻き立て」 る役割を 3人の女性 ハイ・パー・チユンに求めたことを指摘し、国 の物語とベトナム社会 J( r女性史学 j 第 1 2号 、 家のための女神に転換していく過程を分析して 2 0 0 2年)などがある 。 いる 。 同 「 ベトナム人女性の戦争の語り (3)戦争と女性の関係について論じる文献は枚挙 なお、ハイ ・パー・チュンについては、羽仁 にいとまがないが、ここでは大越愛子・井桁碧 説子他編 『 母と子のためのベトナムのはなし』 編 『 戦後・暴力 ・ジ、エンダー 2 脱暴力への 0 0 7年)をあげておく 。 マトリックス J(青弓社、 2 ( 労働旬報社、 1 9 6 8年 )などがいち早く日本に 紹介している 。 ア メ リ カ 人 女 性 作 家 が 1 9 6 8年 本書所収の権意益(堀 田義太郎訳)[ "ヴェトナ にハノイに滞在した時、ガイドがハイ ・パー・ ムにおけるアメリカ戦の亡霊」は、国家の舵り チュンの解説をしたという(ス ーザン・ソンタ から家族の杷りを取り戻す動きについて指摘し グ( 邦高忠二訳 Hハノイで考えたこと j、品文社、 ている 。 (4)音浮南 『ベトナム戦争一 民衆にと っての戦 1 9 6 9年)。 女性が外敵を駆逐した、という歴史 場 J( 吉川弘文館、 1 9 9 9年)。 なお、ベトナム は外国人にこそ語って聞かせる価値があると考 えられていたのかも知れない。 戦争に関する文献は、岩間優希編著 『 文献目録 また、このハイ ・パー・ チュンが現在のベト ベトナム戦争と日本 1 9 4 8-2 7 J (中部大学 ナムの歴史教科書でどのように描かれているか ∞ については、吉 i 宰南・古田元夫編訳 『 世界の教 0 0 8年) 国際人間学研究所人間社、 2 (5)片山須美子 「ベ トナム女性史研究の概観一女 a 性英雄の歴史から ドイモイを経てーJ 女性史 科書 歴 史 ベ ト ナ ム J 1.2( ぽるぷ出版、 1 9 8 5年)にみえる 。 ( 9)今井昭夫 学j 第 5号 、 1 9 9 5年)など。 (6)f アジア現代女性史』 第 3号 、 2 0 0 7 年。 なお、 「フエ時代のファン ・ボイ ・チャウ r東京外国語大学論集j 第5 4 号 、 1 9 9 7 の思想 J < アジア現代 年) 、同 「ドイモイ下のベトナムにおける 「戦 女 性 史 第 8巻 ベ トナム女性史J(明石書庖) の刊行が予定されている 。鶴首して待ちたい。 住村欣範 「ベトナムにおける戦争の記憶とトラ 同研究グループによる 『シリーズ (7)例えば、津田達夫「ベトナムの婦人解放運動 J ( f季 刊 現 代 女 性』 第 3号 、 1 9 7 5年)は 1 9 7 3年 争の記憶 J J(fクヴァドランテ j第 2号、2000年)、 ウマ J( 大阪外国語大学グローパル ・ダイアロ グ研究会 ・松野明久編 『トラウマ的記憶の社会 に北ベトナムを訪問した時の記録であるが、女 史 抑圧の歴史を生きた民衆の物語j、明石書庖 、 性民兵の姿を見かけたことを指摘している 。 ま 2 0 0 7年)など。 た、笠井莱利子 『 女性従軍記 ベトナムその愛 と死 J ( 徳間 書 底、 1 9 6 5年 )は、商政府 箪倶IJの 婦人部隊を視察している 。 この他、ベトナムにおけるノンフィクション 小説や映画なども史料として活用しうると考え ( 1 0)ベトナムにおける聞き取り調査の歩み、およ びその困難さについては、今井昭夫「 東外大オー ラルアーカイヴと私のベ トナム戦争聞き取り調 f 歴史と地理j 第6 0 6 号 、2 0 0 7年)に詳 しい。 査 J( ( 1 1)これら 二つの新聞は、 1 9 71 年から発行された、 人間文化・ 23 ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母J- というが未確認。この新聞は、大半が警察によっ ( 2 1)当時のベトナムには 5つの大規模刑務所があ て没収されたが、数枚ほどはフエ文化部に保存 り、クエさんはそのうちの 4つに収監されたこ されているという 。 とになる 。残りの一つは、フーコ ック刑務所で、 ( 1 2 ) タンさんは、現在もホーチミン市で健在であ そこは軍専用の刑務所であった。 また、ダンヒ る。第 3章で紹介するクエさんもタンさんとは エップ刑務所には女性の受刑者が多かったとい つ。 知人である 。 ( 1 3 )川本邦衛 『 南ベトナム政治犯の証言J (岩波新書、 1 9 7 4年) 。 この他、木谷八士 『 ハノイの灯は消 えず 「赤旗」特派員の見たベトナム戦争J( 新 r ( 2 2) 坊」 とは、行政単位の一つである 。 ( 2 3)今井昭夫 「ホー・チ・ミン時代の 「英雄」 た ち ベトナムにおける 「英 雄 宣 揚 」 と人民動 日本出版社、 1 9 7 4年)は 、 1 9 7 3年にコンダオ刑 員一 JU 東京外国語大学論集』第7 0 号 、2 0 0 5年) 務所から生還した人々への座談会インタビ、ユー の訳による 。 なお、今井昭夫、前掲註 (9) r座談会 を行っている ( Jが、 イモイ下のベトナムにおける 「戦争の記憶 J “虐待の体験"一自由 をかちとった南ベトナム政治囚にきく J )。 ( 1 4 ) ベトナム戦争中の月経の手当については、大 石芳野 『 証言する民 十年後のベトナム戦争j ( 講談社、 1 9 8 4年)にも指摘がある 。 ( 1 5)例えば、ベトナム戦争批判がアメリカのウー マンリブを加速させたことについては、古賀邦 r ド この 「 英雄の母」を戦死した 「息子」 を持つ母 親に贈られる称号であるとするが、法令に見え る r c o nJは男女の性別を問わない 「子 ども 」 という意味である 。 ( 2 4)フィン・ノック・パン氏自身の語りについて は 、 iTALKとーく フイン・ノ ック・ノ tさん、 子 「アメリカ J( 井上洋子他編 『ジェンダーの フィン・ティー・キョウ・トゥーさん J( r ねっ 西洋史j、法律文化社、 1 9 9 8年)が指摘している 。 とわーく京都 j 2 3 9 号 、 2 0 0 8年)にインタビュー ( 16 )軍事博 物 館 (ハノイ)の展示による 。 この博 物館には、 「ベトナム英雄の母」 と名付けられ 記事がある 。 ( 2 5)今 井 、 前 掲 註 ( 2 3)論 文 に よ る 。 今井氏は、 た展示室があり、法令や申請書などの資料が並 さまざまな優遇措置について具体的に紹介して べられている 。以下本文で紹介していく法令や いる 。 申請書については、通訳のク守 エン・クアン・フ ( 2 6)今井、前掲註 ( 2 3)論文による 。 イ氏に日本語訳して頂いた。 なお、軍事博物館 ( 2 7)木谷八士、前掲、 註 ( 1 3 )著書。 この他、ピ ッ ではこの 「 英雄の母」の展示室 にのみ、観覧者 ク・トゥアン(片山須美子訳) 榔 子 の森の女 の感想、を書き留めるためのノートが置いてあっ 戦士 た。設置者の意図は明白であるが、私が読み取っ ティ・デインの伝記J( 穂高書応、 1 9 9 2年、原 た限りでは、残念ながらそこにはベトナム戦争 著は 1 9 8 5年)は、擬制的なものも含めて、デイ 全体に対する思いがベトナム語・英語・日本語 なとョでつづ、られているばかりであ った。 r 南 ベ ト ナ ム 解 放 軍副司令官、グエン・ ンが母として戦う姿を強調している 。 ( 2 8)インタピュアーの木谷氏は、この後、ベトナ ( 1 7 ) 軍事博物館 ( ハノイ )の展示による ( 2 0 0 8年 9 ム社会に於いて母の影響力がいかに強いかにつ 月 3日訪問)。 この数字には、死後に追贈され いて記述している 。主席の発言 に説得力を感じ た人も含まれている 。 とったのであろう 。 働いていた台湾人家庭の子 どもから、 「兵隊さ ( 2 9)岩井美佐紀 「家族と社会主義 J( 桜井由民雄 編『もっと知りたいベトナム 第 2版j、弘文堂、 んよありがとう 」 という日本語の歌を習ったと 1 9 9 5年)、今井昭夫・岩井美佐紀 『 現代ベトナ いい、私たちの前で、歌ってくれた 。 ムを知るための 6 0章J( 明石書応、 2 0 0 4年)など。 ( 1 8)当時の台湾人は、 「日本人」である 。クエさんは、 ( 19)現在もホーチミン市で健在である 。 ( 2 0)ベトミンの看護学校であるが、病院は日本の 病院であった、という 。詳細は不明であるが、 なお、ベトナム戦争当時、北ベトナム政府が女 性の地位向上についてどのような見解を持って いたのかは、本多勝一『本多勝一集 J(朝日新聞社、 1 2 ベト クエさんは 1 9 4 5年 8月 1 5日のいわゆる 「玉音放 ナムの戦後を行く 送」 をこの病院で聞いている 。 9 6 8年にハノイで、本多氏が行ったイン 見える、 1 24 ・人間文化 1 9 9 7年 )に ベトナムにおける戦争と女性一反戦運動と「英雄の母」 一 この 2年間、画家デイン ・ザー・ タンは、美 タビューでの、ベ トナ ムレビ、ユ ー編集長グエン ・ カク ・ヴイエン博士の回答に表れている 。参照 術計画のスケッチ、調査 ・研究、そして施工、 されたい。 風水研究等で多忙な日々を過ごしたが、このベ ( 3 0)モニカ ・フェル トン(阿部長日二訳) r あたりま トナム英雄の母親の記念碑は、英雄の母親たち J (岩波新書、 えの女たち一世界の母親の記録- の大きな功績を後世に伝える壮大な芸術文化作 1 9 5 7 年)、{ ベ トナム研究j 誌編 ・日本婦人団体 品なのである 。 なお、同建設工事は 2 0 0 7年初め 新日本新書 連合会訳 『 ベ トナムの婦人たち J( にスタートしており、 9 6 8年)などが、女性たちが自ら戦って男女 、1 なっている 。 平等 を勝ちとったものと評価している 。 ( 31 )W ベトナム・フォ トジャ ーナル J (日本語版)が、 2 0 1 0年に終了する予定と 文 レー・チ ー ・ズン ( LeT r iDung) h t t p: / / vi e t n a m .v n an e . t v nl In t e r n eUj a. J P / 4 9 / 1 3 0 / l l2 / 5 6 5 9 1 7 / 捌7 I D e f a u l t抑 X 2 0 0 7 年 7月2 4日付で以下の記事を掲載した 。 英雄の母のモニュメン ト 謝辞 本調査にご協力頂きましたすべてのみなさま に心からの感謝を捧げます。 母国の独立、自 由を求めた長きにわたる抗戦 には、 5 万人にもおよぶ英雄の母親たちの多大 な功労がある 。その母親たちは一生懸命に努力 し、実直に子どもたちを育て、母国、故郷に対 付記 B )海外学術調 本稿は、科学研究費基盤研究 ( 査 「 東南アジアにおける地域 コンフリクトの ∞ する愛情、そして勇気、英雄の気概とい ったも 2 7緩和・予防と 「 共生の知」の創出 J( のを教育してきたのである。ベトナムの英雄の 2 0 1 0 年度、代表 茨城大学・伊藤哲司 )によ 母親たちは大胆かっ誠実、家庭に対する責任を る成果の一部である 。 果たした、ベトナム女性の典型的なシンボルで あると 言えよう 。 この英雄の母親の代表的な人物として、クア ンナム省デイエンパン県のグエン・ティ・トゥ ー (NguyenThiThu)さんがいる 。彼女には母国 のために犠牲になった子どもが 9人、娘のご主 人、そして l人の孫がいる 。ベトナム政府の国 家芸術委員会とクアンナム省の指導部は、ベト ナムの英雄の母の記念碑を 制作するために、こ のグエン ・テイ ・ ト ゥー さんをシンボルとして、 画家デイン・ザー・ タン ( DinhGi aThang )の 描いたスケッチを モデルとした。 クアンナム省タン キー 市タンフー町のカン山 に設置されるこの記念碑は、 3 0年にもわたる長 0もの四角形の芝生がある広 期抗戦を象徴した 3 場、公園内に設置されている。主たる記念碑は、 高さ 1 5 . 2 m、幅78mで砂岩により造られ、その 中心部にはグエン ・ ティ ・トゥーさんの姿がある 。 この記念碑の内部は、展示室、応接室などを含 む総面積 3 9 7ぱの博物館となっている 。そして、 前方の門の外側 には英雄の母親の伝説として知 られるヴイエッ ト ・ パックの物語についての彫 刻の柱がある 。 また、記念碑の後部には広大な 芝生、石庭となっており、英雄の母親の詩が彫 刻されている大きな岩もある 。 人間文化・ 2 5 論文 都道府県・政令指定都市における文化振興 条例の動向と今後の展望についての一考察 横山幸司 目次 などと 言われるように、文化政策はその主体や範囲 を拡大しつつある 。文化振興条例の制定もまた、そ I はじめに E 文化振興条例制定の根拠とその背景 i l.全国 の文化振興条例の制定状況とその内容 について N まとめ うした広義の意味での文化政策の発展を意識したも のになっていくことが予想される 。 そこで本稿では、全国の都道府県及び政令指定都 市の文化振興条例の制定状況とその内容を分析し、 そこから望まれる今後の文化振興条例と文化政策の あり方について考察しようとするものである 。 1.はじめに n .文 化 振 興 条 例 制 定 の 根 拠 と そ の 背 景 現在、我が国では、 1 9 9 5年施行の 「地方分権一括 推進法 J(この法律により地方自治法など多くの法 0 0 0 年から施行された )により、地方分 律が改正、 2 芸術の持つ力が改めて見直されている ことや、厳し 1 地方自治法による地方公共団体の文化関係事務 の一般的な根拠 まずはじめに、文化振興条例制定の根拠ならびに その背景には、地方自治法の改正と文化芸術振興基 本法の制定がある 。以下にその内容をみていこう 。 地方公共団体の文化 関係事務の一般的な根拠は、 地方自治法 ( 昭和 2 2年法律第 6 7 号)に求められる 。 1 9 9 5年施行の 「地方分権一括推進法」により、地方 自治法も抜本的な改正が行われたが、改正前の地方 自治法(以下「旧法」という。)では、地方公共団体 の文化 に関する事務としては、次の 2つが例示され ていた。 い財政状況の中で、いかに 地域のアイデンティティ ①学校、研究所、試験場、図書館、公民館、博物 権の流れが促進されたことと、 2 0 01 年に、はじめて 我が国の文化政策の根幹を定める基本法としての 「 文化芸術振興基本法」が施行されたことを契機に、 全国の自治体でいわゆる “ 文化振興条例"の制定が 増えつつある 。 その背景には、現代社会が、 「国民生活に関する 世論調査」花 1)において明らかなように、人々の価 値観が物の豊かさ'から “ 心の豊かさ"に移り、 そこに “ 生き甲斐"や“よろこび"を見いだす文化 を打ち出すかが求められている地方自治体にと って 館、体育館、 美術館、物品陳列所、公会堂、劇場、 も、地域の経営戦略として文化政策の果たす役割が 音楽堂その他の教育、学術、文化、勧業、情報 ますます重要度を増していることなどが挙げられ 処理又は電気通信に関する事務を行うこと 。 (旧 る。 法第 2条第 3項第 5号) しかしながら、空前の財政危機を迎えている地方 ②建造物、絵画、芸能、史跡、名勝、その他の文 自治体においては “ 市町村合併"に代表されるよう 化財を保護し、又は管理すること 。(同第 1 4 号) 上記の①(①では、教育、学術、勧業、情報処理 に経済性や効率性が重視され、経済効果の見込めな い文化関連予算は真っ先に削減の対象となり、平成 5年(19 9 3年) 年以降、減少の一途を辿っている 。i t2) 又は電気通信に関する事務も 一括しているが、 ここ 文化に政策的な価値を見いだすか否かは、それぞれ 管理を中心に規定し、 一般的な文化関係事務は、 「そ ・ 文化・・・に関する事務J として概括している 。 の他・ ・ の自治体によ ってまちまちであり、改めて文化政策 の意義が問われているといえよう 。 その文化政策の法的基盤となる文化振興条例の制 では文化 のみを対象とする )は、文化施設の設置 ・ また② は、文化財の保護にかかわる事務である 。 こ れを見る ように、旧法では、文化施設の設置 ・管理 定は、当該地方自治体のその後の地域計画の方向性 を文化に関する中心的な事務と見なしており、従っ に大きな影響を及ぼすと同時に、そこに住む市民の て、文化の振興を含む幅広い事務としての認識が希 文化活動においても大きな規範となるものである 。 薄であったことがうかがえる 。 さらに近年、“市民主体の文化によるまちづくり' 26 ・人間文化 r 一方 、1 9 8 0 年代には、 「 文化の時代 J 地方の時代」 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の震望についての一考察 が標傍され、いわゆる自治体文化行政が飛躍的に進 3 文化芸術振興基本法の概要 展した。それは首長自らの主導により、文化施設の (新法第 2条第 2項) 域における事務その他の事務 J 文化芸術振興基本法(以下、「基本法」という 。 )は 、 2 0 0 1年の第 1 5 3回国会において超党派による議員立 法として成立した。 基本法は、法律の形式としては稀な 「 前文 j を冒 頭に置き、文化芸術の役割・意義と諜題について詳 細に 言及するとともに、併せて法制定の趣旨につい に包括された。 このような、個別の例示から 一般的 て述べている 。 設置だけにとどまらず、広くまちづくりの観点から 地域文化一般の振興を図ろうとするものであった 。 そして、改正後の地方自治法(以下、 「新法」 と いう 。 )から旧法の例示は 削除され、新法では「地 な事務に包括 ・溶融されたことは、先の地方公共団 体の動向も踏まえ、地域文化の振興が地方公共団体 第 l条では、前文を受けて基本法の 「目的 Jを明 示し、次の第 2条につなげている 。 の固有の事務であることを法律上でも確認したもの 第 2条は、前文及び第 l条の目的を踏まえ、文化 と考えてよいであろう 。従って、新法の下では、地 振興に当たっての 「 基本理念」を 8項目にわたって 方公共団体の文化に関する事務の根拠は、第 2条第 2項に求められる 。 1) 詳細に規定している。この基本理念が、第 7条の基 2 地方自治法による文化振興条例制定の根拠 としてこれらを規正することとなる 。 本方針策定の指針になるとともに、その内容をなす ものとなる 。 また、第 8条以下の基本的施策の前提 地方自治法第 1 4条第 1項により、地方公共団体は、 第 3条から第 6条までは、国及び地方公共団体の 法令に違反しない限りにおいて第 2条第 2項の事務 責務について規定している。国の場合は、国に対す ( 1地域における事務その他の事務 J )について条例 る一般的な責務を規定するとともに、「政府 j に対 を制定することができる。 して、法制上、財政上の措置等を義務付けている 。 地方公共団体の文化の振興に関する事務は、 「地 第 7条は、 「政府」 に対して、基本方針の策定を 域における事務その他の事務」 に含まれ、従 って 、 義務づけ、定めるべき内容を包括的に示すとともに、 地方公共団体による文化振興条例の制定は、地方自 策定の手続きについて規定している 。手続きとして 4条第 1項の規定がその根拠となっている 。 治法第 1 は、文部科学大臣が、文化審議会の意見を聴いて基 なお、地方公共団体が文化施設や文化振興のため 本方針の案を作成し、政府としてこれを定めること の基金を設ける場合は、地方自治 j 去によって、条例 とされている 。 第 8条以下は、基本的施策について詳細かっ具体 4 4条の 2第 によることが義務付けられている 。(第2 l項、第 2 4 1条)3) また、文化振興条例のもとに、あるいは文化振興 条例を定めていない自治体においても多くの自治体 がいわゆる 「 文化振興計画」 を策定している場合が 多いが、文化振興計画策定の根拠は地方自治法第 2 条第 4項に求められる 。すなわち、市町村は、議会 の議決を経てその地域における総合的かっ計画的な 行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即 して事務処理を行うことが義務づけられている 。 こ の規定に基づき、同時に基本計画が策定されるのが 通常である 。文化振興計画は、基本計画を最上位計 画とし、それぞれの領域に策定される下位計画とし て位置付けられる 。 なお、都道府県に関しては、地方自治法による基 本構想策定の義務付けはないが、ほとんどの都道府 県が基本構想と基本計画ならびに文化振興計画を策 定している 。 2) 的に規定している 。全体として、「文化芸術の振興 と普及」 にかかわる事項、「文化芸術の基盤の整備」 にかかわる事項、 「 施策展開の基本姿勢」にかかわ る事項に区分される 。それぞれの項目は、図表 lに 見るとおりである 。 3)(図表1) 4 文化芸術振興基本法の意義 基本法の構成は以下のとおりであるが、同法が制 定された意義として、次の諸点をあげることができ る。 ( 1 )文化芸術の役割 ー意義についての言及 基本法は、前文において、文化芸術の役割 ・意義 について詳細に述べている 。特に、文化芸術の 「本 効用の面」の両面から、文化芸術の役 質の面 Jと 「 割・意義を明らかにしている 。 本質の面は、 「文化芸術を創造し、享受し、文化 的な環境の中で生きる喜びを見出すことは、人々の 7 人間文化・ 2 都道府県 ・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 図表 1 文化芸術振興基本法の構成 0前文 1)文化芸術の役割 2)文化芸術をめぐる課題 3)基本法制定の趣旨 O第 1章 (総則) [ 1 ] 目的 (第 1条) [2] 基 本 理 念 ( 第 2条 ) 1)文化芸術活動を行う者の自主性の尊重 ( 第l 項) 2)文化芸術活動を行う者の創造性の尊重及び地位の向上 ( 第2 項) 3)文化芸術を創造し享受する権利及び文化芸術活動のための環境の整備(第 3 項) 4) 我が国及び世界の文化芸術の発展 ( 第4 項) 5)多様な文化芸術の保護及び発展 ( 第5項) 6)各地域の特色ある文化芸術の発展 ( 第6 項) 項) 7)我が国の文化芸術の世界への発信 ( 第7 8)国民の意見の反映 ( 第8 項) [3] 固 ・地 方公 共 団 体 の 責 務 ( 第 3条 第 6条) 1)国の一般的な責務 2)国民の関心と理解の 1 函養 3)政府による法制上の措置等 4)地方公共 団体の責務 O第 2章 (基 本 方 針) [ 4 ] 基 本 方 針 (第 7条 ) 1)政府による基本方針の策定 2) 文化審議会の意見聴取 O第 3章 (文 化 芸 術 の 振 興 に 関 す る 基 本 的 施 策) r [5] 文 化 芸 術 の 振 興 と 普 及 j に か か わる 事 項 1)文化芸術各分野の振興 ( 第8 条 第1 2 条) ①芸術 、 ② メディア芸術、 ③伝統芸能、 ④芸能 、 ⑤生活文化、国民娯楽、出版物等 2)文化財等の保存と活用 ( 第1 3条) 3)地域における文化芸術の振興 ( 第1 4 条) 4)国際文化交流等の推進(第 1 5 条) 5)国民の文化芸術活動の充実 r [6] 文 化 芸 術の基 盤 の 整 備j に か か わ る 事 項 1)人材の養成と顕彰 ( 第1 6条、第 1 7条、第 3 3条) ①研修、 ②教育研究機関等の整備、 G :顕彰 2) 文化施設の充実等 ( 第2 5条 第 2 8条) ①劇場・音楽堂等、②美術館-博物館・図書館等、③地域における文化芸術活動の場、 ④公共建築物等への建 築上の配慮 3) 情報通信技術の活用と情報の提供等 ( 第2 9 条、第 3 0 条) ①情報通信技術の活用、 ②情報の提供等 4)民間の支援活動の活性化等 ( 第3 1条) 5)国語 ・日本語教育と著作権等の保護及び利用 ( 第1 8 条 第2 0条) ① 国語についての理解、 ② 日本語教育、 @著作権等の保護及び利用 r [ 7 ] 施 策 展 開 の 基 本 姿 勢Jに か か わ る 事 項 2条)2) 政策形成への民意の反映等(第 3 4条)3)地方公共団 体の施策 (第3 5条) 1)関係機関等との連携(第 3 2 0 0 3) ( 出所)根木昭 『 文化政策の法的基盤J( 2 8 ・人間文化 都道府県 ・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 変わらない願ぃ」 、「 文化芸術は、人々の創造性をは ぐくみ、その表現力を高める 」、「 文化芸術は、それ 自体が固有の意義と価値を有する」という表現に示 されている 。 効用の面は、 f( 文化芸術は)は人々の心のつなが りや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し、多様性 を受け入れることができる心豊かな社会を形成する ものであり、世界の平和に寄与するもの」、 f (文化 芸術は)それぞれの国やそれぞれの時代における国 民共通のよりどころとして重要な意味を持ち、国際 化が進展する中にあって、自己認識の基点となり、 文化的な伝統を尊重する心を育てる、 」 f (文化芸術 は)心豊かな活力ある社会にとって極めて重要な意 義を持ち続ける 」 という文言に表されている 。 このように、文化芸術の「本質の面」 と 「 効用の 面」の双方から、文化芸術の役割と意義を明示した ことは、文化芸術の公共性を導き出す法律上の根拠 が得られたという意味で、極めて大きな意義を持つ ものといえるであろう 。 ( 2 )基本理念についての詳細な規定 前述の基本理念の内容を整理し、その趣旨を要約 すれば、次のように概括できる 。 ①芸術家等の自主性・創造性の尊重と地位の向上 ( 第 l項、第 2項) ②文化芸術の創造と享受についての権利 ( 第 3項) ①文化格差の是正(=文化の均箔) ( 第 3項) c !創造活動の活発化(=文化の頂点の伸長 ) ( 第 4項) ⑤文化の多様性の尊重(第 5項) ⑥地域文化の主体性・自立性の確保 ( 第 6項) ⑦我が国の文化芸術の世界への発信 ( 第 7項) @民意の反映 ( 第 8項) 以上の① は、これまでの文化政策の前提として措 定されており、 ③ ⑦ は、文化政策の機能として、 これまでも事実上行われてきたものである 。その意 味では、現行の文化政策の実体が法律上で具体化さ れたと考えてよいであろう 。一方 、 ② と⑥ は、これ までの暗黙の前提にはなっていたが、やや暖味で あったものを、法律で規定することで明確化したと いえる 。 いずれにしても、基本理念として以上のような事 項が詳細に規定されたことは、今後の文化政策の推 進にとって、大きな意義を有するものである 。 ( 3 )政府による法制上、財政上の措置等の義務づけ これまで、文化政策にかかわる法制度は、 一部を 除き未整備の状況にあった 。基本法第 6条により、 今後、必要に応じて法制上の措置を行わなければな らないことが政府に義務付けられることとなった 。 また、財政上の措置も、これまで事実上の予算措 置に委ねられていたが、同条により、その根拠が得 られることとなった。 なお、その他の措置として、税制上の措置がある 。 これについては、別途 3 1条でも規定されているが、 本条にも税制上の措置は 当然含まれるものと考えら れる 。 このような、政府に対して、法制上、財政上、税 制上等の措置を義務付けたことは、今後の文化政策 にと って、法的、財政的ないし税制措置を講ずる根 拠が得られたわけであり、その意義は大きい。 ( 4 )政府による基本方針の策定の義務づけと手続き の明確化 これまで、文化政策にかかわる計画は、文化庁レ ベルで文化庁長官の私的諮問機関である文化政策推 進会議等の意見を聴きながら策定されてきた。 基本法により、これらは、 一省庁を超えた政府レ ベルで行われることとなり、またその際、法令に基 づく文化審議会の意見を聴くこととなったことは極 めて大きな意義を持つものといえる 。 ( 5 )基本的施策の内容 基本的施策に関しては、次のような点にその意義 が認められる 。 ①振興すべき文化芸術のジャンルを例示したこ と。 ②文化財等の保存と活用、地域における文化芸術 の振興、国際文化交流の推進、国民の文化活動 の充実という、文化政策の機能面の一部が明記 されたこと 。 ③人材の養成と顕彰、文化施設の充実等の、基盤 整備にかかわる文化政策の機能面の一部が明記 されたこと 。 ④情報通信技術の活用等の高度情報化社会への対 応が規定されたこと 。 ⑤民間のメセナ活動を規定したこと 。 ⑥ 国語・日本語教育と著作権の保護及び利用が規 定されたこと 。 ⑦政策形成への民意の反映等について、 2ヵ条に わたって規定したこと 。 人間文化・ 2 9 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 ③地方公共団体の施策に関し、地域の特性に応じ ることを明記したこと 。 4) i l l . 全国の文化振興条例の制定状況とその内容 について 1 全国の制定状況 文化庁編の「地方における文化行政の状況につい て J( 2008)によれば、平成 1 9年 7月 1日現在、文 化振興条例を制定しているのは都道府県では 1 5、政 令指定都市では 4、中核市で 4、その他の市町村で 46の自治体にすぎない。(図表 2) 図表 2 文化振興条例の制定状況 図表 4 文化振興条例制定数の推移 条例数 7 0 6 0 5 0 4 0I 3 0 2 0 1 0 01997 2 0 0 12 0 0 22 0 0 32 0 0 42 0 0 52 0 0 62 0 0 7年 ( 出所)文化庁 「 地方における文化行政の状況 J( 2 0 0 7 . 7 現在) より筆者作成 ていることが分かる 。(図表 4 ) -.;ìM.ぉ)!".r:;'ii空軍i市若';j:fl沼田・lI:miÆ掴・・・・..副If~_ │ 1 5 1 4 1 4 1 46 1 ( 出所) 文化庁 「 地方における文化行政の状況 J( 2 0 0 7 7現在) 2 内容の分類 ( 1 )時系列でみる それでは、個々の文化振興条例の内容についてみ 都道府県や政令指定都市においては、条例までは ていくこととする 。本稿では全国の地方自治体の代 制定していない場合も、そのかわりに文化振興計画 表的な例として、特に都道府県・政令指定都市の条 や文化振興指針といったものを策定することがほと 例に限って検討していくこととする 。 んどである 。 しかし、市町村レベルにおいては、計画や指針と いったものさえ、策定しているところは少ない。(図 まず、時系列でみていくと、制定時期によって大 きく 2 つのグループに分けられる 。 最 初 の グ ル ープは、 2001年の 基本法制定以前、 表 3) 1 980年代、 1 990年代に制定されたグループである 。 図表 3 文化振興基本計画の策定状況 京都、熊本県、北海道、富山県しかなく、政令指定 -.,1事t;iY6l!l~r:;活再晋花街茸:~ì岳遭・・・邑立言語z・・・・・Ei主jf$ 都市では皆無で、ある 。 │ 2 4 1 6 1 8 1 74 1 ( 出所)文化庁 「 地方における文化行政の状況 J(文化芸術振 興基本法施行2 0 01 . 12 以降- 2 0 0 7 . 7 現在) でに制定されたグループである 。都道府県では、福 これを第 l 期と呼ぶことにする 。都道府県では、東 そして第 2期は基本法が制定された後から現在ま 島県、鳥取県、大分県ー、宮城県、大阪府、徳島 県 、 鹿児島県、京都府、岡山県、静岡県、広島県があり、 その理由には、多くの市町村において、文化政策 が狭義の教育委員会所管の事務 ( 例えば美術館、博 政令指定都市では、川崎市、大阪市、京都市、札幌 市のすべてが該当する 。(図表 5) 物館の運営など)の域を出ていなかった り 、 産業振 根木昭によれば、およそ文化振興条例を制定する 興や観光振興の陰に隠れてしまい、文化政策の政策 意味は、①文化振興の基本理念の明示、②文化活動 的な位置付けが低かったことなどが考えられる 。そ に対する財政的な支援措置、 ① 文化計画等の策定、 の結果、条例を制定するまでには至らなかったこと ④恭議会等における住民の政策決定への参加、を盛 と、固において、 2 0 0 1年に基本法が制定されるまで、 地方自治体が規範とするべき法律がなか ったことが 原因であろう 。 図表 4をみると、基本法が制定される 2 0 0 1年以前 には、文化振興条例を制定している自治体は全国 で わずか1 4しかなかったが2 0 0 1年以降は急激に増加し 30 ・人間文化 り込むことにある 。 都道府県レベルにおいては、東京都の制定 ( 1 9 8 3 年)がもっとも早いが、「基本原則」が示されている 。 これは、後の 「基本理念Jのさきがけをなすものと いえる 。 昔前董府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 図表 5 文化振興条例一覧(都道府県 ・政令指定都市) で詳細にみていくこととする 。 ①前文 基本法でみるように、前文の役割 は、文化芸術の理念・役割 ・意義あ るいは課題、そして総括的な条例制 定の趣旨などを述べることにある 。 前節の時系列でみてみると、初期 の東京都、富 山県には前文がない。 しかし、それ以降、 制定された文化 振興条例にはすべて前文がある 。 各条例をみていくと、その長さも 内容も千差万別であるが、多くが文 化芸術の理念・役割・意義にとどま っ ている 。やや課題的なことにまで言 及しているの は大分県、京都府、広 島県などである 。 特徴的なのは大阪府、京都府、広 島県、各政令指定都市など、文化振 興の主眼をまちづくり ( 地域づくり、 都市づくり)に置いている例である 。 20077現在) ( 出所)文化庁 「 地方における文化行政の状況 J( 特に大阪市や京都市は 「 芸術文化都 市」あるいは「文化芸術都市」 とい う概念を明記しているし、広島県や 2番目に早い熊本県条例(1988年)においては、 「 基 本理念」の規定 こそないが、文化振興基本方針の策 京都市は条例名からして 「まちづくり 定、基金の設置、文化振興審議会の設置という、前 都市再生」 といった表現をしている 。 述の② ④が明記されることとなった。 JI 文化芸術 また、それぞれ地域の特徴を盛り込もうという姿 1 9 9 0年代に入ると、この熊本県条例が一般化して 勢が見受けられるが、短い文章の中でいかに個性を いき、北海道条例(19 9 4年)、富山県条例(19 9 6年) 表現するかが求められる 。地域性 についてやや詳し と続く 。北海道条例では、まだ 「基本理念」の規定 く述べているのは鹿児島県、岡 山県、静岡県、広島 を欠くとともに、熊本県条例と同様、 「文化振興指 県、各政令指定都市であり、最近の動向として地域 針」の策定にとどまっている 。 性を盛り込む例が多いことが分かる 。 一方、富 山県条例では、 「 基本理念」の規定が置 かれるとともに、詳細な行政計画である県民文化計 画の策定が盛り込まれた 。根木昭はこの富 山県条例 で文化振興条例の形が完成したとしている 。 5) そして、 2 0 0 0年代を 迎え ると、状況が一変する 。 また、住民や事業者との「協働」の概念を盛り込 んでいる例もある 。(大阪府、徳島県、京都府、広 島県など) ②目 的 趣 旨 基 本 理 念 目的や趣旨あるいは基本理念は、前文を受けて通 0 0 1年 1 2 月に文化芸術振興基本法が公布、施 それは 2 常第 l条、第 2条に置かれる 。 目的や趣旨のない条 行された影響である 。以降、文化振興条例の制定が 例は形式上あり得ないが、基本理念は必ずしも必要 増加し、内容的にも基本法の影響を強く受けること ではない。 しかしながら、基本法で、基本理念をか になる 。 なり詳しく定めている影響か、初期の熊本県、北海 道、大阪府を除いては、すべての条例で定められて ( 2 )条項別にみる(図表 6、図表7) それでは各条例の条項について、以下の 1 2の視点 いる 。 内容的には、基本法のように 8項目にわたって言 人間文化・ 3 1 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 図表 6 都道府県の文化振興条例の内容 If:'i~軍司 ;iÆ~ 前文 総則 目的・趣旨 定義 基本理念方針 都道府県の責務・役割 市町村との関係・連携 国及び他の都道府県との関係・連携 県民・民間団体等との関係・連携 口三 " . . . . . . . , ; O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O 主j 取 ,;fそ~I 匹 曜龍峰山 文化芸術の環境整備 その他 顕彰 財政支援措置 文化基金 文化審議会等 5 1 買叩; . 1事事;¥1U¥ ' 1 ' . I ¥ ' !E苦五官品 O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O m r c ¥ 開 O O O O O O ;-l :t',W ~ E帽 章一 旦 O O O O O O O O O O O O O 市町村の責務・役割 県民・民間団体の責務役割 文化芸術施設その他大学等の費務・役割 その他 -施策への文化的視点 -推進体制の整備 -意見の反映 1 1 :: ¥ 1 1 "F.:'1i',i~ O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O O ( 備考)各自治体の文化振興条例より 筆者作成 図表 7 政令指定都市の文化振興条例の内容 また、多くの自治体で、 「文化は将 来の 世代に引き継がれる もの」 という 表現が見られるのは興味深い。 その他、「民意の反映」や「文化交 流の推進」、「情報の発信」などが見受 けられるが、基本法の言及の範囲内で ある。 ①定義 文化芸術の「定義」を定めていると ころは、少ない。都道府県においては 徳島県、岡山県、広島県、政令指定都 市では大阪市、京都市のみである。 そもそも基本法においても文化芸術 の「定義」は定められていない。それ は文化芸術を限定して定義することが 困難であることも要因にあろう。基本 ( 備考)各自治体の文化振興条例より 筆者作成 法は、すべての文化芸術を対象としつ つ、基本的な施策の中で、特に振興す る分野を具体的に挙げるという手法を 及するようなことは少なく、文化芸術活動を行う者 の自主性・創造性の尊重、文化芸術活動のための環 とっている 。 境の整備、文化芸術の保護・発展といった点が主で 他に 「 芸術家」や 「 民 間団体」の定義 も見受けら れる 。珍 しいところでは京都市の 「 文化芸術都市の ある 。 3 2 ・人間文化 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 再生」についての定義といったものがある 。 ④都道府県(市)の責務 当然ながら、都道府県(市)の責務については、す べての条例で定められているが、問題は内容である。 その内容を大別すると 、第 1に文化政策の実施、 第 2に、その他の政策にも文化の視点を取り入れる こと、第 3に住民や民間団体等他の機関との連携、 協働が主になっている 。 特徴的なのは、川崎市や京都市のように、文化政 ⑦文化振興計画ー指針等の策定 文化振興計画等の策定を条例で明言化することは、 文化振興条例の重要な柱の一つである 。 全国的にみても、ほとんどの自治体(都道府県で は12/15、政令指定都市では 314)が文化振興計画あ るいは基本方針等の策定の条項を設けている 。 ただ実際には、条例上に定めていなくとも、何ら かの文化振興計画等を策定してるのが通常であり、 今後の条例制定にあたっては、やはり条例上で明言 策の主体は市民であるとし、市は市民の文化活動を 化することが望ましいであろう。 振興、支援するための環境整備、施策を講じること @文化振興施策(文化芸術の振興・環境整備・地域 今後の文化政策は自治体が主体となるよりも、多 づくり-顕彰など) 文化芸術の振興に関する基本的施策については、 くの部分で市民主体に移行していくことが予想され、 基本法が独立した章(第 3章)を設け、実に第 8条 それに伴い、条例の書きぶりも市民自治を念頭に置い 第3 5条にわたって具体的に列挙しである 。 都道府県 ・政令指定都市においても 3県を除いて を役割 ・責務としている点である 。 たものに変化していくであろう 。そういう意味で川崎 市や京都市の例はその先駆となるものといえよう 。 基本的施策の条項を設けている。 ⑤市町村(県)等との連携 市町村との連携については、すべての県で条項を 上記のうちでも、独立した章を設けずに列挙してい しかし、具体的な記述の方法はまちまちであり、 務」の中に盛り込んでいる。都道府県の立場上、市 る場合が 2県 1市ある 。 条文数も数ヵ条のところが多く、困のように多く 町村との連携は欠くことのできない条項である 。 はない。特に川崎市のように 1ヵ条だけで施策の振 設けている 。 ただ形式的には 5府県が、 「 府県の責 しかしながら、これが市の条例になると、県との 興をうたい、具体的な列挙はせず、具体的な施策は 関係をうたったものはない。 珍しいところでは、富 山県が「国及び他の都道府 条例の下に策定される「文化芸術振興計画」に委ね るケ ースもある 。 県との関係」の条項を設けている 。札幌市は、市民、 今後の条例の形としては、 代表的な施策の分野だ 事業者等との連携とあわせて、国及び他の地方公共 けを記述し、具体的な施策は 「 計画」に委ねる形が 団体との連携についても言及している 。 一般的になるのではなかろうか。 また、鳥取県は 「 市町村の責務」 という表現をし 内容を大別すれば、文化芸術の振興 ・文化芸術の ているが、内容的には他 と変わりなく 一般的ではない。 環境整備 ・文化芸術による 地域づくりの 3点が主で @県(市)民、民間団体等との関係かう役割責務へ 県民、民間団体等との関係については、 8都道府 あるといえよう 。 その他の文化振興政策としては、顕彰制度を条例 県が定めている 。 またその 他 にも近年は、 「関係」 内で位置付けているところがほとんどであり ( 都道 から 「 役割」 という条項を設けている県が4県と増 えつつある 。 1/1 5、政令指定都市で 1 /4 )、顕彰制度が文 府県で 1 政令指定都市では 4市のうち 3市が定めているが、 化振興施策の重要な施策のーっとなっていることが うかがえる 。 京都市ではさらに「責務」と表現している 。 この ことから浮き彫りになってくるのは、かつて ①財政支援措置 は、県 ( 市)民や民間団 体等は、文化 政策の保護・ つが、自治体による文化活動に対する財政的な支援 支援の対象であり、あるいは協力を求める関係で 措置の根拠を定めることにある。それを意識してか、 あったものが、近年、文化政策の主体そのものが県 ほとんどの自治体 ( 都道府県では 1 1/1 5、政令指定 ( 市)民や民間団体等に移行してきているというこ 都市では 3/4)が何らかの財政上の支援を講じると とであろう 。 いった条項を設けている 。 前述のとおり、文化振興条例制定の重要な柱の一 人間文化・ 3 3 都道府県・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 ⑪文化基金 文化基金について文化振興条例の中に明記してい る自治体は、熊本県、北海道、富山県、宮城県の 4 県しかない。富山県の場合は財政支援措置の条文の 中で基金をうたっている 。宮城県は文化振興条例制 定前にあった文化基金の活用をうたっている 。 宮城県のみならず、たいていの自治体は文化振興 条例の中で明記してなくとも、文化基金なるものが 存在する 。その文化基金の設置には前述したように 条例上も重要な要素のーっとなってきている 。 ⑫その他 その他、上記にあげた条項以外の特徴的な条項を みていくこととする 。 施策への文化的な視点 自治体が行う各種の施策について、文化的な視点 を取り入れることとする条項を設けているのは都道 府県では 7 都県、政令指定都市で 2市、見られる 。 このことは、文化政策が今や狭義の文化行政の範 地方自治法に基づく文化基金条例の制定が必要であ 囲にとどまらず、自治体の地域経営戦略にとっても り、多くは狭義の意味での文化行政を所管している 「文化の視点 j が重要になってきていることの現れ といえよう 。 