カタールとドバイの概要 りやや狭い大きさで、国土の大部分は平坦な砂地 コスト研審議役 遠藤淳一 となっています。人口は約 215 万人(2014)です 総括主席研究員 岩松 準 が、カタール国籍を有する人は 30 万人程度と言 われ、残りはインド人等の南アジア人を主とする 外国人労働者が占めています。首都のドーハ市に 人口の半数が集まっています。 今回の調査地であるカタール国とアラブ首長国 カタールの歴史と首長家 連邦(UAE)のドバイについては、読者の皆様もあ 紀元前からカタール半島には人が居住していた まりなじみがないと思われますので、簡単に調査 そうですが、18 世紀後半に、アラビア半島の内陸 対象地域の歴史や社会経済の状況をまとめます。 部からいくつかの部族がカタール半島に移住し、 また、中東地域の建設市場の経緯やその中での日 彼らが現在のカタール人となります。そのうちハ 本企業の活動の状況等の統計情報を示します。 リーファ家がペルシャとの抗争の末、ペルシャ領 であった対岸のバーレーンを手に入れ移住し、バ ーレーンとカタールを支配します。後に、カター ルでは現在の王家となるアル・サーニー家がドー ハを中心に勢力を伸ばし、当時この地で力があっ た英国との合意により分離独立します。19 世紀後 半には一時的にオスマン・トルコの影響下に入っ たりしますが、その軍を撃退してサーニー家の支 配を確実にします。20 世紀に入ると、他の湾岸諸 国と同様に英国の保護下に入りますが、1971 年に は英国の軍事的撤退を機に単独で独立します。 独立時はアフマド首長でしたが、その行政手腕 への不安が王族に広まり、翌年には従兄弟のハリ ーファが新首長となります。ハリーファ首長は、 図 1 中東調査地の位置(※トレースしてください) 第一次石油危機以後に急増した石油収入によって、 1. カタール 製鉄・肥料・石油化学等の産業基盤を建設し、石 カタールの面積と人口 油枯渇後に備えた工業化路線を進めると共に福祉 カタールは、アラビア半島東部のカタール半島 や教育面で国民への還元も行いました。 を国土とする国で、面積は 11,427 ㎢と秋田県よ 1995 年には、長男のハマド皇太子が父の外遊中 図 2 ドーハ湾に面したウエストベイ地区の新ビジネス街の全景 1 に政権を奪って新首長となり、天然ガス開発、行 政の合理化・民営化、カタール人優遇雇用政策を 推進し、教育・スポーツの振興、保険・医療の充 実を図っています。また、1996 年にアラビア語の 衛星放送のアルジャジーラを興しました。このカ タール人優遇政策により、外国系企業はカタール 人のスポンサーが必要とされ、また一定数のカタ ール人を高給で雇用する必要があります。 2013 年には、四男のタミーム皇太子が新首長と なっています。 カタールの産業と経済 1940 年代に石油が発見されるまでは、漁業と天 然真珠採りが産業でしたが、日本の養殖真珠が出 回るようになり、真珠採りは衰退しました。1971 年にシェルにより海中天然ガス田が発見されまし た。世界第三位の確認埋蔵量を有し、可採年数は 100 年以上と言われています。開発が始まったの は 1988 年で、多くの日本企業がその開発に当初 から深く関わっており、1997 年の対日 LNG 輸出 (注)カタール政府 HP より。 (※主な都市名を書き入れてください) 図 3 カタール国全図 開始により軌道にのり、現在ではカタールからの 国別の輸出先の第一位(シェア約 30%)が日本と なっています。こうした経緯が、東日本大震災後 2. ドバイ の1億ドルの震災復興基金の供与や原発事故によ ドバイの面積と人口 る LNG 追加所要量の 40%を一国で提供するなど ドバイは、アラビア半島南東部のペルシャ湾に の支援に繋がっています。原油についても日本の 面するアラブ首長国連邦 UAE(United Arab 輸入量の約 10%を占めます。在留邦人の数も Emirates)を構成する7首長国の一つで、連邦の 2013 年現在 1000 人を超え、在留日本企業も 47 首都はドバイではなく、国土面積と石油による経 社に及んでいます。 済力で群を抜くアブダヒ首長国のアブダビ市です。 経済的には GDP や歳入の 6 割を占める天然ガ 国土の大部分は平坦な砂漠地帯で、UAE 全体の ス・石油に大きく依存しており、豊富な天然資源 面積が 83,600 ㎢と北海道と同じくらいで、ドバ を背景に国民一人あたり GDP は約 10 万ドルで世 イの面積は 3,885 ㎢と埼玉県より少し大きいくら 界トップクラスです。