再録・吉野作造講座 @「浪人会との対決」

吉野作造記念館だよ り
れが抑 えられれば息苦しくな る の
。
は当 たり,
刑な のです
、
、
また 政治 の民主化 には 表 現
。
の自由 の優越性 は不可欠 です
もう 一つは、ジ ャーナリズ ムの
持 っている宿命的性格 ︱なされ た
表現は多く のパリ エーシ ョン ︵
変
、
形︶を持 つが故 に いずれを唯 一
己 の内と外を結び付ける ﹁
表現﹂
は、人間 の生命活動 そのも のであ
る、と言 っても いいでし ょう。 こ
、
今回 特 にこのテー マを取 り上
、
げた理由 は二 つあります一 一つは
思想 ・言論 ・学問研究など に加 え
られる圧迫や弾圧 の恐 ろしさと不
自由 さ です。人間 の呼く息 に音 声
、
を添えたも のが言葉 であ る以上
0は じめ に
再録 ・吉野作造講座
浪大会 との対決」
②「
とその前後
の事実とし て認識 す べきか ︱ の間
。
題 です
同 浪 大 会 と の立 会 演 説 会
一九 一八 ︵
大正t︶年, 一月 二
卜 一日夜六時 より、東京神 日前 明
、
倶業部 に於 て 国家i義団体 ﹁波
大会﹂派 の六 ・七名と言野作 造 一
人 とが対決 した立会演説会 の こと
。
、
です き野 によると この直 接 的
、
の
理由 は ﹃
大 阪朝
が国
﹃上 論 調
、
体を言涜 し朝意を素乱するとして
浪人会が不穏な暴力的言辞 で大 阪
、
朝 日を攻撃し 同社村山社長 を望
撃した事件 ︵一九 一八年九月 二十
、
八 日︶ に ついて 吉野が ﹁
中央公
論﹄同年卜 一月号 で ﹁
斯く の如 き
形 で言論 に 一柿 の圧迫を試 み る の
は決 し て宮 ぶべき現象 ではな い。﹂
と非難 した こと にあ る の です 。
同年十 一月十 二日付 ﹃日記し
︵
き 、 この演説会 の結果、 二 つ
て
、
の点 ﹁
立会演説会 ﹂ の性 格 と形
、
式 及び両者間 で取り交わされ た
と 一部新聞が伝える ﹁二項g合意﹂
の有無が問題となりました。
、
前者 に ついて吉野 は 一九 二六
大正卜五︶年八月 に ﹁
︵
立合演 説﹂
と いう小文 を吉き、①互 いに 一歩
も引けな い時、② 双方から二 ・二
卜名 の識者を出し合 って、公平 な
、
害判を仰ぐ ③ そこでい った ん方
、
向 が決 ま ったら ﹁
我 を折 って﹂
、
、
従 う べし と提案 したが 浪人 会
側から拒否されたと証言し ていま
。
す
ま た、 二項目合意 に ついては、
、
﹁
報知新聞﹄ は ﹁吉 野 が 大 阪朝
日新聞村山社長襲撃事件 に つき浪
、
大会側 の介明を聞き 言論圧 迫 の
意図なきを認 めた こと﹂ ﹁両者 が
君民 一致 で合意した こと﹂ のこ項
目を、﹁
東京 同 日新 聞﹂ は後 者 の
。
、
みを報 じ ています しか し ﹁学
生社会運動史﹄ ︵
菊 川忠 雄著 ︶ も
黎 明﹄ ︵
麻生久誉︶も この件 には
﹃
。
一切触 れ ていません 吉野自 身 も
日を つぐん でいます。菊川 や麻生
は、吉野が指導し て設けた新 人会
の有カ メンバーだ った のです。 そ
し て、 三者 は異 日同吉 に、吉 野側
の圧倒的勝利を宮言し ています。
果たし て事実 は?疑間は容易 には
。
解けません
同﹁
立 会 演 説 会 ﹂に
