地理誌叢 Vol.55 No. 1 pp.1∼10 (2013―6) 理想郷としての南カリフォルニア ― 地域イメージと人口移動 ― 矢ケ 典 隆* の地域性を説明することができる.それぞれの理 Ϩࠉはじめに 想郷と人口移動について検討してみたい. アメリカ合衆国カリフォルニア州のなかで,テ ハチャピ山脈以南の地域は一般に南カリフォルニ ϩࠉカリフォルニア島―空想の理想郷― アと呼ばれる.この地域はアメリカ合衆国におい 1.コロンブスとモンタルボ て独特の魅力と地域性を持っている.地誌学の課 1492 年にコロンブスが新大陸に到達したこと 題は地域性を明らかにし,その形成過程を説明す により,大西洋を隔てた二つの世界に大きな変化 ることであり,そのためにさまざまなアプローチ が引き起こされた.それは南北アメリカの先住民 を用いることができる(矢ケ にとっては人口減少とヨーロッパ人への従属の始 ・加賀美・古田, 2007;矢ケ ,2011). まりを意味したし,ヨーロッパ人にとっては無限 南カリフォルニアの地域性を論じる際に注目す の可能性に満ちた新しい世界の「発見」を意味し べき現象は,南カリフォルニアがいつの時代にも た.コロンビアンエクスチェンジと呼ばれる大西 アメリカ各地や世界中から人びとの関心を集め, 洋を隔てた交流が,二つの世界を大きく変えるこ 南カリフォルニアへの人口移動が継続してきたと とになった. いう事実である( McWilliams, 1946 ).どのような こうした変化の一つとして,ヨーロッパでは大 地理的条件が南カリフォルニアへの人口移動を引 西洋のかなたに存在する理想郷に関心が高まった. き起こしてきたのであろうか. スペイン人作家のモンタルボ( Garci Rodriguez de 本稿では,南カリフォルニアが理想郷として評 Montalvo ) は, ロマンス小説『騎士エスプラン 価され,他地域からの人口移動を引き起こしたと ディアンの功績』( 1510 年)のなかで,エスプラ いう仮説に基づいて,具体的に 4 つの理想郷を設 ンディアンが偶然にもたどり着いたカリフォルニ 定する. すなわち, 空想の理想郷, 健康の理想 ア島を描いた.そこは美しい黒人の女王カラフィ 郷,経済の理想郷,移民の理想郷である.南カリ アが住み,金に満ちあふれた理想郷であった.新 フォルニアの資源が異なる時代に異なる評価を受 大陸に渡ったスペイン人たちは,カリフォルニア けることにより理想郷としての地域イメージが形 島という理想郷を求めて探検を繰り返した.グー 成され,それが南カリフォルニアへの人口移動を ドによると,女王カラフィアに由来するカリフォ 促進したと考えることにより,南カリフォルニア ルニア島はモンタルボの創作であった( Gudde, キーワード:理想郷,地域イメージ,人口移動,南カリフォルニア,地誌学 * 日本大学文理学部地理学科 ― ― 1 地 理 誌 叢 第 55 巻 第 1 号(2013) 1998, 59-61) . カリフォルニアという理想郷のイメージとは対 ヨーロッパで出版された地図には,18 世紀に入 照的に,スペイン植民地時代とメキシコ時代を通 るまで,アメリカ大陸の西側に島が描かれ,そこ じて,カリフォルニアは決して魅力的な地域とは にはカリフォルニアという地名が記載された.例 認識されなかった.そこには女王カラフィアの住 えば,ロンドンで刊行された John Speed( 1627- む理想郷は存在しなかった.アステカやインカの 76 年), アムステルダムで刊行された Johannes ような高度な文明は存在しなかった.金や銀も発 Jansson( 1636 年 ), パ リ で 刊 行 さ れ た Nicolas 見できなかったので,開発を促す経済的な魅力は Sanson d Abbeville( 1656 年),アムステルダムで なかった.文明の中心であったメキシコからは遠 刊 行 さ れ た Jesuit Father Louis Hennepin( 1698 隔であり,陸路によっても海路によっても到達す 年) ,ロンドンで刊行された Herman Moll( 1720 ることは容易ではなかった.経済の中心は粗放的 年)では,北アメリカ大陸の西側に島が描かれ, 牧畜業で,商品は牛皮と牛脂に限られていた.カ そこにカリフォルニアの地名が記載された.カリ リフォルニアは魅力の無い辺境であり,空想の理 フォルニア半島は 16 世紀中頃までにはカリフォ 想郷はまさに空想のままで終わりを遂げた. ルニアと呼ばれ,17 世紀末まで島として認識され スペイン人やメキシコ人は,カリフォルニアが た.ヨーロッパの地図製作者の間ではカリフォル 気候に恵まれた地域であるとは認識しなかった. ニアを島として描く認識が形成された. というのは,イベリア半島の伝統と認識を有する スペイン人やメキシコ人にとっては,カリフォル 2.魅力のない辺境 ニアの温暖で乾燥した気候は評価に値する資源で 18 世紀後半になると,カリフォルニア半島は はなかった.