政府としては、石油・天然 いです。2012 年の UAE 全体の人口が約 810 万人 ガスに依存する経済からの脱却のため、産業育成 ですが、ドバイ首長国の人口は約 210 万人です。 やホワイトカラーの自国民化に取り組んでいます。 出稼ぎ労働者の多いドバイでは、UAE 国籍を有 する人は 10%に満たないと言われ、インド人(全 今後のカタールの経済を巡る情勢について今回 人口の過半を占める)等の南アジア人を主とする 調査の訪問先で聞いたところでは、2020 年の 外国人が多数を占めており、低賃金の肉体労働者 FAFA ワールドカップまでは現在の活況が続くだ ばかりでなく、企業のマネジメント層まで幅広く ろうとの見方でした。 2 働いています。しかし、外国人はいかに成功して (1912~1990)は、即位当時には水道も電話もホ 高い地位を得ても、また地元の人と結婚しても テルもなかった(電気の開通は 1952 年です)ド UAE 国籍を取得できません。一方 UAE 国籍の人 バイを「ドバイを物流・貿易の拠点とする」とい は主として高給な公務員等として雇用され、所得 う目標を持って、遅れていたインフラの整備に取 税や消費税がなく、医療費や教育費が無料である り組みました。まずラーシド首長は、地元商人と などの高福祉を享受しており、政治的な安定を支 既に石油で潤っていたクウェート等からの融資等 えています。 により、天然の入江で中継貿易の拠点であったド バイ・クリークの浚渫・拡張に ドバイの歴史 (UAE 結成まで) 取り組み(1959~1960) 、当時 この地は他の中東地域ととも ペルシャ湾岸で最もアクセスし に長くオスマン帝国の支配下に やすい港に変えました。浚渫工 ありましたが、第一次世界大戦 事はその後も続けられ、インド によりオスマン帝国が終焉を迎 や近隣諸国との中継貿易が活性 えます。一方、18 世紀にはイン 化し、これに伴い金融機関の集 ド等との交易のために英国海軍 積も進みました。 が進出してきて、ドバイの隣の また、同時期に、既に空港を 首長国であるシャルジャに拠点 有していた隣のシャルジャ首長 を置き、UAE 誕生までこの地 国や英国に抗して、ドバイ国際 を保護領としていました。 こうした中、内陸に住む大き 図 3 ドバイミュージアムの展示より な部族であったバニ・ヤース族 空港を建設しましたが、これが 後に国際的なハブ空港へと発展 していきます。 が 18 世紀末にアブダビに移住してアブダビ首長 1958 年にはアブダビにおいて陸上と海中で油 の祖先となり、さらに同じ部族のマクトゥーム家 田が発見されましたが、ドバイでは 1966 年にド が 1830 年代にアブダビからドバイに移住してド バイ沖で油田が発見され 1969 年に輸出が開始さ バイの首長の祖先になりました。 れました。しかし、ドバイの油田の埋蔵量は限ら もともとドバイでは、天然の入江(クリーク) れていたため、ラーシド首長はこの限られた資金 を港として活かし、漁業と天然真珠取りのほか、 をさらにインフラ整備に投資していきました。 イランやインド等との交易が盛んに行われていま 例えば、ラーシド首長は、専門家や商人からの した。初代のマクトゥーム首長(在位 1833~1852) 実需を無視した投資とのを反対を押し切り、16 バ には、ドバイをすべての人にとっての safe haven ースの港の建設を進め、1972 年にラーシド港を開 にするとの考えが既にあり、それがその後継の首 港させました。港は大いに活用されたため、その 長に引き継がれていったそうです。 後も拡張を行い、1978 年には 35 バースを持つま ところで、1968 年に英国が深刻な財政悪化によ でになりました。 り 1971 年末までのペルシャ湾岸からの軍事力撤 さらに、ラーシド首長は、ラーシド港がまだ建 収を発表したため、7 首長国が協議して 1971 年 設中だった時期に、南西 35km のジュベル・アリ に UAE を結成することとなりました。 ーと呼ばれる地に、さらに大きな人工港とそれに 隣接する工業地帯や保税倉庫、そして大規模な空 港を建設する構想を抱きました。