浅葉克己氏 スペシャルインタビュー

FGひろば155号
クリエイターズ・アイ
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アートディレクター
浅葉 克己氏
PROFILE 1940年、
神奈川県生まれ。
(株)
ライトパブリシテイ
を経て、75年に浅葉克己デザイン室を設立。サントリー
『夢街
道』、西武百貨店『おいしい生活』
など数々の広告、
ポスター、
CMを手掛け、受賞多数。現在、桑沢デザイン研究所所長、東
京造形大学・京都精華大学客員教授。卓球六段。主な著書に
『地球文字探検家。』(二玄社)、
『 生きる力をくださいトンパ。』
(KKベストセラーズ)など。
2013年春の叙勲受章者の一人とし
て旭日小綬章を受賞。
「負けるもんか」で生きてゆく、70年周期の大転換期。
考えようによって、おもしろい時代かもしれない。
ね。
「機内食で、お茶漬けが出たらいいのにな」
って。それが、
「おいしい生活」のコンセプトは
「お茶漬け」から生まれた
次のシリーズの『おいしい生活』の原点になったわけです。機
内食って、
だいたい決まっているじゃないですか。似たような
編 浅葉さんはこれまで数々の広告やポスターなどを手掛け、
味で、
それほどおいしいもんじゃない。だから、
ああ、
いまここで
代表作を挙げていくとキリがないのですが、やはり西武百貨
お茶漬け食いたいなあ、
それこそ
『おいしい生活』
だよなあと。
店の『おいしい生活 』は、広告史に残る、
と言うよりも、広告
編 キャッチコピーもその場で固まったんですか?
の歴史を変えた名作の一つだと思います。
浅葉 いや、
そのときに彼が言葉まで絞り込んでいたのかどう
浅葉 そもそも、堤清二さんが、おもしろい人でしたから。実
かはわからないけれど、大きなコンセプトとしてね。
業家でありながら、辻井喬というペンネームで小説や詩も書
編 糸井さんは
『おいしい生活 』の表現意図やキャンペーン
いていて、文化にも非常に造詣が深くてね。
展開などについて大量の企画書を提出したという話を聞き
編 広告なども、
堤さんが直接タッチするんですか?
ますが、原点は「 機内でお茶漬け」だったとはびっくりです。
浅葉 直接ですね。あの一連のシリーズのときも、直々に声を
名コピーというのは、
そんなさりげない日常の実感から生まれ
かけていただいて。まあ、
その前に細かい仕事をずっとやって
てくるものなんですね。
しかし、
どんな名コピーも、いいデザイ
いたんですが。あの頃、地方にどんどん百貨店ができていっ
ンがなされなければ、名広告にはなりません。
たでしょ。最初はなかなか本部の仕事はまわってこなくて、
ま
浅葉 「 合言葉と顔 」
ということを考えるんです。合言葉は
ずは地方に出店する百貨店の小さな広告からでしたね。
キャッチですね。顔というのは、
『 不思議、大好き』のときは、
編 そこで信頼を積み重ね、
ついに本部からの依頼が来たと。
ピラミッド。
さて『おいしい生活 』の顔は何にしよう、誰にしよ
浅葉 毎年一回、大々的なキャンペーンを張ろうということに
うかと。いろいろ探して考えて、
ウディアレンなんておもしろ
なって。
『おいしい生活』
が最初ではありませんけどね。
いんじゃないかなということになってね。あの人、埋蔵量が多
編 『不思議、
大好き』
( 1981年)
の方が先でしたよね。
ピラ
いですから。映画監督で俳優で、詩人でもありクラリネット奏
ミッドがビジュアルの。
者でもある。
浅葉 そうです。その『不思議、大好き』の撮影のためのロケ
編 おもしろいとは言っても、
超大物ですよね。
へ行く飛行機の中で、糸井重里さんが、ふっと呟いたんです
浅葉 だから最初は会ってもくれなくて。直接ニューヨークに
1
FGひろば155号/CREATOR'S EYE 浅葉克己氏 ロング・インタビュー
出向いて行ったんですが、忙しいからと軽く断られた。
編 いきなり
「日本の広告に出てくれ」
と言われても
(笑)。
浅葉 そりゃそうだよね、普通は断るよね。でも、堤さんは、
うま
いんですよ。セゾングループは映画館も持っていたから、
「あ
なたの作品を上映することもできますよ」
と。そしたら、
コロっ
と変わってさ
(笑)。
編 ビジネスとしてメリッ
トがあれば、割り切りが早い。
浅葉 早い早い。それでやっとOKになって、
でも日本に出て
来るのは嫌だと。あの人、アカデミー賞もらっても、飛行機
が退屈だからって、ロスへだって行かないもんね。ほとんど
ニューヨークを出ないらしい。日本に来てくれれば、浅草で女
学生と撮ろうとか、江ノ島の浜辺を歩かせようとか、
いろいろ
考えていたんだけれど、嫌だと言うからしょうがない。
編 結局、
ニューヨークへ出向いて撮影したわけですか?
