十字軍と修道院改革の時代

ヨーロッパの歴史と文化・資料 02(参考資料・ウイキペディア)
十字軍と修道院改革の時代
1. カペー朝と十字軍
1-1. カペー朝
カペー朝(仏: dynastie des Capétiens)は、中世フランス王国の王朝。987年から1328
年まで続いた。
西フランク王国のカロリング朝が断絶したあと、 987年に西フランク王ロベール1世(ロ
ベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。成立当
初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ
4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。
1328年まで14代の王を輩出し、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るま
でフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。現在のスペイン王家(ブルボン
家)の祖先であり、ルクセンブルク大公家も父系ではカペー家の流れをくむ。
成立
987年、西フランク王国の国王ルイ 5世の死去によりカロリング朝は断絶した。このため、
諸侯の推挙により、フランス公兼パリ伯で、ロベール家の出身者であるユーグ・カペーが
国王として推挙され、フランス王として即位することとなった。
しかしカペー朝は国王の権力基盤が非常に弱く、各地に伯(コメス)と呼ばれる諸侯た
ちが割拠しており、さらに隣国・イングランドの王位を持つノルマンディー公家(後にプ
ランタジネット家)による圧迫を受けてフランスの領土の大半を支配されていた。国王は
パリを中心とするイル=ド=フランスを抑えるのみで、王としての権威の他にはほとんど
実効的な権力をもたなかった。
王権の強化
そのような中で、12世紀前半のルイ6世の時代から王権の強化が始まり、1180年、カペー朝
の第7代国王として即位したフィリップ 2世(尊厳王)は、巧みな政略結婚や、イングラン
ド王室での内部抗争などを利用して国王の権力を強化することに成功した。そしてリチャ
ード1世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーやアンジューを奪い、
一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。また、内政においても大学
の設置や人材登用など、パリの発展に尽くすなどして、その後におけるフランス王国の基
礎を作り上げた。
また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ
十字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ9世の時代までに完了し、結果としてフ
ランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて 13世紀にお
1
けるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。
しかし、第7回十字軍・第8回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えること
になった。
14世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図ったフ
ィリップ4世は、国内の聖職者への課税を図ってローマ教皇との対立を深めた。1302年、状
況打開を求めたフィリップは、三部会(フランス初の身分制議会)を開催して、フランス
国内の諸身分から支持を得た。その上で、翌 1303年にアナーニ事件を引き起こしてローマ
教皇ボニファティウス8世を一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。代わってフラ
ンス人のクレメンス5世を教皇に擁立すると、フィリップ 4世はテンプル騎士団の資産に目
をつけ、異端の濡れ衣を着せてこれを解散させ資産を奪った。
その後、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、
「教皇の
バビロン捕囚」
)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことによっ
て、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありながらロ
ーマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)
。
断絶
こうしてカペー朝は絶対主義への道筋を開いたが、第15代国王シャルル4世が1328年に死去
すると、直系男児の後継ぎがいなかったことから王朝としては断絶し、ヴァロワ朝に道を
譲った。
フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許さ
れている。しかし、フィリップ4世の娘イザベルとイングランド王エドワード 2世の間に生
まれたエドワード3世がカペー家の相続を主張してフランスへ侵攻し、ここに百年戦争が勃
発することになる。
その後、フランス王位はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系も
カペー家の男系支族である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命
によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。 1814年以降のブルボン家、オル
レアン家を含めると、その血統はさらに続いているといえる。
1-2. 十字軍
第1回十字軍
セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス 1 世コムネノスの依頼に
より、1095 年にローマ教皇ウルバヌス 2 世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する
軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この
呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、陵辱、略
奪を行いながらエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は一致団結することがなく、
敗走するか戦わずして十字軍を通し、1099 年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。
この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国などいく
つかの十字軍国家がつくられた。この成功に刺激され、1101 年にも大規模な聖地遠征が行
われたが、小アジアで壊滅し聖地にたどり着けたのは少数だった。
第2回 十字軍
2
1142 年のヨーロッパの状勢 1147 年 - 1148 年
しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラ
ム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム
教徒が盛り返し、エデッサ伯国を占領したことで
ヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス 3
世が呼びかけて結成された。当時の名説教家クレ
ルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で
勧誘を行い、フランス王ルイ 7 世と神聖ローマ皇
帝コンラート 3 世の 2 人を指導者に、多くの従軍
者が集まったが全体として統制がとれず、大きな
戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。なんとかパレスチナにたど
りついた軍勢もダマスカス攻撃に失敗し、フランス王らはほうほうのていで撤退せざるを
得なかった。
2.
