ちばてつや氏 スペシャルインタビュー

FGひろば153号
クリエイターズ・アイ
Web Special Version
漫画家
ちば て つ や 氏
P R O F I L E 1939年
(昭和14年)
東京生まれ。1956年、単行本作品でプロの漫画家に。
1958年『ママのバイオリン』
で雑誌連載を始め、1961年『ちかいの魔球』
で週刊少年誌に
デビュー。主な作品に
『ユキの太陽』
『 紫電改のタカ』
『 ハリスの旋風』
『みそっかす』
『あした
のジョー』
『おれは鉄兵』
『あした天気になあれ』
『のたり松太郎』
など。社団法人日本漫画家
協会理事長。2005年からは文星芸術大学の教授を務める。
原点は、印刷のヤレ紙。ジョーも鉄兵も松太郎も、
みんなそこからつながっている。
迎えた昭和20年に、私が6歳だったということ。
紙と鉛筆、童話2冊を鞄に詰め込み
命懸けの逃避行
編 お父さまは、
大陸に渡る前、
日本でも印刷に関係するお仕
事をなさっていたんでしょうか。
編 昨年、画業55周年を記念して
ちば いまでもお茶の水にあるのかな、
『 主婦の友社』
という出
出 版された「 総 特 集ちばてつや 」
版社におやじもお袋も勤めていて、
やがて結婚して、
それから
の文藝別冊に、
ご自身の満州引き
大陸に渡ったということは聞いています。
揚げ体験を漫画にした『 家路
編 新大陸印刷というのは、
日本の印刷会社の中国工場だっ
』
(※1)
という短編が掲載されていましたよ
たんでしょうかね?
ね。その冒頭、
「 新大陸印刷の工場
ちば いや、詳しいことはよくわかりません。
の中庭で遊んでいた」
という一文に、
編 社宅では、
どんな暮らしぶりだったんですか?
思わず目が止まってしまいました。印
ちば 中国というのはとても寒いところで、1年の3分の2ぐら
刷業界の皆さんに向けたPR誌の
いは、外が零下何℃にも下がるんです。だから私らみたいな
文藝別冊『総特集ちばてつや』
(河出書房新社)
編集をながくやっているので、条件
子供はほとんどオモテで遊べない。よほど天気のいいときは
反射的に
(笑)
。
凍った川なんかでスケートのまねごとをしたりするけれど、零下
ちば おやじが勤めていた中国の印刷会社です。私は東京の
10℃とか20℃とかいう厳寒の日が何日も続くと、家の中で絵
築地の生まれなんですが、1歳にならない頃に両親と共に朝
本を読むぐらいしか、
やることがないんです。
鮮半島に渡りまして、
ソウルですね、昔は京城と言いましたけ
編 絵はお描きにならなかったんですか?