教育委員会が所管している 。 首長部局の各種施策を含んだ広義の意味での文化 -推進体制の整備 政策の振興を意図した文化振興条例が制定される際 推進体制の整備については 4府県 2市が定めてい に、すでにある文化基金をそのまま文化振興条例の るが、報告などを義務づける種類の条例ではない文 中で位置付けるか、あるいは文化基金そのものを新 化振興という条例の性質上、組織や体制のことを文 設するか、リニュ ーアルするかは自治体の姿勢如何 化振興条例で定めるのは主流ではないようである 。 である 。 ー文化アセスメン ト 文化振興条例が基金条例を兼ねる場合は、北海道 文化アセスメントとは非常に珍しい試みであり、条 のように詳細に基金条例の内容も明記しなくてはな らない。 例上で位置づけているのは唯一、 川崎市のみである。 ⑪文化審議会意見の反映 や経過を評価することにより、創造的かつ持続的な 文化アセスメントとは 「 振興計画上の取組の成果 前述のとおり、文化振興条例の重要な柱の一つが、 文化芸術活動の振興を図ることを目的とした事業評 審議会等における住民の政策決定への参加を盛り込 むことにある 。 価システムであり、事業計画の取組に対する文化資 基本法においても、政策形成への民意の反映等に 源の取り入れなどの有効な活用を促進」することと 川崎市の「 文化芸術振興計画」に説明されている 。6) 4条の 2ヵ条にわたって ついて、第 2条第 8項、第 3 また、文化アセスメント実施のねらいは、 「 振興 規定されており、文化政策の分野のみならず、近年 計画とともに市の文化芸術振興施策の総合マネジメ の地方分権、市民自治の発展の流れのなかで、民意 ント ・システム 」 を構成するものであり、様々な分 の反映について、特にその根拠を定めたことの意味 野に文化芸術を波及させること 」にあるといえる 。6) は大きい。 そういう意味で、今まで評価しにくか った文化政 全国的にも都道府県では 2県を除いて、文化審議 策に評価の概念を加え、前述のとおり他の施策分野 会に関する規定がある。政令指定都市では大阪市と への文化的な視点を促すという試みは今後の文化政 策において重要な視点であるに違いない。 札幌市が文化審議会という表現はしていないが、大 阪市も専門家の意見を求めることとしており、札幌市 では、意見の交換の仕組みを整備することとしている 。 今後、重要なのは文化審議会の構成メンバーであ ろう 。従来、審議会は、専門家達が多くの割合を占 めていたが、市民活動の活発な文化政策の分野にお いては、より一般の市民を代表するような委員の選 任が望ましい。大分県の 「 県民会議」 という名称は 文化芸術施設-大学等の役割 ー調査研究 最後に、自治体や県 ( 市)民や事業者の役割 ・責 務のみならず、大学や文化芸術施設の役割l まで挙げ ている例がある 。京都府と広島県である 。 また同じく京都府と富山県は、自治体として文化施 策に関する調査研究に努めることを条例で定めている 。 今後、文化政策を担う重要なセクターとして文化 その姿勢の現れであろう 。 芸術施設や大学等の一層の活躍が望まれるし、自治 また、文化審議会に限らず、 意見の反映について、 条項に盛り込んで、いるのは 7 府県にのぼっており、 体自身がたゆまぬ文化政策に関する調査研究に努め 34 ・人間文化 ていくことは重要である 。 都道府県 ・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 N まとめ とにある 。 1 官主導から市民主体へ これまで、都道府県及び政令指定都市の文化振興 条例について、その内容を検証してきたが、ここか ら導かれる最近の文化振興条例の動向として大きく 2点の特徴が挙げられる。 一つは、文化政策の主体が官主導から市民主体へ と移行しているということである 。 このことは、従来、県(市)民や民間団体の記述 については、県 ( 市)と県(市)民や民間 団体との 「関 係」 として記述されている ことが多かったが、近年 もちろん自治体の事情によっては、自治体が主導と また、市民主体の文化政策への道を開 くことは、 は県 ( 市)民や民間団体の「役割(責務 ) Jとして記 述されるように変化してきていることに顕著に現れ ている 。 つまり、従来、文化政策は、自治体が担うもので あり、県 ( 市)民や民間団体は保護 ・ 支援の対象であっ なって、文化政策を実施していくことを否定するも のではない。 ただ、いずれの場合においても市民の文化政策へ の参加や意見の反映は従来よりもまして担保されな くてはならない。文化政策の分野は、他の政策分野 よりも市民自治の割合が大きく可能となる分野であ るといえるからである。 2 まちづくりなど広義の文化政策へ もう 一つは、近年、文化振興条例の意図するとこ ろが、従来の狭義の文化芸術の振興にとどまらず、 まちづくりなど広義の文化政策を意図したものに変 化しつつある点である 。 前節でもふれたとおり、条例のタイトルそのもの たり、企業に対しては協力してくれる相手という存 からして、広島県や京都市においては 「まちづくり 在であった。 しかし、近年の文化政策は、県(市) 推進」、「 芸術都市創生」といった表現を前面に押し 民や民間団体自体が主体となって実施していくもの 出している 。 また京都府のように 「 文化力による京 という方向に転換しつつある 。 都活性化推進」 といった例もある 。 その背景には、白治体の財政難により県 ( 市)民 また、タイトル上は出てこなくとも、川崎市、大 や民間団体等との 「 協働」が進んだことと、同時に、 阪市、札幌市などは、文化芸術によって都市のアイ 文化政策の分野に限らず、公共政策の形成に県 ( 市) デンテイティを打ち出そうとするねらいが明らかで 民の参画が求められるようになった現代の地方分 ある 。 これは都道府県より市の方が、都市づ くりと 権 ・市民自治の流れがある。 いうものに直結するという理由もあるだろうが、そ そのことは、前節でみたように、ほとんどの都道 れだけではないだろう 。やはり、首長をはじめ、市 府県・政令指定都市で文化審議会の設置、さらに民 民や産業界も含めて、自分たちの都市を文化芸術の 意の反映に関する条項が設けられていることからも 力で活性化していこうという意識の現れであろう 。 明らかである 。 従って、今後制定される文化振興条例は、より 一 セプトは、近 年の国(文化庁)の文化政策とも符合 層 、 この傾向が強まっていくことが予想されるし、 するものである 。 またそうあるべきである。自治体は、条例制定時に 平成 1 9年 2月に閣議決定された 「文化芸術の振興 第2 次基本方針)をみれば、 に関する基本的な方針 J( は、その役割を改めて見直し、あくまでも行政が担っ また、この 「 文化力による地域振興」 というコン ていくべき分野と県(市)民や民間団体に任せるべ まず 「 文化芸術の振興の意義」として、従来の個人 き分野とを明確にする必要がある 。 の文化権的意義より踏み込んで、 「 文化カ」は国の力 その上で、個々勝手に行われている市民の文化活 であり、文化芸術と経済は密接に関連しているとし、 動を、自治体の文化政策と位置付けるためには、条 「 文化芸術立国」を目指すことを明確にうたってある 。 例とその下に整備される文化振興計画等において、 そして、それを受けて 「基本的視点」 において、 きちんとした規範づくりが必要になる 。 もちろん、 地域文化の豊かさが日本文化の基盤であるとし、文 その意味は、市民の個々の文化活動に介入するとい 化力で地域か ら日本を元気にすると掲げ、 「 重点的 うものではなく、市民が文化政策、あるいはそこか に取り組むべき事項」において「地域文化の振興」、 ら発展したまちづくりに参画していく際に、その活 さらに具体的な 「 基本的施策」の中に 「 地域の文化 動が政策の一環として実施される環境を整備するこ 芸術の振興」 を掲げている 。 この中に 「 文化芸術に 人間文化・ 3 5 都道府県 ・政令指定都市における文化振興条例の動向と今後の展望についての一考察 よる創造のまち」支援事業なども含まれる 。 このよ うに、近年の国(文化庁)の文化政策は、文化によ [注] ( 注 1)内閣府 『国民生活に関する世論調査J( 各 る地域振興を強く意識していることがうかがえるの 年)による「心の豊かさ J["物の豊かさ」 である 。 を重視する者の割合は昭和 5 4年にそれぞれ また、同じく前節で触れたとおり、まちづくりに 限らず、その他の政策分野においても、文化的な視 点を持つことを文化振興条例に盛り込んでいるケー スが多く見受けられる 。文化政策の範囲が拡大して 4 0 . 9 %と4 0 . 3 %だったものが、平成 1 8 年に は6 2 . 9 %と3 0.4%となり、その差は拡大す る一方である。 ( 注 2)文化庁 『 地方における文化行政の状況に つ いる昨今、各種の政策を実施するにあたり、この視 いて J( 2 0 0 8)によれば地方 自治体の文化関 点はますます重要度を増すことであろう 。 年 係経費は平成4 以上、都道府県・政令指定都市における文化振興 条例の動向と今後の展望について考察してきた 。 ま ( 1 9 9 2 年)には約 8 0 0 0 億円 だったものが平成 1 8年 ( 2 0 0 6 年)には 4 0 0 0 億円を割るところまで減少している 。 だまだ文化振興条例の制定数は少ないが、今後、文 化政策の重要度が増していくのに伴い、文化振興条 例の制定も増加していくに違いない。 その際に必要なのは、本稿でみてきたような各観 点である 。そして、何よりも重要なのは、文化芸術 の振興によってその地域がどういう“まち"を目指 すかである 。そのコンセプトなしに文化振興条例の 制定は成し得ないといえよう 。 [参考文献] (1)根木昭 『 文化政策の法的基盤J(水曜社、 2 0 0 3年) 1 6 0頁-1 6 1頁 ( 2 )向上書 1 6 2頁 -163頁 ( 3 )向上書2 8頁 -3 0 頁 ( 4 )向上書3 1 頁 -3 4 頁 ( 5 )向上書 1 6 4頁-1 6 6頁 ( 6)川崎市 r J I崎市文化芸術振興計画J( 2 0 0 8 )3 9頁 Comment 野部博子 人間文化学部人間関係学科 市町村合併によって、人間の生きてきた証である る自治体等々、それぞれの特徴が伺えます。一方 、 歴史や文化は、大きなくくりになればなるほどに失 地域性をあまり考慮しないままに制定されてしまっ われていきます。このことは誰しもが認める所であ ているところ、いまだ取り組みがなされていない所 りましょう 。 しかし、これらが失われ埋もれていく もあるように伺い知ることができます。 ことに憂い嘆く人達は少なくありません。 これら有形無形の歴史や文化等を保持、管理、運 営していくこと は、民の力が必要です。 この力を生 み出し維持するためにはコミュニティをしっかりと 保つことであると考えます。 本論文は各自治体で制定されている「文化振興条 例」 を県・政令指定都市の状況とその内容を分析し て文化政策の在り方を考察しています。 官の係わり方と民の係わり方のバランスをいかに うまく保持していくか、また官は民に対して、どこ 核家族、都会志向、近隣との付き合いの希薄な現 までサポートしていくのか、民と民のコアをどのよ 在をみまわすと、地域の連帯を維持することはなか うにつなげていったらよいかを提示しています。そ なか困難な事のように思われます。 こにはまさに民間のコミュ ニテ ィ作りのまとめ役と 2 0 0 1年に街づくりや社会教育・生涯学 しての官の係わりが問われているのではないかと思 習などを包括させたと恩われる「文化芸術振興基本 われます。 このような中で今後市町村、 自治体の数 そんな中、 法」が国の施策の中で施行されました。 これをうけ が少なくなり、 一層の消失の危機にさらされる時、 て各自治体では「文化振興条例」の制定がなされて 歴史や文化の保持 ・管理・運営に早急に取り組み、 きました。施行以前から取り組んでいる自治体、地 人の生きた証しを存続させることの大切さ難しさを 域の特徴をうまく生かすような内容を充実させてい 本論は提言 しているのではないかと考えます。 36 ・人間文化 研究ノート 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの 市川秀之 このように私のオコナイ研究の歩みはまったく午 はじめに 滋賀県立大学に赴任して丸 3年が過ぎようとして 歩状況に陥っているが、それでも毎年続けていると いるが、その 2年前から 湖北の集落でオ コナイ行事 各地区のオコナイを 比較する視座も少しずつ芽生え の調査をしているので、今年で 5年続けて近江の代 てくる 。今後の調査の指標とする上でも、数年に一 表的な年頭の祭りであるオ コナイ行事を見学してき 度、見学した事例を総括しておくことも必要なのか たことになる 。2 0 05 年には国立歴史民俗博物館の共 もしれない。 ここでは調査した 4集落のオコナイ行 同研究 「宮座 と社会」のメンバ ーの一人として米原 事の概要を紹介し た上でそれぞれの比較を試み、可 市志賀谷のオコナイを見学したが、これが私と湖北 能であれば今後のオコナイ研究に向けての新たな視 のオコナイとの出会いであった。初めて見たオコナ 座の一端を示せればと思う 。 イの印象が強烈であり、また志賀谷の人々の暖かさ が心に染みたこともあって、その当時ある大学で民 俗学実習という授業を担当していた私は、授業での 1.オコナイ行事とは まずオコナイ行事について簡単に触れておきたい。 2 0 0 5 年の夏休みに学生 月 滋賀県の代表的な民俗行事であるオコナイは、 1 たちと総合的な民俗調変を実施し、翌 2 0 0 6年 2月に から 2月にかけて行われる年頭行事である 。 もちろ 調査地を志賀谷に決めた i0 も再び志賀谷の行事を拝見することとなった 。2 0 0 6 んこれは滋賀県だけではなく全国に分布しており、 年 4月に本学に着任したため、翌年からは県立大学 著名な 三信遠地方の花祭りや雪祭り、大阪四天王寺 の学生とオコナイ調査に出かけるのが私の年中行事 の ドヤドヤや岡山西大寺の裸祭りなども同根の行事 0 0 7 年には西浅井町集福寺のオコナイを となった。2 とみることができる 。私も大阪府南河内郡河南町や 調査し、翌 2 0 0 8年には高月 町磯部のオコナイを見学 奈良県天理市において、いくどかオコナイ行事を見 した。 この時には私の民俗学の授業を聴講されてい 学したことがある 。ただ滋賀県は他府県よりもオコ た地元の保積隆夫さんに調査の仲立ちをしていただ ナイ行事の分布濃度が随分高い ということは確かに いた 。2 0 0 8年度から本学でも民俗学実習という授業 指摘できるだろう 。県下のオコナイの分布状況につ を始めたのでその一環としてオ コナイの調査をする いては中津成晃などの研究があり、特に湖北地方と こととした。2 0 0 9年1 月に調査地としたのは長浜市 湖南 ・ 甲賀地方で広くみられることがわかっている 。 名越であった。 この時には中国人留学生を含む 9人 しかしながら県下南部のオコナイが主に寺院や堂で 執行されているのに対して、湖北では神社を中心と の学生が参加した。 0 0を越える集落でオコナイ行事が 滋賀県下には 4 する点、また南部のオ コナイが勧請縄や弓引きなど 行われているという。それに比すれば私が見学した と結合しているのに対して、湖北ではそのような要 4集落という数は、十牛のー毛とでもいうべき数に 素は顕著ではない点などで差異がある 。餅が行事に 過ぎない。年に 一集落ずつ調査していたのでは、定 おいて重要な役割を果たしていることは両地域の共 0数集落のオコナイしか見ること 年まで続けても、 2 通点であろう 。県立大学が所在する彦根周辺はオコ ができない。できれば一年に、日を変えて数集落の ナイの分布が極めて希薄で、あるが、その理由はまた 行事を調査したいところであるが、この行事がある 1月半ばから 2月前半という時期は、卒論 ・修論の 改めて考察する必要がある 。 またオコナイは多くの 場合、ムラが単位となって執行され、どの集落にお 提出や試問、あるいは入試などの重要な業務が毎週 いてもその代表的な祭りとしての位置づけを与えら 続き、私にとっては毎年一集落の調査を続けていく れている 。湖北では地元の人々はこの行事をオコナ ことすらそれほど楽ではない。 さらに近年ほとんど イサンと敬称をつけて呼んでおり、人々の暮らしの の集落ではオコナイの日を土曜 ・日曜や祝日に変更 なかで宗教生活や社会生活と結びついた重要な意味 しているため各集落の日程が重複することが多くな を持っている り、複数の集落のオコナイ調査はますます困難に さてこのオコナイの歴史的な淵源が大寺院の修正 なってきている 。一つ一つの調査を可能な限り丁寧 会、修二会にあることは、これまでの研究でも指摘 に続けていくことが、現在の私にとってとりあえず されてきている 。それが村落の寺堂の行事となり、 は大切なことなのである。 神仏習合の広がりの 中で、 神社の行事としても定着 人間文化・ 37 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの するに至った。もちろんそのプロセスは多様であり、 地域ごとに詳細な歴史的考察が必要であることは言 を侠たない。 さらにいえば関西を中心とする多くの 民俗学者たちがその学問的情熱を傾けてきた宮座と の関係についても、いまだ明石車な結論は示されてい ない。オコナイをめぐってはまだまだ解決すべき課 題が山積みなのである 。 2 . 告地区オコナイ行事の概要 次にこれまで調査した 4地区のオコナイ行事の概 要を紹介することとしたい。 ①米原市志賀谷 写真 1 オンベと御肇(志賀谷) 0 0 5年の合併・までは山東 志賀谷は米原市の東部、 2 月 町に属していた集落で、志賀神社の祭礼として 2 の木とは神社の裏山に生えている楼に似た木の校を 1 1日にオコナイが行われている 。志賀谷には集落内 長さlOcmほどに切り、その切り口にトの字の形に切 を四分したオコナイ組という組織があり、これが交 り込みを入れたものである 。切り込みの中には 「 午 代で準備を担当している 。以前は頭人宅がオコナイ 王 /志賀神社 /宝印」 と墨で記された小さな紙が挟 の場であ ったが、現在では会館でするようにな って まれている 。 いる 。湖北のオコナイ行事にはそれぞれ地域的特色 会館に着くと禰宜は床の間に御布¥1書(掛軸)を掛け、 があるが、共通点も多い。最初に調査をした志賀谷 前に午王の木の三方を置いて拝礼し再び社務所に戻 についてはやや詳しく叙述し、その他についてはそ る。 の地の特色的な部分を中心に述べることとしたい。 1 0時ごろオコナイ組員から選ばれた禰宜饗応が再 ぎの総会に先だー っておこ ( 玉嗣) 1月第 2日曜日の│ び社務所を訪れ、禰宜に御鏡鳴きのための下向を依 なわれる 玉 くじから志賀谷のオコナイは始まる 。名 頼すると禰宜は会館へと向かう 。行事のあらゆる過 前を書いた紙に神主が大麻のひもで触れ、それに付 程で、このような禰宜饗応による禰宜の招聴が行わ 着したものが選ばれる 。禰宜・頭人が決定すると続 珂を往復する 。 れ、禰宜は幾度となく社務所と会館の i いて盃の儀式が行われる 。現在はこの玉くじで選ば 会館に到着すると禰宜は御神書に礼拝し、 一同に挨 れた禰宜、頭人がその年のオコナイ行事を担当 して 拶する 。ついで禰宜 ・頭人・取持 ( オコナイ組の年 おり、実質的には一か月程度が任期であるが、かつ 1 1 f tで盃の儀が行われる 。 長が勤める )の1 ては前年の玉 くじで選ばれた者が翌年の禰宜、頭人 それが済むと餅指きが開始される 。会館の座敷に となり、禰宜はオコナイ以外の神社行事に際しでも は餅掲きの役割を記した紙が張られる 。禰宜は素砲 布1事を勤めた。 この一年余りの問、禰宜、頭人とそ のまま、手にシャク木を持ち、臼の前で 二礼する 。 の家族は肉食が一切できなか ったという 。 ( 前日 )かつてはオコナイの準備には数日を要した シャク木を素砲に納め、杵をもち、臼の廻りを禰宜、 頭人、剣持、組代表が囲んで、伊勢音頭にあわせて最 が、現在ではオコナイ前日に大半を済ますように 初の餅を掲く 。禰: 庄はこれが終わると紋付、羽織、 なっている 。 袴に着かえて社務所に戻る 。そのあとオコナイ組の 禰宜は朝七時に御神酒、洗米、水、塩を 三宝に載 2時ごろまで続ける 。本 メンバーが交代で餅掃きを 1 jに供えて祝詞を唱える 。 せ、神社の社務所内の床の │ 日 社用の餅はかつて六斗という非常に大きなものが掲 頭人はオコナイ組の数人とともに禰宜が箆もる社務 かれていたが、現在ではー斗になっており、半切の 移しおよび借り物の依 所に出向き、禰宜に対して判l 中に入れられる 。小社用の鏡餅はそれぞれ一升であ 頼をする 。禰宜は組員に必要な道具類を渡し、また る。 またこのとき掲かれる餅で御華が作られる 。御 頭人には社務所の座敷口で 「 志賀神社」 と書かれた 華はケヤキの木の枝の先にシキピの葉をつけたもの 御神書の箱を 三宝に載せたまま渡す。禰宜は自分で である 。かつて御華は高さが 3 m程度の大きなもの 午王の木を載せた 三宝を持って会館に向かう 。午王 が作られていたが、現在では改革の結果 2 m弱の大 3 8 ・人間文化 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの きさになった。御華の枝が分岐する場所には餅が巻 き付けられる 。 午後 2時ごろからオンベ挟みが始まる 。 長さ 2m ほどの大きな御幣がオンベで、これを作る作業をオ ンベ挟みと呼んでいる 。禰宜はその時間に、会館に 必要な道具、材料を持参する 。 オンベ挟みは会館の 座敷 2 1 1日を使 って 、 3組に分かれて行われる 。 オン ベが完成すると、禰宜はそれを点検して床の間の左 側に置く 。その後、御華、御太鼓、御玉中、御神酒 などもそれぞれ御幣をつけて床の 1 11]に供えられ、禰 宜は社務所へと 戻 る。 オコナイ組のメンバーは社務 所に餅掲きの道具を返却し、会館で一緒に夕食を取 る。 オコナイ組の組員 はオコナイ 当 日と前日の昼食 、 夕食をすべて 会館で一緒に取ることにな っている 。 食事 は各家から女性が二人ずつ出て厨房で調理や配 騰をする 。ただオンベ挟みや神の勝作りなどの際に 女性が座敷に入ることはない。 午後 8時から深夜に神社の本殿や末社・摂社に供 える事1 1 のl 熊の準備が始まる 。千 i f lの騰はかつては 5皿 で構成されていたが、最近の改革で 3皿にな ってい 1 社の末社にも供えられるので、 全部 る。神の謄はや1 で 8勝用意 される 。 神の膳の内容は次の通りである 。 ① 御供米 かわらけの上に飯を盛り上げ、 誌で巻い 写真 2 社参の様子(志賀谷) たもの。 ②御汁 四角く切 った蕪、里芋頭、牛' > >を生 のまま 皿に盛 ったもの。 ① 上 盛 、 鰭 給 血 焼 き 豆腐、昆布、 青豆、干 し鮭 ( 以 前はしいら ) 、大根の細切、福 j 酉をアルミはくに 入れたもの、生鰯。 完成が近づくと禰宜饗応が禰宜を迎えに行く 。禰 宜は 、 頭人や剣持に挨拶をし、胤意されたねI I の膳を 見分する 。終了すると神の膳を木箱 4箱に入れ、か かりのものが 2箱ずつをオーコで担ぐ。玄関に置か 1 の勝係、組員が れた太鼓が打たれ、禰宜、頭人、布1 神社に向かう 。神社に着くと拝殿の後ろにまわり、 神の騰を置いて帰る 。その後補宜は本社、末社に膳 写真 3 餅っきの様子(集福寺) を供えて祝詞を唱える 。禰宜はこの日は社務所に泊 まるが、 1 2時ごろに騰を下げる 。 ( 当日 )翌朝朝 7時ごろからオコナイ組員は会館に て昨目指かれた末社用の鏡餅も各末社に供えられ る。 集合し、行事の準備を始める 。 81 1 寺に子ども会が御 1 0時前になると禰宜饗応が社務所に禰宜を迎えに 華を担いで集務内を練りまわり、その後御華は拝殿 行く 。 この日の行事には宮司も参加するので禰宜饗 前に立てられる 。御華の巡行は太鼓にあわせて歩く 応 2名 、 宮司、禰宜、地区総代、神社総代の1 ) 慌に会 が、太鼓は神社の階段の下に置かれる 。組員によっ 館へと向かう 。一 同が会館の座敷に着座する 。宮司 人間文化・ 3 9 湖北のオコナイ調査かう見えてきたもの と禰宜は素砲、頭人は羽織袴、その他の参加者は礼 うちにオコナイ組のメンバーが手分けして各家に配 服である o 一番末席には司会二人が座る。まず盃の る。 オコナイ行事はこれで終了するが、その日の夜 儀が禰宜・頭人 ・剣持 ・宮司・地区区長 ・氏子総代 には会館でオコナイ組の直会が行われる 。 代表 ・組代表の順に行われる 。配盃係はそのたびに 「おさかなここに 」 という 。ついで再び禰宜の盃に 酒が注がれ禰宜が飲み干す。その後全員に盃が配ら れ、司会の音頭で乾杯する 。 そののち盃を集めて、立謡が行われる 。題目は高 砂と決まっている 。ついで司会が社参の役割を読み ①西浅井町集福寺 集福寺は塩津から敦賀へと抜ける街道から少し東 1目前後にオコ 側に入った谷間の集落である 。 2月1 ナイがおこなわれている 。 この集落では 2月第 1日 曜の口開けのときに、先当、後当の 2軒の当屋がく 上げる 。役割は昨日の餅っきの役割にかわって座敷 じで決められる 。 これは翌年の当屋であり当屋は一 に新しく紙がはられている 。順序は①御太鼓②御玉 年間さまざまな神社の役を勤めることになる 。かつ 串③御神書④御剣⑤宮 司@禰宜⑦ オンベ(御幣) @ 地区区長⑨氏子総代代表⑩御神酒⑪鏡餅⑫社参入、 ては両当屋の親戚が餅つきなどで当屋の補助を務め である 。 この JI[~ に会館前に並び出発する 。 に変化をしている たが、数年前から集落内の組が交代で補助をする形 神社に到着すると 玉串、御神書、御幣などを本殿 2 0 0 7年には 2月 1 1日がオコナイ前日にあたり、わ 前に奉納し、 一同は拝殿に着席する 。 宮司による祝詞、 れわれが現地に着いたころには餅つきが行われてい 御被い、献膳ののち玉串の奉納が行われる 。全員 が た。餅を含む供物は前当、後当がそれぞれ用意する 。 終わると、宮司と禰宜は本殿に行き、宮司が禰宜に 作業はかつて各当屋の自宅で行われていたが、現在 オンベ ( 御幣)を渡す。禰宜はオンベを本殿、左、右、 では集落の中央にある公民館が会場となっているた 左の順に振る 。禰宜が 「 頭人これへ」 というと、頭 め、午前午後と時間をずらして行われている 。 人は拝殿と本殿を結ぶ廊下に着座する 。禰宜は御幣 餅は野外に置かれた臼で 4本の棒でっかれ、でき を頭人にふり、御幣の棒で床をトンとっき、 「 大願 あがると 「 エト一、エトー 」 と声を掛けながら屋内 に運ばれる 。 オトウと呼は、れる大きな餅は、オコワ 成就おめでとう」という 。 この所作はオンベフリと 呼ばれ、志賀谷のオコナイ行事の中核といわれてい という曲物に入れられ上下に 2本ずつの棒をあてら る。終了するとオンベを本殿脇に戻し、撤僕し儀式 れひもで縛られる 。 このほかに 三つ叉の棒に餅をつ は終了する 。参列者にはカワラケの盃が配られ、お けたハナモチ、鏡餅 3つが作られる 。 またこのほか 神酒をついでそれぞれ飲み干したのち 1 2時ごろに 一 特筆すべきものとして粟餅およびムカゴサシが作ら 旦散会する 。 れている 。粟餅は精米に粟をまぜて掲き平たく延ば オコナイ組の組員は会館で昼食後、午後 1時3 0分 して、菱形に切ったものである 。 またムカゴサシは ごろから餅聞きの準備を始める 。座敷の中ほどに扉 藁束に細く割った竹を刺し、そこに四角く切った大 風が立てられ、下座中央には大きな板の上に御鏡餅 根やニンジン、黒豆などを刺したもので、竹畿はし が載せられる 。餅を切るための餅切りと呼ばれる刃 物と鎌も用意される 。午後 2時が近づくと禰宜饗応 が社務所に禰宜を迎えに行く 。禰宜は御華の枝を一 本もって会館の座敷に入札床の間にそれを置く 。 しばらくすると扉風がよけられて、禰宜は下座の鏡 餅のほうに移動する 。鏡餅をはさんで上座に禰宜、 下座に頭人が座り、鏡餅の真ん中に藁を 一本置き、 それにあわせて禰宜が鎌で餅に筋を入れる 。 これが 終わると厚手風を元に戻し、再び、禰宜は上座へと戻る 。 下座では鏡餅をはじめ、小社に供えた餅などを氏子 の数の倍数になるように切る 。完成すると餅数個を 藁でくくり、まずーっを禰宜が検分する 。 これが終 わると禰宜は社務所に戻る 。切られた餅はその日の 40 ・人間文化 写真 4 拝殿にさげられたムカゴサシ(集福寺) 湖北のオコナイ調査かう見えてきたもの だれ柳のようになってとても美しい。 これもその名 から分かるようにかつてはムカゴを刺していた。集 福寺ではかつて焼畑が行われており、ムカゴや粟な どの神僕への利用はその名残と考えられる 。 私が見学したときには女性が餅を掲いたり、また ムカゴサシにも参加していたが、これはこの年が初 めてだという 。以前は女性は賄いだけを担当 し、供 物の調整に参加することはなか った。 また後当はこ れらのほかにヨンボ飯とよばれる台形に盛 られた飯 を作る 。 これは型にあわせて作られ上に豆腐、ヨン ボの芽、ワラビなどが置かれる 。 翌 日の朝、 9時ごろから人々が集まりはじめ 、供 写真 5 用意された本膳の料理(磯野) 写真 6 本膳での盃ごと(磯野) 物を縄でくくり運べるように準備し始める 。公民館 から神社へ供物を持 って行列するが、この時に特色 があるのは銚子などをいれた曲物桶を女性が頭上運 搬することである 。神社は集落の一番高い場所にあ るが、到着すると花餅は拝殿前に立て、またムカゴ サシは柱に吊りさげ、他のものは拝殿に供える 。拝 殿に役員などがあがって神事が行われて午前中で行 事 は終了する 。午後にはオトウの分配が行われる 。 7軒に餅が切られるが、そのときには上下の棒 集落 5 のあとが少しでも入るように餅を切ることにな って いる 。 ③高月町磯野 磯野は平野部の集村で毎年 2月中頃に赤見神社の ¥1主が訪れ、精米を蒸す が行われる 。両頭屋の家にネ1 行事 としてオコナイがおこなわれている 。志賀谷や 竃の前でお蔽いをする 。今はガスで蒸すことが多い 集福寺ではオコナイ前日の準備は公民館などでされ のでこしきを 祭壇 に供えている 。 この神事が終わ っ るようになってきているが、磯野では現在も頭屋の たあとで内緒餅という餅が鳴かれる 。 これは神事に 家が会場である 。磯野は集落内を膳所組と淀組にわ 使われる以外の餅という意味だろうか。頭屋の家の け、それぞれに頭屋をきめ組員がそれを補佐するこ 女性が手伝 ってもら った家に配るという 。 とになっている 。組オコナイになったのは昭和 2 5年 翌日は早朝から餅掲きや料理作りが行われる 。磯 ごろのころで、それ以前は頭屋の親戚が補佐をして 野のオコナイの最大の特色は午後に 3時間もかけて いた。ただ磯野の親戚の 中にはトナリ シンルイと呼 行われる本膳にある 。 これはいわば宴会であるが、 ばれる近隣組織の者が含まれている 。 出される料理もすべて決まっていて非常に儀礼的な オコナイ前日 ( 2 0 0 8年には 2月 1 1日)、膳所組と 面が強い。午前中にその準備をするのである 。餅は 淀組の頭屋宅で餅掃きが行われる 。早朝から嬬米を たくさん揚かれるが中心となるのはオカワという曲 組員が 1升ずつ持ち寄り、蒸し方、酒方、小豆方な 物に入れられる 1斗 2升の大きな餅である 。 またオ ど準備の役割をくじで決定する 。中心になる亭主方 ハシという柳の木を切ったものも用意される 。 この という役割は頭屋のオモシンセキ 二人が担当するこ オハシが磯野のオコナイでは御神体としての位置づ とにな っている 。 また米を集めたり量ったりする米 けをされている 。 また本膳ではなんども吸い物餅と 方も親戚が勤める 。今は米を洗う米かしは水道でし ているが、以前は集落内を流れる 川で、洗っておりそ チという小豆 を固めたものを湯で溶かし、それに餅 の場所も決まっていた 。午後 4時からはかまど被い を入れたものである 。ただ砂糖をあまり入れないの いうぜんざいのようなものが出るが、これはカネモ 人間文化・ 4 1 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの でぜんざいほど甘くはない。 このカネモチもたくさ 0時ごろには座敷に扉風を 立て 、そ ん用意される 。 1 の前に一同が並んでみんなで吸い物餅を食べる儀礼 があるので、このカネモチは磯部のオコナイのなか でも特殊な位置づけを付加された食べ物であるとい 1時半頃に一旦終了し、そのあと共同 える。準備は 1 作業場に両組が集まってエピ作りが行われる 。エピ とは葉で作った大注連縄のことで、オコナイのあと これをオカワにつけて新しい頭屋の家で一年記る こ とになっている 。 午後 2時半に集合のための鉦がならされ、午後 3 l 時より頭屋の家で本騰が始まる 。組員は全員羽織袴 写真 7 花嫁行列(磯野) で集合、区長 ・氏子総代が一番上座に座り、他はほ ぼ年齢順に着坐する 。 まず亭主方の挨拶ののち、 一 同で酒を飲み、ついで、膳の皿に牛薬が配られる 。つ の組員や頭屋 ・花嫁もこれに続き、神社に供物を供 いで吸い物餅(カネモチ)・酒(切り銚子と呼ばれる )・ どの問で盃事がおこなわれる 。 1 1 買香で酒肴が出される 。 鯖鮪など、予め定められた ) えて参拝する 。ついで神社の拝殿では総代と区長な 少し聞をあけて 9時になると宮司が神社に来て、 これにはすべて亭主方の挨拶がある 。鯖絡は損鯖を 拝殿で区長や総代と翌年の頭屋を決めるくじをヲ│く 。 野菜などと 一緒に漬けたもので、少し麹が入 ってい る。鯖絡に次いで、合間差しが出される 。 これは大根 前を 書いた紙を丸めて入れておく 。宮司は御幣でな 三宝の上に塩を入れた皿を置き、その中に組員の名 と海老を炊いたものや、かまぼこ、あゅのあま炊き で付着した紙のものが頭屋となる 。区の役員 2名が などのおかずである 。ついで吸い物餅が 2回出され 頚屋となった家に報告にいく 。その家ではそれを 受 る。味があ っき りしているとはいえ、餅がいくつも けて宴会がおこなわれ、また大役を終えた今年の頭 入っているので、このころには随分とお腹がふくれ 屋宅でも手伝 ってくれた人をねぎらう宴会が催され てくる 。 41 時すぎになると祝儀酒の礼がおこなわれ る。 る。 これは亭主方が地区から j 酉を出してもら ってい 翌日は朝から新頭屋の家で鏡開きが行われる 。家 ることに対する礼を述べることで、亭主方と区長が の数にあわせて餅が切られ藁でくくって各家にと配 酒をすすめあい最後は区長がいただく 。そのあと引 られる 。 また鏡餅を巻いていたオカワは締麗にあら 吸い物がだされる 。 これはゆでたまごとかまぼこを われて、オハシや大しめなわと組み合わされてエビ 入れたおすましである 。 これが出ると亭主方は謡曲 酉が絶え間なく注がれている 高砂を謡う 。 この問、 j 所の長押の上にかけかえられ、翌年のオ コナイま で ので、当初は厳粛で、あった座も随分くだけた雰囲気 頭屋の家で御神体に近い意味をもってまつられるこ になってくる 。区長が 「おさかなを Jとい って督f 足 すると、組員が次々に余興を披露する 。 5時半ごろ とになる 。 挟み肴とよばれる切った大根が出される 。 これが一 ④長浜市名越 応本膳の最後の献立で、そのあとお茶が出され、 亭 主方が挨拶をして本膳が終わる 。 が作られる 。 これは一旦床の閣に飾られるが後日台 長浜市名越は市街地から東に 3キロほどはなれた 場所にある集落で、集落の東は低い山地にな ってい 磯辺のオコナイは近在では嫁オコナイとして知ら る。北野神社が村の神であるが、明治天皇の巡幸 を れている 。 これは組員の一人が花嫁衣装を 着て、頭 契機にあらたに鎮座した後鳥羽神社も集落の東側に 屋と夫婦に扮し神社まで行進するためである 。鏡餅 などを戸板にくくりつけると、それを 4人の組員が あり、両者の祭事1である菅原道真 と後鳥羽上皇の掛 i。 け軸がオコナイのときにも掛けられている i 担いで外に勢いよく飛び出していく 。 この日は大雪 長浜市名越のオ コナイの中心になるのは前年のオ であったが、集落内を駆け回り、鳥居の前でもう 一 コナイでのくじ引きの結果決められた 6人の宮世話 組の鏡餅と合流して神社へと入る 。供物をもった他 である 。各宮世話は一年間の神社の行事を 2ヶ月交 42 ・人間文化 湖北のオコナイ調査かう見えてきたもの 写真 8 完成した餅花(名越) 写真 9 j 卦け軸と供物(名越) 替で勤める 。その最後で最大の行事が l月中旬にお ついでくじを宮司がヲ│いてそこに書かれた名前が こなわれるオコナイである 。名越では昔から頭屋の 次々に読み上げられる 。 くじは神社にあるおみくじ 制度はなく、オコナイは名越会館で行われてきた。 に似た形態のものであった。以前は一番くじのもの 会館は民家と同様に回の字型の 4間取りであるが、 は花宿と呼ばれ、巡幸の ときには全員でそ こに押し ふすまをすべて取り払って行事が催される 。本年 1 かけ花酒と呼ばれる酒席が設けられることとなって 月1 7日の朝 8 1 時に我々が現地に到着した時にはすで いたが、今年からこれは廃止されることになった。 に会館の土問で餅つきが行われていた。 それまではくじ引きのあと急いで、部屋を片付けなけ 名越のオコナイの最大の特色は桜の木を使った立 ればならないので、 準備が随分大変だ ったようだ。 派な餅花で、この日の作業の中心はこの餅花作りに 宮世話全員が決定すると自治会長 ・氏子総代 ・旧 ある 。 これは高さは天井に届くほど、 1 隔は 4 m程度 宮世話 ・新宮世話の順に玉串を奉納する 。そのあと もある立派なものである 。先端には榊の繋がつけら 巡幸の準備をして、参加者は集落内の道を餅花や鏡 れる 。 また翌日の巡幸用に小さな餅花も作られる 。 餅などをもって鉦をたたきながら廻る 。道筋はオコ 餅つきなど準備は宮世話を中心に集落内の人々が参 ナイ道と呼ばれて決ま ってい るが、不思議な ことに 加するが、他地区でみられたオコナイ組のような組 集落内を大きく廻るだけで北野神社にも後鳥羽神社 織はない。餅掲きは昼ごろに終了し、午後 2時には にも参拝せず再び名越会館へと戻る 。会館では布1棚 供物が供えられる 。掛け軸が 2つあるので供物もそ の前に宮司・自治会長 ・総代 ・今年の宮世話 ・来年 れぞれに同じものが供えられる 。以前はこのあと歌 の宮世話が並び、まず見布茶をいただき、ついで盃 会が開かれ、優秀な作品が短冊に書かれて餅花に吊 事がおこなわれる 。神主 ・区長 ・旧宮世話 ・新宮世 されていたがこれも今年から中止になった 。 この歌 話・ 氏子総代のI } 煩に酒を飲み、ふたたび宮司に戻る 。 会の行事も後鳥羽上皇が歌に秀でていたことにちな 宮司は j 酉を飲み干したのち「おさめさせていただき むという 。 翌日がオ コナイであるが、名越では朝 8時から集 ます」 といって盃を戻す。宮司の挨拶があって神事 は終了する 。そのあと新宮世話によって鏡餅と餅花 落全戸から l名ずつが会館に集まって宴会が催され が切られる 。 これは子どもによって各家に分配され る。神事に先立つて宴会をすることも特色といえば ることになっている 。 特色であろう 。上座には 地区の役員や宮司が座り、 他の人は順不同に座る 。宮世話は酒の給仕などの世 3 . 地域性と共通性 酉の準備などをするが、 j 酉 話をする 。台所で女性は j は宮世話が座敷に運び、女性が座敷に入ることはな 以上、湖北 4集落のオ コナ イの様子を駆け足で眺 めてきた 。湖北のオコナイの特色として 冒頭 に述べ い。宴会は 1時間半程度続き、 9時半から神事とく た、神社を中心とした行事であること、餅が重要な じが行われる 。総代が挨拶をすると机や騰が片付け 役割を担うことなどの特色はいずれの集落でも観察 られ、そのあと宮司の祝詞やおはらいが行われる 。 することができたが、その様相は一様で、はない。神 人間文化・ 43 湖北のオコナイ謂査かう見えてきたもの 社の行事であることはいずれも強く認識されている したい。オコナイが年頭にあたってのムラレベルで が、名越では会館から出発する巡幸は神社には向か の農耕儀礼であることは、餅を主体としたその供物 わず会館へと戻る 。 また他の事例においても神社で に象徴されているが、それだけにそこには各集落の の儀礼は比較的簡潔で、あり、むしろ供物の調製に行 自然・生業環境が色濃く投影される 。 山間のムラで 事の主体が置かれている感がある 。磯部では社参に ある集福寺ではかつての焼畑が営まれており、ムカ 先立つ宴会が、オコナイの大きな部分を占めている 。 ゴサシやヨンボ飯、粟餅といった供物はその時代の オコナイにおける餅の象徴性については、これま 名残であると住民は認識している 。 また志賀谷の御 での研究が指摘してきたところだが、個々の事例に 華で用いられる俸と裕、磯部のオハシにおける柳、 照合するとその内容はこれも多様である 。志賀谷で 名越の餅華の材料である桜と榊などの植物はそれぞ は大きな鏡餅が作られるが、かつてはこれを担ぐの れの集落周辺の植生と深く結びついている 。 このよ に力士を傭ったという 。集福寺では餅をおさえる棒 の跡が分配の際に重要視され、また磯野では餅をか うな環境民俗学的側面からオコナイを見る視点も今 後は必要だろう 。 こうオカワが御神体として頭屋の家で一年間祭把さ れる 。 これは餅の神聖性が道具にまで及んで、いると 4. オコナイと「改革」 考えられたためであろう 。オコナイでは鏡餅以外に 湖北のオコナイは著名な祭りであり、古くから多 も多くの供物が用意される 。志賀谷では棒と格、から くの調査が行われてきた。戦前には肥後和男の大規 なる御華が作られるが、これに似たものは、名越で 模な調査があり、その後も井上頼寿や中津成晃の綿 は餅花として桜の木と榊で作られ、集福寺では大根 密な調査がある 。近年では博物館の展示や市町村史 ゃにんじんを用いた華麗な供物ムカゴサシが用意さ でこの行事が取り上げられることも増えてきている 。 れる 。同時期に各集落で催されるオコナイでは、他 われわれもこのような先行研究を読んだ上で現地に 集落との競合の心情がおのずから発生する 。 より珍 赴くのだが、そこで目にする行事の様子 と文献との ししより美しい供物をという村人の心情が、集落 ごとの個性ある供物の背景にある 。 差 に驚かされることが多い。いずれの集落において さらに志賀谷の牛王の木、磯辺のオハシなどはこ 事を変えていくことを地元では 「 改革」 と呼ぶ。オ も近年オコナイは大きく変容している 。 オコナイ行 の行事がはるか以前に帯びていた仏教的な要素を想 コナイは地区の行事であるため、自治会内に委員会 起させて興味深い。牛王の木に入れられた刻み目に をつくって改革の原案を作成しそれを総会にかけて、 は「午王宝印」と書かれた紙が折りたたんで入れら 行事内容を変えているところもある れるが、 ーイ本どのような目的でこのようなことをす る必要があるのだろうか。 改革の内容は、各集落のオコナイの特色に対応し て実に多彩であるが、大きく、①経済的・日程的な 今回紹介した 4 集落は現在、住民の大半が浄土真 省略(力 )化 、 ② 執行組織の地縁化、 ① ケガレ観念 宗の檀家となっている 。浄土真宗地帯においては特 の除去、 ④行事場所の公共空間化、の 4点に整理で 色ある民俗行事は少ないということがよくいわれる 。 きるかと思う 。 しかしながら湖北のオコナイ行事 を見るかぎりでは、 オコナイ行事の主体はいうまでもなくムラである このような言説にそれほどの根拠がないことがよく が、その中で交代制で祢宜や当屋などの役が割り当 てられる 。今回みたいずれの事例でもこれらの役は わかる 。湖南の事例と比較すれば、湖北においても 真宗の教線が普及する以前には密教系寺院でオコナ くじ、すなわち神意によって割り当てられており、 イ行事が執行されていたことはまず間違いがないだ その意味においては平等であるが、実際に担当する ろう 。真宗の普及によって多くの寺院が真宗化した 者にとっては大きな負担となる。かつてはどの集落 とき、住民には従前からおこなってきたオコナイ行 でもオコナイの準備に数日を要していたが、サラ 事をやめてしまうという選択肢もあったはずである 。 リーマン化が進む現代では、オコナイの日程を休日 しかしながらオコナイは神社行事として今日に引き にあわせ、さらにその準備日数も大幅に短縮しなけ 継がれている 。