修道院改革とシトー派
2-1. 修道院の発生
修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の
生活を求めた人々によって盛んになった。
古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修
行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒が居た。塔の頂で修行する人々は正教会では
登塔者(とうとうしゃ)と呼ばれるが、これらの人々の中では登塔者聖シメオン (390-459)
が代表的存在である。こうした1人で修行を行う古代教会の聖者の多くが、正教会とカトリ
ック教会の双方で聖人として記憶されている。
これらの1人として行う修行の形式と並行して、古代末期のエジプトから、砂漠において
集団で求道生活を共にするという動きも始まった。
このような生活スタイルは東ローマ帝国全域に広がり、砂漠においてのみならず都市に
おいても修道を行う者も現れてきた。それに伴い、都市にも大規模な修道院が建設されて
いった。コンスタンディヌーポリにおけるストゥディオス修道院は463年に建てられている。
東ローマ帝国内で培われた修道生活はその後、東ヨーロッパに伝播した。
西方においても修道はアイルランドに伝わり、アイルランドの修道者たちがイギリスや
ヨーロッパ本土において、人里はなれた土地を開いて修道院を建て神と共にある生活を営
む修道院のスタイルを広めたといわれる。
ヌルシアのベネディクトゥスが、
「すべて労働は祈りにつながる」と言ったように中世以
来の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院
の一員が手分けして行っていた。そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれている。ヨ
ーロッパに古くからある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよくみられるのはその
ためである。ヨーロッパのワイン(ミサ・聖体礼儀に欠かせない)
、リキュール(薬草酒等)
、
ビールは今でも修道院で醸造されているものも多い。
3
2-2. ベネディクト会
ベネディクト会は、現代も活動するカトリック教会最古の修道会。529年にヌルシアの
ベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに創建した。ベネディクト会士は黒い修道服を着
たことから「黒い修道士」とも呼ばれた。
彼が修道院の生活の規範とした戒律(『聖ベネディクトの戒律』
)は、12世紀に至るまで
西方教会唯一の修道会規であり、以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなった。ベ
ネディクトの妹スコラスティカも、同じ精神を持って生活する女子修道院を開いている。
同会の会員は「清貧」
「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労
働と祈りの共同生活を送った。これが観想修道会のスタンダードとなった。
同会の伝道範囲・活動範囲はイギリス、ドイツ、デンマーク、スカンジナヴィア、アイ
スランド、スイス、スペインに及んだ。中世ヨーロッパにおいて、伝道・神学・歴史記録・
自然研究・芸術・建築・土木において果たした役割は大きい。
修道院が広大な領地・財産を有するようになった時代にはクリュニー会がベネディクト
会の中から派生し、クリュニー改革運動が起きた( 910年)
。12世紀中ごろ以降は世俗化に
より衰退した時期もあったが、 1400年頃から再び改革運動が起きた。ベネディクト会から
はクリュニー会の他にも、カマルドリ会、シトー会、厳律シトー会(トラピスト会)など、
多くの修道会が派生したが、ベネディクト会自身も存続し続けた。
2-3. クリュニー会
クリュニー会とは、909年ないし910年にアキテーヌ公ギョーム1世が創設したベネディク
ト会系のクリュニー修道院を頂点とした修道会。クリュニー修道院はフランス・ブルゴー
ニュ地方の修道院だが、クリュニー会はロマンス語圏を中心に聖俗両界から支持され広ま
った。
