2010年5月 トリノ聖骸布崇敬中の黙想

聖骸布崇敬「聖土曜日の神秘」の黙想
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
聖骸布を崇敬中の教皇ベネディクト16世の黙想
トリノ大聖堂
2010 年 5 月 2 日
2010 年 5 月 2 日の主日、イタリア北部トリノ市を司牧訪問なさったベネディクト16世聖下は聖骸布を崇敬するために
トリノの大聖堂に赴かれた。聖骸布を前に、大聖堂に参集した司祭・修道者・奉献生活者達に対し、パパ様は「聖土
曜日の神秘」を主題とした黙想を分かち合われた。
親愛なる友の皆さん、
これは、私がとても待ち望んでいた瞬間です。聖骸布の前に留まる機会は以前にもありましたが、今回
は、この巡礼を、この短い滞在を、格別に熱い思いで過ごしています。それはおそらく、年月の経過が、
この特異なイコンのメッセージに対し、私をより感じやすくさせたからでしょうし、また、おそらくは、何より
もまず、ペテロの後継者として今ここにいるからであり、その私の心の中に全教会、それどころか全人類
を抱えているからとも言えるでしょう。この巡礼の賜物を、そしてまた、あなたがたとご一緒にこの短い黙
想を分かち合うことができる機会を、神に感謝します。この黙想は、今回の荘厳な展覧会の副題である
「聖土曜日の神秘」から、ひらめきを得ました。
聖骸布はこの神秘のイコン、聖土曜日のイコンである、と言えましょう。実際、聖骸布は埋葬布であり、し
かも、福音書がイエスについて述べ伝える事にぴったり符合する十字架刑の男性の遺体を包んだもの
です。イエスは、正午近くに十字架に付けられ、午後3時頃に息を引き取りました。夕方になり、その日
はパラシェーバ、すなわち過越祭の荘厳な安息日の前日であったので、最高法院の裕福な権威ある議
聖骸布崇敬「聖土曜日の神秘」の黙想
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
員であったアリマタヤのヨゼフが勇気を出し、自分の新しい墓にイエスを埋葬させてほしいと、ピラトに願
い出ました。その墓は、ゴルゴタからほど近く、岩を掘って作られていました。許可を得たヨゼフは、一枚
の掛布を購入すると、イエスの体を十字架から降ろし、その布で包んで墓に安置しました(マルコ 15,
42-46 参照)。このようにマルコの福音は伝え、他の福音記者も彼に同調しています。その時から、安息
日の翌日の暁までイエスは墓の中に留まります。そして、トリノの聖骸布が提示しているのは、その間の
墓に安置されたイエスの体がどのような姿であったかというイメージです。時間の経過としては短い(一
日半ほど)、しかし、莫大な、限りない価値と意義を有する時間です。
聖土曜日は神の隠没の日です。『何が起きたのか?きょう地上には大いなる静寂、大いなる沈黙と孤独
がある。大いなる沈黙があるのは王が眠っているから…神が肉において死なれ、陰府の王国を揺さぶる
ために下られたのだ』(聖土曜日の説教 PG43, 439)。信仰宣言において私たちが宣言するのは、イエ
ス・キリストは『ポンチオ・ピラトのもので十字架に付けられ、死に、葬られ、陰府に下り、3日目に死から
復活された』ということです。
親愛なる兄弟の皆さん、私たちの時代においては、特に前世紀を通り過ぎてからは、人類は聖土曜日
の神秘に特に感じやすくなりました。神の隠没は、現代の人間の霊性の一部を成しており、それは、実
在的でありながらほとんど無意識に、絶えず広がる一方の心の空白として、形成されています。1800年
代の終わりには、『神は死んだ!我々が神を殺したのだ!』とニーチェが書きます。この有名な表現は、
明らかに、キリスト教の伝統からほぼ文字通り写し取られたものです。私たちはその言葉を十字架の道
行でしばしば口にしながら、おそらくは、自分が口にしている事の意味さえ完全には分からないまま、た
だ繰り返しているのです。2度の世界大戦を経て、ナチス強制収容所やソ連強制労働収容所、広島や
長崎を経て、私たちの時代は、絶えずより大きな意味で一種の聖土曜日となりました。今日の暗闇は、
命について問いかける全ての人々に問いただします。とりわけ私たち信徒に問いただすのです。私たち
もこの暗闇と関係があります。
しかしながら、神の御子の死、ナザレのイエスの死は、逆の側面を有しています。全く肯定的で、慰めと
希望の泉としての側面です。この事から私が考えるのは、聖骸布はまるで「現像写真的」な証言であり、
「ポジティブ」と「ネガティブ」という両面から成立っているという事実です。そして、実際にそのとおりなの
です。つまり、信仰の最も暗い神秘は、同時に、際限ない希望の最も明るいしるしであるということです。
聖土曜日は死と復活の間にある『無人の地』です。しかし、この『無人の地』に入った人がひとり、ただひ
とりだけいます。彼は人間のための受難のしるしを身に負って、この地を通り過ぎました。それが、『キリス
トの受難、人間の受難』です。そして、聖骸布はまさにその瞬間について、端的に私たちに語ってくれる
のです。人類と宇宙の歴史に対する唯一にして再現不可能な介入について、証しするためにあるので
