高等学校地理歴史(地理A、地理B)学習における 世界遺産の教材化

奈良教育大学紀要 第58巻 第1号(人文・社会)平成21年
高等学校地理歴史(地理A、地理B)学習における世界遺産の教材化
Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 58, No.1 (Cult. & Soc.), 2009
101
高等学校地理歴史(地理A、地理B)学習における
世界遺産の教材化
淡 野 明 彦
奈良教育大学社会科教育講座(地理学)
(平成21年5月7日受理)
Making of the Teaching Materials of World Heritage
in Study of Geography in the High School
Akihiko TANNO
(Department of Geography, Nara University of Education,Nara 630-8528,Japan)
(Received May 7 ,2009)
Abstract
It is necessary for protect and maintain world heritage to understand the value of world heritage.
Therefore we must take systematized studying about world heritage on studying in the high school. I
considered the method of handling world heritage as a teaching material in this study.
“Venezia and its lagoon” and “Trulli of Alberobello” were taken as cases with world heritage. We can
get the knowledge of the value of world heritage through collating its historic and artistic facts of each
world heritage with the standard of registration to world heritage, and geographic consideration became
possible too.
Key Words: World heritage, high school, geography,
making of the teaching material
1.はじめに
キーワード:
世界遺産、高等学校、地理A、地理B、
教材化
のためには人々が自ら世界遺産に登録された物件を知る
ことにより、その価値を理解し、その保護・保全の重要
UNESCO(国際連合教育科学文化機関)による世界遺
性を認識することが必要である。各々の世界遺産が有す
産の登録件数は2008年7月時点で878件(文化遺産679件、
る価値は、世界遺産への登録の可否を判断される根拠と
自然遺産1
74件、複合遺産2
5件)が登録され、毎年その
なる10項目の登録基準の少なくとも1つ以上に該当する
数が増加している。日本では2008年に新規に登録された
か2) によって絶対化される。世界遺産を見る際に、単な
物件はなく、1
4件にとどまっている1)。世界的に周辺で
る「美しい」、「素晴らしい」、「珍しい」という感動だけ
の都市的な景観の出現、武力紛争などによる世界遺産の
では、世界遺産の真の価値を知ることにはならず、
「なぜ
価値を喪失させるマイナス面での影響が顕著なものとな
世界遺産なのか?」という理由を登録基準に照らして理
っており、「危機にさらされている世界遺産リスト」(通
解されなければならない。
称:危機遺産リスト)に登録される物件も増え、2008年
筆者(2006、2007)は先に世界遺産条約に基づく世界
7月時点では「ガラパゴス諸島」
(エクアドル、1978・2001
遺産の保護・保全にあたっては、世界遺産のもつ価値の
年自然遺産登録)をはじめ30件に達し、保護・保全のた
重要性に対する人々への一層の啓発教育が必要であり、
めの緊急の是正が求められている。
ことに学校における体系化された教育が必要であること