浅葉 そうです。春に行って2回分、秋に2回分。合計4パ
ターン撮ってきました。お灸 編と、おいしい生 活 相 談員編 、
自動販売機編、
それとこのお習字編。
編 キャンペーン広告ですから、
当然、季節ごとのシリーズが
あったわけですよね。でも、
ウディアレンが妙な物腰で書を
掲げているお習字編があまりにも強烈で、
どうもその他のビ
ジュアルがはっきり思い出せないのですが…。
浅葉 そういう人が多いんだけど、やっぱり、写植の書体じゃ
なく本人の筆文字の方が『おいしい生活 』の本質を伝える
ても言葉を最優先し、一番見やすく読みやすく、
しっかり組
のにぴったりだったんでしょうね。
んでくれるから」
と、
どこかで書かれていたのを覚えているの
編 リアルさの追求として、
もちろん直筆だろうとは思いまし
ですが。
たが、外国人とは思えないぐらいしなやかな筆跡ですよね。
浅葉 言葉は大事にしますね。言葉を立てるというのかな。
浅葉 撮影前に僕が書いた手本を見ながらその場でスルス
編 言葉を、
文字を大事にするという姿勢は、デザインを始め
ルっとね。これが、
うまいんですよ。
とくに『お』
なんかね。生ま
た当初からのものなんでしょうか。
れて初めて筆を持ったらしいんだけど、
さすがにマルチな分
浅葉 僕は、高校が図案科なんですよ。海が近い金沢文庫
野で柔軟に才能を発揮している人だけのことはあります。
に住んでいたから、中学のときは、船乗りになりたくて三崎
編 西武百貨店のブランディングにもかなり貢献したと思い
の水産学校に行こうかと思ってたのね。でも進路を決めると
ますが、堤清二さんの反応はどうだったのですか?
き美術の先生から
「県立の神奈川工業高校に図案科とい
浅葉 一番好きな広告だと言っていました。
「糸井さん、
もう
うのがある。君は体も小さいから船乗りよりそっちの方がい
これ以上は出ないんじゃない」
とか言って
(笑)。
い。船のデザインだってやるんだよ」
とか言われて、子供だか
編 ポスターは、
美術館にも収蔵されていますよね。
ら
「じゃあ図案科へ行く」
と
(笑)。受験は、倍率も高く結構
浅葉 富山県の近代美術館に入っています。いいものは世
難関だったんですが何とか受かって。そこで3年間、
レタリン
界各国の美術館が欲しい欲しいって言ってくれるから、すぐ
グとかデッサンとか、みっちり叩き込まれたわけです。文字は
になくなっちゃう。変なのは一杯残っているんだけど
(笑)。
おもしろいなと思いつつ、
でも本当はイラストレーターになり
たかったんですけどね。スタインベルグに憧れて。
ロビンソン・クルーソーのごとく
隔絶された環境で「文字と格闘」の5年間
編 柳原良平さんや和田誠さんなど、
多くのイラストレーター
が、あの独特なタッチの一コマ漫画の影響を受けていると
編 浅葉さんと言うと、
少しでもデザインに興味がある人なら
言いますよね。
誰もが「タイポグラフィの達人」
というイメージを持っていると
浅葉 世界中の旅で目にしたものを、彼ならではの線で描き
思います。文字イコール浅葉克己、浅葉克己イコール文字、
上げた素晴らしいイラスト集があるんですよ。僕もいつか、
自
みたいな。敬愛するコピーライターの一人、
日暮真三さんが、
分だけの線をつくって世 界を巡りたいと、ひたすらイラスト
「 浅葉と組んだコピーライターは幸せだ。どんな状況にあっ
を描き続けた時期がありました。月光荘のスケッチブックに
2
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100冊ぐらい描いたかなあ。線を鍛えるためにね。
らZすべての文字の構造を、一冊の本にまとめてみたんで
編 高校の図案科を出るまでの間?