カリフォルニアの気候がアメリカ人 バハ・カリフォルニア,それより北はアルタ・カ によって評価され理想郷として認識されるように リフォルニアと呼ばれるようになり,北部ではキ なるのは,19 世紀中頃以降のことであった. リスト教布教集落(ミッション),軍事基地(プレ シディオ) ,民間人の入植村(プエブロ)の建設に Ϫ 病気のない世界―健康の理想郷― よる開発が進んだ.ミッションでは,フランシス 1.カリフォルニアへの探検 コ会宣教師が先住人を住まわせて,食料生産を行 19 世紀前半には,メキシコ領のカリフォルニ いながら, キリスト教に教化するための活動を アはアメリカ人にとって未知の世界であった. 行った.1769 年に建設されたサンディエゴミッ ジェファソン大統領が 1803 年にフランスからル ションをはじめとして,21 か所のミッションが建 イジアナを購入すると, ミシシッピ川からロッ 設された. プレシディオは守備隊兵士の駐屯地 キー山脈までの広大な土地がアメリカ領となり, で,植民地の防衛を目的とした.プエブロは民間 この山脈を越えて太平洋岸にいたる地域に関心が 人を入植するための計画的植民地で,退役軍人や 高まった.カリフォルニアを最初に体験したアメ メキシコ北部からの移住者が定住した.これらの リカ人は毛皮商人たちであった.アメリカ連邦政 フロンティア組織に加えて,ランチョ(牧場)と 府はウィルクス( Charles Wilkes )やフリモント 呼ばれる土地の賦与が始まった.ランチョの賦与 ( John Charles Fremont )などの探検隊を派遣して はメキシコ時代に入っても継続し,沿岸部の肥沃 カリフォルニアに関する情報の収集に努めた.こ な地域において土地の私有化が進んだ.アルタ・ うして 1840 年代にはカリフォルニアの恵まれた カリフォルニアはメキシコシティに拠点を置いた 気候に関する情報がアメリカ東部に伝えられた. ヌエバエスパーニャの北部フロンティアとなっ 南カリフォルニアの地域イメージが大きく転換 た. したのは,アメリカ領となった 19 世紀中頃のこ ― ― 2 理想郷としての南カリフォルニア とであった.デーナーは 1840 年に刊行された『帆 を支配した.ミアズマ理論の全盛期には,瀉血や 船航海記』のなかで,カリフォルニアの優れた気 下剤を使用して体内のミアズマ物質を取り除くと 候を絶賛し,流行病も風土病もまったくみられな いと指摘した(デーナー, 1977, 140 ).また,ヘイ スティングは,1845 年に刊行された旅行者向けの いう,痛みを伴う危険な治療法が一般的であった (Thompson, 1971). 一方,病気の治療を気候条件と結びつけて論ず ガイドブック『オレゴンとカリフォルニアへの移 る医療気候学に関心が高まり,19 世紀中頃までに 住者のガイド』で,カリフォルニアが気候に恵ま は転地療養が有効であると信じられるようになっ れた健康地であることを強調した. 「健康的なこ た.ペンシルヴェニア大学出身の著名な医者ドレ とそして健康に良い気候という点で,世界中でこ イク( Daniel Drake )は,とくにアメリカ西部へ の地域に勝るか匹敵する地域はいくつもない.こ の療養旅行の効用を強調した.1860 年代には療 の地域のすべて,とくに海岸部では発熱の原因が 養旅行が広く行われるようになっていたが,医療 まったく存在しない.また,ここには天候の急変 気候学の考え方は多様で,どこが最適地であるか や極端な気候はみられないし,カタルや結核など については共通の認識は形成されておらず,コロ の疾患を引き起こすほかの原因もない.したがっ ラドやニューメキシコの高度が高く乾燥した地 て,病弱者にとってここは既知の世界の中でもっ 域,アリゾナの砂漠,南カリフォルニアが有力な とも良好な保養地の一つであると断言できる」 候補であった(Thompson, 1971;Vance, 1972). (Hastings, 1945, 85). 1850 年代にはアメリカ東部から移住した医者 1849 年 に 始 ま っ た ゴ ー ル ド ラ ッ シ ュ は カ リ たちによってカリフォルニア州医学協会が設立さ フォルニアへの人口移動の引き金になった.1869 れ,医療気候学の調査が体系的に行われるように 年に大陸横断鉄道が開通すると, 東部からカリ なった.ローガン( Thomas M. Logan )を中心と フォルニアへの旅行が容易になった.北カリフォ した調査の結果は,1859 年に『カリフォルニアの ルニアでは粗放的な牧畜に代わって小麦栽培が始 医療地形学と流行病に関する報告』にまとめられ まった.こうして,恵まれた気候と豊かな土地を た( Thompson, 1971 ).