障害者のおもい - 長崎ウエスレヤン大学

第 6 章 障害者のおもい
1. 障害者の数
2. 身体障害者の歴史
3. 障害者はなぜ恥じるのか 4.「障害者 」 とはなにか 5. レーナ・マリア 6. 渡部昇一氏と大江健三郎氏
7. 生きるに値しない生命か 8. 牧師の祈り
「週刊文春」19801002
統計調査が行われるようになったのは、ごく最近、「身体障害者福祉法」が施
行された昭和 25 年からと言われる。それ以前の実態は部分的にしか知られて
いない。翌 26 年に身体障害者実態調査が初めて行われた。以来、5 年ごとに行
われてきた。2005 年版、総理府編の「障害者白書」によると、障害者の全体は
654 万人であった。内訳は次のとおりである。
1. 障害者の数
障害者基本法においては、障害者は「身体障害、知的障害または精神障害 ( 以
下「障害者」と総称する ) があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当
な制限をかける者」と定義されている。
身体障害者は 351 万人
知的障害者 45 万人
精神障害者 258 万人
※身体障害の内訳は視覚障害 30 万人、聴覚・言語障害 36 万人、肢体不自由 180
万人となっている。心臓、腎臓、ぼうこう、直腸、呼吸器等内部障害は 86 万人
である。
(「2005 年 障 害 者
白書」内閣府)
重症の心身障害児・者は、およそ 3 万 3 千人いる。正確な数字はプライバシー
にかかわるので調査できないが、一定の発生率を推定して、人口の 0.0275%を
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第 6 章 障害者の思い
掛けると、重症児の推定数がでると、久山療育園理事長川野直人氏はいう。(「春
日東教会説教」40 集 109 頁)。
障害の原因の中には増加しつつある交通事故による後遺症の障害があり、脳
卒中やがんなどの手術の後遺症がある。てんかんなどの持病もそして老齢化時
代の痴呆やアルツハイマーなどによる障害を加えると、その数は驚異的に増え
る。
ちなみに、世界には 4 億 5 千万人の障害者がいるといわれ、国連の資料によ
れば「それぞれの国においても、少なくとも国民の 10 人に 1 人は何らかの機能
障害を持っている」と報告され、この比率をわが国にも適用すると、1 千万人の
障害者がいるとする見方もある。
2. 身体障害者の歴史
国連総会は 1971 年に「精神薄弱者の権利宣言」を、1975 年には「障害者の権
利宣言」を決議し、1981 年を国際障害者年と定めた。
日本で身体障害者のための援護法ができたのは 1949 年「身体障害者福祉法」
であった。島崎光正氏はこの制定を「私のみならず、わが国の障害者にとって
画期的な出来事であった」と言う。身障者は障害者手帳をもらい、法的に身障
者と認められると、鉄道運賃の割引、免税措置、施設入所の援護を受けられる
ようになったことをあげている。
この時から「身体障害者」という言葉が使われるようになったが、それまで
は身障者にたいする呼び名は「不具者」とか「片輪者」であり、いかに身障者
を見ていたか、とりあつかってきたかをあらわしている。
「かたわ」とか「アホ」と言われ、そのなかでもいちばん頭に来るのは「かわ
いそうに」ということばです。と脳性マヒ障害者である中畑勇さんは言う。(「障
害者と差別語」)。「かわいそうにね」をいったん口から出した人の意識の中には、
物事のすべてを優劣でもってはかろうとする、確固とした価値観が存在してい
る、こうした価値観に基づく社会と言うのは、障害者にとっては、少なからず
差別的であるのです、と門脇謙治氏は言う。能力のある障害者は努力して「や
ればできる」という評価を得るが、結局はこうした見方も、努力して何もでき
ない障害者には、「かわいそうに」というレッテルをはることになる。だから、
障害者の側でも、「かわいそうに」に対して、「かわいそうじゃないぞ」と言っ
た後の事が問題になる。( 「障害者と差別語」)
差別的な発言にたいして、マスコミなど糾弾を受けた人たちが「差別用語集」
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第 6 章 障害者の思い
や「禁句集」や「言い変え集」を発行しているが、いくら注意深く表現したと
しても、差別的なニュアンスが込められていることはありうる。障害者の人達
の被差別体験によると「白い目で見られる」「後ろ指をされる」「笑われる」「村
八分」にされるといった、言葉の問題とは関係しないような事柄が多い、と吉
田幾俊氏は言う。(「障害者と差別語」) 差別用語については上記のような微妙
な問題があることを含みつつ、最後に資料として掲載したので参照していただ
きたい。つぎに、日本における障害者の歴史を概観しよう。
1. 古事記の創世神話のなかにイザナギノ命みこととイザナミの命とによって生ま
れた最初の子は 3 年たっても歩けない障害者で、水蛭子ひるこであった。この子
を葦の船に乗せて水に流して遺棄したという。障害をもつ子どもが川や山谷に
捨てられたことを示している。血縁を支配原理とする天皇制に基づき、障害児
を清くないものとする差別の源泉があると言われる。
2. 仏教が伝来すると、障害は因果応報説と結びつけられた。迷信がひろまり、
加持祈祷による治療が盛んになされた。一方、聖徳太子や光明皇后などの仏教
思想に基づく宮廷慈悲が強調された。また行基による仏教的慈善の伝布も伝え
られ、慈悲を受ける孤児や捨て子、貧窮者の中に、障害者が含まれていた。
このような仏教の慈善思想は、法然や親鸞によって、人の平等が説かれ一部改
革が行われた。
3. 豊臣時代、キリシタンが禁じられ、鎖国するまで、西洋医学による病院が建
設され、広く救済事業が行われた
・徳川時代になると庶民の生活は窮乏を増し、堕胎はもとより棄児・子殺しが多
く行われた。
盲人
ざとう
ごぜ
障害者のなかでも盲人は早くから座頭・瞽女となって芸能に従事するものが
じうた
そう
