「聖礼典=サクラメント」

Ⅰ
キーワードによるキリスト教概論-11
「聖礼典=サクラメント」
芦田
序
道夫
論
プロテスタント最初の信仰告白であるアウグスブルグ信仰告白は、
「唯一の聖なるキリスト教会は、永遠に存続する。教会は、聖徒の集まり
であって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。
そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行について
同 意 す れ ば 、 そ れ で 十 分 で あ る 。」 と 言 う 。
[第 7 条 教 会 に つ い て ]
教会が真に教会であることの二つの基本的条件が規定されています。その第一
は 福 音 が 純 粋 に 教 え ら れ て い る こ と で す 。上 記 は ラ テ ン 語 本 文 か ら の 翻 訳 で す が 、
同 時 に 作 ら れ た ド イ ツ 語 本 文 で は 「 そ の 中 で 福 音 が 純 粋 に 説 教 さ れ 」、 と な っ て
います。そして第二の条件がここで学ぼうとしている「聖礼典が正しく執行され
る」ことです。つまり、聖礼典は教会の生命線であるということです。
プ ロ テ ス タ ン ト の 「 聖 礼 典 」( 又 は 礼 典 ) は ロ ー マ ・ カ ト リ ッ ク で は 「 秘 跡 」、
正 教 会 ( 東 方 教 会 ) で は 「 機 密 」、 聖 公 会 で は 「 聖 奠 」( せ い て ん ) と そ れ ぞ れ
訳 語 は 異 な り ま す が 、「 サ ク ラ メ ン ト 」 ( ラ ) Sacramentum、 ( 英 ) Sacrament の 訳 で
す 。 し か し カ ト リ ッ ク 的 な サ ク ラ メ ン ト 重 視 主 義 を 避 け る た め に 、「 聖 礼 典 」 は
英 語 の Ordinances( 儀 式 ) の 訳 で あ る と し て 、 サ ク ラ メ ン ト と い う 言 葉 を 使 わ な
い場合もあります。
《定義、そしてウェスレアンの立場》
ヘンリー・シーセンによれば「礼典とは、キリスト教信仰における救いの真理
の可視的なしるしとして、教会で守られるためにキリストによって、創設された
外 的 儀 式 で あ る 」 *1
と定義されます。また、J.ウェスレー は「恵みの手段」
と 題 す る 説 教 で 、「 恵 み の 手 段 は 、 神 に よ っ て 定 め ら れ た 外 的 な し る し ・ 言 葉 ・
行為であり、この目的のために、神が先行的な恵み、義認や聖化の恵みを人に伝
達する通例の管となるよう定められたもの」と言って、これを軽視することも乱
用 す る こ と も 批 判 し て い ま す 。 *2 こ こ で ウ ェ ス レ ー が 「 通 例 の 」 と 言 っ て い る
ところに注目する必要があります。ウェスレーは週に何度も聖餐を受けたほどで
すが、これを「通例の」恵みの手段であるとして、言外に聖霊による「特別な」
恵みの可能性を示唆しているのです。ウェスレーから1世紀後のウェスレアン・
ホーリネスの流れの中ではこの「通例の」恵みの手段を通してよりも、聖霊によ
る 「 特 別 な 」( 直 接 的 な ) 恵 み に 圧 倒 的 な 強 調 が お か れ る よ う に な り ま す 。 し か
しそれは聖礼典を儀式的であるとして退けたのではありません。聖霊の直接的な
働きを重視したために、相対的に軽視する結果となったということです。最近で
はその点を反省して礼典の重要性を見直す傾向にあります。
*1 ヘ ン リ ー ・ シ ー セ ン 「 組 織 神 学 」 P 6 9 1
*2 「 ジ ョ ン ・ ウ ェ ス レ ー 説 教 5 3 上 」 P 4 0 3
-1-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/