ど。そこで2番目の弟が生まれている。
ソウルでおやじがどうい
ちば 描きましたよ。でも、紙がとても貴重な時代でね。父親が
う仕事をしていたのか聞いていないんですが、やっぱり印刷
印刷工場から、
ときどき、
ヤレ紙をお土産に持って帰ってきてく
関係の仕事だったんでしょうね。そこから奉天、現在の瀋陽へ
れるんです。半端なサイズのヤレ紙の中から、
できるだけ大き
渡って新大陸印刷という会社に入り、私たち一家6人はその
めのを選んでね。紙が手に入ると、
もう嬉しくて嬉しくて。貴重
社宅で暮らしていました。自分が何歳のときに父が新大陸印
なヤレ紙を大切にしながら、大好きな絵を描いたり字を書いた
刷に移ったのかはわかりません。はっきりしているのは、終戦を
りして遊んでいました。
1
(※1)
『 家路』…初出・ビッグコミック
(小学館)
2003年10月25日
(No.20)
号
FGひろば153号/CREATOR'S EYE ちばてつや氏 ロング・インタビュー
編 しかし日本の敗戦と共に、
穏やか
すもんね。子供たちにしたら、手品かなんかをやっているように
な日々が一変してしまう。その恐ろし
見えるんでしょう。
い変わりようが『家路』に描かれてい
編 手品というより、
魔法じゃないですか?子供にとっては、何
ましたが、暴徒化した中国人や朝鮮
もない白い紙の上にペン1本で自由自在に命を創り出してし
人たちが、棍棒や刀を持って印刷工
まう神様みたいなもんですよ。いまこうして、
ちばさんが漫画で
場の高い塀を乗り越え、
なだれこんで
子供たちに夢を与えられるのも、
あの日、内乱や暴動が続く悪
きたんですね。
夢のような大陸から生きて日本に戻って来られたからですよね。
ちば はい。日ごとに暴動が激しくなり、
惨憺たる状況を切り抜け、
ちばさんのご家族6人が誰ひとり欠
私たち一家も、安全な場所を探して
けず全員無事に生還できたのは、奇蹟的なことなのではあり
社宅から逃げ出しました。みんなで慌
ませんか?
てて荷造りをしたんですが、私は紙が
ちば そうかもしれませんね。6人家族と言っても、僕とすぐ下
大好きだったから、大切にとっておい
の弟は何とか歩けたけれど、残りの二人は赤ん坊で、おんぶ
たヤレ紙と短くなった鉛筆、
それと童
に抱っこですから。そんな状況で、鉄砲の弾がパンパン飛び
話を2冊、鞄の底に隠し入れてね。親
交うような中を生き延びてこられたんだからね。
は、少しでも重くならないようにと心
編 やっと乗り込めた引き揚げ船の中も、
飢餓と病気との闘い。
配して「そんなものは置いていけ」
と
同じ社宅から逃げてきた友だちが死んでしまう場面が『家路』
言っていましたが、
どうしても持ってい
にありましたが、伝染病を恐れ海に流され葬られる我が子の
きたかった。まあ、親も、私が隠し持っ
名を、母親が絶叫するシーンには涙が出ました。
『家路』 © ちばてつや
ているのを知っていながら咎められな
ちば キョウちゃんていったなあ。不思議と苗字は覚えていな
かったんでしょう。大事に分けておいた、
とくに大きめのヤレ紙
いんですよ。キョウジという名前だけ。
でしたからね。
編 あんな状況では、
亡くなったのがちばさんでもおかしくない。
人は、
自分の意思で生きているように見えて、
やはり何か大き
乳飲み子2人を含む家族6人
誰ひとり欠けずに奇蹟の帰国
な力に生かされているのかもしれませんね。生かされた命で、
ちばさんは漫画家になられました。
しかも、
わずか17歳の若さ
でプロとしてデビューなさるわけです。
編 決死の逃避行の中で、
絵を描く機会はあったんですか?
ちば 逃げている途中で偶然、父親の同僚だった徐集川さん
原稿料の意味も知らずに貰った
初めての原稿料12,351円
という中国人に出会い、匿ってもらっていた時期があったので
すが、
そんなときは屋根裏部屋で息をひそめながら、社宅の頃
と同じように絵を描いたり本を読んだりしていました。
編 それにしても高校生でプロの漫画家とは、
驚きました。中
編 弟さんも一緒に?
学ぐらいからすでにプロを目指していたんですか?
ちば 絵を描くのは主に私です。最初は、弟にせがまれてお袋
ちば いや、
ただ好きで描いていただけで、漫画家になろうなん
が描いていたんですが、
たとえばロバを描くと、
それがまるでブ
てまったく考えていませんでした。小学生のとき、漫画が大好
タみたいで
(笑)。私が笑ったら
「じゃ、
あんたが描きなさい」
と。
きな同級生がいて、
その子が自分で本をつくっていたのね。自
さらさらっと描いたら弟が「ロバだロバだ」
と大喜びしてね。い
費出版でもないし同人誌でもないし。
ろんなものを描いてあげたなあ。自分の絵で、
あんなにも弟が
編 複製せずに、
現物の一冊だけ?