浄土真宗と民俗をめぐる相関につい ればオコナイ自体の存続が不可能である 。 また当屋 の負担は多大で=あるため以前は親戚集団がこれを補 てはさらに考察を深める必要があるだろう 。 またオコナイと各集落の自然・生業環境にも注目 4 4 ・人閤文化 佐したが、これも難しくなり多くの集落では地縁的 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの なオコナイ組を組織してその役に当たる形に変化し ている 。このような動きは 昭和 3 0年代に顕著になる 。 学 1 9 3 8年 井上頼寿 『 近江祭礼風土記j 臨川 書庖 1 9 6 0 年 雪そして花j 市立長浜城歴史博物 今後、集落の高齢化がさらに進めば、またあらたな 『 湖北のまつり 組織編成が必要となる 可能性がある だろう 。以前は 館 1 9 8 6年 『 近江のオコナイ j 市立長浜城歴史博物館 当屋にあたると家を改築する 必要があったという話 1 9 9 0 年 も各地でよく聞くが、準備や行事の会場も当屋宅か ら公民館などに変化している例が多く、また当屋や 材、宜の肉食や夫婦同会 に対する 厳しい禁忌も次第に 和らぎつつある 。 学生を同伴するオ コナイ や宮座儀礼の調査で、教 員である私にとっ て結構悩ましい問題は女性の参与 の問題である 。以前は女性の見学も難しいことが多 かったが、近年では この面でも随分緩和されてきて いる ( 地域によっては今も女性の見学を拒否される こともある 。 ) 集福寺で は餅捻 きやムカゴサシを女 性がする姿をみて、私も少し驚いた。 この問題につ いては私が調査を始めた頃と 比べても大きく変容し てきていることを感じる 。 以上、近年のオコナイの変化について雑然と述べ てきたが、改革の経緯を聞き取りや自治会の文書な l 調査の結果は次の文献に報告している 。 r i t t賀県米原市志賀谷の民俗』近畿大学文芸学部民 俗学研究室 2 0 0 6年 2 集福寺のオコナイについ ては次の研究がある 。 和田光生 「 初春の まつり 近江湖北のオコナイ ー 」 八木透編著 『フィ ールドか ら学ぶ民俗学 j 昭和 堂 2 0 0 0年 3 名越のオコナイを含む民俗については次の報告があ る。 福田アジオ編 『 名越の民俗』神奈川大学大学院歴史 民俗史料学研究科 2 0 0 8年 4 志賀谷のオコナイの変容については以下の文献にま とめたことヵ=ある 。 市川秀之「米原市志賀谷 におけ るオコナイの変容」 輯 2 0 0 7年 『 近江文化財論叢』第 2 どで細かくみていると、住民が何を残そうとし、ま たなにを省略可能と 考 えているかがよ くわかる 。鏡 餅や御華などの象徴的存在はたと え規模が小さく なってもあくまでも残そうとし、そ れ以外の部分に ついての変容には比較的寛大で、ある 。 オ コナ イ改革 は、当屋などの負担を可能なかぎり緩和し、集落レ ベルでの負担の分散 ・ 均等化を意図したものであり、 それによ ってオコナイ行事自体の存続を意図したも のといえる 。近年のオ コナイ の変容は著しく、ここ 数年間で中止にいたった例も 耳にするようになった。 ただオコナイがこのように変化することを近代以降 の特質とし、それ以前には不変の姿で行事が伝承さ れていたとすることもまた即断で‘あろう 。 どの時代 においても不断の改革 によ ってオコナイ は今日に伝 承されてきたというの が実際のところ ではないだろ うか。 私のオコナイ調査は今後も続くが、その焦点はオ コナイを継続してきた 「 改革」の歴史にまずは向け られるべきであろうと今は考えている 。 文献 中i 李成晃 f 近江の宮座とオ コナ イj 岩図書院 年 肥後和男 1 9 9 5 f 近江における宮座の研究j 東京文理科大 人間文化・ 45 史料紹介 近世近江の太鼓張替史料 墨書銘と請負証文 中島順子 人間文化学研究科地域文化学専攻 日本地域文化論大学院研究生 はじめに 滋賀県は民俗文化 の宝庫と 言われ、とくに太鼓を 使う民俗行事 ・芸能が数多く継承されている 。太鼓 ここでは、近世近江に存在した太鼓職人の、 墨書 銘や証文を先行研究で明らかにされているものも含 め紹介したい。 は、皮が損傷すると張替えられ、 2 0 0年、3 0 0 年と長 期にわた って使われてきた。太鼓屋 は張替えを通し 一墨書銘 て、音のよく響く太鼓に生まれ変わらせ、伝統的な ( 1 )太鼓屋で確認した墨書銘 民俗行事 ・芸能 を支えてきたのである 。現在、滋賀 写真 1-5は、愛荘 町の太鼓屋で確認した墨書銘 県の多くの太鼓を張替えているのが愛知郡愛荘 町に の一部である 。墨書銘の中には近代のものも見られ、 ある太鼓屋である 。 近世から近代へと太鼓屋の存続が確認できる 。 しか 張替えに持って来られた太鼓から、胴内に記され し 、 ここ では張替え年のみを記し、太鼓屋 の所在地 た墨書銘が見つかることがある 。太鼓職人が張替え や職人銘は省略する 。 年と自身の名前を記している 。名前とともに花押 1 写真 1 を記す太鼓職人もいた。墨書銘は、近江の太鼓づく 蒲生 町の寺太鼓で、 口径約 7 3 c mの縦ぐり 2の太鼓 りの歴史や特徴の解明に重要な史料である 。しかし、 である 。J同内に七つの墨書銘が見られ、 最 も新しい 張称え時にしか確認できず、張替えも数十年間行わ ものは 「明治参拾弐年」である 。 れないため研究はそれほど進んではいない。 ① には年号がなく、 ② から少しはなれたところに 現在確認されている墨書銘のほとんどは近世太鼓 記されていた。字体はちがうが、 ① ②は橋村理兵衛 職人のものである 。 また 、張替え時に太鼓職人が出 銘である 。 このことから① は、同年に製作した太鼓 した諮負証文も 確認されている 。そのことから、近 二つの 内ーっと 読み取れないだろうか。③は、京天 世には多数の太鼓職人が存在したことが分かる 。 辺で作られた太鼓を最初に張替えたと思われる愛知 ②1 697年 ③ 1744年 愛知郡川久保村 太鞍 や 四郎兵衛 延草元年 子+一月 フ 亡 禄 拾 太京丁 紘天丑 橋屋部年 村西二 理町月 兵酉吉 衡 が日 ( わ 花 押 写真 1 墨書銘 46 ・人間文化 u - 年 ① 一 蒲生郡野口村 卯十 一月吉 日 太鞍屋長次郎 安 政 一明冶参拾弐年 一 。 時 一乙主拾弐月吉白 ⑥1 855年 近世近江の太鼓張替史料 墨書銘と請負証文 宝暦三年 京たいこ屋 酉丸月六 日 橋村理右ヱ ( 衛)門口 一宝 永 五 年 年 一子ノ三月吉日 一 京=一条 口部 げ一 山 間 た いこや 橋村理右ヱ ( ①一 衛)門 ③ 1777年 ② 1753年 写真 2 墨書銘 郡の太鼓屋である 。④の儀兵衛の花押は大きく力強 また、神埼郡・愛知郡 ・坂田郡のどの太鼓職人も く記されている 。⑤は胴の外側全体に大きく記され 花押を記している 。 ている 。 「湖東愛知郡」の右に 「 安永四乙未稔 J 暮 写真 4 r 穐仲 i 幹」とある 。張替え月でなく季語を記している 。 @ は紙に記したものを貼り付けてある 。 この太鼓の張替えは、愛知郡と蒲生郡の太鼓屋が 交互に行っている 。 写真 2 日野町の神社の太鼓で、口径約 3 0c m高さ約 4 5 cmの 縦ぐりの太鼓である 。小さい太鼓であるが胴内に四 つの墨書銘が確認できた。 湖東町の神社の太鼓で、 口径 1 05 c m高さ 1 0 7 cmと大 変大きい太鼓で、胴内は細く整った横ぐりである 。 四つの墨書があるが、ここでは近世の二つを紹介す る。 ① は注文主の名前まで記されている 。 「仲春」 と いう季語を用いて製作年を記している 。その後 7 年 と比較的早く張替えられている 。 この太鼓には太鼓職人銘のほかにメモのような内 1 7 0 8( 宝永五)年に京都で作られ (①)、4 5年後に 容が記されていた。⑤⑥は歌口に沿って互いに向か 同じ太鼓屋よって張替えられている (②)。③ は儀 い合う形で記されている 。墨書銘とは直行するよう 兵衛と同じ林村の太鼓屋で、④は林村と同じ務生郡 な位置関係にある 。年月が記されていないが、胴に の太鼓屋である 。④の墨書銘は他の 三つとは逆の方 ついて記されたものではないかと思われる 。⑤は湖 向に記されていた。 西の今津から上埜勘左衛門あてに出された八つのう 写真 3 ちの一つの胴で、⑥ は京都矢背の長左衛門が持って 五個荘の神社の太鼓で、口径約 7 8 c m高さ 1 0 5 c mの いたということになるだろうか。⑦は胴の外、歌口 やや大きい太鼓である 。胴は縦ぐりで、中に八つの 辺りに記されていた。皮を張り鋲を打てば隠れてし 墨書が確認できた 。一番新しい張替えは 「 昭和五年 まう所である 。 /五月吉日 Jに行われ、鋲で留めた太鼓の皮に記さ れていた。 墨書は、胴内の上下に分かれてび、っしりと記され ている 。 また、七つのうち①、⑤、 ⑦ は他のものと は逆の方向に記されてい た。 この太鼓は湖西、京都、若狭を旅したようだ。太 鼓づくりにかかわる流通・交流の範囲を示している と考えられる 。 写真 5 近江八幡の寺太鼓で、口径6 6 c mの縦ぐりの太鼓で ① ・② は 「 寛政六年」の同年の墨書である 。①は ある 。 これまで確認した太鼓に比べると、くり方は ②の右上に逆方向に記さ れていた。神埼郡の神社か 荒い。二つの墨書銘が確認できるが、うちひとつは ら注文を受け、太鼓屋久次郎が新調したことを示し 「昭和参年 J林村 」の太鼓屋の墨書である 。 「林村」 OJ 内の 「二」 は屋号だろ ていると考えられる 。 r では昭和初期まで太鼓の張替えが行なわれていた 。 うか、不明である 。 r 以上、五つの太鼓の墨書銘は、いずれも達筆で力 人間文化・ 47 近世近江の太鼓張替史料 墨書銘と請負証文 ① 1794年 z z ② 1794年 ①璽 塗神六 若部崎年 五此大江主 拾筒級品¥ 1皮 屋 坂 官 柄諸久田 7 之事次郡L 内新郎甲高 見作(田± 新郡寅 〔口 七 宮村 月 社 門 カ 直日 之 出也花村百 し押】 ④ 1814年 @ 1834年 高江午~ 太神文 鼓埼化 太野州正事 藤屋郡+ 競瀬愛月~ 屋邑知下ヰ 治郡旬 草壁日 富邑空 語ぷ 4ヒ 押 年 民 氾 ⑥ 一安政二一辰三月日 神崎郡檎居村 一 一 善史家太鞍師源六張 二而(花押) 一 ③ 1880年 ⑦ 1866年 慶 江容 ふ 刀 盆嵩寅 御師居春 細源村吉 T プ モ 祥 高 i~ 兵 衛 日 . . ー 『 明 , , . ' ロ + 年 辰 十 月 写真3 墨書銘 強い筆致である 。花押も大きく記されている 。 これ 確認している 3。表 1は、古川の収集した墨書銘や らの墨書銘から、写真 1 ・ 2の太鼓は約 3 0 0年前の 各地の民俗芸能調査などの資料集から、太鼓 2 4台の 0 0年前、写真 4 ・ 5の太 太鼓、写真 3の太鼓は約 2 墨書銘を 一覧表にしたものである 。墨書銘のなかに 鼓は約 1 5 0 年前の太鼓である。何回も張替えられて は近代のものも確認することができるが、ここでは 使われてきている 。 張替え年だけを記し太鼓職人名は省略した。 このほかにも、太鼓屋所有の胴には、「寛文十二 年/子八月八日 京天部/中西町/太いこや/橋村 また、墨書銘は数行にわたって記されているもの である 。改行についての表記は、資料集などによっ 理兵衛(花押 ) J の墨書銘があった。 また、張替え て異なるため、収録されている通りに転載した。 し 年は削 られたようなあとがあり不明であるが、 「の ら田村/たいこや/六右衛門」の墨書銘が確認でき たがって統ーした形式にはなっていない。 た 。 面張替えと考えられる 。張替えた面に対して書き込 んだと思われる 。 ( 2 )先行研究より整理した墨書銘 墨書銘の調査を進めている古川は多くの墨書銘を 4 8 ・人間文化 墨書銘のなかで、逆方向に書かれているものは片 注文主や胴製作者が記されている太鼓もある 。④ 近世近江の太鼓張替史料 ② 1 862年 ①1 855年 安政瓦辰仲春吉祥日 神埼郡楠居邑 太鼓屋源六(花押)作人 御若頭世話方求之 徳兵衛 源兵衛 輿兵衛 佐兵衛 善次郎 正 成 湖四 車月 横吉 居日 太村 ③ 1 956年 召 自 和 参 十 宅E 一 0 1996年 平 成 J ¥ 年 五 年 月 四 三乞 月 日 主 師 源 張 替 江州 ノ J 京 矢 背 蔵八出 御八ツ之内 西湖今津震 r¥士 長 駒 (1 )) ~~左霊 屋 門 若品名目之庄江 弐+七者ん ⑥ ‘ 上埜勘左衛門殿 ⑤ 文 久 墨書銘と請負証文 持 写真4 墨書銘 ① 1859年 嶋八未安 之幡八政 郷山月六 吉年 ふ 小 4リ キキ 権兵衛 (花押) 祥 写真 5 墨書銘 人間文化・ 49 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 表 1 先行研究などで確認されている墨書銘 5 0 ・人間文化 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 ⑦坂本付近の太鼓 . 1c m -口径64cm晶さ 81 1803 字和三年亥一月吉田 江州志賀郡坂本八木山太鼓司 〔 1825 文政八歳乙酉正月吉日 江州志賀郡坂本八木山太鼓屋文四郎 ( 花押) 1840 天保+一子二月 西湖坂本八木山太鼓屋文四郎 ( 花押) 1846 弘 化 ニ 巳 月 吉 日 西湖坂本八木山太鼓屋文四郎 ( 花押) 〕人文四郎 [ J( 花押) 1873 明 治 六 年 酉 六 月 ③串良町域のと恩われる太鼓 4 c m i 告さ 80.8cm -口径6 -縦ぐり 1824 文政七年甲一月吉田 江州犬上郡竹之内村太殻屋太郎右ヱ門 1858 安政五捻午六月吉田 犬上郡竹之内村太鼓屋太郎右ヱ門 〔 1893 明治弐十六年五月拾七日 -口後58cm局さ ③竜王町にあった太鼓 ( 貼り紙) 70.5c 冊 江州八幡嶋之郷林村 1849 嘉永一酉=月仲旬 枚川上 張主山城屋甚六 1888 明治ー十一年十一月吉日 ⑬彦根市内寺の太鼓 -口径' 5 4 . 0 c m品さ 68.0cm 1830 文政拾参年寅ノ三月 ⑪筒J I I 瀬の太鼓 -縦くり 施主本町丁子屋平六漆屋長五良 ( 外面墨書) 坂田郡甲田村枝郷太数屋弥二郎買出し -口径 150cm 1856 安政二年辰之二月吉日 愛知郡野良田村 1863 文久三年実亥九月吉日張替 江州愛知郡晶野瀬村 太鼓屋六右衛門 1866 慶応一年丙寅二月 江州〔 太鼓屋口口(治平カ ) 1875 明治八歳亥之ニ月吉日 -・・. ( 年不詳) 甲田村弥ニ良 1897 明治二十一年弐月 1925 大正姶四年弐月 1955 昭和参拾年参月 ※は他の墨書とは逆方向に記入されている。 -横ぐり -口径66cm品さ 5 . 5 c m 天部/たいこや/理兵衛/極月廿一日 /奉辛進大競ー尺一寸/).工州野洲郡野村庄/堀端 弥右衛門尉常住物也/城州愛宕郡/京三候天昔日村/たいこや /橋村理兵衛 ( 花押)/閑 1656 明暦二/丙 申 歳 文六 ( 花押) ※1749 寛延二年/巴九月吉田 江州蒲生郡八幡山/嶋之郷林村太鼓や/儀兵衛/ ( 花押) ⑫蓮長寺 ( 中主町)の太鼓 1773 安永一美巳六月日 八幡嶋之郷林村/太鞍屋七郎兵衛 ( 花押) ※1792 寛政四子七月吉日 江州八幡嶋之郷/林村太鞍屋/儀兵衛/ ( 花押) 花押) ※1816 半口張替/文化十二年/子七月日 嶋之郷/太鞍屋/七郎兵衛/ ( 1830 文政+.=年/寅=月吉田 江州八幡嶋之郷林/太鞍屋/七郎兵衛/ ( 花押) 1854 子時嘉永七甲寅歳七月十七日 八幡嶋之郷林村山城屋権兵衛/太鼓半ロ細工因張之/野村江来張之 ⑬ B枝神社 ( 彦根市)の太鼓 -口径 45.5cm晶さ 51 .5cm -横ぐり 1665 寛文五年/八月吉田 京たいこや/橋村理右衛門 ( 花押) 1755 宝暦五乙亥年/一月日 神崎郡川しり村/たいこや利兵衛 ( 花押) 1765 明和一年/乙酉一月日 川尻村細工仕候/たいこや/利兵衛 ( 花押) 1816 文化+ニ年/子一月吉田 江州愛知郡/野良田村/太鞍屋/六右衛門 ⑬姉川汚口付近の太鼓 -口径61.0cm晶さ 68cm 1693 冗禄六年/酉ノ九月吉日 -横ぐり 西がわ/たいこや/橋村理兵衛 ( 花押) 京天音E ( 荒胴製作者の可能性が考えられる) 京/利兵衛/上市/助十 江湯浅井郡/大井村太鞍屋/太郎四良 / ( 花押) 1754 賓暦四歳/成二月吉田 宗祖大師六百五十回忌/大正姶壱 1922 年/弐月吉日 比留困の太鼓 ⑮中主田I -口径38.5cm晶さ 45cm -縦ぐり 1766 明和三歳/成七月吉日 尽ニ僚天部/太鼓屋/橋村理右衛門 ( 花押) 1806 文化ニ歳/寅六月吉日 江州蒲生郡/八幡山高之郷/林村/太鼓屋/儀兵衛(花押) ⑮大津市千野の念仏太鼓 1824 文政七申七月 泉 三 候 大 橋 東 ニ 丁 目 下 ル 西 之 町 西 世I j天 部 村 太 鼓 源 橋 村 理 兵 衛 綱 友 ( 花押) 人間文化・ 5 1 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 1855 安政二年七月卯吉田 西湖坂本八木山太鼓屋文四郎 ( 花押) ⑫五個荘町立歴史民俗資料館の太鼓 1 ~ 74cm品さ 85cm -口径 7 -検ぐり 西がわたいこや/橋村理兵衛 ( 花押) 京天宮E 1709 宝永六年六月 1716 正徳六年申ノ壬二月 のら田太こ屋/六右衛門 1728 字保+ニ年十月 不明 1750 寛延ニ年正月 神崎郡栗見之荘田口村太鼓[屋 1817 文化十四年 不明 ]理太夫 ( 花押) 1907 明治四十年 ⑬水口の締め太鼓 6.5c 冊晶さ 35. 3cm -口径 3 1727 字保拾弐歳未七月吉田 -締め太鼓 示二11l巨天部西町西かわ /太鼓屋/橋村理兵衛 ( 花押) 1840 天保十一/子七月吉日 江~神崎郡横居村 / 太鼓屋善四郎[ 1 口根川原町 1855 安政責t 卯正月日 神崎郡横居村/善四郎家二て 1864 πj 台π年/甲子七月日 1900 明治二十二年/二月吉日 神寄郡横居村/太鼓師源六張[ 1924 大正姶参年四月[ ⑮土山町の太鼓 1日 0.2cm晶さ 40. 2cm -口径4 -胴側銘 黒川 /市場郁/水月長右衛門 1846 弘化=午年 ⑧土山町の太鼓 1/中白張 冊 -口径49cm品さ 41.5c -締め太鼓 1773 安永一美巳六月吉田 口州愛知/長塚村/太鼓屋篠七 1830 文政+二年庚寅口月吉田 土山水附村/太鼓屋長右衛門 1873 明治六年奨酉九月吉日 @日野今井町の太鼓 1861 文久冗酉二月 江州償居村/工所太鼓師源六 ③日野町曳山の太鼓 1817 文化十四年 坂田郡上坂村太鼓屋権之介 1824 文政七年 はりかえ中山村太鼓屋弥五郎 @日野町下駒月の太鼓 1785 天 明 五 巳 七 月 直し 、下 鈎 月 村 中 出 若 連 中 1815 文化拾一年 大野口口太鼓屋長吉 (花押) 1834 天保五年七月十六日 はりかえ 1869 明;台貢t 年正月日 1887 明冶廿年四月吉田 1892 日月;台廿五年四月吉田 1892 明冶廿五年四月十一日 1899 明冶ニ十一年二月廿八日 I I会館 ( 甲賀郡水口町)の太鼓 @ 字J -口径 72cm品さ 77cm 1741 寛保π辛酉卯月吉田張立 江州蒲生八幡林村太鼓屋 ( 花押と名目りがありそうだが消されている 。 ) 1750 半口寛延=年口四月吉田 江州蒲生郡 〔 1770 明和七稔寅閏六月日 林村平兵衛張 1787 天明七来二月吉田 八幡嶋之郷林村太鞍屋〔 〕林村太鼓屋口(儀カ) ( J半口 1796 寛政八年辰二月吉日 八幡嶋ノ郷林村太鞍屋平兵衛 ( 花押) 1857 安政四年巴五月日 江州八幡嶋之郷林村内山城屋甚六 ( 花押)半口 /ー尺 四 寸 半口はりかえ 近代にな っての張り替え は年月日 のみ掲載 し、太鼓職人の名前は省略した。 r 出典 『リリアンス 1 5 号j、「近江の太鼓づくり J 京都部落史研究所報j、『もうひとつの近江文化一部落生活文化史調査研究j、f 太 鼓づくり 山川 原の太鼓づくり j、 「近江の太鼓づくり J 部落解放研究 NO.153 J、『 滋賀の民俗芸能j、『 土山 の太鼓踊 川、『 日 『ある被差別部落の五百年j 野曳山太鼓報告書j、 5 2 ・人間文化 r 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 の太鼓には 「 買いぬし/鉄砲町/米や 十兵衛/大 て先は、村役人や寺、村の世話方になっている 。 卯六月九日 JI 数八つ/京たい 工町/岡 市兵衛 JI 表 2は先行研究などに収録されていた請負証文 こ屋/利兵衛/上 候 助 十 JI かくとら 」 、⑪ の太鼓 の内容である 。 これ以外に、古川も 5点の証文を C には 「 敦賀/美濃屋庄左衛門口 JI )/西村孫 3 5 )三月に土田村 ( 現近 紹介している 。天保六年(18 兵衛殿 JI 塩津/林忠右衛門殿 JI 米原/ 中西口右衛 江八幡市土田町)庄屋宛に出された証文、弘化二年 門殿/上j と記されていたという 。写真 4の太鼓や ( 18 4 5)に江頭村 ( 現近江八幡市江頭町)神事太鼓に ⑪ の太鼓のように大きな太鼓胴は近隣では手に入れ ついて提出した証文である 。 また、大津市南小松の 太鼓について、文化十四年(18 1 7 )、文政八年(18 2 5) 、 られず、広範に求められていたようだ。 6 3)の証文を確認している 。 いずれも 文久 三年(18 林村の太鼓屋七郎兵衛の証文であるという 5。 二請負証文 張替請負証文からも、太鼓づくりの歴史が明らか 8 0 0年代前半に集中してい 確認されている証文は 1 になる 。藤凹はその証文を 6点紹介している 4。 い る。この時期は太鼓職人が増えてきた時期でもあり、 8 0 0年代のものである 。その中で最古のもの ずれも 1 証文を出す慣行がこの時期の特徴とも考えられる 。 は文化十 ( 1 8 13)年の証文である 。 張替申一札之事 一御 太 鼓 壱 箇 右之御太鼓拾五ヶ年之請合ニ而張替差上申候、若 右之年内ニばい先より破れ申候ハ、、何時ニ而茂張替 差上可申候、為後日手形如件 文化十年 久保村 たいこや 酉八月吉日 源次郎印 との村 御役人中様 三近世太鼓職人の存在 図 1は墨書銘と請負証文から近世近江に存在した 太鼓職人の地域を示したものである 。 ( 1 )湖東中心に点在 太鼓職人は墨書銘から 3 0人、証文から 7人確認さ れている 。墨書銘との重複があるので、合計3 4人で ある 。 これらの資料から、太鼓職人は多くの地域、とく に湖東を中心に点在したことが分かる 。広範囲にわ (市子殿区有文書) たって太鼓の使用がされてきたことを示している 。 ひとつの村から複数の太鼓職人が確認できるの 20) 年のものが収録されている 。 続いて、文政三 ( 18 が、蒲生君1林村の 9人と神埼郡横井村の 4人、愛知 郡長塚村の 2人である 。太鼓製作の中心は八幡林村 であったことはまち治宝いないで、あろう 。 御太鼓請合之事 一弐尺弐寸 代三両弐歩弐朱 壱柄 林村では複数の太鼓職人が連名の墨書銘を記して 右之筒五十ヶ年之内そんじ候得者仕替指上可申候 夏、猶又皮之儀者拾五年請合申候、若其年之内ばい 先ニ而打ゃれ仕候得者、代金請不申、張替指上可申候、 為後日請合一札仰而如件 文政三年 辰二月 日 蒲生郡石谷村 御世話方衆中様 いる 。 これは他の地域には見られず、今後その歴史 的な意味の研究が必要である 。 ( 2 )林村の太鼓づくり 最も古い墨書銘は、 1 6 5 8(明暦四 )年の 「八まん 横居村 嶋くわう林村 太車産屋 吉四郎 8 5 3( 嘉永六) その後、 「 儀兵衛」の名は継承され、 1 J である 。 たいこや儀兵衛(花押) 年の墨書銘まで確認できる 。その問、林村では多く の太鼓職人に技術の継承がされていったと思われる 。 ( 石谷共有文書) また、七郎兵衛が出した請負証文も多く確認されて いる 。 証文は、太鼓の大きさや張替え代金を記し、使用 その後、写真 5の太鼓から、 1 92 8( 昭和三 )年の 期間の保証をしている 。その期間内に太鼓の皮が破 墨書銘が確認でき、 1 6 5 8年の 「 儀兵衛」からすると れた場合はいつでも張替えるという内容である 。そ 270年にわたって太鼓職人が存在したことが分かる 。 ( 3 )太鼓屋六右衛門 二番目に古くから確認されるのは、 1 71 6( 正徳六) の際の代金は無料であるものとそうでないものが見 られる 。保証期間は 1 0年から 1 5年と比較的長く、あ 人間文化・ 53 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 表 2 請負証文の内容 出典 『 新修彦根市史 史料編近世 2 J 、「 太鼓張替史料 Jr 滋賀の部落問題j、「 近江八幡の部落史j 六右衛門は 1 8 5 2( 嘉永五)年に次のような請合証 文を残している 70 - 墨書銘による確認 @ 請負証文による確認 差入申請合一札之事 一、太鼓壱張 但し寸方五尺 右之太鼓代 金三 両弐分 ニ而張替請合申処実正也、 尤年 │ 虫拾五ヶ年御請負申 上{長、若年限中ニ皮仕切候 ハ、、 何時成共張替御渡シ可申上候、但シ刀切之儀 者一切不存申候、為念差入申請合一札仰而如件、 嘉永五年 野良田村 子四月 太鼓屋 六右衛門 ( 印) 下石寺村 御若連中様 太鼓の口径が約 1 5 0 c mもある大太鼓に 1 5 年間の張 替保証をしている 。 1 5 年保障期 間の証文は他にも確 認さ れているが、 1 5尺」 という大太鼓のものは六 右衛門だけである 。 ( 4 )花押の有無 花押は天皇や将軍、大名や上級武士とい った支配 階級が用いるのが一般的で、権力の象徴であ った。 また、職人の棟梁が自分の作品に花押を用い、技術 を誇っ たという 。万剣には製作者の銘が彫られてい る。 このことから考えると太鼓職人は自分の技術に 図 1 太鼓職人の所在地 対する自信を持 っていた ことが うかがえる 。しかし、 年の 「 のら回太 こ屋 六右衛門」の墨書銘である 。 太鼓職人がすべて花押 を記しているのでもない。 1 8 5 6(安政三)年の 「愛知郡 近世近江では、多くの太鼓職人が花押 を記してい 太鼓屋六右衛門 」 まで 1 4 0 年間継承され る。務生郡林村の太鼓職人を 中心 に、隣接する 神埼 ている 。長期にわたる太鼓屋存続の背景には、この 郡・野洲郡などである 。 しかし、愛知郡では、古く 「六右衛門 」の名は、 野良田村 地域は近世に皮革業が発展したことがある 。 また富 から確認されしかも長期にわたって存続した野良田 豪の存在が明らかになっている 60 村太鼓屋六右衛門は花押を記していない。 また、犬 5 4 ・人間文化 近世近江の太鼓張替史料 墨書銘と請負証文 上郡 ・坂田郡へと北上するとやはり花押の確認はで に自身の名を記し花抑を使用する職人もいたこと、 きていない。古川が指摘しているように、蒲生郡林 さらに注文主である神社や寺、役人に対して太鼓の 村を中心とした太鼓職人の系譜と、愛知郡野良田村 保証書を出していたという事実は、部落史研究の上 を中心とする系譜があったとも考えられる 。 で大変重要である 。写真で示し た墨書銘は達筆で、あ 四太最製作と張替え た生き方さえ感じられる 。 また、保証書が出せると り、修練された文字が表され、太鼓職人の堂々とし 墨書銘は一台の太鼓 に複数記されている 。それを いうことは、太鼓職人の経済力や技術力に一定の評 年代 } I 頂に並べると、最古のものが製作年で次か らが 価が与えられていたと判断して問題ないと考える 。 張替え年であると考える ことができる 。 このように このことは、 「人の嫌がる仕事を謀され JI 貧しく 墨書銘から 、太鼓製作 ・張替えに分けて太鼓職人の 悲惨で」 という、近世身分制を背景にしたこれまで 存在を見ていくと、近世近江の太鼓づくりのひとつ の画一的な部落史観に風穴を開けるものである 。太 の特徴が分かる 。 鼓づくりという生業研究の分野から、差別政策の中 1 6 0 0年代か ら1 7 0 0年代には、張替えが中心に行わ れていた 。張替えが行われた当時の太鼓は、すべて で社会や文化を支えたくましく生きた近世被差別民 の姿が見えてくる 。 京三条天辺で製作されていた。 なお、太鼓製作技術についての研究は、 『 人間文 近江で太鼓製作が始まったと思われるのは、現段 VOL2 3 Jに 「近江文化を支える太鼓製作技術 階では 1 7 9 4(寛政 6 )年である(写真 3の太鼓) 。 次 化 に確認できるのが 1 8 0 3( 享和 三)年、続いて、 とその背景」 と題して報告させていただいた。今回 ( 文政七)年 、 の報告と重ねて読んでいただければ幸いである 。 aZHMF 進んだといえる 。近世近江の太鼓は、京都で作られ エ キ 1 8 2 4 1 8 3 6( 天保七)年、 1 8 4 9年 ( 嘉永二)年 、 1 8 5 6( 安政三)年 となる。 1 8 0 0年代になって製作が た太鼓の張替えを通して技術を高め、それが職人の 増加や地域拡大にもつながったと思われる 。 太鼓製作は胴づくりからの ことをいうが、 詳細は 分からず、史料も少ない 80 とりあえすのまとめ 近年、撮影機器が多様になり、撮影爾像の解析機 能も発達してきていることから、墨書銘の読み取り が容易になるだろう 。今後も 墨書銘を数多く確認す ることで理解を修正していかなければならない。 ま た、文字による保存だけでなく、映像保存すること も重要である 。映像情報から字体の変化や花押につ いての研究も進められる。 太鼓の張替えに必要なのがなめし皮 9である 。 近世には、鈴牛馬を処理することで生じた皮から なめし皮が生産 され、また、太鼓や雪踏などの皮革 製品も製造されていた。 滋賀県では、部落史研究や各地の部落史編集 の過 程で、幣牛馬の処理や太鼓張替えに関する史料が硲 認されてきているが、史料はそれほど残されていな いという 100 ともあれ、墨書銘や証文は、近 │ 止の被差別民であ っ た太鼓職人の姿を明確に示している 。製作した太鼓 l 花押は平安中期以降にあらわれた署名で、自己の名 を、草書体から判読できない程度に図案化されたも のをいう 。ふつうは判や審判と呼ばれ、古文書など に名前の下に書いた署名 2 胴はチョウナでくりぬかれ、刃物の方向によって縦 ぐりと横ぐりがある 。 く り 方によ ってさ まざまな波 動が生じ、音がよく響くといわれている 。 また、く り方は太鼓屋によってち がうという 。 3 古川与志継は近世近江の太鼓製作について研究報告 をしている 。主なものに、「近江の太鼓づくり J 京 京都部落史研究所 1 9 9 9) 、「近 都部落史研究所報J( 江の太鼓づくり 一張替と製作をめぐって J 部落解 l5 3 J( 解放出版社 2 0 0 3 ) 、「 近江の太鼓 放研究 No. と近江文化をめぐって 京都で作られた太鼓を中心 にJ リリアンスブ ッ ク レット特集 1 5年期年号J( 反 差別国際連帯解放研究所しが2 0 0 5)などがある 。 4 藤田恒春は、「太鼓張替史料J 滋賀の部落問題J( 滋 0 0 2)に証文を紹介している 。 賀県同和問題研究所 2 5 I 近江の太鼓づくり 一張替と製作をめぐって J 部落 l5 3 j( 解放出版社 2 0 0 3) 参照 解放研究 No. 6 近江国愛知郡川原村枝郷皮田村関連文書 J( 滋賀 0 0 1)収録の 資料から 、「太鼓商 県同和問題研究所 2 い 六右衛門」を確認できる 。この地域で行われて いた皮革業についての資料も収録されている 。才次 r r r r r r 人間文化・ 55 近世近江の太鼓張替史料墨書銘と請負証文 や才兵衛という富豪の存在は、武陽隠士が 『 世事見 聞録J(岩波書応 1 8 1 6、補訂 1 9 9 4)に、差別的な内容 であるカ清己している 。 7 新 修 彦 根 市 史 史 料 編 近 世 2J彦根市役所〔彦 根市史編纂委員会 2 0 0 47 7 6) 8 前掲の 『 近江国愛知郡川原村校郷皮田村関連文書』 には、才次が太鼓腕を仕入れたときの証文や、愛知 郡薩摩村「太鼓由来記」が収録されている 。 また、 1 6 8 4) )には、天辺で張られた 『 薙州府志(貞享元年 ( 太鼓の胴は「近江の山中」より産出したことが記さ 3 4 ))に れている 。『近江輿地志略j (享保十九年(17 は、志賀郡の部に 1 0太鼓胴 葛川より之を出す。」 と記されている 。 9 生皮の表面から体毛を取り、裏面から脂肪を取って 乾燥させた皮 1 0 近年の部落史研究の資料集・冊子には -谷口勝巳 『 近江の被差別部落史 J(滋賀県同 和問題 研究所 1 9 8 8) . 1 岩越家文書」 編集委員会編 『 岩越家文書 中J( 滋 賀県同和問題研究所 1 9 9 4) -近江八幡市部落史編纂委員会による 『 近江八幡の部 落史j ( 近江八幡市 1 9 9 5 ) ・反差別国際連帯解放研究所 しが 『もうひとつの近 江文化一部洛生活文化史調査研究 J(滋賀県教育委 員会野洲町部落史編纂委員会 1 9 9 7 ) -滋賀県同和問題研究所 『 滋賀の部落上・下復刻 版J(滋賀 県同和問題研究所 1 9 9 8) -野洲町部落史編纂委員会 『 人びとが語るくらしの世 界 野 洲 の 部 落 史j ( 野洲町教育委員会 1 9 9 9) 、『 野 洲の部落史 通史編 ・史料編j ( 野洲町教育委員会 r 2 0 0 0) -滋賀県同和問題研究所 『 近江国愛知郡川原村校郷皮 滋賀県同和問題研究所2 0 01 ) 田村関連文書J( などがある 。 56 ・人間文化 l 滋│ 買│ 県│ φi 考│ 貫│ 芋 φl │ │ 最新 φ成果 ぎ課題 │ ザj r 近江における中世集落研完の現枕と課題 f 第1 ιー冷 1.はじめに 制滋賀県文化財保護協会 木 戸 雅 寿 市型の 一部の遺跡は早くから調査が進んでいたが、 人類の歴史は、人の営みの継続の結果である 。そ 一般集落の研究が認知されるのは、近年のことであ の拠点となるのが住居である 。集団で生活をともに る。近畿圏では、 1 9 7 4年 -1977に出版された 『大 すれば、自ずとそれは集落という形となる 。したがっ 阪文化誌j での特集が契機となっている 。 て、我々が知る遺跡の中でもっとも多い種類は 「 集 このころの研究の中心は、中世土器編年研究の確 落跡」 となる 。近江でも、各年代を通じて最もたく 立と集落遺跡の時期の確定が中心であった。その結 さんの発掘調査が実施されているのは集落跡である 。 果として、中世として認定された掘立建物の規模や 旧石器時代以来連綿と続く生活の拠点は、形や状況 形態の類型化が進められていった。論点は古代の建 こそ違え、現代へとつながっているのである 。 した 物との差遠から、中世への移行を見いだすこと、身 がって、各時代の集落の様相は、その時代の社会性 分差 ・階級差を見いだすことに終始した。具体的に やそれにともなう生活様式を反映しているといえる 。 は、柱穴の方形から円形の変遷や、総柱建物である そこに時代ごとの大きな変革による画期が産まれて か否か、建物の軒数規模、敷地規模や敷地内での棟 いる 。たとえば、縄文時代から弥生時代へ、弥生時 数や方向という観点を中心に進められた 。 代から古墳時代へ、また、古墳時代から奈良時代へ と。特に、奈良時代以降は律令体制の導入による計 落全体の成立や変遷、集落の持つ意義を見いだすこ 画的な条里制施行は、それ以前の集落の様相を整理 とは出来なかった。 しかし、これらの研究の方向性だけでは、中世集 させ一変させると考えられる 。それが南北地割りか ら現在も各所に認められる条里地割りという形で確 3 . 野 洲 市 西 国 井 遺 跡 と 守 山 市 横 江 遺 跡、彦 根 認することが出来る 。 しかし、その律令体制も荘園 市妙楽寺遺跡の発見 そんな中、 1 8 8 5- 1 9 8 9にかけて中世集落研究に の台頭等により衰退崩壊していく、そして時代は中 世へと 。 近江で集落研究をしていると、一応に同じような 状況の話を聞くことがある 。 9世紀 -10 世紀の集 落遺構が希薄だというのである 。ある人は、まだま 大きな転機を与えた 3つの遺跡の調査報告が相次い で行われた。 ①野洲市西国井遺跡の調査 1 民間開発事業に伴って実施された発掘調査で、 1 だ発見されていない集落が多いからだといい、ある 世紀末 -12 世紀にかけての条里区画にそった溝で 人は土器編年に誤りがあるという 。 また、ある人は 区切られた広範囲な屋敷地が発見されている 。特に 現行集落と被っているために発見されにくいのだと 。 中央に位置する方形の区画だけが講で二重に区画さ いずれにしても、発掘調査で発見されるこの時期の れていたり、井戸を有していたりと他の屋敷とは違 集落跡の数は少ない。 また、発見される遺構も多分 う特色をもっている 。中世初期に新地として開発さ に官街的な様相の強い方形居館型で単独施設が多い。 れ、堀固いに変化する直前で廃棄された集落である 。 つまり、集落形態からみると、これらの時代はまだ ②守山市横江遺跡の調査 古代なのである 。そしてこ こが一つの画期になって 住宅開発に伴って実施された発掘調査で、 1 1世紀 いるのは間違いがない。 したがって、中世という時 末 -1 3 世紀中頃 -1 4 世紀末にかけての二次期の集 代の集落の始まりは、その後であることは容易に想 像が付く 。では、具体的には、中世集落の始まりは 落跡が発見された。集落は 3本の河川に挟まれた土 いつからで、どのような様相を呈しているのであろ 仕切るタイプのものである 。それが H期に屋敷境の うか。 仕切り位置を代えながら堀を巡らせ区画を持つもの 2.研究のはじまり 据えられており、それを中心 にして集落が計画的に 作られている姿が読み取れる。 地に作られており、 I期の集洛は敷地を雨落ち講で に形を変える 。特に中央には土壇を持つ方形の館が これら中世集落に係わる研究は、文献史学や歴史 地理学の分野では早くから「中世村落 Jゃ 「中世荘 園」研究という名で行わ れてきた。しかし、これを ③彦根市妙楽寺遺跡の調査 2 字曽 川河川工事に伴い実施された発掘調査で、 1 考古学的に解明しようという研究は年月が浅い。鎌 世紀後半、 1 4 世紀 -1 5 世紀、 1 6世紀の三段階に渡 倉や博多、草戸千軒町遺跡 などの政治都市、商業都 る集落跡が発見されている 。 I段階目は仕切り溝で 7 人間文化・ 5 │ 滋 │ 賀│ 県│ の│ 考 │ 盲│ 学l al F ¥ 、 / f¥ r l じ~m~i 一-骨1..--;;"" a仕切り溝で区画された形(l2C後半) 一 0 I / . 葺囲い の時期 50m破線は敷地割を示す 拝 実線は I 17¥ 〉 / X o 50m L晶品ーー」ームームーJ b堀囲いされた形(l4C-15C) 1 : ¥ し~m 6C代) C 石組水路や街区で区画された形(l 彦根市妙楽寺遺跡平面図 の資キヰとなった 。 4 . 研究の進展 これの成果をもとに木戸は、近江における中世集 落の形態の成立と画期、その変遷、城館の成立等に ついて論じてきた。要約すると以下のとおりである 。 守山市横江遺跡 ①集落の成立の問題 近江で発見される中世集落とおぼしき遺跡、の多く 1世紀代を出発点とすることがわかった。この が 、 1 屋敷が区切られたものである 。 E期は堀囲いで仕切 ことは、古代、たとえば 8世紀代から 1 3 世紀や 1 4世 られた集落で町は拡大している 。三期は石組み水路 紀代にかけて連綿と続く集落跡が圧倒的に数が少な や道路、石組み井戸など、後の城下町の系譜につな いことを示していた。つまり、我々が発見する中世 がっていくと見られる都市型への変遷が発見されて 集落の多くが、古代から同じ位置で連綿と続かない いる珍しい集落である 。 ことを示しており、新しく作られ、また廃絶された このように、いずれも集落全体の発掘調査が実施 されたところにその特徴がある 。このことによ って 、 集落として発見されるということである 。それは古 代と中世の間に隔絶があることを示していた。 これまで、小規模な発掘調査でユ発見されていた遺構 これら中世集落成立期の現象とその理由について がどのような部分に当たっていたかが理解できるよ はいまだ明確に解明されていないが、おそらく条里 うになった。 また、これらの遺跡はそれまでの個別 制施行、新地開発の問題とリンクしているものと想 建物の規模や形態論を中心とした研究から中世集落 {象が付く 。 の成立や形態、機能といった問題点を切り開く格好 58 ・人間文化 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 盲│ 学I ml ②散村と集散の問題 さらに、発見される 初期集落形態にある特徴が認 わかってきた。 められた 。一つの屋敷がお お よそ、主屋、副屋、添 ④核となる屋敷地 さらに、これらの集落には必ず、核となるような 屋のように l棟 -3棟の規模のもので構成されてお 屋敷地が認められることもわかってきている 。その り、その建物一つずつお よび 、 一つの屋敷地が雨落 ち溝の様な、細く浅い 1 1'T .LJ字状の仕切り溝 屋敷地は他の屋敷地より一 回 り大きかったり、横江 遺跡、のように土壇を持っていたりする 。 また、その で区切られている ことで、それらの屋敷がいくつか 位置は中央であったり、集落の端であったりする 。 寄り添い、さらに救地全体が条里区画の講で仕切ら おそらくこの屋敷地が、集務の領主、いわゆる在地 れていることがわかった。耕地はその屋敷群の外に 領主の屋敷地であると考えられている 。そして、そ 展開している 。小規模な発掘調査で発見される集落 の周囲の屋敷地の主は、 地縁 、 血縁などで結ばれた 跡はこれらの一角を検出しているに過ぎなかったの 地域共同体ととらえることができる 。 これまで、関東を中心 とした歴史地理での集落研 ⑤城館の成立、町の成立、現行大字の成立 近江ではこれらの核となる屋敷地の主の子孫が武 である 。 究では、初期の中世集落の形態は散村であり、 1 3 世 士となり、その屋敷が城館となるようである 。中世 紀以降でないと集村化が行われないとされていたが、 集落の領主の屋敷地と城館との違いは、堀の内側に 1世紀代 という早い時期、中世集落 ここ近江では、 1 土塁を持つことである 。正確な成立年代は城館の発 成立期に既に集村という形で集落が形成されている 掘調査例が明確でないが、次の集落の画期ともいえ ことがわかった。一つの大きな成果である 。 ③溝固いから堀囲いへ 中世集落の最盛期での画期は、堀囲い集落の成立 にある 。地域によって若干のずれはあるが、画期は 5 世紀末 - 1 6 世紀前半と考えて問題がないであ る1 ろう 。 このころの中世集落の多くは廃絶し、また新 たな枠組みで集落の形成が始まる 。 一つは現在の大字単位の集落への移動である 。た おおよそ 1 3 世紀中頃から 1 4 世紀中頃に認めることが だし、これは現在の集落の下が調査できないので推 できる 。特徴は深く幅広い堀で一つずつの屋敷地が 測である 。発見される中世集落の多くにその時期の 図われ連結していくところにある 。 この形態の集落 終駕が見いだせること、それ以降に新しく築かれた は溝固いのものとして、同じ場所で作り代えられる 集落が見いだせないことから、現行集落とだぶって ものと、新地に作られるものとがある 。 いる結果と判断できるからである 。 また、このこと 従前はこれらの遺構を、城としてとらえたり、防 から湖西地方のように開発によって発見される中世 御施設としてとらえ、南北朝の動乱等をその要因と 集落が少ないのは早い段階から現行大字の位置に集 してとらえる考え方が普通であったが、防御施設と 落が築かれ移動していないという考え方も出来るで して必要な土塁の痕跡が認められなかったり、戦闘 あろう 。 や緊張状態のない場所でも、形態変化が認められた りすることから、現在は この考え方は否定的である 。 ⑤移動し形をかえてい く集落 ここ近江でも毎年数多く行われている発掘調査は、 また、天候不順による洪水や低湿地化による対処と 我々の生活の営みのための開発行為の一環として実 いう考え方もあったが、文献等でもそのような気候 施されているものがその大多数である 。開発されて 変動が伺えないことからこの考え方も否定的である 。 いく土地の多くも、現在水田や畑地、雑地が多い。 現在最も支持されているのは、耕地等生産基盤の確 そんな地面の下から、かつての集落跡が発見される 。 