多かった。寛文・元禄・享保時代となると、盲人芸能が盛んになり、地 歌や箏
しんぢ
あんま
で一流をなす者もいた。鍼治・按摩といった医業が盲人の職に加わった。中で
しんぢ
も杉山和一の流れを引く杉山流鍼治学校は有名である。これらはいわゆる徒弟
とうどう
制度をなしその利益を守った。特に座頭仲間である當道座は階級制を設け、官
位に応じて、官金や施物を配当して、座の成員の生活を保障した。これらの中
で一部上層支配層の盲人は、将軍・大名・富商と結びついて、地位を上げ富裕
化した。また、盲人の中には芸能・医業の他に儒学・心学・国学などにも後世
に名を残す人がかなり多く出た。しかし多くの盲人は遊民として社会的地位も
低く、人びとから軽蔑の眼で見られ、下層盲人は大道で芸を売ったり、按摩を
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第 6 章 障害者の思い
業として諸国をわたり歩いた。
寺子屋
江戸中期以後寺小屋が盛んになった。寺小屋の教育は浪人・医者・神官・僧侶・
隠居などがこれにあたったが、中には障害児を積極的に迎えた者もあり、積極
的に用具をそろえ教授法を工夫して教育にあたった者もいた。ろう唖児に対し
て手まね、実物による指導、書字・筆談指導、盲児にたいして凸字の触読指導
をするといった例が伝えられている。 明治期
明治維新に始まる富国強兵による近代化路線は、障害者に対しては消極的で
後の島崎光正氏と水上勉氏の対談にあるように、人間性は経済効率を追求する
かげに追いやられ、その傾向は現在に尾をひいている。
盲官廃止令
1871 年(明治 4 年)に「盲人ノ官職廃止令」が出され、盲人のための當道制
度は終わった。盲人の保護は、天皇の一族から盲人が出ると、寺を建てそこで
必要な生活費を与えたことに始まる。仁明天皇(833-850 年)は第四子人康が失
明すると、山科郷に隠退させた。人康はそこで盲人を集めて音楽を教え、盲人
とうどう
達に生活の道を与えた。こうして盲人の互助組織「當道」が始まった。
三条天皇は(1011 年)寛弘 8 年、36 才で天皇に位に就いた。失明して位を譲
り引退した。5 年の在位だった。こうしたことから、盲人については国が財政的
援助を含む特別な配慮をし、當道の制度は、いわば治外法権的な自治組織をな
して、盲人救済の意味では理想的であり、わが国独特のもので世界に類を見な
いとも言われる。明治政府がこの制度を全廃したのは、盲人の中に高利貸など
で法外の財産をもって他を支配する特権階級が出現し、社会問題化したからと
言われる。盲人の特別待遇廃止は、盲人の職を針灸導引などにせばめた。生き
る道を失った盲人の悲劇が続出した。最近は晴眼者が同じ国家試験によって進
出してきたので盲人の自立が大変難しくなってきたことである。
医者でもある宣教師たちによる事業
障害者援助
1874 年(明治 7 年)極貧で独身の者が廃疾のため産業を営むことができない
者には一年に米 1 石 8 斗を支給するという救護法が施行された。これが後の障
害者援助の基準となった。富国強兵による国家体制の確立期には「女工哀史」
にみられるように、非人間的な扱いによって多くの死者、病者、障害者を生み
出した。また日清、日露戦争による傷病者が多い。
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第 6 章 障害者の思い
次の水上勉氏と島崎光正氏の対談は日本で障害者をどのように受けとめてき
たか、障害者はなぜ恥じるのかと島崎氏は言う。
障害者はなぜ恥じるのか
日本の受け皿
島崎-たしかに、制度的な件では、福祉というものは、私の経験では、大変な
前進をしておりますが、根本にある精神的な、社会の身障者というか。老人、
高齢の方にも通じる問題ですが、この受け皿というものは、まだ、日本では、
はなはだ不十分な面があるように思います。そういった精神風土の面で、先生が、
日頃お感じになっておられるのはどのような点でしょうか。
水上-結局心の問題でしょう。・・・・てきぱき人より早く処理することが、知
能のあるように見える。それがまた、優だということ。劣の中にもユニークな
感性があり、早く歩くより、立ち止まることの価値観みたいなものが、いつか
らなくなったのか知りませんが、教育界にも、そういうことがいえて、今反省
されているように聞きますが、まだまだ弱肉強食でしょう。・・・
なぜ恥じるのか 島崎-それから、日本人が障害を恥じる、という精神構造があるのではないか
と思うのですが。田舎なんかに行きますと、障害者を家の隅にとじこめ、かくまっ
てしまう。かっこうが良いとか悪いとかいうことで、人間の外側の世界で、人
間そのものを判断して、結局先ほどの富国強兵とか、あるいは、経済成長にど
れだけ効率的であるか、というところに人間の基準をおいてしまう。それに添
わないものは、非常に恥ずべき存在であるというものが、格好の善し悪しの美
的感覚とからみあって、日本人の間に、非常に障害者を恥じるという精神構造
が生じているのではないでしょうか。
水上-そうですね。多少の偏見を承知で言えば、仏教の罪だとも思いますね。
にほんりょういき
平安時代の本で、『日本霊異記』がありますが、これは、景戒という坊様の著で
すね。行基菩薩という人が、偉い人であったと説く。仏様を信じるようになれ
ば幸せになれる。いい人間になれる、という説教文学ですが、大半は因果応報
物語で、経本を焼いたり、鳥を殺したため、牛になったとか、猿になったとか、
目がつぶれてしまうとか、そういうことが書かれてあります。これが日本の古
典文学です(岩波の古典文学大系にも、入っておりますが)。お坊様たちが、盲
者を差別し、恥ずべきものとして教育していくわけですね。
・・・元来、仏教は、
まったく見捨てられた人、誰からも、凡庸なわれわれからも、見捨てられた人
に降りていく思想だったと思うんです。そういうことは、たくさんにお経にも
書かれてある。・・・
131
第 6 章 障害者の思い
島崎-私も障害者の一人ですが、やはり、人間というものは、たとえ外の世界が、
かっこ良いか悪いかそれはともかくとして、内にどういうものを持っているか