世界遺産への登録は顕著な価値を有する事物を国際的
を指摘し、小学校社会科学習、および中学校社会科(地
な体制のもとで保護・保全することが主目的であり、そ
理的分野)における世界遺産の教材化を図った。世界遺
102
淡 野 明 彦
産の登録基準を媒介として、教材化の可能性を考察し、
表1 学習指導要領の「地理A」, 「地理B、」の内容
小学校社会科学習においては第3学年から第6学年にお
(項目部分の抜粋)
ける学習指導要領が示す目標に沿って、世界文化遺産
「古都奈良の文化財」について具体的な取り扱いを示し
た。中学校社会科(地理的分野)学習においては、学習
指導要領で示されている内容の取り扱いの留意点をも考
慮して、国内では世界文化遺産である「白川郷と五箇山
の合掌造り集落」と「古都奈良の文化財」を、外国では
オランダの世界遺産を選定し、教材化を試みた。
今回は高等学校地理歴史の地理Aおよび地理Bの学習
における、世界遺産の教材化を試みた。
2.高等学校地理歴史の地理Aおよび
地理Bの目標と内容
2.1. 地理Aおよび地理Bの目標
現行の高等学校学習指導要領(平成11年3月告示、14
年5月、15年4月、15年12月一部改正、15年4月1日施
行)では、地理Aの目標は「現代世界の地理的な諸課題
を地域性を踏まえて考察し、現代世界の地理的認識を養
うとともに、地理的な見方や考え方を培い、国際社会に
主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う。」と示
されている。一方、地理Bの目標は「現代世界の地理的
事象を系統地理的、地誌的に考察し、現代世界の地理的
地理A
現代世界の特色と地理的技能
ア 球面上の世界と地域構成
イ 結ぶ付く現代世界
ウ 多様さを増す人間行動と現代世界
エ 身近な地域の国際化の進展
地域性を踏まえてとらえる現代世界の課題
ア 世界の生活・文化の地理的考察
(ア) 諸地域の生活・文化と環境
(イ) 近隣諸国の生活・文化と日本
イ 地球的課題の地理的考察
(ア) 諸地域から見た地球的課題
(イ) 近隣諸国や日本が取り組む地球的課題と国際協力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地理B
現代世界の系統地理的考察
ア 自然環境
イ 資源、産業
ウ 都市・村落、生活文化
エ 身近な地域の国際化の進展
現代世界の地誌的考察
ア 市町村規模の地域
イ 国家規模の地域
ウ 州・大陸規模の地域
現代世界の諸課題の地理的考察
ア 地図化してとらえる現代世界の諸課題
イ 地域区分してとらえる現代世界の諸課題 ウ 国家間の結び付きの現状と課題
エ 近隣諸国研究
オ 環境・エネルギー問題の地域性
カ 人口、食料問題の地域性
キ 居住、都市問題の地域性
ク 民族、領土問題の地域性
認識を養うとともに、地理的な見方や考え方を培い、国
際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養
を取り扱うことに内容が傾斜している。現代世界に生き
う。」と示されている。地理Aの文中の「地理的な諸課
る生徒に眼前に生じている空間的な諸事象に迫ることが
題を地域性を踏まえて考察し」と、地理Bの文中の「地
できる学習が期待できるものの、過去からの集積として
理的事象を系統地理的、地誌的に考察し」の表現が異な
存在する現代社会が表面的、短絡的にとらえられてしま
っている。文中の前半部で「地理的な諸課題」(地理A)
う浅薄さがあるが、授業時数との兼ね合いでその程度は
と「地理的事象」
(地理B)という微妙な表現の違いが
妥当としなければならない。
あり、後半部の文章と合わせて解釈すれば、地理Bが学
地理Bは学問としての地理学のオーソドックスな体系
問としての地理学の成果を学習対象とするのに対して、
に準じた構成となっており、地理学の研究方法としての
地理Aでは学問の専門的な内容には深めずに、地理的認
地域スケールに対応した考察、地図化(分布の表現)に
識を養うという程度にとどめられている。標準単位数が
よる考察、地域区分による考察、地域の比較による考察
地理Aでは2単位(一週当たり2時間の授業配当)で、
が明確に位置づけられている。ただ、学習する内容が多
地理Bでは4単位(一週当たり4時間の授業配当)であ
いために、事象の羅列や地名や用語の単純な暗記に陥る
