小論文レポート 「霊の戦いについて」 このレポートは、2008 年、関西聖書学院でおこなわれた、「霊の戦い」についてのシンポジュー ムをとおして、学んだことをまとめたものである。 関西聖書学院 3年 1 奥田 昭 小論文レポート 「霊の戦いについて」 1、昨年(2008年)11月、関西聖書学院で、全国リバイバルミションと関西聖書学 院(KBI)による「霊の戦い」についての合同シンポジュームが開かれた。そして、こ れに先立って、8月、日本福音教会(JEC)が「霊の戦い」に関する指針作成にのりだ したのである。指針作成のための発題講演をされたのが、安黒務先生である。この基礎資 料が先生の翻訳された「霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明」で ある。これは、 「世界伝道のためのローザンヌ委員会」に下、2008年ケニアのナイロビ で、世界の神学者60名が参集した際の声明である。 基礎資料であるナイロビ声明は、霊の戦いに関する包括的理解を促すものである。声明は 四つの分野に整理されている。同声明は、①共通の基盤、として霊の戦いの基本的理解、 ②注意事項、これは考慮しなければならない事、③意見に相違のある諸領域、これは神学 的にまとめられていない領域、④継続的研究を必要とする未研究領域、これは理解のため の課題である。ここでは2つに絞れば、①の「共通の基盤」で、組織神学の枠組みにおけ る周辺教理として悪魔論の位置付け、歴史神学の視点に見る「力の対決」と今日第二・三 世界の宣教の類似性、攻撃的であるよりは愛によって人々を勝ち取る「穏やかな侵入」な どが挙げられている。②の「注意事項」で、霊の戦いは、先進国では世俗化や霊性の問題、 後進国においてはアニムズムやシャーマニズムの問題など、様々な異なる形で表現される ため、ある社会で有効な戦略を別社会で無批判に使用することは強く警告しているのであ る。 霊の戦いとは、「教会が福音宣教を妨げる悪しき霊的存在に対して戦う霊的な闘争」であ る。霊の戦いの正しい理解の為には聖書全体の枠組みの中で考えなければならない。そし て、組織神学の領域においては、まず「悪の問題」 「天使、特に堕落した天使の問題」とし て議論になる箇所である。組織神学の中心的教理の枠組の中に、 「天使論」の中の堕落した 天使である「悪魔論」を周辺的な教理として位置付けて取り扱う事である。そもそも人類 を罪に誘ったのはサタンであった。そのサタンは天使のなれの果てである。ある意味で、 サタンと罪論とは切り離せない問題である。したがって、霊の戦いは、罪論における扇の 展開部分として、多様な展開領域に属するものとして捉えられるものでもある。 新約聖書においては、霊の戦いは神とサタンの間の救済史的戦いいの枠組めの中で捉え られている。そのクライマックスは、イエス・キリストが十字架と復活を通してサタンに 対して収められた決定的勝利である。クリスチャンはこの十字架の勝利の上に立ち、異教 と接触する宣教の現場においては、 「力の対決」によってキリストの異教の神々に対する優 位性を実証し、教会内においては福音の真理を歪め、クリスチャンを誘惑しようとするサ 2 タンの働きに対して「真理の対決」をもって戦っていったのである。 2、滝元順先生の「霊的戦いと教会の問題解決力」にみる霊の戦いの把握 合同シンポジューム、および「霊の戦い」に関する指針作成の動機は、KBIの母体 であるJECでは以前より全日本リバイバルミションと協力関係にあるが、教職者より霊 の戦いの解釈がことなっているため、指針作成に乗り出したのである。同時に「日本の福 音派が90年代以降、このテーマで、乱気流に巻き込まれた飛行機のように」なっている、 たとえば、癒しと解決が常に早急に求められている傾向が信仰とすり替えられたり、悔い 改めと聖霊の働きに人生が変えられていくことよりも、悪い事は全て悪霊のせいにしよう とする傾向は危機感さえ感じる。預言や賜物についても自己中心的な人間理解がもとめら れ、霊的領域にみことばの真理にない方策が入り込んでいる。