す。苦労したわりには、
あまり評価されませんでしたが(笑)。
浅葉 いや、就職してからも。ただ、最初に松喜屋という小さ
なデパートの宣伝部に入り、
そこのデザイナーから、書体デ
ザインの先駆的な存在だった佐藤敬之輔さんを紹介され、
最強のトンパ文字探検隊
一致団結、いざ中国へ
文字の世界の深さを知ってね。文字も絵も両方やろうと。
編 そうした地道な努力の積み重ねが、
その後の広告づくり
編 佐藤さんのところで何年も書体の勉強をされたそうですね。
にも生きてくるわけですね。
浅葉 5年ぐらいかな。松喜屋ではやりたいことできなかった
浅葉 佐藤敬之輔さんのところで学んだことをライトパブリシ
ので辞めて、
もう一度勉強のために1年間、桑沢デザイン研
テイで広告に置き換えて、みたいなことはありましたね。
究所に通い、
その後、
ライトパブリシテイに入社するまでの
編 ご自身で命名された
「力こぶ文字」
( 新アリナミンAの広
間、佐藤敬之輔さんのところでお世話になったんです。
告で使用)
など、浅葉さんは、書体とイラストが融合したよう
編 かなり鍛えられたのですか?タイポグラフィの技術は。
なユニークなタイポグラフィをいくつも発表していますが、や
浅葉 だって毎日だもの。来る日も来る日も文字ばかり描いて
はり、文字もイラストも探求した浅葉さんならではの表現な
いた。ロビンソン・クルーソーみたいに黙々と
(笑)。それを5年
のではないかと思います。文字と絵の融合と言えば「トンパ
間も続ければ、
まあ、
うまくもなるよね。家に帰るとイラスト描い
文字」ですね。あのアートで哲学的な象形文字は、浅葉さん
て、佐藤さんのところでは文字のことだけ。そんな毎日でした。
編 書体については、
どんな修行をしたのですか?
浅葉 佐藤さんは、欧文書体も重視した人だったので、
たと
えば「ローマの七つの丘の一つにあるトラヤヌス大帝の碑
文の書体、
オールドスタイルローマンが、世界で最も綺麗な
欧文書体だから毎日眺めていろ」
と。そう言われて、僕は、原
本を三年間も眺め続けましたよ。根が素直だから
(笑)。
編 達磨大師の、
面壁九年 みたいですね
(笑)。
浅葉 ただ黙って眺めていたわけじゃなく、一文字ずつ構造
をバラバラに解体し、完璧なプロポーションの秘密を徹底
的に分析しながらね。そして、
このバツ印の部分にコンパス
の芯を立ててグルっとやると、
この曲線部が描けるとか、
Aか
3
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が世界で初めて広告媒体に登場させたそうですが、
その経
浅葉 轟々とした濁流のすぐそばとかね。急なカーブの連続。
緯を教えていただけますか?
落ちたら最後、死体も車も上がってこないような
(笑)。
浅葉 僕はもともと旅が大好きでね。これまで世界各国300
編 デザイナーというよりインディージョーンズですね。
ぐらいの地点を歩いているんじゃないかな。そうしていろんな
浅葉 ほんとだよ。そろそろ鞭を出すぞ~みたいな
(笑)。
国を訪ねると、やっぱり文字のことが気になるんですね。19
編 そもそも帽子もインディージョーンズっぽいですし。
歳の頃から格闘しているわけだから。あるとき、中国の少数
浅葉 帽子をかぶっていると、
なぜだか危険が少なくなる気
民族である納 西族が、
トンパ(東巴)文字という不思議な文
がするんだよね。心身が戦闘態勢に入っていくのかな。
字をいまでも使っていることを知り、驚きました。当時すでに
編 そうまでして辿り着いた麗江はどうだったのですか?
ナ
シ
「 地球文字探検家 」
を名乗っていた僕としては、
どうしても
浅葉 東巴文化研究所というのがあって、貴重な資料を見
自分の眼で確かめに行かねば、
と思って。
たり老トンパの話を聞いたり、興奮しましたね。ただ、
トンパ
編 お一人で?