保、用排水権の確保を目的とした在地領主を中心と したがって 、発見される集落のほとんどが、かつて した集村の胎動の現れと位置づける考え方である 。 はその地で建築され繁栄したが、廃絶した集落ばか 中世隆盛期の集落は、 河川 に寄り添うように新たに りであるということに気がつかなければならない。 形作られている場合が多い。 集落は何らかの理由で開発され、何らかの理由で廃 その後の調査資料の増大の結果、驚くべき事に、 絶される 。人が急に消滅すると云うことは考えがた これら全体的な形態変遷と画期は近江全体に普遍的、 いので、これらの集落はいずれかの地に移動するか、 一様な胎動としてとらえられた。 またそのことは、 少なくとも近畿一円で同じような画期があることも 隣接する地に吸収されたと考えるのが普通で、ある 。 そして、最終的に現在の大字の位置に落ち着いてい 人間文化・ 5 9 │ 滋 │ 賀 │ 県│ の│ 考│ 古│ 学l al 野洲市大篠原東遺跡 る。 しかし、近年の近代的な開発はまた新たな画期 ②彦根市八坂東遺跡 を生み 出そうとしているのである 。 彦根市八坂町に所在する遺跡である 。滋賀県立大 このように、集落の考古学的調査で、時代の変革 学人問看護学部整備事業に伴って発掘調査が実施さ に合わせ集落が拡大と収縮や移動をした結果を、形 れた 。調査では、犬上川沿いの水回から 1 2 世紀から 1 4 世紀前半にかけての構図いの集落跡の一部が発見 としてとらえる ことができたという大きな成果が得 られたのが近年の最大の成果である 。 されている 。彦根市域、河川沿いの集落を考える上 で良好な資料であると考えられる 。 5.近年発見された集落の例 さて、ここでは近年発見され、今後研究で重要な ①草津市野路岡田遺跡 草津市野路岡田に所在する遺跡 で 、 J R南草津駅 位置を占めていくであろう遺跡をあげておきたい。 前の都市開発に伴 う発掘調査で発見された遺跡であ ①野洲市大篠原東遺跡 野洲市大篠原東に所在する遺跡である 。民間開発 る。通称 「馬道」 とよ ばれる街道沿いに間 口を向け て作られている 1 2世紀後半 -13世紀末にかけての に伴って実施された調査の 内の平成 3 ・ 4年に実施 集落である 。背面 は河川が流れ谷となる段丘上に当 された第 4次調査で中世集落が発見されている 。遺 たる 。 また、 一角には堀で聞われた3 0 m四方の領主 1 0-1 2 0 構は、 三方が山に閤まれた緩斜地で標高 1 m とい 山間の地で発見されている 。現況水田で、 あっ 沿いの集落を考える上で良好な資料である 。 た。 ここから は 1辺約 3 0 mの区画を持つ溝で仕切ら の屋敷地 と考えら れる区画 も発見さ れている 。街道 ④東近江市浄土屋敷遺跡 れた連結する屋敷地が 8区画分検出されている 。 ま 東近江市上平木に所在する遺跡である 。平成2 0 年 た、講や井戸に石組みが多く多用されているので終 度にほ場整備に伴う発掘調査が実施 された。一辺3 0 末期の中世集落と考えられる 。遺構の時期は1 4 世紀 m、4 5m、6 0mからなる堀で仕切 られた屋敷地が発 -1 6世紀である 。 山間部の集落形態がわかるもの 見されている 。 この地は従前よ り、浄土屋敷 という として貴重な資料である 。 屋敷があったとさ れている位置である 。南と東側 は ほぼ集落の端と考えられるが、 北西側 に集落 はま だ 60 ・人間文化 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 吉│ 学l al Ar p 4 ¥ o 10m 』回置置置置置量畠畠畠薗酋ーーー 彦根市八坂東遺跡 草津市野路岡田遺跡 1、九 { 綱盆 3J{) 東近江市浄土屋敷遺跡 人間文化・ 6 1 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 盲│ 学I ml 守山市欲賀城遺跡 大きく展開すると考えられる 。集落の中心的役割l を ⑤高島市西万木遺跡 占める領主の屋敷は西側の未発掘の部分にある可能 平成 2 0年度に 高島市西万木で民間開発に伴い実施 4 世紀に成立し 1 5世紀に廃絶する 性がある 。集落は 1 された発揚調査で発見された城館である 。8 0m四方 という短命なもので、その後集落は現在の上平木に の敷地を持ち、 2重の堀と土塁で図われている 。記 移行したものと考えられる 。湖東地域の中世集落を 録から西万木の領主西万木氏の居館であると考えら れる 。集落本体は現行大字西万木の南東隅、青柳の 考える上で良好な資料である 。 城郭関係の集落では以下のものがあげられる 。 南西隅に位置する 。掘から銅製の花瓶が出土したこ ⑤守山市欲賀城遺跡 とで話題を呼んだ。資料の少ない湖西地方にあって 平成 4年 -8年にかけて守山市欲賀地区で実施さ 集落と城館の在り方を考えていくのに良好な資料で れたほ場整備事業に伴う発掘調査で発見された遺跡 3世紀 -14世紀にかけての堀 である 。調査では、 1 ある 。 ⑦湖南市夏見城遺跡 で凶われた屋敷地が発見されている 。 また、字大珍 湖南市夏見に所在する遺跡である 。甲賀武士であ 坊の名を示すとおり、五輪塔や蔵骨器が多数出土し た区画なども認められる 。城郭分布調査で字名に城 り在地領主である夏見氏の城、方形居館として周知 されていたが、その隣接地で、 1 5世紀後半の堀で囲 の名があったことから遺跡、名が欲賀城となっている われた連結する屋敷地が発見された。方形居館との が、寺内関係の中世集落跡と考えられる 。 関連、また目前を横切る東海道との町屋部との関連 62 ・人間文化 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 舌│ 学I ml 長~ ~ ~ 介、 ~ c : ' 1 ~-.7454Om _ ,.74.54 勤前 . . . . . 7 4. 5 5 O m κ . ・ ,55白羽 ~-.74 悶 x . . 7 4 . 5 7 印n ・ . ,57Sm m 1Il立位逮物I;f ・ x7 4 . 5 必ο m x -. 7 4585m 1] 西万木遺跡位置図 白" X . 7 4 . 5 9 ・ 混745951'1同 五 ・ ' ' 6 0白明 . ' _ . ; . , め " m X " . 1 4回告別 高島市西万木遺跡 や ら F 田 ・ =毛抜き 出土i 茸 =区画溝 湖南市夏見続遺跡 人間文化・ 63 |遜|賀|曝|の|考|盲|学I~I 小掘 物 ゾ ザ 区立 構溝建 画面柱 大 区 一圏 甲賀市植械遺跡 など、新しい観点が考えられる 。 また、この堀から は日本最古級の真鈴製の毛抜きや多量の茶器が発見 されたことでも話題を呼んだ遺跡である 。 @甲賀市植城遺跡 甲賀市水口町に所在する遺跡、である 。甲賀武士山 中氏の本拠地として位置づけられるものであり、現 行大字集落そのものがまるまる複郭式の城郭として 現存しているという非常に珍しい集落形態のもので 彦根市肥田城遺跡 ある 。 ⑥野洲市永原城遺跡 野洲市上永原に所在する遺跡である 。住宅開発に 成2 0年度に実施されたほ場整備に伴う事前調査の結 果、現在の肥 田集落の東外側、字曽 川隣接する耕地 伴い発掘調査が進められたもので、歴史的にも有名 1世紀に始まり、 1 2世紀後半の区画講を伴う屋敷 で1 であり、大規模な堀で区画された平地型城郭の典型 地が発見された。 また、集落の北側にあたる 肥田城 ともいえるものである 。 推定地から、 1 5 世紀 -16 世紀に築かれた少区画講 を持つ屋敷群と、それを切る大区圏構が発見されて ⑨彦根市肥田城遺跡 彦根市肥田に所在する遺跡である 。平成 1 8年 野洲市永原城遺跡 6 4 ・人間文化 平 いる 。中世集落成立と中世平地型城郭の成立、現行 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 吉│ 学l al 集落の成立を考える上で貴重な資料 であろう 。 を目指すためには、点と点の調査を繋ぎながら 、面 6.とれか 5の研究の方向性 要である 。 その努力が、各時代、各画期ごとの様相 を検当していく 。 地域での 地道な作業がもっとも重 集落の形、遺構の様相、 出土遺物の組成からは集 を明らかにしていくと考える 。 そして、一つひとつ 落の性格を特定する ことは困難で、ある 。 これらの問 の遺構の性格を検証する様なミクロな視野と環境を 題にアプロ ーチするためにはもう少し大きな視野が 含めた集落全体を検証していくようなマクロな視野 必要となる 。集落のおかれている位置と環境の整理、 を相互に検討していく ことが重要であると考える 。 文献資料の裏打ちなどである。特に近江では母なる 湖琵琶という大きな要素を 抱 えているにもかかわら ず、中世集落における琵琶湖沿岸の集落の様相につ いては考古学的な解明が進んで、いない。 また、琵琶 湖には多くの河川が注いで、いるが、これら大規模河 川沿いにも多くの集落が張り付いている様相が見受 けられる 。これらの様相もいまだ明確ではない。また、 山際で発見される集落の様相も明確ではない 。 さら に平野部においては、現況集落と重複する集落跡、の 様相などである 。 また、全国的な視野では鎮守の森、神社、寺院、 集会所、広場、耕地、用 排水路、道路などさまざま なアイテムを相互総合的に検討し位置づけられた空 間構造としての集落研究が進められている 。領主と 民、宗教者と民の関わり、地縁血縁などその中での 住人の役割位置づけまでを含めた総合的な観点での 研究も必要であろう。考古学の最終的な目的、目標 は人々の営みの総合的な復元にある 。 参考文献 r ・橋本久和 1 9 7 4I 中世集落の考古学的研究 J 大阪 文化誌j 1巻 2号 r ・原 口正 三 1 9 7 7I 古代・中世集落 J 考古学研究1 9 2 r -佐久間貴土 1 9 8 5I 畿内の中世村落と屋敷地 J ヒ ストリア j 第 1 0 9 号 r -水野章二 1 9 8 5I 中│立集落と領域支配 J 日本史研 究j 2 71 r -葛野泰樹 1 9 8 5・1 9 8 9 妙楽寺遺跡 n. mJ r ・凹中勝弘 1 9 8 6I 残存条理と集落遺跡、 J 滋賀考古 学論叢』 第 2集 -花田勝広 1 9 8 7I 西 国 井 遺 跡 現 地 説 明 会 資 料」 野 洲町教育委員会 r 9 8 7・1 9 9 0 横江遺跡発掘 -木戸 雅 寿 ・宮 下 陸 夫 1 調査報告書 1.n J滋賀県教育委員会 ・中川靖 1 9 8 8I 近江八幡市久郷屋敷跡の掘立建柱 r 建物群について J 滋賀考古学論叢j 第 4集 7 . おわりに 現在全国で実施されている発掘調査の大部分は、 行政措置として実施されている記録による発掘調査 である 。これらは開発を目的として 実施されている 。 したがって、調査される位置と規模は、学術的な意 味合いを持たせて決定することは出来ない。結果と して我々が得ている成果は、大規模な集落の 一部と いうような小規模な範囲のものであったり、現在ま でその地で続くことの無かった廃絶された集落で .I 対本武愈 1 9 8 9I 日野川中流生きにおける条里と 賊滋賀県文化財保護協会 集落 J 紀要j 第 2号( -水藤真 1 9 8 9I 村を囲むこと J 国立歴史民俗博物 館 研 究 報 告j 第 1 9集 -葛野泰樹 1 9 9 0I 近江の中世集落について J 日本 歴 史J1 0月号 -木戸雅寿 1 9 9 2I 水辺の集務の原風景 J 湖の国の r r r r 歴史を読む j 新人物往来社 r 9 9 3 大篠原東遺跡現地説明会資料 j、 2 0 0 2 -森隆 1 あったりする 。 したがって、それだけの資料で集落 『 大篠原東遺跡発掘調査概要報告j 野洲市教育委 全体の規模や様相を読み取ることはかなり至難の業 員会 である 。 また、現行集落の地下をそっくり掘ること -畑本政美 1 9 9 3守 山 市 欲 賀 城 遺 跡 「中 世 の 館 を 発 など不可能なことを考えると、集落研究を行う為の 掘 」 滋賀県埋ー文ニュース第 1 6 0号 、 2 0 0 1 欲賀地 資料としては、かなりの偏りがあるものと考えてい 区ほ場整備関連遺跡発掘調査報告書 かなければならない 。 それでも、これまでに明らか r 欲賀城遺・ 欲賀遺跡・欲賀南遺跡』 守山市教育委員会 にされ蓄積されてきた発掘調査による集落跡の様子 -木戸雅寿 1 9 9 4I 考古学から見た中近世集落の発 は、様々な形の集落とその変遷を垣間見させてくれ 展 と 都 市 ・町一の成立 J 中世都市研究 J 1新人物 研究に進展をもたらせている 。 さらなる研究の進展 往来社 r 人間文化・ 65 │ 滋│ 賀│ 県│ の│ 考│ 古│ 学I t D l r -鋤柄俊夫 1 9 9 6i 中 世 畿 内 の 村 落 遺 跡 J 月刊文化 財 j3 9 8 r -鋤柄俊夫 1 9 9 9 中世集落と地域性の考古学的研 究j大巧社 2 0 0 0i 鎌倉時代の野路宿か 草津 市 野 路 岡 田 遺 跡 」 滋 賀 埋 文 ニ ュ ー ス 第2 4 7号 、 2 0 0 4i 野 8 5号 路岡田遺跡の調査」 滋賀埋文ニュース第 2 0 0 l i中世前期の「屋敷地」と地域開発 j -伊藤裕偉2 『 ふびと J5 3 -木 戸 雅 寿 2 0 0 2i 内湖をめぐる城の成立とその機 能 大中之湖・伊庭湖を例として Jr 城と湖と 近江j サンライズ出版 0 0 4i 水系をめぐる中世集落とその関 -木 戸 雅 寿 2 r わ り 一 守 山 市 境 川 水 域 を 例 と し て 一J 琵 琶 湖 博 1号琵琶湖水域における中世 物館研究調査報告第 2 村 落 確立過程の研究』 滋賀県立琵琶湖博物館 r -木戸雅寿・小島孝修 2 0 0 6 ほ場整備関係 ( 経営体 育 育 成 基 盤 整 備 )遺 跡 発 掘 調 査 報 告 書 3 32 植城遺 跡J -重 田 勉 2 0 0 6 滋賀県立大学人問看護学部整備事 r 業 に 伴 う 発 掘 調 査 報 告 書 八 坂 東 遺 跡j 滋 賀 県 教 育委員会 2 0 0 7r 夏見城現地説明会資料J( 鮒滋賀県文 0 0 8 化財保護協会、 2 r 2 0 0 7 肥 田 城 遺 跡 の 調 査』 説 明 会 資 料 側 滋賀県文化財保護協会、 2 0 0 8 r 2 0 0 8 浄 土 屋 敷 発 掘 調 査 現 地 説 明 会 資 料』 ( 附滋賀県文化財保護協会 r 2 0 0 8 西万木遺跡現地説明会資料 j 高島市 教育委員会、側) 滋賀県教育委員会 2 0 0 8i 永原城遺跡、 Jr 平成1 8年 度 野 洲 市 埋 蔵文化財調査概要報告書 J野洲市教育委員会 66 ・人間文化 海外研修報告 モンゴル国フブスグル調査紀行 市川秀之 2 0 0 8年 9月滋賀県立大学の教員 6名はモンゴル国 今年度から本学地域文化学科とモンゴル国立大学 フブスグル県への調査旅行をおこなった。これは来 社会科学部社会 ・文化人類学科との間で留学生の交 年度以降に企画している環フブスグル湖の総合研究 換が開始された。今後、学生の交換はもちろんのこ の予備的調査として実施したものであり、参加者は と、幅広い学術・教育面での交流がモンゴル国立大 市川(民俗学 ・博物館学)のほか、人間文化学部か 学と本学の間で行われることを期待したい。 ら渓崎一志教授(建築史 ・保存修景) ・ 定森秀夫教 授(考古学)・ボルジギン・ブレンサイン准教授(歴 フブスグル湖 史学)・島村一平講師(文化人類学)、環境科学部か 我々が目標としたフブスグル湖に到着するためは、 ら岡野寛治准教授(畜産学)であった。 また 首我直 ウランパ ー トル・チンギスハン空港からから飛行機 弘学長にモンゴル国立大学から名誉博士号が授与さ れることとなり、曽我学長および土屋正春理事、事 庁所在地)に行き、そこからさらに自動車に 7時間 務局の山田正弘主幹もウランパートルからフブスブ ほど乗らなくてはならない。ムルンの町を出ると道 に 2時間ほどかけてこの地域の中心都市ムルン(県 ルク湖畔まで同行した。我々は 9月3日に関西国際 路はほとんどオフロードとなり自動車は恐ろしく揺 4日に帰国した。長期間の調査であり、 空港をたち同 1 れるが、旧ソ連製の車体は実 に強靭で、最初は道路 参加者各人によって調査目的も異なるので、ここで の状態に驚いていた我々もやがて多少の揺れはなん は私の関心に基づいた トピック的な事項についての とも思わなくなってきていた。 み述べておくこととしたい。 7 6 0平方キロ、琵琶湖の 4倍 フブスグル湖は面積 2 もある巨大な淡水湖である 。周囲はカラマツ林で覆 ウランパートル ・モンゴル国立大学 われ、 2 0mを越える透明度に示されるように水質と モンゴル国立大学 はウランパートルの中央部に位 景観のとても美しい湖である 。 この湖はモンゴルに 置する。人文 ・社会科学・数学・科学技術 ・自然科 おける自然保護の象徴的な存在であり、滋賀県とも 学などの学部をもっ モンゴル国最大の大学である 。 自然調査などを通じて関係が深い。 フブスグル湖は森林で囲まれていることから、そ 9月 4日にこの大学で行われた曽我学長の名誉博士 号授与式および記念講演会に我々も参加することと こに住む人々の文化にも草原地帯のものとは大きな なった。翌日からの草原の旅に備えて、私は極めて 差が見ら れる 。今回の調査では出会うことはできな 軽装で日本を出立していたので、予想外に厳粛な授 かったが、ツアータンと呼ばれる人々はトナカイの 与式に とまどいながら出席した。曽我学長の記念講 遊牧をおこなっており、また周辺にはツアータン以 演は化学を 専攻する学生や教員を対象としたもので タ十にもダルハト・ホトゴイドなどシャーマニズムを パワ ーポイントを用いて英語で行われた。 日本では 信仰する人々も見られる 。今後の調査ではこの美し 理科系の学部は男性が多いというイメージがあるが、 い湖、それをとりまく森林と人々の生活の関わりに 出席者は 9割までが女性であった 。 ついて、歴史を遡りながら共 同での研究を進めてい 写真 1 t 受与式後の記念撮影 写真 2 フブスグル湖 人間文化・ 6 7 モンゴル国フブスグル調査紀行 く予定である 。 0 9 . 8 秒 ・ 東 経9 9度 1 6分 4 5 . 3 秒地点で見たへレクスー ルで、直径は 30mほど、高さも 5mほどの大きなへレ 鹿石 スクールであった 。地元ではホルガン・ タルのへレ ムルンからフブスグル湖に向かう途中、オーシギ スクールと呼ばれており、チョローン先生の説明に ン ・ウブル遺跡で有名な鹿石をみた。 これは地上に よるとキルギス人の墓だという 。写真 4はリンチェ たてられた直方体の石で、よくみると疾走する鹿や 人、太陽などの絵が描かれている 。 われわれがこの 0度 5 1分 ンルフンベ郡ウシュンテイン ・アム ( 北 緯5 2 0. 6 度・ 東経9 9度 1 6分 5 4 . 6 秒)で見たヘレタスールで、 遺跡でみた鹿石は 1 4 基であったが、モンゴルの各地 石はまばらでほとんど高さはない。 こちらは突厭期 に同様のものがみられるという 。 同行してくれたモ のものだという 。 ヘレクスールにはいろいろな形態 ンゴル国立大学のチョローン先生 ( 歴史学 ・ 民族学) があり、 草原 の中に移しく分布しているが、発掘調 0 0 0 年前に建てら の話によると、この鹿石は今から 3 査が行われているものはごく少ない 。今後のわれわ れたものだという 。 れの調査のうち、考古学部門の調査の主軸はこのへ レクスールに置かれることは間違いがない。 ただ現 ヘレクスール 地に発掘機材をどのようにして搬送するのか、発掘 自動車での移動中、たくさんのへレクスールを見 の労働力をどのように確保するのか、また測量の基 た。 へレクス ールとは積石塚のことで形態は円形の 準点をどうするのかなどそのために解決しなければ ものが多い。写真 3はオラオール郡の北緯 5 0度 5 1分 ならない諜題は多い。 オポー 私はモンゴルは初めてであったため、見るものす べてが新鮮であったが、ことに民俗学的な関心を 持ったのはオボーと呼ばれる民俗信仰の対象となる 石積みであった。 オボーは峠や辻、州、山頂などに 設けられ、旅する人々はそれを見るとお金やバター などのお供え物をして、オボーの廻りを時音│ 廻 りに 3固まわり旅の安全を祈る 。写真 5はフブスグル湖 の仰にあるオボ ーで石を積んで、 作られている 。青い 布を巻き付けであるオボーが多い。 また写真 6はフ 近くの山の山頂にあったオボーでこちら ブスグル出l は石ではなく木で作られている 。 これはダルハトと 写真 3 オラオール郡のへレクスール 写真 4リンチ工ンルフンベ郡のへレクスール 68 ・人間文化 写真 5 フブスグル湖の岬のオポー モンゴル国フブスグル調査紀行 写真 6 フブスグル湖近くの山頂のオボー 写真 8 建替え中の博物館とチ ョローン先生 博物館などの大きな博物館があり、相当充実した展 示が行われていた。歴史博物館は旧石器時代からの 通史展示であり、展示品の多さに比してパネルなど の解説の少なさが日をヲ│いた。 また民具や民俗衣装 なども多く展示 されている 。売庖では日本語の│主│録 も販売されていた。 また自然史博物館にはモンゴル の動植物や、著名な恐竜化石などが展示されている 。 いずれの博物館もケースは木製が中心で、光量や温 湿度にそれほど関心が払われている様子はない。温 度、温度が低いために、保存環境について考慮する 写真 7 ウル峠のオボー 必要があまりないのだろうか。 また音声や映像など を用いた解説はほとんど導入されていない。 いう森の民が利るオボーだという 。写真 7はフブス 地方では博物館を見学することすら大変だった。 グル湖からオランオ ール へ向かう途中のウル峠に オランオール郡で役場にいって博物館のことを聞く あったオボーで 1 3 基のオボーが並んで建っている 。 が、以前は学校の横にあったが 1 9 8 5年くらいに解体 このように今回見たものでも様々なタイプのものが してしま ったという 。今は図書館になっているとい あるが、次回モンゴルを訪れる際には、さらに多く 0年生の学校で、日本 うので学校にい った。学校は 1 のオボーを見学しそのバ リエー ションを採りたいと でいうと小学校から高等学校までが一つになったも 思う 。 のである 。校長先生が図書館を案内してくれるが、 かつての博物館を思わせるものは何も残っていな モンゴルの博物館 私が調査に参加した主要な目的は、 最近のモンゴ かった。 リンチェンルフンベの町でも役場に行って聞いた ルの地方都市にお ける博物館事情について知ること ところ学校に博物館があるというので学校に向かう 。 にあった。社会主義時代にはモンゴルでは各県およ 博物館といっても小さな教室程度の広さで 2部屋に びほぽ各郡に多くの博物館が設け られ 、 学芸員など 分かれていた 。一つの部屋 には地域の英雄に関する も配置されてい たというが、社会主義体制崩壊後、 展示や昔の教科書などが展示しである 。 またもう 一 その多くが危機に瀕しているということを聞いてい つの部屋には牛の乳搾りの道具などが展示してあっ たので、その実情を知り 何 らかの貢献ができればと た。かつては別の建物に展示がありその当時は学芸 考えていた。 員もいたが、その部屋を コンピュー タ一室にしたた ウランパートルにはモンゴル歴史博物館、自然史 めに今の場所に移したという 。以前は仏教の経典な 人間文化・ 6 9 モンゴル国フブスグル調査紀行 どもあったようだが、いつのまにか散逸してしまっ たそうだ。 今回、われわれが訪れたフブスグル県の県庁所在 地であるムルンは人口約 1万人の都市である 。 この 町の博物館は現在建て替え中で、県庁の前にある劇 場に一時移転をしているという 。劇場に行ったとこ ろ、担当の人が鍵をもったまま出張にいったため展 示は見ることができないということだ‘った。仕事が 完全に個人に帰属している社会であることがわかっ て興味深かった。劇場にいた女性の学芸員の方にお 0 0 0点ほどで民 聞きしたところ、博物館の展示品は 3 族学や自然科学が中心、学芸員は二人で、以前は年 間の来館者は 1万人、仮展示の現在は年間来館者は 3 0 0 0 人ほどだという 。学芸員資格は国立文化芸術大 学で取得できるということだった。特別展示として は最近では清朝に抵抗した英雄チングンジャブの生 誕3 0 0年に因むものを開催している 。新しい博物館 はもう 1 0年ほど工事をしていて本来ならば2 0 0 8年の 1 1月に完成してそちらに展示も移す予定で、あったが、 資金難などで完成のめどがつかないという話であっ た。 学芸員さんにご同行いただいて建設中の博物館を 見学にいった。 2階建ての相当大きな建物で、かつ ては裏手に小さな動物園も併設していたようだ。 2 u 階が展示場で、 情に収蔵庫を予定している 。ただ 建物は現在ほぽ壁だけの状況で、われわれは開口部 から中に入ることができた。今後、内装や空調の整 備などに相当な費用と工事期間がかかることが予想 できた 。学芸員さんのお話によると再建には 2億 5 0 0 0トウグルク(日本円にして 2 4 0 0 万円程度,ただ し調査時)が必要であるが、現在のところめどがた たないようだ。 初めてのモンゴルの旅では学ぶ ことが多く、その すべてをとうてい書 き尽く すことはできないが、今 後の調査に活かしていければと思う 。 またモンゴル の地方都市で見た博物館の現状は、大学で博物館学 を講じる私にはいさかか心痛むものであ った。調査 地であるフブスグル県内の博物館の整備について今 後いささかでも 貢献できればと思う 。 70 ・人間文化 人・間・文・化・通・{言 国人間文化セミナー 土地に刻 iれた記憶ピ歴史-溜池の命名どその変遷を例にして とき 平成 20年 10 月 10 日樹午後 1 時 10分 ~ 2 時40分 場所 Aト3 0 1 対象学生、教職員、 一般 論題土地に刻まれた記憶と歴史一溜池の命名とそ 旧をめぐる民俗学的研究j などがある 。水田稲作とい う日本文化の基底にあると思われてきた生業も、細か く眺めれば、実は漁携や採集などの多様な生業との複 合の上に成り立っているということがいずれの著作で も具体的に述べられており、本を読みながらわれわれ の変遷を例にして 講師安室知(国立歴史民俗博物館教授) 近江は民俗の宝庫といわれることがあるくらい民 の単一的な稲作観が頭の中で心地よ く崩壊していくの を感じる 。細かいフィ ールドワー クから明快な理論を 導き出していく手法には学ぶべきものが多い。 俗文化が豊かなところであるが、残念なことに県下 当日は、安室氏の近年の フィールドである、山口 には民俗学研究者の数も少なく、お世辞にも民俗学 が盛んな土地柄とはいえない。第一線の民俗学者を 県下の溜池を題材として 、土地開発と地名とのかか わりについて話された 。パワ ーポイントを用いての お招きして最先端の研究成果に接することによって、 お話であったため、学生にもわかりやすい内容で 本学の学生だけではなく県下の民俗学に関心を持つ 方にも刺激を与えたい、そのような思いで国立歴史 民俗博物館の安室知氏をお招きした。 の博物館などにも呼びかけたため、民俗学関係の学 芸員の参加もあっ た。安室氏の研究については本学 安室氏は環境民俗学の分野で新たな地平を切り 開いてきた民俗学者で、滋賀県下でも守山市木浜を フ ィ ールドとして非常に綿密な研究を展開されてきた。 この後の本学における民俗学の展開を考えるときに環 境民俗学はその中軸を構成すべき領域であろう 。安室 氏の主な著書には 『 餅と日本人H水田漁携の研究H水 0 名程度であった。県下 あったかと思う 。参加者は 8 の研究者にも関心をもっ者が多く、セミナ ー終了後 は場所を変え、教員や大学院生、民俗学に関心を持 つ学生らの研究会に安室氏も加わっていただき、さ らに質疑・討論を続けた 。セ ミナ ーの内容を深化さ せる上で意義のある試みであったかと思う 。 ( 文 賀 市川 秀之) 野外ど舞台世界 と き 平 成2 0年 1 0月3 0日同 1 6: 3 0~ 場 所 A 2 2 0 1講義室 講 師 松本雄吉氏(維新派主宰) 講師略歴 熊本県生まれ。大阪教育大学で美術を専攻。 1 9 7 0年 劇 団 「 日本維新派」結成 1 9 8 7 年に「維新派」へ改称 「 喋らない台調、踊らない踊り、歌わな い音楽」をコンセプ卜としたまったくあ たらしい表現スタイルは 「 ヂャンヂャン 女オペラ 」 と呼ばれる。 場所との交感をたいせつに、劇場を劇団 員自らの手で建設する ユニーク なスタイ ルも特徴。 代表作に野球グラウンドを全面使用した 「さかしま 」や、離島の銅精錬所跡地 内 に劇場を建てた 「力ンカラ」など。 同作品では第二回朝日舞台芸術賞を受賞。 近年は国内のみでなく、オセア ニア・ヨー 口ツパな ど海外で、の公演も多い。 受賞歴 .大阪府舞台芸術奨励賞、大阪府 舞台芸術賞、朝日舞台芸術賞 、読売演 劇大賞優秀演出家賞 琵琶湖湖岸に舞台が出現した。彦根から北に湖岸 道路を進むと見えてくるかたまり 。普段見慣れた場 所に突如現れた空間、それが、さまざまな場所に舞 台を作ってきた維新派の舞台だ った。 このセミナーに先立つ てこの場所で行われた 「 呼 吸機械 j を観に行った 。田村駅から少し琵琶湖の方 に向 って歩く、すると 「さいかち浜」 という浜辺に 出る 。沈みそうな夕日を見ながら浜辺を少し歩いて いくと、巨大な屋外舞台が見えてくる 。そしてその 前には屋台村が作られていた。維新派の舞台にはこ の屋台村がつきものだという 。屋台には人がわらわ らと集ま っている 。簡単な食事をし、チケ ッ トと 座 布団と毛布を貰い、階段を上がる 。上った時に見え た琵琶湖はどんどん閣の中に溶けだしていく o そして、あたりが完全に閣に包まれた時、舞台は 人間文化・ 7 1 人・閏・文・化・通 ・信 始まった。 0月 2 ( 対-5日( 日 ) 、 9日( 村 -13日( 月) と全 舞台は 1 いう 。 0日聞かけ 部で 9日間という 。 8月から現地入りし 4 会場には維新派独特の脚本の一部が配られた。そこ 舞台を建設し、短い公演を終え、舞台を解体し、ま には見たことのない脚本の書き方が並ぶ。 こういっ た普段見慣れた場所になっていく 。屋外で演劇を行 たものから作品をつくる秘密が垣間見える 。 そして、屋外での作品についての解説があった。 うことはどういうことか、また今回の公演はどう 最後に質問の時間になった。学生のかなりつつこ いったものだ、ったのか、公演を終えたばかりの維新 んだ質問にも、 「つくる 」 という行為を長い時間続 派主宰の松本雄吉氏をお招きして講演をお願いし た。 けてこられたからこそ出る言葉のやりとりがなされ た。 当日は学内外から 1 1 0余名の聴講者があった。 まず今まで ほとんど舞台というものを見た事がない人が多い なかでのこの講演は、色々な刺激になったようだ。 説があり札、そこにしか無い、出来ないものの試行錯 しかし舞台について話すのは難しい。やはり 言葉 誤の歴史。そして、今回の琵琶湖での公演について で理解するよりも、現場に行って体感することが、 の解説。琵琶湖に舞台をつくるというのはもちろん 舞台を 一番理解する方法ではないだろうか。 維新派にとって初めての試みであり、琵琶湖の波に それからしばらくたったある日、新聞に朝日舞台 製作途中の舞台がi 変われたりと、困難の連続だ、 った 芸術賞アーテイスト賞を 「 呼吸機械」の作・演出に ようだ。演劇的な側面、舞台的な側面について、殆 より松本雄吉氏が受賞するニュースが報じられた。 ど企業秘密的な内容を話していく 。 琵琶湖を生かし、 (文責:佐々木ー泰) しかし琵琶湖としてのご当地的な作品をつくらない、 それは琵琶湖を抽象的なものに変える試みであると 72 ・ 人 間 文 化 人・閏・文・化・通・信 .2008年度卒業論文・修士論文・博士論文一覧 小林 力 暮らしの変遷 地域文化学科 字野将人 鵜沼 E依 川北佳奈 料理にみるマスキュリニティ 津田久美子 璃波有希 の教養 戦時下の地域婦人会 -r 枕草子j にみえる和歌と漢文 西井良輔 翠 勇樹 集落活性化のための空き民家活用 木之本町杉野学区に見られる集 宮本真次 『 明月記Jにおける方忌み ・方違え 箱家里美 方角禁忌に対する意識の展開 「 観光からみるジ、エンダ -J 後藤崇志 源氏物語千年紀によせて 十九世紀半ばにおける日本の対外 落を事例として 湖東の中山間地域における集落の 現況の研究 福島志帆 限界と消滅の間で 長浜市中心市街地 における空き家 の活用と 地域活性化に関する考察 丹波正博 旧彦根城下・長 曽根口御門の景観 復元に関する考察 関係 日本がアメ リカ を選んだ理由 同U 近江八景に見る景観の創生に関す の考察 彦根市稲 Iを事例として 校三津田 嶋本 旧彦根城下町善利組足軽組屋敷と 辻番所に関する考察 る研究 からみる 平安時代の女子教育 萌 中山道守 山宿に おける歴史的景観 構成要素 に関する考察 奥野春花 料理教室の聞き取りから 近江絹糸人権争議と女性 労働組合、サークル・文化活動 西田 旧能登川町を 主 と し て 湖東地方における屋敷畑から見る 平尾亮輔 槻御殿の復原に関する 一考察 -I 奥四畳」茶室を事例として 高島市新旭町針江における集落景 近世における児童観 児童の個性尊重と教育 幕末彦根藩と京都守護 吉川 野村干弦 森本英令奈 彦根藩皆米札奉行と米札 松村文音 山本知弘 近世の賭博と規制 敦 観に関する研究 遷を追う 地方公共交通の変容とその後の市 民団体の活動に関する 一考祭 一賭博観の変 和久田愛弓 地域団体商標の現状と課題 平尾健二郎 外客誘致における低廉宿泊施設の 藤津佑介 甲賀市水口町における両墓制 堀部久美子 中・近世の磯村と入江内湖 山川芙美 鉄火裁判の歴史的意義 井流有紗 日本に おける 障害児者教育と外国 福居恵子 中学校社会科公民領域に関する考察 人児童生徒教育 数江麻梨子 現代中国における 「 性」をめぐって 伊藤美友紀 中国人留学生の結婚観を中心に 日本人は モンゴル の地に何を求め 奥井達徳 可能性 京都市を対象地域としてー 平昌冬季オリンピ ック誘致問題か らみえ ること 寺本かおり ているのか。 国際養子 という現象から見える日 モンゴルに対する観光イメー ジ 韓社会の現状 村松佳代子 大津永治 百済武寧王の墓誌 ・貰地券について 湖上流通と祭組 宇野美里 と日本人旅行者の意識のずれ 現代モ ンゴル における女性の社会 的地位について 発掘された塩津港遺跡から考え たこと ーウ ランパートルの女性の意識調 高橋朋美 近世大名の城郭内及び藩邸等に お 査から 歴史記述をめぐる 比較研究 日比野愛 山田亜友美 生船形埴輪と 古墳 ける能舞台について 樗木佳奈 一 日本とモンゴルの歴史教科書か 滋賀県 を中心とした縄文時代の交 易について 上野なつみ 家で杷られ る地蔵 高島千晶 村落生活を支える 互助関係 牟田口わか菜 御旅所祭杷の類型 ら 日比文絵 葬送儀礼からみる地域共同体の役割 一岐阜県海津市南濃町戸団 地区を 事例 に一 トナリ 青木文香 関ケ原町の観光と歴史の ( 再)構築 人間文化・ 73 人・閏・文・化・通・信 浅居 彩 -r ゴーマニズム宣言j を題材に 「読書ばな れ」言説から見る 〈 子 ども >象 : 1 松山直樹 消費者との交流を通じた産地活性 鎌田賢博 して 現代の若者にみる自己形成 木下麻奈美 お年寄りから学ぶこと 小南亮輔 を考 え る 私の創りたいパン屋 化 の取り組み -・自 己に焦点をあてて ・ 信楽焼を事例として 水谷有花 女性誌から見る 「 理想」の結婚イ 過去の体験 と思想から現代社会 メージ 殺と同居する 2 0 代女性が結婚相 一 地域学の視点からー 手・結婚生活に求めるもの 安川達閉 若年に向 け られた 「自立 ・挑戦」 福本美香 言説 日本に生きるク リスチャンとして の私のアイデン テ ィテイ 岡崎真理子 コンビ ニエ ンスストア応長の就業 山形 形態と労働観 小林美緒 井上美甫 神戸在住イン ド人 コミュニティ ー 蓮 語り伝える ことの意義と可能性 日中対人関係比較考察一冷たい日 本人 とは誰か一 について シ ー ク教徒を事例に 今村典子 日本在住日系ブラジル人の教育問題 地域文化学専攻→ 彦 士 論 文 一滋賀県彦根市の事例 よ り一 複本 薫 伝統的工芸の現代的展開 イサム ・ノグチの「あかり 」 シ 杉浦周子 中世琵琶湖湖辺村落の景観 と環境 彰持;水 中国湖南省津市市の観光開発に関 リーズを事例 としてー 北川曜子 社会生活における時間とリズム 伊吹山麓社会にお ける慣習及び する研究 高橋身奈 古墳壁画からみた高句麗社会 李 院雨 唐代の東アジアにおける登州港の 包 宝柱 意義 慣行への関わりを事例 とし て 田中里絵 藤井美紗子 日本的キッチュを考える 題に関する 研究 滋賀県湖東地域における擬制的親 一 内 モ ンゴル 自 治 区 東 部 ・ジャ 子関係 ロー ド旗を事例 に一 宿オヤ ・宿 コ関係を軸に 渡遺 清美 依田知大 日本のイスラ ーム らー , 歩 としてー 劉 謙 『 なぜ学力 は低下したのかj 北川朱音 八日市大凧の魅力と将来性 高橋主格 月田 、耕平 空気 人のつながりが大空を舞う時 彦根 にお ける湖岸集落の空間構成 に関する研究 一水路をもっ伝統的集落を事例と 寺子屋教育から考える オ リエ ン ト文化 圏 水辺の生活空間の構成に関する研究 滋賀県近江八幡市を事例の中心 一改宗イスラ ー ム教徒の事例か 石原 中国少数民族地域における貧困問 一信楽狸を事例としてー してー 羅 拓夫 現代 中 国にお け る都市 コ ミュ ニ テ ィの変容に 関する研究 一湖南省長沙市燕山街を事例としてー 古代 日本間に おけるマイソロジーの形式的類似 田口悠紀 と文化伝播について イン ドヒマラヤ ・ラダック 地方の チベッ ト系社会における社会構造 西;宰佑美 『 睡蓮j に至るまで の変化 西村知夏 北近江のオ コナイとその存在意義 一村落での家連合運営を通 じてー 野津夏葉 人と人が共に暮らしていくために 福永恭啓 地域社会の中での動物園のありかた 地域にこだわった社会教育の可 松岡 葵 能性 夢とは何か 地域文化学専攻 楊 常宝 憎 士 論 文 現代 中国に おける農民問題 に関す 吉水友成 法華経を 中心 とした仏教思想につ る研究 河端達也 いて 空の思想の分析 ゴーマニス ト イ、林よしのり論 する構造的差別問題一 74 ・人間文化 社会・経済の持続的発展を 阻害 人・間・文・化・通・信 林 真弓 持ち物とそ こか ら生まれる住空間 の設計 生活文化学科 一 生活デザイン専攻 平野友里 恵、花風川 一癒しとともに生きる 病院施設一 青柳明日美 川井雄太 「 雑貨ショップ」とそのラッピン 福西悟一 アナ ログレコードは消えていくのか グの現在 藤田知佳 自然界の動物に着目したプロダク サウンドデザインの可能性 水 トアートの研究 の音によって構成されたコンセプ 松平仁子 トミュージック 徳田晴風 メカニカルパズルの現在 安慶田久美子 色名普及のためのアプローチデバ 宮川佳子 彦 根 駅 東 第 4 ・5公 園 公 園 づ く 三縁佳菜 理解するための水族館づく りの可能性 石原由香 a t i naのデザイン 愛着を誘発する P 悠 岩上隼人 映画の空間表現 り 一 犬上川流域水族館プロジエ 日本における大麻草の産業利用に ついての調査と考察 岩崎史子 現代における葛布の可能性 女性のための機能性を持つビジネ 賀好靖子 水を感じるツ ール の提案 片井あき 生活環境にいかされる図柄の提案 桂川紗綾香 着る人との聞に新しい関係を築く デザインの提案 長く大切にす ることを意識する服 北川麻衣 茶カテキンの苦味抑制に関する研 川上由美子 食品因子がヒト 体表温に及ぼす影響 桐畑奈緒子 授乳状況評価 のための母子観察指 究( 2) 標の検討 ままごと玩具の多様化と発展につ 乳婦の違い 後藤彩月 いて もりやまカフェ 坂井純也 作田沙織 仕掛けを用いて 清水 E紀 鈴木かほる 希世 ナイアシン過剰摂取が神経毒 キノ 鈴木優美 茶カテキンの苦味抑制に関する研 住宅の外観が織り成す景観につい 究(1) ての調査研究 高宮純子 食事組成の違いによる食後瓜l 糖値 滋賀らし - I さ」を活かしたお土産品の制作 中村朕貴 長尾祥子 トンガリケンちゃん再生マニュアル 野口香織 横組み文庫本横組み組版に関す 宏美 リン酸産生におよぽす影響 女性ら しい綿 クレープインナ ー ウ エアの提案 林 跡調査 鈴木千代美 滋賀県の繊維産業における商品 ・プ ロモーションの提案 徳野綾奈 妊娠、授乳期間中における水溶性 ビタミン摂取量と尿中排池量の追 中国河南省信陽市における 調査お よび日本の現状との比較 堤 食欲調節に働くグレリンの栄養病 態と症例報告 中国における冷蔵庫への使用者の 要求 抗生活習慣病ホルモン・アデイポ 度の症例検討 呼びかける 陳 斌 新しい生体指標を用いた栄養評 ネクチンの病態生理とその血中濃 ニットの新しい用途の提案 食問題の表現 リジン摂取による神経調節物質キ 価一尿中ミネラルの活用法一 ウエデイングにふさわしい空間の ニットのパーテ ィードレスー 高山まどか 母乳育児支援者と授 ヌレン酸の変動 旧中山道守山 提案 佐野彩子 梅村彩江 広がる「おままごと」の世界 宿の旅箆・堅田屋の再生ー 迫田絵梨 「カ か 、 わ、 い UWい、リ」男性の日常着の提案 生活文化学科一 一食生活専攻 スバッグの提案 萌 クト 柳谷智枝里 買 鯵 川村 供の遊び消えた可能性と新しい 可能性 イスの作製 伊藤 環境問題を見 つめ直す の変動 中井拓海 中学生の精神的健康状態と食習 慣・生活習慣・健康意識との関連 について る考察と分析 中西品子 食品因子がヒト体表温に及ぼす影響 通学路から居心地のいいまちをつ 永田祐己 「真 空 調 理 法 に 関 す る 研 究 J- くる 一「まちしるべj の提案一 ビーフステーキへの適用について 人間文化・ 75 人・間・文・化・通・信 野村友里絵 クロ ー ン病患者における栄養摂取 識 一読み聞かせボランテイアを 状況と抗酸化ビタミンによる抗炎 通してー 大谷ひとみ 症作用の検討 花房まなみ 野草エタノール抽出物の抗酸化活性 原田愛弓 栄養学 ・臨床学的見地からみたホ 文化について 岡田裕士 原田浩美 小野加純 げるか テクスチャ ーの比較 析から一 ハンバー 川口朔子 地域高齢者における栄養 ・運動に の効果 授乳状況評価のための母子観察指 松原 綾 ストレス指標との関 松 本 奈菜 男子大学生における減量 プログラ 松良美里 桜井佳織 朱 j 毎順 中学生の岨鴫能力・骨密度に関す 宿 早帆 貴子 横井健二 留学生の異文化適応問題 三人会話における 髪への接触行 動 一発語とタイミング調節 摂食抑制ホルモン、レプチンの主 プチン濃度の検討 山本 き方モデル ブランド志向と自己意識の関係に ついて ムの実施とその効果 白井中彩希 な生理作用と症例における 血中レ 山根絵梨香 漫画 i NANAJから示される女性の生 る要因の解析 山中明子 後期近代社会におけるノンエリ ー ト女 性 に つ い て に及ぼす影響についての構造解析 口腔内細菌に対する野草の抗菌力 野宿をする人々についての実証的 研究 児玉奈緒子 連 親の食意識 ・養育態度が子の食行動 松村佳奈 一学校生活に対する意識 との関連を中心 に一 宮本章晃 標の検討 裁判 員ゲームの会話分 中学生におけるメデ ィア依存傾向 と要因 関する健康プログラムの実施とそ 松岡沙和 いかに裁判は一つの過去を作り上 真空調理の保存方法の遠いによる グについて 福山由貴 多人数会話における会話内小集団 の融合と分裂 モシステインと血管疾患との関連 について パート 労働者がっくり上げる職場 武部明日佳 大学生の観光旅行に対する意識と その実態 田中友加 格差社会を生きる若者につい 児童における精神的健康状態とそ の背景に関する研究 POSからみた 2型 D M通院患者 の栄養教育の在り方につい て 血糖コントロールの良否か らみた後ろ向き調査から一 て 中村りょう子 中屋拓実 量的調査及び質的調査の分 析を中心に 生徒を行動主体に育てる環境教 育 ポリフェノールの S t a p h y1o c o c c u s a u r e u sに対する抗菌力 短期留学生の語りからみる現代女 性のアイデンティテ ィ形成 中学生への体験授業の試み から 超高齢社会における新しい介 護 高齢者団体日本アクティブ ライフクラブでの誠査を通して 生活文化学科一 人間関係専攻 岡原里紗 飼い主がペットに求める役割の変 夏川絵麻 3人会話における視線移動と共有 体験の有無 西岡タ紀 人はいかに掃除の中で 「 過ごしや 化 一 飼 育 に と も な う 生活環境に すさ 」 を見いだすのか 面のフィ ール ドワークから 注目して 磯貝麻衣 大学生の対人不安傾向ときょうだ 野田恵里 い関係の関連について 林 ー性格 ・ 和広 ケ タイ小説に対する若者の意識 スポーツが人間形成に与える影響 行動特性の視点から一 について 犬飼寛子 障害者のきょうだいが持つ 「同胞 ら 瞳 女性の化粧行動と自己開示の関 の人生」へのとらわれ感について 今石 係 遠藤徳子 76 ・人間文化 掃除場 前川達郎 生徒の自治的活動をはぐくむ取り 組み一生徒会指導の実践観察か 松原 地域イベントとまちづくりに関す スキンケアコンシャスに焦 点を当てて 子どもの本に関わる大人の意 ー中学校の部活動か ら 遼 る 考 察 一 国 宝 ・ 彦 根 城 築 城4 0 0 人・閏・文・化・通・信 年祭の事例を中心に一 御子柴泰子 共同作業における人 ・物 ・道具 村口奈津希 多人数会話における瞬目行動の機能 森 携帯電話による会話i からの離脱と 絢子 森本麻衣 によるスト レス軽減効果 投与タイミングによる違い 東本真紀子 生活習慣病における食生活および 再参入 方 院 酵母に対する植物抽出物の抗菌性 幼児はなぜ見えない部分まで描く 宮森紗耳目香 野草メタノ ール抽出物における消 血栓傾向とそのメカニズム の解析 のか 山口華子 臭および抗菌活性成分の同 定 乳幼児における問題解決への取り 組み →也者への援助要請行動の 渡遺真利子 多人数会話における自発的ジ‘ェス 綾実 チャ ーの同期現象 子育て経験は女性の 「 家族観j を どう変えるか?