す。この介入において、イエス・キリストにおいて、神は、私たちの死ぬということだけではなく、私たちの
死の内に留まるということまでも、分かち合ってくださったのです。この上なく徹底した連帯です。
聖骸布崇敬「聖土曜日の神秘」の黙想
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
そのような「時間を超えた時間」に、イエス・キリストは『陰府に下りました』。この表現は何をいみしている
のでしょうか?それは、人となった神が、人間の究極的で絶対的な孤独に入って来てくださるまでに至
ったということ、愛の輝きが一切届かず、いかなる慰めの言葉もなく完全に見捨てられた放棄が支配して
いるところ、すなわち陰府に入って来てくださるほどに至ったということなのです。イエス・キリストは、死に
留まることで、この最終的な孤独の門を通過されたのであり、それは、私たちも彼とともにその門を通過
する事ができるように導いてくださるためなのです。私たちはみな誰でも、見捨てられるという恐ろしい戦
慄を時に感じたことがあります。そして、死に関し私たちに最も怖れを抱かせるのは、まさにこの点なの
です。子供の頃から、闇の中に独りでいるのを怖がったようにです。そして、私たちを愛する人の存在だ
けが私たちを安心させることができます。さあこれこそ、聖土曜日に起きた事件なのです。死の王国に神
の声が響き渡りました。考えもつかない事が起こったのです。それはすなわち、愛が『陰府の国に』入り
込んでこられたということです。人間のこれ以上ない絶対的孤独の極限の闇の中にあっても、私たちは
私たちを呼ぶ声を聞くことができます。私たちをつかみ、外に導きだしてくれる手を見出すことができま
す。人間は、愛されており、愛することができるという事実のために生きているのです。そして、死の空間
でも愛が入り込んでくれるなら、そこにも命が到達したということなのです。極限の孤独の時にも、私たち
は決してひとりぼっちではありません。『キリストの受難、人間の受難』なのです。
これが聖土曜日の神秘です。まさにそこから、神の御子の死という闇の中から、新しい希望の光が輝き
出ました。復活の光です。さあここで、この聖なる布を信仰の目で見つめることで、この光の何かしらを感
じ取ることができるように、私には思えます。実際、聖骸布はあの深い、しかし同時に光に満ちた闇の中
に沈められたのです。この聖骸布を崇敬するために、画像を通してこれを眺める人々の数を抜きにして
も、幾十万・幾百万に上る人々がわざわざ訪れるの
は、聖骸布に闇だけを見るのではなく、光を見るか
らだと、私は思います。命と愛の敗北ではなく、むし
ろ勝利を見るからでしょう。死に対する命の勝利、憎
しみに対する愛の勝利です。聖骸布に確かにイエス
の死を見ますが、しかし、彼の復活をそこに垣間見
るのです。そこに愛がこもっているなら、死の胎内に
今や命が鼓動します。聖骸布の力とはこれなのです。
すなわち、あらゆる時代のあらゆる場所の人間の受
難、私たちの悩み、私たちの困難、私たちの罪を自
ら背負う、この苦しみの男の顔からは、「キリストの受
難、人間の受難」、その荘厳な威光が発しています。
逆説的な主権です。この顔、この手、この足、この脇
腹、この身体のすべてが語りかけます。この身体自
体が、沈黙の内に聞くことができる言葉です。聖骸
布はどうやって話すのでしょうか?血によって話す
聖骸布崇敬「聖土曜日の神秘」の黙想
ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー
のです。血は命です。聖骸布は血で描かれたイコンです。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に
付けられ、右わき腹を傷つけられた男の血です。聖骸布に焼きつけられたイメージは亡くなった人間の
姿ですが、しかし、血は彼の命について語ります。血の跡のすべてが愛について、命について語るので
す。特に、わき腹付近のおびただしい染みは、ローマ人の槍の一突きで出来た大きな傷から大量に流
れ出た血と水によって出来たものですが、その血その水は命について語っています。静けさの中に清か
な音を立てて湧き出る泉のように、その水の音が私たちにも聞こえてくるように、聖土曜日の静けさにお
いて、私たちもこの声を聴くことができます。
親愛なる友の皆さん、主を絶えず賛美しましょう。主の忠実で憐れみ深い愛を讃えましょう。そして、この
聖なる場所から出発し、私たちの目の奥に聖骸布のイメージを携えていきましょう、この愛の言葉を心に
抱えていきましょう。私たちの信仰と希望と愛に満ちた生活によって、神を褒め称えましょう。アーメン。
原文© Copyright 2005-2012 – Libreria Editrice Vaticana
邦訳© Copyright 2010 – Cooperatores Veritatis Organisation
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