ローガンは,州知事にあ 求めて,伝統的な生活やピューリタン主義からの てた州厚生省の年次報告書( 1870-71 )において, 自由を求めて,東部からカリフォルニアへの人口 カリフォルニアは「世界の療養所」であるとした 移動が加速化した(矢ケ ,1999). (Saunders, 1967).こうした認識は 19 世紀末まで 存続し,産業と経済が未発達であったカリフォル 㸬࣑ࢬ࣐⌮ㄽ་⒪ẼೃᏛ ニアへの人口移動を促進する要因となった. カリフォルニアへの人口移動を理解するための マラリア(文字通り,悪い空気)は典型的なミ 背景として,病気の原因と治療に関する認識を検 アズマであるが, 1880 年代から 1890 年代にかけ 討することが必要となる.19 世紀初頭のアメリ て科学的な病因が明らかになった.すなわち,患 カの医学では,イギリスの伝統を背景として,感 者の血球からマラリア原虫が発見され,それが蚊 染,ミアズマ物質,大気中の流行病組成という 3 によって伝染することが実証された.ハマダラカ つのおもな病因論が一般的であった.なかでも, が媒介するマラリア原虫が赤血球内に寄生し,増 有機物や汚物が腐敗して発生した有毒ガス,すな 殖分裂して血球を破壊する時期に周期的に発熱が わちミアズマ(瘴気,悪い空気)が病気を引き起 おきるわけである.こうした発見によってミアズ こすというミアズマ理論は 19 世紀中頃に絶頂期 マ理論に終止符が打たれたのは 19 世紀末のこと を迎えた.こうした古い病因論は,細菌論の発達 であった.乾燥した南カリフォルニアは,ハマダ にもかかわらず,1880 年代までアメリカの医療界 ラカが繁殖する環境が存在しなかったので,マラ ― ― 3 地 理 誌 叢 第 55 巻 第 1 号(2013) リアが発生することのない健康地であった. 立病院の入院患者のほぼ半数は移住者であり,そ の大部分は結核を患っていた( Thompson, 1971; 3.世界の療養所 Saunders, 1967 ).とくに 1870 年代中頃から 1900 詳細にみるとカリフォルニアには地域性が存在 年ころまで結核患者や病弱者に対する南カリフォ し,健康のための好適度は地域によって異なるこ ルニアの気候の効用が強調されたので, 南カリ とが明らかになった.地理学者トンプソンは 19 フォルニアへの移住者のかなりの割合が健康を求 世紀末におけるカリフォルニアの健康地図を提示 める人びとであった(Thompson, 1969). した(Thompson, 1969).これによると,カリフォ ルニアは 5 つの地区,すなわち,湿地・冠水地, 南カリフォルニアには多くの医者も流入した. とくにロサンゼルスには医者の数が多く, 人口 ミアズマ地帯,結核患者に不適な地域,結核患者 10 万人当たりの医者数は全米都市の中でもっと に最適な地域,結核患者に好適な地域に区分され も多かった.1900 年センサスでは,ロサンゼル る.結核患者に最適な地域は,中部沿岸のモンテ スの人口 10 万人当たりの医者数は 400 人で,こ レーの南からサンディエゴにかけての中部・南部 れは全米平均の 3 倍であったという( Saunders, 沿岸地域であった.モハヴェ砂漠を中心とした南 1967). カリフォルニア内陸部も結核患者に好適な地域で 旅行作家による著作は,理想郷としての南カリ あった.世界の療養所として認識されたカリフォ フォルニアのイメージを助長し,この地域への移 ルニアでも,南カリフォルニアがとくに理想的な 住を促進することに貢献した.もっとも影響力が 環境を持つと評価されたわけである. 大きかったのは 1873 年に刊行されたノルドホッ 南カリフォルニアの優れた気候に関する直観的 フ著『健康,楽しみ,定住のためのカリフォルニ な記述が医学文献に多くみられた.例えば,レモ ア―旅行者と入植者のための読本』 ( Nordhoff, ンディノは,『アメリカの地中海沿岸, 南カリ 1873)で,カリフォルニアの姿を地図や挿絵を用 フォルニア』のなかで,「この地域(南カリフォル いて具体的に描いた読み物でありガイドブックで ニア)にはいかなる風土病も存在しない……私の あった.この本では南カリフォルニアの解説に多 個人的な観察から言えることは,合衆国東部から 数の頁が費やされた.サウスカロライナ在住の結 この海岸地域に来れば少なくとも寿命が 10 年は 核患者の友人がほとんど絶望的に南カリフォルニ 延びる」とした.また,ビッグズはサンタバーバ アに移住したが, 3 か月で別人のように元気にな ラに関する報告のなかで,「熱や悪寒に苦しめら り,ロサンゼルスで再会したという体験談が披露 れてここにやってきた人びとは, 2 ∼ 3 回以上発 され,南カリフォルニアの恵まれた気候が具体的 熱することはめったにない.彼らはすぐに回復す に解説された. る……病気を治すのに気候が十分であるようにみ える」と述べた(Thompson, 1971, 124). サンゲイブリエル山脈の南麓に沿って,また, サンタバーバラやサンディエゴにかけての南カリ 南カリフォルニアは転地療養の最適地として多 フォルニア沿岸部に保養都市やリゾートホテルが くの移住者を引き付け,理想郷としてのイメージ 建設され,東部の裕福な人びとが温暖な冬を過ご が形成された.