平成19年度 大阪教育大学 小学校教員養成課程 総合認識系 総合認識教育専攻 卒業論文 - 決定論の克服 ―自由の不可避性― 指導教員 学籍番号 氏 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 名 倉本 香 041204 川端千絵 目次 序章 第一章 決定論の前景化 第一節 決定論と非決定論―自由意志があるかないか 第二節 現代における意志決定のあり方 …………‣ 2頁 …………‣ 4頁 …………‣ 4頁 …………‣ 5頁 (1)スピリチュアルブーム …………‣ 6頁 (2)リスク社会と自己責任 …………‣ 8頁 (3)監視社会と情報化 …………‣ 10頁 (4)決定論への反転 …………‣ 12頁 第二章 カント哲学における自由 …………‣ 15頁 第一節 自由の二律背反 …………‣ 15頁 第二節 立法の自由 …………‣ 18頁 第三節 選択意志の自由 …………‣ 19頁 終章 …………‣ 22頁 引用・参考文献 …………‣ 23頁 1 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 序章 なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!1 はじめてその歌詞の内容の深さに気づいた時から、私にとってアンパンマンのテーマソ ングは特別なものである。フリーターやニートが社会問題となり、学校教育においてキャ リア教育が注目される中にあって、進路選択の場面における自分自身や周りの友達のこと を省みても、 「自分の生き方」をもっとしっかりと、それも早い段階から考えることの重要 性を、私は強く感じるようになった。 学校教育の中で、子どもたちに「自分の生き方」を考えさせることはどのようにして可 能だろうか。小学校の教員になることを志望していた私は、 「総合的な学習の時間」にその 可能性をみ、 「総合的な学習の時間」について専門に学ぶ教員養成課程に所属することにな った。そこで「子どもの哲学 Philosophy for/with Children」という取り組みと出会い、よ り根源的に「自分の生き方」について考える哲学の魅力を知ることになった。 学部3回生の基本教育実習で附属小学校の5年生のクラスに配属された私は、幸運にも 研究授業で「子どもの哲学 Philosophy for/with Children」の実践に挑戦する機会を得た。 冒頭のアンパンマンの問いを子どもたちにぶつけてみたいと思い、教材に選んだ。恐らく 大半の子どもたちが慣れない形式、考えたこともない問いにとまどいながらも、試行錯誤 のうちに取り組んでくれたその対話の中で、非常に印象に残った場面がある。 ―――「自分の人生は自分で決める」とかよくいうけど、本当にそうなの? このような問いを発した児童は、いわゆる運命論的な世界観を持っており、 「自分がその ように“思う”とか“決める”ということ自体がすでに決まっているのだ」と述べた。他 の児童たちはそれに対して、「なにを言っているのかわからない」、「少しは決まっている かもしれないけれどやっぱり自分で変えていけると思う」などさまざまな反応を返したが、 彼女の考えに全面的に賛成する者はひとりもいなかった。たったひとりの運命論者である 彼女の発言によって、私は自分が暗黙のうちに前提としていたことについて自覚を促され ることになった。 「私は、私の意志で、自由に自分の人生を選択・決定して生きている」 このような感覚は私たちにとってごく当たり前のものである。しかし、それは私たちが 考えているほど確かなことなのだろうか。 1 やなせたかし作詞「アンパンマンのマーチ」1番の歌詞から引用 2 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 本論文は、このような問題意識を出発点に、現代がさまざまなところで決定論に彩られ ていること、そして私たちの意志決定のあり方が実は私たちが考える以上に決定論的なも のであることについて明らかにした上で、哲学者イマヌエル・カント Immanuel Kant の議 論を参照し、自由の意味と存在を明らかにすることによって、私たちはどのような意味で 「自分で自由に決める」ことができるのかということについて考えるものである。 第一章では、まず決定論と非決定論、自由意志の定義を整理し、次に現代において決定 論的なものが求められていることについてみていく。具体的には、現代においても運命や 宿命といったものへの需要が根強くあり、スピリチュアルブームといわれる現象が起こっ ていること、リスク社会、自己責任などと言われる中で、自分の人生がはじめから決めら れていた「宿命」として受け入れられるという事態が起こっていること、監視社会と情報 化の進展において、決定論的な意志決定のシステムがつくりあげられつつあることについ てみていく。さらに、そのような社会現象にとどまらず、そもそも私たちの意志決定のあ り方は、私たちが考える以上に実は決定論的なものであり、私たちが何かを選択しようと するとき、不可避的にその選択が決定論に反転してしまうことについて明らかにする。 第二章では、カントの自由をめぐる議論を参照しながら、私たちはどのような意味で「自 分で自由に決める」ことができるのかということについて考える。カントはその認識論に おいて、自由を、端的に何かを始めるところの“絶対的な自発性”であるとし、それは認 識不可能な超越的理念であるとしている。しかし、意志の規定ということに関して自由を 考えると、それは実質的・経験的なものから独立に、意志が意志を自ら規定する「意志の 自律」を意味し、普遍的に「~すべし」と命ずる「道徳法則」の「立法の自由」であるこ とが論じられている。そして人間には、その道徳法則に従うかどうかを自ら選択し決定す る「選択意志の自由」があり、それこそが私たちに与えられた自由であるとされる。この ようなカントの議論によって、最終的には人間に与えられた自由の意味と存在が明らかと なり、決定論は克服される。 私たちは確かに、 「自分の人生を自分で決める」自由にひらかれている。しかし、私たち はしばしばその意味を誤解し、それによって自ら知らず知らずのうちに決定論に陥ってし まっているのではないだろうか。それでは、私たちはどのようにして、どのような意味で 決定論に陥っているのだろうか。そして、私たちにひらかれている自由とは、どのような ものなのだろうか。本論文は、それらを明らかにすることによって、私たちが真の意味で、 そしてよりよく「自分の人生を自分で決める」ことを目指すものである。 3 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 第一章 決定論の前景化 第一節 決定論と非決定論-自由意志があるかないか ―――「自分の人生は自分で決める」とかよくいうけど、本当にそうなの? このような問いを発した実習先の児童は、 「私たちは自分の人生を自分で決めているので はない」とした上で、 「最初から決まっているのだ」と言った。このような世界観は、決定 論と呼ばれるものである。決定論とは、自然的諸現象、歴史的事実、そして人間の意志に いたるまで、この世のすべての出来事はすでに決定されているとするものである。決定論 において“決められている”ということが意味するのは、一切の出来事はすでに起きた出 来事によって完全に規定されているということである。ある出来事が起こるかどうか、そ してそれがどんなものであるかは、すべてそれ以前の出来事によって決定されている。つ まり、一切の出来事は因果律2という一定の法則にもとづいており3、別様ではありえないと いうことを意味する。したがって決定論においては、すべては必然であるとみなされる。 このような決定論に類似した概念としては、宿命論や運命論が挙げられる。決定論が、た んに因果律によってすべての出来事が決定されているとするのに対して、宿命論や運命論 は、特に神の意志、歴史法則、前世の因縁など、超自然的な力や神秘的なものによってす べての出来事が決定されているとする。もともとトマス・ホッブズ Thomas Hobbes の考え 方を宿命論から区別するために用いられたのが決定論という概念であり、宿命論や運命論 は決定論の一種であるといえる。 一方、このような決定論の考え方を否定するのが、非決定論である。非決定論において 、、 は、ある出来事は以前に起きた出来事だけによっては決定されない。言い換えると、次に 、、、、 起こることは、以前起きたことによって完全には規定されないということであり、別様で あることが可能であるということを意味する。 決定論のように、世界の出来事がすべて必然的に決まっているとするなら、そこには自 由というものは存在しないことになる。先の児童は、「私がそのように“思う”とか“決め る”とかいうこと自体がすでに決まっているのだ」と述べた。決定論においてはそのよう に、人間の意志における自由、すなわち「他から束縛されず自らの責任において決定する 意志4」としての自由意志も否定されることになる5。