文字の宝庫である経典は一切撮影も禁止。書き写すしかな
浅葉 いやいや、文字探検の旅には言語学者に同行しても
い。いつか現物を手に入れたいと狙っていたら、2001年、4
らわないと。
とくにトンパ文字は文法が複雑だから。いろいろ
回目の訪問時に、持ち出すチャンスが巡ってきたんですよ。
調べてみると、西夏文字を解読した世界的な言語学者であ
編 いよいよインディージョーンズの世界ですね
(笑)。
る西田龍雄さんが、
トンパ文字についても第一人者だとわ
浅葉 ある怪しげな骨董屋に、通訳を連れて夜襲をかけたの
かったんです。先生の著書を読んでみると
「私は残念ながら
ね、雨の日に。雨が降ってると足跡が残らないでしょ
(笑)。
東巴文字の生息している雲南省麗江には行ったことがな
編 忍者じゃないんですから
(笑)。
い」
と書かれていたんで、
よし!と思ってね、
そのころ先生が館
浅葉 それで問い詰めたのよ。
「本物の経典、持ってるだろ?」
長を務めていた京都大学の図書館に電話を入れて「ぜひ同
そしたら奥から出してきて
「どうだ!」
って。財布のお金を全部出
行してください」
とお願いしたんですよ。そしたら
「行く
!」
と。
し
「これで全30冊売ってくれ」
と。絶対に他言しないという約
編 初めて話したその電話で? 即答ですか?
束でついに本物の経典を手に入れた。嬉しかったね。
浅葉 即答、即答。
「でも先生、学校はどうなさるんですか」
と
編 空港でのチェックは大丈夫だったんですか?
心配したら
「休む!」
って
(笑)。
「何年も行きたかったんだ。
ト
浅葉 そこが難関でね。100年以上前の古いものは、国外
ンパ文字が生きている土地を訪れ、実物の経典を手に入れ
に流出しないよう即没収だから。徹夜で経典を一個一個新
たい」
とおっしゃるんです。
聞紙で包んでトランクの奥に隠してさ。麻薬みたいに(笑)。
編 純真でいいですね。世界的な学者とデザイナーなのに、
何
で、翌日、空港でトランクは無事に手荷物検査のゲートを通
だか子供が夏休みの予定を決めているみたいで
(笑)
。
過したんだけど、
その瞬間「やった~」
って万歳しちゃったの
浅葉 知り合いの中西 亮 さんという人にも同行をお願いし、
ね。そしたら
「怪しい奴だ、
こっちへ来い」
と
(笑)。別室で身
この方は、
もともと西田先生とも親しく、世界中を歩いて直
体検査されたけど体からは何も出ないから無罪放免ですよ。
筆や新聞の文字をコレクションしている凄い人なんですが。
編 サスペンスタッチのコメディー映画みたいですね
(笑)。
し
あきら
編 京都にある中西印刷の先代の社長さんですよね。生前
は当社もいろいろお世話になりました。貴重な文字資料の
コレクションは、亡くなった後、大阪の国立民族学博物館に
納められたそうですね。
浅 葉 その中 西さんに旅の計 画をすべてお任せして、
トン
パ文字探検隊が意気揚々と中国の麗江へ旅立ったのが、
1990年6月のことでした。写真家とか編集者とか、総勢6人
ぐらいだったかな。写研さんがスポンサードしてくれましてね。
何かが起こる雨の夜
ついに念願のトンパ経典を手に入れる
編 麗江というのは、
やはり、
そうとう山奥なんですか?
浅葉 2400mの山岳地帯ですね。当時は直行便がなかっ
たから、昆明からすべて陸路。大理で一泊して、大理石で有
名な大理ね、
そのあと麗江まで一日中、車で走りっぱなし。
編 危険なところも通るんですか?