転地療養がもっとも有効であると すために利用された.また,東部の人びとが組合 認識されたのは結核の治療のためであった.19 を組織して共同で土地を購入する集団入植事業も 世紀には結核はもっとも致命的な病気であり,伝 行われた.ミシガン州出身者によるリバーサイド 統的な医療はその治療に効果を上げなかった.す の建設やインディアナ州出身者によるパサデナの でに 1860 年代末までには,南カリフォルニアに 建設は典型的な事例であった(矢ケ ,2010). 多くの結核患者が流入していた.ロサンゼルス郡 温暖で少雨の南カリフォルニアはミアズマの発 ― ― 4 理想郷としての南カリフォルニア 生しない健康の理想郷であった.産業が未発達で の支援など,企業の立地に有利な条件にも恵まれ あった南カリフォルニアがアメリカ東部から多く た. 大小さまざまな製造業の企業に加えて, 流 の人びとを引きつけたのは,魅力的な気候であっ 通・加工関連の企業の集積も進んだ.自動車組み た.アメリカ東部から,医者,病弱者,富裕層な 立て,ゴム・タイヤ製造,製鉄,機械などのアメ どが健康を求めて流入し,世界のサナトリウムと リカを代表する企業が生産拠点を置いた.フォー しての認識が一般化した.こうして南カリフォル ド,ゼネラルモーターズ,ファイストーンタイヤ ニアの人口は著しく増加した.合衆国センサスに アンドラバー,ベツレヘムスチール,ユーエスス よると, 南カリフォルニアの人口( 7 郡の合計) チール,アルミナムカンパニーオブアメリカ,コ は,1850 年には 5,513,1860 年には 24,751,1870 ンチネンタルキャン,オーウェンズイリノイグラ 年 に は 32,032 で あ っ た が, 1880 年 に は 64,371, スなどである.それぞれが数百人から 5000 人を 1890 年には 201,352, 1900 年には 304,211 を数え 雇用した(Donley, 1979). た.1870 年代と 1880 年代の増加がとくに顕著で なかでも自動車産業はロサンゼルス大都市圏の あったことがわかる. 工業活動を象徴する存在であった.カリフォルニ ϫࠉ⤒῭Ⓨᒎ㇏࡞⏕ά̿⤒῭ࡢ⌮ 㒓̿ Ford)は, 1910 年代に自動車組立工場をロサンゼ アにおける自動車需要を察知したフォード(Henry ルスに建設し,エンジンなどの部品はデトロイト 1.総合的工業地域の形成 から輸送して自動車を供給した.1920 年代から 19 世紀後半における南カリフォルニアの人口 1930 年代にかけて,クライスラー,ゼネラルモー 増加は, 産業活動を基盤とするものではなかっ ターズをはじめとする自動車会社が相次いで組立 た.一方,20 世紀に入ると南カリフォルニアは急 工場を建設した.タイヤ需要の増大に対応して, 速な経済発展を経験した.1900 年から 1960 年代 1920 年代にはグッドイヤーやファイアストーン 末までの南カリフォルニアは経済の理想郷と呼ぶ などがタイヤ生産を開始し,ロサンゼルスはアク ことができ,経済的な成功を夢見て多くの人びと ロンに次いで大きなタイヤ生産地となった( Pit が南カリフォルニアに流入した.なかでも産業活 and Pit, 1997, 31). 動を牽引したのはロサンゼルスとその周辺地域で あった. 石油の存在は先住民によって知られていたが, 石油会社が設立されて石油の採掘がおこなわれる 東部や中西部の工業地域では都市ごとに業種の ようになったのは 19 世紀末のことであった.ス 専門分化が進んだが,ロサンゼルスの工業は多様 タンダードオイルカンパニーオブカリフォルニア な業種によって特徴づけられた.アメリカの伝統 の 前 身 である カ リ フ ォ ル ニ ア ス タ ー オ イ ル は 的な工業都市で生産された製品を遠隔な南カリ 1870 年代に設立された.1920 年代にはロサンゼ フォルニアへ運搬するのは非経済的であったた ルス郡南部で相次いで大規模な油田が発見され, め,地域的な需要に応えることを目的として多様 石油採掘がブーム期を迎えた( Pit and Pit, 1997, な種類の物資を製造することが不可欠となった. 364-365 ). 石油生産の拡大に伴って石油関連の 20 世紀中頃までには,ロサンゼルス大都市圏は 工業化が進んだ. 20 世紀に入るとロサンゼルスに映画産業が展 アメリカ最大の総合的工業地域に発展した. 工業活動の中心はロサンゼルス市の中心部から 開した.1902 年には全米で最初の映画館がロサ 南にかけての地区であり,ロサンゼルス港や大陸 ンゼルス中心部に開業した. シカゴの映画プロ 横断鉄道の操車場に近接して多様な工場が集積し デューサーは,ロサンゼルス商業会議所のパンフ た.