そのように、人間が何かを選択し決定 2 「一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何ものも生じないという法則。因果関係。 」(新村 出編『広辞苑 第四版』 「因果律」引用) 3 決定論は、さらに詳しく因果的決定論と確率的決定論とに分けることが可能であるとの見方もある。因 果的決定論に対して、確率的決定論は、未来は因果律によってではなく確率によって支配されており、そ の限りで未来は決定しているとする説である。未来の一意性が否定されるため、これを決定論に分類して よいかで見解が分かれる。未来が確率的に決まっている以上、確率決定論においても因果的決定論と同様 に、自由意志の存在は原則的に否定される。 (Wikipedia「決定論」参照) 4『広辞苑 第四版』 「自由意志」引用 4 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact する意志そのものがすでに決められているとするならば、私たちはすでに決められている ものを、勝手に「自分が選択した」 「自分が決めた」と思っているだけにすぎないというこ とになる。そして意志の自由が存在せず、すべては決められているのなら、そこには責任 もないことになる。 私たちは「自分の人生を自分で決めている」のか。先の児童の問いは、以上にみてきた ような決定論と非決定論の対立、または、自由意志があるかないかという問題であるとい うことができる。 第二節 現代における意志決定6のあり方 私たちは、自分の人生を自分で決めているのだろうか、それともすべては決まっている のだろうか。前節で見てきた決定論と非決定論の対立、自由意志があるかないかという問 題は、現代において一般にどのように考えられているだろうか。実習先の他の児童の反応 にも明らかだったように、現代では自由意志はあるとする非決定論の考え方が一般的だと いえるだろう。 「自分の人生を自分で決める」というフレーズはさまざまな場面にありふれ ており、それは私たちにとって、何の違和感もない、当たり前の感覚になっている。実際 に、現代は大半の人が世襲制とは無縁であり、自分の仕事を自由に選ぶことができるし、 差別や抑圧、排除が現実になくなっているわけではないが、少なくとも表向きには多様性 が認められている。 「いい学校に行って、いい会社に入ればそれで幸せ」というような画一 的な価値観は過去のものとなり、 「幸せの定義は人それぞれ」というように、自分らしい生 き方をすることの方が、価値あるものであるかのようにいわれている。そのような現代の 状況においてはむしろ、 「私の人生ははじめから決められていたものなのだ」などというこ との方が理解しがたく、それどころか、どこかいかがわしさすら覚えるものだろう。また、 自由意志はないとする決定論の立場にたつならば、行為の責任を人に問うことが出来なく なる。例えば、犯罪者の責任を問い、それに対して罰を与える刑法などの社会のしくみは 自由意志の存在を前提にして作られており、そのことを否定するなら社会が成り立たなく 5 決定論と自由意志が両立しないとする立場は「非両立主義」とされ、それとは別に決定論と自由意志は 両立可能であるとする「両立主義」という立場も存在する。 「非両立主義」と「両立主義」の立場の相違は、 自由意志という語の意味のちがいに由来するものである。 「非両立主義」では、自由意志が“決意そのもの が非決定論的であること”を意味するのに対して、 「両立主義」では、自由意志は“決意したとおりの行為 をなしうること”を意味する。本論文においては、 “決意そのものが非決定論的であることと”して自由意 志を位置づけ、 「非両立主義」の範囲に限って論じることにする。 (Wikipedia「自由意志」参照) 6「意思」と「意志」は、どちらも同じ語源(独 Wille:助動詞 Wollen を名詞化したもの)からの訳語であ って、基本的に意味は変わらない。 「意思」がたんに思いや考えを意味するのに対して、 「意志」にはさら に、選択を決定し実行しようとする自発的・能動的意味が加わる。一般に、法学では「意思」 、哲学系では 「意志」の表記を用いる。 “decision making”の訳としての“いしけってい”は、 「意思決定」と表記する ことが一般的だが、 「意志決定」と表記することもあり、本論文ではより文脈に沿う意味を持つ「意志」を 用いて「意志決定」と表記することにする。 ( 『広辞苑 第四版』 「意志」 「意思」 、Wikipedia「意志」 「意思決定」 、 5 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact なってしまうように思われる。しかし、そのように当たり前に自由意志の存在が前提され ている一方で、現代は実は様々なところで決定論的なものに彩られているのではないだろ うか。本節ではそのことについて、スピリチュアルブームやリスク社会論・自己責任論、 監視社会と情報化という具体例を取り上げながらみてしていくとともに、そもそも私たち が何かを選択するときに不可避的に決定論に陥ってしまっていることを明らかにする。 (1)スピリチュアルブーム 「運命」や「宿命」などということばは、現代では否定的な意味にとられることの方が 多い。一般に、運命や宿命を受け入れるよりも、それを克服していこうとする強い意志の 方が尊重されるからである。あるいは、科学技術の発展にともなって運命や宿命などとい うものはたんなる迷信として斥けられる傾向にある。しかしその一方で、現代においても 星占いや姓名判断、血液型などといったものの人気には根強いものがあり7、昨今ではスピ リチュアルブームといわれる現象が起こっている。1995年3月に起こったオウム真理 教地下鉄サリン事件、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロなどを経て 宗教に対する警戒心が高まる一方で、 「スピリチュアリティ」への人々の関心が高まりつつ ある8。スピリチュアリティ Spirituality(霊性)とは、 「死後の生や霊魂など、この世を越 えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受 け取れること9」という意味である。スピリチュアリティあるいはその短縮形としてのスピ リチュアルという言葉は、近年、自己啓発や精神世界といった心のあり方を扱う分野で広 義にわたって使用されるようになっているが、スピリチュアルブームといわれたとき、私 たちの頭にまず思い浮ぶのは、数年前からさかんにテレビ番組等に登場するようになった 細木数子と江原敬之だろう。 細木数子10は、中国古来の易学や算命学、万象学などをもとに独自に編み出したとされる 「六星占術」で有名な人気占い師である。六星占術とは、生年月日から運命星(土星人、 火星人など)を特定し、その人の性格や恋愛傾向、仕事の適性、また年運・月運といった 運勢・運気11を占うものである。一方、スピリチュアル・カウンセラーとして活躍する江原 小橋康章「意思決定 vs 意志決定」http://www.taikasha.com/kobashi/dm/dectra.html 参照) 7 鎌田康男「運命」 『事典 哲学の木』参照 8 島薗進「宗教学とその周辺」http://free.jinbunshakai.net/shimazono/?itemid=54 参照 9 香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』36 頁引用 「スピリチュアリティ」の分野は、具体的には以下のように非常に多岐にわたる。 音楽、ヨーガ、マクロビオティック、ボディーワーク(en)、マッサージ、LOHAS、サイキック、気功、 波動、代替医療、オーラ、レイキ、スピリチュアルアート、占星術、魔法、ドルフィン・スイム、風水、 野口整体、ハワイアンカルチャー、パワーストーン、オーラソーマ、ヒプノセラピー、ホメオパシー、 フラワーエッセンス、ネイティブスピリット、ヒーラー、チャネリング、アロマセラピー、ヒーリング、 パワースポット(聖地) 、アイヌ・沖縄人文化、神道、禅など 10 細木数子:占い師、タレント、宗教家、作家。テレビ出演時の肩書きは「心照学研究家」 、 「人間学研究 家」 。1982 年から六星占術に関する本を出版し、1985 年に出した『運命を読む六星占術入門』がベストセ ラーとなり、以降、六星占術のブームを引き起こした。 11 十二周期で運気がめぐるとされ、七年のよい年と、一年の注意しなければならない年「小殺界」 、一年 のやや悪い年「中殺界」 、三年の非常に悪い年「大殺界」にわかれる。最も運気が下がる時期とされる“大 6 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 敬之12は、オーラや前世、守護霊を霊視し、亡き人と意志疎通をすることのできる超能力の 持ち主とされている。