ということ、それを本人はもちろんよく認識し、見つめ、お互いに認めあうと
ころから、今、先生と話し合っているような、日本の精神風土のいろいろな空
白の問題も、だんだん解きほぐれていくのではないだろうか。ぼくは、そうい
う期待をもっているのですが・・・。
世の光として 島崎-私は、ふだん私どものような存在を、車のブレーキにたとえまして、確
かに、ブレーキは歯止めをかけるわけですから、非常にマイナスの面に受け取
られがちです。しかし、車に乗っている人は、よくわかりますけれど、いちば
ん車で大事なものは、ブレーキなんですね。ブレーキが故障した時は、本当に困っ
てしまうわけです。ですから、私ども障害者であるとか、あるいは高齢者であ
るということにも通じるとおもいますが、そいうい存在が社会のブレーキになっ
ている。こういう時に、足元を見つめようじゃないかと、そういう日本人に対
する何か反省と言いましょうか、そういう照り返していくものを、私どもの群
れが持っているのではないだろうかと。
水上-いや、そういうお話よくわかります。それは、健常者のばく進をブレー
キで止める。そのブレーキ替わりだとおっしゃることも、よくわかるのですが、
私はむしろ価値観の転換、健常者の美学を、征服する力というものを、われわ
れは持っているのだと。そういうものを、研ぎすまして、そして万人に感動を
与えること、片隅に追いやられることではなくて、もっと市民権をもつべきも
のだということの戦いを・・・。たとえばですね、「奇跡の人」の映画は、今日
の映画産業の中で、長生きしていくだろうと思う。これは、やはり、こういっ
たテーマは、隅から光をさし出しているから、それが長持ちするのであると思
います。そのように、やはり自信を持って、もっと凡庸とは思わないで、自分
こそ世の光なんだと。ブレーキじゃない。むしろ目つぶしをくれる位の力を持っ
ている、という時代に入っていかないと、いつも、ブレーキ替わりに置かれた
のでは、私は、ちょっとつらいと思うのですね。(「傷める葦を折ることなく」)
キリスト教と身障者差別
みずから障害をもつ詩人島崎光正氏は、教会における障害者対策の遅れを指
摘して次のように言う。
教会における障害者の存在が、聖書に基づき、あらたな位置づけがなさ
132
第 6 章 障害者の思い
れなくてはならない宣教史上の地点に到っているのではなかろうか。その意
味で、国際障害者年が国連であらかじめ決められた 1976 年に 1 年先だった、
75 年に、アフリカのナイロビで開かれた第 5 回世界教会協議会 (WCC) における
「『障害者と教会』神の家族-との総体的一致」と題する宣言は大切であると
思われる。
その冒頭は、次のようにして始められている。
教会は<障害者>と<健常者>の両者が一体のものである。教会の本質に
おいて両者は真に一体である。さらに、教会は他の人々との総体的一致を
求めて、すべての人々に開かれていなければならない。しかし、実際には健
常者の教会員はその態度および行動を強調するあまり、精神的ないし身体的
障害をもつ人々を片隅へおしやり、時には除け者にしたりする。障害をもつ
人々は、キリストの体につらなる人間家族に欠くことのできない一員とし
てよりも、奉仕を受ける弱い者として扱われている。教会では、障害をもつ
人々の独自な貢献が無視されていると言えよう」。質的な転換はここから始
まらなくてはならないが、それは、聖書の原点に帰ることを意味するであ
ろう。
(「傷める葦を折ることなく」13,14 頁 )
そこで、九州は福岡・長崎に縁の深い島崎氏の、生い立ちとその経験につい
て語る、ことばに耳を傾けよう。
私は・・・福岡市内で誕生いたしました。ところが、当時父は九大の医
学部を出てまだ日の浅い医者でしたが、初めての子どもの私が生まれて
ちょうどひと月目に、患者から感染したチブスがもとで、あえなく世を
去りました。33 歳でした。母は長崎から嫁いできておりましたが、事情
がありまして実家に残したまま、私は父の遺骨と一緒に、彼の故郷であ
ります信州の松本の近くの田舎に帰り、主に祖父母に養育されることに
なりました。・・・・昔は家督相続ということがありまして、私の父は
もともと農家の長男、私はまたその長男ということで、どうしても信州
の田舎の家を継いでゆかなくてはならない。しかし、23 歳の夫を亡くし
た若い都会育ちの母が、はるばると信州まで私についていくことにはた
めらいのある、踏み切れない瀬戸際があった。それで彼女は父が亡く
なった時に、長崎の実家に戻ったのだと思います。
それから半年後、大正 9 年の 5 月のことです。この母は実家の母、私にとり
ましては母方の祖母につれられて、長崎からはるばると信州にやってくる 133
第 6 章 障害者の思い
のです。なくなった主人の墓参りを兼ね、半年ぶりにわが子に出会おうと
するわけです。私の育った家の場所は、長野県の松本の隣に塩尻という市
があり、今はそこに編入されたが、昔は片丘村と申しておりました。国鉄
の塩尻駅から約 4 キロ、文字どおり片丘の地形をなした山麓の片田舎であ
ります。
ここに母はやってまいりまして、半年ぶりに私と出会い、2 晩か 3 晩、こ
の片丘村の家で過ごしたらしいです。お腹を痛めたわが子に、しかも片親
となったわが子に、半年ぶりに出会ったという感慨は、ただならぬものが
あっただろうと、私は思います。しかし、2.3 日の時を過ごしまして、母
の早苗は、再びわが子をおき長崎に帰って行かなければなりませんでした。
交通不便な 当時の信州から九州に帰るという距離感覚は、今で申すと、
おそらく遠いヨーロッパの果てにかえってゆくに等しいものではなかった
でしょうか。しかし、そこへ発ってゆかなくてはならない。私の村から、
当時いちばん近かった駅が、国鉄の塩尻駅であります。ここで汽車に乗り
ますと、木曽の谷に中央線は入りまして、やがて名古屋に抜けて東海道に
つながり、さらに山陽線につながって九州に戻ってゆきます。この塩尻の
駅で、母はわが子をおいた片丘村に別れを告げようとした時、彼女は激し
く心を取り乱しました。驚いたお祖母さんは発車まぎわの汽車から彼女を