低価格の土地の存在,低い税率,地元自治体 レットで年間 350 日の晴天日が保障されていると ― ― 5 地 理 誌 叢 第 55 巻 第 1 号(2013) いう宣伝に興味をもって, 撮影チームを送り込 住宅社会が形成された. み, 映画の撮影が行われるようになった.1911 1940 年代から 1960 年代にかけて人口が急速に 年にはハリウッドに恒久的な映画制作スタジオが 増加した.人口増加の中心はロサンゼルス郡とオ 開業した.1910 年代には映画製作会社の集積が レンジ郡であり,両郡の合計人口は,1900 年には 進み,映画産業に従事する人口が増加した.その 189,994, 1910 年には 538,567, 1920 年には 997,830, 後,映画制作は南カリフォルニアの重要な産業の 1930 年には 2,327,166,1940 年には 2,916,403,1950 一つとなった(Pit and Pit, 1997, 335-337). 年には 4,367,911,1960 年には 6,742,696 を数えた. 晴天に恵まれた南カリフォルニアでは年間を通 して試験飛行が可能であるため,航空機産業もロ 3.日本人移民と農業発展 サンゼルス地域に集積した.ハリウッドのガレー 南カリフォルニアの経済的機会に引き付けられ ジで始まったロッキードエアクラフトは 1930 年 てこの土地にやってきた人びとの中には日本人移 代に生産を拡大し,日米戦争によって大きく成長 民も含まれた.19 世紀末から 20 世紀初頭にかけ した.サンタモニカで設立されたダグラスエアク て,日本人移民の初期の集住地域は移民の上陸地 ラフトは 1930 年代に旅客用飛行機を製造し,第 であるサンフランシスコとその周辺地域であった 二 次 世 界 大 戦 中 に 拡 大 し た( Pit and Pit, 1997, が,1906 年のサンフランシスコ大地震を契機とし 120, 258-259) . て南カリフォルニアへの移動がおきた.日本人が 流入した時点で経済が確立していたサンフランシ 2.工業発展と郊外化 スコに比べて,南カリフォルニアには日本人移民 1940 年代から 1960 年代にかけて,ロサンゼル が入り込むことのできる経済の隙間が多く存在し スを中心として南カリフォルニアの経済は継続的 に発展した.この時期にアメリカが経験した 3 つ たし,経済規模自体が拡張を続けた. サンフランシスコの日本語新聞には, 例えば の戦争(太平洋戦争,朝鮮戦争,ベトナム戦争) 「南加労働案内―労働者への福音―」と題する広 はいずれもアジアを戦場としており,西海岸では 告記事が掲載され,「南加州は何故に多数の労働 航空機,軍需産業,電子工学などの工業発展が加 者を要するか」が農作物ごとに解説され, 「労働 速化した.ロサンゼルスはこうした軍事関連の工 を以て成功せんとする同胞は必ず南加州に来る可 業発展の拠点であり,労働力需要が拡大した. し」と結ばれた.経済成長の著しい南カリフォル この時期はモータリゼーションによる郊外化が ニアは,日本人にとっても経済的な可能性を実感 進展した時期でもあった.20 世紀前半に都市交 することのできる地域であった(矢ケ ,1993). 通の主役を演じたパシフィックエレクトリックレ 日本人移民は南カリフォルニアの農業の発展に イルウェイに代表される郊外電車網は,20 世紀中 おいて重要な役割を演じた.ロサンゼルスを中心 頃には自動車の普及によって姿を消した.第二次 とした人口増加は生鮮食料品に対する需要を生み 世界大戦後の経済の好況を反映して,自動車の増 出した.日本人はロサンゼルス市の近郊に小規模 加と道路網の整備が進み,郊外化が加速化した. な農地を借地して多種類の野菜を栽培した.日米 とくにロサンゼルス南東部では,第二次世界大戦 開戦の直前には,ロサンゼルスの野菜の供給にお から 1950 年代をへて 1960 年代初頭まで,労働力 いて日本人は欠かすことのできない存在であっ 需要が拡大した.1920 年代から中西部や南部か た.また,人口増加を反映して,また,輸送技術 らの白人労働者の移動が活発化しており,ロサン の発達の結果,南はインペリアルバレーから北は ゼルス南東部で職を見つけ,近接する労働者住宅 サンタマリアバレーまで,南カリフォルニア各地 地に居住した.こうして白人の活気に満ちた郊外 に日系農業地域が形成された. ― ― 6 理想郷としての南カリフォルニア 日本人が生産した農産物はロサンゼルスの都心 郊外に居住する人びとに商品やサービスを提供す に開設された青果物市場に出荷された.青果物市 るショッピングモールが数多くつくられるように 場で農産物の卸売業に従事する日本人も増加し なった(矢ケ ・佐藤,2012). た.一方,ロサンゼルス大都市圏には野菜や果物 1970 年代以降,ロサンゼルス大都市圏を中心 を小売する農産物販売スタンドが増加し,多くの とした南カリフォルニアにおいて,スノーベルト 日本人が小売業に従事した.1940 年代初頭まで 現象とサンベルト現象が同時に進行した.