至 る背 景
ロシア革命や 一次大戦後の社会
、
主義や自由平等 独立平和などの
国際的思想動向、及びシベリア出
、
兵決定と これ に端を発し て全 国
に波及した米騒動 のもたらし た社
、
会的政治的混乱が 逆 に国粋 主義
者連 の収 りを覚まさせたと いう こ
とも できます。しかも、吉野 は米
さ0 ■,
、
嬢動を 庶民運動 の題として評価
しているのです。
寺内内閣と大阪朝 日とは因縁 の
。
弾圧 ・抵抗 の抗争があります 一
、
九 一八 ︵
大正七︶年八月十 四日
同内閣水野内相より ﹁
米騒動 に関
する記事 の差し止め命令﹂が発 せ
、
られると ﹃
大阪朝 日﹄は 八月■
七日開催の ﹁
言論擁護内閣弾劾近
横新聞大会﹂の決譲 ﹁
寺内内閣 の
、
非連を弾劾し引監辞職を期し 言
論報通 の自由を擁護せんとす﹂ を
。
詳しく報じました
、
一方 国家主義者 による大阪朝
日圧迫は、八月二十六日付 ﹁寺内
内閣弾劾関西記者大会﹂記事中 の
コ翌日虹日を貫けり﹄⋮﹂部分 に対
、
する国家主義団体 の攻撃がもとで
白虹不敬﹂により発
大阪朝日は ﹁
、
売禁止処分となり 九月ニト八 日
には ﹁
白虹 記事 に憤激﹂した国家
主義団体黒籠会社士池田弘寿ら に
、
よ って 社長 の村山龍子が白昼要
。
掌されています
さらに、十月九 日には浪人会 の
主催 による ﹁
大阪朝日新聞膚慾 ・
、
国体擁護演説会﹂が開催され 同
。
会員百五十名も参加し ています
これらの動きの共通しているパ
ターンは、寺内内閣 の大阪朝 日弾
圧←大阪朝日の寺内批判←国家主
義者 の大阪朝日攻撃 ︵
朝日膚懲 =
国体擁護︶と い ついたちご F ﹂の
。
、
総図を示しています ︵ただし
寺内内閣は九月二, 一日辞表提出︶
白虹を貫く﹂と共乱がある前兆
個﹁
側大 阪 朝 日 の
収拾策 と吉野
寺内内閣と国家主義団体による
、
執助なま での大阪朝 日攻撃事件は
結局大阪朝 日の社長 ・編集長 ら幹
部 の総入れ替 え ︵
十月︶と編 集方
針 の大転換 ︵
十 一月卜五 日︶ と い
う、大阪切 同側 の 一方的撤退措 置
によ って 一応 の落皆 を見 、 ﹁白航
守件﹂ の非科紋ヤを取少限度 に留
。
、
ある ことが できました しかし
、
大阪朝 日側 の取 った ﹁
撤遺劇 一は
、
却 って国家主義者を勢 いづかせ
収拾策 の重要な桂 であ った ﹁新 聞
編集細領﹂ 令上下 一心﹂を強 調﹀
、
公表 一週間後 に 吉野を ﹁
浪 人会
と の立会演説会﹂ に走らせ ている
。
のです
立 会 演 説 会 ﹂の 余 波
働﹁
、
﹁
立会演説会﹂を評価して 麻
4は ﹁
慎大会が黎明会を建設させ
、
た﹂ と明言 したが ヒタ ヒタと寄
、
せ てく る国家主義 の流れに対して
吉野と福田徳〓らは ﹁
黎明会 ﹂ を
前衛的防波堤たら しめ
組織 し て ﹁
、
ん﹂と企 て 東大法科学生を中 心
、
に 自由思想 の研究宣伝を主 眼と
、
する ﹁
新人会﹂が 吉野 の指 導 の
。
下 に誕生した のです
言論弾圧と命がけ で戦 った吉 野
、
のh みど ろの努力 の上 に 今 回 の
学問 ・表現 の自由 が築かれ て いる
とすると、私連が、 この自由 を大
いに活用す ること こそ、先人 に報
いる唯 一の道なのです。
︵
嘱託 横山 寛勝︶