また実需を無視 ラシード首長とインフラ整備 1958 年にドバイの首長となった第 8 代のラー しているとの専門家からの批判をものともせずに シド・ビン・サイード・アル・マクトゥーム首長 1976 年に建設を開始し、1983 年に 67 バースを 3 図 4 ドバイ沖のリゾートアイランド「パームジュメイラ」を ARUP オフィスより望む 持つジュベル・アリー港を完成させました。港に ムハンマド首長と経済ハブ戦略 隣接して工業地帯が設けられ、アルミニウム精錬 第 10 代のドバイ首長のムハンマド・ビン・ラ 会社、海水の淡水化プラント、セメント工場、鉄 ーシド・アル・マクトゥームは、ラーシド首長の 構造物工場等が設立され、ラーシド港近くにはド 三男で、2006 年に長男の第 9 代首長の豪州での ライ・ドッグ(船舶の製造・修理会社)が作られ、 急逝に伴い、皇太子から首長になりました。 今日のドバイの発展の基礎となります。特にドラ 英国に留学して士官学校を卒業しており、1971 イ・ドッグやアルミ精錬(製品が日本へ輸出され 年の UAE の独立とともに、22 歳で当時世界最年 ています)は発展をつづけ、中東地域の工業化の 少の UAE 国防大臣に任命されました。1973 年に 代表的な成功事例となっています。 発生した日航機ハイジャック事件に際しては、ド こうした産業インフラと同時に、ドバイをビジ バイ空港において3日間にわたり、自ら犯人と人 ネスのゲートウェイにすべく、ホテル、オフィス 質解放交渉をしています。 実は 1981 年にラーシド首長は病に倒れており、 ビル、見本市会場等の整備も進めました。1979 年には 39 階建てのドバイ・ワールド・トレード・ その路線は当時からムハンマドが継承していたそ センターが完成しましたが、ここにはドバイ国際 うです。その代表的な例が 1985 年に開設された 会議・展示場も併設されており、現在でも数多く ジュベル・アリ・フリー・ゾーンです。UAE の の国際的な展示会等が開催されています。 連邦法においては、国内産業の保護のために外資 1980 年に起きたイラン・イラク戦争が次の発展 の出資比率規制がありましたが、外資誘致促進の の機会となりました。イランとの直接貿易ができ ための方策として、ジュベル・アリ港に隣接した ない西側企業がドバイを経由する形にしたことで、 約 10 ㎢のフリー・ゾーンを設けたもので、中東・ ドバイがイランへの中継貿易ルートとなり、また 北アフリカ地域の外国企業の拠点がカイロ等から この間に他の湾岸諸国がオイルマネーを主として ドバイに移転してくることに繋がりました。出資 欧米の市場に投資したのに対し、ドバイは経済ハ 比率規制がないことのほか、ローカルスポンサー ブ機能の強化のためのインフラ整備に投資して、 が不要であること、資本・利益が 100%本国送金 その後の発展の基礎を築きます。 可能であること、外国人労働者雇用の制限がない 1990 年にラーシド首長は、長い闘病の末に逝去 ことなどのメリットが大きく、6000 社を超える企 しますが、今日見られるドバイの発展へ導いた首 業が進出しています。この成功を受けて、ドバイ 長として国民の深い敬愛を受けているそうです。 各地に情報通信やメディア、医療など様々な分野 を対象としたフリーゾ―ンが設けられています。 4 (注)ドバイ市政府資料(https://login.dm.gov.ae/ 等)より。なお、随時見直されるという注記がある。 図 5 ドバイの都市計画図(Dubai Urban Spatial Structure Plan 2020 & Beyond) また、ラーシド港とジュベル・アリー港の管理・ られ、1998 年に第二ターミナル、2008 年には第 運営で培われたノウハウを基に、その管理運営会 三ターミナルが開業しています。現在では欧州・ 社は他国の港の運営や、他の会社の買収や合併を アジア・アフリカを結ぶハブ空港として、世界 140 重ね、ドバイ・ポーツ・ワールド社として、2008 を超える航空会社が 200 を超える都市に向けて就 年時点で世界第3位のコンテナ貨物量を扱うまで 航し、2014 年には 7000 万人の国際線旅客数を数 になっています。 え、6800 万人のロンドンのヒースロー空港を抜い ムハンマド首長が手掛けた他のプロジェクトが 世界一になったとのことです。また、ドバイ国際 エミレーツ航空の設立とドバイ国際空港の拡充で 空港には最新設備の倉庫や冷蔵庫を有する 1996 す。