るという差が反映されている。内容の取り扱いにおいて
ことが懸念され、指導においては諸事象が有機的に結び
地理A、地理Bともに(1)アで「細かな事象や高度な事
付いて空間が構成されているという認識が常に重要であ
項・事柄には深入りしないこと。」と留意することを求め
るということが意識されなければならない。
ているが、地理Aと地理Bとの「地理的認識」の習得に
は質的に歴然とした学習の深みの差がとらえられる。
2.3.内容と世界遺産の関連付け
地理A、地理Bともに学習する内容を示した文章中に
2.2.地理Aおよび地理Bの内容
世界遺産について触れた部分はない。学習指導要領はそ
目標が学習段階で具体的にどのような内容として示さ
もそも教材の具体化までを指し示すものではなく、教科
れているかを見出し項目だけを表1に列挙した。両者の
用図書(教科書)の段階で学習指導要領に準拠して教材
標準単位数の差が学習する内容の量に影響を及ぼしてい
が具体化されるものである。実際に教科書において世界
るのは当然であるが、地理Aは現代的なトピカルな事項
遺産が取り上げられているかを、全国的に採択数の多い
高等学校地理歴史(地理A、地理B)学習における世界遺産の教材化
103
二宮書店発行の「よくわかる地理A」と「詳解地理B」
Bで共通に利用できるように「観光(余暇行動)
」、「世
(いずれも平成18年検定済、著作者(複数)は同一)で
界遺産」
、「生活(居住)
」、「異文化理解」を一連のもの
は、後者で「日本人の東南アジア観光」の項で世界遺産
として包括して教材化した。学習指導要領に示された内
を取り上げた部分が一箇所ある(227ページ)。ただ、訪
容や教科書の記述の順序に沿って授業を進めていく方法
れる場所として「東南アジアにはボロブドール遺跡やア
も肯定しつつ、空間に生起している現象は諸事象の有機
ンコールワットなどの世界遺産」として記述されている
的な結合であることから、教師の判断によって必要に応
だけで、世界遺産という事項そのものについての説明は
じて順序にこだわらず、内容や記述を適宜に関連させる
ない。また、他の地域での観光に関する記述では世界遺
工夫も必要である。
産については触れられておらず、文章の修辞的な意味合
3.世界遺産の教材化
い程度に使用されたものとみなされる。世界遺産という
事項が記述された箇所で、世界遺産について詳しく触れ
るかどうかは指導者(教師)の任意であるが、「細かな
世界遺産の登録に関する長々とした説明や、世界遺産
事象や高度な事項・事柄には深入りしないこと。」という
のすべてについて網羅的に取り扱うことは、学習指導要
内容の取り扱いの留意事項からすれば、世界遺産につい
領の留意点との抵触、授業時間数の制約という点で妥当
てその登録の意義、登録の手順、登録基準などの基本的
ではなく、多くの世界遺産のなかから教材化の意図に適
な内容について詳しく取り扱うことには時間的にも難が
切な事例を選択しなければならない。日本の世界遺産は
ある。他の地理的事象と関連させて取り扱う方法が検討
「日光の社寺」、「古都奈良の文化財」にみられるように
されるべきである。
神社・仏閣のイメージが強い。外国においてもキリスト
「余暇に関する行動」や「観光」という空間行動につ
教やイスラム教など宗教関連の施設の物件が多いが、
いては、現行の高等学校学習指導要領(平成11年版)で
「生活(居住)
」に直接に関わる物件を、高校生にはよ
は旧版(平成元年度版)に比べて取り扱いが強められて
く知られた国であり、教材研究において画像や文献等の
おり、地理Aでは内容の(1)ウの箇所で「世界各地の消
資料が得やすいフランス、イタリア、ドイツからリスト
費や余暇に関する行動、観光、ボランティア活動などに
アップした(表2)。
関する資料の収集、分析などを通して、世界の人々の多
様化する行動を地理的環境と関連づけてとらえさせる。」
表2 フランス、イタリア、ドイツにおける「生活(居
住)
・文化」に関連する世界遺産(筆者による選択)
として、「余暇に関する行動」や「観光」という用語が
記され、地理Bにおいても内容の(1)ウの箇所で「世界
物件名
所 在国
登録初年
中世市場都市プロヴァン
再建都市ル・アーヴル
ストラスブール旧市街
ボルドー
「月の港」
オルチャ渓谷
ポルトヴェーネレとその周辺
クレスピ・ダッダ
ヴィチェンツァ市街と郊外の邸宅
ヴェネツィアとその潟