喜んでくれるとは思いもしなかったから、私も何だかとても嬉し
ちば そう一冊だけ。でも、2号・3号と続けてつくっていくんで
かったですね。
す。誰かに見せるというより、表紙から何から全部手描きで雑
編 絵の力というのは凄いですよね。東日本大震災のあと、
漫
誌をつくることを楽しんでいたのかな。彼に、
「ちばくんにもこ
画家の浦沢直樹
さんが避難所
の8ページをあげるから何か描いてごらん」
とか言われ、
その気
を訪れ、子供たちに漫画を描いてあげている様子をたまたま
になって毎回、作品を掲載していました。
そこからですね。漫画
ニュースで目にしたんですが、
あんなに悲惨な状況の中でも
を描く楽しさを知っていったのは。
子供たちは、
キラキラと顔を輝かせながら漫画家の手元を見
編 自ら漫画を描き友だちにも描かせ、
執筆も編集も一人でこ
つめ、
キャラクターが完成すると幸せそうに大歓声を上げるん
なすなんて、小学生とは思えない凄い同級生ですね。
です。
ちば その後、中学・高校と進路が別々になり彼と一緒に雑誌
ちば 私も、被災地の応援のために、子供たちの前で絵を描く
をつくることはなくなってしまいましたが、僕はそれ以降も一人
ことがありますが、確かにみんな「おお〜っ」
って言ってくれま
で漫画を描き続けていました。
さんや西原理恵子
(※2)
(※3)
2
(※2)
浦沢直樹
(うらさわ なおき)
…漫画家。代表作に
『YAWARA!』
『 MONSTER』
『 20世紀少年』
など。
(*3)
西原理恵子
(さいばら りえこ)
…漫画家。代表作に
『ぼくんち』
『 毎日かあさん』
など。
FGひろば153号/CREATOR'S EYE ちばてつや氏 ロング・インタビュー
編 高校生でプロになるきっかけは何だったのですか?
編 それにしても、
半端な金額ですね
(笑)
。
ちば ちょっと家の事情もあって、
できれば私がアルバイトで家
ちば 1円は、
お祝いでしょう。確かその頃に初めて、
いまのア
計を助けたいということもあり、新聞の3行広告を見ていたら
ルミの1円玉が発行されたんです。昭和30年か31年だと思
「漫画家募集」
というのがあった。自分が漫画家になろうとは
う。珍しいから、記念につけてくれたんですよ。
思いませんでしたが、
アシスタントか何かやって漫画に関わり
編 粋な計らいですね。
ながらお金になるなら、
という軽い気持ちで出かけて行ったん
ちば いい社長さんだったなあ。
です。面談で「何か作品はあるの?」
と聞かれたので、遊びで
「もう辞めていいよ」
母の一言で大きな壁を乗り越える
描いたものを見せたら、呆れられちゃって。
編 ストーリーがいま一つだったとか?