オープン・スカイ政策を採用するドバイに対 年開設のドバイ・エアポート・フリーゾーンが隣 し、他の湾岸4カ国が共同出資・運営していたガ 接しており、エミレーツ航空の貨物コンテナサイ ルフ・エアーがドバイへの定期便を減らす措置に ズが統一されていることなどもあり、物流におい 出たため、独自の航空会社を設立することにした てもハブ空港となる条件が整備されています。 ものです。1985 年にパキスタン国際航空からリー さらに、ジュベル・アリー港やジュベル・アリ・ スした2機で創業し、当初はドバイで働く出稼ぎ フリーゾーンに隣接する地域に、現ドバイ国際空 労働者の足として利用されていたのですが、機内 港を大きく上回る規模の世界最大の能力を有する サービスと設備の充実に努め、就航路線を次々と アル・マクトゥーム国際空港が建設されており、 拡大して、世界中の多くの中小都市にドバイ乗り 既に一部の運用が開始されています。 換えで行けるようにしたりして、2011 年時点で世 観光面での様々な振興策も採られました。気候 界第 4 位の定期便旅客キロ、世界第 5 位の定期貨 が穏やかな時期を狙い 1996 年 2 月に第 1 回の 「ド 物便の輸送量となっています。 バイ・ショッピング・フェスティバル」が 1 ケ月 にわたり開催されて約 350 万人が訪問し、以降毎 これに合わせて、ドバイ国際空港も拡充が進め 5 年開催されています。同じ年には、賞金規模が世 ジュ・ハリファです。当初予定はブルジュ・ドバ 界最大規模の競馬「ドバイ・ワールド・カップ」 イの名でしたが、いわゆるドバイ・ショックに対 も始まりました。ちなみに、賭け事が禁止のイス して金融支援をしてくれたアブダビ首長国の首長 ラム圏では競馬はギャンブルではありません。 (同時に UAE の大統領。ちなみにムハンマド首 1997 年には波の形をした高級ホテル「ジュメイ 長は UAE の首相兼副大統領)の名を開業時に冠 ラ・ビーチ・ホテル」が、1999 年には船の帆の形 しました。 をした 60 階建てで全客室がメゾネットで専用の 様々な観光振興の結果、2012 年のある調査では、 執事着きスイートの「ブルジュ・アル・アラブ」 ドバイが世界で 8 番目で、中東では第一位の外国 が完成しました。こうした動きはさらなるホテル 人観光客が多く訪れる都市となっています。 建設ブームを招き、世界の高級ホテルグループも 2013 年現在、 在留邦人数は約 2,600 人で在留日 競ってホテルを建設したため、2002 年に 3 万室 本企業は 225 社に及び、ドバイは中東で在留邦人 余だった客室数が 2011 年には 7 万余室に増加し 数が一番大きな都市となっています。 ており、現在では世界で一番5つ星ホテルの多い 都市と言われています。 ドバイの現在 ショッピングモールに関しても、1983 年に最初 前述したような、大規模なインフラ整備、フリ のアル・グレア・センターが開業したのに続き、 ーゾーンによる企業誘致、観光客誘致、巨大開発 以降様々なショッピングセンターが開業し、2008 プロジェクト等の推進等により、ドバイの国庫収 年には総面積 115 万㎡店舗数 1200 以上のドバ 入に占める石油収入の割合は 1990 年の 33%から イ・モールが開業しています。 2007 年には 5%以下となり、GDP に占めるシェ ァも 5%以下となっています。 海上や沿岸の開発を行うナキール社のプロジェ クトが、パーム・ジュメイラを始めとする人工島 2009 年 11 月に起きたドバイ・ショックは、日 です。ドバイの海岸線が約 72km と短いことがビ ーチリゾート建設の制約と 本のバブル・ショックを想起させ、ドバイそのも なるため、ムハンマド首長 のが低迷の時代に入るとの懸念もありましたが、 が海岸線の倍増を命じたこ 対象が開発事業を行ってきた会社の債務返済猶予 とに応じて考案されたもの 等に限定された話であり、経済ハブ機能そのもの で、ヤシの木の形となって は順調に推移し、観光等についても堅調な発展を います(図) 。直径 5km の 続けています。さらには「アラブの春」による混 パーム・ジュメイラにより 乱等から逃避してきた資金が、域内では最も安全 海岸線は 78km 延びたそう と見られるドバイに投資されるという幸運もあり、 ですが、他にもザ・ワール 現在に至っています。債務問題の解決にはまだ時 ド、パーム・ジュベル・ア 間を要するようですが、現在のドバイの賑わいを リー、パーム・デイラとい 見ると、危機が当面訪れるようには見えません。 