眉隠しの麻子 那須の山中で泉鏡花の作品「眉隠しの霊」を読んでいる

眉隠しの麻子
那須の山中で泉鏡花の作品「眉隠しの霊」を読んでいる。那須の冬は寒い。
夏季は観光客でにぎわうが、冬季は厳しい寒さに覆われた山地になる。
「眉隠しの霊」の作品の背景も田舎だが、那須ほどの田舎ではない。時代は、
明治か大正である。寂しさはひとしおだ。
那須は観光地なので、観光客相手の釣堀が多い。鱒の養魚場もある。近くの
牧場に鱒の池がある。青黒い清流が渦巻いている。鱒の黒い陰が激しく泳ぎ回
っている。
登場人物の境は冬の宿で美しい女を見かける。
眉隠し、詰まりは既婚者の女だ。私の祖母は明治の女で、お歯黒をしていた。
眉はそり落としていなかったようだが。
物語の背景は現代ではない。冬の夜、宿の光は貧しい。わずかな光の中に幻
覚ともしれない影に出会う。
「頭からゾッとして、首筋を硬く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ
姿の襟足がスッと白い。
違い棚のわきに、十畳のその辰巳に据えた、姿見に向かった、うしろ姿であ
る。……湯気に山茶花の消れたかと思う、濡れたように、しっとりと身につい
た藍鼠の縞コモンに、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊
れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様が軽く靡いて、片膝をやや浮かした、
つまを友禅がほんのりこぼれる。露の垂りそうな丸髷に、桔梗色のてがらが青
白い。あさぎの長襦袢の裏が艶かしく、からんだ白い手で、刷毛を優しく使い
ながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた」
「眉隠しの霊」
境は化粧する人妻を呆然と見詰めるのだ。女の化粧を眺める。不思議な気持
にさせられるものだ。
「きっと向いて、境を見た瓜実顔は、目ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の
白さは凄いよう。気の篭もった優しい眉の両方を、懐紙でひたと隠して、大き
な瞳でじっと観て、
『……似合いますか。』
と、にっこりした歯が黒い。と、莞爾しながら、褄を合わせざまにすっくり
と立った。顔が鴨居に、すらすらと丈が伸びた。
境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その女の袖で
抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引きくわえられて、畳を
空に釣り上げられたのである」「眉隠しの霊」
私は那須の山奥で、読書をしている。小説を書いている。
「何時から森の中にいるのか。何時まで森にいるのか。定年になるまで寮の管
理人。給料も上がらず、地位も上がらず。飼い殺しの人生。初老になって会社
を辞めたらどうなるのだろう。
トンボの死骸を拾う。蝉の抜け殻を掃き集める。森には生と死がある。私だ
けだ。死んでいるのか生きているのか分からないのは。森の生き物のように無
心に生きることが出来ない。
人間だから。人間をやめたい。そしたら血のうずきはきえるだろうか。少な
くとも女の体は妄想しない。
恋人だった麻子はどうしているのか。社長の息子と結婚して、仲良く暮らし
ているのか。私を裏切って。
野良犬がやってくる。何時死ぬか分からないほどの老犬だ。足を引きずり、
寮の玄関によろよろとやってくる。餌をあげると、がつがつ食い、ふっと居な
くなる。私はその犬になった自分を妄想する。麻子の家の玄関に立つ。麻子が
出てくる。私だと気が付かない。『汚い、哀れな犬』
私は麻子の白い足に噛み付く。麻子は驚き、転ぶだろう。そして、甘噛みの
主を知るだろう。昔の男が帰ってきた」「瓜二つ」
短い物語、
「瓜二つ」を書いている。物語は森に住む男の物語だ。男は不遇で
なければならない。森の孤独や恐ろしさを描くには、捨てられた人間でなけれ
ばならない。
「私は会社員なので休日は休める。とはいっても何時もの日と同じである。住
み込みで働く寮の管理人なのだから。でも、休日は自分に時間を使う。
私は散歩が好きだ。もともとは社交的な人間で人付き合いも多かった。この
地に流刑されてからは人嫌いになった。人が恐ろしくなった。休日はひとりで
過ごしている。
この地は別荘地なので定住者は少ない。ホテル、ペンション、社員寮、など
の施設が殆どである。
晴れた朝、別荘が点在する楢林の小道を散歩するのは良い気持だ。森の中の