1.聖礼典の範囲
それでは「聖礼典」とは何のことを指しているのでしょうか。一般的にプロテ
スタント教会では、洗礼式と聖餐式のみを聖礼典(礼典)としています。
宗教改革期までは、ローマ・カトリック教会の慣習にしたがって七つの聖礼典が
定 め ら れ て い ま し た 。( 名 称 は 異 な り ま す が 正 教 会 で も 七 つ の 機 密 が あ り ま す )
洗 礼 ・ 聖 餐 ( 聖 体 )・ 婚 姻 ・ 叙 階 *1 ・ 堅 信 *2 ・ 告 解 ・ 病 者 の 塗 油
宗教改革ではこれら七つの秘跡の中で、洗礼と聖餐以外については聖書の中で
キ リ ス ト か ら 命 じ ら れ て は い な い と し て 秘 跡 か ら 除 外 し ま し た *3 。
したがってこの学びでは、プロテスタントの聖礼典である洗礼と聖餐について
学びます。
2.「サクラメント」と「ミュステリオン」
キ リ ス ト 教 大 辞 典 に よ れ ば 、 聖 礼 典 は ラ テ ン 語 の Sacramentum を 語 源 と す る
英 語 の サ ク ラ メ ン ト Sacrament 、 ド イ ツ 語 の Sakrament の 訳 で 、 も と も と 聖 書 か ら
出た言葉ではありません。ラテン語のサクラメントゥムは「軍隊における誓約、
すなわち兵士が軍に対して誓うことを意味した」といいます。そこから教会でこ
の 言 葉 が 使 わ れ る と き の 意 味 は 、「 聖 別 さ れ た も の 」「 聖 別 す る こ と 」 と い う 意
味 で 使 わ れ る よ う に な っ た よ う で す 。 し か し 、「 秘 跡 」・「 機 密 」 と い う 言 葉 は サ
ク ラ メ ン ト と は 意 味 の 上 で つ な が り ま せ ん 。 む し ろ 「 μυστεριον 」 ミ ュ ス
テリオンからきています。聖書のラテン語訳であるヒエロニムスの「ヴルガ-タ
VULGATE」( 5 世 紀 初 め ) が で き て ま た た く ま に ラ テ ン 語 世 界 に 用 い ら れ る よ う
に な り ま し た が 、 そ の と き 新 約 聖 書 で 特 に パ ウ ロ が よ く 使 う 、「 ミ ュ ス テ リ オ ン
μυστεριον」=「奥義」の多くがサクラメントゥムと訳されました。そ
のためサクラメントがギリシャ語のミュステリオンの意味で使われるようになっ
た の か も し れ ま せ ん 。 も ち ろ ん パ ウ ロ は ミ ュ ス テ リ オ ン を 「 神 の 救 い の 計 画 」、
「 福 音 」、「 キ リ ス ト 教 の 教 え 全 体 」 の 意 味 で 使 っ て お り 、 新 約 聖 書 の ミ ュ ス テ
リオンが直接的に洗礼や聖餐を指しているわけではありません。おそらくそれら
の儀式が一般人からは隠された「秘儀」として行われたことから、サクラメント
カトリック教会では叙階という名称を用い、秘跡である。東方正教会では
神品機密と呼ばれ、神品機密を執行して神品に任ずることを叙聖(じょせい)
といい、教義上機密として扱う。 聖公会とプロテスタント諸教会では叙品
( じ ょ ひ ん ) と い う 。( Wikipedia )
*2 堅 信 ( け ん し ん 、 ラ テ ン 語 : Confirmatio ) と は キ リ ス ト 教 の 多 く の 教 派 で 行
われる儀式。宗派によって堅信の概念は異なるが、一般的には「すでに洗礼を
うけたものが一定期間の信仰生活を送ったあとで、自らの信仰を確かなものと
して宣言する」という意味がある。
カトリック教会では堅信は秘跡であり、多くの場合、幼児洗礼を受けたもの
が思春期になってから受けるため、文化によっては成人儀礼の一種とみなすも
のもある。このような意味合いを持つため、成人洗礼の場合は洗礼と同時に堅