クリュニー修道院の創建憲章では、修道院長の選出の自主自由 、国王や伯などの世俗権力・
世俗権力同等の司教・創立者とその家族や子孫の、修道院財産ならび戒律への不介入 、教
皇の直接保護(Libertas Romana)の下での存在を謳っており、世俗権力や地方教会権力お
よび在俗修道院長らによる支配に晒されることなく、自立とベネディクト規律の強化を志
した。
クリュニー会はベネディクト戒律を厳粛に守るとともに、農民への布教や貧民救済を行
った。クリュニー会の志向は聖俗両界の有力者から強く支持され、有力者が所有する私有
修道院の寄進が行われた。その結果、937年までに17の修道院を管轄下に置くこととなった。
クリュニー会はその組織構造を厳密なヒエラルキーの形状にした。クリュニー修道院を
頂点として、親修道院と子修道院の上下関係を厳しく定めた。
その後もブルゴーニュをはじめプロヴァンス、オーヴェルニュ、スペイン、イタリアと
いったロマンス語地域に広がり、またイギリスにも至り、それとともに子修道院・孫修道
院の数が増加。994年には37、1048年には65と増加し、12世紀から14世紀にかけては1000以
上もの修道院を管轄化に置く一大会派として隆盛を極めた。また影響を及ぼした修道院は
3000になったと言われている。それにより頂点たるクリュニー修道院に富と権力が集中し、
荘厳なミサの挙行をおこなったり、当時として比類なき大きさの大聖堂を建築したりした。
しかしその豪華で贅沢な生活は時として反発を生み、ペトルス・ダミアニはクリュニー
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派修道院を脱し、また分離した一部がシトー会を新たに組織したりした。
またドイツ地域に関しては、ゴルツェ修道院を中心として同時代に進んだロレーヌ修道
院改革(共通の会則遵守に従いながらも、ヒエラルキー制のない自治的運動)の影響もあ
って直接的なクリュニーの影響はさほど及ばなかった。
教皇ウルバヌス2世(在位1088年 - 1099年)はクリュニー修道院長をつとめた人物であ
った。またグレゴリウス7世(在位1073年 - 1085年)はクリュニー会から直接的あるいは
間接的に影響を受けたとされる。
シトー会やフランシスコ会・ドミニコ会などの修道院生活刷新運動の影響でクリュニー
会は凋落をはじめ、フランス革命に際してクリュニー修道院が破壊されることとなった。
なみに、味以上に価格でも有名なブルゴーニュの赤ワインであるロマネ・コンティの畑
は、クリュニー会派の修道院が開墾したのがはじまりであり、 16世紀まで同修道院の所有
であった。また「もう1つのモンラッシェ」と称されるマコン村の白ワインの畑もクリュニ
ー会派の修道院が開墾したものである。
2-4. シトー会と修道院改革
シトー修道会は、カトリック教会に属する修道会。ベネディクト会から派生した。改革を
希求したフランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士モレームのロベール( 1027 年 - 1111
年)が 1098 年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。シトー会は、
「聖
ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した点で、既存のベネ
ディクト会修道院、とりわけクリュニー会と対峙する立場をとった。服装面にもその姿勢
は現れており、壮麗・華美なクリュニー会と異なって染料を用いない白い修道服を着たこ
とから、シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。ベルナルド会(Bernardin)の別名も
ある。
ロベールは元々クリュニー会の修道士であり、モレーム修道院院長であったが、
「聖ベネデ
ィクトの戒律」をめぐって修道士の間で対立が起き、内部分裂の結果ロベールはシトー修
道院を設立した。その後、1099 年にロベールが教皇ウルバヌス 2 世の命によりモレーム修
道院に戻ると、シトーのアルベリックが後任として選出された。アルベリックが死去する
と、スティーヴン・ハーディングが後を継いだ。シトー会は、この 3 人を創立者としてい
る。
シトー会が発展したのはクレルヴォーのベルナール