別荘を、以前は豊かさの象徴のように考えていた。建物ひとつひとつを見るよ
うになって考えを改めた。無人の家は陰惨なものだ。特に手入れが行き届かな
い建物。老朽化した廃墟のような建物。ひんやりと淋しく、陰鬱である。とて
も、幸せや豊な生活を思い描くことは出来ない。
別荘は草や風や樹木や雨などに出来上がったときから、徐徐に食われはじめ
ている。森に飲み込まれる運命なのだ。無人の家は庇護者を失った家畜のよう
に悲しい悲鳴をあげながら、森に殺されるのだ。
私はそんな思いを抱きながら、別荘地の小道をのろのろと歩き回るのだ。道
に迷った人のように途方にくれた気分で。
私は散歩の途中足を止めた。林の中の小道は何時もの散歩道であるのか。そ
のようでもあり、そのようでもなかった。空は暗かった。夕暮れには間がある
はずだけれど、木々の梢は影絵のようだった。
一軒の別荘の前に立っていた。新しくも無く寂れているともいえない。小さ
な建物である。何度も見ている。暫く眺めていて思い出した。
カーテンが空いている。窓は奥に人影が見えた。いつも無人の別荘。今日は
珍しく人が来ている。
好奇心にかられて、窓を覗き込むようなことをする。もう、人影は無い。錯
覚だったのだろうか。今日はなんだか朝から憂鬱なのだ。
憂鬱から逃れたい。無人の家に人が居る。私は好奇心を作り出し、憂鬱から
逃れようとした。
窓の中に人がいる。取り立てて不思議なことではない。美しい女だったらど
うだろう。女がひとり別荘の小部屋でくつろいでいるのならどうだろう。
退屈して、何かを待っている、としたらどうだろう。妄想はそこまでだった。
窓には人のけはいは消えうせていた。錯覚だったのか。私は再び歩き出した。
雨が降ってきそうだ。
しばらくして私は人影を見る。また、誰かが来ている。あの日からずっと居
るのかもしれない。あの日から私は忘れられない。また、見たいと願っている。
別荘の玄関脇に犬が座り込んでいた。犬の置物である。風雨にさらされて、
薄あおい苔が着いているらしい。首に表札をぶら下げている。
女はしゃがみ込んでいた。小さな花壇の手入れをしていたのだろう。後ろ向
きの丸い腰が若々しい。私は驚愕した。
私は分けのわからないことを言って、女に話し掛けた。女は迷惑そうな顔も
しないで、笑っていた。
『どうぞお上がりください。中に地図がありますから』私は行こうとも思って
いない宿泊施設を訪ねる振りをしていた。
女は誰からもちやほやされるだろう。人に対する警戒心は育っていないのか。
二十代の中頃か。もっと上かもしれないが。無邪気で、笑顔が明るい。
『淋しくありませんかひとりで』と、私は言った。確かめたのだ。
『いいえ。ちっとも』と、女は笑った。
『私はこの近くの寮に勤めています』
『そうですの』と、女は屈託無く言った。私の嘘に気が付いているのか。
『遊びにいらしてください。ひとりで退屈していますから』と、私は帰りがけ
に女を寮に誘った。女は素直に承知した。
私は地図を書いて女に手渡した。地図を書く間、女は身を摺り寄せるように
して私の手元を覗き込んでいた。女の微かな匂いを感じた。
私が女に人目で夢中になったのは、女が麻子に瓜二つだったからだ。双子の
姉妹の片割れ、と言っても不思議ではない。後に女の身上をいろいろ聞いたけ
れど血縁関係は無い。他人の空似だ。
私と女は急速に親しくなった。女はなんのためらいもなく寮に遊びにきた。
女も退屈していたのか。会社の寮に興味を持ったのか。もしかしたら私に好意
を抱いたのかもしれない。
女に身の上を色々尋ねた。女も素直に答えるのだったが、どこか嘘のように
私には思えた。理由は定かでない。素直で明るい性格もそっくりである。私は
麻子に裏切られている。そのためなのだ。麻子そっくりの女を信用できない。
女は寮に手作りのケーキをお土産にやってきた。麻子には無い気使いだ。付
き合ってみると麻子と性格が大分違う。違うことは幸いだった。麻子の変わり
に女を求めるのでは、女がかわいそうだ。
『ありがとう。美味しそうなケーキだ』
私は寮の広いダイニングルームに案内して、お茶を入れた。高価な紅茶を使
用した。会社のものである。
女とはじめて肉体的に接触したのはその場所で、だった。大胆に振舞えた。
女から拒まれないと感じた。女が麻子に似ていた為ばかりではない。女の仕草、
表情の全てが私を誘っていた。
私は女に近づき、体に腕を回し、引き寄せ口付けをした。女も積極的に応え
た。ケーキが口に残っていて二人の口の中で交じり合った。
私は女をテーブルの上に押し倒して体をまさぐり、セックスをした。
牢獄だった寮が二人の愛の砦になった。身を隠し自由に振舞える宮殿のよう