った、さらに大きな人工島 最後に、カタールと、ドバイ市ではなく UAE の計画が発表され、建設が の 2012 年における貿易の様子を伝える表 1、表 2 進められています。 図 6 Burj Khalifa 陸上の開発を担うエマー (前頁)を示します。やや奇抜な印象を与えるも ル社で有名なのが、ドバイ のですが、各国当局から報告される輸出入情報を のシンボルともなっている 元に構築されている国連 COMTRADE データベ 828m で 160 階建てのブル ースを使い、ハーバード大学の機関が世界貿易の 6 表 1 カタールの貿易(2012 年) 品目(上)と相手国(下) 輸出(Export) $101B USD 表 2 アラブ首長国連邦(UAE)の貿易(2012 年) 輸出(Export)$160B USD 輸入(Import) $14.2B USD 品目(上)と相手国(下) 輸入(Import) $171B USD (注) 表 1、 表 2 の出典:The Atlas of Economic complexity (ハーバード大学国際開発センター) http://atlas.cid.harvard.edu/ 品目は製品の種類毎に、また相手国は世界ブロック別に色分けされている。その凡例は下図の通り。なお、品目の図では、 文字を見やすくするために輸出と輸入で項目の表示レベルを変えたので留意のこと。取引量はグロスの数値。なお、図中 の合計金額(単位:10 億米ドル≒1,200 億円)が、品目と相手国とで微妙に食い違うのは、各国間で 2012 年データが出そ ろっていないことによるためと思われるが、詳細は不明。 7 状況を可視化したものです。4 桁の統一的な貿易 品コード(HS4)による品目と貿易相手国とが分 類色分けされ、輸出入の状況が直感的につかめま す。これらの図表によれば、両国とも日本と関係 が深いことがよく理解できます。日本は両国から 原油や天然ガスを仕入れ、機械類や自動車を売っ ていますが、だいぶ輸入過多のようです。ところ で、数字をみると、全体として UAE は輸出入金 額がバランスしていますが、カタールは輸出総額 【出典】海外建設協会「海外建設受注実績」より筆者作成。 (注) 会員企業に対する調査結果。数値は本邦法人受注額と海外 法人受注額の合計値。数値は名目値。 が輸入を上回っています。 同国が一人当たり GDP が世界有数というのも頷けます。 図 7 日本ゼネコンの受注実績推移(2001‐2014 年度) 3. 中東建設市場の推移と日本企業 両国を含む中東地域の建設市場はどうなってい 35000 アフガニスタン イラン ●クウェート ●サウジアラビア(KSA) ●カタール(Qatar) ●アラブ首長国連邦(UAE) トルコ ヨルダン エジプト スーダン るのでしょうか。身近なところから考えると、や はり日系ゼネコンの進出状況でしょう。それを示 30000 す表 3 は(一財)海外建設協会(OCAJI)の会員企 業のみで、それ以外は含まれていないので注意が 25000 必要ですが、中東地域での取り組みの現況が把握 ※縦軸単位:百万ドル(名目値) なお、●はGCC諸国 20000 できます。同協会の統計を時系列で追うと、2006 ~2008 年をピークに日本ゼネコンの活動はやや 15000 停滞気味となっています(図 7) 。ところが、図 8 に示すように両国の建設事情は、依然として好調 10000 のようです。 図からは 2009 年に起きたドバイショ ックの影響をあまり感られません。2020 年のドバ 5000 イ万国博覧会、2022 年のカタール FIFA ワールド カップ大会に向けて、ますます建設投資意欲は高 0 1970 表 3 OCAJI 会員企業の「中東地域」への進出状況 ア フ カ ゙ ニ ス タ ン 大日本土木(株)、飛島建設(株) イ ラ ン 大日本土木(株) ク ウ ェ ー ト 東亜建設工業(株) サウジアラビア(KSA)JFE エンジニアリング(株)、(株)日立製作所インフラシステム社 (株)大林組、大成建設(株)、(株)竹中工務店(株)、日立製 カ タ ー ル 作所インフラシステム社 (株)大林組、(株)きんでん、五洋建設(株)、清水建設(株)、 アラブ首長国連 大成建設(株)、(株)竹中工務店、東亜建設工業(株)、(株) 邦 ( U A E ) 日立製作所インフラシステム社、日立造船(株)、(株)フジタ (株)IHI インフラシステム、(株)安藤ハザマ、清水建設(株)、大成 ト ル コ 建設(株) ヨ ル ダ ン 大日本土木(株) (株)きんでん、五洋建設(株)、大成建設(株)、大日本土木 エ ジ プ ト (株)、(株)日立製作所インフラシステム社 ス ー ダ ン (株)鴻池組 (注) 海外建設業協会(OCAJI)HP より作成(参照:2015.6) 。 