細木や江原の人気は特に中高年層に根強いものがあり、両者とも頻 繁にテレビに登場し13一定の視聴率を獲得している他、著作等の人気も高い14。中には、細 木や江原のことばに従って人生の選択をするというほど傾倒している人もいるという。エ ンターテイメントの一種として、おもしろ半分で細木や江原が受け入れられているという 側面もあるように思われるが、これだけのブームになったことを考えると、運命星やオー ラ、守護霊、前世などといったものに規定される「運命」や「宿命」という決定論的なも のが現代において求められているといえるだろう。 精神科医の香山リカは、このようなブームの根底には、人々の圧倒的な自分中心主義や 「現世」中心主義があると指摘している。例えば、スピリチュアルが人々に抵抗なく受け 入れられるために大きな役割を果たしたといわれるのが江原の「オーラ」という言葉であ るが、この「オーラ」はあくまで個人にまつわるものであり、いくら江原が「オーラ」の 色を見てその意味を解読したとしても、それはその人自身の分析、助言にしかならないと いう。それは、生年月日を元に占う細木の六星占術についてもいえることである。本来、 スピリチュアルは個人的なところにとどまるものではない。しかし、 「人のために生きよ」 などというメッセージでは人々に受け入れられないと気づいた江原は、霊やカルマという 宗教的な要素を帯びたものを「オーラ」というなじみやすいことばに言い換え、さらに発 言の内容も「現世利益」 「個人の幸福」にシフトするという軌道修正を行ったのではないか 15と香山は推測している。 ここまで、細木や江原を中心にスピリチュアルブームについてみてきたが、宗教社会学 者の島薗進は、1960年代以降の欧米における「ニューエイジ」 、70年代以降の日本に おける「精神世界」などにおいて、それまで宗教の中心的な機能と考えられてきた共同体 殺界”は有名。 12 江原敬之:1989 年イギリスで学んだスピリチュアリズムを取り入れ、カウンセリングを開始、2001 年 に出版した『幸運を引きよせるスピリチュアル・ブック』がロングセラーとなり、以降作家活動を中心に 雑誌、テレビ番組、ラジオ番組で人生相談を行い、講演会も定期的に開催。幼少の頃から数々の超常現象・ 霊現象を経験したという。 13 細木は現在、2004 年 11 月からスタートしたフジテレビの人生相談バラエティ「幸せって何だっけ 〜 カズカズの宝話〜」と 2004 年 8 月からスタートした TBS の人生相談バラエティ・教育番組「ズバリ言う わよ!」にレギュラー出演。番組内容は主に、ゲスト鑑定や視聴者相談等。同様の内容の特別番組も年に 数回組まれる。江原は、2005 年4 月からスタートしたテレビ朝日「オーラの泉」にレギュラー出演。ゲス トのオーラや前世、守護霊などを霊視し、共演者の美輪明宏とともにアドバイスする。年に数回フジテレ ビの特別番組「天国からの手紙」に出演。視聴者からの依頼を受け、今は亡き人からのメッセージを残さ れた家族に伝え、残された家族のケアを行う。 14 KK ベストセラーズの発表によると、細木の著書の売り上げは総計 6500 万部以上、江原の公式 HP に よると、江原の著作の発行部数は 900 万部を超える。細木は「占いの本を世界一売った人」としてギネス ブックにも掲載されている。 15 江原が有名になる前に出版された処女作『自分のための「霊学」のすすめ』 (ハート出版、2001 年に『人 はなぜ生まれいかに生きるのか』と改題)においては、経済至上主義や物質至上主義が戒められ、 「良いこ ととは人のために生きることであり、それはまた、世に奉仕をすることでもあるのである」と繰り返され ている。一方、江原の名前が一気に有名になった著書『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』におい ては、お金、仕事の成功、恋愛が肯定され、自分が夢をかなえて幸せになることだけが追求されている。 7 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact を凝集する要素が後退し、個人的なスピリチュアリティの形成を説く運動が興隆してきた ことについて指摘し、それを新霊性運動・文化としている。このような個人的なスピリチ ュアリティへの志向は、宗教の分野のみならず、生死のケアに関わる分野や、セルフヘル プ(自助)的なネットワークの中にも見出せるという16。さらに社会学者の鈴木謙介は、島 薗のそのような指摘を受けて、非合理なものを徹底的に合理的に自己の生活の中に組み込 もうとする「合理化された魔術の社会」が現在生じているとしている17。 (2)リスク社会と自己責任 前項で見てきたように、個人的なスピリチュアリティとして決定論的なものが求められ る一方で、リスク社会や自己責任ということがいわれる中で、自分の人生があらかじめ決 められていた「宿命」として受け止められるということが起こっている。 昨今リスクということばがさまざまなところで使われている。リスク risk の定義はさま ざまだが、一般に「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって) 、危険に遭う可 能性や損をする可能性18」を意味する。社会学者のウーリッヒ・ベックとアンソニー・ギデ ンズによって展開されるのが、リスク社会論である。リスク社会論とは、次のようなもの である。啓蒙主義的近代においては、リスクを計算・コード化する集団的、計画的、官僚 主義的な管理統制が進められてきた。例えば、福祉国家はリスクの集合的管理のための強 力な装置の一つである。ところが、その後に来るリスク社会においてリスクは複雑化し、 従来の中央集権的な制度によって画一的なかたちで集団的にそれを管理することが不可能 になる。そのため、リスク社会においては各人がリスクを積極的に意識しながら、自己反 省的な態度でリスク管理にのぞまなければならない。重要なのは、リスク社会論において は、リスクは原理的に計算・コントロール不可能であると認められながら、それにも関わ らず各人がリスク管理をすることが求められているということである。つまり、 「リスクを 計算しコントロールすることはできないが、リスクを回避せよ」という矛盾したメッセー ジがそこでは発せられているのである。 「構造改革」 「規制緩和」というスローガンで新自由主義的な社会・経済構造の変革を行 った小泉政権下で、頻繁に用いられた「自己責任」というロジックも、これによく似たも のだといえるだろう。日本の労働状況においては、終身雇用などの伝統的な雇用のあり方 は崩壊し、雇用環境が流動化している。その流れの中で出てきたフリーターやニートとい った若年雇用の問題は、それが一方で社会的な問題であるとされながらも、結局は個人的 な「自己決定」と「自己責任」の問題に帰せられてしまうことがほとんどである。若年雇 用問題の対策として、キャリア教育の必要性が叫ばれ、中学生の職業体験や、13歳のた めの仕事カタログ『13歳のハローワーク』19が注目を集めたことは典型的である。そこで 16 17 18 19 島薗進「社会の個人化と宗教の個人化」 『社会学評論』第 54 巻 4 号参照 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』153 頁参照 Wikipedia「リスク」引用 村上龍『13歳のハローワーク』幻冬舎、2003 8 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact は、「自己決定」 「自己責任」の名の下に、雇用情勢が不安定で見通しの立たない中でも、 自分の力で未来を切り開いていくことが求められている20。 未来が予測不可能であるということは、それだけで私たちに大きな不安と焦りを惹起す 、、、、 る。リスク社会論や自己責任論は、それでもリスク回避に最善を尽くせという。しかし、 、、、、 それなら最初から、起こりうる事態を「宿命」として受け止め、腹をくくるということが 一方では起こってきている。そして、前者のように不断に自己を励まし続ける強さを持つ のは、少数の「勝ち組」なのである。日本の若年雇用問題において、フリーター、ニート に続いて昨今注目を集めているのが、働いても生活保護水準以下の収入しか得られないワ ーキングプアの問題である。ワーキングプアの問題は、NHK によって番組で精力的に取り 上げられたことが、一般に社会的な問題として認知されるきっかけになったが、その番組21 内で取材されていた35歳の男性の表情が、非常に印象的であり、そのような「宿命」の 感覚をよく表す象徴的なものだった。それはまさに人生を“あきらめた”表情であった。 「学 校の成績は中の上だったが、家庭の経済状況が最底辺だった。 」そう話すその男性は、両親 が離婚し、事実上親に捨てられるという悲惨な家庭環境を背負っていた。