ちば いや、上手い下手以前に、墨を使わず鉛筆で描いてい
編 そんないい社長さんに才能を見出され、
高校生でプロデ
たり、
ケント紙を使わなかったり、漫画の原稿になっていなかっ
ビューを果たしたものの、
すぐに大きな壁にぶちあたってしまっ
た。それで、
その出版社の社長さんがプロの原稿を見せてくれ
たんだそうですね。
最低限の約束事を教えてくれ、
「 試しに30ページぐらい描い
ちば はい。それまでは、
ただ好きで好きで楽しんで描いていた
てきてみて」
と。一生懸命描いて持って行ったら、
「じゃあ、
こ
のに、原稿料を貰ったとたんに苦しくなってきたんです。責任
の続きも」
と、
そんなことを繰り返していたら、一つの作品が完
を感じてきたんだね。自分が楽しむんじゃなくて、買ってくれた
結し、
それを一冊の本にしてくれたんですよ。
人、貸本屋で借りてくれた人が、買ってよかった、借りてよかっ
編 実力テストかと思ったら、
テスト本番だった。
たと喜んでくれるだろうか、
あるいは出版社の社長さんもそうだ
ちば そうです。
それがいきなりプロとしてのデビュー作になって
し、お金を出してくれる人の期待に応えられるだろうかと考え
しまった。学校の文集用に描いた挿絵がガリ版で刷られたこ
るようになった。
もともと描くのが遅い方なのに、
「これで本当
とはありましたが、
まあそれも嬉しかったけれど、印刷物になっ
に読者に伝わるのか」
と悩んでいると、
ますます遅くなる。苦し
たという嬉しさは言葉では表わせないほどでした。フキダシの
くなる。技量や経験が伴わないところで、気持ちだけがプロに
中の文字もちゃんと活字になっているし
(笑)。本当に感動し
なってしまったわけです。
ましたよ。
しかも、
いきなりその場でお金を手渡された。
「何で
編 そもそも、
まだ社会のこともわからない高校生が学業と漫
すかこれ?」
「原稿料だよ」
って。こっちは原稿料なんて言葉さ
画を両立させること自体が難しかったのではないですか?
え知らないからね
(笑)
。
ちば そうなんですね。弟たちが狭い部屋で騒いでうるさいから
編 ちなみに、
おいくらぐらい?
気が散って仕事ができない。だから学校から帰ると押し入れ
ちば 12,351円。嬉しかったからいまも忘れようがない。
に入って寝ちゃうんです。で、家族が寝静まるのを待って、冷
3
FGひろば153号/CREATOR'S EYE ちばてつや氏 ロング・インタビュー
えたご飯を、味わうどころじゃない、
ただ燃料を詰め込むように
流し込んで、朝まで描く。みんなが起きる頃、道具を片づけて
学校へ行き、帰宅すると押し入れで寝て…という生活。それ
が1年半ぐらい続いたかな。
それで心身のバランスが崩れたの
もあり、読者の期待に応えたいというプレッシャーもあり、
いつ
の間にかノイローゼみたいになってしまった。
編 歩いていても、
歩道のマス目が漫画のコマに見えたそうで
すね。
ちば それぐらい、漫 画のことが一 時も頭から離れなくなっ
『ユカをよぶ海』© ちばてつや
ちゃってね。いい意味で集中力があったんだろうけど。
編 集中力がありすぎると、
肉体の限界を超えてしまう。
編 ご兄弟も全員、
男ばかりですもんね。
ちば そうね。それでいよいよ心身の限界を感じて母親に「もう
ちば そうです、
そうです。だから女の子がどんな雰囲気の漫画
漫画を辞めたい」
と言ってみたんです。
を好きなのかなと片っ端から目を通してみたんだけれど、
なぜ
編 その頃、
ご両親が病気がちで、弟さんたちの学費も含めて、
か当時は悲しいお話しばかり。映画もそうでしたね。戦争未亡
ちばさんの働きにかかっていたそうですね。
人の家で父親なしで育った娘が金持ちの子供にいじめられて、
ちば だから
「もう少しだけ頑張ってみろ」
と反対されるかと思っ
だけど健気に生きていく、
みたいな。なるほど女の子はこういう
ていたら
「わかった。家のことは心配せず、無理しないで、
ゆっ
作品しか読まないんだと思って、悲しいお話しを一生懸命描
くり休め」
と。その一言で救われましたよ。気が楽になって、5
いたんですが、描いていてストレスばかり感じるんです。そこで
日ぐらいだったかな、
ぼんやり何もせずにいたんですが、何をし
あるとき自分がどうにも我慢できなくなって、設定としては悲運
ていいのかわからない。漫画以外に、
やりたいことが思いつか
の中の主人公なんだけれど、
そこでメソメソせずに、
いじめに
ない。結局、辛かろうが何だろうが漫画を描きたくなったんで
来た男の子たちの頬をパパ〜ンと叩いてしまう展開に変えて
す。ああ、やっぱり自分には漫画しかないんだ、漫画を描こう。
しまいました。
でも、今度は描かされるんじゃなく、
自分から進んで描いてやろ
編 担当の編集者も、
その方がいいと?