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FGひろば155号/CREATOR'S EYE 浅葉克己氏 ロング・インタビュー
かしそれほど苦労して入手しても、蒐集家のように、手に入
れることがゴールではなく、浅葉さんにとっては、持ち帰ってか
らが本当の仕事のスタートになるわけですから大変ですね。
浅葉 そうですね。現物の経典が手に入る前からも、1990
年の第一回訪問以降、模写してきた資料や、1枚だけ特別
に撮らせてもらった経典の部分写真を基に、
自分なりのトン
パ文字を制作し、
そのつど、新たなタイポグラフィの作品とし
て発表してきましたが、確かに、毎回、帰ってからが本当の
格闘の始まりでした。
手で描いたり消したりしている中から
何か新しいものが生まれてくる
編 具体的にはどのように作品をつくり上げていくのですか?
浅葉 まずは何百枚もの和紙に、筆でトンパ文字を書いて
いきます。そして、
カリグラフィとして満足のいくものをつくり、
ハードエッジを入れていく。そうした作業を繰り返しながら、
ト
ンパ文字が持っている原初的な形態を現代的な作品へと
高めていくんですね。
編 新作展は毎回、
大きな話題を呼び、1990年代にトンパ
文字は一つのムーブメントになりましたが、2001年、本物の
経典を入手したことで、
タイポグラフィとしての完成度もさら
に高まっていったのではないですか? 2001年以降、再びト
ンパ文字が新たなパワーを発揮し始めた印象がありますが。
浅葉 そうですね。キリンビバレッジの玄米茶のパッケージに
採用されたり、パナソニックの『いのちの文字』のポスターに
大きく使われたりしましたからね。
編 トンパ文字だから何でもいいというわけじゃなく、
作品とし
て磨き上げ、
うまく使ってこそ生きてくる。
浅葉 そうそう。書家の人なんかもたまにトンパ文字の展覧
会やったりしてますけど、正直、
あんまりおもしろくはないんだ
よね。実は現地の人たちも、
トンパ文字を書くの、
そんなに
上手じゃないんですよ。僕が向こうで展示会に参加したとき
なんか、皆さん驚いていましたから。
「日本人なのに、
なんで
こんなにトンパ文字がうまいんだ」
って。
編 それは、
タイポグラフィの達人であり、デッサン力もデザイ
ン力も揃っているわけですから、浅葉さんの場合。
浅葉 「書の力」
も大きいと思います。1994年に、
ある美術
展で書家の石川九楊さんと作家で編集者の松岡正剛さん
と僕で公開鼎談を行なったんですが、
「書を捨てると日本は
滅びる。筆触は思考する」
という石川さんの言葉に感銘を
受けてね。
「トンパ文字を始めアジアのタイポグラフィックを
究めるには書の力も必要だ」
と気づき、早速、石川九揚塾
に入門したんですよ。書の中でもとくに楷書に魅力を感じて、
チョスイリョウ
唐代の名筆『 褚 遂 良 』
という人が書いた碑文の拓本を入
手して、何年もかけてすべての文字を臨書したりもしました。
いわゆる全臨ですね。
5
FGひろば155号/CREATOR'S EYE 浅葉克己氏 ロング・インタビュー
編 やはり自分の手で書くということが大事なんですね。
浅葉 大事ですよ。だから、いくらグラフィックソフトが便利だ
からって、初めからパソコンでロゴなんかをつくらず、手描きし
たものを取り込んでデジタル化すればいいんでね。手で描い
たり消したりしている中から、何か新しいものが生まれてくる
んですよ。マウスやキーボートで何本線を引いても、みんな同
じような線だから、個性が出てこない。
編 書なんて、
同じ先生に習っても、同じ書家の作品を臨書
しても、誰一人同じにはなりませんもんね。
浅葉 グラフィックソフトの画一的な線と違い、筆は動物の毛