衝撃的だったの は、高校卒業時、他の同級生が就職活動をする中で、ひとり面接試験を受けに行かなかっ た理由が、 「面接に着ていく服がなかったから」というものであったことである。人に借り る、制服で面接を受けるなど、他の手段はいくらでもあったはずで、それは理由にはなっ ていないように思える。そこには、面接試験を受けるというスタートラインの時点で、そ の男性自身が自らすでに “あきらめてしまっていた”ということが痛切にあらわれていた。 “自分の今の状況は決められているもので、それは変えようがないものなのだ”という「宿 命」の感覚が、そこには色濃く見出せる。社会学者の渋谷望は、新自由主義の故郷である アメリカにおいても、第四空間、いわゆる「アンダークラス」の文化にこのような「宿命」 の感覚が顕著であることを指摘している22。物理的な可能性には開かれているにもかかわら ず、 「宿命」という閉じられた世界の中に自らとどまり、自ら自分の可能性を断ち切ってい くというそのあり方23は、鈴木によると、情報に溢れるネットのコミュニケーションに繋が りながら、あらかじめあった関係以外に開かれない若者の姿にも共通しているという。リ スク社会論や自己責任論のような言説を前にして、このように「自分の人生に、自分の努 力ではどうにもならないこと、あらかじめ決められていて避けられなかったこと、ある場 所からは未来が閉ざされているということ」の根拠となる「宿命」が求められるようにな 20 リスク社会論や自己責任論に類似・派生するものとして、齋藤純一は、近年「企業家精神」などという 表現によって「環境の変化に機敏に即応しうる力量」 、 「予見しえない偶有性に対処しうる能力の開発」 、 「予見不可能性への対処」が、自己統治の主体が自ら開発するべきものとして求められていることを指摘 している。 (齋藤純一『自由』88 頁参照) 21 2006 年 7 月 23 日放送、NHK スペシャル「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」 22 渋谷望『魂の労働』111 頁 23 現代的な権力をめぐる東浩紀・大澤真幸の議論においては、フランツ・カフカの『審判』に収められて いる“開いているにもかかわらず、なぜかくぐることのできない” 「掟の門」が引き合いに出されている(東 浩紀・大澤真幸『自由を考える』41 頁・167 頁参照) 9 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact っている24。 このことが問題なのは、リスク社会論や自己責任論においては、自己啓発の努力を怠る 者は、未来への可能性をみずからうち捨てた「負け組」 「下流」であるとみなされ、彼らが いかなる不遇な未来へと至ろうとも、それは自分で選んだ「自己決定」の結果であり、そ の責任は「自己責任」として自分で引き受けなければならないとされることである。そし て「負け組」 「下流」の人々が、自ら自身の過酷な状況をあらかじめ決められていた「宿命」 として受け入れるとき、それは社会的な問題として認識されることが困難になってしまう。 リスク社会論や自己責任論に対する「宿命」の感覚は、このように弱者への抑圧と排除を 正当化し、権力構造を維持するのに一役買ってしまう。その意味では、 「宿命」は同時に、 自分の既得権益を維持したい「勝ち組」にとって求められているものであるともいえる。 (3)監視社会と情報化 前項では、矛盾するリスク社会論や自己責任論に対して、 「宿命」の感覚が広がりつつあ ることについてみてきた。ここでは、監視社会や情報化の進展において、現代における意 志決定のシステム自体が決定論的なものつくり上げられていることをみていく。 リスク社会論や自己責任論にもあったように、現代においてはさまざまな意志決定が個 人に帰せられるということが起こっている。これは、現代が「大きな物語」すなわち最終 的に目指すべき目標や理念を欠いているという認識25に基づいている。これは、みんなに共 通する超越的な価値、自分の外側にあって自分の生き方や振る舞いを根拠付けるような超 越的な視点が消滅してしまっているということを意味する。そのような状況においては、 私たちはどのように生き、どのように振る舞うのかを自分自身で決める以外に選択の余地 がない。何をも参照できないのに、それでも何かを決定しなければならないとき、意志決 定の構造は自己反省的、自己駆動的なものにならざるをえない。ギデンズは、このような 現代の意志決定のあり方を“再帰性 reflexivity26”という概念で捉えている。リスク社会論 においてみてきたように、ギデンズは、根拠や理由がどこにもなくても、否だからこそ「あ えて」自分で選んだことを自覚し続けなければならないという。鈴木はそれに対して、ギ デンズの言うような「あえて」の契機を経ずにして、内発的な動機づけを高めていくこと のできるようなシステムが、すでにつくり上げられていることを指摘している。そしてそ のようなシステムによって、自動的に選ぶべき選択肢が提示されるとき、その選択肢が「自 分で選んだ」ものなのか「あらかじめ決められていた」ものなのか、見分けがつかなくな 24 鈴木謙介『ウェブ社会の思想』18 頁参照 25「大きな物語の終焉」を説くポストモダン言説がその分かりやすい例である。リスク社会論を説くギデ ンズは、現代を近代の終焉ではなく近代のポテンシャルがラディカルに展開する「後期近代」ないし「高 度近代」として位置づけ、ポストモダン言説とは対立する主張をしているが、 「再帰的近代」 「ポスト伝統 社会」など、現代において超越的な価値や視点がなくなってしまっていることについては同様の主張をし ている。また、ウルリッヒ・ベックやジークムント・バウマンは、近代社会を支えていた大枠が崩れ、あ らゆる出来事が個人的な選択の対象になってしまうという事態を「個人化」としてとらえている。 26 再帰性:A についての言及が、A 自身のに影響・効果を及ぼすこと 10 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact ってしまうのだという。そのようなシステムを可能にする基盤をつくりだしているのが、 監視社会と情報化の進展である。 「監視社会」とは、 「監視」と聞いたときに私たちがイメージするような、集中的な権力 が、私たちの身体を監視する「監視国家」という意味でのあり方とは大きく異なっている。 「監視社会」においては、監視の目は偏在し、マシンによって、統一的な個人ではなくそ の場その場のデータが監視される。そのような「監視社会」を可能にするのが情報化の進 展27であるが、監視のテクノロジーはもはや国家の独占物ではなく、企業や共同体によって も利用されている。例えば、企業のマーケティングに利用される、ポイントカードや電子 マネーがその一例である。法学者の大家雄裕によると、そこでは私たちは、自己決定し判 断する主体としてではなく、一定の確率や法則に基づいて、その行動を予測することので きる対象として把握されている。そこには、過去の事実に基づいて未来の行為を予測する シミュレーションの欲望があるという28。さらに、監視のシステムは、私たち自身の自己選 択によって、私たち自身に利用されているものでもある29。鈴木は、それが膨大な個人情報 の蓄積を元手に、私たちが自分で何かを判断する前に、するべきことの指針を提示してく れるようなシステムとして利用されていることに注目している。それは、自分が何を選ん だか、何を望んだか、何を考えたかということが、自動的に蓄積され、その個人情報の集 積を元手に、次にするべきこと、選ぶべき未来が、あらゆる場面で提示され、それによっ て「わたしはこれがやりたいんだ」 「わたしはこういう人間なんだ」という意識を確かなも のにしていくということである。これは、「わたし」という存在が、蓄積された個人情報の ほうに代表されるようになるということをも意味している。鈴木は、そのようなシステム の典型的な例として、オンライン書店「Amazon」の「おすすめ商品」 (顧客が購入した商 品の履歴を元に、おすすめ商品を提示する機能)を取り上げている。まるで、自分の欲望 が他者によって決定されているかのように見えるという点で、感情的な違和感を表明する 人が多い一方で、このような機能は、事実便利なものとして受け入れられつつあり、すで に私たちの周りは、このようにデータベースと相互審問する振る舞いで満ちているという。 例えば、音楽ファイル管理・再生ソフト「iTunes」に実装されている「パーティーシャッ フル30」 、ハードディスクレコーダーの自動録画予約機能31、 「ライフログ32」などがそうで 27 例えばユビキタス化。ユビキタス Ubiquitous とは「あらゆるところに」という意味のラテン語 Ubique に由来する英語で、現在ではふつう、コンピューターの「偏在」を意味して使われる。ユビキタス化にお いては、人が自分で判断しなくても勝手に「最適な環境」を提供してくれるように機能することが目指さ れている。