幼児期の子ど 渡辺美紀 -人間関係部門 城 発達 ヒトはいつから教えるのか 田野尻七生 一一 もを持つ母親へのインタビューか 歳代後半における他者への教示行 ら 4歳児 クラスにおけるいざこざ場 動の発達 面の観察 藤田瑞穂 音楽療法 とその効果について 生活文化学専攻 博 士 論 文 .健康栄養論研究部門 生活文化学専攻ー 修 士 論 文 福渡 水溶性ビタミンの栄養評価を目的 努 としたヒ ト2 4 時間尿の利用に関す る方法論的研究 -生活デザイン研究部門 宇井雪乃 学校教育施設内におけるサイン計 画 坂手誠治 産業労働者における身体活動量およ び体力水準が動脈硬化性疾患危険 地域開放に向けての現状と 因子に及ぼす影響とその予防方策 展望 -人間関係論研究部門 .健康栄養部門 清水篤史 中木真弓 未完のヴイ ゴツキ一理論一全体像 藤本麻里子 霊長類における至近距離でのコ B1欠 乏 が 他 の B群 ビ ビタミン タミンにおよぽす影響 高橋圭高 神谷栄司 の探求 速液体クロマトグラフイーを用い ミュニケ ー ションの進化的基盤に た尿中パントテン酸定量法の開発 関する研究 より簡単なストレス状態測 定プロ ミングとチンパンジーの覗き込み トコルの作成と日 Gへス ペリジン 行動から ニホ ンザルのグル ー .INFORMATION .2008年度教員活動報告 ・ ........ [ =地域文化学科】 -田中俊明(たなかとしあき) 昨年書いた国際文化学科新設問題は、いま小休止 状態である 。完全になくなったと 言 い難いのは、次 の理事がどうなるかわかっていないからであり、ま た悪夢が再発しないと は限 らない。 しかし、とりあ えず、今の状態に満足する 。 この年度は、それ以外 にも雑用が多くて振り回されたが、次年度は、いく ぶん軽減されるものと期待している 。 例年通り、まずは国外調査について記す ( 2 0 0 8年 1月 -2 0 0 8年 1 2月) 。 ( 1) 韓国。 2月末から 3月初 6日間。 田中科研。 扶鈴博 ・王興寺特別展。 ( 2) 台湾。 3月中旬。故宮博物院 ・梁職貢図観察 (学生帯同) 。 ( 3) 韓国。 3月下旬 6日間。団体案内。度,尚南北 道、新続発展の道。 ( 4) 中因。 4月下旬から 5月初 7日間。 中央大学 科研。遼東郡の県城土I I :踏査。 ( 5) 韓国。 6月中旬 6日間。 田中科研。調査の打 ち合わせ。全州博 ・全北文化財研究院など。 人間文化・ 77 人 ・ 閏 ・ 文 ・ 化 ・通 ・ 信 ( 6) 韓国。 8月中旬 5 日開。中央大学科研。扶鈴・ 2 0 0 8. 12 . 2 6 公州など都城遺跡踏査 ( 学生帯同) 。 ( 7) 韓国。 8月下旬 9日間。 田中科研。文字瓦調 査( 全州博・全北文化財研究院・弥勤寺:w:造物 展示館・扶絵文化財研究所・扶鈴博物館)。 ( 1) 遺跡調査。扶官会発掘現場。 主題 「 古代東北アジアの大戦争」 ( 2) (これは、大学での会議のために、 1月 1 2日出 古代武器研究会・大会 ・記念講演 ( 8) 韓国。 9月初 5 日間。 田中科研。文字瓦出土 2回にわ けたということ ) 1月2 6日出 国立歴史民俗博物館・ 「 三 国志貌書東夷伝の国 際環境」研究プロジェクト・シンポジウム ( 9 ) 韓国。 1 0月上旬 4日間。百済文化祭シンポジ ウム ( 公州大 ) 0( 下に詳細) ( 同 韓 国。 1 1月中旬 5日間。上古史学会シンポジ 0( 下に詳細) ウム ( 順天大 ) i r 貌志j 韓伝の訳注」 ( 3 )1 0月 7日ω 百済文化祭推進委員会主催 忠清南道歴史文化研究院 ・韓国伝統文化学校・ 次に、活字 になったものもまとめて記す ( 2 0 0 8年 1 月 -2 0 0 8年 1 2月) 。 ( 1 ) 学会口頭発表 公州大学校百済文化研究所主管 百済文化の世界化のための国際学術会議 「 大百 i 貌の東方経略に関する問題点 J( W古代武器 済国の国際交流史」 研究J9号、古代武器研究会)2 0 0 8 .1 . 12 、p p . 6 - 発表主題「百済の対梁関係 1 5 使を中心としてー」 ( 2) i 高句麗軍制に対する素描 J( 菅谷文則編 『 王 権と武器と信仰j 同成社)2 0 0 8. 3 . 9、 pp. 8 2 0 8 3 0 ( 3) 編 著 『 朝 鮮 の 歴 史 j 昭和堂、 2008.4.30 8 4 8 1 2 20 8 14 4) ( ISBN97 pp. 4 5 5 7i 三 国の興亡と加耶 Jp p . 5 9 9 3i 新羅 p . 9 5 1 1 8) の統一 と激海 Jp i 蘇定方墓と推定される墓、中国際西省 、 で 出 会 っ た JCW季 刊 韓 国 の 考 古 学 J8号 i 継 体 大 王 期 の 日 朝 関 係 J(高 槻 市 教 育 委員 会 編 『継 体 天 皇 の 時 代 徹底討論今 城 塚 古 墳 j 吉川弘文館、 2 0 0 8. 7 . 1)p p. 10 0 - 1 2 3 ( I S B N 9 7 8 4 6 4 2 0 7 9 8 8 4) ( 6) i 幽州刺史の名は母丘倹ではなく母丘俄だ J u季 刊 韓 国 の 考 古 学 J9号、 2 0 0 8. 9 . 1)pp. 11 4 ・ i 百済の興起から漢城陥落まで J( 枚方市教育 委員会・側枚方市文化財研究調査会 『 漢城百済 の歴史と文化J2 0 0 8 . 9 . 2 7)pp. 5 ・ 3 0 百 済 の 対 梁 外 交 ー 特 に5 1 2年の遺使を中心 ( 8 )i c r として J 大百済国の国際交流史j百済文化の 世界化のための国際学術会議、忠清南道歴史文 化研究院、 2 0 0 8. 10 . 6 )p p . 8 3 1 1 9 ( 9) i5 - 6世紀南海岸地域の伽耶・百済・倭」 CW全南東部地域の加耶文化j韓国上古史学会、 2 0 0 8. 1 1 . 14 )pp. 5 7 8 8 ( 則 「 泉男生一族墓の発見 J ( W 季刊韓国の考古学』 。 1 0号 、 2 0 0 8. 12 . 1)pp. 11 8 1 1 9 1 ) 発表主題 i5-6世紀南海岸地域の伽耳目・百済 ・ 倭」 その他の市民講座等 ( 定期的なものは省く) ( 1 ) 2月 3日( 日) 日韓古代文化研究会 ( 於アピオ大 ( 2) 5月 10日出 ]T Bカルチャー (大阪教室) i 白 村江」 8月 3日( 日)日韓古代文化研究会 ( 於アピオ大 6世紀百済の対外関係」 阪) i ( 4) 9月2 7日出 枚方市教育委員会・ 側 枚方市文 ( 3) 化財研究調査会主催「百済の歴史と文化 -i 莫 城篤一 J( 於関西外国語大学)にて 「漢城百済 1 1 7 ( 7) 第3 6回 韓国上古史学会学術発表大会 「全南東 阪) i 5,6世紀、新羅の領土拡大」 2 0 0 8 . 6. 1)p p. 11 2 ・1 1 3 ( 5) 1 1月 1 4日幽 順天大学校博物館 ・韓国上古史学会主催 部地域の加耶文化」 ( 執筆 は 、 「はじめに Ji 古朝鮮から楽浪へ 」 ( 4) ( 4) 特に 5 1 2年の遺 i 朝鮮 三 国 王 都 の 変 選 JCr 古代東アジア交 の歴史と文化」 ( 5 ) 9月2 9日開奈良歴史地理の会 ( 於奈良教育会 館) i 4-6世紀の日朝関係」 ( 6) 10月 1 1日目 ]T Bカルチャー (大阪教室 ) i 仏 教伝来J ( 7) 1 1月 8日出 よみうり文化センター梅田 「白 村江の戦い J ( 8) 1 1月 1 2日制 韓国文化院「スパイの見た高句 麗 」 ( 9) 1 1月2 4日 間 奈 良 女 子 大 学 ・史学会「百済武 寧王をめぐる諸問題」 競争的資金の獲得 。学術振興会・科学研究費補助金 ( 基盤研究 B) i 韓 流の総合的研究 j 国際日本文化研究センター 国出土文字瓦 デー タベ ース構築のための予備研 共同研究報告、国際日本文化研究センター ) 究」平成 1 7年度 -20 年度・研究代表 78 ・人間文化 2 0年度は 人・間・文・化・通・信 3 7 0 万円 ( 研究分担者への分担金をヲ!いて 2 9 3 万円) O研 究 分 担 者 基盤研究 s(中央大学妹尾達彦代 と竹部咲希で、地域に暮らしてきた人たちから聴き 取りを辛抱強く続けている。年度末には「とよさと 表)2 0 年度分担金は 1 0 0万円。 0連 携 研 究 者 基 盤 研 究 A(山口大学橋本義則代表) 便 JVo l . l,Vo . l 2 ,Vo . l 3として各2 0 0 0 部発行。豊郷小 学会委員会委員 する予定である 。 O朝鮮学会幹事(編集委員を兼ねる) O古代学協会 f 古代文化j編集参与 0奈良県立橿原考古学研究所・共同研究員 らが作った絵本 「まつりの夜に Jの原画展と講演会 学校!日校舎の耐震補強工事が終わって 一般公開が始 まれば、この小冊子を校内に配置し、訪問者に配布 1 0 期生川 口愛、 1 2 期生森愛鐘 その他の思い出は、 を県立図書館で開催 ( 1 1月)。 ゼミ研修では、倉敷 と直島 (7月)、世界遺産「石見銀山」の見学(12 月)等。 -武 E尚彦(たけむうたかひと)社会学、文化人類学、地 域研究、地域学 私自身は、湖北流域森林づくり委員会の代表委 員、シンポジュ ーム「湖北の森の明るい未来を考え 今年度もゼミ生たちとの協働に明け暮れた。 よう J( 長浜文化産業会館)を開催 ( 2 0 0 9年2 月2 2日) 。 夏休みには第 1 2期生 2人とメコン川に沿ってイン 栗東市防犯町づくり委員会委員長、長浜市防犯推進 ドシナ半島 (タイ → カンボジア →ベトナム→ラオス 協議会委員長、栗東市文化体育振興事業団理事等々、 →タイ)を巡る旅をした。東南アジアの恵まれない 様々な地域活動に参画した。年々増え続ける雑用と 子どもたちの支援活動に関心がある 2人に、現地の 興味関心の広がりを有り難く思う 。頑迷固胞に陥ら 現実を見せるための旅だった。中国国境の山岳地帯 ぬよう、若い学生たちに混じって、人生の深みを学 に暮らす少数民族の村々を巡ったり、養護施設を見 び続けたい。 学したり等々、今日の東南アジア社会が抱える深刻 な問題群に触れる毎日だ、ったが、学生たちには少し きっかったようである 。 -林 1 尊遇(はやしひろみち)考古学 今期の夏の気象は例年とは違い、天候が不安定で 第1 1期 ゼ ミ 生 6名(現 4回生 )は卒論提出直後、 琵琶湖湖底遺跡調査のフィ ールドワ ー クは順調には 南米の世界遺産マチュピチュへと旅立った。卒業旅 進まず、その上、水草も異常なほど繁茂して港への 行だという 。高山病で大変厳しい旅だったそうだが、 船の出入りもままならないほどで、困難を極めた 。 全員無事帰国。卒論の試問も終わり、全員進路も定 学生 5-6人と潜水調査を繰り返し行った。 まって、ほっとした。あとは 3月2 1日の学位記授与 式を待つのみ。 彼らは入学年次の 2 0 0 5 年春以来、湖西の朽木村に 暮らす人たちから聞き取りを行って紙芝居をつくっ た。爾来、自分たちを「朽木チーム 」 と称し、 4年 長浜市下坂 j 兵千軒遺跡一沖合い 1 82m、水深 3m で昨年確認した円筒状物体の精査、写真撮影。 その 位置の湖岸との関係を平板測量で作図。 米原市尚江千軒遺跡 昨夏、京都大学防災研究所 と大阪市立大学大学院理学研究科との合同調査によ 間交流を続けてきた 。文科省支援の近江学座にも 3 り、湖底の地すべり痕跡と判断された地点、沖合い 年連続で選ばれた。近頃では高島市の依頼を受けて、 5 0 0-6 0 0 m、水深 5-7mの水域を何度か潜水調 地元材で体育館を建てる運動に関与したり、地域か 査したが、その関連遺構・遺物は確認できなかった 。 らの情報発信や広報活動を継続的に担うなど、随分 高島市三 ツ矢千軒遺跡 地元の複数の古老 ( 元漁 実力を付けている 。 フォ ーラム誌 『 人と地域j が4 5 師)が か つ て 船 上 か ら 石 垣 を 見 た と い う 沖 合 い 約 号を数えたのも彼らのおかげである 。その仕事は第 4 2 0 m、水深約 6mの水域を何度か潜水して探索し 1 2期生と 1 3 期生に受け継がれ、本年度末にはさらに 2冊 ( 4 6号 、 4 7号)が発行された。 3期生 1 0名(亀島 また近江学座の朽木チ ームは、 1 たが、この湖底はヘドロが厚く堆積しており、近づ それでも我慢強く続けていると、割石が点々と存在 奈央、鈴木宏健、磯崎あゆみ、 山田陽二、中島由佳、 することが判明し、古代末頃の土器も発見された。 山岸昂史、前回佳美、加藤彩夏、高橋美也子、森愛鐘) に受け継がれ、聞き取りに基づく絵本 「やどり木 J (A くだけでそれが舞い上がり、困難な調査が続いた。 年度末の 3月末、水草がなく、少し暖かくなるぎ りぎりの時期に、合同調査の 一環としてサイドス 4版 、 2 0ペー ジ)が出版できた。県内各地の地域文 キャンソナ ーで下坂浜千軒 ・尚江千軒 ・三 ツ矢千軒 化を絵本に表現する仕事を続けたいと考えている 。 遺跡の湖底地形測量を実施し、次年度調査に活かす 秋からは受託研究 「地域文化 の再生と創造 J( 豊 予定。 郷町)も始まった。伊藤忠商事の大番頭古川鉄治郎 この湖底遺跡の調査に関しテレビ朝日の二度の取 が私財をなげうって建設した豊郷小学校 ( 昭和 1 2年 材 ・放映があった。 ①関西版[ゅう] " [ 湖底に沈む 完工)にまつわる 「ちょっといい話」を聞き取る活 石仏はどこから出現 動である 。 スタッフは 地域文化学科 l 回生の馬場葵 全図版[ス ーパーモーニング]["琵琶湖底に謎の遺跡、 I ?ナゾに迫る J2 0 0 8. 10 . 3 0、② 人間文化・ 79 人・間・文・化・通・信 水没村伝説 J2 0 0 9 .1 .2 2 また、韓国 KBSテレビ、 KBSネッ トワーク特選 放映時間約 5 0分)におい 『 弥勅寺の 三尊を訪ねて J( て、古代近江の渡来文化や大津京跡、崇福寺跡など に関し、出演と取材協力。放映 2 0 0 8. 9 . 18と2 0 0 8. 9 . 2 1 隣国全土。 -黒田末書 (くろだすえひさ)地域学・人類学 今年度ゼミ卒業生は 1 1人。修士 1人、博士 2人。 不況の厳しい年になったが、幸いにも就職希望の学 部卒業生は行き先が決まっている 。それぞれの新た ない。 「規則の起源」研究に有意義であ った。 3 )共同研究 a . 1 集団の進化学的基盤研究 1J( 河合香史代表: 東京外国語大学)。成果の 出版準備中 b.1 人類社 会進化論の再構築一霊長類と人間社会の構造論 的架橋 J(寺島秀明代表:神戸学院大学)。成果論 在地と都市がつくる循環型社会 集準備中 。 c.1 水野広祐代表: 再生のための実践型地域研究 J( 1もの 」 の人類学的研究ーもの、 京都大学) d .1 1 哉代表 東 身体、環境のダイナミクス J(床呂有¥ 京学国語大学) な出発を祝福したい。 1回生の環琵琶湖文化論実習 9名の 1回生と高島市の海津、耕UI、針江に では、 1 行き、地域の方たちにお世話になった 。 1)地i 或活動 a.1 椋川 ・結いの里」 今津町椋川区は、集落内に -荒井利明(あういとしあき)現代中国論 今年度も環琵琶湖文化論実習を担当しました。近 江についてまったく知識のない私にとって、湖西行 琵琶湖と日本海の分水嶺が通る 美 しい中山間地。 きは楽しく、勉強にもなりました。 2泊 3日の学外 実習だけなら、 1回生とふれあう機会が少ないこと 区民と外部者で 「 椋川・ 結いの里」を立ち上げ、 農林水省 ・ 高島市の助成で、萱葺き古民家を修復中。 もあって、毎年でもいいな、と思っています。 いい入門書がない、自分で書いてみよう 。 という 来年度から地域活性を進展させるため、地域活性 化先進地に区民と研修に行き、 多くの ことを 学ん わけで、担当している「現代中国論」の入門書を書 いてみました。 だ。5・6月には 「はるえ 」の牛耕と田植え 。環境 学部生が水田の生き物を調べ、 「 生 き物回んぽ米」 1月は映画会、姫回忠義 の売り上げに協力。9-1 IJ祭。祭り さんの講演会、そして「おつきん椋 J 6 0人が参加、近隣の人たちにも知 にはまちから 2 られる地域祭りに成長した 。 県大生も 1 6人が参加。 b.1 高島市若者が輝くまちづくり調査J 4回生山 形蓮さん、院生戸田雄ーさんたちが高島市内の若 者ネットワークを構築中。杉林久美子さんたちが 近江楽座 Bで高島への移住を誘うパンフ作成。 こ れらに関連して森下研究室では 「ファ ーマーズ ・ ファ ッシ ョン計画」が進行中。 c.1 火野山ひろば J 7、 8月に京都の市民環境研 究センターで 「ミニ環境講座」開催、余呉町で永 井邦夫さんと焼畑。 1 1月にヤマカブラ収穫。秋よ り、手作り水力発電、茅場再現の実践研究開始。 1 三津町志」 彦根市三津町志をまちづくり委 員会、 4回生野津夏葉さんと作成中。 d. e. NPOメロデイ ー +ハーモニー 県大ボラン テイアサークルのハ ーモニ ーがクリスマス会を交 流センターで主催。県大 ブラスパンドとボラン 5 0 ティアの皆さんが障害児 ・者と楽しく交流。2 人ほど参加。 2 ) 海外調査 8-9月、コンゴ民主共和国で類人猿ボノボの調査。 ガソリンは高く円は最安で大赤字 だったが調査は 上々 。他集団から移籍してきた若い雌が小枝をもっ た新しい追いかけ遊びをはやらせた。追いかけっこ で追う子どもは枝を取ってからでないとスタ ー トし 80 ・人間文化 「 序章 共産党と社会主義は変わった、 I 毛沢 東の「社会主義」、H 毛沢東時代の中国社会、血 部 小平の 「 社会主義」、W 改革 ・ 開放時代の中国社会、 V 江沢民の 「 共産党」、 V I 改革 ・ 開放 3 0 年の現実、 共産党と社会主 義は中国を救えるか」 という内容にしました。 お世話にな っている小さな出版社の知人に原稿を 見せたところ、「入門書としてはいかがなものか j と言 われました。でも、当初の予定通り、 『 現代中 国入門一一共産党と社会主義はどう変わったかj と いう題で、出版してもらうことにしました(日中出版、 3月刊行)。 本を出すときはいつもそうなのですが、「こんど は少しは売れるだろう 」 と期待します。だが、実際 はなかなか売れません。 以前お世話になった出版社の知人は、ひどい 「 う つ」にな って しまいました。私の本をせ っかく出し てくれたのに、あまり売れなかったものですから、 少しは責任を感じました。私と会っているときはい つも、とても威勢がよく、「この本はいけるぜ」み たいな話をしていました。 「 うつ」と聞かされて、 驚きました 。私が接していたのは、き っと、「そう 」 の状態の彼だ ったのでしょう 。 本を出すたび、「ぼくの趣味は売れない本を書く こと 」 と言っ てきました。その趣味はまだしばらく 続きそうです。入門書に時間をとられて、数年前か ら書き継いでいる「検証東アジア新時代」シリ ー ズの最終第 5巻は来年度以降の課題となりました。 W 胡錦 i 誇の 「 社会主義」、終章 人・閏・文・化・通・信 -定森秀夫(さだもり る。 1 0月には、科研調査で韓国へ。刊行されている ひでお) 東アジア考古学 2 0 0 8年 4月に赴任してから、 1年が経ってしま っ 発掘調査報告書の量には圧倒される 。各地博物館で た。前任地では、職場に慣れるまで(大学の内実や 出土遺物を観察したり、新しい博物館や遺跡発掘現 状況が分かるまで )3年ほどかか った 。 県立大では 場を見学したりして、最新の情報を多々得ることが 赴任早早、匡l 際教育センタ 一再編問題で内実の 一端 できた 。 を早々と知ってしまうことになった 。大学をめぐる 問題は山積しているが、 トップダウンを良しとする 風潮は如何なものか。 -潰崎一志(はまざきかすし) 都市史,保存修景 研究活動 講義では、「対外文化 交 流 論 B J イ考古学特論」・ 「比 今年も引き続き、奈良県立橿原考古学研究所の 較文明論Jを担当したが、特に 「比較文明論」 は講 西藤清秀らとともに、シリア・アラブ共和国パル 義準備が私自身にとっても大変勉強になった 。前任 ミラ遺跡、における調査を継続し(科研費基盤 ( A) 地では、出席カードの代筆をする学生が必ずいたの 1 7 2 5 1 0 0 8) 、2 0 0 8年度日本建築学会大会において 「パ ルミラ遺跡北墓地 1 2 9 b号墓の復元について j とい だが、県立大では今のところいない。真面白な学生 ばかりであるが、代筆を見つけ学生に教訓を垂れる うテーマで発表した 。発掘調査も継続して実施して 楽しみが無くなってし まった (この原稿提出後、代 いる 。 筆した学生を確認。 アラン ・ドロ ン主演 『 太陽がいっ ぱい J( 19 6 0年)の結末 !。 ) 近江八幡市の八 l 幡掘の石垣の調査も継続しておこ ない、 「滋 賀 県 近 江 八 嶋 市 に お け る 八 幡 堀 の 変 選」 2 0 0 8 年度は、 3回生 1名、院 1回生 1名の小所帯 というタイトルで日本建築学会大会で発表した 。 さ である 。 ゼミは 1対 1である 。 3回生とは考古学の らに、発掘調査や新たな建物調査で得た知見をもと 基本文献を講読している が、話が脱線してしまうこ に 「隠 された八幡堀」というタイトルで 『 地図情報j とがたびたび。 院 l回生とは、院生の専攻分野関係 vo . l 2 7No.4に発表した 。 の韓国語文献を講読し ている 。 また、昨年度近江八幡市から受託した 「重要文化 院 1回生 の提案で、竪穴建物復元プ ロジ‘ ェクトを 的景観選定地区石垣・護岸調査」 を継続し、近江八 2 0 0 8年度より進行中である 。 関係部署の了承取り付 幡の重 要文化的景観選定地区における整備計画を策 けなど事前の様回しを行って、いざ開始となると、 定した 。 資材調達で 何 度 も 断 い て し ま っ た 。幸 い 多 方 面 の 高島市でも昨年度に 引き続き海津・西浜・知内の 2 0 0 9年前半での完成 文化的景観の調査をおこない ,文化的景観整備計画 方々の援助で資材も調達でき、 を目指している 。 なお、このプロジェクトに関連し を策定に 着 手 し、文化的景観の調査・研究を継続し て、ホ ームページも立ち上げた 。 ている 。 2 0 0 8年に書いたものは、「日本列島出土の成安タ 教育活動 下俊信行先生退任記念論文集 『 地 イプ系陶質土器 J( a 文部科学省 「地域再生人材創出拠点の形成」 プロ 域 ・文 化 の 考 古 学 J )、 「三重県出土陶質土器 J 季 グラムに採択された 「近江環人地域再生学座 j にコ 干IJ韓国の考古学j 第 8号)、「愛媛県出土百済系陶質 ア ・ メ ン バ ー と し て 参 画 し 地 域 再生 学特論を分担 土 器 J 季刊韓国の考古学j 第 9号)、「 愛媛県出土 した 。 a 加耶系陶質土器J( f季刊 韓 国の考古学j第 1 0 号 ) 、「 常 a また前年度にヲ │ き続き文部科学省の 「 現代的教 三島遺跡、における古安宅遺構 J シンポジウム徳島 育ニーズ取組支援プログラム」の助成金を利用し 藩放下における城下町とその歴史情報資料集 J )の5 彦 根 市 男 鬼 町 で 『山村 「男 鬼 」 の 村 お こ し j プロ 本である 。 ジ、エクトや,湖東の古民家を対象とした 『 いかして 林博通先生のあとを継いで、滋賀県環境影響評価 民家 リ プ ロ ジ ェ ク ト を 継 続 し 地 域 の 活 性 化 や 地 審査会委員を委嘱され、環境影響評価の文化財分野 域文化の振興を視野に入れた教育プログラムを実施 を担当している 。 この審査会も、考古学以外の分野 した 。 で環境問題を色々と考えさせられ、私自身がむしろ 勉強させてもら っていると 言っ てもよい 。 9月には、島村一平先生のモンゴル調査へ参加し さらに近江楽座において自治体等地域から提案さ れた課題について募集がおこなわれる f Bプロジ‘エ クト 」 に参加した 。課題は 「湖北地域における都市 た。特に印象に残ったのは、青鋼需時代の積石塚が と地方の交流居住 ・移 住 促 進 事 業」 であり、 「木之 高句麗積石塚によく似ているということであった 。 本楽座」、「長浜楽座」 として学生とともに参画した。 時代は異なるが、高句麗の北方的要素の源流として 「木之本楽座 Jは滋賀県農政水産部農村振興課とと モンゴル方面の文化を考えても良いかもしれない 。 もに木之本町杉野の集落機能再編も視野に入れ、活 比較文化的に見て、興味が湧く 。科研が採用されれ 動した 。「 長 浜 楽 座」 は長浜市朝日町において空き ば、青銅器時代の積石塚をせ、ひ調査したいものであ 民家を活用した地域活性化の可能性を模索した 。 人間文化・ 8 1 人・閏・文・化・通・信 また、 「空き民家等活用モデル調査Jを押谷地域 も高いと思われる 。能登川町史 ・甲賀市史では、編 設計とともに実施し、永源寺町の空き民家の分布調 集委員長 ・執筆委員 として全体調整や史料収集を進 査と住民の意識調査を実施した。 めた。 また高島市新旭町ヨ シ群落及び針江大河流域 また,学生とともに近江八幡市白王町と高島市マ キノ町で文化的景観の調査を継続したほか、守山市 の文化的景観保存活用委員会の委員として、歴史部 門を分担担当している 。 の旧中山道沿いの民家調査や、多賀町の廃村の現況 調査をおこなった。 -棚瀬慈郎(たなせじろう)文化人類学・チベット学 社会貢献 今年度は、ここしばらくおこなってきた研究活動 彦根景観フォーラムの一員として彦根市芹町の足 の節目の ような 1年であった。 インドヒ マラヤのチ 軽屋敷と辻番所の保存活動を継続したほか、多賀町 ベッ ト社会研究としては、ラダック、ザンスカ ール 、 一国邸の保存 ・活用計画策定のための調査を実施し ラホー ル、スピテイの各社会における親族構造の比 た。 較、またそれがインド共和国の社会的枠組みの中で どのように変化していったかをまとめた論文 「イン -水野章二 ( みすのしようじ)日本中世史 ドヒマラヤのチベッ ト系諸社会における婚姻と家運 近年、環境史 ・災害史と近江を中心とする地域史 営 ラホ ール、スピティ、ラダック、ザンスカ ール に取り組んできたが、環境史 ・災害史関係の論文を の比較とその変化」を京都大学大学院、人間環境学 まとめ、 『 中世の人と自然の関係史 1( 吉川弘文館) 研究科に提出し、 9月に博士の学位を授与された。 ∞ 年 2月に刊行した。予定よりかなり遅 として、 2 9 れてしまい、そのため最近の不況の影響をもろに受 け、当初の約束より定価がかなり上げられて、出版 また、ダライラマ 1 3世時代のチベ ッ トを巡る国際 関係を、ダライラマ 1 3世の腹心であったブ リヤー ト 人僧侶、 ドルジ、エフの自伝を縦軸 として描き出すこ 部数も i 成らされた。値段の高い専門書は売れ行きが 0 世紀 とを目 指 した 「チベッ ト仏教世界の 2 止まっており、在庫管理などのコスト削減のためと ラマ 1 3世とアグワン ・ドルジ、エフ 」 というタイトル いう 。昨年度に行われたシンポジウムでの応仁の乱 の原稿を書き上げたのだが、こちらは現在出版につ いて交渉中である 。 に関する原島報告への批判を、 『 開発と災害 中世 4 J(新人物往来社)に掲載した。 また 「仰 都市史研究 1 木の棚田と山門領仰木荘」 という短いものを、 『 棚 ダライ ( 社会貢献) 今年は、 北京オ リンピック前にチベット問題が高 田学会 1 0周年記念誌j に執筆、近刊。棚田学会では、 まりを見せたせいで、講演にいっても前よりは熱心 7月の 1 0 周年記念シンポジウムで 「 棚田と里山」 を テーマに報告の予定である 。 県立大学 ・琵琶湖博物館 ・滋賀大学による、琵琶 湖の内湖に焦点をあてた歴史 ・考古・民俗・地理学 などの共同研究 「 琵琶湖の歴史的環境と人関の関わ りに関する総合的研究 J ( 科学研究費基盤研究 ( B)) は 3年目に入ったが、文書収集などで、多くの自治 体関係者の協力を得ることができた。来年度には報 告書を出さねばならず、少々気が重い。 また総合地 球環境学研究所プロジェクト 「日本列島における人 間 自然相互関係の歴史的・文化的検討Jにも引き 続き参加しており、やはり来年度に論文集を出版す る予定。前近代の里山や 山林資源利用の問題などを 担当している 。 また 1 1月には立命館大学歴史都市防 災セ ンタ ーで、「中世の水害一水害への対応を中心 に Jとして研究報告を行った。 自治体関係では、 『 近江日野の歴史 中世編』に「 荘 園制の展開」を執筆したが、前の巻が遅延したため、 現在校正中、近干 I J 。 日野町では、県立大学と京大の 院生 ・学生を中心に、町域全体の伝承や地名、集落 の祭杷や墓制、水利システムなどの調査を継続して おり、現在約 4分の 3近くの地区で調査を終了した。 学生たちの貴重な体験の場となっており、教育効果 に聞いてくれるようになった。中には、ワイドショー 82 ・人間文化 でのコメントを求めてくテレビ局もあってび、っくり した 。 ( 教育活動) 今年度は学部生 8名の卒論指導、大学院生 1名の 修士論文指導をおこなった。大学院生とは、ヒマラ ヤへの調査旅行を何度か共にしたことがあり、また 彼自身もヒマラヤ 山中の村 に 6ヶ月も滞在し、デー タを収集した。 ごくたまにではあ っても、こういう 学生が出現してくれることは教師冥利に尽きるとい うものである 。 -市川秀之(いちかわひでゆき)民俗学 。研究活動 調査としては昨年度に引き続き、 『 能登川の歴史j 民俗編にむけての聞き取り調査、集落内水路の実地 調査(滋賀県内 4 集落 ・岐阜県内 2集落)、湖南市石 部での墓石悉皆調査などをおこなった。特に墓石調 査は難航したが今年度中に終了する予定である 。そ のほかにも学生たちと東近江市奥永源寺、長浜市名 越、彦棟市本庄などで調査をおこない、個人的には 奈良県下で神武天皇祭の調査を実施した。その成果 は京都民俗学会で発表した。研究成果としては大和 人・閏・文・化・通・信 川と村落空間に関する共著の著書が出たほかに、年 度内に長年調査を続けてきた狭山池に関する単著の 論文集が出る予定である。また集落内水路の研究過 産税形態についても現地 程で関心をもった低湿地の j 活字になったもの ①単著 『 平安京都市社会史の研究 J (塙書房、 2 0 0 8 年 3月3 0日、総頁 3 6 8頁) ② 共著 三田村雅子 ・河添房江編 H源氏物語j をい 2 薫 り の 源 氏 物 語J(翰林書房、 調査を実施した。 さらに夏季には調査団の一員 とし ま読み解く てはじめてモンゴルにいき、現地の博物館の状況な 2 0 0 8年 4月2 6日、総頁数 2 2 9頁、うち 「平安京貴 6 7 族文化とにおい一芳香と悪臭の権力構造 J( -85頁)を執筆) ① は初の単著書で、第 3回女性史学賞をいただき どを調査した。 r .( 共著 ) 日本の民俗 j 6村 の 暮らし 館 2 0 0 8年7月 r 吉川弘文 うち「村の場」 を執筆 .( 分担執筆) 大和川付替えと流域環境の変遷j古 2 0 0 8年 1 0月 今書院 まし f こ。 うち 「 付替え以前の河内平 野の用水形態 J["用水形態の変化J" [ 交通形態の変 2 :その他の活字 化 J" [ 大和川関連歴史年表Jについて執筆 ①書評 瀧浪貞子編 『 源氏物語を読む Jc r 京都新聞 j r .(単著) 歴史のなかの狭山池j 清文堂 ( 印刷中) .(単著)" [ 湖北のオコナイ調査から見えてきたもの」 『 人間文化J2 5 2 0 0 9年 3月(印刷中) .( 口頭発表)[ "神武天皇祭の民俗行事化 J( 京都民 俗学会 2 0 0 8 年1 2月7日 例教大学) 2 0 0 8年 7月2 0日) ②書評 義江明子著 『日本古代女性史論J( rジェン ダ一史学j 第 4号 、 2 0 0 8年 1 0月2 0日) ③「平安貴族文化とにおい J( r 佐保会京都j第2 3号 、 9頁 、 2 0 0 8年 1 1月1日) ④『京都新聞 j 夕刊コラム「現代のことば」 。教育活動 本年度のゼミは 4回生が 4名 、 3回生が 1名。 4 回生はそれぞれユニークな卒論を書いてくれた。 ま 2 0 0 8年 3月 5日「財政難のその果てに J.2 0 0 8 年 5月 1 2日 「校歌の想い出 J. 2 0 0 8 年 7月 1 8日 「平 た本年から社会人で博士課程の大学院生が加わり、 2008年 9月 1 1日「ラオスと 安時代の麻疹流行 J. 研究室の年齢構成はますます多彩なものとな った。 平和 J.2 0 0 8年 1 1月 1 8日「大学の男女共同参画 J. ゼミでは、大津市仰木、東近江市福堂 ・長勝寺など 2 0 0 9年 1 月2 3日 「牛車で GO !J の調査を行っている 。授業としては今年から民俗学 実習を始めた。民具の実測を中心としたが、初年度 であるため学生のペ ースをよく理解できていなか っ た点が悔やまれる 。 また計画を繰り直し充実した実 ⑤寄稿 「滋賀県の男女共同参画が後退してしまう 」、 『 滋賀民報J2 0 0 8年 3月 2日号 ⑥「広大で多彩な魅力楽しむ J、 「源氏物語千年紀展 J 3 3 3号 ( 20 0 8年 5月 4日号) 『 京都民報j 第2 習にしていきたい。 また社会調査実習の担当者の一 ⑦「 目で見て耳で感じることの大切さ J( r 2 0 0 8年度 員ともなった。専門からす こし離れた分野ではあ っ かがわ国際ボランティア未来塾報告書 j 、2 0 0 8年 たが個人的にはとても勉強になった 。 。地域貢献 ・社会貢献 昨年度に引き続き、能登川の歴史編集委員や柏原 市文化財審議委員などをつとめ、またあらたに滋賀 県より 近江水の 宝 1 0 0選選定委員に委嘱された。 さ らに大阪府松原市、奈良県立同和問題関係史料セン 1 0月 、 3 6- 3 7頁) r滋賀民報 J1 9 4 5号 ( 2 0 0 9年 1月 @["私の交遊録 J( 1 1日)、※こつこつと滋賀の女性史を研究 師と 仰ぐ早田リツ子さん) 今年度も新聞を媒体とし て社会にむけて発言する 機会に恵まれました。 タ一、野洲市立歴史民俗博物館などで講演をした 0 ・「 大和川付替えと溜池の開発 J( ふるさとピアプラ ザ松原 2 0 0 8年 1 0月 1 1日) ." [ 民俗学から見た大和のムラ J(奈良県同和問題関 係史料センター 2 0 0 8年 1 0月2 3日) ." [ 低湿地の農業と民具 J(野洲市立歴史民俗博物 館 2 0 0 9 年 3月1 4日) 3:講演なと‘ ① 滋賀県立大学教職員組合(県大教)主催シンポジ ウム 「 男 女共同参画社会の中の滋賀県立大学 多様 な生き方が尊重される職場をつくる 」 0 0 8年 3月 1 8日、於.滋賀県立大学 パネラ 一 、 2 ② ラボール学園日本史講座、「庭園に見る都と都」、 -京集真帆子(きょう 5くまほと)日: 本古代史 2 0 0 8年 5月 1 2日、於 ラボール学園 源氏物語千年紀であった 2 0 0 8年、私の仕事も 『 源 ① 佐 保 会 京 都 支 部 平 成2 0年 度 総 会 講 演 、 「平 安 氏物語j に関わるものが多かったです。今年度は特 京貴族文化とにおい」、 2 0 0 8年 6月 1 5日、於:か に講演をがんばりました。 らすま京都ホテル ④ 平 成2 0年 度 彦 根 市 男 女 共 同 参 画 セ ン タ ー ズ講座 ウイ 公開講演会、「平安時代のキャリアウー 人間文化・ 83 人・閏・文・化・通・信 マン ー 紫 式 部 の 苦 悩 ・清 少 納 言 の 愚 痴 」 、 2 0 0 8年6月2 1日 於 : 彦 根 市 男 女 共 同 参 画 セ ン ター 代表:大阪大学桃木至朗 ① は今年度が最終年度なので、報告書をまとめ中 です。②では今年もベトナム調査に出かけ、その成 ウィズ ⑤ GNETしがフェスタ 2 0 0 8 講演、 「近江の女た 司 果をまとめ始めています。①は久しぶりの研究代表 ち~名を残さなかった女の歴史 ~J 、主催.男女 者で、史料閲覧の旅に出かけ、原本調査の楽しさを 平等条例を推進する会 ・草津い ーぶん学舎、於 満喫しています。④は研究協力者として、日本古代 G-NETしが、 2 0 0 8年 1 1月 1 6日 都市史研究の立場から発言 をしています。 ⑥ 公開講演会、 I W源氏物語jと紫式部 で読み解く平安時代 ジ、エンダー J 、主催 0 2 0 3の会、於 0 0 8年 1 1月2 9日 大津市生涯学習センタ一、 2 ⑦ウイングスフォ ーラム 2 0 0 8 講演会、 I r 源氏物 語j の時代一紫式部と清少納言一 」 、主催:京都 地域貢献としては、今年度も滋賀県建築士審査会 委員および滋賀県男女共同参画審議委員として議論 に参加しました。 また、東近江市史(能主主川の歴史) 調査執筆委員としても原稿の執筆に追われていま 市男女共同参画市民会議運営委員会、京都市、於 す。今年は、高校生用男女共同参画社会づくり副読 0 0 8 年1 2月7日 ウイングス京都、 2 本 ③地 域 人 権 教 室 古 典 か ら の メ ッ セ ー ジ 古 典 か ら 改訂編集委員会の顧問をつとめさせて頂き、高 校の現役の先生方と議論をする機会も得ました。 ひもとく女たちの歴史・その役割、主催:滋賀学 区人権 ・生涯学習推進協議会 ・大津市立皇子が丘 来年度は公務が非常に忙しくなる 予定です。 が 、 市民会館・大津市立滋賀公民館、 「 古典からのメッ 自分を見失わないように、研究に、教育に力を 注い セージ でいきたいと思います。 男女共同参画の視点で歴史を読み解く 」、 於.滋賀公民館 ( 大津市)、 2 0 0 9年 1月2 4日 ⑨ アスニーセミナー n 小右記J からみる平安時代」、 主催京都市生涯学習振興財団、於.京都アスニー、 2 0 0 9年 2月 6日 ⑮平成 2 0年度男女共同参画セミナー 「あなたは、輝 いていますか? 平安時代の女性の生き方から学 -ボルジギン・ブレンサイン近現代社会史モンゴル、 中国東北地域史 [1]年間活動 今年は、副指導教官であるが、博士課程の学生を 一人卒業させることが出来ました。 同学生は 1 2月に ぶ」、主催:女性会議はちまん・近江八幡市、於: 『 現代中国における農民問題に関する研究』 という いきいきふれあいセンター(近江八幡市)、2 0 0 9 テーマの博士論文を提出し、 2 0 0 9年 2月 3日に公開 年 2月2 8日 タイトルからもわかるように、 『 源氏物語j 関連 審査を経て博士学位の授与が認められました。その の依頼が多く、あらためて古典文学を読み直す絶好 からはさらに博士謀程と修士課程の学生を一人ずつ の機会となりました。 0 0 9 年 4月 ほか修士課程の学生を 一人卒業させた。2 迎えることによって大学院は博士号~程生二 人と修士 課程生一人という体制になります。本年度は海外調 この他、放送大学で面接授業の講師もっとめ ( 1日 査も 重ねました。 6月下旬にはモンゴル図のウラン 0 0 8年 1 0月2 5 . 2 6日 於 滋 賀 学 習 セ ン 本女性史 J 2 ノ 〈 ー トルで国際学会に参加し、下記のテ ーマで研究 ター)集中講義の楽しさを味わいました。 なお、今 発表しました。 9月上旬には再度モンゴル国を調査 年度もヲ │ き続き、長浜バイオ大学と同志社女子大学 した 。それは、本学のほかの教員と十数名の学生と に出講しています。 の共同調査でした。 9月下旬には中国の内モンゴル また、科研費としては以下の 4つを頂いています。 ①科学研究費基盤研究 ( B) 1 国家 ・共同体・ 家にお ける ( 母〉機能の意義と変遊 〈 男〉を育てる く 女〉 自治区と遼寧省に調査を実施し、現地に留学中の本 学の学生が調査に同行した。 研究の面では、岩波書広が進めていました『世界 0 0 6~ 2 0 0 8年度、代表:神戸 の比較文化史一」、2 史史料j の刊行がはじまり、そのうち第九巻には二 大学高田京比子 つの項目を執筆した。 またほかとの共編である 『 境 ② 科学研究費基盤研究 ( B ) 海外学術調査「東南ア 界に生きるモンゴル 二十世紀における民族と国 ジアにおける地域コンフリク卜の緩和・予防と 「 共 J も八月書館から出版されました。本書に収録 家- 生の知 j の創出」、 2 0 0 7~ 2 0 1 0年度、代表:茨城 されている論文「中国の東北 三省のモン ゴル人世 大学伊藤哲司 界」 はここ数年進めてきました科研費の研究成果の ① 科学研究費 萌芽研究 I r輿 車 図 考 j の研究 」、 2 0 0 8~ 2 0 1 0年度、研究代表者 ④科学研究費 基盤研究 ( B )1 中近世ベ トナムにお ける権力拠点の空間的構成」 、 2 00 8~ 2 0 1 0年度、 84 ・人間文化 一部でもあります。そのほか大学院のゼミの一環と して進めてきました東洋文庫所蔵「北京ウンドル王 府モンゴル語文書記録帳写本 Jの研究も内モンゴル での出版に向けて最終段階に入った 。 人・間・文・化・通・信 たが、古文書漬けでも音をあげない学生らが育って [2] 活動一覧 きたことは、私にとって大きな収穫です。 1.研究活動 昨年度はなるべく遠慮させていただいておりまし ( 1 )著書 ユ・ヒョヂョン た研究報告等も、今年は積極的に行いました。 甲賀 ボルジギン・ブレンサイン編 の前挽鋸仲間や琵琶湖の舟運、琵琶湖岸の度地、大 2 0世紀の民族と国 溝城など、テ ーマ も話す場も色々でしたが、今まで 著 『 境界に生きるモン ゴル│世界 家 j 八月書館 2 0 0 9年3月 の研究成果をそれぞれまとめた報告です。一般向け ( 2 )研究論文、ほか の講演会もさせていただきました。 まさに、この原 ①「中国領モンゴル人が母語で文化人類学を学べる 稿を執筆している本日、草津宿街道交流館において、 ことになった 一内モンゴル大学の 「 民族学社会学 「草津もゆれた、幕末の伊賀 上野地震」 という題で、 学院の紹介一J 日本 とモ ンゴル J4 3 1(No、1 1 7) 安政伊賀上野地震について話してきたと ころです。 日本モンゴル協会、 2 0 0 8年9月 、 pp1 13 -1 1 6 報告のなかでとりわけ印象深いのは、琵琶湖の舟運 r ② 『世界史史料j 第 9巻 r 1 5 1 抗墾闘争胎谷の 1 9 0 2年 8月 6日)、 p p 2 5 0 2 5 1 上奏文 ( ①『世界史史料j 第 9巻 1 5 0 清末新政と 「移民 実辺」政策一本春燈 の上奏文 ( 19 0 1年 4月2 0日)、 p p 2 5 12 5 2 ( 3 )学会口頭発表 r ①「中国東北三省の モンゴル人世界J日本モンゴル 協会 2 0 0 8年 4月 5日 文学・メディア・ア ーカ イブズからみたグローパ 近江国の流通史を研究している研究者は、現在では 全国的にみてもほとんどおら ず、よ くぞ 3本も報告 が揃ったものよ、と感慨無量。 