いったん降ろし、駅前にあった「ますや旅館」に取り乱した母をつれてま
いります。そして、昔で申しますと一里離れた私の家に急を知らせた電報
が届き、私を育てた父方のお祖母さんが、私を抱いて人力車に乗り、ます
や旅館にかけつけるわけです。
母は取り乱しながらも、旅館の二階で私を抱き、大変喜んだそうです。
その後、どのようにして母をなだめすかし、私はまた再び片丘村に祖母に
抱かれて帰り、母は九州に戻ったのか、その辺のことはわかりません。現
実は生木を裂くようにしながら、この母と子は永遠に別れを告げました。
母は九州に戻り、父が医局におりました九大医学部の精神科に入院いた
しまして、以来 20 年間ここを出ることがありませんでした。
私にこうした母のことが、初めて教えられましたのは、小学校 5 年生の
時でありました。私を育てたお祖母さんは、もう物事をよくわきまえ、気
持ちの処理のつく年頃と判断をしたのだと思いますが、その実状を私に打
ち明けてくれたのであります。その時の私の衝撃を伴った感慨と申しま
しょうか、それは小 学生なりに、母に対して大変痛ましいという思いと
同時に、自分のためにお母さんはこのような境涯に入り、今もなお、福岡
の病院にいるのかと思いますと、非常な感謝の思いを抱いたのでありま
134
第 6 章 障害者の思い
す。・・・・福岡の病院にいたまま外へ一歩も出ることなく、私の 20 歳の
時に亡くなりました。・・・こういう一人の女性によって誕生を与えられ、
私はこの世にはべっております。 (「傷める葦を折ることなく」)
3.「障害者」とはなにか 差し障りがあって害があるを意味する「障害」という言葉はどこから来たの
だろうか。また障害者とよばれる本人はどう思われるだろうか。議論は始まっ
たばかりである。
国際障害者年行動計画に示されていることは。三つの観点を示している。
1. 個人の病気から生ずる第一次的、機能・形態の障害を意味する
inpairment インペアメント
2. 個人の病気に起因する第二次的な支障、能力の障害 disability ディスアビリティ
3. 第三次的な支障、能力障害の結果社会的不利を負うこと、
handycap ハンディキャップ
この理解の特徴は、障害を持つ人が社会生活を営もうとする時に起こる三つの
側面を明らかにしていることである。1. インペアメントとは身体の一部に障害
があっても、教育や訓練により、本人の意欲次第で、生活でき就業ができる。
2. ディスアビリティとは老化して視力が弱ると眼鏡で補うというように、能力
の欠如を互助していく。思いやりといったレベルといえる。3. ハンディキャッ
プは障害の結果に生じる社会生活上にうける不利であり、交通料金の割引、ト
イレの改善、雇用のための公的援助等が示唆されている。
135
第 6 章 障害者の思い
レーナ・マリアは言う
レーナ・マリア・ヨハンソンは 1968 年 9 月 28 日、ロルフ・
エバート・ヨハンソンとアンナ・エリザベス・ヨハンソンの
長女として、スウェーデン中南部の村ハーボに生まれました
が、両腕と左脚が右脚の半分の長さしかないという原因不明
の障害を負う。先天的に身体に障害を持つ子どものための機
能訓練に通い、週に一回は家族で水泳教室に通った。また、
教会の子ども聖歌隊に加わる。一般の小・中学校に通った。
レーナ・マリア
1986 年 4 月、全国障害者水泳選千権に出場し、スウェーデン
「マイライフ」より
代表選手になる。
同年、8 月にはスウェーデンで開催された世界障害者水泳選手権に出場。50 メー
トル自由形で金メダル、100 メートル自由形で鋼メダル獲得。19 歳、ストック
ホルム音楽大学現代音楽科に入学。パリで開催された欧州障害者水泳選手権で 4
つの金メダルを獲得。大学の仲間たちとゴスペルグループ「マスターズ・ヴォ
イス」を結成。20 歳のとき、ソウルで開催されたパラリンピックに出場、25 メー
トル背泳ぎで 4 位、25 メートル自由形で 5 位、25 メートル平泳ざで 6 位に人賞。
その帰途、神戸の宣教師を訪ねて初来日。 彼女のドキュメンタリー番組「目
標に向かって」(スウェーデン国営テレビ)が高視聴率を記録、欧州各国でも放
映される。1991 年 23 歳、ストックホルム音楽大学卒業。テレビ朝日「ニュース
ステーション」で 3 回にわたり彼女の生活や賛美が紹介され、大きな反響を呼ぶ。
レーナ・マリアは障害があるからかわいそうだとか、うまれると不幸だという
考えにたいして、次のように言う。
医療機器が発達して、しばらく前から胎児の性別や異常を調べることがで
きるようになりました。異常や障害を発見して、予防できるようになった
ことはすばらしいのですが、中には妊娠中絶をしてしまう人もいると聞き
ます。恐ろしい風潮だと思います。
人間が人間に対して、「あなたは生きる価値がない」と断定することは、
許されてないと思うのです。それは、生命をお造りになった神さまの領域
に踏み込むことではないでしょうか。必要でない人間を、神さまはお造り
になりません。どんなに障害が重くても、神さまは生きる権利を平等に与
えておられる、と言いたいです。ストックホルムでは最近、教会が中心に
なって妊娠中絶に反対するデモが行なわれ、7 千人近い人々が参加しました。
法律や政治のことはよくわかりませんが、今は以前と比べれば、障害者の 136
第 6 章 障害者の思い
人権が尊重され、必要な福祉施策がなされるようになってきたのだそうです。
それでも、まだ残っているいろいろな制約を破っていかなければと思います。
時には私も、障害者の人権を訴える集会で歌うことがあります。
神さまは、私を障害者として造られたわけでなく、別の原因でこういう体
になったのだと思います。それに、神さまは全能ですから、私の手や足を造
り変えることもおできになるはずです。でもそうなさらず、私に障害を残し
ておかれるのは、人間にとって第一に大切なのは、体の健康よりも、たまし
いの健康であることを明らかにするためだと思っています。私はそんな神さ
まを称えるために、よくコンサートで旧約聖書から作曲した「詩篇 23 篇」を