鈴木は、 「バーチャル世界」がユビキタス化と結びついて現実を覆いつつあること、そして私を 表すデータとしての「記録」が生身の私の「記憶」よりも何かを判断するときに優先されることを指摘し ている。 (『ウェブ社会の思想』参照) 28 大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』109 頁参照 29 日本社会全体の治安が悪化したという認識の下で、セキュリティの問題が社会の問題ではなく個人の問 題になりつつある。また、それにともなって「監視」がそれ自体としてひとつの大きな産業になっている。 学校への不審者侵入事件、その他子どもをめぐる事件の増加によって、子どもに対する防犯・安全強化対 策としての監視に注目が集まっているのはその典型である。 (『カーニヴァル化する社会』63-4 頁参照) 30 自分がこれまでに聴いてきた曲の履歴から、次に聴くべき曲のリストが自動的に生成される機能。これ までほとんど聴かなかった曲さえもランダムにセレクトしてくれるため、ユーザーがそれによって新たな 11 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact ある。あるいは、ケータイのアドレス帳やソーシャルネットワーキングシステム(SNS)33 の友人リストによって友達関係を確認する若者のあり方も、対人関係がデータベース化さ れている例として、鈴木に指摘されている。 このようにして監視社会や情報化のシステムによって提示される選択は、私たち自身の 履歴に基づいた“事実”的なものとして、あたかも「決められていた」ものとして私たち の前にたち現れてくる。そして、私とデータベースとのループ関係の中で意志決定がなさ れることによって、そこで与えられる選択肢以外の他の選択肢は、 “ありえなかったもの” として排除されていく。そこでは、 「人が自分の人生に関する未来を選択することと、それ が宿命のように、前もって決められていた事柄として受け取られることという、二つの矛 盾する出来事が同時に起こ34」っているのだ。 (4)決定論への反転 前項でみてきたのは、監視社会と情報化の進展によって可能になる、決定論的な意志決 定システムのあり方であった。しかし、そのように“事実”としての自分の過去の履歴、 私にまつわるデータをもとに何かを選択したり、決定したりすることは、私たちにとって はごく当たり前のことではないだろうか。例えば、就職活動における「自己分析」がそう である。 「自己分析」では、自分の性格やこれまでの経験をもとに、自分はどのような人間 か、そして自分がやりたいことは何かということを明確にしていく。いくつかの質問に答 えることによって、自分に向いている仕事を導き出す「適職診断」も、その意味で「自己 分析」の一種であるといえるだろう。 「自己分析」は、就職活動において「業界研究」「企 業研究」と同時並行に、あるいは前後して行なわれる。自分が生まれ持った属性や、これ までの経験などのデータをかき集めて、そこから自己像を浮かび上がらせ、それを社会状 況の分析や業界・企業のデータとすりあわせながら、やっとのことで志望業種や企業をし ぼりこむ。その一連の作業は、自分の選択の「理由」や「根拠」を確かなものにしていく ための過程であるといえる。就職活動においては、エントリーシートや面接試験などで、 志望理由を何度も何度も聞かれることになるからである。データをもとに、理由や根拠を つけて何かを選択することは、自分にとってベストな選択つまり“他ではありえなかった” 発見をすることさえあるという。 キーワードを登録しておくと、それに関連する番組が自動的に録画される機能。 32 自分の行動や考えをコンピューターに逐一記録し、人生そのものを巨大なアーカイブとして保存しよう という仕組み 33 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS) 「mixi(ミクシィ) 」は、2007 年 11 月時点で会員数 1240 万人を突破した。mixi の主な機能は、まさにつながることと、保存することである。会員は自分の 日記や写真、読んだ本や音楽、友達の紹介文などを記録としてネット上に保存しいつでも閲覧・検索する ことができる。また相互に承認しあった“マイミク”同士は、そのデータを閲覧しあうことができる。mixi の社長笠原健治は、これからの情報化の進展について、会話や記録が自動的に保存され、必要なときに必 要なものが検索され、それがあふれる情報を取捨選択しつつ、理想の人間関係をつくることにつながると のべている。あるいは、脳とコンピューターが今より近くなっているかもしれないともいっている。(『朝 日新聞』2008 年 1 月 6 日朝刊参照) 34『ウェブ社会の思想』17 頁引用 31 12 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 選択をしようとすることであり、その意味でそれはまさに決定論的であるといえる35。ここ でも、 「人が自分の人生に関する未来を選択することと、それが宿命のように、前もって決 められていた事柄として受け取られることという、二つの矛盾する出来事が同時に起こ36」 っている。 同様に、合理的にリスク計算をするということのうちにも決定論的なものが内在してい るといえるだろう。もし将来のリスクを完全に計算することが可能だとしたら、未来はす べてお見通しで、リスクを回避するために今どうするべきかは自明のこととなる。そうな った時、私たちに見える未来は、すべて“決められていた”ものとしてたち現れてこない だろうか。つまり、合理的にリスク計算をしようとすることは、決定論を志向しているこ とと同じなのである。それが問題になるのは、リスク計算が個人についてなされたときで ある。現に、アメリカの一部の州では、すでに前歴者把握のためのシステムが採用されて いる。生まれ持った属性や過去の犯罪履歴から、その後のその人の人生がリスク計算によ って予測され、断言されてしまうことはまさに決定論的であるが、それは結果として社会 的排除や分断を生み出す可能性が高い。 このように、データを参照したり、リスクを計算したりすることによって、自分にとっ てベストな選択をしようとしたり、選択の理由や根拠を明確にしようとすることは、その 選択を“他ではありえなかった”選択へと化してしまう。そしてそれは、結果的に“決め られていた”決定論的な選択を志向していることと同じになってしまう。なぜこのように、 何かを選択しようとすると、そのとたんにその選択が決定論的なものに反転してしまうの だろうか。 現代が大きな物語がなくなった時代とされていることについては先に見てきたが、それ は裏返せば、私たちが「自由」になったということでもあるように思える。なぜなら、誰 に強制されることもなく「自分で自由に決める」ことが、そこではできるように思われる からである。 「自由」という言葉は、その意味を改めて考えてみると、その使われ方にはか なりの幅があることがわかる。社会権力による基本的な人権の侵害に対して用いられる意 味での自由、すなわち「消極的自由」は、もっとも基本的な意味での自由である。それは 個人における結婚の自由や思想・宗教の自由、あるいは移動や職業選択の自由などとして、 「自由な社会」というビジョンを構成する重要な支柱となってきた。しかし、ある程度そ のような自由が達成され、また「大きな物語」がなくなったとされる現代においては、そ のように外からの強制が存在しないという側面よりも、自発性や自己決定性、自己責任と いうような意味での自由、すなわち「積極的自由」が求められる。それは、自分自身で自 分のあり方を選択すること、自分の個性を発揮すること、そしてその責任を自分で引き受 けることに強調点のある自由である37。しかし、そのように、 「自分で自由に決める」こと 35 「そもそも、自立的な決定とは行為の前にその理由を考えているというようなことだったのだろうか」 (大屋雄裕『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅』169 頁引用 36『ウェブ社会の思想』17 頁引用 37 伊藤邦武「自由」 『事典 哲学の木』参照 13 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact が可能であり、また求められてもいる一方で、現代は決定論的なものに彩られ、私たちの 意志決定のあり方はよく考えてみると決定論的で、少しも自由ではないように思われる。 決定論と非決定論の対立は、もはや決定論に有利であり、自由などどこにあるのかわから ないように思える。やはり実習先の児童の言うとおり、すべては決まっているのだろうか。 私たちは、本当に「自分で自由に決めている」といえるのだろうか。そもそも、 「自分で自 由に決める」とはどのようなことだったのだろうか。