信 を 受 け る こ と も 一 般 的 で あ る 。( Wikipedia )
*1
*3
洗礼=マタイ28:19-20、聖餐=ルカ22:19、1コリ11:24
-2-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/
=ミュステリオン=秘跡・機密
となったのでしょう。
3.洗礼(バプテスマ)
(1)基本的な意味
バプテスマ「洗礼」は水に浸すことを指しています。新約聖書にはバプテスマ
のヨハネによって、繰り返し行われていた汚れから身を清める意味の洗礼ではな
く、神の前における「悔い改めの洗礼」が始められたことが記されています。そ
れは何らかの入会儀式ではなく、神の前に罪の赦しを受けるという霊的意味を持
つものでした。主イエスは、バプテスマのヨハネによって始められた洗礼にまっ
たく新しい意味を加えました。それは「悔い改めて福音を信ぜよ」というもので
した。 それは悔い改めを前提として、イエス・キリストの福音を信ずるものに
与えられる洗礼です。
使徒パウロはローマ人への手紙6章で、洗礼という儀式が表している重要な真
理を明らかにしました。
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死に
あずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死に
あ ず か る バ プ テ ス マ に よ っ て 、 彼 と 共 に 葬 ら れ た の で あ る 。・ ・ ・ ・ ・ も し
わたしたちが、彼に結びついてその死にひとしくなるなら、さらに、彼の復
活 の 様 に も ひ と し く な る で あ ろ う 。・ ・ ・ ・ も し わ た し た ち が 、 キ リ ス ト と
共 に 死 ん だ な ら 、 彼 と 共 に 生 き る こ と を 信 じ る 。・ ・ ・ ・
ロマ6:3~14
洗礼はキリスト共に十字架につけられて死に、キリストと共に復活してキリス
ト共に生きることを意味するというのです。 パウロがここで強調しているのは、
洗 礼 が そ の 「 し る し 」 で あ る と い う こ と で は あ り ま せ ん *1 。 キ リ ス ト ・ イ エ ス に
あずかるバプテスマを受けた者は受洗の時にそのようになっているのだ、という
のです。それゆえに11節で「このように、あなたがた自身も、罪に対して死ん
だ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべ
きである」と言えるのです。
(2)割礼→洗礼
「教会員手帳」では洗礼が旧約時代の割礼から説明されています。割礼がイス
ラエル人にとってアブラハムに約束された神の契約に入れられるしるしであった
よ う に 、洗 礼 は キ リ ス ト の 新 し い 契 約 に 入 れ ら れ る し る し で あ る と い う こ と で す 。
この関係をどのように理解するかは少し注意が必要です。旧約の割礼が時代が下
って契約が新しくされたとき、洗礼という新しい方式に変えられたということで
は な い の で す 。「 教 会 員 手 帳 」 は こ の 説 明 に 「 旧 約 の ひ な 型 」 と い う 言 葉 を 使 っ
ています。これは新約の洗礼が本物であって、旧約の割礼はその模型であったと
の 理 解 な の で す 。 こ の よ う な 理 解 の 仕 方 を 「 予 型 論 」( 第 1 回 の 「 救 済 史 」 で で
てきました)と言います。
マタイ28:19では「父と子と聖霊との名によって」洗礼を授けるようにと
言 わ れ て い ま す が 、使 徒 行 伝 2 : 3 8 で は 単 に「 イ エ ス ・ キ リ ス ト の 名 に よ っ て 」
洗礼を受けるようにと言われています。パウロが洗礼について語る場合もイエス
*1
メソジスト信仰箇条は「信仰告白・新生のしるし」としています。
