東海ニュース第7号 - 和歌山大学経済学部同窓会柑芦会

柑芦会
2007.8.10
東海ニュース第 7 号
ぶらくり丁
街おこしに和大生活躍
学生の浴衣イベントに商店街賑わい
活躍する青年実業家 事業の継承と変革をめざして
杉浦義浩君{大32}生き残りへの戦い
夏の日の思い出
和大生の着物イベント
健康を実感する喜び
街おこしに一役
7 月 17日出勤時の車中、NHKラジオ「朝一番、各地のたより」の放送を偶然耳にしイベントを知
りました。早速大学の宮本事務長に連絡し、翌朝の朝刊記事をメール送信いただきました。
朝日新聞と地元和歌山新聞による関連記事を転載いたします。
生き残るということ(中小企業の事業継承)
32 期 杉浦 義浩
私は、昭和 59 年に和大を卒業、3 年間の大阪の商社での勤務を経た後、昭和 62 年に家業であるヤマ
ヨ毛布(株)に入社しました。当社は、創業明治 33 年(1900 年)で、ずっと繊維に携わってきました。
会社のある愛知県西尾市中畑町は矢作川沿いにあり川の北側は碧南市です。当地はもともと川船交易の
渡場があったところで、三河湾の海産物を岡崎、豊田へ、そして彼の地の山野の物産を海沿いの地域へ
と帆掛け舟が行きかっていたそうです。
明治から大正、昭和初期までは、その川船の廃船になったものを再利用し、二隻組で両側に水車をつ
け、それを動力とし紡績機(ガラ紡)を廻していた産地です。最盛期には 100 隻近くのガラ紡船があっ
たようですが、電気の普及につれ次第に陸に上がり、一大ガラ紡産地になったのが中畑町で、岡崎の滝
町(川の流れを利用し水車を廻した)と並ぶ産地でした。
戦後、再生繊維を使え、柔らかい風合いの糸ができるガラ紡の特長を活かし、毛布の製造が盛んにな
り、昭和 30 年代には、1000 世帯程の小さな町に約 30 社の毛布製造会社と関連の紡績、下請けの機屋、
原料メーカー、問屋など合計約 100 社がひしめき、互いに毛布の製造販売を競い合いました。当社はそ
の中にあって大手 4 社のうちの1社で、昭和37年には当時としては大変豪華な鉄筋4階建ての寮を建
設しピーク時で約100名の女子従業員さんを含め130名程度の陣容でありました。
(S36 年生まれ
の私は、残念ながら全く記憶がありません)
安価で低品質のガラ紡毛布の出荷先は、主に発展途上国で最盛期には名古屋港からの輸出品目で TOP
3に入っていたそうですが、相手国の開発、発展に伴いその市場は次第に狭くなり、当社も昭和41年
に東アフリカのタンザニアに合弁会社を設立、市場を確保すべく努力をしていきましたが、ドルショッ
ク、オイルショックと激動の国際情勢の中、当社のみならず産地全体が市場を急速に失っていきました。
今思えば、私が入社した昭和62年というのは、当産地の本当の末期でした。「家に帰れば輸出の仕
事をしなければならない!」と、世間知らずの私は思っていたわけですが、状況はまったく違いました。
前年(S61年)には、産地内の業者同士による融通手形で数社がいっきに倒産、産地としての力を急
激に失っていきました。入社してから、コマーシャルベースでの毛布の輸出はたった一度、わずかに5
00枚のみで、その後10年間ほどは緊急援助用毛布として世界各地の被災地へと当社の毛布が政府機
関から送られました。
(政府機関の緊急援助用毛布は殆どすべてわが社の毛布でした。
)しかし、それに
しても当社の売り上げ全体の数%で、それ自体10年ほど前に発覚した商社の談合事件に巻き込まれ、
北方領土の地震の時に送った援助用毛布が最後になりました。
(かの有名な「ムネオハウス」
の映像が TV で映った時に当社の毛布がベッドに敷いてありました。
)
このように当社は社名に「毛布」とついてはいるものの、毛布の製造は今は全くしておらず、在庫の
毛布を運送会社や機械部品メーカー向けの梱包用毛布としてわずかな量を販売しているだけで、実際は
毛布の横糸用の極太番手糸を製造できる設備を活かし、特殊な産業資材用の糸のみに特化して生産して
ます。
20年前に入社した時には、まだ何もわからない状況で、最初は業績を上げようとし「とにかく増産