アマルフィ海岸
マテーラの洞窟住居
アルベロベッロのトゥルッリ
ヴァル・ディ・ノートのバロック様式の町
ハンザ同盟都市リューベック
シュトラールズンドとヴィスマール
ランメルスベルク鉱山と古都ゴスラー
バンベルク
レーゲンスブルク旧市街
フランス
フランス
フランス
フランス
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
イタリア
ドイツ
ドイツ
ドイツ
ドイツ
ドイツ
200
1
200
5
198
8
2
007
2
004
1
997
1
995
1994
1
987
1
997
199
3
199
6
2002
1987
2002
1992
1993
2006
の都市・村落や消費、余暇に関する行動、人々の衣食住
などから系統地理的にとらえる視点や方法を学習するの
に適切な事例を幾つか取り上げ、世界の都市・村落、生
活文化を大観させる。
」として「観光」という用語そのも
のはないが、「余暇に関する行動」が明記されている3)。
観光の本質は深い意義をもつものであるが4)、一般的な
認識としては単純な「物見遊山」としてとらえられがち
で、教育面において観光に対する一層の認識が必要であ
る。先に筆者は(淡野 2008)観光の意義と世界遺産へ
の登録の意義との関連をとらえ、世界遺産と観光に関す
る地理学的アプローチを検討し、具体的な研究テーマの
一つとして世界遺産の保護・保全に関する教育を提示し
登録基準
,
,
,,
,
,
,,
,
,
∼
,,
,,
,,
,,
,
,
,
,
,,
た。
以上の見解にたって、地理Aでは内容(1)ウ(前掲)
(2)ア(ア)に示されている「世界諸地域の生活・文化を
地理的環境や民族性と関連付けて追求し、生活・文化を
・2008年7月時点での登録物件について筆者の判断により選択した。
・世界遺産の種別はすべて「世界文化遺産」である。
・物件名は正式な登録名称は英語であるが、一般的な和名として小学館
(2007)
:
『21世紀 世界遺産への旅』に使用されている名称を用いた。
・登録基準は付表に示した。
地理的に考察する視点や方法を身につけさせるとともに、
異文化を理解し尊重することが必要であることについて
これらの物件のなかから、観光地として著名な物件と
考察させる。
」を関連付け、また地理Bでは内容
(1)ウ
して「ヴェネツィアとその潟」
(正式名称:Venice and
(前掲)と(3)キの「居住、都市問題の地域性」を関連付
its Lagoon)を、自然環境の地域性が強く反映した居住形
けて世界遺産を教材化することを試みた。地理Aと地理
態がとらえられる「アルベロベッロのトゥルッリ」(正
104
淡 野 明 彦
式名称:The Trulli of Alberobello)を選び教材化の例と
のすべてにかない5)、数多くの世界遺産のなかで屈指の
した。
物件である。紙面の制約からヴェネツィアの価値を詳細
に述べることはできないが、基準の()に関しては、
3.1.「ヴェネツィアとその潟」の教材化
このような水上に立地する集落は、異民族の侵入によっ
ヴェネツィアはイアリア北東部にあり、地中海の一部
て生活を脅かされた土着の住民が、避難のために移住を
であるアドリア海の潟(ラグーン)の浅瀬に発達した人
余儀なくされられたという不幸な理由により形成された。
口約30万人の中規模都市である。行政的にはイタリアの
6世紀半ば頃から浅瀬に木杭を打って建設が始められ、
重要な都市のひとつで、ベネト州の州都であり、同州を
時間の経過とともに集落の規模が拡大し、14∼15世紀に
構成するヴェネツィア県の県都である。市域は中心部だ
はヨーロッパ世界にその名をはせるヴェネツィア共和国
けでも120・余りの島で構成され、島々は約400の橋で結
として繁栄の頂点に達し、その後に衰退をみながらも、
ばれ、大陸部(対岸)との往来は道路橋と鉄道橋によっ
今なお数々の歴史的蓄積を残存し、現代の都市としての
ている。島内では自動車の利用はできず、移動手段は船
隆盛を保ち続けているという、基準の表現にある「人類
と徒歩に頼っている。世界的に見れば水上に立地してい
の創造的才能を表す傑作。」なのである。このことは基準
る集落は南シナ海周辺や南太平洋の島嶼部にあるものの、
()の「現存する……文化的伝統や文明に関する独特
ヴェネツィアのような人口規模が大きく、都市としての