-3-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました 竨
wでnsdでcoでjp作share作
・キリストに与る洗礼と言うように、洗礼はキリスト中心的であると言えます。
(3)洗礼を受ける資格
原則的には①自分の罪を悔い改め、②イエス・キリストを救い主として信じ、
③口で告白する(ロマ10:9)ことが洗礼を受ける資格です。もう少し詳しく
は、②のイエス・キリストを救い主と信じる中に十字架による罪の贖いと復活に
よって与えられる永遠の命、イエスを主として生きるということが含まれます。
現代の情況については各自が経験しているところですから、古代教会の洗礼に
ついて簡単にふれておくことが参考になると思います。
紀元3世紀前半のローマ教会の司祭ヒッポリュトスが書いた「使徒伝承」とい
うものがあります。これは20世紀になってからヒッポリュトスのものであると
同定され、古代教会の姿を伝えるものとしてカトリック、プロテスタント双方に
たいへん大きな影響を与えたものです。その一部を紹介します。
・求道者は仕事と職業について調べられ、ふさわしくない場合はそれを辞め
な け れ ば な ら な い 。・ ・ ・ ・ 彫 刻 家 、 売 春 宿 経 営 、 俳 優 、 勝 負 事 等 々
・求道者は3年間神の言葉を聴かなければならない。但し、生活態度によっ
て そ の 期 間 は 決 め ら れ る 。・ ・ ・ 礼 拝 で の 聖 書 朗 読 と 説 教 を 聴 く こ と が
でき、定期的な教えを受ける。
・その後、洗礼を受ける人はまずその生活について調べられる。証人がその
人が正しく生活していたことを証ししてくれたなら、洗礼志願者に加わ
わって福音を聴くことができる。
・福音の教授は復活祭前のある期間行われ、聖書に基づく救いの歴史や使徒
信条を中心とする教理を学ぶ。
・復活祭前の木曜日に身体を洗い清め、金曜日に断食する。土曜日に司教の
もとに集まり、ひざまづき司教より按手されて悪霊追放を受ける。
・土曜の夜は徹夜して聖書の朗読と教えがなされる。
・受洗者は各自感謝の捧げものをもってくる。
・復活祭の朝、鶏の鳴く頃に受洗者は衣服を脱ぎ、子供、男子、女子の順に
洗礼を受ける。まず司祭は感謝の油をもって悪霊追放を命じる。
・ 洗 礼 槽 に 降 り て い き 、授 け る 者 が 按 手 し て「 全 能 の 神 で あ る 父 を 信 じ る か 」
と問い、受洗者が「信じます」と答えると按手のまま水に浸す。こうし
て 、 キ リ ス ト に つ い て ( 使 徒 信 条 の 第 2 項 )、 聖 霊 に つ い て 同 じ よ う に
繰り返される。
・水から上がると聖なる油を塗られ、衣服を着て教会に入る。
・教会で感謝の祈りを受けた後平和の口づけをして、最初の聖餐を受ける。
参 考 :「聖ヒッポリュトスの使徒伝承」B.ボット オリエンス宗教研究所
「古代キリスト教典礼史」ユングマン 平 凡 社
このように古代教会では今日の献身のような重みがあったことがわかります。
個々の点はともかく、古代教会のこのような心は見習いたいものです。
(4)洗礼の方法
洗礼の方法には大きく、浸水(全身を浸す)と潅水(頭部のみ)があり、潅水
礼には手を濡らして頭に押しつけて水に沈める所作をまねる「滴礼」と頭に水を
注 ぐ「 潅 水 礼 」が あ り ま す 。我 々 は 全 身 を 浸 す「 浸 礼 」を 基 本 に し な が ら「 滴 礼 」
も 適 時 併 用 し て い ま す 。・ ・ ・ ・ 参 考 : 古 代 教 会 は 浸 礼 、 そ れ も 流 水 を 原 則 と し
-4-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/
ていたことがヒッポリュトスの使徒伝承からわかっています。
尚、バプテスト教会は浸礼しか認めておらず、フレンド派(クェーカー)は洗