歌います。「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません」
聞き手は、「この人は両手がないのに、あんなに喜んで「私は乏しいことが
ありません」と歌っていると驚くかもしれまん。私は心からこの歌を歌うこ
とができます。神様は私に、手の代わりに心の中に豊かさを与え、私が自分
自身を愛せるようにしてくださいました。だから私には、このような体で
生きる事の意味を、いつも見つけるゆとりがあるのです。 では、障害をもって生まれたわが子を、両親はどのように受け止めたのだ
ろうか。 「レーナは神様に、生きる力と喜びを注がれた子」と母アンナ・エ
リザベス・ヨハンソンは言う。
長女レーナが生まれた時、医師から、「手足だけでなく内臓にも先天的な欠
陥があるかもしれず、育たないだろう」と言われ、私たち夫婦は 3 日間、子
どもと対面させてもらえませんでした。幸い、内臓のほうは何でもなかった
のですが。医師は、「この子を、身体障害児を訓練しながら育てている病院に
預かってもらってはどうか」と勧めました。しかし私たちは、自分たちの手
で育てようと決心したのです。それは、生まれたばかりのわが子の輝くよう
なひとみと笑顔に心動かされたためだけではありません。夫は、「たとえ腕が
なかろうが、人には家族が必要だ」と言いました。
レーナの症状は、サリドマイド児のそれによく似ていました。でも私は妊娠
中、その原因となる薬を服用したわけでもないのです。食物か農薬の影響に
よるものではないかとか、さまざまな意見が出されましたが、本当の原因は
今もわかっていません。それでも、この子がこういう体になったのは、私た
ちのせいではないかと何度も自分を責めました。レーナの体について、親戚
や友人、職場の人たちからきかれるたびに説明しなければならないのが大変
でした。「どうしてよりによって、私たちにだけこういう子どもをお与えに
なったのですか」と、何度神さまに問いかけ、ぐちをこぼしたことでしょう。
神さまが善意と愛に満ちたお方であることを疑うつもりはなかったのです
137
第 6 章 障害者の思い
が、当時はレーナのいのちを造られた神さまのご計画を理解することはできま
せんでした。
(「マイ・ライフ」)
両手と片足の半分がないにもかかわらず、優れた音楽的才能を発揮し、世界
の舞台に立って神を賛美するレーナ・マリアは多くの人に感動を与えている。
とくに障害を持つ人とその家庭には大きな希望を与えている。彼女は車を運転
する。1 月に 4 万キロを走るという。大型トラックを動かしてみたいとか、バス
の運転手をしてみたいと言い、かなえられれば結婚したいと、できれはハンサ
ムな人の方がよいともいう希望を隠したりしない。またよき伴侶と出会い結婚
をしている。
自分の障害を決してマイナスととらえず、神様が「私に障害を残しておかれ
るのは、人間にとって第一に大切なのは、体の健康よりも、たましいの健康で
あることを明らかにするためだと思っています」と言う。彼女の、生きる意義
と目的と、そのような自分の人生にたいする感謝を、体は健康で満足であっても、
心は病んでいる多くの人の不安と虚無感と比べると、どうだろうか。本人が言っ
ているように、かわいそうだから生まれないがよかったとか、生まれても死ん
でいた方がよかったという論理はくずれてしまうのである。
渡部昇一氏と大江健三郎氏
1980 年、「週刊新潮」に血友病の息子の治療に多額の医療費がかかり、それが
生活保護家庭の子であると批判する記事が掲載された。この記事を読んだ渡部
昇一氏(当時上智大学教授)は同年 10 月 2 日の「週刊文春」に、この夫婦を名
指しで、遺伝病の保因者であると分かっているのに次の子を生んだと非難し、
「現
在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは謹んだ方が
人間の尊厳にふさわしいものだと思う」と言った。
これに対し、渡部氏に批判され、「人間の尊厳」にふさわしくないといわれ、
人権を侵害された当事者は「まるでヒトラー礼賛」と反論している。(「朝日新聞」
10 月 15 日朝刊社会面)
きだみつしろう
この問題について、木田盈四郎氏は遺伝学の立場から、病気に、良い病気と
か悪い病気というものはないと、渡部氏を次のように批判する。
「現在では、遺伝病を含めて、すべての病気には良い病気も悪い病気もないこと、
つまり、病気には人々に与える苦痛の程度やどんな部位にどんな苦痛を与える
かによる種類があるだけで、それにはもちろん、その人が良い人か悪い人かに
はまったく無関係であることが、当然のこととして理解されるようになった(し
138
第 6 章 障害者の思い
かしまだ、あとで述べるように、良い遺伝病とか悪い遺伝病とかいう考えが、
亡霊のように姿をあらわしたりすることもある)」(「先天異常の医学」)
さて、大江健三郎氏には光(ひかる)さんという障害を持つ子供がいて、光
さんはピアノ曲を作曲し、2 つのCDを発表している。モーツアルトの曲に似た、
すみきった、光さんの音楽を聞いてもらいたい。光さんは生まれたとき、頭に
大きなこぶがあって、頭が 2 つあるように見えた。手術をすれば命は助かるが、
障害が残る可能性がある。大学病院の先生は「手術をすれば命を助けることは
できる。そこできみの本心はどうだ、この子どもを引き受けるのか、それとも
引き受けないのか」といわれた。大江氏は手術をしていただき、重い障害が残っ
たが、「いちばん大切な選択をした。確かに大切な方向を選びとったと思う」と
述べている。
これは 1981 年北海道で開かれた肢体不自由児者福祉大会で「『優しさ』を不
可能にするものと闘うために―障害児と私」と題してなされた講演である。こ
の講演で大江氏は渡部昇一氏の発言を次のように批判している。以下しばらく
大江氏の講演内容を紹介したい。
障害児の家庭の父親にとって、あるいは母親にとって、もっとも気になる
問題は、障害児が大切だということは、よく分かっているが、客観的に、本
当に障害児というものが、社会にとって積極的に必要だろうか。自分には分