私は、 「 艦折 (とも て報告を行いました 。 これらの報告は、学会誌 『 市 場史研究j に掲載される予定です。 地域貢献の面では、昨年度に引き続き、県をはじ めとする自治体の審議会委員等をいくつかっとめま した 。 教育活動では、ゼミ生で初めて、原史料を用いて 卒業論文を書いた学生が現れたことが何より 嬉しい 出来事でした。来年度以降も続いてほしいのですが、 C )一般研究 現 3回生が 9人もおり、指導の面で若干不安を感じ 研究テ ーマ.辛亥革命以後における旗入社会の民 ています。早め早めに準備をさせる必要がありそう です。 族的帰属意識の変遷に関する研究 E 地域・社会・国際貢献 -島村一平(しまむらいつベし、)文化人類学・モンゴル研 学会委員会委員 ① 日本モンゴル協会 ぞれ近江田の流通史について報告しました。近世の J2008年 6月 2 3- 2 5日、ウランパートル ( 4 )競争的資金 科学研究費 ( 基盤研究 学の先生と 日本学術振興会の知人との 3人で、それ おり )廻船 j という琵琶湖特有の廻船の秩序につい ②I n t e r n a i lz a t i o no fCu l t u ra lC o n f l i c ta ndModern Mongol ia:A case study o f Land dispute between Haisan and Namsarai Wang o f T u s h i y e t u h a nAimag r 匡I~祭シンポジウム ル秩序一北東アジア社会を中心に について報告しました市場史研究会大会です。今年 度大会が大津市で開催されるという ことで、滋賀大 ,句 7 l . 忙 しい l年だった 。前期の講義以外の時間は、 ほ 評議員 ②『日本とモンゴルj 日本モンゴル協会誌 編集委員 ほ夏のモンゴル調査・研修旅行の準備に忙殺され 5日-9月 1 3日の聞で出国日・帰国日が 4 た。 8月2 -東 幸代(あすまさちよ)日本近世史 今年度 は、准教授になって初めて迎えた年度です。 「 何か変化は?Jと聞か れるこ とがありますが、私 パタ ーンに分かれる 1 5名の学生の航空券手配、予定 表作りと現地での車両、宿泊などの準備、現地コー デイネ ー ターと の打ち合わせ。モンゴルでフィール の場合、数年前の助手から講師への職階変更の際の ドワークを行う学生 2名の プログラムの策定や通訳 身辺変化があまりに劇的で、、今年度はまだその延長 の手配。 でひたすら忙しかったという印象です。 研究活動では、今年度も例年通り、米原市内の寺 また今年 は 、 曽我学長の モ ンゴル訪問 (9月 3日 日-9月 9日)と名誉博士号の授与がなされること 院文書、甲賀市内の大名家文書、高島市内の区有文書、 となり、その打ち 合わせ も作業に加わ った。 また後 東近江市内の家文書など、多くの古文書調査に従事 半の地域文化 ・環境の教員(演崎教授、定森教授、 しました。いくつかの調査は学生らを同伴したので 岡野准教授、市川准教授、ブレンサイン准教授、私) すが、そのうち 2度は 1泊 2日の合宿で、日中は調 によるフブスグル県の調査 (9月 3日- 9月 1 3日) 査、夜 は食後に古文書コピー読解の勉強会を行いま の準備もせねばならない。 した。ゼミ配属前の 1、 2回生も参加してくれまし 同時進行する 三つの企画に関する書類 ( 全体の行 人間文化・ 85 人・閏・文・化・通・信 程早見表、 6種類の個別の予定表、見積書、連絡先 術調査のコーデイネータ一、ブラック・シャーマン 一覧など)を日本語で造ると同時にモンゴル語に翻 社( オトゴンチメグ社長)が担当した。 また、体調 訳して現地に送り、現地の情報をもとに訂正をする 不良のため、フブスグル湖へのツアーに参加できな という作業は、かなり骨の折れる作業だった。特に かった学生 4人に関して、モンゴル滞在中だ‘った岩 昨年は石油の値段の急騰により、当初の見積もりの 佐佳子さん(大津市・ N G021世紀のリーダーの相 変更を 二度にわたって行わざるを得なかったのは、 談役)に面倒を見て頂いた。日本での書類の作成に 不可抗力とはいえ、疲れる作業だった 。 関しては、モンゴル国立大からの交換留学生 B ソ しかも出発直前になって、航空券の手配を担当し ていた日本の旅行代理庖が本学教員の出国日 ・帰国 ヴド ・エルデネさんにも協力してもら った。記して 謝意を表したい。 日を間違えて予約していたことや現地スタッフの ミスでモンゴル国内便 (ウランパートル フブスグ ル)の飛行機の予約がとれていなかったことが発覚 [1] 研究 昨年 1月に本学において行った国際シンポジウム した。 日本の代理庖を飛び越して、その代理庖の現 『 文化資源として利用されるチンギス・ハーン 地スタ ッフと直接交渉し、教員のチケッ トはなんと ンゴル、日本、ロシア、中国の比較から j における モ か確保したものの、学生諸君にはフブスグルからウ 発表原稿を本学部紀要 『 人間文化J2 4 号において特 ランパートルへの帰路およそ 9 0 0 k mを急 i 選 手配の車 集を組んだ。私自身もシンポジウムと同タイトルの で、帰ってもらうしか方法がなくなってしまった。 論文『文化資源として利用されるチンギス・ハー さらに追い打ちをかけるかのように、モンゴル国 ン モンゴル、日本、ロシア、中国の比較から J 立大学における曽我学長記念講演の会場がドイツ・ ( p p 7 3 4 )を執筆した。 同時に同特集における T モンゴル共同主催の環境学系のシンポ ジウムとダブ クリンニコヴァ教授(ロシア科学アカデミー・シベ ス ル・ブッキングされていたことがわかった。概して リア支部)のロシア語論文 r 06pa3YHHfHc-xaHa モンゴル人は、 MAX個人主義的であり、組織とし lH 3Ma BKOHCTpYHpoBaHHH6YPllTCKOfOHaUHOHaJ ( ブリヤートのナショナリズム形成におけるチンギ ス ・ハーン像)を翻訳した。 て仕事をすることが SUPER苦手な人々である 。 したがって、われわれが彼らに何かを交渉するとき、 一人のトップに話をつければいいというものではな また、国立民族学博物館の共同研究会「ストリー く、その下のそれぞれの担当者と直接交渉せねば、 トの人類学(代表 関根康正 ) Jの成果である論文集が、 事が運ばない事も多い。 そのくせ、 国立民族学博物館調査報告 『 ストリートの人類学j トップの了解が ないと担当者は動かないからやっかいだ。 として出版された。私は 3 1章の「ハイカルチャ ー化 そこで急濯、サパテイカルでスタンフォード大に するサブカルシャーポスト社会主義モンゴルに 8月末に出発予定だ、った、モンゴル国立大のカウン おけるポピュラー音楽とストリート文化Jを執筆し ターパート、ムンフエルデネ教授にアメリカ行きを た。 延期してもらい手配を手伝ってもらうこととなった。 ともかく、出発まで心落ち着かぬ日々が続いた。 とはいえ、結果的には研修旅行、授与式、調査に それから、モンゴル教育大学の紀要における特集 MOHfOJInaXhI l IawHHhIθHω fHMHH9X白 号 W 日 9J I6aTY YHHMCynaJ lf aa( rモンゴルにおける 関して、おおむね問題なく終わることができたとい 宗教の現状とその研究Jにモンゴル語の論文rHl1 える 。 4人の学生が途中、発熱・下痢などの体調不 30BJIOH:OP' l I 1H yel 1 apbIH69 白 f 3且3fH3PTO MbeoHbI TaJIaapX 3白 P可1J I(シンク レテイズム の困窮:モンゴルのシャーマニズム研究における「黄 色いシャーマン」を巡る言説とその矛盾)を執筆し た。 良をおこしたものの、学生たちは、ウランパートル からゴピ砂漠へのオフロード往復 1 8 0回、フブスグ ル湖への復路9 0 0 k m(往路は飛行機+車で' 1 8 0 k m)の オフロード・ツアーを無事こなした。学長の名誉博 士号授与式も無事とりおこなわれ、また天候により 白河月 3 fC3Tf3月 f33HI 1 前 員HMOHfOJI瓦aXb凹 ルートの変更はあっ たもののフブスグル調査も無事、 学会などにおける発表に関して、 2月2 8日、東北 終了した。調査に参加された先生方におかれては、 大学東北アジア研究センター主催のシンポジウム 私の不手際でご迷惑をおかけしたことも多々あるこ 『ノマド化する宗教、浮遊する共同性 とだろうが、どうかご容赦のほどを 。 ワタクシ、イッ ジアにおける 「 救い」の位相 j において 「国境を越 パイ、イッパイデシタ 。 ちなみに学長の名誉博士授与式と本学教員のフブ スグル調査に関しては、モンゴル国立大学 ( ムンフ エルデネ教授、チョローン講師)がコーデイネート を担当したが、本学学生の研修旅行に関しては、学 86 ・人間文化 えるシャーマニズム 現代東北ア ロシア・モンゴルに居住する アガ・ブリヤートのシャーマンたちの活動から」と いうタイトルで発表を行った。 人・間・文・化・通・信 [2] 教育 まずは、本学に赴任して 3年半、初めて自分のゼ ことになったので有り難い限りです。 これで、少し 気持ちのゆとりをもって子どもと向き合うことがで ミから 4名の卒業生が出たことを記しておきたい。 きそうです。 そのうち 2名はモンゴルでフィールドワークを行い、 [教育活動] 今年から、授業の中でグ ループ・デ イスカッシヨ 1名はモン ゴル語の文献を読んで、卒業論文を仕上 ンのようなものを時々取り入れてみました 。なかな げた。 また、本年度よりモンゴル国立大学との交換留学 か思うようにはいきませんでしたが、授業評価アン 制度が始まり、 3名の地域文化学科の学生がモ ンゴ ケートを見る限りは結構好評なようですので、今後 ルで学び、帰国しつつある 。来年度も 3名の学生が も試行錯誤していきたいです。 モンゴルへ留学することとな っている 。 ちなみに本 着任以来、 2回生のプ レゼミは田中先生とご一緒 年度の日本からモンゴルへの留学生数に関して、モ してきましたが、いろいろ考えて、 「 独立」 してみ ンゴル語学科を擁する東京外大は 2名、大阪大学外 ました 。今までは朝鮮近現代の通史をや ってきまし 国語学部の学生は l名となっており、 3名の本学は たが、それは講義のほうでやっているので、別のこ 最大派閥?に躍り出る こととな った。 とをやってみることにしました 。結局、来てくれた ゼミ生は前期も後期も 一人で、学生の要望を聞きな [ 3 ] 社会貢献 本年度の日本文化人類学会の研究大会において、 がら、前期は在日外国人の子どもの教育について文 献で学習し、実際に近隣のブラジ、 ル入学校に行って モンゴル・セ ッションの座長を務めた。 また、本年 みたりしました。後期は、在日朝鮮人がモチーフに 2月2 4日には兵庫県阪神尼崎シニアカレッジで「回 なっている 「 帰ってきたウル トラ マン 」の 「 怪獣使 廊地域としてのモンゴル:チンギス ・ ハーンの末商は、 いと少年」 を見て議論したりしました。 なぜ 「 純粋な遊牧民」 とな ってし まったのか j とい 昨年度は卒論生がいなくてのんびりしたお正月を 5日には、人間文化セ う題で話をした。 また、 1月2 ミナ - ユダヤ人の国民化と パ レスチナ占領の 百 過ごせましたが、今年は 3人の卒論生がいて、卒論 r 講 師:早尾貴紀氏)を企画した。奇しくも 年J( 本セミナ ーの直前にイスラエルのガザ侵攻が起こり、 添削しながら年を越しました 。 [研究活動] 「滋賀県の近現代史にお ける在日朝鮮人・朝鮮に 計らずして Upt od a t 巴なイベントとな った。しかし、 関する基礎研究」 という研究課題で、初めて科学研 計らずも私自身もインフルエンザで倒れ、当日の司 究費 ・若手 B を得ることができました ( 1 若手」 は 会を武田俊輔講師にお願いするということとな って 年齢的に滑り込み…)。大津の県庁にできた県政史 しまった。 まったく世の 中、計り知れない。武田先 料室に通いながら、ぼちぼち進めています。 あと、 生、どうもお世話になり ました。それにしても 「 社 敗戦直前に県内に 3箇所あった捕虜収容所について 会貢献」 という項目がある以上、毎年こうして書く も調査を進めました。書いたものとしては、こ こ数 のだが、例年に同じく、どれだけ社会に貢献してい 年抱え続けて(迷惑をかけて)いた回中俊明編著 『 朝 るのか、どうも心許ない。 昭和堂、 鮮の歴史 J( -河かおる(かわかおる)朝鮮近代史 毎回、これを 書 く度に、 「あー今年もたいしたこ の書評を行いました。 とできてないなあ j とブルーな気分になります。教 2 0 0 8年)が、ょうやく完成し て出版されました。 1 1月に朝鮮史研究会関西部会に おいて水野直樹著 『 創氏改名 j (岩波新書、 2 0 0 8年) 育、研究、地域活動は以下に書くとして、それ以外 [地域活動] 以下のような場で委員や講師をしました。 「多文 のことを最初に。昨年度からセクハラ相談員をして 化共生」がらみの仕事がますます多くなりました。 いますが、今年度は具体的な事案を担当した ことも 毎回、 「多文化共生 Jの専 門家ではありません、と あって、関連の本をかなり読みました (大学では研 前置きしてます。 修らしい研修は受けさせていただけないので、自 学 委員は、しが多文化共生推進会議 ( 2 0 0 7年 1 1月) 、 ( 2 0 0 8年 2月 、 ) ( 2 0 0 6年 9月-)などです。 自習しかありません) 。 おかげで本学の問題点がよ 近江八幡多文化共生推進懇話会 くわかるようになり、改善に向けていろいろ動いて 東近江市史調査執筆委員 みましたが、すぐには実現しないようです。今後も 特に近江八幡の懇話会は座長として多文化共生推進 地道に頑張ります。 指針へ向けての提言蓄 をとりまとめました。 講師は、多民族共生人権教育センタ ー第 9回総会 1 2月から 4歳の息子が登園拒否になり、考えた末、 業)を申請し 育児部分休業 ( 一 日につき 2時間を休: ました。今年度から、従来は満 3歳までしか取得で 記念講演 きなかった育児部分休業が、就学前まで取得できる 年 5月 ) 、 1 1多文化共生 J1 国際化」っ て何だろう? ただのキャ ッチフレーズにしないために J( 2 0 0 8 2 0 0 8年度第 2回人権ゆかりの地フィ ール 人間文化・ 87 人・閏・文・化・通・信 ドワ ーク「戦争と平和!滋賀にある捕虜収容所跡等 社会学会研究委員 ( r社会学における歴史的資料の 20 0 8 年 8月)、滋教組湖東第 l ・第 2支部 を探 るJ( 意味と方法」部会)を担当した。 教育研究集会 「 近現代の中のアジアと日本の関係ー どう知った上で子どもと向き合うか J (2 0 0 8年1 0月)、 -塚本礼仁(っかもとれいじ) 地理学 0 08 年度人権啓発セミ 竜王町人権教育推進協議会 2 。研究活動 ナー第 3回現地研修 ( 2 0 08 年1 0月)、スクールソー 『 人間文化1年度末号の この欄では、いつもその シャルワ ーク研究会しが公関連続学習会シリ ーズ 8 年に起 こったウナギ業界の 出来事を書いているので ssw(S S Wr)像を描こう 外国にルーツをもっ子どもた 2 0 0 9年 1月)、滋人教 「 外国 ちの今をみつめて-J ( すが、ここ数年はあまり良いことを書けません。今 籍の子どもたちの景気低迷による不就学などの課題 が、テ レビのニュースや新聞紙上で頻繁に登場しま 「 在日外国人の子ども ・保護者が期待する を考える緊急研究集会 J( 2 0 09 年 2月)などです。 年度も、「フィール ドワー クでう っかり口走っては いけない言葉リス ト」に入っていた「里帰りウナギ」 時に日本から台湾 した 。里帰りウナギとは、幼魚の l などへ輸出され、現地の業者が適当なサイズにまで -武田俊輔 ( たけだし ゅんすけ)社会学、文化研究 飼養したあと、今度は輸入されて国内の流通ル ー ト .研究活動 :国際日本文化研究センターにおける共 に乗ったり、産地に戻ったりするウナギです。 もと 細 同研究プ ロジェク ト 「民謡研究の新しい方向 J( もとは流通サイズを調整するために行われて きたの 川周平代表)に 引 き 続 き 参 加 し 民 謡 ・民俗芸能の ですが、日本での養殖期間が海外でのそれより少し 変容とそれらをめぐる社会的なアクタ ーの関係性に でも長ければ国産扱いになるシステムと、国産信仰 ついての研究を行っている 。 また 「ナショナリズム ともいえるような消資者意識が牽引するウナギマ ー に抗する 『 郷土j 柳田国男の郷土教育批判を手が ケットのもとで、里帰りはまさに利益を生む隠れ蓑 かりに J 神奈川大学評論j5 9号) , でした。そこから先はご存知のように、里帰りウナ a r 愛国心・郷土 ・ 公共性柳田国男の郷土教育批判とその可能性 J ( 佐 ギに台湾産が混入されていたこと、また、 ( チェ ッ 藤成基編 『 ナショナリズムとトランスナショナリズ クが難しいとはいえ)そうしたウナギを囲内最大産 ム 変容する公共圏 j 法政大学出版局)といったナ 地が「産地証明書: J付きで販売したことが明るみに ショナリズム論・公共性論を発表した。加えて新た 出て、ウナギ業界は消費者の信頼を失っています。 に山口県祝島をフィ ールドとして地域社会における このような中で産地に出かけていっても相手にして 反原発運動と農業 ・漁業を中心とした地域づくりの もらえませんので、今年度は業界誌などからの情報 調査を始めている 。 収集と分析に努めました。行動を起こすのは来年度 4 砂教育活動 今年度のゼミ生は 4回生が 6名 , 3回 , 2回生が前後期を合わせて 1 2名であった。 生が 5名 以降にしようと考えています。 学外実習では広島 ・大久野島 ・納の浦をめぐり,地 元のボランテイアガイドのご協力を得つつ,広島に 学 会 誌 学 界 展 望 「 漁 業J ,人文地理6 0 ふ pp. 6 4 -6 5 . 口頭発表: 琵琶湖のエリ漁業 J ,滋賀県立大学・滋 おける原爆被害とその記憶をめぐる問題,大久野島 0 0 9 年1 月 賀県水産試験場研究懇談会, 2 それ以外の研究活動は次の通りです。 r 2 8日 ・滋賀県立大学サテライトプラザ での大戦中の毒ガス兵器の製造と中国大陸でのそれ による被害, 地域住民の被害をめぐる問題,車内の j 甫 。教育活動 の開発と保存をめぐる地域住民の対立といった問題 について学習した。 また社会調査士資格認定機構の 日本海側で唯一の政令指定都市である新潟市の巡検 今年度のゼミの学外実習では新潟県を訪れました。 連絡責任者として,学生の社会調査と資格の申請を ( いつものように悪天候)をはじめ、砂丘農業、燕 担当するとともに,社会調査実習となる地域文化学 市の洋食器産業、信濃川の治水のために作られた大 科・人間関係専攻・環境社会計画学科の学生の調査 河津分水、国内でも珍しい天然ガス採掘現場、山古 に密接に関わった。 志村(現 ・ 長岡市)の錦ゴイ養殖場と中越地震被災地、 4 砂地域貢献・社会貢献 演崎先生・環境科学部の野 小千谷市の伝統産業、上越市街地の雁木通りと寺町 問先生と男鬼楽座の活動が継続中である 。 また環境 …、なかなか盛り沢 山で、それなりに地理の勉強も 科学部の近藤先生・野問先生や地域住民の皆さんと させられたと思っています。 共に, 6月に交流センタ ーで , ドキュメンタ リー 映 画監督・鎌仲ひとみ氏をお迎 えして 『 六ヶ所村ラプ 0 0人以 ソデイ ーj 上映会と監督講演会を開催し ,6 日頃の講義では、理解度をチェックするため、また、 授業の内容をふまえてもう少し「思考」 してもらう ため、本格的に「ミ ニレ ポー トj を取り入れま した。 上の観客が集まる盛況となった。学会関係では日本 たまに宿題になり、その点については賛否両論ある ポピュラー音楽学会学会誌編集委員, 日本社会学理 のですが、多くの学生が手を抜かずに書い て くれて 論学会専門委員, います。 ただ、 1 週 間で2 科目 1 3 0人分の全てに目を 88 ・人間文化 r ソシオ ロゴス j 委嘱委員,関東 人・閏・文・化・通・信 通して返却するのはさすがに辛く、来年度に向けて =生活デザイン学科】│ 効率化 のための方法を考えな ければなりません。 4 砂社会活動 -土屋敦夫(っちゃあつお)伝統空間論・都市計画史 前年度に引き続き、 『 能登川 の歴史』 の編集 ・執 筆( 近現代部会)委員として資料収集や現地調査な ちょうど 2年前の 2 0 0 7年の 3月2 5日、能畳半島地 震があり、輪島市を中心に大きな被害を受けました。 死者は l名だけだったのですが、全壊した家が3 0 0 0 どを行いました。 戸以上にのぼりました。西海岸に面する輪島市黒島 .石川慎治(いしかわしんじ)保存修景 r 今年度から、科学研究費助成金 ・ 若手研究 ( B) 滋 ( 旧門前町)は、かつては北前船の廻船業の盛んな 町で、大きな廻船問屋をはじめとして、格子と下見 賀県における横向きツシを持つ伝統的町家の研究」 板張りのいい町並みが残っていました 。 この家並み ( 平成 2 0 年度 平成 2 3年度)が始まりました 。 この が大きな被害を受けたのです。 この町の復興を、伝 7 年度に滋賀県大学等学術文化振興財 研究は、平成 1 建地区指定(町並み保存)によって行うことになり 団の助成金で行った研究の成果をもとに申請し採 ました 。 こういう場合、 「 壊れちゃったのか。せっ 択されたものであります。今年度は文献などからの かくいい町並みだ、ったのに残念だね。 」 で終わりに デー タ収集が主でしたが、来年度以降は滋賀県各地 なるのがふつうですが、文化庁・石川県もパックアッ をまわりながら伝統的 ' " J家 についてじっくり研究し プしてくれ、 「町並み保存」 に よって「復興 j する ていきたいと思っており ます。 というかつてない手法をとる ことになりました。 また、この他には、高島市新旭 ' J " 針江地区におけ 1 5年前、私が金沢工大にいたときに、この町並み る文化的景観調査や 『 彦根市史<景観編 > J執筆の の調査をしていました。一般的に町並み保存は、町 ための調査などを行い ま した。 なお、研究成果につ 並みの調査に 2年、保存計画の策定と報告書の執筆 いては、どちらも来年度以降の発表になる予定です。 に l年と、つごう 3年かかるのですが、地震の復興 ということで、その半分の l年半で報告書の完成を <主な研究発表 > O石 J I I慎治・ i 賓崎一志 ・西藤清秀 「 パルミラ追 迫られました。おもな家の調査は 1 5 年前にすんで、い 2 9 b号墓のオ ー ダーについて J(日 跡、北墓地 1 たということと、そのとき黒島独特の廻船問屋の建 00 8 . 0 9) 本建築学会大会学術講演梗概集、 2 築形式の成立のス トーリ ーができていたこともあり、 Oi 賓崎一志 ・石川慎治 ・西藤清秀 「 パルミラ遺 なんとか 0 8年末までに 『 能登 ・黒島の町並み』 とい 跡北墓地 1 2 9 b号墓の復元について J(日本 う報告書を仕上げました 。 これによって 0 9年度最初 建築学会大会学術講演梗概集、 2 0 0 8 . 0 9) の文化財保護審議会にかかることになり、重伝建地 0石川慎治・演崎一志「滋賀県高島市海津の集 落構造について J(日本建築学会近畿支部研 0 0 8 .0 6) 究報告集、 2 区指定がみえてきました。 大学の役職は、 「生活デザイン学科長」 を中心に 仕事をこなし、本学の中長期構想では 「 入試関係」 .教育活動 初めての卒論指導ということもあり、もっとこう について、いろいろ意見をまとめました。 しておけはよかったと反省しきりでした。そのため、 会の会長としてまとめ役をすると同時に、都市計画 ゼミの 4回生 3人にはいろいろと迷惑をかけたので に関連した数多くの委員会への参加を求められまし 地域貢献については、近江八幡市の都市計画審議 はと思っております。 この経験は、来年度の卒論指 た。 また彦根市では景観保存関係の委員をしていま 導に活かしたいと思い ます。 す。近江八幡市は第 l号の「文化 的景観」 に指定さ また、今年度は 2度目の在外研修 ( パルミラ遺跡・ ・れ、彦根市は 「 歴史まちづくり法 Jによって認定さ 家屋墓の復元調査、研修地 シリア ・アラブ共和国、 れた最初の 5都市のひとつで、いずれも日本をリ ー 研修期間 2 0 08 . 0 9. 2 0 1 0. 19)に行くことができまし たが、 3回生 1名を 2週間ほど調査に帯同し、海外 ドしており、こういった景観保存的行政はますます 重要になるでしょう 。 での発掘調査を体験させる ことができたのは良かっ たと感じております。 -面矢慎介(おもやしんすけ)道具デザイン論 。社会活動 。教育活動 今年度から、高烏市文化的景観保存活用委員会委 今年度も京都府宮津市 由良地区での生活デザイン 員、彦根市史景観部会委員として参加することにな 学外演習(京都府立大との共同開催、 りました。 研究の中から 明 らかになる 「地域文化財J 日)に学生を連れて行きました。休耕地を利用した 8 月 27 日 ~30 の良さについて、広く 地元の方々に伝えることがで エ コパークづくりの一環で、 回舟を使った泥田遊び きるようにがんばりた いと 思っております。 を開発、地元の子供たちにも 遊んでもらい好評でし f こ。 人間文化・ 89 人・閏・文・化・通・信 8月の高大連携授業では「デザインとは何かJと 場ではまだデータ 化 されていない。その上、第二次 題して講義しましたが、反応はいまいち。高校生む けの 6 0分授業ではかなりの授業技術が必要だと痛感 世界大戦でほとんど消失している。頼りは教会だけ 、 だ った。一週間かけて、ひとつのファミリ ーの家系 しました。 図を完成させた。この作業は、世界のナイフ業界で 。研究活動 現在注目されているバッタ ー夕、という村のナイフ職 研 究 発 表 :r S m a l lEl e c t r i cC o o k i n gA p p l i a n c e s 人たちをテ ーマにした本を執筆するための序章 とな i nt heU . S .:The i rDevel opmentfromt h e1 9 2 0 s t ot h e1 9 5 0 s J( 6 t hI n t巴r n a t i o n a lConf e r e n c eo f D e s i g nH i s t o r ya ndD e s i gnS t u d i e s .1 0月2 5日-27 る予定。出版に関しては、昨年来編集作業を続けて に上梓した。大学発の出版であるため、全学あげて 日、大阪大学中之島センタ ー)は、日本で初めて開 営業活動を支援してもらいたい。 きた 「 近江楽座のススメ」が東京の出版社からつい 催されたデザイン史の国際学会での研究発表。アメ 以下、今年度行った、地域貢献プロジ、エク ト、ゼ リカ家電のやや過剰な発展普及の要因について、同 ミ活動、デザイン活動、教育研究活動などをあげる 。 じく遅れて家電大国となった日本からの視点も加味 O地域貢献活動 して考察しました。 この国際学会で は、これまでイ ギリス中心の学問だったデザイン史が世界中に広 がってきている ことを実感。大会終了後には海外か らの参加者を連れて京都を案内しました。(私の発 表論文は同大会 proceeding の ~Another Namef o r D e s i g n :Wordsf o rC r e a t i o n .ICDHS20080SAKAJ p p 1 5 2 1 5 5 所収) 研究発表 「 米国における小型調理家電の過剰 な発展 J( 20 0 8年度道具学会研究発表フォーラム、 -土佐打刃物ブランド開発(受託研究)今年度はパ リ、ニュ ー ヨーク展示会参加 -信楽焼&彦根i 奈職人 コラボ商品開発 (受託研究) 名古屋での ]CD展示会参加 -彦根リキシャ(近江楽座採択プロジェクト)長浜 環境メッセに参加 -信楽人 s h i r o i r o i 巴(近江楽座採択プロ ジェク ト)春 に竣工。多数のイベントを企画 2 0 0 9年 1月1 0・1 1日、東京おもちゃ 美術館)は、上 -埼 玉県 中小企業庁にて広報セミナー&ワーク ショップを開催 記とほぼ同様の内容の日本語版発表。私は今年度研 ・信楽において工業組合員向けに近江の酒器の研究 究委員長と して同フォ ー ラム (年次大会)を企画準 会を開催 備しましたが、充分な発表応募件数が集まるかど 0ゼミ活動 うか心配になり、自らも手持ちのネタで発表。(同 フォ ーラム発表梗概集所収) 。社会活動 監修およびコ ーデイネイト ー県商工観光労働部新 ・七本鎗新商品ブランドデザイン ( ゼミ研究活動) 来春に商品化 -信楽業務用食器開発(ゼミ研究活動)県の補助事 業に申請 産業振興課「感性価値創造デザイン調査事業報告 -欧州研修 (イタ リア、フランス .3週間) 書 」 および 「 滋賀県伝統産業活性化調査事業報告書 j ・伝統産地調査(高知、輪島、徳島、倉敷、伊勢など) 近江ユニバ ーサルデザイン製品アイデアコンクー ル(県健康福祉政策課事業)審査委員長、彦根仏壇 工芸技術 コンク ール ( 彦根仏壇事業協同組合)審査 委員長 。学内活動 自己評価委員として、年の前半は「人間文化学 部自己評価書」の編纂 ( 6月完成)、後半 は学外か 高知県)参加 ・砂浜美術館 T シャツ展 ( -企業インターン、デザイナ ーズ勉強会などに参加 Oデザイン活動 -韓国において、建築、インテリアデザインのプロ ジ‘ェクトに参画する 0他の教育研究活動 -筑波大学 芸 術 専 門学群の非常勤講師 r ら4人の委員を招いて学部外部評価の実施 (9月1 2 5コマ ) 地域デザインとア ー 「環境デザイン J0 日)と「外部評価報告書」の編纂に携わりました。 ト&プロデユース J( 1 5コマ) すべての関係者のみなさん、本当にご苦労様で した。 -岡山県立大学デザイン工学部の非常勤講師 「 地域とデザイン J( 3 0コマ) -印南比呂志(いんなみひろし)道具計画論 今年度の始まりは、イタ リアのサルデイニア島の ナイフ職人調査からはじまった。人口 3 0 0 0人の村 -道明美保子(どうみようみほと)染色学 染色の伝統的技法を現代の科学から検証し、さら バッターダに滞在して、ナイフ職人フォガリッツ家 に発展させていく方法を探ろうとしている 。 の家系図を作成する作業を行った。役場、墓地、教 。研究活動 会などを調査して古い戸籍謄本や墓地に記されてい 〈 調査〉 数年来、染・織の源流を訪ねる旅をしている 。今 る生年月日などの収集に費やした。戦前のものは役 90 ・人間文化 人・閏・文・化・通・信 年度は残念ながら、調査計画をしていた国の政情不 での記録をとり、地域の人々との交流も深めた。 ま 安のため取りやめる ことにした。 た小学校での体験学習の授業も行い、貴重な経験を インドから始めた旅であるが、日本では沖縄の離 した年であった。今後は収穫した綿から糸作り、染 島までの染織の現状調査と資料収集を済ませている 色、織りへと発展させていきたいと考えている 。 ので、今年度は奄美大島の大島紬と i 尼染めの現場を 。社会活動 訪れた。伝統技法は守ら れ、後継者養成のための施 彦根青年会議所の依頼で、春に行われた彦根城写 設があり、若者も技術習得に励んでいた。本場奄美 生大会で、身近かな草花、 野菜からの色素を用いて 大島共同組合では、品質検査も厳しく行われ、伝統 の写生の指導を行った。 の紋様以外にも新たな現代風の紋様も考案されてい ここ数年来行ってきた多賀町生涯学習講座での草 た。大島紬を取り巻く現状は厳しいだろうが、まだ 木染め講座は今年度は開催されなかったが、今後も 希望が持てた。 また、本学に近い湖東地方の伝統工 身近かな天然染料を見直し活用する裾野を広めたい 芸品としてのと近江上布の現状を奄美大島紬のそれ と思っている 。 と比較すると考えさせられることが多くあった。 多賀座の方々と約 6 00 年前の染色技法を探りなが ら染色した衣装が、今年度も多賀大社寓燈祭等で披 〈 著書 〉 昨年 4月に出版した共著書 『自然を染める j につ 露 ・活用され続けている 。 いて、大学の研究者や天然染料に関心のある方々か らの講評や問い合わせを多く受け、著書が活用され -森川 稔(もりかわみのる) 都市・地減計画、まちづく ていることを直接知り、 出版の意義を改めて感じた り、市民参加 年であった 。 .教育活動 県立大学に来てから 2年目、担当している近江環 〈 学術論文〉 ・道明美保子 ・今村香奈江・佐藤友香 ・清水慶昭 人地域再生学座は、中間年である 3年目が終わろう ポピ ーの花弁から得たアントシアニン系色素によ としている 。学座の入学者は、平成 1 8 年度 1 3 名 、 1 9 の る絹布の染色一染色温度 ・時間および洗浄剤l 年度 1 2名 、 2 0年度 1 6 名で、合計4 1 名となり、 1 6名の 影響 ,蚕糸・見虫バイオテック ,7 7 ,5 1 35 7 ( 2 0 0 8) 〈 学会発表〉 甫川宏 ・横 山 早 美 ・道 明 美 保 子 ・木村光雄・ j G a r d e n i a nB l u e の染色への適用性について , 日 0回研究発表会講演要旨 本 家政学会関西支部第 3 3( 2 0 0 8) 集 , 3 検定試 「 近江環人=コミュニティ・アーキテクト J( 験合格者)が誕生している 。4 1 名のうち、 Aコース 2名 、 Bコース(社会人)は 1 9 名である 。 (大学院生)は 2 Aコース 2 2名のうち、人間文化学部に所属する院生 は 4名と少なく、今後、もっと多くの院生が学座で 学んでくれることを望んで、いる 。 近江環人地域再生学座の取り組みは、学外はもと 滋賀県立大学特別研究費を受け、 「天然染料に より学内においても、まだまだ認知度が低い。学座 よるセルロース系繊維の染色のシステム化」の研 の授業内容をさらに充実させていくとともに、学座 究を開始した。研究は順調に進み、研究の一部は の取り組み ( 存在)を P Rし、その存在を周知させ 近日中に繊維製品消費学会誌に 2 報掲載されるこ ていきたい。 また、近江環人が、環人会というネッ とになった。 また、「各種藍草によるすくも藍 ・ 沈殿藍製造法の効率化および残浮すくも藍草の色 トワーク組織を立ち上げ、定期的な勉強会を開催し ている 。滋賀県の各地で、近江環人が地域づくりに 素の有効利用 」 についての共同研究も開始した 。 取り組んで、くれることを望んで、いるが、そのために、 今後も共同研究をすすめ、成果をあげていきたい 近江環人や環人会を、大学としてどのように支援し と思っている 。 4 砂教育活動 ていけばよいかは、学座にとって大きな課題である 0 研究室では 2名が卒業研究に取り組んだ。主とし ・研究活動 学座の取り組みのひとつである 「地域再生研究 て天然染料の染着機構についての研究を行っている 会」 を、ほほ毎月開催している 。ゲストスピ ーカー わが研究室ではあるが、今年度は生活素材としての 葛布や産業用大麻についての研究である 。毎年は狭 をお招きして、学座関係者、学座生、自治体職員な と矛で、意見交換を行っている 。 また、 一般に公開して い研究室で学生が実験をしていたが、今年度は研究 行う 「近江地域再生フォ ーラ ム」を 2回開催した。 室を離れての調査や制作が主で、少し静かな研究室 であった。産業用大麻の研究の一部は、いなえ楽座 で展示報告がなされた。 また、今年度はゼミ生が「みずほの郷」の皆様と 綿栽培に取り組んだ。畑 を耕すことから綿の収穫ま 8月に 「滋賀における“農"と地域再生 だれが“農" 1月に 「 子どもが育 を支えるのか j を県立大学で、 1 つまち 子どもの力、大人の力、地域の力を生かし た地域再生」 を琵琶湖博物館で、それぞれ開催した。 日本建築学会農村環境教育小委員会の成果をまと 1 人間文化・ 9 人・間・文・化・通・信 めた「回閣で学ぶ地球環境 J(執筆を分担)が、平 年度、 1昨年度に引き続き ユニバ ーサルデザインに 成2 1 年 2月 9日に技報堂出版株式会社から出版され た。 ユニバ ーサルデザイン)ま 昨年度同様、守山市 UD( .社会活動 よるサイン計画について学生とともに取り組んだ。 ちかどウォッチャ ーの協力を得て、サイン作成に向 理事長を務める特定非営利活動法人おおっ市民協 けてデザイン案を作成した。 また、 1昨年度行 った 働ネッ トが、大津市市民活動センターの指定管理者 学内のサイン計画の 問題点をふまえ、大学内のサイ として、第 1期に引き続き、平成 2 0 年 4月からの第 ンの試作を木楽部会と共同で行った。オープンキャ 2矧 3年間も管理運営を担うことになった。 自治体 ンパスに合わせて 8月初旬に環壕の橋周辺の 9カ所 の財政が逼迫するなかで、市民活動を高めることが、 に誘導サインを設置した。 この活動は、 ユニバーサ 地域の運営にとって極めて重要なこととなっている 。 ルデザインのまちづくり研究会との共同研究の一環 そのための中間支援センタ ー として、これまでの経 として行った。 験と成果をふまえて、管理運営にあたっていきたい。 県内各地で、地域づくりなどに関する講演や委員、 アドバイザーなどを務めた。 、 4回生 2名、院生 1名の体 今年度は 3回生 2名 制で、ゼミ活動を行 った。その一環として最新の環 境共生の手法を取り入れた関電ビルデイング、小規 模多機能型居宅介護施設であるかじゃの里新兵衛さ .宮本雅子(みやもとまさと)住環境学、インテリア計画 んの見学を行った 。 ・研究活動 研究活動としては、 I昨年度から行っている関西 会で研究発表を行った 。 また、 4回生の安慶 田が、 電力と京都女子大学短期大学部図嶋准教授との共同 卒業研究の一環で 「 色名流布」のための試みとして、 修士 2回生の宇井雪乃が、日本インテリア学会大 研究により、 「 住宅における 昼光 ・人工照明の効果 パネルとツ ールの試作品を湖風祭で企画、展示し、 的利用 ・快適性評価研究」 を継続して行った。 好評を得た 。 [学会活動] .社会活動 日本建築学会「建築空間の質感・色彩設計法小 守U J市 U Dまちかどウォッチャ一、滋賀県建築審 委員会」 に幹事として参加しているが、今年度は、 査会委員、草津市都市計画審議会委員、彦根市行政 2 00 8 年1 1月にシンポジウム 「 建築 ・都市の色彩に求 評価委員、彦根市建築審査会委員、滋賀県レイカデイ められるアカデミックスタンダー ドとは?Jを開催 ア大学講師、「街の色研究会 ・京都」の活動に参加 した。 剤t [研究発表] 1.宮本雅子 :高齢者向け優良賃貸住宅の現状と課 0回大会 題、日本家政学会第 6 . r -森下あおい ( もりしたあおい)服飾デザイン 2 宮本雅子 ・図嶋道子・八木康子 住宅居間にお .年間活動 日本人女性の体形と服飾の関係をテーマとして、 ける昼光による行為のしやすさと空間評価 ( その 明治時代の古写真 に残された女性の着物姿から体形 4) 、照明学会大会 3 . 園嶋道子・宮本雅子・八木廉子:住宅居間にお ける昼光による行為のしやすさと空間評価 ( その 5) 、照明学会大会 4 宮本雅子 ・図嶋道子 ・八木康子.住宅居間にお ける昼光 ・人工照明の効果的利用と光環境の快適 、 日本建築学会大会 性(第 4報) 5 圏嶋道子 ・宮本雅子 ・八木康子 住宅居間にお ける昼光・人工照明の効果的利用と光環境の快適 性( 第 3報) 、日本建築学会大会 6 . Michiko Kunishima. Masako Mi yamoto I : NFLUENCEOFDAYLIGHTANDARTI FICIAL L IGHTINGONACTANDSPACEEVALUATI ON I NL IVI NGROOM 日中韓シンポ (中国) 7 宇井雪乃 ・宮本雅子.学校教育施設内における サイン計画、日本インテリア 学会第 2 0回大会 4 砂教育活動 生活デザイン学外演習の lプロジェク トとして昨 9 2・ 人 間 文 化 を分析し、漸くこれまで進めてきた研究のまとめを 行った。明治期は写真が撮影されるようになったと は言え、残された女性に関わる記録が極めて少なく、 写真 デー タを解析することに多くの時間を費やすこ とになった。服飾という変化する対象を追う中で、 過去に見る多彩な装いの事実から得る 美の存在の強 さを痛感している 。 また継続研究である現代フ ァッ ションのデザイン調査では、パ リ ・ ミラノコレクショ ンにおけるブランドの傾向を分析した。いずれもが 環境問題や経済問題など、近年の世界共通の課題と フ ァッシ ョンデザインの コンセプトが関係し合い、 各々のデザイン特性が打ち出されている 。 地域に関する調査研究として、「浜ちりめんの洋 装化」をテ ーマにした研究では、これまでのブラッ クフォ ーマルウェアの素材とデザインの開発に加え て、日常的な用途を想定したテキスタイルデザイン の提案を学会にて行った。 また産官学の取り組みと して、綿織物による新しい快適性衣料の開発のため 人・間・文・化・通・信 の調査を研究会として始め、今後の課題の抽出を 行った。 センタ一、滋賀県繊維協会主催) 〈展示発表〉 r 研究室としての地域・社会貢献活動では、 3、 4 1) 1 気 になるファッションショ ーJ 知る場一学祭 回生のゼミ学生による「滋賀クリエーションー滋賀 彦根市社会福祉協 動き出す、活動に向けて J( 0 0 9Jにて展示を行 」、「 麻コレクション 2 議会主催、平成 2 0 年 9月 6日、彦根市文化プラザ) い、広く滋賀県の繊維製品を地域の方へ披露する機 2) 1 滋賀の繊維力一滋賀ク リエー ション J( 大津市 の繊維カ 会を設けた。 コラボしが2 1、平成 2 0年 9月 1 7日 -2 2日、滋賀 .研究活動 県立大学交流センタ一、平成 2 0 年1 1月 8日-9日 、 〈 学会口頭発表〉 森下研究室主催) る研究(第2 報)ー 衣服形状の感性評価 J(日本繊維 3)1 麻コレクション 2 00 9(進化する布 ) J( 愛壮町 立歴史文化博物館、平成 2 0 年1 0月1 8日、主催滋賀 2 0 0 8年年次大会 j、平成 2 0 年 6月 製品消費科学会 W 県麻織物工業組合、湖東繊維工業組合、今さら近 森下あおい・石坂恵「浜ちりめんの洋装化に関す 2 1日-22日 名古屋学芸大学) 〈 作品発表〉 江商人委員会主催) 〈 調査 ・研究〉 森下あおい 「 服飾デザインにおける浜ちりめんの 1)浜ちりめんドレス用新素材およびそれらを使用 第9 適応性一幾何学柄の効果性 J(服飾文化学会 『 した製品の性能評価、市場性等に関する研究 2)近江の麻 ・近江ちぢみによるパック、シャツの 回大会j、平成 2 0 年 5月 1 7日- 1 8日、女子美術大学) ( Ji.ネル発表〉 商品開発 ( 湖東繊維工業組合) 滋賀県立大学・滋賀大学 ・ 東北部工業技術センター 3)こだわ った商品開発およびマーケ ット戦略のア ほか 「 失われた地域産業技術の復活一分離融合型産 ドパイス ( 地域資源活用新事業展開支援による ) 学連携活動一 J( 内閣府・経済産業省ほか 『 第 7回 産学官連携推進会議j、平成 2 0 年 5月 1 5日、京都国 4) 平成 2 0年度 事業 「 文化芸術による創造のまち 」支援 大学と地域との交流 ・連携の促進一ファ ー 際会議場) 高島市文化 マーズファッションに関する調査 J( 〈 報告書〉 芸術による創造のまち支援事業実行委員会) 石坂恵 ・森下あおい「沢一ちりめんの洋装化に関す 4 砂各種委員 る研究 ( 3)ー ブラックフォ ーマル ウェアとしての適 日本家政学会構成学部会運営委員、滋賀県感性価 応性 ( 2)J( 滋賀県東北部工業技術センタ ー 『 平成 値支援事業 「 感性価値ものづくりリ ー デイングプロ 1 9 年度研究報告書j、 p p . 6 2 6 5) ジェクト j プロデューサー 〈 解説〉 1)森下あおい 1 2 0 0 8-0 9 秋 冬パリ ・ミラノコレ クションの傾向 J(日本繊維製品消費科学 『 繊維 製品消費科学 JVo . l 4 9、No6 、p p . 2 7 3 0) 森下あおい 1 2 0 0 9年春夏パリ・ミラノコレクショ 2) ンの傾向 J(日本繊維製品消費科学 『 繊維製品消 . l 5 0、No1、p p . 