う。そのかわり寝るときは寝て、親の言うことも聞いて、
もっと
ちば いや、原稿を見てびっくりして、
こんな展開にしてしまっ
バランスをとりながらやっていこう、
と思いました。
たら読者ががっかりするからすぐに描き直してくれと言われた
編 一度、
心を空っぽにしたからこそ見えてくるもの、生まれてく
んですが、一部の差し替えだけでなく、
そのシーン以降を全部
る力、
というのはありますよね。
描き替えなければならないから、締め切りに間に合わない。結
ちば 凄い才能のある新人が、私のデビュー当時もたくさんい
局、時間がないのでそのまま掲載されてしまいました。どんな
ましたけど、
ノイローゼになったり体を壊したり、苦しさから逃げ
にがっかりされるのかと思ったら、読者の女の子からたくさん
て消えてしまった人が何人もいました。
手紙が来たんですよ。
「すかっとした」
とか「あんなユカちゃん
編 漫画で人を楽しませるために、
漫画を生業にするために、
が大好き!」
とかね。なんだ、悲しいばかりでなくてもいいんじゃ
必ず越えなければならない壁なのではないですか?
ないかと、
それ以来ふっきれて、女の子でも喜怒哀楽をはっき
ちば そうですね。プロとしてやっていくには、一度は、命懸けに
り出して、悔しいときは怒る、おかしいときは大笑いするような
なるときが必要なのかもしれませんね。
キャラクターに替えていったんですね。そうしたら凄く人気が出
てきて。
いじめっ子をぶっ飛ばす少女を描いて
自分も元気に、仕事も順調に
編 線のタッチも明らかに変わっていますよね。
ちば うん。それまでは、
いつも涙ぐんでいる子ばかり描いてい
たから線も細かったけれど、ふっきれてからはキャラクターが
編 壁を乗り越えたあとは、
少年漫画界の期待の新星としてヒッ
元気になって、何より私自身が元気
ト作品を連発していったのかと思っていたのですが、デビュー
当初は、意外にも少女漫画ばかり描かれていたんですね。
になって。そうしたら少年ものの雑誌
ちば 貸本屋さんの仕事は別にして、大手の出版社からいた
社の人が「この作家は少年漫画もい
だく仕事は、少女ものしかなかったんですよ。少年ものは実力
けるんじゃないか」
と言ってくれ、少年
派のベテランがひしめいていて、割り込む隙間がなかったもの
雑誌からも、
どんどん仕事がくるように
ですから。それで少女漫画を引き受けてはみたものの、
自分で
なったんですね。
描いたことはないし、
あまり読んだこともなかったから、少女雑
編 少年漫画の
「ちば作品」で、
自分
誌の古本をどっさり買い込んできてね。
が初めて嵌まったのは『ちかいの魔
『ちかいの魔球』
4
FGひろば153号/CREATOR'S EYE ちばてつや氏 ロング・インタビュー
球 』です。小学校前なのに、魔球
の投げ方の図 解を見て、本 気で
練習したものでした
(笑)。それから、
主人公・石田国松の自由奔放さに
か
ぜ
憧れた
『ハリスの旋風』。
ちば 国松も、私にとって転機の一
つでしたね。それまでの主人公とい
うのは優等生で二枚目で「かっこ
いい」
と相場が決まっていたんだけ
れど、私は、
いろいろ欠点を持って
『ハリスの旋風』
『あしたのジョー』冒頭シーン © 高森朝雄・ちばてつや/講談社
いる人間味ある脇役を描いている
のが楽しくてね。そういう奴を主人
公にしてみたいなという思いがあっ
な変更を加えてしまったそうじゃないですか。
たんです。
ちば 原作では、
いきなり段平とチンピラボクサーの喧嘩シー
編 国松は、早弁はするし宿題は
ンで始まっていました。そのインパクトも狙いもよくわかったん
忘れるし、
すぐにケンカもする。
ですが、
それでは読者が戸惑うんじゃないかと。まず私自身が
ちば 服 装なんかもちょっと極 端
戸惑いましたから。私はもっとゆったりと物語に入っていきた
だったけれど、描いていてとても楽
かったんです。
しかった。おまけに人気も出ちゃい