霊の戦いについての健全な 理解は、神の領域と人間の働きを明確にするだろう、という様々な意見があるからである。 個人的には、母教会である、一麦西宮教会の下條牧師が、今はその役から退けられたと はいえ、元全日本リバイバルミションの理事であり、教会全体が、全日本リバイバルミシ ョンに大いに関係をもっていた。例えば、教会員が霊的地図の作成、近隣の神社等への戦 いの祈り等に積極的に参加していたからである。私自身、下條先生および全日本リバイバ ルミションの牧師先生方のメッセージをとおして、また、霊的セミナーの出席は勿論のこ と、新城教会で行われたかずかずの聖会にも参加させていただき、霊的戦いについて多く 教えられていたからである。しかしながら多くの疑問を抱えつつもそれに対する回答はみ つからなかった。しかし、KBIで行われたシンポジュームを通して多くのことを教えら れたのである。 そこで新城教会における霊の戦いの最前線にたたれている滝元先生の著書をみることに よって見解をさぐってみたい。先生の「霊的戦いと教会の問題解決力」 (地引網新書)には、 多くの疑問点がよせられた。特に、KBIの講師であられるドーゲン先生から合同シンポ ジュームの際、数多くの点がだされた。 (1)まず、①地球は悪魔悪霊の廃棄する場所として造られた。(同書 P49)②人類の 創造の目的は、神の栄光を取り戻すことである。(P52~52)③女性の方が男性よりも悪 霊に敵視される。(P63) これらはの認識は、神の主権をゆがめ、狭めるものであるし、神の創造を曲解するもの である。 (2)次に、①先祖の罪は、呪いとして子孫に不幸をもたらすのである。(P85)②悪霊 には地域的制限があり、地域的に活動する。(P96)③偶像礼拝は、悪霊との「契約」行 為である。(P104)④偶像礼拝は、3~4代の子孫までの不幸の連鎖をもたらす。(P1 06~110)⑤「契約解除」の祈りは子供の問題を解決する鍵である。(P120)⑥悪 3 霊との契約更新が実在する。更新時期に霊的現象はより活発に起きる。 (P128~129) ⑦偶像と内臓疾患とは因果関係がある。 (P174) これらの認識は、問題の単純化、因果関係の強調、霊知の罠、悪霊からの解放と悔い改 めの混同、これらは聖書の枠を超えるもである。 (3)最後に、①キリスト教は「シャーマニズム」である。(P124)②宗教的な由来の ある料理、たとえばカレーライスは有害である。(P175)③フリーメーソンは、西洋の 悪霊活動の起点である。 (P183) 上記(3)にいたっては、聖書の枠を超えるどころか、健全な常識の粋をもこえた見 解である。疑問の領域ではなく、驚きの領域に届くものである。まともな神学的レベルに もとずくものとはいいがたい。最後のフリーメーソンにいたっては、それが常に反ユダヤ の攻撃の材料に用いられていることを、先生は気づかなかったでろうか。 安黒先生もいみじくもシンポジュームで言われていたように、滝元先生の見解は「ふ ぐ料理」である。見た目おいしいかも知れぬが、食にあたれば、死ぬ。まさに、霊の戦い において霊的に死ぬ事態になれば、何をかいわんやである。組織神学の領域で論じること ができない代物なのかもしれない。 最後に懸念される事柄についてだが、 「人間の行動の代わりに悪霊を非難するかたちで諸 霊へのいき過ぎた強調に対して注意が喚起されている。それはクリスチャンの倫理の基盤 を破壊する危険がある。聖書の教理の中心は、神であり、人間であり、キリストであって、 悪霊ではない。焦点は罪の問題または肉の問題である。 3、悪に対する勝利としての贖罪(ミラード・J・エリクソンの見解) キリストの身代金は誰に対して支払われたのか。贖罪論において、サタンと悪に力に対 する神の勝利という主題も刑罰代償説によって保たれている。賠償説または古典的説によ ると、この勝利はイエスをサタンに身代金として差し出すことにより得られた。サタンは 神の御子を捕らえておくことができるという自己欺瞞のもとに、人類を解放することに同 意した。刑罰代償説も同様に、悪に対する勝利はキリストが身代わりとしてご自身をささ げたことで得られたと断言する。