4 7 ・ 5 0) 費科学JVo 〈 競争的資金〉 平成 2 0年度 ] S T1シーズ発掘試験 J1 洋装用ブ ラックフォーマル素材としての浜ちりめんの開 -山根 周(地域生活空間計画、アジア都市・住居論) 。教育 昨年度 まで生活文化学科の共通専門科目であった 比較住居論が人間学の講義になり .2 0 0名近くの学 生が受講するようになった 。毎回レスポンスシ ート のコメン トを 読み,質問への回答をすることは結構 大変であったが,さまざまな視点からの疑問に答え ることでこちらにとってもいい勉強になった。 木匠塾は 1 1年目を迎えたが,奈良県川上村では, 研究代表者) 発 J( これまで自由に伐りだし使わせてもら ってい た間伐 4 砂地域・社会貢献活動 材にも限りが見え始め,規模の大きな製作活動を 主 〈 講演会〉 体としてきたここ数年の活動プログラムを見直す必 1)1 服飾デザインからみた滋賀ブランドの創造 J (平 要が出てきている 。 「 木を知り , 森を知り,山を知る j 成2 0年2月2 7日、平成 1 9 年度滋賀県産学官ニーズ ・ という,活動当初の原点に立ち帰って,植林活動な シーズプラザ、大津 コラボ しが2 1、滋賀県産業支 どを含めたこれからのプログラムを議論,模索して 援プラザ主催) いるところである 。 2) 1文化の変容と女性の身体像 J(平成 2 0 年7 月1 2日 、 ゼミでは .4 回生の北川さ んが,守山市の旧中山 3大学リレ ー公 開 講 座 - 1 開国」その時代 、大 道に残る旅箆の再生計画を卒業研究のテ ーマ とし 学サテライトプラザ・プラザ彦根運営協議会主催) た。守山市では旧中山道を核としたまちづくりが進 3) 1 浜縮緬の素材特性を活かしたデザインについ て J( 平成2 0年 1 1月 1 8日、滋賀県東北部工業技術 められつつあり,町屋建築を生かした計画案として , まちづくりに関わる方も関心を 寄せている 。守山に 人間文化・ 93 人・閏・文・化・通・信 もまだ多くの歴史的遺産が残り,新たな住民が増加 [論文] する中で,それらを生かしたまちづくりの気運が高 ① 岡村知明,山根周,深見奈緒子,羽生修二「パ まっているので,今回の卒研をきっかけとして,研 ドレシュワル(インド, カ ッ チ 地 方 )における 究室としてまちづくりの計画などに参与していきた ファデイアの構成」日本建築学会計画系論文集 いと考えている。 N o . 6 2 5 .p p . 5 0 3 - .2 0 0 8 . 3 .研究 今年度より,科研プロジ‘ェクト「インド洋海域世 ② 川 井 操,布野修司, 山 根 周 「 西安旧城 ・回族 居住地区の社区構成と街路体系に関する 考察」 界における港市の形成と変容に関する調査研究」が . 6 2 8 . pp. 1213 , ・ 日 本 建 築 学 会 計 画 系 論 文 集 NO 3年の予定で始まった。今年度は,インド,グジャ にいたる広範囲での高層住居の伝統など興味深い居 2 0 0 8. 6 ① ShuYamane.Shu j iFunoandTakashiI ke j i r i . SpaceFormationandTransforma t i o no ft h e UrbanT i s s u eo fOldD e l h i.I nd i a " .J o u r n a lo f AsianA r c h i t e c t u r eandB u i l d i n gEngineering . l7No. 2 .Architectural I n s t i t u teo fJ a p a n . Vo A r c h i t e c t u r a lI n s t i t u t eo fK o r e a .A r c h i t e c t u r a l 11 Soci e t yo fC h i n a .p p . 2 1 7 2 2 4 .2 0 0 8. 住文化を見ることができた。 イエメン往復の際に立 ④ 岡村長日明,山根 ラート州沿岸の港市や, アラピア海,ペルシア湾沿 岸の港市を対象に調査を計画,実施した。 イエメン での調査では .2 0 0 6年度末におこなった東アフリカ 沿岸部の港市調査に引き続き,インド洋海域の港市 におけるインド人商人の交易と居住の足跡をたどる ことができたほか,ワジと呼ばれる j 固れ谷や山岳地 周,深見奈緒子,羽生修二 「 パ ち寄ったドパイでは,ダウ船が停泊する港に隣接し ドレシュワル(インド,カッチ地方)における伝 たスーク ( 市場)界隈に,ペルシア湾岸の伝統的な 統的住居の構成 J . 日本建築学会計画系論文集 住まいやまちの一端がうかがえ興味深かったが,や N O . 6 3 4 . pp. 25 4 9 2 5 5 6 .2 0 0 8. 12 はり新たな開発地区の印象が強い。必然をはるかに [研究発表] 超えた規模の建設のエネルギーはすごかったが,金 ① 中j 賓春洋,岡村知明,柳沢究,布野修司,山根 融経済の虚構が生みだした,都市の姿をまとった砂 周 「 パリ ・バザール地区 ( ヴァ ーラーナシー)における 上の楼閣の饗宴のように見え,その i 弗点を目の当た モハッラの構成に関する研究 りにした感じであった。 この勢いはいつまで続くの pp. 8 9 9 2 .2 0 0 8年 6月 学会近畿支部研究報告集 I. かなと思っていたら,果たせるかな,金融ショック ② 岡村知明,中波春洋,柳沢究,布野修司,山根周 以降,破綻への道を転げ落ち始めているような気配 「 パリ ・ バザール地区 ( ヴァ ーラー ナシ ー)における その 1 日本建築 その 2 日本建築 で,きらびやかなまま 2 1世紀の遺跡になるのだろう モハッラの構成に関する研究 か?などと,今後の行く末にとても関心を持ってい 学会近畿支部研究報告集 I. p p . 9 3 9 6 . 2 0 0 8 年 6月 る。石油の出ないイエメンの伝統的な都市,集落と ① 岡村知明,山根 周 「インド・カ ッチ地方におけ その 3 ムンドラの のコントラス トが強烈で,改めて都市とは何かとい る港市の構成に関する研究 うことを考えさせられる調査であった。 0 0 8年度日本建築学会大会学術講演梗 都市構成 J2 概集 E 2分冊. p p . 2 3 94 0 .2 0 0 8年 9月 [ j 毎外調査] ① イエメン ( サナア,ホデイダ,モカ,タイーズ, 20 0 8 . 7. 19 8. 4) アデン,ムカツラ,シパームなど) ( ② インド (ヴアロ ー ダラ,キャンベイ,スーラ卜, ダマン , パセイン,マンドヴィなど)( 2 0 0 8 . 8. 16 9 . 2 ) ① イラン ( ブーシェフェル,カーグ島, パンダレ・タ ー ④ 山 根 周 「インド洋海域世界における港市ーカッ チ地方を中心に一」国立民族学博物館共同研究会 『 南アジアにおける都市の人類学的研究j 国立民 族学博物館.2 0 0 8 . 7. 12 ⑤ 山 根 周 「インドの都市 j 国立歴史民俗博物館国 r へリー (シーラ ーフ ).キシュ島,パンダル ・アッ 際シンポジウム 2 0 0 8 アジア比較建築文化史の構 パース,ホルムズ,テヘランなど) ( 2 0 0 9 . 2 . 28 -3. 2 0 築一 東 ア ジ ア か ら ア ジ ア へ J . 国立歴史民俗博 物館. 2 0 0 8. 12 . 6 7 予定) 4 砂社会活動 [著書] ① 山根 周・深見奈緒子 ・鈴木英明 ・岡村知明他 [講演] 『シルク ロード学研究 3 0 シルクロード学研究セ 「インド・イスラーム都市の空間構成ームガル都 ンター研究紀要/ インド洋海域における港市の研 市(ラホール,デリー,アフマダーバード)の街区 究 ー インド・カッチ地方を中心として Jシル クロード学研究センター. 2 0 0 8. 3 ② 布野修司 ・山 根 周 『ムガル都市ー インド ・イ スラーム都市の空間変容j 京都大学学術出版会, 2 0 0 8 . 5 94 ・人間文化 空間 」シルクロ ード夏期集 中講座(シルク ロード 友の会主催).奈良女子大学. 2 0 0 8 . 9 . 6 人・閏・文・化・通・信 .佐々木ー泰 ( ささき くにひろ)空間デザイン 世紀美術館で行われた 展覧会活動として、 金沢 21 Zアンデパ ンダン展に茶室を 出品した。 .教育活動 前年度まで研究室と県大生協が協力し、県大食堂 また、 3月に空間のインスタレ ー シ ョンを西宮の 中庭のテラスのデザインを行 ってきたが、本年度は ギャラリーで行う予定である 。 実施設計に移行し、平成 21 年 3月の完成を目指して、 〈出版〉 細かい部分の調整を行っている 。足かけ二年に及ぶ プロジェク トとなり、実現には色々な困難があ った が、粘り強く動いた研究室の学生や、各方面で協力 ・「リー トフェル トの建築 J(奥佳弥 著、キム ・ズ 0 0 9 年 2月刊行予定) ワルツ 写真、TOTO出版2 ( 2 0作品の全図版及び、年表家具などを制作) して下さ った方々に感謝したいと思う 。 また 、去年に引き続き 研究室内でも積極的に地域 に出る活動が目 立っ てきている 。卒業制作では実際 のまち づ くりの現場に入り公園を提案する 学生など、 積極的に色々な人と関わ りを持とうという取り組み 〈 展覧会〉 ・茶室 1世紀博物館市 Zアンデパンダン展 ( 金沢 2 民ギャラリ ー B、第二室 、 キュレ ー ション中村政 0 0 8 年1 0月 4日-1 0月1 2日 人 、 )2 .個展 ( 予定) :凱 St u 凶d ω i ol n' sFa c t o r yEx h i b i t i o n が見られる 。 a f eの庖舗設計を 甲賀市 水 口町では子育て 支援 c 研究室で行う予定で、今後、ハードからソフ トの提案。 ∞ れへん"( 主{ 催 雀 カ フ ブ苧 ハウス 、 2 却O ω O 9年 3月ロ 1 2日-3 却O日 、 会場 t a b 凶a t 出 ha兵庫県西宮市) また、幼児と空間の関係性などを研究室で調査 ・デ ザイ ンし、実施設計 に繋げていきたいと 考 えている 。 授業関連ではデジタルデザイン演習を分担で担当 する 事 となり、各演習に含まれていた CAD課題な -商 政宏(みなみまさひろ)道具デザイン .デザイン・研究活動 堀江スツール 2において銀賞を受賞しました。 どのデ ジタルスキルが独立した。 このことより、住 6月に静岡家具メ ッセのデザイナ ーズサテライト 居設計演習に関しても、設計内容にひとつの流れが ブースに本学 学生である弟(南和宏)と共同で出展 整理されることとな った。 しました。そこにおいて、スク リー ン、スツ ール 、 コー 住居設計演習の合同課題も 3年 目を迎え、湖風祭で トハ ンガ一、フ ッ夕、サイ ドテーブルデザインの発 の屋台も 浸透してきており 、演習の内容が充実して 表 を行いました 。 きている 。 しかし、充実に反して、複数の演習 を取 福岡県の大川市家具工業組合が主催する、 「九州 る学生が減りつつある 。 3分野ある 事のメリ ッ トを 祖 泉 旅 館客 室 デザインコンペ 2 0 0 8 i n大 I }I Jにおい 学生がさらに活かせるようにしていくことが今後の て大川家具工業会理事長賞を受賞しました。 この コ 課題である 。 ンペは九州の重要な コンテンツである温泉旅館と家 具業界を つ なぎ、新たなデザインでビジネスモデル .研究活動 今年度は リート フェ ルト 作品集の出版の為の図録 制作作業が中心とな った。 この作品集は日本語 ・英 語、両方で表記され世界中で出版される 予定であり、 を模索するものでありました。大川の持つ家具の技 術 と 旅 館 客 室 のインテ リア をマッチさせるよう提 案したものです。 この作品 は i Ookawat h ef u t u r e f u r n i t u r e2 0 0 8Jにて展示されました。 リート フェル トの建築作品 としては世界初の作品集 ニ トリワンハウス トー タルコー ディネ ー卜コ ンテ となる 。作品集には 2 0 作品がセ レクトされ、私はそ 0 0 8において銀賞を 受賞しました 。 ロー コスト ス ト2 の2 0点の全ての図版を担当した。 リートフェルトの でデザイン性に優れた 家具シ リー ズのデザイ ン提案 建築はどちらかというとフォ トジ、 エニ ックではなく、 を行いました 。 設計手法の中で構成が重要な位置を占めている為、 D' sb o xDe s i g nC o m p e t it i o n2 0 0 8 において優秀賞 なかなか写真では全体像が分かりに くい建築作品が を受賞しました。 この受賞作品は木と金物の融合 と 多い。その為、 今 回はアクソメを主とする 立体的な 0 0 8年 1 2 いうテ ーマで提案した ユニッ トシェルフで 2 図版を制作することにより、より広くの方々にリー 月に トフ ェルトの建築の魅力を伝える事を 意図して制作 を行 った。 設計活動は、研究室で設計を行うことができる ベースを現在整えており、その試金石として、上記 のテラスや c a f eの設計を行うが、まだ色 々 とクリ アすべき諜題も多い。 また、劇場団体と小学校のリノベー シ ョンに関す るプロ ジェクトを進めている 。 D' sb o x株式会社より商品化 され ま した。 富 山プロダク トデザイン コンペ 2 0 0 8 に招待デザイ ナーとして参加し、展示会に参加しました。富 山の 地場産業を活かした新たなア ル ミの傘立ての提案を 行いました。 1 0月3 0日-l l月 3の問、明治神 宮外 苑 前 で 行 わ れた 1 00%D e s i gnTo k y o1 0 0 % Pr o t o t ypeに出展し ました 。 1 0 0%D e s i g nTok y oは囲内最大のデザイ ン見本市で国内外より 多数のメーカ 一、デザイナ ー 人間文化・ 95 人・閏・文・化・通・信 が出展しています。そこにおいて、食器、コートハ 事として食発達の実態と子どもの健康に関する 3歳 ンガー、シェルフ、照明、フッ夕、スツ ールデザイ 児の全国調査を約 4 0 0の自治体への調査を依頼し、 ンの発表を行いました。 回収したデー タを現在検討中である 。 KOKUYODES I GNAWARD2 0 0 8において優秀 文科省募集事業の「栄養教諭の専門性の高度化に 賞を受賞しました。炭素をテーマに募集されたこの 関する先導的プログラムの研究開発」に応募の結果、 コンべでは、絶滅危倶動物の形を模したクレヨンを 採択され、代表者として、学内・学外からの 1 0 名で 提案しました。 これを使うことで大人から子供まで 構成される専門委員会を立上げ、目下 「 栄養教諭の 地球環境に対する意識を変えていこうとするもので、 専 門性の高度化に関する先導的プログラム開発」 に その強いメ ッセージ性とインパクトある提案が評価 取り組み中である 。 又、草津市では、この度 「 食育推進計画」を作成 されました。 p dwebデザインコンペ 2 0 0 8において大賞を 受賞 されることになり、そのための「食育推進計画策定 委員会」のアドバイザーとして推進計画に参画する しました。 場江チェアーにおいて金賞を受賞しました。 ことになり、大変忙しい思いをすることになった年 株式会社 m i l l i e sのロゴデザインを担当しました。 でもありました。 静岡県のヤマカ産業( 槻と山梨県の株式会社エック .著書 2 0 0 9 . 3 スとの聞で国産材を用いた新製品ブランド開発に参 「 応用栄養学」編 著 朝 倉 書 応 加しており、開発継続中であります。 「 給食経営・管迎学演習 /実習書」 .教育活動 「 栄養教育論(改訂 ) J共著 大手アパレルメ ー カ- WORLDが主催する、ア パレル商業空間のデザインコンペ WOR LDSPACE 医歯薬出版 2 0 0 9 . 3 2 0 0 9 . 3 「栄 養 学 か ら み た 精 進 料 理 」 単 著 大法輪 編著 2 0 0 8 . 5 閣 CREATORSAWARDS2 0 0 8において、藤聞知佳さ んによる I a u r o r a Jが大賞、林真弓さんの I R e v e r s i J ・研究論文 坂口名菜、中島美朋 が優秀賞を 受賞 しました。 この国際コンペへ研究室 よる身体組成,lUl中酸素濃度およびストレスへの影 山下義昭 田中敬子 「運動に からの入賞は 3年連続となり、今回も国際色豊かな 響」教 育 医 学 誌 第 5 3 巻 第 3号2 0 0 8 . 3p3 2 4 3 3 3 3 6点の応募の中から選ばれた 顔ぶれでトータルで 5 4 砂学会口頭発表 ものです。 ① 回中敬子 ・岸本三香子 ・山下義昭 石山空き庖舗活用コンペティション 「 衝のコンビ ニ」 において林真弓さんが一次審査に通過し、最終 選考に残りました。 「 児童の食習 慣 ・生活習慣と精神的健康状態との関連につい てJ 6 6回 日 本 教 育 医 学 学 会 総 会 講 演 集 p 3 82 0 0 8 . 8. 5 大阪府 昨年、担当いたしました道具デザイン演習 Eで課 ② 田中敬子、岸本 三香子、同我郁恵、山下 I LG M o b i l eD e s i g nC o m p e t i t i o nJに参 加をしました。このコンペは LG社主催のコン ペで、 義昭「幼児の l 盟l 幌力に関与する因子の分 題として 新しい携帯電話のデザインを全国の学生から募集し たものであります。南和宏さんの作品が一次審査を 析 」 第5 5回 日 本 栄 養 改 善 学 会 学 術 総 会 講 演 集 p 2 1 52 0 0 8 . 9. 6 鎌倉市 ① 岸 本 三 香 子 、 曽 我 有s r恵 、 山 下 義 昭 、 田 中 敬 通過しました。 子「児童における歯に関する健康教育効果の解 4 砂社会活動 析 」 第5 5回 日 本 栄 養 改 善 学 会 学 術 総 会 講 演 集 湖東地域材循環システム協議会に参加し、杉をど のように活用していくかいくつか提案を行いまし p 2 4 42 0 0 8 . 9 . 6 鎌倉市 G .H浅間紅美子・中島真子 ・田中敬子「子どもの健 康づ くり実践プログラムによる園児への健康支援 た。 の試み」第 2 3回 【 二生活栄養学吋│ -田中敬子(たなかよしと )栄養教育論、栄養アセスメン ト論、生活環境論、栄養教育特論(大学院) 今年は着任 4年目で、昨年から始めた子どもの健 康的な行動変容のためのプログラムによる近江市立 幼稚園園児とその保護者を対象とした 3ヶ月間の教 育介入も 2年目を迎えた。子ども達の岨鴫能力に関 する調査を、中学生に拡大して、メンタルヘルスの 動態とも絡めての検討を開始した 。科研費を得た仕 96 ・人間文化 滋賀県小児保健学会講演集 p 3 02 0 0 8. 10 . 2 5 。科研費獲得 「 子 どもにおける食発達の総合的研究 養育者 との葛藤 ・調整に注目して 」 分担課題 離乳と食発達の実態と子どもの健康に関する 全 国調査 。文科省事業 「栄養教諭の専門性の高度化 に関する先導的プ ログラムの研究開発」事業採択(代表者) 人・閏・文・化 ・通・信 4 砂地域 ・社会貢献 サーの結果から明らかにしました 0 〈 講演会〉 .研究活動 ① 「楽しく食べてメタボ知らずで 1 0 0歳 1 0 0 歳」 近江八幡市 三 師 ( 医 師 ・歯科医師・薬剤 ) 会連絡協議会講演会、ウェルサンピア滋 賀 2 0 0 8 3. 1 ② 「岨嶋ならびに問題食行動からみた幼児の健 康 近江八幡市の幼児の 生活実 態調査から -J 食育ボランテェア フォローア ップ研修 近江八幡市総合福祉センタ ー ひまわり 館ホール 2 00 8 . 7 .2 ③ I WHY 食育」食育講演 レイカデェ大学草 0 0 8. 7 .4 津校 2 ④ 「 健康づくり実践プログラムによる園児への 健康支援の試み 」 主催 近江八幡市立北里幼 稚園 2 0 0 8 . 9 . 8 ① 「 食環境と健康」高大連携講座 2 0 0 8 . 8. 2 1 〈 各種委員会〉 高島市安曇川町商工会アドペリー商品認定委員 「 親子へルシークッキングコンテスト j 審査委 ∞ 員長 滋賀県 ・滋賀県栄養士会主催 2 8 . 1 1 .2 4 草津市食育推進計画策定委員会アドバイザー ( 2 0 0 8. 11-2 0 0 9 . 3) 〈 学会委員会委員 〉 日本薬理学会評議員 日本栄養改善学会評議委員-同近畿支部役員 日本家政学会近畿支部役員(代議員 ) く その他〉 ・“ スチューデントファ ーム 「近江楽座 J/まち ・ 〈 教科書〉 1) I 書 き込み教科書シリーズ公衆栄養学J同文書院 ( 共著) 〈 研究論文〉 1)早川史子・岡崎章子 ・猪口智子・韓順子 島根 t ' i ! ".山口県の茶弼習俗、日本食生活学会誌. 1 9. 3 343( 2 0 0 8) 3)早川史子・岡崎章子・猪口智子・鷲見孝子 ・ 韓順子 岐阜県 ・愛知県 ・兵庫県・岡山県 ・広島県 ・徳 9. 島県の茶粥習俗の分布、日本食生活学会誌. 1 7 5 8 2( 2 0 0 8) 〈 報告書 〉 1)早川史子 「 子 どもの生活リズム向上のための 調査報告書」 文部科学省委託事業多賀町教育委 員会 〈 学会口頭発表〉 1)早川史子 ・三好麻由美・矢田景子 ・木村隆英: ポリフェノール類の酸化能と抗酸化能に対する pHおよび金属イオンの影響、第 6 1回日本酸化ス トレス学会学術集会抄録集 社会人の年齢階層別飲み物 の飲用実態、第 5 5回日本栄養改善学会学術講演会 2)韓 } I [ 夏子・早川史子 講演集 〈 競争的資金〉 早川史子ーアサヒビール茶粥習俗の起源と伝播・ 分布一佐渡島・隠岐の島 ・瀬戸内海の 島々を 中心 に 、財団法人アサヒビール学術振興財団 ( 60 万) m iF o o dP r o j e c t プロジェクト名:Ou .I 彦根橋本町共同組合における空き庖舗を活用 ・地域・社会・国際貢献 〈 講演会〉 1) I 子 どもの生活リズム向上のための調査研究・乳 に関する提言 」 彦根橋本町共同組合との共同研究 ( 代表 .武 まちがいやすい食品表示」甲賀市健康推進連絡 2)I むら ・くらしふれあい指導教員 巴尚彦) 幼児調査を終えて 」多賀町地域教育力推進協議会 協議会 3) I 食育の重要性,そして男女共同参画へ」 ピカ ・ -阜川史子 ( はやかわふみと)公衆栄養学、健康と栄養、 食昂機能論(大学院) 本年度はいよいよ最後の年になりました。 これま で続けてきた茶カテキンの活性酸素の生成に関する 研究も昨年度で終止符を打ち、まとめの年にしよう と思いましたが、まだまとま っていません。 「 茶粥習俗の分布と伝搬 j に関する研究で、これ まで学術論文に掲載されたものと新たに発見した内 容も含め、定年退官依頼論文として本号に記載して います。 ご一読ください。ただし、このテーマも完 結したものではなく、今後も引き続き取り組んで、い きます。 本年度は牛乳や豆乳には茶カテキンの顕著な苦味 コーポレ ーション人権問題研修会 〈 メデ ィア〉 1 )I 茶粥 ・豆じゃ JK BS滋賀 ( ラジオ ) 2)I 茶粥JK BS滋賀(ラジオ) 〈 地域貢献〉 1)土山町生茶葉利用に関する協力と助言 〈 告種審議会・委員会委員〉 滋賀県建設省所管公共事業評価監視委員、多賀町 社会教育審議会委員兼公民館運営審議委員 、滋賀県 卸売市場審議会委員、滋賀県教育委員会湖っ子食育 0 0 7湖 っ子食育大賞 推進委員、 滋賀県教育委員会 2 被表彰校選考審査会審査員、滋賀県教育委員会県立 学校のあり方検討委員会委員 抑制効果があることを味覚テストおよび味覚セン 人間文化・ 97 人・閏・文・化・通・信 -野草抽出物による乳酸菌の生育抑制効果、第 5 5回 〈 学会活動〉 日本食生活学会評議員、日本栄養改善学会評議員、 日本食品科学工学会、薮下恵,浦部貴美子,灘本 日本農芸化学会代議員、日本栄養食糧学会近畿支部 知憲,小野康紀、第 5 5回日本食品科学工学会 (9月 、 役員 京都) -乾燥技術の遠いによる食品中の有用成分の変化、 .;灘本知憲(なだもととものり)食品栄養学 山口明子,土肥貞夫,河智義弘,康瀬潤子 甫 部 貴美子,灘本知憲第 5 5回日本食品科学工学会、京 ここ数年、マスコミ、健康雑誌からの引き合いが 都 多くなった。冷え症が若い女性を中心に蔓延してい る証左でもある 。 {論文] ・ココア によるヒ ト体表温の冷え改善効果、灘本知 3回チョコレート・ココア 国際栄養シンポ 窓、第 1 .Thec a u s eo ft h巴 b a ds m e l lo fp u f f e rf i s ha n d d e o d o r i z et h eb a ds m e l l,M .NAGAI,R .IMAZU , K . URABKT .Yamamo~ , T .Nadamo~ 、 5th Wo r l dF i s h e r i e sC o n g r e s s( 第 5回世界水産学会 1 5-2 1( 2 0 0 8) 野草抽出物の DPPHラジカル消去能、浦部、酒井、 9( l l) 、9 2 9 9 3 4( 2 0 0 8) 灘本、日本家政学会誌、 5 [地減貢献] [著書/一般雑誌] -健康・栄養マップ専門委員、滋賀県 •J 血圧がムリなく下がる 1 0 0のコ ツ、共著(ショウ ・外食栄養成分表示連絡協議会会長、滋賀県 ジウム講演集、 ガココア部分担当 )、主婦の友社編集、主婦の友 社 S B N 9 7 8 4 0 7 2 6 1 8 3 5 6 婦の友社 I 雑学読本 NH Kためしてガッテン 1 2、製作協力 (冷 えに勝つ食事部分担当)、 NHK科学・環境番組 S B N 9 7 8 4 -1 4 01 l2 5 9 5 部編集、日本放送出版協会 I .ショウガココアー上半身を温めるショウガと足先 まで温めるココアは低体温を解消する最強コンビ、 2 0 0 9 年 3月号、マキノ出版 [講演] ・冷え症と食品一漢方入門 2 0 0 8年 1月2 6日、中日新聞 2 0 0 8年 1月2 5日、京都新聞 [受託・共同研究] -附天野実業、( 附グリ コ、( 掬 サンメデイカル -柴田克己(しばたかっみ)ビタミン学、代謝栄養学、食 品機能科学、栄養生化学 2 0 0 8年 1月 -12月までのことを思い出すために, 、県立大学春期公開講 2 0 0 8. 2 . 2 8( 大阪) 態、第 1 3回チョコレート・ココア国│ 祭栄養シンポ ( 2 0 0 8. 9 . 19 、東京) 1月のスタートは共同研究を 行っている会社の方との面談からでした 1 2月の 最後は,恒例のことですが,研究室の大掃除とそれ 滋賀県立大学に赴任して以来 とほぼ同じような l年 問であったことになりました. 2 0 0 8年で新しいことは, ミネラルの新しい栄養指 ・食品成分のエネルギ一代謝充進と体温調節メカ ニズムー食品成分の温冷作用と体温調節、 手帳をみてみました に続く忘年会で終了しました.ですので, 2 0 0 8年も , ・ココアによるヒト体表温の冷え改善効果、灘本知 セミナー、 が共同開発、 ・ におい抑えたふなずし開発へー滋賀の産学官連携、 .年間活動 0 0 8 . 5. 17(県立大学) 座 、 2 -漢 方 と 食 品 / 入 門 、 江 崎 グ リ コ セ ミ ナ 一 、 ジウム 委員 [報道] 共著 (ショウガコ コア部分担当)、主婦の友社編集、主 安心、 ・米原市情報公開審査委員会 ・カロリー抑えたヘルシー弁当「冨久や Jと県立大 I S B N 9 7 8 4 0 7 2 6 0 9 6 5 1 . r 血め ぐり」がみるみるよくなる 1 0 0のコツ、 議)、パシフィ コ横浜 e B r a in 2 0 0 9 .1 . 3 0( 東京) {学会委員・学会発表] -日本栄養・食糧学会近畿支部役員 .日本栄養・食糧学会評議員 ・ココアによる冷え改善効果、森由佳,吉田真由子, 宮森沙耳 目 香,有 山愛,灘本知態、第 5 5回日本食品 科学工学会 (9月、京都) ・糖転移ヘスペリジンを配合した温かい飲料の経口 襟の確立をはじめたことです.ビ タミンの生体指 標を用いる栄養評価方法は,ほほ完成に近づきまし た 外国への出張は,一度で,中国の西安にいって 月1 4日-19日 ) 第 4回中日国際ビタ きました(10 ミン会議という学術集会です.ここでは,会議の P l e n a r yl e c t u r eをさせてもらいま r NUTRITIONAL STATUS OF WATER-SOLUBLEVITAM I NSOFJAPANESEJ 一番はじめの した題名は, 摂取による体表温および自律神経に及ぼす影響、 です.その内容は,我々の研究室の成果を基にした ものですが, 日本における水溶性ビタミンの栄養評 古川育代、宅見央子、藤│嶋昇、有山愛、梅村由貴、 価方法と評価に使用する基準値の紹介,そしてその 樹 神 結 花 、 白 石 浩 荘 、 米 谷 俊 、 橋 本 進一、灘 活用です 本知憲、第5 5回日本食品科学工学会 ( 9月、京都) 98 ・ 人 間 文 化 1 3回ビタミン 学会関係の世話役では,第 4 B研究 人・閏・文・化・通・信 委員会 ( 9月 5日-6日)を彦根でおこないましたー より合併症を予防することは、国内外を問わない緊 この研究委員会は,回数でもわかりますように,非 急課題となっています。平成 2 0年 4月から始まった 常に伝統のある研究委員会です 委員会の懇親を深 特定健診 ・特定保健指導はメタボリツクシンドロ ー めるために,エキスカ ー ションを行い,竹生島に行 ムの概念を取り入れ、該当者の食生活や運動習慣な このエキスカ ーションには 9 6歳の先生も どの生活習慣の改善を図る ことによって心疾患や脳 きました 参加されました 研究室をあげて,この委員会を盛 り上げました 血管疾患の発症や重症化 を阻止することを目的とし ています。肥満は、糖尿病、高血圧症、脂質異常症、 参加し発表した主な学会は, 会と日本ビタミン学会でした 日本栄養 ・食糧学 そして,楽しみにし ている研究会の一つの日本 トリプトファン研究会で 心疾患などの重要な発症因子であり、特定保健指 m=体重 1kgの増 導でも腹囲や体重の減少(腹囲 1c 減)を目標としています。 さて、日本人女性の 20- 来年 (7月)は国際 ト リ プ トファン研究会が 歳代の約 40歳代ではやせが増加しており 、 とくに 20 イタリアで開催されます開催者から 「ト リ プトファ 2 割がやせである 。それに対し、閉経後の 5 0-6 0歳 ン代謝調節」の話をするように依頼されています. 代では肥満者が増加し、糖尿病の発症につながって 世界中から トリプトファンを研究している仲間が集 います。 また、病院における栄養食事指導において、 した まるので,今から楽しみにしています. 社会貢献では,厚生労働省が策定している 「 食事 妊娠糖尿病 ( 妊娠中に耐糖能異常を呈する)患者が 多くなっており、その多く が非妊時にやせていたこ 摂取基準策定会」の構成員 (7名)に指名されました ともあり、若い女性のやせと糖質代謝の関係につい この仕事は, 日本人の健康を維持 ・増進するために て調査を開始したところです。特に 20 歳代女性の食 は, どれだけの栄養素を摂取すれば良いかを性別・ 生活がエネルギー摂取量が低いこととその摂取栄養 年齢別,ライフスタイルごとに示すもので,管理栄 素の構成が高脂肪となっていることが特徴といえま 養士が栄養指導する時の基本資料となるものです 滋賀県では「食の安全対策委員会」の委員長を担 当しました 公共活動では, r 食の安全 ・安心条例を求める滋 賀県民会議」の議長をしました 研究論文発表などの, 出版物の成果は,我々の研 究室のホームページをご覧ください ( ht t p: / / www s h c. u s p. a c. j p/ s hi b a t a/ ). われわれの成巣が実をむすべば,個々人の代謝能 力に応じた個々人の適正栄養素摂取量を提言するこ とができ,いわゆるオ ーダーメー ド食品ができます すると ,寿命の限界まで若年成人のままの美貌と体 力を保つことが可能になると思います. す。 この 2 0歳代の食生活がインス リン分泌能や糖質 代謝、とくに血糖値の変動に大きく影響を及ぼして いるのではないかと考えられます。 このことから、 若い女性のインスリン分泌能や血糖値の変化を調査 しました 。 また、医療機関で行われている栄養食事 指導の多くが糖尿病患者であり 、その栄養食事指導 の実態を明らかにするとともに、より効果的な指導 方法を検討し、合併症の発症や複合する疾病のリス クの軽減を図ることも重要です。とくに食生活の改 善と身体活動量を増すこと は糖尿病のコン トロール によって不可欠な因子とされており、改善するため の個別指導で成果を挙げることが求められています。 これら生活習慣の是正を阻害している因子を明らか にして、患者の日常生活習慣や行動の変容を図って -福井富穂(ふくいとみほ)臨床栄養学、栄養ケアマネジ いくを目的としています。 さらに、重症心身障害者 メント論、臨床栄養活動論 のエネルギ ー必要量について 呼気ガス測定を行うと [1]年間活動 ともに、園生の属性、臨床検査値、身体障害の程度 9 年国民健康 ・栄養調査の結果、糖尿病患者 平成 1 は推定8 7 0万人、糖尿病が疑われる者を含め 2 21 0万 などを実態調査し、適正な栄養摂取量の確保に協力 しています。 人と急増しています。 この背景には、エネルギー摂 取量の過多だけではなく、消費エネルギー量の減少 [2] 活動一覧 が挙げられています。 とくに、日常生活活動強度の I 研究活動 著書 ① イラス ト症例からみた臨床栄養学(編著者、分担 執筆)東京教学社 ② 改訂今日の病態栄養療法(編著者、分担執筆)南 低下が著しく、活動量を高めることが必要といわれ ていますが、現在の社会生活環境では難しいことか も知れません。 さらに、日本人を含むアジア人は永 年の穀類中心の食生活から獣肉を主とした食生活へ と変化しており、このことと糖尿病をはじめとする 江堂 生活習慣病発症のリスク増大につながっているとの 報告もされています。 ③栄養食事療法シリーズ 9 高齢者の疾患と栄養食 糖尿病は早期発見し、適切な血糖コントロ ールに ④病者用食品 ( 栄養補助食品)を用いた慢性閉塞性 事療法(分担執筆)建南社 人間文化・ 99 人・間・文・化・通・信 肺疾患 ( COPD)のエネルギ ー補給 ( 分担執筆)メ ついて学生の理解を深めた。 「略好と調理実習 IJ デイカ出版 では、食文化の伝承の意義を理解すべく、我が国(京 都府 ・大阪府 ・沖縄県)と外国 ( 韓国 ・イタリア )の 研究論文 料理の調理方法を知らしめ、食文化の違いを体得さ ①和食 ・洋食の脂肪エネルギー比の違いが若年女性 せた。 「給食経営管理論」では、学外臨地実習に必 の血糖値に及ぼす影響 要な基礎理論、マ ーケテイングの原理、マネジメン ② グルコ ース負荷試験により高血糖を示した若年女 性における食事組成が血糖値に及ぼす影響 ト論、組織管理、品質管理、会計 ・原価管理、通し て体得させた。 「給食の計画と実務」では、献立計 画から発注、実施後の栄養評価に至る 一連の事務処 学会口頭発表 理に関して実務演習し、即実践可能なスキルの修得 ①食事組成の違いによる食後血糖値の変動(第 3 9回 に努めた。 「給食管理実習 j では、集団給食のあら 滋賀県公衆衛生学会) ゆる角度からの管理運営の実態を修得させた。本年 ② 2型糖尿病患者の外来栄養指導効果 血糖コント ロールの良否からみた患者に対する栄養指導後の 9回滋賀県公衆衛生学会) 後ろ向き調査から一(第 3 ③ クローン病患者における栄養摂取状況と抗酸化ビ 度の研究課題は、 「 真空調理に関する研究」 と 「 給 食経営管理に関する研究 j。 。研究活動 ・増粘多糖類(カラギー ナ ン)を用いた!熊下障害食 9回滋賀県公 タミンによる抗炎症作用の検討(第 3 について、日本栄養改善学会 (9月 7日、鎌倉芸 衆衛生学会) 術館) -真空調理によるビ ーフステ ーキの調理に関する研 I.地域 ・社会 ・国際貢献 1 1月3 0日、大阪市立 究、日本給食経営管理学会 ( 講演会 ・食生活改善指導担当者研修会「健康教育の理念と 方法 J( 紛 滋賀県栄養士会 大学) -真空調理の保存方法の違いによるテクスチャーの 11 月3 0日、大阪市立大学) 比較 ハンバーグ -( -生涯学習研修会 「実践 POSJ・「症例と POSによ る栄養教育 J( 社)香川県栄養士会 .地域 ・社会・国際貢献 〈 講演会〉 -しが女性の会研修会 ( 9月 1 9日「食の安全 と安心」 -淡海生涯カレッジ 「食生活 と寿命」 出張講義等 近江八幡市) -平成 2 0年度学校栄養職員 1 0年経験者研修 「食生 活に関する個別指導」 -滋賀県立米原高校 「 管理栄養士・栄養士の職務と 将来展望 j ・米原市保育協議会研修会(11 月1 3日 講演「保育 指導指針と食育」調理実習 「 子どもと 一緒に作る おやつ」本学) 〈出張講義〉 ・三重県立津西高校 ( 1 0月 3 日「食の安全と世界の 各種審議会・ 委員会委員 ・滋賀県公衆衛生学会理事・実行委員 ・第1 5回国際栄養士会議財務委員会委員(間日本栄 ) 食糧事情 J 〈 学会委員会委員〉 .全国研究教育栄養士協議会滋賀県代表 養士会) -日本糖尿病療養指導士認定試験委員 (日本糖尿病 .日本給食経営管理学会評議員 療養指導士認定機構) -滋賀県健康づくり県民会議委員・専門部会委員 .滋賀の健康 ・栄養マップ調査専門委員会委員 -岡本秀己 ( おかもとひでみ)健康栄養学 今年度から人間学「若者の健康と栄養」という講 ・草津市中学校スク ールランチ検討委員会委員 義の一部を受け持ちましたが、学生遠の食生活の乱 学会委員会委員 -日本病態栄養学会 評議員 ・日本栄養改善学会 評議員 -日本給食経営管理学会 理事 ( 副理事長) -吉田龍平(よしだりょうへい)給食経営管理学、臨床調 理学、臨床栄養学 .年間活動 「 環境マネジメント総論」では、全学部 l回生を 対象に、 「エ コ ・ クッキング」 を中心に環境問題に ・ 人 間 文 化 100 れ( 朝食抜き、昼節約、夜ドカ食い、夜食)には驚 かされました。メタボ、リツクシンドロ ームをはじめ とする生活習慣病の予防の観点からも、若い年齢層 からの 「 食育」が必要です。 。研究 -地域在宅高齢者に対する栄養教育プログ ラムの実 施とその効果 ・大学生の減量プログラム実施とその効果 .継続的な地域在宅高齢者の骨密度調査 人・閏・文・化 .著書 ・通・信 母)の生育を抑制する植物の検索を行っていました。 ・「応 用 栄 養 学 J( 9章 成 人 期 、 p9 6 1 1 0)と 03 有用微生物の過度の増殖によりもたらされる食品の 章 運 動 ・スポ ー ツと栄養、 p1 4 0 1 5 1)執筆、朝 品質低下を抑えることができるものと考えていま 倉書庖 す。 2回生の担任として、学生たちとゆっくり話をす 4 砂学会発表 ・「大学陸上部員に対する栄養教育介入とその効 果」第6 3回日本体力医学会大会 ( 9月、別府) る機会を設けることができなかったことが悔やまれ ます。来年度こそは、という思いでいます。 ,1 地域在宅高齢者に対する継続的な健康教育とそ .活動一覧 5回日本栄養改善学会学術総会 (9月 、 の効果」第5 〈 研究論文〉 浦部賀美子・酒井久仁子 ・灘本知憲.野草抽出物 鎌倉) PPHラジカル消去活性,家政学会誌, のD .競争的資金 栄養教諭の専門性の高度化に関する ・受託研究:1 先導的プログラムの研究開発」文部科学省、田中 〈 学会発表〉 敬子・岡本秀己 1)薮下 ・特別研究費:重点領域研究 「 滋賀県立大学子ども 未来応援プロジ‘ェク ト」共同研究(代表竹下秀子) 恵・浦部貴美子・灘本知憲 ・小 野 康 紀 : 野草抽出物による乳酸菌の生育抑制効果, 品科学工学会第 5 5回大会 日本食 ( 2 0 0 8 . 9 . 7 京都大学) 2)山口明 子 ・土肥貞夫・河智義弘 ・居者瀬潤子・浦 .講演等 ' 1 便秘予防の食生活」彦根市辻堂町研修会 講師 (6 月) ,1 離乳食について JU S P子育ち応援ラボ 「うみか ぜJ講師 (7月) 会淡海生涯カレッジ講師 ( 9月) ( 9月) 骨 講師(10 月) ( 2 0 0 8. 9 . 6 京都大学) 1)共同研究 ( 代表者 灘本) 天野実業株式会社 分 (ビタミン ,生理活性物質など)の含量変化に 委託研究 ( 代表者.灘本) 滋賀県工業技術総 合センター ストレスと栄養」環びわ湖コンソーシアム公開 ,1 講 座 講 師 ( 10 月) 地域資源とバイオ技術の融合による新規機能性 食品の開発のための調査研究 ' 1 1骨粗怒症予防について」 粗怒症一般予防教室 大会 関する研究 ,1 骨粗怒症予防について」彦根市福祉保健部 粗怒症一般予防教室 乾燥技術の違いによる食品 5回 中の有用成分の変化, 日本食品科学工学会第 5 食品の加工方法,乾燥技術の違いによる有効成 高校生 と栄養」滋賀県立東大津高等学 校 大 学 ,1 模擬講義講師 部貴美子 ・灘本知憲 〈 共同/委託研究〉 ,1 寝 た き り に な ら な い た め に 」 彦 根 市 教 育 委員 彦根市福祉保健部 骨 講師(11 月) SP子育ち応援ラボ「うみかぜ」 管理栄養士と ,U 努 ( ふくわたりつとむ)食品栄養学 柴田克己教授の下で 「日本人の食事摂取基準を改 定するためのエピデンスの構築に関する研究 Jに取 ( 2 0 0 3 現在) ,1 スチュ ーデントファ ーム「近江楽座 J /まち ・むら・ くらしふれあい工舎プ ロジェクト 」指導教員 -滋賀県レイカデイア大学 -福渡 .年間活動 。その他社会貢献 して参画 V o . 1 5 9, No. l l .9 2 9-9 3 4( 2 0 0 8) 非常勤講師 -彦根市橋本商庖街活性化 プロジェクト (ランチ提 供) 組んでいます これは,厚生労働省が 5年毎に策定 する 「日本人の食事摂取基準」に必要な科学的デー タを得ることを目的とし , ヒ トおよび実験動物を対 象として,健康維持や生活習慣病予防を期待できる 栄養素摂取量 はどれくらいなのか,栄養状態を判定 するにはどのような生体指標が有効に利用できるか, -浦部貴美子(う 5べをみと)食品保蔵・加工 その指標をライフステ ージ別にどのように利用でき .今年度の活動 るか, などを明らかにする研究を行っています。水 未利用である植物性素材,特に身近にある野草に 溶性ビタミンワ ーキンググル ー プの協力者として, 着目し,あらたな働きを持ったものとして食関連分 2 0 0 9 年に発表される 「日本人の食事摂取基準 ( 2 0 1 0 野で有効に利用できないかと 研 究を続けています 年版 ) J の策定に携わりました 本年度は,宮森沙耶香さん ( M2 )の研究により ,消臭・ また , アミノ酸は神経伝達物質の分泌を調節する 抗菌活性成分が分離され ま した (カキドオシ、メマ ことができることを利用して,食環境の改善によ っ ツヨイグサの消臭活性成分および抗菌活性成分の分 て穏やかではありますが適度な範囲内で神経伝達物 離) 。 同定されるのも時間の問題となり楽しみです。 質を調節することにより,脳機能の保護を目指した また、数年前から開始した有用微生物 ( 乳酸菌と酵 研究を行 っています 人間文化・ 1 01 人・閏・文・化・通・信 4 砂活動一覧 〈 学術論文〉 ・葉酸の大量摂取が幼若ラッ トの成長と水溶性ビタ ミン代謝にお よぽす影響福渡努,柴田克己 食 品衛生学雑誌 ( 2 0 0 8)4 9( 1 ),5 1・ 5 ・遊離型ビタミンに対する食事中の B群ビタミン の相対利用率.