ましたしね。
編 それで、
街の俯瞰から少しずつ静かにジョーにズームイン
あしたのジョー(全 12 巻)
(講談社漫画文庫)
していく、
あの冒頭シーンになったわけですか。
編 そして国松の次に、
世代を超え
ちば 最初は揉めましたけどね。私も決して原作の意図をない
たスーパーヒーロー、矢吹丈の登場となるわけですが。原作は
がしろにしたわけじゃなく、
あとで大事に使っている。大事に使
かの梶原一騎(高森朝雄
うために助走部を丁寧に描いた、
という話でね。そういう気持
※4
)
さん。
どんな経緯でコンビを組む
ことになったのですか?
ちが、連載を重ねるうちに梶原さんにも伝わっていったし、思
ちば 実は
『ハリスの旋風』の最後の方で、国松がボクシング
いの行き違いがないようにと時間さえあれば直接会って打ち
部で大暴れするエピソードを描いたんですが、練習道具などを
合わせ、
とてもいい関係を築いていけました。
確かめるため、後楽園あたりのジムを何箇所か見学して回っ
編 互いのエゴを通すのではないですもんね。個と個の力を超
たんです。そのときに、黙々とパンチングボールを叩いたり縄
えて、
いいものをつくり上げるための、
むしろエゴを超えたぶつ
跳びをしている若者を一日中観ていたら、少年がボクシングで
かりあい。たとえば、力石を生かすのか殺すのか、力石が死ん
世界に挑戦する漫画を描きたくなり、
「よし次はボクシングでい
だあと、
ジョーがどう立ち直っていくのか。
さまざまなシーンで熱
こう」
と。それで担当の編集者に資料集めをお願いしていた
い議論があったそうですが、
やはり極めつけは、漫画史に残る
んですが、
たまたま同じ時期に梶原さんも
「ボクシングものをや
あの名ラストシーンでしょう。最終的には、
ちばさんが任された
りたいので、
いい漫画家を探してくれ」
と、少年マガジンの方
ということですね。
に依頼していたらしいんですね。編集部から打診があったとき、
ちば しかし、考えても考えても、
いい案が出てこない。アシスタ
私はもうキャラクターも設定していたし、
ロケーションも決めて
ントにも手伝ってもらったのですが、
どの案も、決め手に欠け
いたから
「一人でやります」
とお断りしたんですが、
まあそう言
ていました。
とうとう締め切りが過ぎてしまったある日、当時の
わず、会うだけでいいからお願いしますよと頼まれ、
じゃ挨拶す
担当編集者が、
あらためて過去の原稿を最初から読み返して
るだけと、
しぶしぶ出かけて行ったんです。そしたら梶原さんが
くれて、
「この回のセリフに、
あしたのジョーの核みたいなもの
いきなり手を握ってきて「このたびは、
ありがとうございます」
と。
があるような気がするので読んでみてくれ」
と、分厚いゲラの
「え?引き受けるつもりなんてないのに」
と困惑しましたが周り
束を持ってきてくれたんです。
はすでに「連載、
がんばっていこう」
という雰囲気だった。私は
編 紀子との初デートのときにジョーがふと呟いた有名なセリ
気が弱いから、
もはや断ることができませんでした
(笑)
。
フですね。
「あとにはまっ白な灰だけが残る。燃えかすなんか
残りやしない。
まっ白な灰だけだ」
という。
漫画史に残る名ラストシーンは、
ジョー自身のセリフから生まれた
ちば それを読んだら、最後の場面がパッと頭に浮かんだんで
編 気が弱いのに、
第一回目の冒頭から、原作のシーンに大き
私一人ではあのシーンは思いつきませんでしたよ。
すよ。一気に描き上げ、
自分も燃え尽きたような感覚になった。
5
(※4)
梶原一騎
(かじわら・いっき)
…漫画原作者、
小説家、
映画プロデューサー。作品によって高森朝雄
(た
かもり あさお)
の筆名も使用。代表作に
『タイガーマスク』
『 巨人の星』
『 愛と誠』
など。
FGひろば153号/CREATOR'S EYE ちばてつや氏 ロング・インタビュー
編 思いの共鳴なのではないですか?