次章では、哲学者イマヌエル・カン ト Immanuel Kant の自由をめぐる議論を参照しながら、そのことについて考えていきたい。 14 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 第二章 カント哲学における自由 前章では、現代が決定論に彩られていること、私たちが何かを選択しようとするとき、 その選択が不可避的に決定論に反転してしまうことについてみてきた。そのような前章で の議論を受けて、本章では、哲学者イマヌエル・カント Immanuel Kant の自由をめぐる議 論を参照しながら、そもそも「自分で自由に決める」とはどういうことなのかについて考 える。 カントはその認識論において、決定論と非決定論の対立を「純粋理性の二律背反」とし て論じ、双方の主張はどちらも正しいものであるという結論を下している。そこでは、自 由とは、端的に何かを始めるところの“絶対的な自発性”を意味し、それはただ理念とし て想定することのみが許されるものであるとされている。カントの認識論においては、認 識の対象として私たちの前にあらわれる「現象」と、私たちが決して認識することのでき ない対象それ自体すなわち「物自体」とが区別されるが、カントは自由を、物自体として 、、、、、 位置づけたのである。そのように、認識論においてはたんなる超越的理念とされた自由は、 意志の規定という問題においては、実質的・経験的なものから独立に、意志が意志を自ら 規定する「意志の自律」であるとされ、それは、普遍的に「~すべし」と命ずる定言命法 としての「道徳法則」の「立法の自由」であると論じられている。カントによると、経験 的なものや実質的なものにもとづいて意志を規定することは、感性の衝動や自己の幸福を めざす「自愛の原理」にもとづく他律的・主観的なものであり、それは「もし~なら、~ すべし」と命ずる条件付きの仮言命法にすぎない。それは結局、自然法則に従っているこ とになるから、自由ではない。しかし、「立法の自由」とは、あくまでも物自体の世界であ る英知界におけるものであり、英知界においてそれは、自由ではなく必然である。そこで カントは、人間は現象の世界である感性界と、物自体の世界である英知界という二つの世 界に同時に属する二重の存在であり、その二重性ゆえに義務の意識としてあらわれてくる ところの道徳法則に、従うかどうかを自ら選択し決定する「選択意志の自由」があるとい うことを明らかにする。最終的には、カントはそのような「選択意志の自由」こそが、私 たちに与えられた真の意味での自由であるとしている。そのようなカントにおけるさまざ まな自由に関する議論について、本章では詳しくみていく。 第一節 自由の二律背反 カントはその認識論において、まさに決定論と非決定論の対立について論じている。そ れは、 “純粋理性の第3の二律背反 Antinomie38”として以下のように取りあげられている。 38 二律背反:相互に矛盾し対立する二つの命題が、同じ権利をもって主張されること ( 『広辞苑 第四版』 「二律背反」引用) 15 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 第3の二律背反39 定立 世界において自然因果律の他に自由な原因が存する 反定立 世界における一切は自然因果律によって生起し、自由というものはない40 定立が、自由はあるとする非決定論の立場であり、反定立が、自由はないとする決定論 の立場である。カントの認識論において、それぞれの主張は次のようになされている。世 界の因果系列を、そもそも始めるところの“絶対的な自発性”としての自由がなければ何 ごともはじまらないとするのが定立の主張であり、そのような自由を認めることは、因果 律に矛盾するというのが反定立の主張である。カントによると、このような定立と反定立 の対立は、どちらか一方が正しく、どちらか一方が間違っているというような二者択一の 問題ではない。それどころか、カントの認識論においては、両者の主張はどちらも正しい ものであるとされる。これは一体どういうことだろうか。 そもそも、私たちはなぜこのような二律背反に陥ってしまうのだろう。カントによると それは、人間の理性41Vernunft の働きによる。カントの認識論において、認識とは次のよ 、、 うな過程を経て成立する。まず経験によって与えられる印象を感性42が受容し、それが空間 と時間という先天的43形式を通じて直感となる。直感はさらに悟性44においてカテゴリー 45 という先天的形式を通じて概念となり、それによってはじめて認識が成立する。理性とは、 悟性による認識にさらなる統一を与えようとする合理的な認識能力のことである。このよ うなカントの認識論においては、私たちの認識は経験の領域に限られていることになる。 39 他の二律背反の内容は以下の通りである。 (それぞれ岩崎武雄『西洋哲学史』205 頁引用) 第一の二律背反: ( 『純粋理性批判 中』215 頁参照) 定立 世界は時間上初めを有し、空間に関しても限界を有する。 反定立 世界は時間上初めを有せず、空間に関しても限界を持たない。 第二の二律背反: ( 『純粋理性批判 中』226 頁参照) 定立 世界におけるすべての実体は単純な部分から成る。 反定立 世界において単純なものは存在しない 第四の二律背反: ( 『純粋理性批判 中』249 頁参照) 定立 世界にはその部分としてかあるいはその原因として絶対的に必然的なものが存する。 反定立 世界の内にも外にも絶対に必然的なものは世界の原因として存在しない。 40『西洋哲学史 再訂版』205 頁引用、 『純粋理性批判』中・239 頁参照 41 理性 Vernunft: 「私たちの認識能力のひとつの幹で、 (感性に対して)上級な認識能力。 (間接的に)推 論する(判断する)能力。 」など( 『純粋理性批判 下』事項索引参照) 、 「概念的思考の能力。ア・プリオ リな原理の能力の総称」 (『広辞苑』 「理性」引用) 42 感性 Sinnlichkeit: 「それによって私たちに諸対象が与えられるところの人間的認識の一つの幹」 (『純 粋理性批判』上・141 頁、下・事項索引参照) 、 「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受 性」 (『広辞苑 第四版』 「感性」引用) 43 先天的(a priori) :時間上一切の経験に先立つということ( 『西洋哲学史』190 頁引用) 、、 、、 44 悟性 Verstand: 「直感(感性)に対して、それによって対象が思考されるところの人間的認識の第二の 幹」 (『純粋理性批判』上・141 頁、下・事項索引参照) 、 「感性によって与えられる所与に基づいて概念を 構成する能力で、理性と感性の中間にあり、科学的思考の主体」 (『広辞苑 第四版』 「悟性」引用) 45 カテゴリーKategorie:純粋悟性概念、範疇ともいわれる。具体的には、量(単一性、数多性、全体性) 、 質(実在性、否定性、制限性) 、関係(実体性、因果性、相互性) 、様相(可能性-不可能性、現存在-非 存在、必然性-偶然性) 。 (『純粋理性批判』上・224 頁、 『西洋哲学史 197 頁参照』 16 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 経験的なものはすべて特殊なものであり被制約的なものであるが、理性は特殊に対する一 般を、非制約に対する無制約を求め、絶対的な総体性においてものごとを認識しようとす る。そのため、理性はしばしば、認識が本来経験の領域内に限られているということを忘 れ、経験を越えたものについてまで統一的に認識しようとしてしまう。カントによると、 このような理性の“越権行為”は、人間にとって不可避的なものである。例えば、神や霊 魂というような、経験的には決して認識することができないにもかかわらず、私たちが想 定してしまうものがそれにあたる。カントの認識論においては、自由もそれと同様に考え られている46。世界に自然因果律のみを認めると、因果律の連鎖だけが無限に続くことにな るが、理性はそこに絶対的総体性を求めようとして「みずから働きを開始しうる自発性47」 、、、、 あるいは「或る状態をみずから始める能力48」 、すなわち端的になにかを始めるところの“絶 対的な自発性”としての自由の概念をつくりだすというのである。しかし、それはあくま でも理性の“越権行為”によるものであるから、このような自由を実在的なものと考える ことは迷妄であり、それはただちに二律背反という自己矛盾に理性を貶めるのである。つ まり、そのようにして理性によって作られた自由の概念とは、カントによると認識不可能 、、、、、 な、ただ理念として想定することのみが許されるものであり、たんなる超越的理念である とされる。 それではなぜ、そのような自由の存在を認める定立の主張が正しいものであるとされる のだろうか。