礼を霊的なものとしているので礼典としては行わないません。
(5)幼児洗礼の問題
幼児洗礼は前のヒッポリュトスの「使徒伝承」においても、受洗のときに司教
の質問に答えられない子供の場合はどうするのかという指示まで書かれています
から、かなり早い時期からなされていたと考えられています。しかし、新約聖書
に は 死 者 の た め の バ プ テ ス マ は 出 て き ま す が ( 1 コ リ 1 5 : 2 9 )、 幼 児 に つ い
てはふれられていませんので使徒時代にまで遡れるかどうかはわかりません。
そのため、古代から今日に至るまで幼児洗礼の是非について論争が続いてきま
した。大雑把に言って、キリスト教会の主流は幼児洗礼を擁護し、主流の体制的
な教会を批判して個人の信仰を強調する人たちは反対してきました。このような
実態そのものが、信仰に対する二つの異なった視点から発している論争であるこ
とを示しています。つまり、擁護派はキリスト教信仰は共同体的信仰であると理
解していますが、反対派は信仰は個人のものであると理解しているのです。
宗教改革者のJ.カルヴァンは主著「キリスト教綱要」で邦訳で35頁をも当
て て 幼 児 洗 礼 に 批 判 的 な 再 洗 礼 派 に 反 論 し て い ま す 。 *1 カ ル ヴ ァ ン が 幼 児 洗 礼
を擁護する根拠は主として新約のバプテスマは、旧約の割礼を新しい契約によっ
て 置 き 換 え た も の で あ る と い う 点 で す 。 *2 つ ま り 契 約 に 入 れ ら れ た と い う 確 証
が旧約の場合は割礼であったのが、新約ではバプテスマに置き換えられたという
こ と で す 。 *3
この論法は「教会員手帳」も同じですが、日本ホーリネス教団で
は幼児洗礼については一切触れていません。伝統的にウェスレアン・ホーリネス
は幼児洗礼否定の立場をとっていますが、カルヴァンの主張や幼児洗礼擁護に立
つウェスレーとの関係をふまえて神学的再検討が必要となるでしょう。
その他参考書として;
E.シュリンク「洗礼論概説」新教出版社
バルト、クルマン「洗礼とは何か」同上
など
*1
*2
*3
カルヴァン「キリスト教綱要」Ⅳー2 第4篇16章
カルヴァン「キリスト教綱要」Ⅳー2 P38-39
「割礼はユダヤ人にとって、神の民、また神の家族として受け入れられた
ことを確かにし、彼らの側でも神に忠誠を捧げることを誓約する、いわば認
知票のようなものであったがゆえに、これは神の教会への最初の加入式であ
ったが、それと同じように、今、主なる神は我々をバプテスマによって、ご
自身の民のうちに加えたまい、我々はそれに答えて、彼の御名に誓いを立て
るのである。したがって、バプテスマが割礼の位置を継承し、我々に対して
同 一 の 役 割 を 果 た す こ と は 、 論 争 の 余 地 無 く 明 ら か で あ る 。」
カルヴァン「キリスト教綱要」Ⅳー2 P40 6項中程を参照
-5-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/
4.聖
餐
聖 餐 は 「 主 の 晩 餐 」、「 パ ン 裂 き 」 と 呼 ば れ る こ と も あ り ま す 。 聖 餐 と い う 言
い方はプロテスタントの用語で、カトリックでは聖体の秘跡または単に聖体と呼
び 、 そ の 祭 儀 を ミ サ *1 ( ミ サ 聖 祭 ) と 呼 ん で い ま す 。 *2
しかしプロテスタントの聖餐とカトリックのミサは、その意味が全く異なりま
す。聖餐は、ただ一度十字架の上に犠牲として捧げられて罪の贖いを全うしてく
ださった御方への感謝(ユーカリスティア)をささげる行為ですが、ミサでは司
祭の聖別の祈りによってパンとぶどう酒がキリストの身体に実体変化する(化体
とも言う)という教義のために、ミサを行う毎にキリストを罪の犠牲として捧げ
ることになります。感謝ではなく、繰り返し再現することになります。
(1)礼拝と聖餐