ただし、サタンにではなく神の正義の要求に対してささ げられたものである。 もし、キリストの死がサタンに対する身代金の支払いにすぎなかったとしたら、律法は その過程において成就されなかったし、サタンは敗北しなかった。サタンの敗北と神にの 勝利を保証したのは、サタンへの身代金の支払いではなく、キリストが律法の呪いから解 放するために我々の身代わりとなったからである。我々の刑罰を負い、それによって律法 の要求すべてをただ一度満たすことによって、キリストは我々に対するサタンの支配、我々 を律法の呪いと有罪宣告の下におく力を根元から無効にした。そうすると、キリストの死 はまさに悪の力に対する神の勝利であり、ただしその理由はまさに身代わりの犠牲であっ たからである。以上エリクソンの見解に従えば、滝元順先生の理解は、キリストの身代金 4 はサタンに対して支払われたということになるのかもしれない。 4、山崎先生の「新約聖書における霊的戦いの概観」にみる見解 しかし、新城教会のリバイバル神学校の山崎先生の見解を見てみる。先生は聖書がはっ きり語っていない主題に関しては、意見の多様性を認め、特定の解釈を独断的に主張する ことはさけることが重要である。たとえば新約聖書では、中間時代のユダヤ教文章にみら れるような、悪魔の名前や階級、働きなどについてのさまざまな思弁はおどろくほど少な い。また、新約聖書ではいわゆる「地域を支配する霊」についいては、その存在を示唆す るにとどまている。このことは、悪霊の世界に特定の社会構造があることや、特定の地域 を支配する悪霊が存在する可能性を必ずしも否定するわけではない。しかし、新約聖書の 記者がこれらのことがらに中心的関心を抱いていたわけではない。このような主題につい ては、人間には霊的世界のすべての詳細を知ることができないことを謙虚に認め、自らの 理解があくまで暫定的なものであることを互いに表明していく姿勢が重要である。したが って、聖書に明確に記されていない概念や体験については、それを安易に一般化・原則化 することは慎むべきことであろう。 その一方で、神がある特定の場合にユニークな方法で霊的戦いを導かれる可能性を排除 することも賢明ではない。霊的戦いに関して報告される数多くの奇異で主観的と思える体 験談のすべてが思い込みや悪魔の欺きであると頭から決め付けることはできない。神は主 権者であって、マニュアルに従われる方ではない。 霊的戦いを特定の「手法」や「マニアル」に還元し、聖書の明確に書かれていない事柄 については、これこれの方法を用いれば必ず悪魔に勝利すると主張することも、逆に神は これこれの方法では決して働かれないと断定することも、どちらも神の主権性を否定する ことにつながる。前者の場合は、神を自分の思い通りにコントロールしようとするキリス ト教的魔術に陥り、後者の場合は神を限界ある人間の神学の枠内に止めてしまう高慢につ ながる。結局のところ、霊的戦いの最終的な目的は悪魔に対して勝利することではなく、 それを通して神の栄光が顕され、神がすべてにおいてすべてとなられることである。 以上のような山崎先生の見解は、新城教会も十二分に考慮されるべきであるし、救いで もある。新城教会は、この鯛のような見解の上にふぐの見解は乗っているのだろうか。 5、最後にKBIの講師である福野先生も霊の戦いの問題について警告を出しておられる。 再確認の意味を込めて、レポートを締めくくる。 「異教的世界観が教会に持ち込まれてきた り、人の罪性の責任を棚上げする過度の霊的糾弾に走ったり、暗闇の力の過度の強調によ り経験や方法論への関心がキリストへの関心を薄めたり、信仰における中心が「真理」か ら「力」に代わったり、霊の戦いを戦う技術が聖さや伝道を上回る関心を得たり、霊の力 に過度の期待を喚起したり、個人の霊の力が過度に宣伝されたり、霊の戦いに関する用語 が他の宗教の人から暴力や政治的関与と誤解されたりすることのないことである。」 5
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