先に確認したように、カントの認識論においては、感性と悟性のそれぞれに、 時間と空間、カテゴリーという先天的形式が存在していた。ここで重要なのは、カントは、 認識の対象は私たちの主観から独立にそれ自身において存在しているのではなく、私たち 、、 の先天的形式によって構成されたものであるとしたことである。このような発想の転換は コペルニクス的転換とよばれ、カントはこれを「認識が対象に従うのではなく、対象が私 たちの認識に従わなければならない49」のだとしている。つまり、ここでカントは、認識の 対象として私たちの前にあらわれてくる「現象」と、私たちが決して認識することのでき ない対象それ自体すなわち「物自体」とを区別しているのである。さらにカントはそこで、 現象の世界である感性界と、物自体の世界である超感性界という二つの世界を想定してい る。感性界における現象は経験によって私たちに与えられるが、超感性界における物自体 は私たちの経験をまったく超越しており、知覚においてではなくたんに思考においてのみ その存在を知ることのできるものである。ここで先の二律背反にたち戻ると、感性界にお 、、、、、 いて反定立が妥当することは明らかである50。そしてカントが超越的理念として自由を位置 46 経験的に確認することが不可能にもかかわらず想定されるものは、カントによると「超越論的仮象」と 呼ばれ、その中でも自由や神、魂の不死は客観的な現象に関して考えられた無制約者として、 「宇宙論的仮 象」と名づけられている。 47『純粋理性批判』中・340 頁引用 48 同上 49『純粋理性批判』上・51 頁参照 50 なぜなら、純粋悟性概念(カテゴリー)によって秩序付けられることによって認識は可能となるのだか ら、因果律に反するものはそもそも認識されえない。 『純粋理性批判』上 448-454 頁参照 17 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact づけたことから分かるように、自由とは物自体であり、超感性界に属するものである。こ のように感性界と超感性界という2つの世界において、自然因果律と自由は、 「たがいに依 存しあうこともなく独立して成立し、それでいてたがいに妨害しあうこともなく成立しう る51」 。つまり、自由の二律背反においては、定立が超感性界に、反定立が感性界にそれぞ れ妥当し、それで互いに矛盾しないのである。よって、決定論と非決定論の対立は、カン トの認識論においてはどちらも正しいということになる。 以上にみてきたように、カントの認識論において、自由とは、端的になにかを始めると 、、、、、 ころの“絶対的な自発性”であり、それは超感性界における超越的理念であった。それで は、そのようにそれ自体としてはただ想定することのみが許される理念にすぎないとされ た自由は、意志の規定という問題においてはどのように考えられるだろうか。 第二節 立法の自由 前項では、カントがその認識論において、自由とは、端的になにかを始めるところの“絶 、、、、、 対的な自発性”であり、それはただ想定することのみが可能な超越的理念であるとしたこ とについてみてきた。自由が“絶対的な自発性”であるなら、意志の規定という問題にお いては、自由はどのように考えられるだろうか。すなわち、絶対的自発的に意志を規定す るとは、どういうことを意味するのだろうか。 カントによると、意志の規定における自由は、一切の実質的なもの、経験的なものに規 定されないということであり、意志が意志を自ら規定する「意志の自律」のことを意味す る。そして、カントによると、そのような「意志の自律」は、 「道徳法則」の存在によって 認識することができるという。カントはこのことを「自由は道徳法則の存在根拠であり、 道徳法則は自由の認識根拠である52」としている。これは一体どういうことだろうか。 道徳法則とは、すべての人に「~すべし」と命ずる普遍的な法則である。これは、個々 の主観によって勝手に想定された、普遍妥当性を有しない格率 Maxime から明確に区別さ れる。道徳法則とは、実質的・経験的なものを一切意志の規定根拠とせず、よって純粋に 形式的なものである。一方、実質的・経験的なものを意志の規定根拠とすることは、意志 以外のものによって意志が規定されるということであるから、それは意志の他律であり、 自由ではない。たとえば、欲求の対象としてある実質を予想し、それにもとづいて意志を 規定することは経験的であり、カントによるとそれはすべて、対象によって引き起こされ る快・不快の感情にもとづくものであるから、結局は「自愛の原理」すなわち自己の幸福 を目指したものであるということができる。たとえこのような自愛の原理について、すべ ての人の意見が一致したとしても、そこには決して普遍妥当性があることにはならない。 51『純粋理性批判』中・366 頁引用 52 イマヌエル・カント『実践理性批判』18 頁 18 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact なぜなら、その一致は単に偶然であり、一致すべき必然性は少しも存在しないからである。 実質的・経験的な意志規定の根拠は、何よりも幸福を獲得することを目的とし、その目的 、、 を達成するための手段として、ある行為をするべきだと命ずる。それは、「もし幸福であり たいならば、~すべし」というような条件付きの「仮言命法」にすぎない。これに対して 道徳法則は、何らかの他の目的のための手段としてではなく、まさに道徳法則そのものを 、、 目的とするような、したがって無条件で絶対的な、端的に「~すべし」と命ずる「定言命 法」である。カントはそのような道徳法則を、次のように定式化している。 「君の意志の格率53が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ54」 この道徳法則の存在は、カントにとっては「理性の事実55」として確かなものである。な ぜなら、私たちには義務の意識があるからである。道徳法則とは、カントによると、道徳 的な経験とともに義務として私たちが意識しうるところの、先天的で不可避的な意志規定 なのである56。 カントによると、意志の規定における自由とは「意志の自律」であるが、それはさらに、 意志が道徳法則を自ら立法することができるという意味で「立法の自由」であるとされた。 ここで、前項においてはたんに理念として、ただ想定することしか許されなかった自由の 存在は、道徳法則の存在によって、 「立法の自由」として認識することが可能になった。し かし、 「立法の自由」は、あくまで超感性界すなわち英知界におけるものである。このよう な英知界における「立法の自由」と、私たちはどのように関わることができるのだろうか。 第三節 選択意志の自由 前項までのカントの議論においては、自由とは、端的に何かをはじめるところの“絶対 、、、、、 的な自発性”であるが、それは超越的理念として認識不可能であること、しかし、意志の 規定という問題においては、自由とは、意志が意志を自ら規定する「意志の自律」であり、 すなわち道徳法則の「立法の自由」であること、そしてそれは道徳法則の存在が義務の意 53 この場合の格率とは、主観的原則としての具体的・実質的な意味での格率ではなく、 「~べし」と示す ところの形式的格率である。 54『実践理性批判』72 頁引用 55『実践理性批判』74-75 頁参照 56 道徳法則は、義務を意識しない人、義務を意識するがその存在を錯覚もしくは迷妄として自ら否定する 人をも非主題的・匿名的に例外なく規定している。なぜなら、そのような人は自愛の原理を意志の規定根 拠とするが、その自愛の原理を普遍的に承認されることを要求しているからである。あるいは、自己の格 率が他人の是正や否認から自由であることを望むことすら、それは普遍的是認の要求の裏返しであるから である。このような格率の合法則的普遍性の欲求すなわち「格率は普遍的に承認される実践的法則にもと づくべきである」という内的欲求がいかなる人にも等しく存在しており、その本性的欲求の表現が道徳法 則なのである。 (川島秀一『カント倫理学研究』198 頁参照) 19 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 識によって確証されるがゆえに認識可能になるということについてみてきた。しかし、い かに道徳法則の存在によって「立法の自由」が認識可能になるといっても、それはあくま でも英知界におけるものであり、それに対して私たち人間がどのように関わっていくこと ができるかということについてはまだ明らかにされていない。 これまでのカントの議論においては、感性界と英知界という二つの世界は分断されたま まであった。しかし、そのように感性界と英知界が別々に考えられている間は、感性界に おいて自由はまったく不可能であるし、一方の英知界においては、私たちが認識できない だけで自由はすでにつねに実現されているということになる。否、それどころか「意志の 自律」としての道徳法則の「立法の自由」は、英知界においては必然であるとさえいえる。 