かっていても、第 3 者に向かって、また渡部昇一氏のような意見のもちぬし
にたいして、障害児というものは積極的に重要なんだとはっきり言えるだろう
か?大江氏はこのように問い、次のように答える。「障害児がいるということ
は、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ、そこに重
要な意味がある。
・・・・たとえば、人間が魂を洗うということをいいます。
自分の精神を洗い清める、洗いなおすということの、その手がかりを障害
児はなす。」・・・「人間の根本問題を考えてゆけば、しかも自分の問題として
考えてゆけばはっきりする。親としてはっきりしていること、兄弟として はっきりしていることを、同じ社会の人間として、自分の問題だと、想像力
を持って考えればいい。障害児がいることは、いろんなことを人間について
教えてくれる大切な契機なのだ。そこに重要な意味がある。そしてともに生
きる経験を大切にし、
「優しさを不可能にするものと闘うこと」だ。「私自身、
優しさを妨害するもの、やさしさを不可能にするものと闘う、それらの人た
ちを発見してきた
139
第 6 章 障害者の思い
障害者の存在価値の正当性をつよく主張する人は多くない。そのなかから、
レーナ・マリヤと大江健三郎のことばを聞いてきた。私達はその「優しさ」と
いう経験を不可能にする者は誰か。また可能にする者は誰かと問うている。こ
の議論をもう少しつづけたい。
渡部昇一は戦後ドイツがヨーロッパで活力ある優秀な国に復興したのは、ヒ
トラーが遺伝病患者を処理していたからだという意見を、次のように記してい
る。彼がドイツに留学しているたとき
「大声ではいえないことだが」とドイツ人の医学生が私に言った。もう 30 年
もまえのことになる。だいたいの話の趣旨は次のようなものであった。「この
前の大戦でドイツの強健な青年の多くが戦場で失われた。この大量の血液の
損失は民族の運命にかかわるものであった。しかし西ドイツは敏速に復興し、
ヨーロッパでも最も活力がある国である。その理由は東ドイツから大量の青
少年が流れ込んでいることと、ヒトラーが遺伝的に欠陥ある者たちやジプ
シーを全部処理しておいてくれたためである」
(「週刊文春」19801002)
この見解にたいして木田氏は 2 つの点から渡部氏を批判する。
①「渡部氏がこのような文章を書いた意図は、国民の将来を考えているのでは
なくて、たかだか、将来の経済的負担を問題にしているだけなのだ」。②また「優
生政策を実際に行う場合には、すでにジーメンスやカレルが(そして不思議な
ことに渡部氏自身も)述べているように、患者やその周辺の人々の心からの同
意がなけはればならぬということである。その点、この渡部氏のエッセイは大
西巨人氏をはじめとする多くの人々の反感をかったのであるから失格である」。
「そうした人々の批判を謙虚に受けとめるこのできないものにこの問
題を論じる資格はない」と手厳しい批判が加えられている。(「先天異常の医学」
203)
ここで大西巨人氏という個人名がでたので、もう少し詳細を記したい。
19880 年「週刊新潮」に「1 か月の医療費 1500 万円の『生活保護家庭』大西
巨人家の「神聖悲劇」という記事がでた。この記事に触れて、渡部氏が「週刊文春」
に寄稿したものである。渡部氏は次のように書いた。
生活保護家庭である作家大西巨人氏の家庭で 1 か月の医療扶助費が 1500 万
円、同氏は家賃 7 万円の借家に住み、公営住宅への移転も拒絶している。
「遺伝病であり不治の病である血友病の子供を生んだなら第 2 子はあきらめる
というのが多くの人の取っている道である。大西氏はあえて次の子を持った
140
第 6 章 障害者の思い
のである。そのお子さんも血友病でテンカン症状があると報じられている。
すでに生まれた子供のために、1 月 1500 万円もの治療費を税金から使うとい
うのは、日本の富裕度と文明度を示すものとして、むしろ慶祝すべきことが
らである。既に生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と
かわらない、というのが私の生命観である。しかし未然に避けるものは避け
るようにするのは、理性のある人間として社会に対する神聖な義務である。
現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもをつくるような試みは慎ん
だ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う・・・」 なお、生活保護を受けている家庭なのに、1 か月 1500 万円の治療費が「納
税者の負担によって支えられている福祉天国が、現在の状態で続いていった
ら、いつの日かパンクする」と結論する渡部氏のセンセーショナルなとりあげ
かたであるが、この治療費は大西巨人氏の次男野人氏が右尻の筋肉内にできた
うずらのたまご
「鳶卵大の肉塊」を除去するために、1980 年に某大学病院に入院して手術した時
の費用であって、この費用が仮に高額だとしても、それは大西氏が批判される
べき問題ではなく、医療体制全体から論じられねばならぬことであり、週刊誌
が問題をすり変えて弱者を個人攻撃し、大学教授がこれに同調して患者の人権
を否定するような風潮があると木田氏は指摘している。また、木田氏は渡部氏
の立場を「考えあぐねた」と言っている。
私達はこのようなテーマを追求するとき、なによりも障害を負って生まれて
きた当事者また、その家族の言葉を第一のテキストにしなければらない。
その思いはレーナ・マリヤの生き様によって、ますます強くされる。また第
一子が障害児であって、次の子をどうするかどうかという時、大江氏が逡巡し
た思いを聞くと、何が大事かを示されている。大江氏は次の子を設けようとし
たとき、どんなに考えたか。妻はどうだったか。
最初の赤ちゃんに、どういう理由かわからないけれども障害があった。そし
てつぎにもう一人子どもを生むとき、同じ障害がないという保証はまったく
ないのですから、心配だったと思うのです。一度だけ私にそのことを彼女が