なものだ。私は寮のあらゆる場所で、女を抱いた。
幾ら抱いても飽きることは無かった。女の体は素晴らしく、女の心は極上だ
った。お互いの心と体に溺れた。けれど、女の身上は何一つはっきりしない。
嘘に思える。
女が結婚しているのか、ひとりなのかさえ分からない。どうなのだと問いた
だせば、その度に答えは違う。虐めれば泣くか、笑うか、だけだ。
あることがあって、女は寮でのセックスを嫌がるようになった。突然人が訪
れたことがあった。危うく露見するところだった。女は私を自分の別荘に誘う
のだった。
林の中の古い建物で、正直に言えばあまり好きではない。陰気な感じで暗い
のだ。寮の広い浴場で女と戯れるのは天国だ。しかし、女の家である。行くの
が厭なわけではない。内部に興味が無いわけではない。
女の別荘は生活の匂いがあまり無い。女がひとりで利用しているのか。若い
女がひとりで別荘を持っているのは不自然だ。尋ねると親の遺産なのだと言う。
なるほどそう言うこともあるだろう。
女のベッドは大きく、心地よいものだった。疲れて眠り込むと、何時までも
起き上がる気がしない。女はベッドに食事を運んでくれる。阿片窟の阿片中毒
者のように、私はいつまでも女のベッドで時を過ごす。
それでも、寮の管理人と言う仕事があるので帰らなければならない。つまら
ないことだ。
だが以前に比べたら夢のような生活だ。麻子そっくりの女と一緒に居られる
のだから。
そんな或る日私は会社の同僚から電話を貰った。流刑されてから初めてのこ
とである。そう親しくしていた人間でもない。同僚はかすれた声で言う。
『大変なことが起きたのだ。以前貴方が付き合っていた麻子が事件を起こした
のだ』
『どんな事件を起こしたと言うのかい』
『夫を殺したのだよ』
私は暫く声が出なかった。何故同僚が私に事件を知らせるのか。玉の輿に乗
った麻子がその夫を殺したのか。どんなわけがあって。
私は女にそのことを話す。女は青くなった。
『貴方は寮にいては危ない。麻子が尋ねてくるわ』
あんなに愛しかった麻子に今は会いたいとは思わない。私には女が居る。麻
子などよりよっぽど素敵な。
『どうして、こんな山奥に』
『麻子は警察に追われているわ』
『もう、私とは関係ない人間だよ』
『麻子はそう思っていないわ』
女は恐ろしいことを言う。女に言われればそのような気もする。同僚が電話
してきたのも不自然な気がした。警察に頼まれて私の様子をうかがったのか。
麻子は新婚の夫を殺して逃走している。何故、そんなことになったのか。私
の知っている麻子は人殺しなど出来る人間ではない。わがままな性格だが、人
は良い。とてもそんな恐ろしいことをするはずは無い。しかし、人の心は分か
らない。どんなに恐ろしいものが住んでいるか知れない。夫婦のことは判らな
いとも言う。
男と女のことは分からない。私と女も何故このような関係になったのか分か
らない。女が麻子にそっくりだったからか。女が私に好意を寄せてくれたから
か。山の中の淋しさが女を求めさせたのか。
正体の分からない女を人里は慣れた山の中で抱いている私とは何なのか。
私は寮を閉ざして、早々に女の別荘に逃れた。逃れると言った気持が正直だ
った。理屈ではそんなことは起きない。麻子が会社の寮に逃げ込むことなどな
い。起きないとも限らない。夫を殺し警察に追われ、手配されている。人に顔
をさらしたくないはずだ。山奥の寮には昔の男が一人居る。男はまだ自分を愛
しているはずだ。
そう考えたら麻子は寮に逃げ込むかもしれない。
『もし、その人が現れたら、警察に通報するの』と、女は言う。
『私にはとても出来そうないな』
『今でも愛しているのね』
『それは違うよ。今愛しているのはお前だけさ』
女はすねたように黙っている。私は女に飛びつく。麻子のことで、殺人事件
のことで、気持が高ぶっていた。あの、憎んでいた社長の息子が死んだのだ。
私の人生を葬った男が、葬られたのだ。たとえ麻子が私のところに帰ろうとし
てももう遅い。今度は麻子が私に捨てられるのだ。
私は女を抱えて、寝室に向かった。暗く暖かな、眉のような寝室なのだ。私
は女の口を吸い、ゆっくりと服を剥いでいく。儀式のように確実に。
女は含み笑いをし、手馴れた何時もの調子で私の服を脱がせるのだ。唇は遊
びのよう、に離れたりくっついたりする。熱くなった体の部分をまさぐり合う。
素裸になった私と女はゆっくりと抱き合う。舞踏のように、水の流れのよう
に、音楽のように。
別荘の外は黄昏から、夜になっている。木々は闇の中に沈んでゆく。一寸先
も見えないほどの暗闇が流れ出す。
暗い道を麻子が歩いてくる。こちらに向かって。私の背後に近づいて来る」