の功績が大きく、1115 年にクレルヴォー修道院が創立
されるとベルナールが院長に任命され、クレルヴォー
修道院はシトー会の重要な拠点となった。シトー会の
別名であるベルナルド会の呼称は、このベルナールに
ちなむ。ベルナールはシトー会のみならず、カトリッ
ク教会およびヨーロッパ全体に非常に大きな影響力を
もち、それに伴いシトー会も大きな発展を遂げた。し
かし、ベルナールの死後、シトー会は徐々に衰退して
いき、また国際紛争、疫病の流行などの社会情勢から
地域ごとのグループに分裂していった。さらに、フラ
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ンス革命によって決定的な打撃を受けて一時はフランス国内から姿を消したが、革命終了
後に亡命していた修道士がフランス国内に戻ると復興し、現在のシトー会が作られた。こ
のとき、フランスノルマンディー地方のトラップ修道院で行われていた、厳格な規律を元
にしたのが厳律シトー会(トラピスト会)である。現在は、厳律シトー会は独立した修道
会となっており、
(寛律)シトー会と分かれている。
2-5. クレルヴォーのベルナール
ベルナルドゥスはフランスのディジョンに近いフォンテーンで騎士テセリンの子として
生まれた。母親アレテはモンバルの貴族の家の出で信仰厚く、教育熱心であったが、ベル
ナルドゥスが幼いうちに世を去った。家族はベルナルド
ゥスに軍人としてキャリアを積んでほしいと願ってい
たが、彼自身は母の姿の影響もあり修道院に入りたいと
思っていた。それならばと家族はベルナルドゥスをシャ
ロンへ送り、聖職者として出世するために必要な高等教
育を受けさせることにした。しかし、彼は修道士として
世俗と無縁の生活を送りたいという希望を決してあき
らめず、ついにシトー修道院に入ることができた。同修
道院はモレスムスのロベルトが 1108 年に開いたもので
あった。ベルナルドゥスは念願の修道院に入るにあたり、
自分だけでなく兄弟や親族、友人なども連れて修道院の門をたたいた。
同修道院はベネディクト会改革運動から出たシトー会によるものであったが、初期の熱
意を失いつつあった。しかし、そこへ地域の名門一族からベルナルドゥスをはじめとする
理想に燃えた若き入会者がいっきょに三十人も加わったことでベネディクト会のみならず
西欧の修道制に大きな影響を与える修道院になっていく。シトー修道院は活気にあふれ、
そこからさまざまな修道院が生まれていった。その中のひとつに、フーゴ公から与えられ
たオーブの谷の一角に 1115 年に創設されたクレルヴォー修道院があった。院長には若きベ
ルナルドゥスが任命された。このことから彼はクレルヴォーのベルナルドゥスと呼ばれる
ことになる。
シトー会の新しい会則に従ってつくれられたクレルヴォー修道院はシトー会の中でも大
きな影響力を持つようになっていく。形式的にはシトー修
道院の子院であったが、実質は最重要修道院であった。そ
れもこれもベルナルドゥスの名声と人格に負うところが大
きかった。
ベルナルドゥスの聖性と自己節制の厳しさ、そして説教
師としての優れた資質によって、彼の名声は高まっていき、
クレルヴォーには多くの巡礼者が押しかけるようになった。
ベルナルドゥスが奇跡を起こしたといううわさが広まると、
各地から病者や障害のあるものがやってきて、奇跡的な治
癒を願った。結果的にこの名声によって、静かな観想生活
を送りたいと願っていたベルナルドゥス自身の思いとは裏
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腹に世俗世界にかかわらざるをえなくなってゆく。1124 年に教皇ホノリウス 2 世が就任し
たころには、ベルナルドゥスはフランスの教会において押しも押されもせぬ存在になって
おり、教皇も助言を求めるほどになっていたのである。
1128 年、アルバーノのマテオ枢機卿の招きでトロワの司教会議に参加したベルナルドゥ
スはそこでテンプル騎士団の認可が得られるように働きかけ、翌年のシャロン・スル・マ
ーネの司教会議ではヴェルダン司教アンリの問題を司教辞任という形で決着させることに
成功し、教会政治における手腕でも高い評価を得た。
ベルナルドゥスが有名になったことでシトー会も大発展をとげた。1130 年から 1145 年の