相談したこともありました。私は赤ちゃんを生んでもらいたいとおもいまし
たけれども、彼女を励ますとして、その励ます言葉がうまくでてこない。同
じ不安は私にもあるのです。・・・。
大江氏は渡部昇一氏に対して、一つだけ批判を加えている。それは渡部氏の
141
第 6 章 障害者の思い
知人でガラス箱にいれて育てなければならない子供が生まれたとき、その子供
が身体障害者になるかも知れないということで、ガラス箱に入れることを断り、
その赤ちゃんを死なせた。それは「勇気あること」と賞賛している事柄につい
てである。まず 第一に、ガラス箱に入れた子がすべて障害児に育つときまっ
ていない。正常に育つ子でもはじめガラス箱にいれる例は日常的にある。あた
りまえの手当であって、それだけで、それを断るということは、「殺人」であ
る。若いお母さんで、ちょっとしたことに動揺して退行現象をおこしたのでは
ないかと。ちょっとしたことに絶望して子供を殺してしまおうとするのは、た
だ自分を守ろうとするエゴではないか。そういう若いお母さんがいてもしょう
がないことだが、大学病院の医師が共犯になってよいものか。それを勇気ある、
社会に対して責任を取る行為をしたと賞賛する渡部氏の意見は正しいだろうか。
(「同書」86.87)
生きるに値しない生命か
先に述べた優生学がどのように生まれ、実際に応用されたか。以下、西南学
院大学教授河島幸夫氏の「戦争・ナチズム・教会」に導かれたいと思う。河島
氏は法制史の立場から、ヒトラーによって組織的に行われ、約 20 万人の心身障
害者を殺害した「安楽死作戦」がどのように法制化されたかを検証している ヒトラーは政権を奪取した半年後、1933 年 7 月 14 日に、心身に障害がある者
に断種することを規定した「遺伝病子孫予防法」、即ち「断種法」を制定した。
これは男性にたいする措置であるが、さらにこの法は何回も改悪され、女性に
たいしても「生きるに値せぬ生命」を生まれさせない人口妊娠中絶を強制する
法にもなった。この思想の根底にはダーウィンによって提唱された進化論が流
れている。進化論によると《多くの生物が「生存競争」を行い、自然環境に適
応した有能なものだけが生き残り、適応し得なかったものは「自然淘汰」によっ
て取り除かれ、やがて死滅する。
・・・さまざまな生物はこうしたプロセスを経て、
下等な段階から高高等な段階へと進化してきた》。ダーウィンはこの理論を生物
の進化に関して主張したのであるが、後の人たちはそれを改作し、人間社会や
民族に適応する社会進化論を生み、優生学すなわち民族衛生学に至る流れをつ
くった。
社会進化論は、優秀な人間をふやし、劣弱な人間を減らさなければならない
とする。遺伝を重視し、劣悪な遺伝をなくすために、不治の病を持つ人の断種
また不妊手術、そして安楽死を奨励するようになった。こうした社会進化論は
万人の生命の平等と尊厳を説くヒューマニズムに敵対し、キリスト教の愛の実
142
第 6 章 障害者の思い
践を軽蔑する。
断種法によって、1934 年から 1945 年までの 8 年間に約 50 万人の対象者の中
から 35 万人が断種された。これは当時のドイツの全人口のほぼ 200 人に一人の
割合であった。また約 20 万人の心身障害者が「生きるに値しない生命」として
安楽死された。この殺害のために効率を追求したチクロンBが開発使用された。
この法について、ドイツ全人口の 3 分の 2 を占めるプロテスタント教会は始
め反対の立場をとっていたが、ナチの力に屈し原則的な肯定の立場をとった。
カトリック教会は、人間の生命は神によって与えられたものであり、それに介
入することを否定する立場を明らかにしていた。すなわち「為政者はその国民
の身体にたいして何等の直接的権利を持たない。」
河島氏は、安楽死作戦に抵抗し、患者の大部分をナチに抵抗し、殺害から患
者を守ることに成功したまれな例として「施設ベーテル」を次のように紹介し
ている。
べ―テルはドイツ北部ヴェストファーレン地方の都市ビーレフェルトの郊外
にあり、広大な敷地に、1976 年現在約 5 千人の患者・収容者と、約 5 千人の職
員とをかかえるドイツ最大の医療・福祉・教育施設であり、その名はへブル語
の BETH-EL(神の家)に由来する(創世記 28:10 ~ 22)。
ベーテルは 1867 年にてんかんの子供たちを預かる施設として創設された。
1872 年、ボーデルシュヴィンク牧師が初代施設長として招かれてから、大きな
発展をとげた。
・・・1925 年、入院患者・収容者数は約 3 千人と見られる。このベー
テルはプロテスタント教会の有志がつくった民間の医療・福祉・教育施設であ
る。・・・・・ヒトラーの《安楽死命令》に対して施設長ボーデルシュヴィング
を中心としたベーテルは抵抗し、「一人の患者もナチスの魔手に渡さなかった唯
一の施設」といわれる。(「戦争・ナチズム・教会」) ヒトラーの「安楽死命令書」は秘密とされ、公示されることはなかった。立
法化によって逆にヒトラーの世界的非難が起こることを避けていたのである。
では「生きるに値しない生命」はどのようにして安楽死を実行されていっただ
ろうか。
1939 年ドイツ内務省は、全国の病院、療養所等に対して、患者の実態「調査
用紙」を配布し、患者の氏名、生年月日、症状を詳しく記入することを求めた。
そして精神分裂病、てんかん、老人性疾患、不治の麻痺、梅毒性患者、精神薄弱、
脳炎、ハンチントン舞踏病、神経系の末期疾患の区別、5 年以上施設にいるもの、
犯罪歴のある精神病者、ドイツ国籍のない者の人種・国籍を記入させた。
調査書を見た多くの人は、これを単なる統計調査と思った。ほとんどの施設
143
第 6 章 障害者の思い
は何の疑問も感じることなく、調査に応じた。やがて帝国防衛委員会は、各施
設に何人かの患者を指名して、指定した特別収容施設に移送する通達を出した。
移送の数週間後、家族の元に死亡通知がおくられてくるようになった。
これら一連の企ての本質を早く見抜いて対応したのはベーテルのパウル・ゲル
ハルト・ブラウネである。
