精神異常という意味合いで「サイコ」という表現が定着したのは、アルフレッド・ヒッチコック(写真 上)の同名映画(1960年、写真下)が公開されヒットしてからだろうか。短編ミステリの名手として知ら れたロバート・ブロックの長編「サイコ」を一読したヒッチが映画化を思い立つ。いまは差別用語となっ ている「きちがい」というほどの意味が込められたタイトルだ。当時、スパイ映画の金字塔として知られ る「北北西に進路を取れ」を撮り終え、名実ともに絶頂期にあって「マスター・オブ・サスペンス」と奉 られたヒッチが、選りに選ってなぜゲテモノ小説を映画化するのかと周囲は猛反対したらしい。ところ が、ヒッチも引かなかった。よほどの執着を覚えたのだろう。そこまで映画化にこだわるほど「サイコ」 という小説が魅力的に思えたのは、ヒッチ独特の勘というか、活字よりも映像化したほうが断然おもしろ いという自信があったからだろう。ことほどさように原作の「サイコ」は、当時全米を震撼させた猟奇大量殺人事件に材をとったキ ワモノの域を出ない恐怖小説でしかなかった。それが、ヒッチの手にかかると見違えるほどの傑作に変貌するのだ。先ごろ公開され た新作「ヒッチコック」(サーシャ・ガヴァシ監督)は、そうした事情を中心に幼児性の強い巨匠を支えたアルマ夫人や関係者との 確執を描いている。 映画は、とある平凡な町の安ホテルの窓からカメラが潜り込み、ひと組の男女が昼下がりの情事を楽しんでいる現場を捉える。名 作「裏窓」(54年)などで見せたヒッチお得意の覗き見趣味を象徴するようなファーストシーンだ。昼休みを終えた女(ジャネッ ト・リー)はホテルから事務所に戻り、売上金を銀行に入金するため再び外出するが、女は銀行なんかに寄らず会社の金を持ち逃げ する魂胆だ。町からだいぶん外れたところに、ゴシック・ロマン(恐怖小説)の表紙にでも出てきそうな如何にも不気味な一軒家の モーテルが建っていて、女はそこに一夜の宿を求めるのである。もうここで、観客はヒッチの術中にはまっているのだ。フロントに 現れるのが何か病的な一面を持つ思わせぶりな細面の青年。トニ・パキこと、これでブレークすることになる若き日のアンソニー・ パーキンス。管理人部屋には何気なく鳥の剥製なんかが置かれていて、この青年の趣味嗜好を暗示する。相変わらず、こういうとこ ろがヒッチは巧い。さらに、青年には老母がいるらしく、どうやらモーテルと青年を実質的に支配しているように見える。かれがマ ザーコンプレックスであることは容易に見てとれる。青年の挙動からこの老母の存在感が徐々に観客の脳裏に焼き付けられるのだ が、なかなか姿を現さない。ここもまた、ヒッチの手際の鮮やかさで、観客は終わってから「やられた」と気づくのである。 女はとりあえず部屋に案内されてほっとしたところでシャワー室に立つ。お湯を浴びる女の背後に老婆らしい人影が近づき、手に は大きなナイフが握られている。そのナイフが繰り返し容赦なく女に振り下ろされる。鋭い悲鳴!血(モノクロだからよけいにリア ルだ)が渦巻いて床の流水口に流れ込んで行く。その渦がやがてジャネット・リーの見開かれた眼にかぶさる。カメラは徐々に後退 して、恐怖のあまり目を見開いたまま息の根のとまったリーの顔のクローズアップで画面転換。映画史上、もっとも有名なシャワー 場面だろう。サスペンスのお手本のような描写と編集である。大金を持ち逃げされた会社は探偵 (マーチン・バルサム)を雇って女の行方を追う。一方、女の妹(ヴェラ・マイルズ)と女の彼氏 (ジョン・ギャビン)も突如出奔して行方をくらました女を捜す。 この映画が封切られた当時、アメリカでは途中入退場を禁じ、上映中は出入口を封鎖してしまった そうだ。ヒッチ自身が「この映画の結末を決して口外しないでください」と異例の呼びかけを行っ た。おどろおどろしい怪談と見せかけておいて、実はラストで理にかなうドンデン返しが待ち受けて いるという趣向だから、結末を伏せたのである。 一般には前述したシャワー場面が有名で、これまでいろいろな映画に引用されたり、応用されてきた。ヒッチコッキアン(ヒッチ コック信奉者)として知られるブライアン・デ・パルマ監督の「殺しのドレス」(80年)がつとに有名だ。しかし、ほかにも印象的 な場面がいくつもあって、私がとくに好きなのは、モーテルを訪れた探偵が真相に近づくや、どこからともなく現れた老婆にナイフ で一撃され、階段から転落する場面。凡庸な監督なら探偵が転落するところを階下にカメラを構えて捉えるか、側面にカメラを据え て階段を真横から撮るだろう。しかし、われらがヒッチはそんな平凡な手は使わない。カメラは驚愕する探偵の顔をアップで捉え、 そのまま階段を(探偵と一緒に)落ちて行くのである。ヒッチの傑作「めまい」(58年)ではないが、観客も一瞬めまいを覚えるよ うな不思議な視覚効果をもたらした。前出の「ヒッチコック」という映画で、この場面の撮影シーンが出てくる。ヒッチが急病で倒 れたため会社は代打の監督を連れて来るが、撮影現場に来ていたアルマ夫人が「ヒッチコック映画に監督はふたり要らない」と追い 返してしまう。絵コンテが既にあったとはいえ、アルマ夫人が現場を仕切って撮影を終えたのが真相らしい。アルマ夫人は単なる内 助の功というのではない。何しろ脚本家出身だから映画のイロハをよく知っていた。 この映画のもうひとつの魅力はバーナード・ハーマン作曲のテーマ音楽である。映画音楽の傑作といってもよく、これほど映画の 内容と音楽がマッチした例は少ない。絶えず不安をかき立て、神経を逆撫でするような金属音の繰り返し。これも映画「ヒッチコッ ク」を引用すると、ヒッチはシャワー場面を音楽無しで仕上げようとしたようだ。ところが、ハーマンは例の音楽を挿入したほうが サスペンスを増幅できると主張し、アルマ夫人も同調したので、巨匠はついに折れたらしい。 ヒッチが猟奇を好むのは英国時代の初期の作品を見てもわかるが、たとえば中期の佳作「ロープ」(48年)はまさにサイコといっ てもよいインテリ青年の快楽殺人を扱っているし、コミカルな「ハリーの災難」(55年)はハリーという男の死体を登場人物たちが あっちへやったり、こっちへやったりして責任転嫁するというブラックコメディの珍品だった。こういう感覚はヒッチ特有のもの で、あたかも猫がネズミの死体をもてあそぶような発想はあまり健全ではないだろう。晩期の「フレンジー」(72年)はヒッチの生 まれ故郷であるロンドンを舞台とした猟奇連続殺人事件だった。つまり、この人の本質は決して「ご家庭向き」ではなく、ちょっと アブナイところにあるというのが私見である。誤解を恐れずにいうと、実はそれこそがヒッチコック・サスペンスの魅力である。一 見、普通に見えていて、実はその底辺に異常な感覚が潜んでいるというか。 「サイコ」のもととなった大量殺人の犯人であるエド・ゲインという男が映画「ヒッチコック」ではヒッチの幻想となってたびた び登場する。ヒッチはゲインの中に己を見たのかも知れない。
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