1 クリスマスを迎える心 ルカによる福音書 2 章 1~7 節 中高部聖書科

クリスマスを迎える心
ルカによる福音書 2 章 1~7 節
中高部聖書科教諭・牧師
髙橋 貞二郎
今日、水澤理事長先生、深町院長先生、そして皆さんと共に全学院クリスマス礼拝を執り行い、御子
イエス・キリストのご降誕をお祝いできますことを心から感謝いたします。
先ほど、ルカによる福音書 2 章 1 節から 7 節を司会の鈴木先生に読んでいただきました。読んでいた
だきましたこの箇所は、ご存じのように 2000 年前の初めのクリスマスの様子を伝える大変有名なとこ
ろです。
恐らく皆さんも教会や幼稚園、各部の礼拝でこの箇所を読んでこられたのではないかと思います。ま
た、この箇所をベースとしたページェント・聖誕劇で、園児、児童、生徒たちをご指導されてこられた
のではないかと思います。
もしかすると皆さんの中には、かつて皆さんご自身がマリアの役、ヨセフの役、宿屋の役としてペー
ジェントに出られた体験をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。
今日は、この時期よく読まれるこの聖書箇所を通してクリスマスを迎える心の準備をしたいと思いま
す。またこの箇所からあふれ出る神の愛と恵みに感謝して神を讃美したいと思うのです。
有名な箇所とは言いましたが、今年から学院に勤められ、この箇所を初めて読まれる方もいらっしゃ
るかもしれません。また久しぶりという方もおられるかもしれませんので、そのことを念頭に置きなが
ら、もう一度簡単ではありますが、この聖書の箇所を読み直してみたいと思います。
今日の聖句は「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」
という言葉から始まっていました。
「皇帝アウグストゥス」とは、ローマ帝国の初代皇帝のことです。彼は、皇帝の地位にあった時に、
税金の徴収を主な目的として、何度か人口調査を行ったようです。この福音書を書いたルカは、2 節に
「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」と書き記し、
その年代をはっきりさせています。
当時の習慣では、人は自分の先祖が出た町に属していると考えられていました。そこで、ダビデ家に
属していたヨセフは、ダビデの出身地であるユダヤのベツレヘムへ行くことになります。いいなずけの
マリアも一緒でした。ガリラヤのナザレからベツレヘムまでは、直線距離でおよそ 100 キロメートルあ
ります。車も電車もない時代です。歩いてその距離を旅することは大変だったと思います。特にマリア
は身ごもっていましたので、マリアにとっては体に負担のかかる危険な旅であったと言っても良いかと
思います。
やっと着いたベツレヘムですが、すでに多くの人が町を訪れていて、彼らの泊まる場所がなかったよ
うです。そうこうしているうちにマリアは月が満ち、馬小屋で初めての子を産むことになります。そこ
でお生まれになった方、これが御子イエス・キリストです。子どもが生まれたのに、町の人は、にぎや
かさと忙しさの中で何も気づかなかったのでありましょう。結局、町にいた人々の何の配慮も無く御子
イエス・キリストは布にくるまれて飼い葉おけに寝かされお休みになります。
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これが、今日の聖句でした。この聖句からクリスマスを迎える心として、三つのことを申し上げたい
と思います。
まず、第一は、にぎやかさや忙しさの中にあって、御子イエス・キリストを見失ってはいけないとい
うことです。
2000年前のクリスマスの時、ベツレヘムの町は、先ほど申しましたように住民登録ということで
多くの人々が訪れました。町全体がにぎやかで、今日の御言葉に出てまいりました宿屋の人たちも「今
こそ稼ぎ時」と忙しく働いていたことでしょう。しかし、そのにぎやかさと忙しさのゆえに、町の人々
は最も重要なことに気づきませんでした。それは、救い主御子イエス・キリストのご降誕です。
ところで、現在の日本の町の様子を思う時に、当時のベツレヘムと重なり合うものを感じます。
皆さんはいつ、どこで今年のクリスマスの訪れを感じられたでしょうか。私は 11 月の初めに行った
温泉でした。仕事が終わって、夜温泉へ行きました。温泉ではオルゴールがBGMとしてかかっていま