かれは 25 人の精神薄弱の女性を移送するようにと命じられたが、灰色のバス
が迎えにきたとき、まだ何の移送準備もできていないと、拒絶し、引きのばし
に成功した。当時を回想して、「この 25 人の娘のできごとをきっかけとして、
私は戦いの呼びかけを聞き取り「内国伝道」全体の名において根本的な抵抗を
おこなうことになった。私は直ちにはっきりと、これはきわめて深刻で重大な
闘いであることを、直感した」(「戦争・ナチズム・教会」334)。こうした患者
の移送を阻止し、安楽死計画に対する抵抗を、ベーテルの施設長フリードリッヒ・
ボーデルシュヴィンク牧師は支持した。
1940 年ブラウネとボーデルシュヴィンクはベルリンへ行き、大臣たちにドイ
ツで行われている「安楽死作戦」の実態を知らせた。大臣たちは初めて耳にす
る信じがたい事実に仰天した。ある大臣は、この無気味な企ての背後にある勢
力に対抗することは至難のわざである、と告白している。司法大臣は何も知っ
ていなかったが、次のように言った。
「この措置はまったく違法で不当だ。真の『安
楽死』、つまり死にひんした患者の痛みを和らげるための死には反対できないが、
『安楽死』をもてあそぶこと、つまり財政上、戦時経済の理由で病人を殺すことは、
正義と法、そして国家全体にとって最高の危険を意味する」。彼はヒトラーに忠
告をしたようだが、ヒトラーが耳を傾けた形跡はない。こうした手づまりのな
かで、ブラウネはヒトラーに「建白書」を提出したが、その際、D・ボンヘッファー
の父、ベルリン大学の精神医学教授カール・ボンヘッファーらの助言を得た。
ブラウネは調査用紙が配布された後、各地で患者が移送され、その後患者の
家庭に死亡通知が送られている詳細を説明し、「何千人という『生きるに値しな
い生命』をこの世から除去するという大規模な措置が取られていることは、全
く疑いえないものである」とし、
「ただちに停止することが緊要である」と訴えた。
ヒトラーからの返事はなかった。その後、ブラウネは逮捕され、教会は彼の釈
放を願い「とりなしの祈り」の名簿に名前を加えて祈りつづけた。2 ヶ月間の拘
置ののち、彼は釈放された。ナチ当局はブラウネの行為を法律的に裁くことが
できなかったからである。にも関らず、「安楽死作戦」は停止されなかった。ブ
ラウネの逮捕・拘禁の意味について、河島氏は、これによってひた隠しにされ
ていた「安楽死作戦」の実態が教会関係者の間に知られることになり、やがて
ナチが行う安楽死作戦の一時的中止に追い込む力となったことは、決して小さ
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第 6 章 障害者の思い
いことではなかった、と評価している。
戦争が終わりニュルンベルグ国際裁判が行われ、ナチスの行為が明らかに
なった。被告となり、処刑されたヒトラーの侍医ブラント博士の証言について、
バイロイターは次のように記している。
ボーデルシュヴィンクの戦いは無類のものであった。責任者との内密の
会 談、この中心人物をめぐる対決といった他の誰も成功できなかったこ
とを彼 は可能にしていった。なおこのことは、ニュルンベルグの裁判で、
処刑前の
ヒトラーの侍医、ブラント博士の最後の言葉が念頭に浮かんだ。彼の前に立
ちはだかった唯一の人が、ボーデルシュヴィンク牧師だったに間違いない。
彼は何時間も彼と対決した。会談が終わったとき、彼は次のように言ってい
る。「これは私の生涯の最も厳しい闘いであった 」 。この努力によって3千人
の患者がヒトラーの「安楽死」から救われた。
(「ディアコニーと近代における内国伝道の歴史 第 7 章 )
ヒトラーは、右腕と頼む侍医ブラント博士を直接ボーデルシュヴィンクのも
とに送り何度か内密の接渉を試みた。ベーテルを訪ねたブラントは重い障害を
もつ病人を「交流能力がない」と判断し「生きるに値しない命」と考えていたが、
ボーデルシュヴィンクは「私はこれまで交流能力のない人間に出会ったことは
ありません」と答え、交流能力がないのはあなたの方ではないかという姿勢を
示した。ブラントが「私の生涯の最も厳しい闘いであった」というのはこの一
点にかかっている。ボーデルシュヴィンクは「交流能力」を、人の光・力・生
命と考えていたことは、本書 11 章の糸賀一雄の「この子らを世の光に」と共通
している言うことができる。
「神さまどうか障害児が出ないように助けて下さい」という祈りをめぐって
1994 年 8 月に開催された教会の宣教綜合協議会においてある牧師が講演で、
妊婦の信者に「100 人に 1 人は障害者が出る確率があるから『神さまどうか障害
児が出ないように助けて下さい』と頭に手をおいて祈っている」と発言したこ
とから教会の牧師による差別問題が明るみにでた。会の責任者は抗議の手紙送っ
たところ、次のような返答があった。「ただ至らぬ者の発言のなかに差別用語が
あったこと、ご指摘をいただき心から感謝致します。まったく気づかずに使っ
ておりましたので、ほんとうに有難く存じます。もとより意識あってのことで
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第 6 章 障害者の思い
はありませんので、御了承下さい。今後は気をつけます。…ご指摘を頂かなけ
れば、まだまだ気付かずに使っていただろうと思います。……」
多くの差別事件で、発言者が自分は差別をする意図はなかったという弁明を
して、差別にたいする知識も意識ももちあわせていない姿を露呈する。そのこ
とによって更なる障害を抹殺が行われていると、批判されるのである。
ある障害者は次のように問う。
なぜ、障害者児は殺されなければならないのだろう。
なぜ、障害者児は人里離れた施設で生涯を送らなければならないのだろう。
なぜ、障害者児は街で生きてはいけないのだろう。
なぜ、私が生きてはいけないのだろう。
社会の人々は障害者児の存在がそれ程邪魔なのだろうか」
( 雑誌 「のら」1995 年 1 月 5 日)
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第 6 章 障害者の思い