なあるいは稀な証拠を示していること。」に適合し、さら
機能が整備された水上にある都市は希有であり、この特
に基準()の「ある文化(または複数の文化)を特徴
徴が観光地としての魅力となり、世界中から多くの人々
づけるような、人類の伝統的集落や土地利用の一例であ
が訪れている(写真1)。ヴェネツィアは1987年に世界文
ること」にも適合する。ヴェネツィアが都市としての歴
史をたどるなかで、芸術的にはビザンチン建築の代表で
あるサン・マルコ大聖堂にみられるように、ビザンチン、
ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックなど様々
な影響を受け、市域を二分して貫流する大運河(カナル・
グランデ)の両岸には由緒ある建物が並び、その状態が
基準()の「ある期間、あるいは世界のある文化圏に
おいて、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の
発展に大きな影響を与えた人間的価値の交流を示してい
ること」や基準()の「人類の歴史の重要な段階を物
語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、
写真1 世界文化遺産「ヴェネツィアとその潟」
イタリア/1987年登録/登録基準 i∼vi(筆者撮影 2
003)
あるいは景観に関するすぐれた見本であること」に適合
している。さらには歴史的な絵画、彫刻、音楽およびヴ
ェネツィアン・グラスや刺繍などの伝統的な芸術作品や
化遺産として登録された。観光客は「珍しい都市」、「変
シェークスピアによる「ベニスの商人」に代表される文
わった都市」などと評して、通常の周遊型の団体ツアー
学的作品などの存在が基準()の「顕著な普遍的価値
では半日から一日の短時間の滞在で観光するが、「なぜ
な価値をもつ出来事、……芸術的作品、あるいは文学的
このような都市があるのか?」という疑問をもつことに
作品と直接または実質的関連がある」に適合している。
より、世界遺産に登録されているヴェネツィアの真の価
このように世界遺産の登録基準に具体的事実を照合させ
値を知ることができる。授業において「世界中から多く
ることによって、教科としての地理の学習すべき内容に
の観光客が訪れる有名な観光地ですよ」とか、
「世界遺産
関連付けられ、学習により世界遺産の真の価値が理解で
に登録されている町ですよ」という説明だけでは、地理
き、その保護・保全への認識が高まることに寄与できる。
的(空間的)現象としての集落の立地、そこで繰り広げ
現在のヴェネツィアは海面の上昇により頻発する建物の
られている生活(居住)の理解には程遠い。ことに陸上
浸水、家庭からの排水による運河の汚染など深刻な環境
で生活していることが当たり前になっている日本におい
問題を抱えているが、こうした問題は地理Aの内容(2)
て、生徒にはヴェネツィアは非日常的な「奇異な」空間
イ(ア)の「環境、資源・エネルギー、人口、食料及び居
であり、観光面での取り扱いだけではなく、世界に見ら
住・都市問題を地球的及び地域的視野から追及し、地球
れる生活(居住)の多様性を理解し、同時に世界遺産と
的課題は地域を超えた課題であるとともに地球によって
しての価値をも理解できる好都合な物件である。
現れ方が異なっていることを理解させ、……」の具体的
ヴェネツィアが世界遺産として登録されるにおいて適
な例として取り扱うことができ、地理Bの内容(3)キの
合した基準は、文化遺産に対して適用される()∼()
「居住、都市問題を世界的視野から地域性を踏まえて追
高等学校地理歴史(地理A、地理B)学習における世界遺産の教材化
105
求し、それらの問題の現われ方には地域による特殊性や
呪術的な意味合いであるとか、他の家と区別するための
地域を超えた類似性がみられることをとらえさせ、その
目印であるとも解釈されている。当初には類似していた
解決には……」についても同様である。
家屋の形態はその後に住民個々の経済力や社会的地位に
よって外観が異なるようになった。
3.2.「アルベロベッロのツゥルッリ」の教材化
このような景観は観光客をまるでお伽の世界に居るよ
アルベロベッロはイタリア南部のプーリア州バリ県に
うな気分にさせるが、世界遺産としての真の価値は登録
ある人口約1万人の小さな町である。地形的にはムルジ