都市周 には,日本人による野菜類の生産・卸売・小売に 辺の工業地区では衰退現象が,郊外では新しい発 おいて垂直的な支配構造を確立していた(矢ケ 展が起きた.だだし,こうした経済や産業活動の ,1993;Yagasaki and Fukase, 2010). 変化と並行して,新しい移民が理想郷を求めて流 ϬࠉከẸ᪘♫ࡢᙧᡂ̿⛣Ẹࡢ⌮㒓̿ 入した. 1.スノーベルト現象とサンベルト現象 2.移民の流入とエスニックモザイク 1970 年代に入ると,ロサンゼルス大都市圏を 1960 年代の公民権運動の結果としてアメリカ 中心とした南カリフォルニアは新しい局面を迎え 社会は大きく変化したが,なかでも 1960 年代の た.それは,産業構造の変化に伴う重工業の衰退 移民法の改正が大きな影響をおよぼし,多様な移 とハイテク産業・情報通信技術産業の発達,新移 民の流入が南カリフォルニアを特徴づけるように 民(とくにラテンアメリカ系とアジア系)の流入 なった.それまで入国が大幅に制限されていたア に伴う人口構成の変化によって特徴づけられた. ジアからの移民が急増したし,ベトナム戦争の結 また,グローバル化の進展に伴い,環太平洋地域 果として南カリフォルニアはインドシナ難民を受 の枠組みによるアジアからの投資が増加した.ロ け入れた.隣接するメキシコからは豊かな生活を サンゼルスはサンベルト現象を象徴する都市とな 夢見る越境者の流入が継続し,ヒスパニック社会 り,アメリカを代表する多民族都市となった. が拡大した.こうして,白人の世界から多民族社 20 世紀初頭から 1960 年代までロサンゼルス大 会へと変化した南カリフォルニアは,移民にとっ 都市圏は総合的工業地域として発展したが,産業 て恵まれた生活環境を提供し,さらに新たな移民 構造の変化を反映して著しい変化を経験した.製 を引きつけている. 鉄,自動車,航空機などの重工業は,産業構造の 2000 年の人口構成をみると,ホワイトは全国 変化を反映して,また軍需防衛産業の縮小によっ では 69.1 %を占めるが, カリフォルニア州では て, 1970 年代以降,衰退した.とくに 1970 年代 46.7 %,ロサンゼルス郡では 31.1 %を占めるのみ 後半から 1980 年代にかけて工場の閉鎖が相次ぎ, である. 一方, ヒスパニックは全国では 12.5 % 失業者が増大した.こうした変化は,アメリカ東 を占めるが, カリフォルニア州では 32.4 %, ロ 部や中西部の伝統的な工業都市が経験した衰退現 サンゼルス郡では 44.6 %である. アジア系は全 象であった. 国 で は 3.6 % で あ る が, カ リ フ ォ ル ニ ア で は 一方,ロサンゼルス大都市圏では,1970 年代以 10.9 %,ロサンゼルス郡では 11.8 %である.ロサ 降,サンベルト現象も並行して進展した.郊外に ンゼルス郡ではアメリカ社会の多数派である白人 は高度な技術を持つ技術者集団を雇用するハイテ が数の上では多数派ではない. ク産業・機械金属産業が集積する工業団地が形成 移民の理想郷は移民にとって住みやすい環境を され,新しいテクノポールとなった.また,郊外 提供する.そこではホスト社会からの圧力にさら には情報通信技術関連企業の集積地区や新しいビ されることなく生活することができる.多民族が ジネスセンター(オフィスパーク)が形成された. 共生するため,多様な文化に対する理解と共感が ― ― 7 地 理 誌 叢 第 55 巻 第 1 号(2013) 得られやすく,移民集団が独自の文化や生活様式 3.ヒスパニック化 を維持することが可能である.ある移民集団が同 南カリフォルニアにおいて圧倒的な存在感を見 じ移民集団に属する人びとを雇用して民族集団型 せる少数派集団はヒスパニックである.急増する 業種を経営することも一般的である.すなわち, ヒスパニックのなかで,とくにメキシコ系の人び 新しい移民にとって,居住においても,就業にお とにとって南カリフォルニアは豊かな生活を実現 いても,生活・文化の維持においても住みやすい できる理想郷である.南カリフォルニアには多く 環境は魅力的である. のメキシコ系が居住するし,労働を目的として合 ロサンゼルス大都市圏のエスニックタウンは, 法的あるいは非合法的に国境を越えて働きに来る こうした多民族社会を象徴する存在であり,独特 メキシコ人も多い.多数の不法移民の流入はさま の文化景観と活力に満ちている.第二次世界大戦 ざまな議論を引き起こすが,南カリフォルニアの 前からの移民街としては,都心部のチャイナタウ 経済がメキシコ 人労働者に大きく依存している ン, リトルトーキョー, ソーテルなどがあげら のも事実である. れ, 今日でも移民街の雰囲気を残している. 