間に少なくとも 93 の修道院がシトー会に加入あるいは新設された。修道院の地域はイギリ
スやアイルランドにまで及んだ。1145 年にはシトー会出身の修道士のローマ近郊のアクエ・
シルヴィエの院長であったベルナルドゥスが教皇に選ばれ、エウゲニウス 3 世を名乗った。
このことはヨーロッパにおけるベルナルドゥスの影響力が頂点に達したことを示す出来事
であった。
教会分裂の収拾を達成したベルナルドゥスが次に要請されたのは異端との戦いであった。
ラングドック派が当時異端として世間を騒がせていた。特にローザンヌのハインリヒとい
う説教師の名前が知れ渡っていた。1145 年 6 月オスティアのアルベリック枢機卿の招きに
よってベルナルドゥスは盛んに説教を行い、異端の影響力が及ぶのを食い止めるのに成功
した。また、教皇の願いに応じて十字軍の勧誘演説を行うことになった。この効果は絶大
で、ヴェザリーでの会談でフランスの諸侯の前でベルナルドゥスが十字軍への勧誘をおこ
なった結果、感動した諸侯は続々聖地へと赴いた。その中にはフランス王ルイ 7 世、当時
その王妃だったアリエノール・ダキテーヌなども含まれていた。さらに各地を回って遊説
した結果、熱狂的な十字軍運動を巻き起こし、神聖ローマ皇帝コンラート 3 世も十字軍に
加わった。
しかし、肝心の十字軍が惨敗したことがベルナルドゥスに大きなショックを与えた。彼
はなぜ神がこのような結末を許したのかと自問し、結局従軍者の犯した罪によるのだと結
論した。ベルナルドゥスは十字軍敗退のニュースをクレルヴォーで聞いたが、そこにはア
ルノルド・ダ・ブレシアの反乱によってローマを追われたエウゲニウス 3 世もかくまわれ
ていた。1148 年にはベルナルドゥスは教皇とともにランス教会会議に参加、スコラ学者ギ
ルベルド・デ・ラ・ポリーの学説を攻撃したが、そのころには十字軍の失敗などによって
ベルナルドゥスの影響力はかなり弱まっていた。
1153 年 8 月 21 日、ベルナルドゥス死去。自ら開いたクレルヴォー修道院が最期の地となっ
た。
3.
アリエノール・ダキテーヌとプランタジュネット朝
アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, 1122 年 -
1204 年 4 月 1 日)は、アキテーヌ公ギヨーム 10 世の娘でアキ
テーヌ女公。トルバドゥールで知られるギヨーム 9 世は祖父。
自身もベルナール・ド・ヴァンタドゥールら吟遊詩人を庇護し
て多くの文芸作品を誕生させ、洗練された宮廷文化をフランス
7
イングランドに広めた存在として知られる。はじめフランス王ルイ 7 世の王妃、次いでイ
ングランド王ヘンリー 2 世の王妃。イングランド王リチャード 1 世、ジョンの母。中世盛
期の西欧における最強・最富な女性の一人であった。
アキテーヌは宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心地で、アリエノールは
その雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時としては高い教育を受けて育った。
弟ギヨームが 1130 年に早世したため、アリエ
ノールはアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、
ポワチエ伯領など、フランス全土の 3 分の 1
近くを支配する大領主の女相続人となった。
1137 年、父ギヨーム 10 世が旅先で急死し、遺
言によりアリエノールの後見はフランス王ル
イ 6 世に託された。ルイ 6 世は息子のルイ 7
世とアリエノールをただちに結婚させたのち
死去、父の死から 4 ヶ月足らず、アリエノール
は 15 歳でフランス王妃となった。2 人の間に
はマリー、
アリックスの娘 2 人が生まれたが男
子には恵まれなかった。
1147 年の第 2 回十字軍に、アリエノールは
アキテーヌ軍を引き連れ、
夫ルイ 7 世と共に参
加した。しかし、フランス軍が小アジアでセルジューク朝軍に惨敗した時、アリエノール
が危険な場所で休息したがった為だと非難された。アンティオキアに入り、アリエノール
が叔父のアンティオキア公レーモンを支援し、エデッサ伯領を奪回することを主張したの
に対し、ルイ 7 世はこれに反対し、妃を拘束して、エルサレムに向かった。レーモンは亡
