◆連載・心理療法とTA・第1回目 『心理療法とTA』 杉田峰康 福岡県立大学名誉教授、同大学院講師 日本交流分析学会理事長 第1回目 ・心理療法とはこんなもの ・してよいことと悪いことを決定する"P" ・トイレで何分間も質問するアメリカの学生 ・意のままにならない葛藤によって起こる「不安」 このコーナーでは、「交流分析」が心理療法の中でどのような位置づけにあるのか を、TAネットワークの理事である杉田峰康先生にお書きいただきました。 あまりたくさんの技法を勉強して、どうしたら良いか分からなくなる事は避けなけれ ばなりませんが、「交流分析」ただ一つだけでは、難しい面もあります。 他の心理療法にどんなものがあるのかを勉強するきっかけにしていただければ幸 いです。 また、その中で「交流分析」の良さも再認識していただけたらと思います。 今回を第1回目として、5回に渡る連載をお願いしました。どうぞお読み下さい。 ・心理療法とはこんなもの 普通「サイコ」と言いますと、不安とか劣等感など、内的な状態をいろいろ言うと思い ます。「心理療法」と言いますと、「カウンセリング」とか、「精神分析」、あるいは「精神 分析的な面接療法」と同義に考える方が多いと思います。 心身医学では、心と身体が一つであるという立場から、心を単に私どもの内的な体 験(葛藤とか、ジレンマとか、悩みとか、秘密事とか)にとどまらず、外的な体験(行動) として表わすこともあります。 例えば、愛情不足による欲求不満の場合、ご飯を食べ過ぎる食行動異常とか、万 引をして物を集めるという行動異常が起こります。最近では心が外的な表現としての 行動にも関連してとらえられています。精神の不適応を治すのが心理療法ですが、最 近は、行動面の不適応も治していこうという考え方が広まってきております。 少し前までは、「心理療法」というのは、お医者さんでないカウンセラーとか、サイコ ロジストの方がする方法だという考えがありました。そして、精神医学の関係者が行う ものが「精神療法」だとする考え方がありました。けれども、最近は心理療法も精神療 法もほとんど同義語になっているとお考えになってよろしいと思います。 ・してよいことと悪いことを決定する"P" 大半の皆さんは、P,A,C の「自我状態」について何度も勉強なさったことと思いま す。もう一度簡単に説明させていただきますと、交流分析では「私どもの心の中に3つ の状態がある」と基本的に考えるわけです。 昔から無意識の心理学が確立されていて、これは「イド心理学」とか、「エス心理学」と か言われます。 フロイトは、「無意識が行動を決定する」としましたが、彼の弟子たちは徐々に「心に は意識している部分がある、あるいは意識できるはずなのに意識していない、気づい ていない部分がある。こういうものをもう少し考えよう」といって、「自我心理学」を作り 出したのです。交流分析も、自我心理学の代表的な学派の一つなのです。 TA では、伝統的に実体としてとらえられてきた自我を"状態"としてとらえ直したので す。自我状態の大きな特色は、それ自体のエネルギーを持っているということです。 心の動きの中でも、親からいろいろと教えられたり、言われたりしたものが、ちょうど テープレコーダーのように私どもの中に働いているのを「親の自我状態」と言います。 具体的に言いますと、「頑張りなさい」「急ぎなさい」「他人を喜ばせなさい」「勉強しな さい」「食べ過ぎてはだめ」。古い考えとしては「親孝行をしなさい」なども記録されてお ります。親が教えたり教育したりしたものが、ちゃんと私どもの頭の中に残っている。 これが、親の自我状態です。まあ、ピーピーいう面が多いから、P とでもお覚え下さ い。 それから今度は「子供の自我状態」。これは私どもが生後7−8歳ぐらいの状態で振 舞うことです。例えばお膳をひっくり返すとか、かんしゃくを起こすとか、すねるとか、ひ ねくれるとか、スピードを出しすぎて交通規則を破るとか、不倫の恋をするとか、(不 倫の恋というのは、好きな人をママ、ママと求めるような子供っぽい状態ですから)、 まあいろいろありますが、それを C(チャイルド)といたしましょう。おもに、感情的な要 素が強いと思います。 そして、真中に大人の自我状態、A(アダルト)があります。これはよくコンピュータと 言われます。感情的な部分が少なくて、論理の法則に一致するような状態です。要す るに情報を集めてそれを分析したり、将来を見透したり、状況を判断したり、評価した りするコンピューターのような部分。「冷静な私」「考える私」とでもお考え下さい。 カウンセリングの方ではよく5つの W と1つの H と言いますね。「いったい何が問題な の(What?)。いつからそんな問題があったのかな。いつから病気になったのかな (When)。どういう人との関係でそういうことが起こるの(Who)。身体のどこに起こるの、 あるいはどこで特に症状が起こるの」とか。例えば病院内では発作が取れるれけど、 外泊するとすぐ発作が出てしまう、なんていうと場所が問題ですね(Where)。 それから「なぜなんでしょうね(Why)」と一緒に考えます。大人の自我状態はコンピ ュータにデータを入れて判断するということに似たような状態です。要するに、冷静に 皆さんがいろいろと情報を集めて、評価して、何がいいか選んで行く、そういう心の働 きです。「どのようにしてこういう形になったのか(How)なども、入れていいかと思いま す。 こうした親、大人、子供という3つの自我状態の話を聞くと、心理学を勉強なさった方 は、精神分析の「超自我」とか、「自我」とか、「エス・イド」などの本能衝動と、結局同じ ものではないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、P,A,C と「超自我、 自我、エス(イド)は、まったく同じものではないと思います。 