2009 年 11 月 24 日 作詞家・安井かずみと 1960 年代 歌を聴くと、その

2009 年 11 月 24 日
作詞家・安井かずみと 1960 年代
歌を聴くと、その歌が流行った当時のことが思い出される。NHKの「歌伝説
安井か
ずみの世界」
(2009 年 11 月 15 日)はそんな想いを呼び起こす番組だった。 あの頃は今よ
りももっと世の中全体が活気に溢れていたように思う。作詞家・安井かずみが書いた歌は
今でも口ずさむことができる。安井が書き、歌手「園まり」が歌った “何も言わないで”
は大ヒット。
「園まり」の“なにか言いたそうな眼”はとても切ない。
(YouTube に動画あり)。
それまでの歌謡曲が重い七五調の歌詞だったのに比べ、安井の詩は日常の軽いフレーズで
歌謡界に新しい風を巻き起こした。安井は 1960 年代のポピュラーソングの世界でその時代
の雰囲気を言葉にして、多くの作品を生み出したのである。
安井かずみは、1939 年(昭和 14 年)に横浜で生まれた。小さい頃からからピアノや絵な
どの習い事を始め、家には父親がフランスから取り寄せた本が置かれている環境なかで育
っている。安井は 1957 年にフェリス女学院高等学校を卒業後、文化学院油絵科に入学して
油絵を学んだ。安井は当時のことをエッセイでこう述べている。「私の少女期は日本もまだ
戦後を完全に脱していない、むしろアメリカ的であることが文化的なことのように言われ
ていた頃だったから、私のフランス語学習はちょっと風変わりな少女趣味であった。徐々
に私はフランス語を軸に、主に絵画の世界、後におしゃれのセンス、あるいはシャンソン
の世界、文学など、そして何よりも、パリ風な・・・すべてに染まっていったようである。
(「安井かずみの旅に手帳---私を変えたとびきりの出会い 」より)
安井は女流画家を目指していたが、在学中に神田にある楽譜の出版社でアルバイトとし
て訳詞をしたことがきっかけで、「みナみカズみ」のペンネームで訳詩を始めた。フランス
語の訳詞ができる数少ない訳詩家として、語学力と独特の発想により作詞の世界で知られ
ようになった。彼女が最初に手がけた作品は、ヨーロッパやアメリカのポピュラーソング
の訳詩だった。雪が降る(歌・作曲:アダモ)
、G.I.ブルース(エルビス・プレスリー主演
の映画曲)などがある。
安井はその後、次第に作詞の世界へ入っていった。そうした中で安井は多くのミュージ
シャンと出会った。
「初めて(彼女を)見たときは、ぶっとんでんなー、と思いました」
(か
まやつひろし)
安井はこう記している。
「私の場合に有利だったのは、二十代の初めまでせっせと油絵を
描いていたことだった。絵には必ずテーマが必要だった。つまり、自分が表現したいテー
マを見つける訓練が身についていたから作詞のテーマ探しも比較的簡単にできたのである。
油絵と作詞はまったく同じ行為であった。それを絵の具とキャンバスで表現するか言葉と
原稿用紙で表現するかの違いだけだったから」
主に 1960 年代に活動したロックバンドに“ビートルズ”がいる。彼らが解散までに発表
した作品群は同世代及び後進のミュージシャン・アーティスト等に多大な影響を与えた。
1964 年の 1 月にフランス公演。その最中にアメリカで「抱きしめたい」がシングルチャー
ト 1 位になった。1966 年のビートルズ来日公演以降、エレキギター等の楽器を自ら演奏し
ながら歌うグループが日本で次々とデビューしていた。ザ・タイガース、ブルーコメッツ、
ザ・スパイダース、ザ・ワイルドワンズなどが登場したのだ。
1967 年に安井は「ザ・ワイルドワンズ」の加瀬邦彦と出会う。ザ・タイガースの6曲目
のシングル『シー・シー・シー』はこの二人のコンビで
作られた作品である。加瀬はある日、朝 5 時にタイガー
シーシーシー
スのマネージャーに起こされて、朝 10 時からレコーデ
ィングがあると告げられた。“安井かずみさんもスタジ
愛のピエロがかぞえた
オに呼んでいますから”、と。レコーディングの前夜に
愛のこころをかぞえた
発注された加瀬はこの曲をわずか3時間足らずで作り、
たして引いてもかけても
メロディーを聴いた安井はあっという間に書き上げた
ABC and ABC and
のだ。
シーシーシーシー
I’m so high no no no
加瀬の言葉。「彼女は何を言っているのかわかんない
ような言葉の羅列、全体を通すと、ああ、こういうこと
かな、というような、しかも、いままでにない、日本人
にはない、詩のつくり。詩もお昼頃にできて、ジュリー
I’m so down no no no
I’m so blue no no no