くなり、さらにダマスカスへの攻撃も失敗に終わって、2 人はフランスに帰国した。1152
年に近親婚であるとして婚姻の無効が成立、離婚した。
イングランド王妃としての後半生
離婚のわずか 2 ヶ月後に、アリエノールは 11 歳年下のアンジュー伯・ノルマンディー公ア
ンリと再婚する。ルイ 7 世とは近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁
関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承してヘンリー 2 世となると、フランス
国土の大半がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その 後
14 年間に息子 5 人と娘 3 人を産み、夫と共に領土を統治しアンジュー帝国の拡大に務める
が、やがてヘンリー 2 世に愛人ロザモンドができると、1168 年には自らアキテーヌへと戻
り、別居する。ポワチエのアリエノールの城では吟遊詩人らが集い、ヘンリー 2 世との間
の息子とその妃や婚約者、幼い娘達、さらに前夫ルイ 7 世との間の娘のマリーも訪れるよ
うになり、華やかな宮廷文化が開花した。
1173 年、ヘンリー 2 世の名目上の共同統治者となっていた次男の若ヘンリー王がルイ 7
世の庇護のもと、父の独裁に対して反乱をおこすと、アリエノールは自分の宮廷にいた下
の 2 人の息子、リチャードとジェフリーをただちに兄のもとに向かわせ、さらには自分も
これに加わろうとした。しかしヘンリー 2 世に捕えられ、以降 15 年にわたってイングラン
8
ドのソールズベリーに監禁された。1183 年に若ヘンリーが死去すると、今度はリチャード
を支援した。1189 年のヘンリー 2 世の死去、及びリチャード 1 世の即位と同時に解放され、
息子が第 3 回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治した。
1204 年、80 歳を超える当時としては稀な長寿を全うし、末子のジョンがイングランド王
の時、隠棲先のフォントヴロー修道院で死去。
4. フィリップ 2 世(尊厳王)の改革
そのような中で、12 世紀前半のルイ 6 世の時代から王権の強化が始まり、1180 年、カペ
ー朝の第 7 代国王として即位したフィリップ 2 世(尊厳王)は、巧みな政略結婚や、イン
グランド王室での内部抗争などを利用して国王の権力を強化することに成功した。そして
リチャード 1 世の死後、後を継いだジョン王が暗愚なのを見てノルマンディーやアンジュ
ーを奪い、一時はロンドンまでを支配するなど、領土を大きく拡大した。また、内政にお
いても大学の設置や人材登用など、パリの発展に尽くすなどして、その後におけるフラン
ス王国の基礎を作り上げた。
また、この頃フランス南部で広まっていたアルビジョワ派が異端とされ、アルビジョワ十
字軍が組織された。この異端撲滅闘争は仏王ルイ 9 世の時代までに完了し、結果としてフ
ランス南部にまでフランス王権が伸張することになった。このように、総じて 13 世紀にお
けるフランス王権の強化は、ローマ教皇との連携を前提として進められたものであった。
しかし、第 7 回十字軍・第 8 回十字軍を行ったことはフランス財政に重い負担を与えるこ
とになった。
5. アルビジョワ十字軍と南フランスの制覇
アルビジョア十字軍(アルビジョアじゅうじぐん、フランス語:Croisade des Albigeois,
オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年 - 1229年)は、1209年、南フランスで盛んだ
った異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アル
ビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇
インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。アルビジョワ
十字軍とも。
他の十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により主に