聖餐の意味を考える前に聖餐が礼拝の中でどのような位置を占めていたかを見
て み ま し ょ う 。 *3 ( 礼 拝 の 変 化 が 大 変 わ か り や す い 表 を 見 つ け ま し た )
2世紀
7世紀
11世紀
司祭団の入場
入祭唱
連祷
キリエ
グロリア
グロリア
聖書朗読(長く)
朗読
使徒書簡朗読
福音書で終わる
応唱・アレルヤ
昇階唱・アレルヤ・続唱
福音書朗読
福音書朗読
説教
代願
クレド(ニケア信条)
洗礼志願者の退去
平和の挨拶
供物の準備
供物の準備(交唱詩編唱) 奉献唱
感謝の祈り(パンと 感謝の祈り
序唱
ぶどう酒の祝福) サンクトゥス、代願
サンクトゥスとベネディク トゥス
記念を伴う主祷文
ミサ典文
主祷文
平和の挨拶
先唱句と応唱句(平安)
アニュス・デイ
平和の挨拶
全員の聖体拝領
聖体拝領(交唱詩編歌)
司祭の聖体拝領
結びの祈り
聖体拝領後の祈り
閉祭
イテ・ミサ・エスト
*1
*2
*3
「 ミ サ 」 と い う 言 葉 は 、 古 代 教 会 の 礼 拝 が 終 了 し た 後 、 司 祭 が 「 Ite,missa est
イ テ 、 ミ ッ サ 、 エ ス ト 」( 祭 儀 を 終 わ り ま す 。 出 て 行 き ま し ょ う ) と 言 っ て
教会から送り出す宣言の言葉に由来します。この世への派遣の言葉です。
因みに東方正教会では「聖体礼儀」という。
高井寿雄「ギリシャ正教入門」教文館
J.ハーパー「中世キリスト教の典礼と音楽」P172 教文館
-6-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました 竨
wでnsdでcoでjp作share作
2世紀の礼拝では求道者を交えた「御言葉の礼拝」と「感謝の礼拝」の二部構
成 に な っ て い ま し た 。 *1
第一部の御言葉の礼拝が終わると求 道者は退出を求め
られ、信者だけの感謝の礼拝が行われました。この中で行われたのが我々の聖餐
でした。今日でも聖餐は説教の後に行われるのはそのためです。そして、聖餐が
礼拝とは別のものではなく、礼拝の後半部分であるということは毎週の礼拝で聖
餐が行われたことを示しています。というより聖餐こそ信者にとって礼拝の中心
的プログラムであったのです。このような古代教会の礼拝に近づこうとして、月
に一回程度の聖餐を守ってきていたプロテスタントの教会でも、毎週聖餐をもつ
教会が増えつつあります。
2世紀の礼拝を見て気付く顕著な点は、前半の御言葉の礼拝が求道者への宣教
的役割を担っていたということです。4世紀にキリスト教が公認されるまでは、
キリスト教は異教社会の中の少数派(紀元300年ころでも人口の10%程度で
あったと考えられている)でした。宣教的な御言葉の礼拝部分が消えたのは、住
民のほとんどが教会員となり、求道者と言える人がいなくなったためです。その
かわり、本来クリスチャンのみが残って守っていた聖餐式(ミサ)が礼拝全体に
拡張されたのです。
(2)聖餐の諸解釈とその意味
ローマ・カトリックは司祭の聖別の祈りによってパンとぶどう酒はまさしくキ
リストの身体と血とに変わる(化体説=実体変化説)としました。そのため聖餐
式はキリストを犠牲として捧げる儀式が中心となりました。それに対してルター
は、パンは聖別してもパンであり、ぶどう酒もそのままであるとしながらも、キ
リストは霊的にパンとぶどう酒に臨在するとしました。それは各教会の聖餐のパ
ン と ぶ ど う 酒 の 「 そ の 中 に 、そ れ と 共 に 、 そ の 下 に 」 臨 在 す る と し た の で す 。( 遍
在説又は共在説)チューリッヒのツヴィングリはパンとぶどう酒は天国におられ
る キ リ ス ト の か ら だ の 単 な る 記 念 に す ぎ な い *2 、 と し て 事 実 上 象 徴 説 を 主 張 し ま
した。しかし、同じスイスの宗教改革者となったカルヴァンはルターとツヴィン