が何百本も束ねられ、
その運動の集積として一本の線が現わ
れるわけだから、生まれてくる線の可能性が凄いんだよね。
編 最近の若いデザイナーは、
まあ若い人に限りませんが、
烏口はもちろん、
ロットリングさえ、
ほとんど使わなくなりました。
浅葉 大学のデザイン科では、
もうレタリングを教えないん
だって。だから、みんな自分の手で文字を描き起こすことが
できないんだよ、驚いちゃったね。日本タイポグラフィ協会も、
最初はレタリング協会だったでしょ。逆にいまはそっちへ戻し
た方がいいんじゃないかな。レタリング復活、手描き復活み
たいな、ね。
編 浅葉さんは、
佐藤敬之輔さんのところで修行をしている
頃、
わずか1㎜の幅の中に、手描きで10本の線を引いたと
いう伝説がありますが、
あれは事実なんでしょうか。
浅葉 ホント、ホント。それぐらいの技術がないと本当の活字
は描けないと思って練習してね。烏口の先を研ぎに研いで。
たいていは7本で終わっちゃうんだけど、忘れもしない22歳
の春、10本引けたんですよ。ちゃんとルーペで確認したから
間違いない。現物をとっておけばよかったなあ
(笑)。
編 頭脳と共に、
手というのは人間の大きな武器ですね。
浅葉 僕はいまでもエッセイなどの原稿はすべて手書きです
し、朝起きるとまず墨を磨り、気を整え、仕事の前に楷書の
練習をしています。
さすがにもう石川塾には通っていません
が、書の朝練は、
かれこれ20年ぐらい続けていますね。
衝撃的な津波の映像に戦きながら
その場で「津波」と書いてみた
編 「手書き」
というと思い出すんですが、2008年の夏から
秋にかけて六本木の『21_21 DESIGN SIGHT』
で開催さ
れた
『祈りの痕跡』展。あれは圧巻でしたね。
浅葉 「誰が最初に痕をつけたのか」
っていう問いから始まっ
たのね。5千年前、
シュメール人が粘土板に楔形文字を印し
た、つまり痕をつけた瞬間に、芸術や科学は永遠の命を授
かったわけです。書くという行為ほど人類に大きな影響を与
えた発明はない。安藤忠雄さんが設計したあの素晴らしい館
を、文字という痕跡で埋め尽くしてみたいと思ってね。
編 みごとに埋め尽くされましたね。
もちろん浅葉さんが書き
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FGひろば155号/CREATOR'S EYE 浅葉克己氏 ロング・インタビュー
下ろした
“トンパ経典(白黒戦争)”
や、
エジプトのヒエログリフ
浅葉 呆然と言うか、愕然と言うか。僕は咄嗟に筆をとって、
も日本のいろは歌もみんな素晴らしかったんですが、度肝を
「津波」
という文字を書いてみたんですよ。
抜かれたのが、浅葉さん直筆の日記です。展示室をつなぐ
編 本や資料が全面に崩れ落ちた部屋で、
ですか?
通路の壁にびっしり。空間に放射される濃密すぎるエネル
浅葉 そう。映像を見た直後、感じたままにね。
ギーに圧倒されて、大げさではなく、
目眩がしました
(笑)。
編 自然への畏怖や被災に対する悼みなどいろんな思いが
浅葉 会場の内装を内田繁さんにお願いしたんですが、展
凝縮されていたんでしょうね。あとから思い出して、ではなく、
示作品を配分してみると、たまたま白い壁が余ってね。そう
その場で書いてしまうというのが凄い。浅葉さんは常々「発
したら
「出せ」
って言うんですよ。
「日記、持ってるでしょ? 」
っ
想・現場・定着がデザインの基本 」
とおっしゃっていますが、
て。僕が何十年も日記書いているの知っていて、
「奥さんに
まさに「 現場力」の爆発ですよね。その後、
「 津波 」の文字
見られないように、絶対に持ち歩いているはずだ」
とね。その
は作品として定着されたのですか?