一 セルヒオ・アラウ監督『メキシコ人のいない日』 方,1970 年代以降の新しい移民の流入に伴って新 ( 2004 年)は,ヒスパニック(とくにメキシコ人) しい移民街が形成された. に大きく依存したカリフォルニアをコミカルに描 移民の理想郷を象徴するのが郊外型チャイナタ いた.すなわち,ある日突然カリフォルニアから ウンの繁栄である. ロサンゼルス都心部の東郊 ヒスパニックが姿を消し,社会も経済も大混乱す 10km に位置するモンテレーパークでは 1970 年代 るという話である.実際,2006 年 5 月のメーデー に中国系住民が増加し,リトルタイペイやチャイ には, 「働かず,登校せず,商売せず,買い物せ ニーズビバリーヒルズと呼ばれるようになった. ず」をスローガンとして,全米の大都市でヒスパ さらに近年成長が著しいのが新興郊外型チャイナ ニックが参加する大規模なデモが行われた.ロサ タウンであり,モンテレーパークから 25km 東に ンゼルスではとくに経済的な損失が大きかった. 位置するローランドハイツ,アシエンダハイツ, アメリカ社会では,不法移民の教育や福祉に税 ダイヤモンドバーの地区である.中国系ショッピ 金が投入されることに対する不満が大きいし,不 ングセンターが華人資本によって経営され活気に 法移民がアメリカ人の仕事を奪うことに対する不 満ちている. 安も根強い.ヒスパニックの政治力が拡大するこ ロサンゼルス都心部の西に位置するのはコリア とに対する懸念も存在する.しかし,現実にはア タウンで,氾濫するハングルは独特なエスニック メリカ経済の基盤を支えているのがヒスパニック 景観を作り出している.この北側にはタイタウン であり,不法移民でも生活できる仕組みが出来上 とリトルアルメニアが,西側にはリトルエチオピ がっている.ヒスパニック居住地区ではメキシコ アがある.また,ロサンゼルス都心部から南東の 的な生活様式が維持される(矢ケ 郊外にはリトルインディアがあり,この地区には スペイン語による新聞が刊行され,ラジオやテレ かつて酪農に従事したアゾレス諸島出身のポルト ビが放送される.ここではメキシコでの生活を変 ガル系が集住する.さらに南東方向にはベトナム えることなく生活することができる. ほか, 2006). 系のリトルサイゴンがある(矢ケ ,2007;Allen 移民の流入は低賃金・非熟練労働力の存在を意 and Turner, 2002 ).このようなエスニックモザイ 味する.とくにヒスパニックの女性労働力を活用 クは移民にとっての理想郷である. した衣料縫製産業が展開し,ロサンゼルス都心部 にファッション地区が形成された.こうした新し い第 3 世界型産業は,衰退したロサンゼルス都心 ― ― 8 理想郷としての南カリフォルニア 部の経済と景観を再生するうえで重要な役割を演 のワッツ暴動事件は公民権運動の時代を象徴した じている.衣料縫製工場は典型的な労働搾取工場 し,1992 年のサウスセントラル地区暴動事件は記 であり労働条件は悪いが,新移民にとっては就業 憶に新しい.豊かさと貧困が混在し,人種民族や 機会の一つである. 社会経済階層による居住地区の分断化はロサンゼ ルス大都市圏の現実である.最近では高級なゲー ϭ まとめ ト付隔離住宅が郊外に増加している. 本稿では,南カリフォルニアへの人口移動を 4 こうした現実が存在する一方,理想郷としての つの理想郷を設定することにより説明した.もち 南カリフォルニアの活力は衰えてはいないように ろん,夢を描いて南カリフォルニアにやってきた 見える.もっとも新しい理想郷は移民の理想郷で 人びとにとって厳しい現実も待ち受けていた.事 ある.南カリフォルニアは次にはどのような理想 実,南カリフォルニアではさまざまな事件が起き 郷として認識されるのであろうか.今後も南カリ た.1871 年にロサンゼルス中心部のネグロス街 フォルニアの地域性について地誌学の観点から検 でおきた中国人殺害事件では 19 人の中国人が殺 討を継続する必要性がある. 害された.1943 年のズートスート暴動事件では (2013 年 3 月 16 日受付) 白人青年がメキシコ系青年を暴行した.1965 年 (2013 年 5 月 11 日受理) 文 献 矢ケ 矢ケ University, Northridge. 典隆(1993) 『移民農業―カリフォルニアの日 デーナー,R. H. 千葉宗雄訳(1977)『帆船航海記』 本人移民社会―』古今書院. 海文堂出版(Dana, R. H. (1840) Two Years before 典隆(1999)19 世紀におけるカリフォルニア のイメージと地域性.学芸地理,54,2-20. the Mast, A Personal Narrative of Life at Sea.) 矢ケ 典隆(2007)ビデオ教材制作による地誌教育の Donley, M. W. (1979) Atlas of California. Portland: Aca- 試み.学芸地理,62,1-12. demic Book Center. 