「超自我」のほうは主に概念です。人によっては P の中に、「汝盗むなかれ、汝殺す なかれ、汝嘘をつくなかれ」とかいう教えも入っていることもありますが、P はこのよう な道徳的な禁止だけではありません。 たとえば皆さんの家がバリバリ商売して儲けていらっしゃるとすると、お父さんの生 き方から「商売というものは嘘をつきながら、適当にいかに法律をごまかすかが大事 なんだ。正直者は商売はできないぞ。どんなお金の儲け方でもいいんだ」というような P をもって育つことになるかもしれないのです。特に泥棒の家に生まれれば、当然盗 んできたときに親から喜ばれる。「よく盗んできたねぇ」「もっと上手に盗んでおいで」 「良くできたねぇ、なかなか将来、見所のある奴だ」なんていうふうに言われると、他の 人と大部違った P をもつことになるわけです。「他人のお金も自分のお金」とすぐ考え る人が世の中にいますでしょう。 超自我には、「絶対に盗んではいけない」という道 徳的、倫理的なものが入っています。これは、社会的規範を既念化したわけですね。 人類が共存するためには殺してはいけない、盗んではいけない、傷つけてはいけな い、という共同感覚があります。 しかし、P の方はあなたのお父さん、お母さんがどういうふうに教えたり、しつけたり したか、それが頭の中に記録されている、ご自分の体験です。だから超自我は普遍 的な既念ですが、P は個人的な体験です。P の方は微妙にお一人お一人違うと言って いいと思います。 ・トイレで何分間も質問するアメリカの学生 アメリカで学生生活をして驚いたのですが、特に学生寮などにはトイレにドアがない んです。オシッコをするにも、大きい方をするにも、人がどんどん入ってくるんです。誰 も何とも言わないんです。ものすごく恥ずかしいですよね。日本ではトイレというのは、 特に私の育った頃は家のうしろの方にあって、豆電球の暗いのがついていて、ドアが あって絶対に人が入ってくるところではありませんでした。今は大部明るくなりました が、やはりそうでしょう。 向こうでは平気なんです。例えば私がトイレで用を足していると友人が入ってきて、 いろいろな質問をするんです。10 分も、20 分もそばにいるんです。大便をしているとき にですよ。彼らの排便に関する考え方、体験は、ぜんぜん違うのです。 例えば東京駅のホームで、新幹線の前で 10 分間キスをしてごらんなさい。日本では やはり、人が変な目で見るでしょう。向こうではそれが普通なんです。 アメリカにおりましたとき、私は 20 歳代でした。親は日本にいて、アメリカにはいない はずなんです。しかし、女の子とお茶を飲むとやましい気持ちになって、父が見ていな いかなぁと思って、周囲を見回しました。私の P はそういう意味で非常に厳しい。でも これが私の P なんです。私と同じ 20 歳代のアメリカの男性は、公衆の面前でキスをす ることがオーケーだし、トイレに平気で入ってきて話しかけることもオーケー、こんな違 いがあるのです。 日本では、誰もいないところでちょっと立ちションベンをしても、そんなに悪いことは ない。アメリカで立ちションベンなどをしたら、ものすごく怒られる。大変な法律違反で す。悪いことです。こんな矛盾があるのです。 私ども男達なら、夜誰もいなかったらオシッコをしますよね。この頃は大部少なくなり ましたけれども、ときどき見かけきすよね。向こうでそんなことをしたら大変なことです。 国や育ちによって、P はずいぶん違うものなのです。 アメリカ人というのは面白いことに、誰もいないと赤信号を平気で渡ります。車がい なけりゃどんどん渡ります。日本では信号機が故障しててもずーっと待っている。こう いうふうに文化の違いによって同じ P でもずいぶん違うものなのです。 ・意のままにならない葛藤によって起こる「不安」 次に、心理療法の主題である不安がどうして起こるのかについて考えてみましょう。 心の内界をみると、P の「べき」主義と、C の「したい、欲しい」という状態との間に戦 いがあって、調整役である A がたいへん苦労しているのを「葛藤」というわけです。葛 藤、ジレンマ。「こうしたい」対「こうしちゃいけない」の戦いです。 例えば「あの人いいなぁ、美しいなぁ、でもあの人にはご主人と子供がいる」、不倫 の恋をするとき、あの人が欲しい。でもいけません、という具合に心に戦いが起こりま すね。こうした葛藤によって、不安というものが起きてくる。また、不安の程度は心を破 局へと導く葛藤の程度に応じています。この不安の処理のしかたがよくないと、抑圧 が生じ心で起こる体の病とか、心で起こる行動の障害をもたらします。心の病に関す る病原体は何かというと、ひとことで言えば不安です。ノイローゼ、精神病の発病も、 性格傾向の形成も、不安の防衛をめぐってなされるのです。不安にどういうふうに気 づいて、どういうふうに処理するか、不安を気づかないように抑えてどういうふうにご まかすか、ということが精神的な保健と病気との別れ道になってくるわけです。 自分の中の相反する力に気づいて、それをセルフ・コントロールするという方法があり ます。人間は生きている限り誰かを好きになったり、誰かを殺したくなったりするもの です。そういう気持ちによく気づいて、P,A,C の声を聞きながらセルフ・コントロール するという生き方が望ましいのです。しかし、それを性欲もない、攻撃性もない、甘え もないというふうに不安が衝動(C)を押さえ込んでしまうと、これがずっと積み立て預 金のように積もってきて、行動自体がそれによって牛耳られてしまう。だから、自分の 心の中の戦いに「気づく」ということはとても大事だということになるわけです。 ●●●/TA ネットワーク 機関紙第 2 号 1996 年秋号 より抜粋/ ●●●
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