大量の日記のページで壁を埋め尽くそうということになり、家
浅葉 津波記憶の石碑というのがつくられて、釜石市の根浜海
に保管してあるものも含め、一応妻のチェックも受けて
(笑)、
岸の松林に設置されたんですが、
その石碑に刻まれています。
複写して、壁一面に掲示したわけです。
編 昔の人が後世に危険を伝えるために津波の到達点を印し
編 日記にしてもシュメール人の楔形文字にしても、
単なるカ
た津波石というのがありますが、
その現代版ということですか。
タチではなく、
そこには作業に費やされた膨大な時間や、
そ
浅葉 日本や海外のデザイナーが協力して、津波の記憶や
の痕跡を印した人たちの深い思いが封じ込まれています。
教訓を刻んだ石碑を被災地に建てていこうというものです
浅葉 そうね。文字やタイポグラフィで何かを伝えたいという
ね。僕がデザインを担 当した1 号 基には「 二 千 十 一 」
「津
思いは、祈りに通じるものがあるんじゃないのかなあ。
波」のタイポグラフィに「てんでんこで逃げよ※ 」
という、三陸
編 それにしても
「祈りの痕跡」
というのは、東日本大震災後
地方に伝わっている教訓が添えられています。
の、
いまの日本を予見しているようなテーマでしたね。
この美しい日本を
「静かな地獄」にしてはならない
浅葉 あの日、3月11日、僕はたまたまこの仕事場にいたん
だけれど、棚に詰まっている本が全部崩れ落ちてきて。
編 揺れも凄かったけれど、
あの後の報道の映像を見て、言
編 まさに「 祈りの痕 跡 」ですね。この痕 跡を、何としても、
葉を失いましたよね、信じられないような津波の映像…
代々伝えていかなければなりません。伝えると言えば、
「よみ
※「てんでんこ」
とは
「てんでんばらばら」の意味。津波の際には、親や兄弟にも構わずにとにかく逃げろ、
そうでもしないと一家全滅になってしまうという、津波から避難することの難しさを示している。
7
FGひろば155号/CREATOR'S EYE 浅葉克己氏 ロング・インタビュー
がえれ日本。よみがえれ東北。」のポスターも、浅葉さんらし
さったそうで。やはり、次の若い人たちに何かを伝えていかな
いシンプルで力強いデザインで、
ストレートにメッセージが伝
ければならない時期がやって来たということでしょうか。
わってきました。
浅葉 そうですね。みんな孫の年齢だから
(笑)。でも、付き
浅葉 あれも、震災後すぐに思い立ってパッと描いたんです
合ってみるとおもしろいですよ。発想も結構ユニークだし。
よ。こんないい国、潰しちゃもったいないよって。日本のことも
編 桑沢の伝統の中で、
どう新しいものを引き出すかですね。
アジア各国のこともよく知っている外国人がいてね、
「日本は
浅葉 そうそう、歴史があるからね。60年近く。立派な人ばか
『 静かな天国 』だけど、アジアの中には『うるさい地獄 』
もあ
りだった歴代の所長の中で、僕だけちょっと違っちゃってる。
るんだ」
と言ったことがあるんですよ。震災前ですけどね。最
編 だからこそ、伝統だけではない新たな息吹を吹き込める
近ふと、
「 静かな地獄」
っていうのが一番怖いなと思ったわけ。
のではないですか?変化がなければ進化もないわけですし。
このまま、
「 静かな地獄」だけにはなりたくないよね、絶対に。
浅葉 そうだよね。デザイン界も、
もっと元気を出さないといけ
編 何とかして、
日本を
「にぎやかな天国」にしたいですね。
ないからね。
浅葉 日本は70年周期で大転換期を迎える運命にあるらし
編 桑沢にとっても日本にとっても、大転換期のいまだから、
いんです。前回は太平洋戦争の敗戦でしょ。そのまた70年
そんな役割が浅葉さんに回ってきたんじゃないでしょうか。
前は明治維新。今回の大震災は、原発事故が収束してい
浅葉 そうかもしれませんね。
ないことなどもあり、
まだまだ終わってはいません。
編 これからも、
地球文字探検家として元気に世界を飛び回
編 有史以来、
最大の転換期じゃないですか?
り、不思議な文字で、
また世の中をあっと言わせてください。
浅葉 中国には昔「転換期に生きろ」
という刑罰があって、死
浅葉 納西族のトンパ文字、彝 族のロロ文字、
それからアラ
イ
ハ ッ ト
刑よりも重かったらしいんですね。いままさに、
こんな厳しい転
ビア文字書 道に11種類のインド文字、
そして漢字。もう残
換期を、何とか生きていかなければならないわけですよ、みん
りはあんまりないんですけどね。あとはスウェーデンの方に、
なで協力し合って。
「負けるもんか」
ってね。凄い時代なんだ
海賊が使っていた文字とかがありますが(笑)。
けれど、考えようによっておもしろい時代なのかもしれません。
編 くれぐれも、
秘宝を持ち帰ろうとして海賊の首領と鞭で対
編 否応なく、
生きることに真剣に向き合える。次代のことを
決したりしないでくださいよ
(笑)。本日は長時間にわたりい
リアルに見つめていけるということはありますね。浅葉さん
ろいろとお話しいただき、
ありがとうございました。
は最近、母校でもある桑沢デザイン研究所の所長に就任な
浅葉 こちらこそ、
どうもありがとうございました。
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