典隆(2010) :19 世紀の南カリフォルニアにお Gudde, E. G. (1998): California Place Names: The Origin ける都市建設と集団入植事業.歴史地理学,52 and Etymology of Current Geographical Names. 矢ケ (3),1-29. 矢ケ Fourth Edition. Berkeley and Los Angeles: UniverHastings, L. W. (1845): The Emigrants’ Guide to Oregon 学概論』朝倉書店. 矢ケ sity of California Press. 典隆・加賀美雅弘・古田悦造編(2007):『地誌 and California. Cincinnati: G. Conclin. 典隆編(2011):『アメリカ(世界地誌シリーズ McWilliams (1946): Southern California Country: An Is- 4)』朝倉書店. land on the Land. New York: Duell, Sloan & Pearce. 矢ケ 典隆・椿真智子・佐々木智章・深瀬浩三(2006) ロサンゼルス市ボイルハイツ地区における 90 の Nordhoff, C. (1873): California: for Health, Pleasure, and 壁画―資料と地理学的アプローチ―.東京学芸大 Residence, A Book for Travellers and Settlers. New 学紀要人文社会科学系 II,57,33-46. York: Harper & Brothers. 典隆・佐藤紘司(2012)ロサンゼルス大都市圏 Pit, L. and Pit, D. (1997): Los Angeles A to Z: an Ency- における 100 のショッピングセンター.東京学芸 clopedia of the City and County. Berkeley and Los 矢ケ 大学紀要人文社会科学系 II,63,53-71. Angeles: University of California Press. Allen, J. P. and Turner, E. (2002) Changing Faces, Chang- Saunders, J. B. deC. (1967): Geography and geopolitics ing Places: Mapping Southern California. North- in California medicine. Bulletin of the History of ridge: Department of Geography, California State Medicine, 61 (4), 293-324. ― ― 9 地 理 誌 叢 第 55 巻 第 1 号(2013) Thompson, K. (1969): Insalubrious California: Percep- Yagasaki, N and Fukase, K. (2010) : Japanese farming, tion and reality. Annals of the Association of Ameri- urban sprawl, and changing land use in Gardena and can Geographers, 60, 230-244. Torrance of the Los Angeles Metropolitan Area. Thompson, K. (1971): Climatotherapy in California. California Historical Quarterly, 50, 111-130. Geographical Review of Japan Series B, 83 (1), 1531. Vance, J. E., Jr. (1972): California and the search of ideal. Annals of the Association of American Geographers, 62, 185-210. Southern California as an Earthly Paradise: Regional Image and Four Waves of Migration Noritaka YAGASAKI* Key words:paradise, regional image, migration, Southern California, regional geography *Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon University ― ― 10
© Copyright 2024 Paperzz