シーシーシーシー
(沢田研二)が横でカセットに入れたメロディーを聞い
て、ZUZU(安井の愛称)の詩を見ながら歌を練習し
て。・・・“愛のピエロが数えた、シーシーシ”、さっぱ
愛の女神はジプシー
りわかんない。でも、詩は面白い、雰囲気として合って
砂でうらなう土曜日
いる。これでいいのだろうと。それで、これどういう意
ルビーのようにかがやく
味なのと聞くと、『いいのよ、これで。これ言葉の遊び
シーシーイエ
なんだから。言葉って色がついているでしょ』
、と」
シーシーイエ
シーシーシーシー
タイガース解散のあと、沢田研二の可能性に魅せられた安井は、作曲家・加瀬とコンビ
を組み、多くの作品を作った。それはソロ歌手としての沢田(ジュリー)の原動力になっ
たのだ。そのとき作ったのが“危険な二人”。加瀬は「この詩には彼女のジュリーに対する
思いが入っている。自分の気持ちを言ってんだな」、と思ったほどだった。
海外旅行がめずらしかった当時、安井は世界中を旅して、貴族や有名人と優雅な生活を
送った。1967 年、ローマにて青年実業家と結婚し、ニューヨークへ移住。
安井はこう述べた。「ニューヨークの自立した、自由な女たちを連日連夜この目で観る羽
目になっていたのである。それは女の私にとって、まさに私の行き方への大問題を提起し
ていた。ひとりなって彼女らのように生きてみたい・・・。大張り切りで、自分の望む結
婚をして、まだ何年も経っていないのに、ひとりで生きてみたいとは、ずいぶんと身勝手
な女である」
。そして、離婚。パリへ向かった。1969 年からパリに暮らし、1971 年に帰国。
1977 年には、安井より八歳年下で元グループサウンズの加藤和彦(2009 年 10 月 17 日に自
殺)と再婚。優雅なライフスタイルで公私ともに行動を共にし、憧れの夫婦として支持さ
れた。コンスタントにエッセイストとしても活動したが、1994 年 3 月 17 日、肺癌のため
55 歳の若さで死去した。
1965 年、アメリカでは 4 人のフォークグループ(ママス・アンド・パパス)が歌った
「“California Dreamin“カリフォルニア・ドリーミング」がいきなり、全米での大ヒット
となった。カリフォルニアは自由な精神、開けっぴろげな心、何とかなるという生活の地
だった。当時のポピュラー・ミュージックのタイトルは「カリフォルニア・ガール」、「カ
リフォルニア・ドリーミング」、などだった。
なんともたわいない歌だ。「カリフォルニア・ドリーミング」の歌詞はこうだ。
「木の葉は茶色。空は灰色。冬のそんな日、ずーっと、散歩をしていたなんて、もし L.A
にいることができたら温かいだろうな。通りすがりの教会。そこでお祈るをするふりをし
たわけ。だって、牧師は寒い日が好きじゃないか。俺がここに残ることを知っているのだ
ろう。若し彼女に出かけると言っていなければ、今日、出発できたのに。そんな冬の日な
のだ」
“California Dreamin“
Stopped in to a church I passed
All the leaves are brown
along the way.
(All the leaves are brown)
Well I got down on my knees
(got down on my knees)
And the sky is gray.
And I pretend to pray.
(And the sky is gray).
(I pretend to pray).
You know the preacher likes the
I've been for a walk
cold.
(I've been for a walk)
(preacher likes the cold).
On a winter's day.
He knows I'm gonna stay.
(On a winter's day).
(knows I'm gonna stay).
California dreamin'
I'd be safe and warm
(California dreamin') on such a
(I'd be safe and warm)
winter's day.
if I was in L.A.
If I didn't tell her
(If I was in L.A.)
(If I didn't tell her)
California dreamin'
I could leave today.
(California
dreamin')
on
such
a
(I could leave today).