したが、そのBGMとしてかかっていた曲は、なんと「あら野のはてに」をはじめとするクリスマスキ
ャロルでした。
その後、1 週間としないうちに町にはクリスマスのイルミネーションが飾られ、色々な所からクリス
マスキャロルが聞こえてきました。それだけではありません。クリスマスプレゼントのチラシが我が家
に入り始めました。11 月ともなると、日本はクリスマス商戦に入ります。町はにぎやかで、商品の売り
込みでとても忙しそうです。しかし、残念ながらそこに御子のご降誕を心からお祝いするという気持ち
は伝わってきません。
クリスマスは、イエス・キリストが救い主としてこの世にお生まれになったことを祝う祝日です。主
人公はあくまでも御子イエス・キリストのはずです。
翻って私たちの心を省みたいと思いますが、私たちの心は、ベツレヘムの町のようになっていないで
しょうか。
12 月に入り、
「師走」という言葉通り先生方はもちろんのこと、職員の方々も大変忙しい日々を過ご
しておられることと思います。仕事を一生懸命すること、それは決して悪いことではありません。しか
し、その忙しさの中で私たちが見失ってはいけないことがあると思うのです。それは、クリスマスの主
人公である御子イエス・キリストです。
今日は読みませんでしたが、2000 年前のクリスマス、御子のご降誕に気づき、御子を拝み、大きな喜
びにあふれ、神を讃美した人たちがいました。羊飼いたちであり、当方から来た博士たちです。
私たちも彼らのように、忙しい中にあっても今年も御子を拝み、その恵みを改めて思い、神を讃美し
たいと思うのです。
今日心に留めたい第二のことは、神の御計らいを信頼するということです。
ある学者は、マリアとヨセフがベツレヘムへ来て、宿屋には彼らの留まる場所がないと知った時、マ
リアは「神の子のために部屋が準備されていない。なぜ? どうして?」と思ったかもしれないと、コ
メントしています。しかし、この学者は続けて、天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その
子をイエスと名づけなさい」
「神にはできないことは何一つない」と言われたときに、マリアは「私は
主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と答えた方なので、この時も「これも神様
の御心、ご計画」と受け止めたのではないかと言っています。
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そうしたマリアの神に対する信頼と謙虚な思いのおかげで、御子は馬小屋の中で産まれてくださいま
した。その出来事は、私たちの最も低いところに御子がくだって下さったことを伝える出来事となりま
した。そしてその出来事は、私たちがどんな状態になっても、たとえどん底と思われるような時でも独
り子なる神イエスが私たちと共におられる慰めとなっています。
旧約聖書詩編の中に「あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数
多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あな
たの中にいる。
」
という言葉があります。
私たちの人生でも「なぜ?」
「どうして?」
「こんなはずではなかった」ということがしばしばありま
す。その時に、私たちは人知を超えた神の御計らいを信頼して、謙虚な思いをもってそのことを受け止
め、最善のことをしていきたいと思うのです。
「ある兵士の祈り」というものがあります。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、次のよう
なものです。
大きなことを成し遂げたいと、神さまに強さを願ったのに、
いただいたのは 弱さだった。謙虚を学ぶように、と。
素晴らしいことをしたいと健康を願ったのに、
いただいたのは 病気だった。もっといいことができるように、と。
幸せになりたいと 富を願ったのに、
いただいたのは 貧困、もっと賢くなるように、と。
世の人々の称賛を得たいと、権威を願ったのに、
いただいたのは 弱点、もっと神さまを求める人になれ、と。
この人生を楽しみたいと、あらゆるものを願ったのに、
与えられた命は あらゆるものを いつくしむためだった。
願ったものは なにひとつ
いただけなかったが、
心底 求めていたものは ききとどけられたのだ。
私はもっとも豊かに祝福された!