「何としてもいいものをつ
編 なるほど。特撮のスタッフが、
仕上がった映画を劇場で観
くり上げたい」
というみんなの熱い思いが共鳴し合って、普通
たら、現場で想像していたより効果があった、
みたいな
(笑)
。
では出てこないものが生まれてきたと。
ちば あと、断裁があるでしょ?いいところでバシッと切れている
ちば ほんとね。
ジョーに限らず、編集者とかアシスタントとか、
と、
それを計算して描いてはいるんだけれども、実際に製本さ
たまたま弟とか、周りの人のちょっとした一言で、
がらっと作品
れた現物を見て、
「 期待以上にいい世界観が出ているな」な
が変わったということは何度もありました。
んて嬉しくなったりすることがあります。逆に、
「しまった」
と思う
編 伺いたいことはまだまだたくさんあるのですが、
残念ながら
ときもありますけどね
(笑)
。
時間がなくなってしまいました。最後に「印刷物としての漫画」
編 「しまった」
とがっかりされないよう、
この記事を読んだ皆さ
についてお聞きしたいのですが。
んは印刷現場で気合を入れてくださると思います
(笑)。ちば
ちば 私の場合は、印刷のヤレ紙が原点だということもあり、
さんの絵の原点が「ヤレ紙」にあり、
ジョーも鉄兵も松太郎も、
未だに「紙」に対する特別な思い入れがあります。掲載誌が
みんなそこからつながっていたんだということ、
ご両親とも出版
届き、ページを開くときの何とも言えないインキや紙の匂い、
社に勤め印刷と深い関わりがあったことなどを知って何だか
手触り。いまでも本当にドキドキしますよ。電子書籍など便利
嬉しくなりました。これからも、新たな世代の育成も含め、
お身
なものも出てきていますけど、
あの、ページを開く瞬間の不思
体に気をつけて上質な作品を残し続けていってください。本日
議なわくわく感は紙媒体だけのものでしょうね。
は、長時間にわたり、
どうもありがとうございました。
編 原画の精細さを印刷で表現するのは難しいと言いますが。
ちば 原画の段階では、実は印刷の仕上がりがあまりはっきり
見えていません。それが印刷されてどんな世界になってくるの
かが楽しみなんです。印刷になって凄くよくなることがあるの
でね。ああ、
こういう効果が出ているのか、
とか。
編 印刷でよくなる?原画以上には再現されないのでは?
ちば たとえばスクリーントーン。生の原稿ではいま一つ効果
が出ていなくても、印刷になってみると、紙に溶け込んでとて
もいい感じに表現されていることがあるわけです。
おれは鉄兵(全12巻)
(講談社漫画文庫)
のたり松太郎(全22巻)
(小学館文庫)