その意味では、英知界における「立法の自由」は自由ではないということになってしまう。 ところで、感性界と英知界という二つの世界を想定するとき、私たち人間はそのどこに位 置しているのだろうか。もし人間が感性界にのみ属する存在であるなら、ただつねに感性 的な衝動や、あるいは自愛の原理にしたがって自動的に行動しているだろうし、もし人間 が英知界にのみ属する存在であるなら、道徳法則を立法し、さらにそれに従うことは、つ ねに必然である。このように、感性界と英知界をそれぞれ別個に考えるなら、それこそど ちらの世界も決定論的に完結してしまうことになる。しかし人間は、感性界と英知界の両 方に同時に属する二重の存在である。前項では、義務意識の存在が、道徳法則が「理性の 事実」として存在することの根拠になるということについて確認した。ここで、道徳法則 、、 が「~べし」という義務として私たちの前にたち現れているのは、私たちが感性界と英知 界の二重の存在であるからであるといえる。道徳法則に従うことも、そして従わないこと 、、 もできるからこそ、道徳法則は義務として私たちの前にたち現れてくるのである。それは 同時に、私たちには、感性界における自然法則と英知界における道徳法則のどちらに従う のかを自ら選ぶ「自由」があるということを意味する。このように、人間の存在のその二 重性こそが、自由の居場所を確保するのである。カントは、そのような自由を、 「選択意志 、、、、、 の自由」とよんでいる。道徳法則を立法しうるということが「立法の自由」であるなら、 、、、、 その道徳法則に従いうるということが「選択意志の自由」である57。つまり、私たちには、 たんに感性界における感性の衝動や自愛の原理に従うことによって自然因果律に支配され、 決定論に陥るのではなく、道徳法則に従う「自由」があるというのである。これこそが、 私たちに与えられた、真の意味での「自由」なのである。そしてこのような「選択意志の 自由」があるからこそ、同時に「責任」も生じてくる。カントによると、 「選択意志の自由」 、、 は「善悪への決意性の英知的自由58」である。善悪は本来、行為の動機の実質的な内容によ 、、 ではなく、形式すなわち意志規定において道徳法則と自愛の原理のどちらを優先的に意志 規定の根拠にしたかという従属関係によって決定されるものである。カントにおいては、 道徳法則を唯一の意志の規定根拠とすることこそが善であり、道徳法則よりも自愛の原理 57『カント倫理学研究』218 頁参照 58『カント倫理学研究』226 頁引用 カント『宗教論』にもとづく 20 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact を優先することこそが悪であるとされる。 「選択意志の自由」とは、自分の意志によってそ のどちらかを選ぶことができるということであるから、 「選択意志の自由」こそが、善悪の 帰責の根拠となるのである。そしてカントによると、選択意志がその自由によって道徳法 則を唯一の意志規定の根拠とすることは、倫理的義務なのである59。 以上のカントの議論から、最終的に、人間には道徳法則に従うかどうかを自ら選び決定 することができるという意味での「選択意志の自由」があることがわかった。私たちがた んに感性の衝動や自愛の原理に従属するなら、それは自然因果律に支配されていることに なり、決定論に陥ってしまうことになる。しかし、感性界とともに英知界にも同時に属す る二重の存在である人間には、そのような決定論に陥ることなく、道徳法則に従うことが できる「自由」があるのである。したがって、決定論に陥ってしまうことすら、そのよう な「自由」における自らの選択の結果であるということになる。ここにおいて、人間に与 えられた「自由」の意味と存在が明らかになり、決定論は克服されるに至ったということ ができる。 59『カント倫理学研究』228 頁参照 カント『宗教論』にもとづく 21 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 終章 ―――「自分の人生は自分で決める」とかよくいうけど、本当にそうなの? もしもう一度、このような問いを投げかけられる機会があるなら、今度は自信をもって こう答えたいと思う。 「自分の人生は、自分で決めなければならないんだよ」と。 私たちには確かに、 「自分の人生を自分で決める」自由がある。しかしそれは、これまで みてきたように、私たちがふだん考えているような意味での自由ではない。カントによる と、それは道徳法則に従うかどうかを自ら選び決定することができるという意味での「選 択意志の自由」である。カントの議論は、人間に与えられた自由の意味と存在を明らかに し、決定論を克服することによって、決定論と非決定論の対立を解消するとともに、なぜ 現代が決定論的なものに彩られ、私たちの選択が不可避的に決定論に反転してしまうのか ということについても解答を与えている。私たちが当たり前のように「自分の人生は自分 で決めることができる」と考えているにも関わらず決定論が前景化してくるのは、端的に 私たちが私たちに与えられた自由の意味を誤解しているからであるということができる。 カントによれば、私たちがたんに自分にとっての“よさ”や自分の具体的な経験をもと に何かを選択し決定するならば、それは実は自由に考えていることにも、自分で考えてい ることにもならない。それは、たんに自然法則に従っているだけなのである。言い換える と、私たちがたんに感性的な衝動や自愛の原理に従属するならば、それはひらかれた自由 を前にして、自らその自由を打ち捨てているということになるのである。そのことを私た ちが自覚しているにせよしていないにせよ、そのようにして決定論に陥ってしまうことは、 まぎれもなく私たちの自らの選択の結果なのである。私たちは不可避的に決定論に陥って しまうのではなく、自らそれを選びとることによって、自ら決定論に陥っているのである。 本当は、避けられないのは決定論ではなく、むしろ自由なのである。 大きな物語がなくなった現代には意志決定のための超越的な参照点がなく、「いかに生 きるか」という問いに、私たちは自己言及的に回答するしかないのだった。そのような状 況に立たされる私たちに、カントは、自分にとっての“よさ”や自分の具体的な経験とい うものをまったく度外視した「道徳法則」という意志規定のあり方を教える。しかし、道 徳法則は純粋に形式的なものであり、具体的なことについては私たちになにも教えてはく 、、、 れない。道徳法則とは、いわば正しい答えの出し方にすぎないのである。肝心の中身、つ まり正しい答えが何なのかということは、私たちがそれぞれに考えていかなければならな い。 「自分の人生は、自分で決めなければならない」とは、そういう意味でもあるのである。 22 このPDFはpdfFactory試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/pdffact 参考・引用文献: イマヌエル・カント著、原佑訳『純粋理性批判』上・中・下、平凡社、2005 イマヌエル・カント著、波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳『実践理性批判』岩波書店、 1979、 (1988、第10版) イマヌエル・カント著、篠田英雄訳『道徳形而上学原論』岩波書店、1960 イマヌエル・カント著、飯島宗享・宇都宮芳明訳『カント全集・第9巻 宗教論』理想社、 1974 石川文康『カント入門』ちくま書房、1995 伊藤邦武「自由」 (永井均他『辞典 岩崎武雄『西洋哲学史 哲学の木』講談社、2002) 再訂版』有斐閣、1975 大屋雄裕『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅』ちくま書房、2007 鎌田康男「意志」 、 「運命」 (永井均他『辞典 哲学の木』講談社、2002) 香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書、2006 川島秀一『カント倫理学研究―内在的超克の試み―』晃洋書房、1995 川島秀一編著『近代倫理思想の世界』晃洋書房、1998 齋藤純一『自由』岩波書店、2005 渋谷望『魂の労働』青土社、2003 島薗進「社会の個人化と宗教の個人化」 『社会学評論』第 54 巻 4 号 新村出編『広辞苑 第四版』岩波書店、1955 鈴木健介『ウェブ社会の思想―「偏在する私」をどう生きるか』NHK ブックス、2007 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書、2005 村上龍『13歳のハローワーク』幻冬舎、2003 思想の科学研究会編『新版 哲学・論理学用語辞典』三一書房、1995 23 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