グリの調停的な説とも見える立場をとりました。
「このことは、キリストが我々と真実に結合して、ひとつとなりたまい、
我々が彼の肉を食べ、彼の血を飲むことによって新たにされるのでないな
らば、実現できないのである。しかも場所的にこれほど離れているキリス
トの肉が、我々の食物となるためにはわれわれのもとにまで入り込むと言
うことは、信じがたく見えるとしても、それでも我々は聖霊の隠された御
力が、我々のあらゆる感覚を超えているか・・・思い起こすべきである。
・・・・聖晩餐の神聖なる奥義は、二つのことから成り立っている。
すなわち「物体的なしるし」---および「霊的な実質」--から成り立
*1
*2
6世紀ころにはすでにこの二部構成はなくなり、複雑な礼拝が聖職者を中心
に行われるようになりました。ハーパーはその原因として聖職者の増加をあ
げています。一般信者は祭壇で聖職者達が行うミサを聴くだけになりました。
もちろんミサはラテン語でなされ、ときに祭壇はカーテンで仕切られ、声が
小さいときにはそもそも理解できないラテン語さえ聞こえないのです。
ヘンリー・シーセン「組織神学」P704
-7-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました 竨
wでnsdでcoでjp作share作
つ の で あ る 。」 *1
カルヴァンの主要点は「物体的しるし」と「霊的な実質」の一致という理解し
がたい現実を認めた上で、それらに統一を与えて一つの恵みとなすのが聖霊のは
たらきであるとしたことです。カルヴァンは「我々の精神をもっては把握できな
い事柄は信仰をもって受け入れよう」とそのところで述べています。
それでは我々が教理的拠り所としているウェスレーは聖餐についてどのように
考 え た の で し ょ う 。ウ ェ ス レ ー は 説 教「 恵 み の 手 段 」で 次 の よ う に 述 べ て い ま す 。
「パンを食し、そして飲むことは、目に見える外的な手段ではないので
しょうか。その手段によって、神は私たちのたましいに、すべての霊的
な祝福、つまり義と平安と聖霊にある喜びとを伝えられるのです。それ
らの祝福は、私たちのためにキリストのからだが一度裂かれ、またキリ
ストの血が一度流されたことによって、買い求められたものではありま
せ ん か 。」 *2
ウェスレーは聖餐を神の恵みを我々の内に注入する管のように考えていることが
わかります。メソジスト宗教箇条はイギリス国教会の聖公会大綱に準じています
が、次のように記しています。
主の晩餐は、キリスト者が相互の間にもつべき愛のしるしであるばかり
で な く 、 さ ら に キ リ ス ト の 死 に よ る 我 々 の 救 い の 礼 典 で あ る 。・ ・ ・ ・
キリストの体は聖餐式において、天的な仕方によってのみ与えられ、受
けられ、食べられるべきものである。そして聖餐においてキリストの体
が受けられ、食べられるための手段は信仰である。
メソジスト宗教箇条第18条
聖餐の恵みが有効となるのは、カトリック主張するように、パンとぶどう酒が
聖 別 の 祈 り に よ っ て 正 し く キ リ ス ト の 体 と 血 と に な る か ら で は な く 、「 信 仰 を も
って食し、飲む」ことによってであるということです。キリストはその目に見え
る 手 段 と し て パ ン と ぶ ど う 酒 を 定 め ら れ た と 理 解 し て い ま す 。「 手 段 」 で あ る と
いうことは「象徴」ではないと理解できます。化体説でも遍在説でもなく、単に
「天的な仕方によって・・・キリストのからだが」ということでカルヴァンの聖
霊による飛躍に近い理解であると考えられます。いずれにしてもウェスレーは理
論的説明よりも信者が受ける恵みの実質を強調し続けました。
(3)「わたしを記念するため」・・・1コリント11:24、ルカ22:19
「記念する」=アナムネーシス とはどういうことでしょうか?