基準の()、()、()に裏付けられる。
()に関
ェとよばれる石灰岩で構成される広大な台地上にある。
しては16世紀半ばから建設され、トゥルッリとよばれる
気候的には地中海性気候の特徴をもち、夏の高温とが乾
特徴的な家屋が今も住民の住居として使用され、伝統的
燥が顕著で、周辺では耐乾性のブドウ、オリーブ、アー
な生活が集団の中で維持されているという事実であり、
モンドなどが栽培されている。町の中心をなす二つの地
「現存する、……文化的伝統や文明に関する独特な、あ
区には、ツゥルッリとよばれる円錐形の屋根をもつ家が
るいは稀な証拠を示していること。
」に適合する。()
1600軒余り建っており、それらの多くは現住する家屋と
に関しては、トゥルッリとよばれる家屋形態が「……建
して使用されている。この特徴ある景観が1996年に世界
築的または技術的な集合体あるいは景観に関する優れた
文化遺産として登録され、ヨーロッパ人を主に多くの観
見本であること。」に適合する。()に関しては、石灰
光客が訪れている(写真2)。ツゥルッリは16世紀半ばか
岩地形と地中海性気候という自然環境において、自然環
境の特性を人間の居住に適合させた生活環境を形成して
きたという歴史的事実を有することが、
「ある文化(ある
いは複数の文化)を特徴づけるような、人類の伝統的集
落や土地利用の一例であること」に適合する。しかし、
近年の状況として、空き家となるトゥルッリが増加し、
また家屋や景観の維持、補修に要する技術の伝承が不確
実であるという事実が生じているという点で、
「……特
に抗しきれない歴史の流れによって、その存続が危うく
なっている場合。」にも適合する。
アルベロベッロの気候は日本のほとんどの地域の気候
写真2 世界文化遺産「アルベロベッロのトゥルッリ」
イタリア/1996年登録/登録基準 iii・iv・v(筆者撮影 2009)
である温帯東岸気候とは夏の気候的特性がまったく異な
り、石灰岩が卓越する地形的特性とが合わさって、地域
の自然環境の違いが家屋の形態に顕著に現れた例として
ら約100年間にわたって開拓農民用の住居として造られ、
典型的な事象である。世界遺産の真の価値を知ることに
トルッロという一つの部屋に一つの屋根がついた意味の
より、世界の諸地域の生活(居住)、文化の違いを対比
建物が数個集まり、一世帯分としてまとまったものがツ
的に理解できる。日本人にとってアルベロベッロは僻遠
ゥルッリとよばれている。この地域の自然の植生からは
の地域にあるが、地域性を顕著にとらえることができる
建築用材として利用できる杉や檜のような大木が得られ
という点で好都合な事例である。
ないために、土地の周囲にカンネーレとよばれる地元で
二つの事例からとらえられた世界遺産の価値と地理的
採れる自然のままの石灰岩を同心円状に積み重ね、その
意味を表3に簡略にまとめた。
上に石灰を塗り固めて壁を作り、キアンカッレとよばれ
る平らな石灰岩で円錐状に屋根を葺いている。白壁は紫
表3 世界遺産の価値と地理的意味(筆者原表)
外線を防ぎ、外気を遮断して夏は室内の気温の上昇を軽
減し、冬は保温効果をもたらす。伝統的にはこうした家
屋の形態はイタリア半島の南東端にあるサレント半島で
多く見られたもので、アルベロベッロに多く残っている。
夏の降水量が特に少ない地域であるために、円錐形の屋
根から落ちた雨水は導水路を通り、床下に設けられた天
然の岩石をくりぬいた直径3m、深さ5mほどの貯水槽
に流し、生活用水として利用する。家屋の高さは頭頂部
にあるピナクル(小尖塔)を含めて3∼4m程度で、屋
根の道路側には様々な意味をもったシンボルが描かれ、
106
淡 野 明 彦
4.まとめ
高等学校地理歴史(地理A、地理B)の学習において、
れた。各基準の文言も若干変更されているので、2
005年以
前と以後では引用される基準の文章が異なっているが、基
準の本質的な考え方の変更はない。
世界遺産をどのように教材化すればいいかについて考察
文献
した。世界遺産を単純に「余暇に関する行動」や「観光」
小学館 2003.『ビジュアル・ワイド 世界遺産』.小学館.
495p.
小学館 2007.『21世紀 世界遺産の旅』.小学館.
383p.
淡野明彦 2006.小学校社会科学習における世界遺産の教材化.
奈良教育大学紀要55−1
(人文・社会).
101‐111.