しよう!」と号令をかけ、3割程度増産をしたことがありますが、儲からないものをいくら増やしたと
ころで、
「儲からないものはいくら増やしても儲からない」というごく簡単なことを実証したに過ぎず、
文字どうり「くたびれもうけ」になってしまいました。その後いろいろな経緯で、自分で工場内のすべ
ての機械の調整、修理、生産計画・・が出来るようになって行くと同時に、適正な利益を得られるもの
のみ生産するようになり大した利益は出ないまでも体質的に強化していったと感じています。
ただ、工場すべてを把握したころには、同時に限界も見えてきました。毛布業界は約10年前までに、
当社以外のすべての業者が消滅していましたが、いわゆる「特紡産地」(岡崎を中心とした紡績業界)
は20年前で約100社、10年前でも約50社が残存していました。しかし、その産地にも大きな大
きな波「中国製品」が押し寄せてきていたからです。また同時に、紡績機械のメーカーも倒産、廃業し
新しい部品すら手に入らなくなってきました。そのころから、特紡業者にも廃業がさらに進んでいき、
急速に産地の力を失っていきました。つまり私とするとわずか20年の間に2つの産地の終末を経験
(
「特紡産地」はまだかろうじて残っていますが)したことになります。
私どもには、私が入社する1年前に設立した(株)ヤマヨという小さな不動産管理会社があります。当
初、この会社はその規模も、内容もほとんど「会社」の体をなしていず、わずかな賃貸物件の管理と、
損保の代理店のみを運営するだけでした。この会社の規模を拡大し始めたのが、ちょうどこのころ(1
0年前)です。
平成8年に「コインランドリーしゃぼん中畑店」をオープンし、同年に当社3棟目の賃貸アパートを
豊田に建設、翌年三河安城駅前に賃貸のビルを建設するなど大小織り交ぜて隔年ベースで建設し、借り
入れが多くなりはしますが、キャッシュフローベースで収益の上がり得る体質の会社にできるよう目標
を定めました。
同時に収益的には非常に難しくなってきている本業のヤマヨ毛布(株)に関しては、
「平成20年まで
に自己資本比率100%」を自分の目標とし、平成19年3月期で92.5%までになりました。営業
を続ける限り100%というのは非常に困難ではありますが、今期の残りでできる限り目標に近づける
ようにしていきたいと思っています。
先期、そして今期は両社ともに大きな転換点だと思っています。先期、両社の売上はついに逆転しま
した。そして、今期は(株)ヤマヨとしては新たな事業として女性専用フィットネスクラブ「カーブス西
尾中畑」を6月にオープンするとともに、当地では異例のハイグレードの賃貸アパートを同時期に建設
しました。本業の方は、基本的には変わらないものの、従業員さんの高齢化が進み、人員の補充もまま
ならない状況ですが生産量を絞りながらも機械の整備だけは万全にし高品質の製品を供給できるよう
に留意しています。
私自身決して成功しているとは思えない現段階で、このような文章を書き進めている自分に違和感を
感じえません。現段階は、すべて中途半端な段階です。既存の賃貸物件についてはあと2∼3年でいろ
いろな面でめどがたつと思いますが、新規事業については10年先に「やってよかった!」と思えてや
っと責任を果たせるのだと思います。(8年経過して、リースアウトしたコインランドリーでもまだま
だ気が抜けませんから)
ただ、現段階で中小企業の事業継承にとって間違いなく重要と言えることは、三つあります。まず初
めに、外飯を食うということです。私の場合、和大での4年間の下宿生活を経て3年間の商社での経験
がなければとっくに投げ出しているか、つぶれているのではないかと思っています。特に商社において
厳しく猛烈な上司に恵まれた事と、会社の寮で多くの友人を得たということは人生の宝だと、年を経る
に従って感謝の気持ちが深まります。
2番目は、その時その時で早め早めに手を打ったつもりでいた一つ一つのことが、あとで考えるとす
べてぎりぎりだったということです。タイミングというものはやはり重要で、少しずれただけでだめだ
ったかも知れない、ということをいくつも経験してきました。