California dreamin' (California
dreamin')on such a winter's day,
California dreamin' on such a
この歌の意味はあまり突っ込んで考えないほう
winter's day,
がいい。ただ、詩は若者の気分を直截に表現して
California dreamin' on such a
いるにすぎないからだ。この詩はカリフォルニアでの天国的な気候で生きる容易さを約束
しているような人生観を反映しているのだ。ここでは、多くの若者が低賃金の仕事を選び、
海岸でトレーラーハウスに住んでサーファーになり、また別の多くの者は大きな望みを棄
てて都市のヒッピーの自由な生活に憧れたのだ。そうした土地柄で生まれたこの曲もまた、
自由奔放、開放的であった。
(注)ヒッピー (Hippie) は、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた社会生活を否定
することを信条とし、また、自然への回帰を提唱する人々を指す。
ヒッピーの中心になったのは「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と
平和を訴え、徴兵や派兵に反発した若者達だ。彼らは戦争に反対し、徴兵を拒否し、自然
と平和と歌を愛し人間として自由に生きるというスタイルで、ベトナム戦争下にあった全
米で一大ムーブメントを起こした。
一方、英国ではロック・バンド・グループの「プロコル・ハルム」が 1967 年 4 月に「青
い影」(A Whiter Shade of Pale)をリリースし、2 週間で 40 万枚近くを売り上げた。彼ら
は 1960 年代の英国ロック界で、ビートルズの作品を凌ぎ最も大きな成功を収めたと言われ
ている。
この歌は訳すのが難しい。なぜなら、全部を通して読んでも意味がつながらないからだ。
観察者の視点はどこにあるのか。
A Whiter Shade Of Pale(青い影)
We skip the light Fandango
ファンダンゴのリズムでスキップ
Turn cartwheels 'cross the floor
床の上でカートを押いやったら
I was feeling kind of seasick
なんだか船酔いしたみたい
The crowd called out for more
みんなはもっとよこせと騒いでいて
The room was humming hotter
部屋はざわめいて
As the ceiling flew away
天井がまわる
When we called out for another drink
もっと、酒だ、誰かが叫ぶ
The waiter brought a tray
ウエイターが、トレーを持ってきて
And so it was that later
もうこんなに遅い時間なのに
As the Miller told his tale
“粉引き屋”がへんてこな話をして
That her face at first just ghostly
彼女の顔がこわいくらい
Turned a whiter shade of pale
青白くなった
She said,"There is no reason
彼女は、「なぜって?
And the truth is plain to see."
よく観りゃ、はっきりしているじゃない」
That I wandered through my playing cards
俺はトランプをめくっていたんだ
Would not let her be
彼女を 16 人のヴェスタ乙女の
One of sixteen vestal virgins
1 人にはさせはしないぞ
Who were leaving for the coast
岸に向かっているのは誰だ?
And although my eyes will go blind
俺の眼が見えなくなろうとも
They might just as well been closed
眼を閉じているようなものだ
And so it was that later
もうこんなに遅い時間なのに
As the Miller told his tale
“粉引き屋”がへんてこな話をして
That her face at first just ghostly
彼女の顔がこわいくらい
Turned a whiter shade of pale
青白くなった
(まずい訳で申し訳ない。安井かずみなら、どのように訳したのだろうか)
1960 年代後半から 70 年代・・この時代はサイケ、ヒッピーが流行った。そんな文化的な
背景もあって、「歌詞も意味不明」が特徴ともなったのではないか。
そんな折、テレビのCMから調子のいいセリフが飛び出した。1969 年、当時、タレント
だった大橋巨泉(放送作家、 司会者、評論家、元参議院議員)がテレビの画面で、万年筆
のキャップをはずしながら、『みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすら
の はっぱふみふみ」といい、そのあとで、「わかるネ?」と言ってニヤケたのである。わ
かるはずがない。何か、人を食った、世間を揶揄したふざけた言い回しであり、でも、お
かしい、その言い方につられてしまった。これは、パイロット萬年筆のCMだった。同社
は当時、業績不振のまっただ中にあったが、この思い切ったCMの大成功により売り上げ
を伸ばしたのである。
1960 年代の日本の社会を概括すると、こうなる。
・高度経済成長の最盛期
・東海道新幹線が開業
・学生運動(安保闘争、全共闘運動など)が過激化
・ビートルズが来日
・ベトナム戦争が泥沼化
・中国の文化大革命が中国全土に拡大
・人類が初めて月に到達
・ウーマンリブの嵐
・公害の深刻化
・カラーテレビの普及、レコードプレーヤーが一般家庭にも普及
・日本のテレビでは、アメリカから輸入した番組が最盛期
・安保闘争を背景に、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』が大ヒット
日本において、1960 年代は急速な経済の拡大と公害などの環境破壊(水俣病、イタイイ
タイ病、四日市ぜんそくの被害)の進行、学生、女性、労働者、市民の運動の激化、ポッ
プス界の多様化(R&B、ハードロック、ソウルなど)が進んだ時代だったのである。
こんな熱狂と退廃、進化と腐敗がまた、1980 年代後半に現れた。バブル景気にともなっ
て現れた社会現象である。これについては別の機会に述べる。