淡野明彦 2007.中学校社会科(地理的分野)学習における世
界遺産の教材化.奈良教育大学紀要56−1
(人文・社会).
103‐
114.
淡野明彦 2008.世界遺産と観光に関する地理学的アプローチ.
地理空間1−2.
32−45
Trimbou Editor(花野真栄・稲葉伸之介訳)
2007.『アルベロベッ
ロ 新・写真で見る歴史ガイド』.Trimbou Editor.
63p.
に関連付けて学ぶことも意味がないわけではないが、世
界遺産に登録された基準を具体的事実と照合させて学ぶ
ことにより、世界遺産の真の価値が理解でき、それによ
って学習指導要領に示された内容が有機的な関連をもっ
て理解できるように教材化を図った。世界遺産の事例と
して「ヴェネツィアとその潟」と「アルベロベッロのト
ゥルッリ」を取り上げ、具体的に展開した。
世界遺産の保護・保全には世界遺産の真の価値を理解
することが重要であり、学校での体系化された教育にお
いて実現されるべきであると考える。
付表:世界遺産の登録基準(日本ユネスコ協会の日本語
訳による) 注
1)日本から登録申請された「平泉の文化遺産」は登録延期と
なり、今後の登録申請の対象暫定リストには「平泉の文化
遺産」を含めて「古都鎌倉の寺院・神社」、「彦根城」など
12件が記載されている。
2)ただし、登録基準の()のみで登録が認められ場合は極
めて例外で、他の基準と関連している場合にのみ適用され
る。
3)
「余暇に関する行動」と「観光」との意味的な区別は明確で
はないが、
「レクリェーション」と「観光」とは総理府 1969.
『観光政策審議会答申』により区別されて定義されている。
それによれば「レクリェーション」とは「自己の自由時間(余
暇)の中で、鑑賞、知識、体験、参加、精神の鼓舞等生活
の変化を求める人間の基本的欲求を充足するための行為」
であり、
「観光」とは「レクリェーションのうち、日常生活
圏を離れて異なった自然、文化等の環境のもとで行おうと
する一連の行動」である。この定義に準じれば「余暇に関
する行動」は「レクリェーション」とほぼ同じ意味である
と解釈できる。
4)観光のもつ意義について総理府 2
000.『観光政策審議会
答申』ではつぎのようにまとめている。
① 人々にとっては、ゆとりとうるおいのある生活に寄与
し、地域の歴史や文化を学ぶ機会を提供する。
② 地域にとっては、魅力ある地域づくりを通じ、住民の
誇りと生きがいの基盤の形成に寄与する。
③ 国際社会にとっては、国際相互理解の増進、国際平和
へ貢献する。
④ 国民経済にとっては、大きな経済効果を有している。
5)世界遺産の登録基準は2005年に変更され、従来は文化遺産
と自然遺産についてそれぞれ区分して定められていたが、
文化遺産と自然遺産が統合された新しい登録基準に変更さ
() 人類の創造的才能を表す傑作である。
() ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、
技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展における人類の
価値の重要な交流を示していること。
() 現存する、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明に
関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。 () 人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建
築的または技術的な集合体または景観に関する優れた見本
であること。 () ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類
の伝統的集落や土地・海洋利用、あるいは人類と環境の相
互作用を示す優れた例であること。特に抗しきれない歴史
の流れによってその存続が危うくなっている場合。 () 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、
信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白
な関連があること(ただし、この基準は他の基準とあわせ
て用いられることが望ましい)。
() 類例を見ない自然美および美的要素をもつ優れた自然現
象、あるいは地域を含むこと。 () 生命進化の記録、地形形成において進行しつつある重要
な地学的過程、あるいは重要な地質学的、自然地理学的特
徴を含む、地球の歴史の主要な段階を代表とする顕著な例
であること。 () 陸上、淡水域、沿岸および海洋の生態系、動植物群集の
進化や発展において、進行しつつある重要な生態学的・生
物学的過程を代表する顕著な例であること。 () 学術上、あるいは保全上の観点から見て、顕著で普遍的
な価値をもつ、絶滅のおそれがある種を含む、生物の多様
性の野生状態における保全にとって、もっとも重要な自然
の生育地を含むこと。