これは、アメリカの南北戦争で不治の障がいを身に負った、南軍の一兵士の言葉と言われています。
この言葉を残した彼が、願ったものをいただけなかった時、当然「なぜ?」
「どうして?」
「こんなはず
ではなかった」と思ったに違いありません。しかし、彼は最後に神の深い御計らいによって与えられた
祝福に感謝しています。そんな彼の生き方と言葉は、彼が恵まれただけでなく、150 年経った今でも多
くの人を励まし、力づけるものとなっています。
神さまは、私たち一人一人にご計画を持っておられます。それは、将来と希望の光を与えるものです。
マリアが、クリスマスにそのことを思い、自分の身に起こっていることについて神を信頼しつつ受け止
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めたように、私たちも神の御計らいを信頼し、平安のうちに過ごし、与えられたところで最善を尽くし
ていきたいと思います。そして、神のご栄光をあらわしていきたいと思うのです。
今日心に留めたい三つ目のことは、独り子なる神イエス・キリストが私たちを愛し救うために来て下
さったことを覚え、私たちも互いに愛し合っていきたいということです。
デンマークの偉大な哲学者であり思想家であるキルケゴールは、次のような小さな話を書き残してい
ます。
ある王子が農夫の娘を愛しました。王子はその娘を王宮に迎え入れようとしましたが、家族から引き
離すことなどを思うと忍びなく断念いたしました。ですが、王子の娘に対する愛は変わりませんでした。
その後変装して、彼女をごまかして近づくこともできたと思いますが、王子はそのことを欲しません
でした。もちろん王子として彼女の前に華々しく登場し、崇敬と讃美を受けることもできたはずですが、
王子はそれも望みませんでした。
王子は、ごまかしや、表面的な華々しさにものを言わせて彼女に近づき自分の思いを伝えようとは思
わなかったのです。
そこで王子は正真正銘の農夫となって、自ら農夫が体験する苦しみに耐えながら、娘への愛を貫き、
娘の愛を受けることにしました。
キルケゴールのこの話は、御子イエス・キリストがクリスマスの夜にどうしてこの世にお生まれにな
ったのかをわかりやすく伝えていると思います。農夫になった王子こそ独り子なる神イエス・キリスト
であり、愛された娘こそ私たちに人間であるということです。
新約聖書フィリピの信徒への手紙の中にこんな言葉があります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自
分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死
に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
」
御子イエス・キリストは、私たちを深く愛されました。そして王子が農夫になったように、真の神で
あるにもかかわらず、真の人となってくださいました。しかし、それだけではありませんでした。私た
ちが犯してしまった罪の罰を、ご自分が十字架について償ってくださったのです。ここでは多くを説明
できませんが、私たちが犯してしまった罪の罰は本当に恐ろしいものでした。その罰を、キリストは私
たちの身代わりとなって十字架で受けてくださったのです。今、私たちは、主イエス・キリストの十字
架によって罪の罰の滅びから救われました。そのようにして私たちへの愛を貫いて下さったのです。
私は昔、このことを思い起こさせる讃美歌と出合いました。それが、この後ご一緒に歌います讃美歌
第二編 128 番です。これは古くから伝わるイイギリスのキャロルですが、1 節に次のようにあります。
わす
世のひと忘るな、クリスマスは
神のみ子イェスの ひととなりて、
みすくいたまえる よき日なるを。
よろこびとなぐさめの おとずれ、
きょうここにきたりぬ。
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主イエス・キリストは、私たちを愛し、低きにくだりこの世に来て下さいました。そして、私たちを
罪の力、悪の力から救い出してくださいました。そして大きな喜びと私たちの人生を支える慰めと希望
を与えてくださいました。
今日私たちは、改めてそのことを覚え、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互い
に愛し合う志をあらたにしたいと思います。そのような心をもって今年のクリスマスを過ごしていきた
いと思うのです。
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