北フランスの諸侯を中心に結成されたが、南フランス諸侯の
反撃の中で次第に領土戦争の色合いが強まり、最終的にはフ
ランス王ルイ8世が主導して王権の南フランスへの伸張に利
用された。独自の文化を誇った南フランスは 20年に渡る戦乱により荒廃し、フランス王の
支配下に入ることにより北フランス文化の流入を受けることになる。また、アルビジョア
十字軍後に異端審問制度が確立した。
アルビジョア十字軍は、レスター伯シモン・ド・モンフォールが総指揮をとって南仏(ラ
ングドック)を制圧した初期( 1209年 - 1215年)、トゥールーズ伯を中心とした南仏諸侯
が反撃した中期(1216年 - 1225年)
、フランス王が総指揮をとり南仏を制圧した終期(1225
年 - 1229年)に分けられる。
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初期
当初インノケンティウス3世は、フランス王フィリップ2世の参加を要請したが、フィリッ
プ2世がイングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世との対立を理由に断ったため、
参加した北仏諸侯の中から、武勇と宗教的情熱
で著名だったレスター伯シモン・ド・モンフォ
ールが教皇特使のアルノー・アモーリと共に指
導者に選ばれた。1209年、北仏を中心に各地か
ら約1万の十字軍がリヨンに集結した。事態の容
易ならざることを悟ったトゥールーズ伯レーモ
ン6世は、アルビ派を規制することを誓い十字軍
に参加した。レーモン6世の甥にあたるカルカソ
ンヌとアルビの領主であるレーモン・ロジェも十字軍との妥協を図ったが拒絶され、やむ
なくカルカソンヌに戻り防衛を準備した。
最初の十字軍の攻撃は7月21日にベジエに対して行われ、翌日にベジエは陥落した。十字
軍は約1万人の住民をアルビ派であるか否かにかかわらず無差別に殺戮した。殺された住民
のうち、アルビ派は実際には約500人に過ぎなかったといわれる。この時、カトリックとア
ルビ派との区別を問われた教皇特使のアルノー・アモーリは「すべてを殺せ。神は己の者
を知りたまう」
(Tuez-les tous, Dieu reconnaîtra les siens.)と叫んだという。
次の標的はカルカソンヌで、堅牢な城壁都市だったが、避難してきた周辺の住民で人口
過密状態となっており、水の手を
絶たれるとわずか1週間で降伏し
た。ここでは虐殺は行われなかっ
たが、住民は街から追放された。
これらの知らせに周辺の都市、村
は恐れをなしたため、十字軍はそ
の後ほとんど抵抗らしい抵抗を受
けず、この年の秋までにアルビを
始めとした周辺の都市、村を制圧していった。 1210年に入って近辺のラストゥール領主ピ
エール・ロジェ・ド・カバルの抵抗を受けたものの、その後も順調に征服地を広げていっ
た。
しかし1211年に入ると、シモン・ド・モンフォールらの十字軍指導者とトゥールーズ伯
らの現地諸侯が対立し、レーモン 6世は再び破門を受けた。これを受け、 6月に入ると十字
軍はトゥールーズを包囲したが、堅固な要塞都市であったトゥールーズは容易には陥落せ
ず、十字軍は包囲を解いて撤退した。勢いづいたレーモン6世は周辺の都市を回復し、翌年
の終わりにはトゥールーズ伯領のほとんどを奪回した。
しかし、1213年にアラゴン王ペドロ2世の援軍を受けて十字軍の篭もるミュレを攻撃した
際に反撃を受け、ペドロ2世が戦死するなどの敗戦により形勢は再び逆転した。1214年にな
ると(この年にブーヴィーヌの戦いでフランス王フィリップ2世が勝利している)レーモン
6世と息子のレーモン7世はイングランドに亡命した。当初の約束どおり占領地は十字軍諸
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侯が分け合い、シモン・ド・モンフォールがトゥールーズ伯、プロヴァンス侯となり、1215
年までにほとんどの征服は完了した。
中期
しかし、現地の住民は北仏の占領者に不満を抱いていたため、1216年にレーモン6世父子が
南仏に戻り旧領の奪回を図ると、旧臣や住民が集まりまたたくまに大勢力となった。戦闘
は一進一退で双方とも都市、村の奪い合いとなったが、1217年にレーモン6世父子はトゥー
ルーズ奪回に成功した。