三つ目は、ピンチの時にこそチャンスがあるということです。言い換えるならば、ピンチの後ろに同
時にチャンスがやってきているという事だと思います。ピンチがあまりにも強烈なためにひるんで目を
そらして歩みを止めてしまうと、チャンスを逃してしまいます。少なくとも、私の数少ない経験ではそ
うでした。ピンチの時に、もがいてもがいて苦しんで苦しんで進んでいるうちに、ふと苦しみが解け、
そこに大きなチャンスがやってきているのです。最近は、たぶん、これは、ずぼらで怠け者の私に、ご
先祖様がいつも試練を与えてくれて「お前はこれを切り抜けなければならないし、切り抜けることがお
前のためなんだぞ!」と教えてくれているのだと思えるようになりました。まさに、ご先祖様の「飴と
鞭」なのだと。今もその「飴と鞭」の真っただ中にいるような気がします。
とりとめのない文章になってしまいましたが、ここまで私のつたない表現にお付き合いをいただいた
皆様に心より感謝申し上げます。出来得るならば、10年後に、「あの時にいろいろやっておいて本当
によかった!」とご報告できれば!と、念願しています。
ありがとうございました。
夏の日の思い出
橋本一男{大10期}
この歳になると常に気になるのが健康である。ある時は不安がよぎり、ある時は敏感に反応したり何か
と落ち着かない時がある。十数年前に二度に亘って強度の狭心症を患っていることからどうしてもその
傾向が強くなる。それでも夏になると自分の体力を確かめたいこともあって毎年のように軽い山歩きに
出かけてきた。
途中までロープウエイ、残りを歩くという山々がこれまでのターゲットであった。御嶽山、信州横岳、
駒ヶ根、八方尾根、立山などせいぜいこれぐらい。目的を果たしては、健康であることの有難さと充実
感を味わってきた。私にとって夏は、単なるめぐり来る季節ではなく大事な健康度を確認し、自信と勇
気を与えてくれる季節でもある。
二年前、奥の細道を踏破した名残で月山を心に置きながらも今年は思い切って富士山をめざすことに
した。台風5号直前の8月1日のことであった。
限界を確認することが目的の山歩きであるため気軽な一人歩きであった。八合目山小屋に夕方の七時
頃やっとの思いで到着し、多くの登山客と山小屋での夕食を共にした。めずらしくこの日は夕焼けがき
れいで麓の湖や街の明かりもダイヤを散りばめたように輝き、湖畔に揚がる花火の大輪さえ一望できる
ほどであった。翌朝ご来光をめざし山頂を極めた感動はまた格別であった。
健康に自信の持てない身でありながら登頂できた喜びは、生涯現役を標榜する自分にさらなる勇気と
エネルギーを与えてくれたようで、広く深く「感謝の念」を強くした夏になった。八日は立秋、今年も
大きな思い出を残すことが出来て幸せいっぱいの日々である。
八合目より見たご来光
ご無沙汰しております。寺杣です。現在の住まいは静岡市で 9 月末で丸 3 年になりま
す。今年の 3 月にはマイホームを長久手に持つことができ今現在は単身赴任 4 ヶ月目
となっております。名古屋時代には先輩諸氏にいろいろお世話になり本当にありが
とうございました。特に橋本先輩にはブラザー工業の工場を見学させていただいた
のは今でもいい思い出です。
柑芦会のメール通信については大変、力のこもった内容であり毎回楽しく拝読して
おります。今回メールをいただいたのは記事の投稿要請のようですが、私自身もと
もと文才もなく常に他人の書いた記事を読んで感心することばかりといったのが実
情です。今しばらく先輩方の記事を参考にしながらテーマを考えさせてください。
またお会いできる日を楽しみにしております。無礼なメールで申し訳ございません
でした。
************************************
富士火災海上保険株式会社
静岡支店 PA営業課
寺 杣 勇 造
〒420-0851 静岡市 葵区 黒金町 20-1
編集後記
◎ 仕事、趣味、体験談、相談事、発表会、展示会、意見など
身の回りのことも含めどんな題材でも歓迎、このニュース
は会員の交流の場づくりをめざしています。投稿を期待し
ています。
◎ 送り先
[email protected]