福渡努,柴田 克己 日本家政学会 1 ' 1 : -( 2 0 0 8)5 9( 6 ),4 0 3 1 0 .Urinary water-soluble vitamin and t hei r me t a b o i lt e sc on t e n t sa sn u t r i t io n almarkersf o r eval ua t ingvi tamini n ta k e si nyoungJ a p ane s e women.FukuwatariT,andS h i b a t aK .JNu t r S c iV i t a m i n o l( 2 0 0 8)5 4( 3),2 2 3 9 .Urinarye x c r巴t or yr at i oo fant h ran i l i ca c id/ kynure n i ca c i df o ra ni n de xo fl a r gea mounto f t r y p t o p h a ni n ta k e .Okuno, AF u k u w a t a r iT,a nd S h i ba t aK .B i o s c iB i o t e chno lBiochem ( 2 0 0 8)7 2 ( 7 ),1 6 6 7 7 2 ・M olybdenumandchromiumc o n c en t ra t i o n si n b r e a s tm i l kfromJ a p ane s ewomen.Yo s h i d aM, Takada, AH i r o s 巴] , EndoM,F ukuwatariT,and S h i b a t aK .B i o s ciB i o t e c h n o lBiochem ( 20 0 8)7 2 ( 8 ),2 2 4 7 5 0 ・F o r m a t i o no fn i c o t i na mideb yt headmi n i s t ra t i on o fd i( 2 e出 yl hexyJ )p h t h a l a t ed oe sn o tc a u s et h e growthr e t a r d a t i o no ft h巴 youngr a td i f f e ri n g fromt h eexogen o u s ly e x c e s sad m i n i st r a ti o n o fn i c o t i n a mi de .FukuwatariT,a ndS h i b a t aK B i o s c iB i o t e c h n o lB i o c he m( 2 0 0 8)7 2( 9),2 4 2 3 7 . .Age-related al te r a t i on so fB-group vitami n c o n t e n t si nu r i ne,b l o o dandl i v巴rfrom r a t s FukuwatariT,WadaH,andS h i b a t aK .JNu t r S c iVi tami n o l( 2 0 0 8)5 4( 5 ),3 4 75 2 〈 総説・資料など〉 -生理活性ミネ ラルと B群ビ タミンの生体利用率 との関係 柴田克己,福渡努.ビタミン ( 2 0 0 8) 8 2( 2),1 1 5 2 5 -ニゴロブナ ( C a r a s s i u sau r a t u sg r a n d o c u l i s)の血 液中のピリジンヌクレオチド補酵素含量 柴田克 己,康瀬 i 関子,福渡努, 肥田嘉文,園松孝夫. ビ タミン ( 2 0 0 8)8 2( 2),1 3 15 . -水溶性ビタミン混合剤投与中止 1 週間後の尿中水 溶性ビタミン排池量 福i 度努,柴田克己.ビタミ ン( 2 0 0 8)8 2( l l),6 0 1 6 〈学会発表〉 ・ 尿を利用した水溶性ビ タミン摂取量の評価- DHQ で算出した摂取量と尿中排地量との関係一 福 渡 努,佐々木敏,村上健太郎,上西一弘, 山崎美津代 , 早i 刻仁美,合田敏尚,岡純,馬場啓子,大木和子, 君 1俊之,渡透令子, 古木美香,柴田克己 第6 2回 102・人間文化 日本栄養 ・食糧学会大会(平成 2 0 年5月,埼玉県) .Re l at i o ns h i p sbetweenwater -s o l u b l evi t a m i n s i n t a keandt he i rb i o m a r k e r si nr a t sa ndhumans. FukuwatariT,a ndS h i b a t aK .The4 t hC h i n a J apanI n ter na ti o n a lConference onVitamins ( O c t o b e r,2 0 0 8,X i ' a n,Ch i na ) -水溶性ビタミン摂取量を評価するバイオマーカー 度 努 , 柴田克己.第 6 7回 日本公衆衛生 の確立.福 i 学会総会 ( 平成2 0年 I I月・福岡市) .H ight r y p t o p h a nd ie ti n c r e a s e st i s s u ek y n u r e n i c a c idl e v e l sanda f f e c t sdopaminet u r n o v e ri n t h er a ts t r i a t u m.Okuno, A Fuku w a t a r iT,and S h i b a t aK .S o c i e t yf o rNeur o s c ie n c e3 8 t hAnnual Meeting (November ,2008,Washington DC, USA) 他1 7回 〈講演〉 ・おいしさとコク 福 渡 努 食 品 技 術 研 修 会 (主催 : 静岡県工業技術研究所,静岡県食品産業協議会, 0 年 3月,静岡市) 静岡県食品技術研究会,平成 2 -虞瀬潤子(ひろせじゅんと)乳児栄養学 授乳時にお母さんが赤ちゃんの飲みっぷりを観察 するポイントと、乳幼児健診などで指導を行なう指 導者の観察ポイン トの違いについ て検討しました。 健診ではほとんど赤ちゃんの母乳の飲み方は観察さ れないことが明らかになり、欧米に比べて、母乳保 育の関心の低さを表す結果となりました。母乳育児 指導に熱心な病院では 96%が母乳崎育というデータ も出ています。忙し いお母さんや指導者に効率的な 評価方法の開発をめざします。 .論文など l .I 母親の食生活 と母乳のにおい」、蹟瀬潤子、長 、 1番目 ) 、 日本母乳崎育学会 尾早枝子(他 2名 2) 、8 4 9 2、2 0 0 8 雑誌、 2( 2 .I 抗大麦 L i pi dTra n s f e rP r o t e i n抗体を用 いた ビールの品質評価系の確立 」、山 口友貴絵、康瀬 潤子(他 2名 、 2番目)、日本食品科学工学会誌、(印 刷中) 3 . Molybdenumandc hromiumc o n c e n t r a t i o n si n b r e a s tm i l kf r om J a p a n e s eWo m e n . :M.Yo s h i d a, ] .H i r os e,K S h i b a t a( 他 3名 、 3番目),B i o s c i . B i o t e c h n o . lB i o c h em .7 2(8, ) 2 2 4 7 2 2 5 0, 2 0 0 8 4.I ニゴ ロブナ ( C ar a s s i u sa u r a t u sg r a n d o c u l i s) の血液中 のピ リジンヌク レオチド補酵素含量」、 、 2番目)、ピタミン、 柴田克己、廃瀬潤子 ( 他 3名 8 2( 2 )、2 0 0 8 5 .I 日本人母乳栄養児 (0~ 5ヵ月 )の 崎乳量 」 、 、 日本母 居者瀬潤子、柴田克己(他 4名、 1番目 ) 1 ) 、 2 3~ 2 8、2 0 0 8 乳晴育学会雑誌、 2( 人・間・文・化・通・信 その他、研究グループとしての論文、 5報 .書籍 「栄養素の必要量の決定」、柴田克己、康瀬潤子、 今日の病態栄養療法 ・改訂第 2版 ( 渡辺明治、福井 富穂編)2 1 2、2 0 0 8、南江堂 明することとなったが、当教室においても同様なこ とがあったことに私自身も医師としての責任を痛感 させられた。 このことはあらためて採血による血液 を扱う実習や実験について考えさせられるきっかけ となった。教育上、血液を用いた実習および実験を 。記事 「食」の宝 1 31 赤ちゃん 年1 月1 4日( 滋賀中日 ) 数の医療施設や医療教育機関がそのことの反省を表 味どう感じてる?J2 1 4 ゆ学会発表 市部 ・山口明子、 土肥貞夫、河智義弘、庚瀬潤子、i 貴美子、灘本知憲、 乾燥技術の違いによる食品中 5回日本食品科学工学会 の有用成分の変化、第 5 -居者瀬潤子、長尾早枝子、授乳婦の食事内容による 完全に否定することはできないが、 一方で附属病院 でなくとも学生健康診療所のような医療施設がなけ れば採血という医療行為は原則困難で、あることも否 定できない。前所属研究機関では血液を用いた研究 を行ってきたが、残念ながら今後は I 血液を用いる必 要のない研究へと移行せざるを得ないと判断してい る。 3回滋賀県小児 母乳成分変化と乳児の略好性、第 2 保健学会 病に関するものであるべきと考えている 。社会的重 -山口友貴絵、中村美幸、廃瀬潤子、本庄勉、成田 要性と今後の管理栄養士の養成において最も重要な i p i dT r a n s f e rP r o t e i nに対する免 宏史、 リンゴ L 疫学的評価系の確立、日本農芸化学会 2 0 0 8年度大 謀題であるはずだが当教室では生活習慣病に関する 研究がほとんどなされていない。容易ではないかも しれないが何とかそのょっな研究を展開できる環境 A Zミ .共同研究・受託研究 -上原記念生命科学財団、「授乳婦の食事内容によ る母乳成分変化と乳児の晴好性への影響」 ・天野実業株式会社、「食品の加工方法、乾燥技術 の違いによる有効成分の含量変化に関する研究」 ・滋賀県、 「地域資源、とパイオ技術の融合による新 規機能性食品の開発のための調査」 -特別研究費 重点領域研究 「 滋賀県立大学子ども 未来応援プロジェクト」共同研究(代表竹下秀子) 。社会貢献 -彦根橋本商庖街活性化プロジェクト -授乳婦の栄養相談の実施(共同研究先助産院にお いて) -高山博史(たかやまひろし)疾病と栄養学、病態と病理 ‘ ム ム4 ナ 2 0 0 8年度の春には重要な研究成果を発表すること ができた。抗血栓薬になり得る血小板コラーゲン受 容体を消失させるモノク ローナル抗体を開発したこ とを論文発表したところ反響が大きく国内では新聞、 テレビで報道され、海外では Na t u r eR e v i e w誌に サイエンストピックとして取り上げられた。 これま そのような状況でも研究テーマはやはり生活習慣 0 0 9年度はこれに尽力 を整備したいと考えている。 2 したいと思う 。 〔 =人間関係学科>> -八木英二(ゃぎひでじ)人間関係学科 著書には、「教育にお ける国際的合意 J 新教育 学j ミネルヴァ 書房の改訂版の分担執筆、 2 0 0 8年 3 ( r 月)がある 。論文執筆には次のものがある 。①rlIL O / ユ ネスコの教員の地位に関する勧告」 と日本の教 a 1 J2 0 0 9 年 1月)、② r lCEART調査団」 師J 季論 2 と教師専門職性公証システム J 人間と教育j 旬報 ( r 0 0 9年 3月)、① f lCEART調査団」 と教師の 社 、 2 専門職性J( r高校のひろばj旬報社、 2 0 0 9年 3月) など。 これらは、平成 2 0年 度 -2 2年度までの 『教 職の役割変化と教員評価に関する国際的合意形成の 科研費補助金:基盤研究 C )による成果の 研究 J( 一部を含むものである 。 学会発表には、公開シンポジウム発表 「国際機関 の教員政策・資質向上論-1 L O /ユネスコ調査団 来 日調査の意義と 「 教職基準」化動向 J(日本教師教 育学会第 1 8回研究大会報告集、2 0 0 8年 9月)がある 。 1 保育と表現」 ほかの論考には、 ①「表現と言葉 J( での抗血栓薬は副作用としての出血傾向が克服でき ていなかったがこの抗血栓薬はその副作用がほとん どないということが注目されたようである 。開発に 4 号 、2 0 0 8年 3月)、②「子 研究会、ニューズレター第 3 1 保育と表現」研究会、ニュー どもの遊びの世界 J( は足掛け 8年を要した。研究のほとんどは以前所属 していた教室と共同研究機関の研究所でなされたも 6号 、 2 0 0 8年 7月 ) 、 ③「楽 しい表現と ズレター第 3 1 保育と表現」研究会、ニューズレタ ー臨時号、 はJ( のである 。 このような研究が可能な環境が当大学に もあればと願うばかりである 。 2 0 0 8 年 7月)、その他に滋賀県立大学・人間文化学 研究紀要 『 人間文化j 掲載の巻頭言 などがある 。 2 0 0 8年の夏に簡易 l 血糖値測定器の不適当な針の扱 いに関する全国的な報道がなされ、結果として大多 0 3 人間文化・ 1 人・間・文・化・通・信 かかわる取り組みをすることができました(いずれ -竹下秀子(たけしたひでと) 発達心理学 ヒト とチンパンジ ーの胎児期からの運動と認知 も、人間関係学科助教の上野有理さんとの共同指導)。 の発達を明らかにし、母子のかかわりとその進化 私たちの研究 ・教育活動にご協力くださいました子 的基盤を考える研究(文部科学省科学研究費補助金 育ち応援ラボ「うみかぜj 赤ちゃん研究員のみなさま、 基盤研究 ( B) , 胎児期からの母子 コミュニケー ショ 市内保育園関係者のみなさまに深く感謝いたします。 ンー胎内聴覚経験とクロスモダル知覚の比較発達研 地域 ・社会貢献活動を通しでもさまざまなかかわり 究」研究代表者 ・竹下秀子)を中心とした 心 の発達 を得たいと考えて過ごしました。本年度は、滋賀県 の基礎研究に取り組むとともに、地域の子育ち ・子 主任児童委員研修会講師、滋賀県私立保育園連盟国 育てと連帯して研究と実践を交流し共に育ちあう仲 長会研修会講師、産経新聞社 ・日本赤ちゃん学会共 間づくりをめざして活動しています。滋賀県立大学 催の 「 保育および育児支援のための 『 新 ・赤ちゃん 特別研究費重点領域研究として実施している 「 滋賀 学j 入門講座」講師を務めたほか、日本赤ちゃん学 県立大学子どもの未来応援プロジ、エクト」では、 1) 会評議員、日本発達心理学会関西地区懇話会幹事も 本学部生活栄養学科、人問看護学部のほか、京都大 0 期連携会員 継続しました。 また、日本学術会議第 2 学等の研究者との共同に よる 基礎研究(乳幼児の発 として、臨床医学委員会出生 ・発達分科会による提 達や健康がテーマ)、 2)子育ち応援ラボ「うみかぜ」 言 ,事故による子どもの傷害j の予防体制を構築 として実施している母子活動支援 (子育て サークル するために」のとりまとめに参画しました。 r 「インファンクラブ」 、育児交流会「ミニ学習会」など)、 3)保育士や地域の子育て支援者とともに実践を交 園那須光章(なすとうしよう)心理学、教育心理学 流し学びあう 「 子育て実践仲間の会」、 4)大学を中 .年間活動 心とした研究と地域での子育て実践を 地域のく らし 青年のソ ー シヤルスキルとソーシャルサポー トの につなぐ情報交流誌 「うみかぜだより」の発刊、な ストレス緩和に及ぼす効果、障がい者の作業訓練と どを進めています。 これらを通じてさまざまな方と 職業自立の課題、軽度発達障害の児童生徒の指導 ・ 出会い、新たな課題も見えてきた 1年でした。今年 支援、事故防止と交通安全教育等に関する研究など 2 0 0 8 )赤ちゃんの 度公刊した論文は、 1)竹下秀子 ( を行ってきました。 あおむけが人間の新たな知性を導いた 発達、 1 1 4 、 十分な研究成果をあげることができませんでした 1 0 4 1 1 2 . 2)T a k e s h i t a,H .,Myowa-Yamakoshi ,M . , H i r a t a,S .( 2 0 0 9 ) Thes u p i n ep o s i t i o no fp o s t n a t a l humani n f a n t s :I m p l i c a t i o n sf o rt h edev巴l o p m e n to f c o g n it iv ei n t e l l i g e n c e ./ n t e r a c t i o nS t u d i e s( inp r e s s). が、引き続き調査研究と実践指導、事例分析を進め 学会発表としては、昨年度末の第四回日本発達心理 で行い、より 一層教育現場での謀題に近づいた講義 学会大会(追手門学院大学)において、 が展開できました。 1)ヒト胎児 における聴覚一運動のマッチング行動(明和政子 ・ る予定です。 教育面では、現職の高校の先生を招いた新しいタ イプの授業を 「 教育心理学」 、「教育相談 ・ 進路指導」 学生指導としては、外国人留学生の研究生を受け 竹下秀子)、 2)乳幼児における食物要求行動の発 入れて、「若者のルッキズムの国際比較 達的推移 ( 上野有理・明和政子 ・竹下秀子)、 3)積 国のちがいー」の研究の支援を行いました。 日本と韓 木を使った課題にみるヒトとチンパンジーの認知発 学生卒論指導では『大学生の対人不安傾向ときょ 達(林美里 ・竹下秀子)のポスター掲示と、ラウン うだい関係の関連について j、 『 ブランド志向と自己 ドテ ーブル 「第三者の共有と共同注意との関連性お 意識の関係について j、 『 女性の化粧行動と自己開示 よびその成立過程をめぐって Jでの話題提供をおこ の関係j 、『 音楽療法とその効果について』 の各論文 ないました。 また、第 1 6回国際赤ちゃん学会(カナ の作成をサポートしました。 ダ・パンクーパー)にも参加し、胎児研究の成果を 学外活動、社会的活動の面では、交通心理学的研 ポスタ 一発表しました。研究にかんしては、指導院 究を基にした「薄暮期の点灯状況と自動車事故の関 生で博士後期課程在学中の藤本麻里子さんが、京都 ・ 連性」などに関する研究報告・講演を行いました。 嵐 山と 東アフリカのタンザニア ・マハレ山塊国立公 学校教育関係では高等学校にお ける軽度発達障害 園での研究成果をとりまとめた論文「霊長類におけ 生徒の支援のあり方などついて現場の先生と研究協 る至近距離での コミュニケーションの進化的基盤に 議と重ね報告書を作成しました。さらに、 精神に障 関する研究:ニホンザルのグル ー ミングとチンパン がいを持つ人や発達障がいのある人々の日中デイ ジーの覗き込み行動から Jによって、博士学位を申 サービスや作業所での作業訓練、授産指導の実態や 請 ・審査中です。 同じく、博士後期課程在学中の丸 課題についての議論に参加して、この問題の研究の 漆由美子さん、前期課程 2回生の田野尻七生さん、 端緒を開くことが出来ました。 学部卒論生、 3回生とも乳幼児の発達研究の実際に 104・人間文化 人・間・文・化・通・信 月 5日) 。活動一覧 地域・社会 ・国際貢献 ・長浜東 ロータリークラブ例会講演 [講演] 1 地域の教育カと子育て支援」近江八幡市岡山学 -第3 0回滋賀県明るい選挙推進県民会議講演:1 高 o o 議会」、於.北ピワコホテル ( 2 0 0 8 年1 1月2 1日) 区青少年学区民会議 校生の政治意識と常時啓発について一 高校生アン 1 薄暮期 の交通事故防止運転に ついて j 日本自動 2 0 0 8 ケート調査の分析から 一」、於 滋賀県庁新館 ( 年1 2 月1 9日) 車連盟関西本部交通安全フォ ーラム o 「地方分権と 1 大学入試の改善と OA入試の問題点」滋賀県教 -市民運動ネットワーク滋賀 ・連続市民講座講演 「 嘉田県政と マニフ ェス ト 検証と課題 育研究集会分科会 」、於 大津市生涯学習センタ ー ( 2 0 0 9年 1月2 4日) -平成 2 0 年度滋賀県町村議会議長会研修会講演 「 変 [審議会・委員会など] o o 1 社会福祉法人ひかり福祉会」理事 1 財団法人ひかり協会」東近畿本部救済対対策委 員 o o 1 愛荘町立秦荘東小学校学校」学校評議員 1日本自動車連盟 関西本部交通安全実行委員会」 動期社会の地域政治」、 於 大津プリンス ホテル ( 2 0 0 9年 3月 2日) 5 テレビ出演 o r びび ドキ ッ!J(コメン テーター、 2008年 4 月~ 2009年 3 月、 17: 45~ 1 8 ・ 48) [ 毎 週金曜日レギュラー出演] 常任委員 o ~B 1.単著 ~ ~体験的国際 比 較調査論一儒教文化圏の 若者意識 調査』 サンライズ出版、 o r 御退休 記念 静慈図先生蘭契録j、高野 山大学密教学研 究室、 2 0 0 9年 2月 W 2 0 0 8年湖国の一年一あな たが選ぶ ニ ュースベス 2 0 0 8年 1 2 月3 0日、 1 7: 0 0~ 1 8: 2 5)[出演] ~東近江市長選挙開票 速報 j わ湖放送、 ( コメンテ ー タ一 、 び 2 0 0 8年 2月 1 5日) [ 出演] I rもったいないj は 今 折 り 返 し の 嘉 田 県 政 を 問 6.共同研究 中日新聞 J( 2 0 0 8年 7月2 0日) うJr ・科研費による共同研究 「 変革期社会における離島 1 ニュースを問う 任期折り返しの嘉回滋賀県知 中日新聞 J( 言論面、 事 Jr 2 0 0 8年 7月2 0日) 1 嘉田県政 “折り返し. .( 上) Jr 産経新聞 J( 2 0 0 8 年 7月2 6日) 0 1芹谷ダム計画 中止 J~読売新聞 J ( 2 0 0 8年 1 0月 4日) r 毎日新聞 J (2 0 0 8 ・ 「 栗東の新幹線新駅中止から 1年 J o 年1 1月 6日) ・ 「 草津市予算編成過程の公開、不当な口利き防止J および山村地域の政策課題に関する 実証的研究」 ( 2 0 0 6~ 2 0 0 8年、代表:青木康容 ・例教大学社会 学部教授)が最終年度に入った 。 7.自治体史 ・東近江市史 ( 能登川の歴史) :史料収集 -秦荘 町史 :~秦荘の歴史』 第 3 巻(近代・現代 ) 刊 行 ( 2 0 0 8年 6月)…分担執筆 「戦後の改革 J1 秦 I秦荘 町行政の展開 J I愛荘町へj、『秦 荘 町の誕生 J 荘の歴史j 第 4巻 ( 文献史料編)干 ] 1行予定 ( 2 0 0 9 年 f 京都新聞 J( 2 0 0 8年 11月2 0日) 1 社 説 選 択 の 時 ・岐路の 政 治 有 権 者 こ そ 変 革 北海道新聞 J(社説 ・総合、 2 0 0 9年 1 の担い手 Jr -日野町史 月 4日) 8.学会活動 0 1 嘉田県政の検証 Jr 朝日新聞 J( 2 0 0 9年 1月2 5日)、 『 京都新聞 J( 2 0 0 9年 o r 甲賀市長選挙開業速報J( コメンテータ ー、びわ ト1 0 -J (コメンテータ ー 、 びわ初i 放送、 o 3 新聞等掲載記事(評論、コメント等) o 2 0 0 8年5月3 0日 、 1 0月3 1日 、 2 1: 5 4 2 2: 2 4)[出演] i 却 j 放送、 2 0 0 8年 1 0月2 6日 、2 1: 3 0~ 2 2: 3 7)[出演1 ・ I~空海信仰の師j としての静慈困先生 J o o 2 0 0 8 年 9月 2 . エッセイ o BCニュースライン Fr i d a y J(コメンテ ー タ一 、 びわ湖放送、 -大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学、教育社会学 o びわ湖放送 、 1月2 5日)、『 毎日新聞 J( 2 0 0 9 年1 月2 7日)、 『中日新聞J( 2 0 0 9年 1月2 9日) 1 米原市長選挙立候補予定者公開討論会 Jr 中日新 聞J( 2 0 0 9年 2月 1日) 、 『 京都新聞 J( 2 0 0 9年 2月 7日)、 『毎日新開 J( 2 0 0 9年 2月 8日) 4 講演活動 ・民主党滋賀第 4期政治スク ール講演 の現状と課題」、於 民 主 党 滋 賀 県 連 3月)…分担執筆 戦後の行政 ・政治分野 史料収集・史料編本文掲載史料の選定 丸 ・日本社会学会事典編集委員会編 『 社会学事典J( 担当編集委員 善)の第 H部:法 ・政治の社会学 ( 宮本孝二 )の中項 目 「地域政治」 を執筆担当 ( 刊 0 0 9年 9月) 行は 2 9 社会活動(地域貢献)等(現職のみ) -滋賀県明るい選挙推進協議会副会長 ( 滋賀県選挙 管理委員会) 「滋賀県政 -彦根市行政評価委員会委員(彦根市企画振興部) ( 2 0 0 8年 7 -市立長浜城歴史博物館協議会副会長(長浜市教育 人間文化・ 1 0 5 人・間・文・化・通・信 委員会) ・東近江市史 ( 能登川の歴史)編集委員会委員(近現 代部会長) 日 野町史執筆委員 .秦荘町史執筆委員 1 0.その他 ・博士論文審査の副査を務めた(地域文化論部門: 楊常宝論文 『 現代中国における農民問題に関する 研究一社会・経済の持続的発展を阻害する構造的 ) 差別問題-J -東近江市長選挙の公開討論会でコーディネーター を務めた ( 主催.東近江市経済フォーラム委員会、 2 0 0 9年 2月 5日、於:湖東公民館) ・米原市 長選挙の公開討論会で コーデイネーター を務めた ( 主催:米原市長選挙を 1 0 0倍楽しむ会、 2 0 0 9年 2月 6日、於:米原公民館) -野部博子(のべひろと)児童文化・伝承文化 。研究教育活動 2年にダム建設が示されてから 5 0 一つには、昭和 3 余年、岐阜県揖斐郡旧徳山村に建設された 「 徳山ダ ム」は平成 2 0年 4月2 4日ダム湖は満水となり、その 0月 湖は 「 徳山ダム湖」と命名された。そして同年 1 には竣功式を迎え、様々な問題を残しながらも稼動 を始めた。 3年から湖底化する村の文化の保存のために 昭和 5 村人が離村するまで現地で調査を行い、その後、移 住地にも調査に訪れた。 これら の成果はすでに報告 済みであるが、とりわけ貴重なる語り手であった女 性とのかかわりは深く、村の伝承話、自然や文化や 歴史について多くの話を聞くことができた。 これも 論文や報告書にまとめてきた。 この女性が平成 1 8年 3月に死去され、残された多くの資料を引き継ぎ、 以来資料の整理に追われている 。氏は 「 徳山のカメ ラは、あちゃん」こと増山たづ子氏である 。 残された資料の中から未公開の写真を 1 0 0点ほど 抜き出し、朝日新聞名古屋本社主催で 1月には名古 屋「 ノリタケの森ギャラリー 」、 1 2月には東京 「コ ニカ ミノルタプラザ」にて写真展を開催した。両会 場で 1 3 . 0 0 0人余の観覧者があった。 補足調査では移住された元住民、また先祖が村出 身の子孫の方々と出合い聞き取り調査を継続的に 行っている 。 二つには、かつて滋賀県犬上郡多賀町で聞き取り 調査を行った伝承文化の資料を整理分類して記録す る一方、児童文化財化の試みを行 っている 。すなわ ち伝承文化の継承と創造の視点から文化財の保存に 努めている 。 また多賀町教育委員会の要請でサーク ル「ぶらんこ 」において紙芝居製作の指導にもあてっ ている 。 106・人間文化 三つには、自ら代表として活動する滋賀県紙芝居 3年より「出前紙芝居大学 J' [出 研究会では、平成 1 前紙芝居講座」等 を開催し、県内外より多くの受講 参加者をえている 。本年度も自らが企画運営に携わ り講座を開催し、多くの方々に学びの場を提供した。 さらに教育・保育に携わっておられる方々の協力を 得て県内各地の図書館や市町村において児童書 ・絵 本・紙芝居等子どもの文化についての講座を開催し ている 。 5年 1 1月より「彦根おはなしを語 四つには、平成 1 る会」の方々と 「 彦根昔ぱなし大学 j を開催してい る。 この催しは、日本口承文芸学会会長、つくば大 学名誉教授の小浮俊夫氏が主宰される 昔ぱなし研究 所の協力で催されるもので、すでに基礎コースは 6 回シリーズ、 「 再話コース J4回シリーズは終了し、 本年度からは 「 研究 コー ス」に入り 6回シリーズの うち 2回終了した。 。地域・社会・国際貢献 講演・展示会 多賀町地域にお ける家庭教育支援基盤形成事業 にかかる子育てサボーター養成講座 彦根市絵本読み開かせボランテイア養成講座 甲賀市紙芝居出前講座 2団連 文化庁委託事業「伝統文化子ども教室 J1 続講座 朝日新聞名古屋本社主催講演 各種審議会、委員会委員 滋賀県社会教育委員 紙芝居文化の会運営委員 子 どもの文化学びの舎主宰 滋賀県紙芝居研究会代表 総説、一般向け(雑誌、新聞など)記事 2 0 0 8 /3・1 0・1 2 2 0 0 8 / 4 中日新聞 2 0 0 8 / 4・5 岐阜新聞 2 0 0 8 / 4・1 0 テレビ・ラジオ番組への出演 NHK第 2 2 0 0 8 / 4 岐阜放送 2 0 0 8 /5 フジテレビ 2 0 0 8/1 0 朝日新聞 日刊富良野新聞 -細馬宏通(ほそまひろみち)コミュニケーション論 [ l ]2 0 0 8年度の活動について ゃったことを 書 き出してみるとあまりにバラバラ で我ながら驚いた。 今年度は、大学院生の城綾実さんと、会話におけ る身体の同期現象について論考を深めることができ たのが大きか った。城さんとの仕事は、 「認知科学」 人・閏・文・化・通・信 1 6 号に掲載された。修士学生の論文掲載は珍しい。 うれしい限りだ。 日常会話で、身体は空間をどのように表していく か、それはことばとどのような関係を持っているか、 それを調べるためにはどのような方法があるのか。 そういうことを、何年も考えてきたが、ょうやく考 えがまとまってきた。身体動作とコミュニケーショ ンに関するものとしては、共著の単行本、 「人工知 そして「認知科学」掲載予定の論文がある 。 能学会誌J 昨年からは、笑いと微笑みの違いについて実験と論 考を進めており、北海道の国際ワ ークショップでそ pri ng e rから の成果の一部を発表した。こちらも S 論文.として発行予定になっている 。 r 一般の方々向けには、朝日新聞 b e(日曜版) 心 体観測」に「漏れる動作」全 1 3回を連載し、身体動 城綾実 ・細馬宏通 2 0 0 9r 多人数会話における自発 6( 1 )pp. l0 3 ・ 1 1 9. 的 ジェスチャ ーの同期」認知科学 1 [著書] 細馬宏通 2 0 0 8r 発話とジェス チャーはいかに話題の 視点を表現するか?一日本語における 左右概念を巡 る個人内 ・個人間相互作用 」篠原和子 ・片岡邦好 p . 3 7 6 8 編 『ことば・空間・身体J (ひつじ書房)p [学会発表(主なもの)] 細馬宏通 2 0 0 8r 微笑 と映笑による参与者構造の組織 回大会論文集 p p . 6 0 ・ 6 3 化」社会言語科学会大会第 21 城綾実・細馬宏通 2 0 0 8r 多人数会話における同 期現象 聞き手は同期現象にどのようにかか 回大会発表論文集 わるか一」社会言語科学会第 21 作についてのさまざまな現象について書いた 。 pp. l2 0 1 2 3 昨年から、│輩碍者の人たちによって行われる音 楽や絵画について語る機会が増えている 。大友良 城 綾 実 ・細 馬 宏 通 2 0 0 8r 同期する相互指さしは何 2回大会発表論文 を示すのか j 社会言語科学会第 2 英 r MUSICS J (岩波書 庖)巻末には神戸の 「音遊 集 p p .6 2 ・6 5 びの会」 についての対談が掲載された。 「音遊びの 会」にはワークショップに参加したほか、コンサー H i r o m i c h iHosoma2 0 0 8" P r el i m i na r yNotesont h e S e q u e n t i a lO r g a n i z a t i o no fS m i l eandLaught e r " F i r s tI n t e r n a t i o n a lWorkshop on Laught巴rm .Asahikawa, I nt e r a c t i o n and Body Movement Hokkaido, J apan,J une1 0,2008 城綾実・細馬宏通 2 0 0 8r 多人数会話場面でみられ る同期現象の考察 J日本認知心理学会発表論文集 トにゲスト出演した ( 20 09 年 2月 1日/ 神戸 B i g Apple) 。県下の滋賀県立近代美術館、 NOM Aミュー ジアムでは、「アウトサイダーアート j の名の下に 呼ばれている絵画をひとつひとつ見直すべく、レク チャ ーと 対談を行った。 上田洋平君たちと企画した「スミス記念堂のカメ ラオブスキュラ 」は、最近移築が完了したスミス記 念堂を使って、堂内をまるごと暗室と化し、彦根城 を映し出す企画で、県内外から参加者が集まった。 暗い教会内に映る彦根城の倒立像の美しさは惚れ惚 れと見とれるほどであった 。 カメラオブスキュラを はじめ、写真、コミッ夕、舞踏、アニメーションな どの視聴覚文化については、表象文化論学会での発 表をはじめ、各所で レクチャーやトークを行 った 。 フェルメールについて書くよう頼まれた原稿の冒 vo . 1 2 0 0 8p. 20 細馬宏通 2 0 0 8r異像の系譜としてのス テレオ 写 真」 表象文化論学会第 3回大会 0 0 8r 洞窟体験者のキャラクタ視点ジェ 細馬 宏通 2 C S 2 0 0 8 3 0 4 0 電子通信情報学会信学技 スチャ JH 報 v ol . l0 8No. l8 7p p 1 9 2 0 細馬宏通 2 0 0 8r マルチモーダルな時間構造を捉え るための簡単な方法」質的心理学会企画シンポジウ ム「映像デー タの質的研究の技法と実践 身振り の分析を例に 」 頭で、大学に通う道すがらときおり見る、とんでも ない夕暮れどきのことを書いて、「オランダ日和」 と呼んだ。 日々の仕事を支え、生活を持続可能にし ているのは、このような光景に立ち会う経験だと思 つ。 凹活動一覧 [研究論文] 細馬宏通 2 0 0 8r 非言語 コ ミュニケーションのため の分析単位 ジェスチャ ー単位一」人工知能学会 誌v o . 1 2 3p p . 3 9 0 3 9 6 . 細馬宏通 2 0 0 9r 話者交替を越えるジ、エスチャーの時 間構造 [総説,雑誌・新聞記事(主なもの)] 細馬宏通 2 0 0 8r 漏れる動作 J(朝日新聞 b e( 日曜版) )4/6-6129( 全1 3回) 「 心体観測 J 細馬宏通 2 0 0 8r 空間参照枠は会話の中でどう構成さ . 2 7 3 5 れるか H言語J7月号特集 ことばと 空間 pp 細馬宏通 2 0 0 8 オ ラ ン ダ 日 和 一 フ ェ ル メ ー ルと 月号特集.フェルメール 両眼視一 『 ユリイカ J8 pp. l2 1 1 3 0 細馬宏通 2 0 0 8r 趣味と戦争紀念スタンプと絵葉 1 1号特集 戦争とメディア 書蒐集 J アジア遊学J1 r p . 6 0・ 6 9 と生活 p 6( 1 )p p . 9 1 隣接ペアの場合一」認知科学 1 1 0 2 人間文化・ 107 人・間・文・化・通・信 [地域活動 ・講演 ( 主なもの)] 「スミス記念堂のカメラ ・オブスキュラ 2 00 8 J ジェク ト」の研究分担者として、彦根市民に向けた 広報活動にもっとめた。その一環として、隔月 刊行 2 0 0 8 . 8. 24 .2 0 0 8. 10. 19 .2 0 0 9 .0 2 .0 8 2 0 0 8 . 10. 2 5.NO-MAミュージアム 「 飛行する記憶 J 展 対 談 細 馬 宏 通 xはたよしこ 2 0 08 . 1l .9 滋賀県立近代美術館「アール・ブリユツ ト」展レクチャ ー 「身体は繰り返す 美の術と身体 の術」 2月 のリーフレット 『うみかぜだより 』 を作成し、 1 に創干Ij・配布した。その他、地域内外への社会貢献 詳しい活動については h t t p: / / www.shc . u s p . a c . j p/ ho s oma /を参照されたい。 -松嶋秀明 ( まつしまひであき)臨床心理学 本年度の活動を ①研究、 ② 教育、 ③ 地域貢献に わけで述べる 。①科研 「非行生徒への効果的対応 にむ けた教師支援に関する実証的研究 J(課題番号 1 87 3 0 4 4 2)の代表者として、県内外の小・中学校に アクションリサ ーチ的に関わり、よりよい教育相談、 生徒指導のためのシステム構築に携わった。その成 H 果を国際学会で発表した他、宮川充司ら(編 スクー ルカウンセリングと発達支援j ナカニシヤ出版に 1章が、 『 質的心理学研究J7号に原著論文 「 境界 線上で生じる実践としての協働」 を執筆した。 この 他、京都大学ゃまだようこ教授を代表とする科研「多 文化横断ナラティヴ ・フィールドワークによる臨床 支援と対話教育法の開発 J (課題番号 2 0 2 5 20 0 9) 、お よび北海道大学田中康雄教授を代表とする科研 「 発 ( 課 達障害が疑われる非行少年の包括的再犯防止策 J 活動として、保育士や児童厚生指導員を対象とした 研修会の講師をつとめた。 4 ・活動一覧 〈 著書 〉 上野有理 『ソー シャルブレインズ J( 開一夫・長谷 20 09 .( 分担執筆) 川寿一編著)東京大学出版会 . 〈 学会発表〉 UenoA .Neu ra la c t i vi t i e si nanawakec himpanz e e : ERP studies towards homi nid cogni t i v e n e u r o s c i e n c e s .Thei n t e r n a t i onalSymposium onComp a r a t i v eC o g n i ti veSci e n c e .K y o t o .May. 2 00 8 上野有理 ・明和政子・竹下秀子「おいしい?おいし くない?ー食べる 他者にたいする乳児の反応 」 日本発達心理学会第 2 0回 大 会 東 京 .3月 . 2 0 0 9 年 〈 講義〉 上野有理「社会の中での食育と子育てと保育」熊 本発!発達支援者養成プロジ、エクト第 6回勉強会 熊本 .6月 . 2 0 0 8 年 上野有理 「児童の発達理論一遊びと生活の視点か 0 年度児童厚生 2級指導員資格研修会. らー」平成 2 1 1月 . 2 0 0 8 年 近江八幡 . 0 2 4 3 0 3 3)に分担者として参加した。②教育 題番号 2 -中村好孝(なかむ 5よしたか) 社会学 滋賀県立大学に来てもうすぐ l年たつというのに、 活動では、 6名の卒業論文に関わった。質的研究法 いまだに自分の研究室すら片づけ終わっていない。 を中心的な方法論として「ペットと人間の関係 J障 ではあるが、今年は以下のような研究を行なった 。 害者の同胞支援 J 育児支援 J 裁判員制度 J そう じ活動 J 環境教育」など多彩なテーマで探求がな された。最後に①では、臨床心理士として、県内小 ・ [研究 :論文] 中村好孝・堀口佐知子 「訪問・居場所 ・就労支 r r r r r 中学校の教育相談・生徒指導活動に携わった他、近 江八幡市、米原市の教育委員会、滋賀県心の教育相 談センタ一、滋賀県総合教育センターが主催する教 育相談 ・特別支援教育についての講習会で講師を務 めた 。 -上野有理(うえのあり) 比較認知発達科学 .年間活動 「社会的・物理的環境が乳幼児の食行動に与える 影響」をテーマに研究活動を展開した。具体的には、 彦根市在住の母子に協力をしてもらい、滋賀県立大 学子育ち応援ラボ 「うみかぜ」で、乳幼児の食行動 に関する観察や実験を定期的におこなった。9 月か らは文部科学省科学研究費(特別研究促進費)の助 成のもと研究に取り組み、その成果を学会にて公表 した。また、「滋賀県立大学子どもの未来応援プ ロ 108・人間文化 援一一 「ひきこもり」経験者への支援方法とその合 ひ 意」荻野達史・川北稔・工藤宏司・高山龍太郎編 きこもり 」への社会学的アプローチ jミネルヴァ書房 社会的ひきこもりについての調査は、滋賀に来る r 前から継続して行なっている 。本書は、何年も 一緒 に研究会を行なってきた研究者と 一緒に作った本で ある 。ひきこもりについての研究は、精神科医と 心 理学者によるものが比較的多く、社会学者は圧倒的 に出遅れている 。本書は (自分の意はともかく )そ の中ではかなりまともな研究だと考えている。本論 文の考察対象は関東の支援団体なので、今後 は滋賀 や関西のフィ ールドにも出かけていきたい。 [研究:その他 ( 翻訳)] ジョック ・ ヤング『後期近代の舷量J 青土社(共訳)。 現代社会論、社会学書。内容は良い本だと思う 。 日 人・閏・文・化・通・信 本社会について考えるときに参考になりそうな着想 は多い。 スーザン ・ジョージ 『 アメリカは、キリスト教原 ろう部分である 。 日本で、アメリカで、何が起こっているのか、自 分でも考えていきたい。 理主義 ・ 新保守主義に、いかに乗っ取られたのか リ 0 0 8年 作品社 ( 共訳) 。 アメリカ論。約束どおり、 2 のアメリカ大統領選挙までに出版できて安心した。 [地域活動] 彦根市障害福祉推進会議、専門委員。他の委員の 著者が主に懸念を示し ているのは、アメリカ社会の 話を聞いているだけでも勉強になる 。今後、自分が 中でも、大統領が替わってもそうは変わらないであ 貢献できる部分を見つ けていくつもりである o 人間文化・ 109 -編集後記・ 小 栗判 官と照手姫 今号には、平成 2 0年度末で退官される生活栄養学 科・早川史子教授が、退官記念論文 「 茶粥習慣の分布 と伝播」をご投稿下さいました 。何らかの事象が地域 的に集中したり広範囲に拡散したりすることのメカニ ズムの解明は、私の専門である地理学にとって重要な 研究テ ーマのひとつです。そのため、読者の皆様より も先で申し訳ないのですが、編集にかこつけて、早川 教授の論文を興味深く読 ませていただきました。 早川教授と私は所属学科が違うのですが、廊下で 会ったときはいつも挨拶をして下さいます。特に着任 r r 中世の仏教説話 『 小栗判官jの話 は 『 山線太夫 j 信徳 丸j 信 太妻j 刈萱j と並ぶ五説経の一つ です。 f 小栗判官j は常陸の固から紀州までが、話の舞台として語 られていて、美濃、近江、京も舞台となっています。小栗判宮 と照手姫は結婚しますが親の怒りに触れて小栗判官は殺され、 照手姫は売られていきます。 美濃では安八、青墓等が語りの中に登場します。安八の結神 社は小栗判官と照手姫が結ばれたゆかりの神社、青纂は遊女屋 の家に売られて、水仕女となった照手続が、主人の無理難題「箆 f 十六人分働け」と過酷な仕事を強いられた所です。 で水を汲め J また、小栗判官は郡代の家来に毒 j 闘を飲まされて殺されますが、 幸に生き返ることができました。その姿は餓鬼阿弥で耳は聞こ えず目も見えず、ものも言えないありさまです。蘇生の場所は 紀州熊野の湯の峯、その途中に青墓を通りかかったのです。照 手姫は車に乗って通りかかった餓鬼阿弥が夫とは知らず、供養 のため車を引きたいと五日の暇をもらい、大津関寺まで送り届 けます。 「えいさらえい えいさらえい 」 「 一 ひきひいたは 千僧供養、 二ひきひいた は 万僧供養」 r 物語の展開に重要な場所が身売りされた先、青墓の遊女屋で あるよろず屋です。 劇」にしたり「紙芝居」にし 地元青墓では 『 小栗判官j を 「 たりして、子どもたちに物語を伝えています。 また「照手姫」 の「お絵かきうた」も唄われて子どもたちは日常的に口ずさん で遊んでいます。 照手姫が水を汲んだ井戸(大垣市背墓) 写真・文 野部博子 したばかりの頃は、新しい職場で何かと緊張していた ため、声をかけていただいて気が楽になっていました。 本当にありがとうございました。 最後 になりますが、この場をお借りして、早川教授 の今後のご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げま す。 (塚本礼仁) 編集委員・ 林 博 通 ・ 塚 本 礼 仁 ・ 山 根 周 ・康瀬潤子・野部博子 人間文化 2 5号 滋賀県立大学人間文化学部研究報告 発行日 25号 2009年 4月 1日 発行公立大学法人滋賀県立大学人間文化学部 〒 522-8533滋賀県彦根市八坂町 2500TEL0749-28-8200仰 発行人八木英二 版下制作サンライズ出版株式会社 印刷 サンライズ出版株式会社 本誌は再生紙を使用しています。 々 表i ~ ( f J ~l~ O O '1 , : : i "│ 工 汁 O C 三 ~I特 C コ C 「 → C 2 ml > ( f J 一 言 - 対 決 特 設実践 くm 2 ω 一ー↓︿ O 市 ω 工一 Q P 刀Zm 市問。↓czm ↓工mcz 一 照手刻E が水を汲んだ井戸(大垣市青墓) 主 詰 “日 一 a ノ 円 い 九 ・ ・ v 滋賀県立大学 ~
© Copyright 2024 Paperzz