シモン・ド・モンフォールはすぐにトゥールーズを攻撃したが攻略できず、 1218年の攻
撃中に戦死した。跡は息子のアモーリ・ド・モンフォールが継いだが、十字軍をまとめ切
れず少しずつ占領地を失っていった。1222年にレーモン6世は亡くなるが、既にほとんどの
旧領を回復していた。1224年に息子のレーモン7世がカルカソンヌに入城するとアモーリ・
ド・モンフォールは支配地を捨てて逃走し、フランス王ルイ8世に全ての南仏(ラングドッ
ク)の支配権を譲り渡した。
終期
大義名分を得たルイ8世は、1225年にトゥールーズ伯レーモン7世を再び破門に追い込み、
1226年に新しい十字軍を率いてラングドックからオーベルニュ、さらには当時神聖ローマ
帝国領だったプロヴァンスの征服に乗り出した。戦い疲れた南仏の諸都市はほとんど抵抗
せずに降伏し、神聖ローマ帝国領のアヴィニョンの抵抗はあったが、これも3ヶ月で制圧し
ている。ルイ8世は11月に亡くなるが、跡を継いだルイ 9世(実際は摂政である母ブランシ
ュ)が十字軍を継続し、1228年にはトゥールーズを奪い、1229年にレーモン7世と協定(ル
イ9世の弟アルフォンスとレーモン7世の娘ジャンヌ・ド・トゥールーズとの婚姻及び将来
の相続)を結び、十字軍は終結した。
6.
フィリップ 4 世と教皇庁、そしてテンプル騎士団
14 世紀に入ると、フランス王と教皇の関係は対立へと転じる。財政難の打開を図ったフ
ィリップ 4 世は、国内の聖職者への
課税を図ってローマ教皇との対立を
深めた。1302 年、状況打開を求めた
フィリップは、三部会(フランス初
の身分制議会)を開催して、フラン
ス国内の諸身分から支持を得た。そ
の上で、翌 1303 年にアナーニ事件を
引き起こしてローマ教皇ボニファテ
ィウス 8 世を一時幽閉するなど追い
込んで憤死に至らしめた。代わってフランス人のクレメンス 5 世を教皇に擁立すると、フ
ィリップ 4 世はテンプル騎士団の資産に目をつけ、異端の濡れ衣を着せてこれを解散させ
資産を奪った。
その後、1309 年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転(アヴィニョン捕囚、「教皇
のバビロン捕囚」)させ、フランス王権の教皇に対する優位性を知らしめた。このことに
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よって、のちの宗教改革の時代よりも早く、フランス教会はカトリックの枠内にありなが
らローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げた(ガリカニスム)。
7.
ヴァロワ朝へ
こうしてカペー朝は絶対主義への道筋を開いたが、第 15 代国王シャルル 4 世が 1328 年に
死去すると、直系男児の後継ぎがいなかったことから王朝としては断絶し、ヴァロワ朝に
道を譲った。
フランスの王位継承者は、サリカ法典により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許され
ている。しかし、フィリップ 4 世の娘イザベルとイングランド王エドワード 2 世の間に生
まれたエドワード 3 世がカペー家の相続を主張してフランスへ侵攻し、ここに百年戦争が
勃発することになる。
その後、フランス王位はヴァロワ家、ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系も
カペー家の男系支族である。その意味においては、王政(フランス王国)がフランス革命
によって打倒されるまで、カペー家の血筋が続いている。1814 年以降のブルボン家、オル
レアン家を含めると、その血統はさらに続いているといえる。
また、1204 年のコンスタンティノープル征服後に建てられたラテン帝国の皇帝家、1910
年まで続いたポルトガル王家、14 世紀にナポリ王国・ハンガリー王国・ポーランド王国を
支配したアンジュー=シチリア家もカペー家の分家である。現在でもスペイン王家はブル
ボン家であり、ルクセンブルク大公家は男系ではブルボン家の血筋であるので、その意味
でカペー家はなおも存続しているといえる。
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