「 聖 餐 論 」 の 中 で フ ォ ン ・ ア ル メ ン は こ の ア ナ ム ネ ー シ ス と い う 言 葉 を 、「 過
去の出来事に、それの第一義的な効力を回復させるために、それを儀式によって
喚起することであり、さらにまた、その執行によって記念される出来事そのもの
*3
の中へ、記念する人々を投げ入れることである」 と定義しています。
ではそれによってどんな「効力を回復」するのでしょうか?
1コリント11章でパウロが聖餐式制定の言葉を持ち出したのは、コリントの教
*1
*2
*3
カルヴァン「キリスト教綱要 Ⅳ-2」P88-89
「ジョン・ウェスレー説教53 上」P415、イムマヌエル綜合伝道団
フォン・アルメン「聖餐論」P32 日本基督教団出版局
-8-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/
会が主の晩餐の際に一致して守ることができず、貧しい者を辱めているという状
況においてでありました。このすぐ後の12章で「一つの御霊によって」と繰り
返し述べていることを考え合わせると、聖餐によって回復される効力とは、キリ
ストのからだと血によって十字架の贖いの効力であることはもちろんですが、御
霊によって教会が愛の共同体として、キリストの一つのからだとして生かされて
いるという現実を確信することであると考えられます。
聖 餐 の こ と を 「 コ ミ ュ ニ オ ン 」 と も 言 い ま す 。「 交 わ り 、 共 に あ る こ と 」 と い
う意味です。お一人のキリストに一緒に、共にあずかることこそ教会の交わりの
基本であり、出発点なのです。
で す か ら 聖 餐 を 受 け る 時 に は い つ も 、「 ユ ー カ リ ス ト ( ユ ー カ リ ス テ ィ ア ) =
感謝」と「コミュニオン」を心に覚えて受けることが大切です。
またこれは公同の教会(世界の教会)においてなされることですので、父と子
と聖霊との御名によって洗礼を受けた人は等しくあずかることができます。
( 4)聖餐の終末論的意味
1 コ リ ン ト 1 1 章 2 6 節 で パ ウ ロ は 、「 だ か ら 、 あ な た が た は 、 こ の パ ン を 食
し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を
告げ知らせるのである」と言っています。まずこれによって主の再臨の時まで聖
餐式が続けられるべきことが、第二に聖餐が「主の死を告げ知らせる」という、
言い換えれば主イエスの贖罪を宣教するという教会の使命と深く関わっていると
いうことが示されています。
さらに聖餐は、ルカ22:18「神の国がくるまでは」と言われた終末的晩餐
を待ち望みつつ、聖餐における主イエスの霊的現臨によってその恵みを先取りし
て味わうのだということも付け加えておかなければならないでしょう。
※脚注で取り上げた以外の礼典に関する参考書(専門的ですが)
J.F.ホワイト「キリスト教の礼拝」日本基督教団出版局
由木 康「礼拝学概論」 新教出版社
レイモンド・アバ「礼拝」日本基督教団出版局
J.エレミアス「イエスの聖餐のことば」日本基督教団出版局
小林信夫「主の晩餐」日本基督教団出版局
W.ナーゲル「キリスト教礼拝史」教文館
森 紀旦編「聖公会の礼拝と祈祷書」聖公会出版
《課 題》以下の一つ又は二つについて書いてください。
1.自分の受洗について・・・受洗準備、理解の程度、何を思ったか等々
2.聖餐式について・・・・・説明・分餐方法など式についての希望、
その時何を思うか、など
次
回
9月11日「伝道」
-9-
このPDFは pdfFactory 試用版で作成されました www.nsd.co.jp/share/