8 1980 1990 2000 2010 (注) 国連統計局の SNA 統計より作成。ISIC F.Construction の 値を国別に抽出。付加価値を示す GDP であって、建設投 資額とは異なる。中東諸国の範囲は表 3 と同じとした。 図 8 中東諸国の名目建設 GDP の推移(1970‐2012) まっている様子です。 もう一つの統計を示します。図 9、図 10 は米国 の建設専門雑誌 ENR が、毎年世界の大手コントラ クターを対象に調査・公表しているデータから、 我々が中東地域の情報を抽出・分析したものです。 同社の調査は、アンケートによって各コントラク ターの国内及び海外における受注情報(工事を行 このうち、海外活動部分に焦点を当て集計をした (注) ENR の「Top International Contractors」各年版より作成。 2011 年までは世界トップ 225 社、2012 年以降は 250 社の 活動地域別集計により作成したもの。日本企業はこの間 21 ~14 社がランクインしている。 のが「Top International Contaractors」という 図 9 中東「国際建設市場」の推移(米ドル換算・名目値) 記事です。これによると、たとえば、中東地域で う国や工事種類) を調べ、 集計しているものです。 どこの国のコントラクターが国際建設市場を争っ ているのかを把握できます。それを経年的につな げることで、その変化も観察できます。 図 9 は世界の主要コントラクター200 余社が、 海外の国際建設市場でどの程度の受注をしたのか の推移を示します。図示したのは全世界分と中東 分ですが、 この 15 年ほどでずいぶんと拡大してい ることが分かります。2013 年では 250 社合計で全 (注) 出典は図 9 と同じ。アジア企業は存在感を増すが、日本に 代わり、韓国、中国、トルコ等がシェアを拡大中。 世界分が 543,841 百万 US$(当時の為替レート 1US$=100 円で換算して、約 54.3 兆円)で、日本 図 10 中東の「国際建設市場」での国別シェアの推移 の建設投資額よりは若干大きめの数字になります。 そして、中東地域では、その約 15.5%に当たる をまとめてみました。以下の各リポートは、調査 84,129 百万 US$(同・約 8.4 兆円)です。この数 に参加された先生方の視点で、中東地域の両国で 年は、世界の成長に比べると中東地域は近年やや 起こっていること、日本のコントラクターの内情 停滞している印象もありますが、原油の価格動向 等が深く語られると思います。その理解のための や紛争など政治的状況の影響もあるのでしょう。 一助となることができたならば、幸いであると考 えます。 図 10 はこの情報を大手コントラクターが属す る国別に集計し、中東全体でのシェアの推移を見 〈参考文献〉 山口直彦『中東経済ハブ盛衰史:世界歴史叢書』明石書店, 2013.11 佐野陽子『ドバイのまちづくり』慶應義塾大学出版会, 2009.10 宮田律『ドバイ発・アラブの挑戦』NTT 出版, 2008.10 齋藤憲二『株式会社ドバイ』柏艪舎, 2010.9 日本経済新聞社編『まるごとわかる中東経済』, 2009.2 細井長『アラブ首長国連邦(UAE)を知るための 60 章』明石書店, 2011.3 在カタール日本大使館HP 在ドバイ日本国総領事館HP JETRO 海外調査部HP 石油天然ガス・金属鉱物資源機構HP 日本経済新聞 2015.2.10 記事「ドバイ空港、旅客数世界一に」 たものです。 米国が 2000 年代前半にシェアを拡大 した時期がありますが、9.11 後のイラン・イラク 戦争とも関係があるのでは、とも思えてきます。 図 7 に表れているように、日本勢はその頃が活動 のピークで、全体シェアもそこそこを取っていま すが、その後は、やや韓国や中国のコントラクタ ーに押されている印象です。ただ、これらを合わ せたアジア勢としては欧州や米国を押さえて拡大 しています。なお、ここに含まれる工事内容はか なり多岐にわたるものであり、ビルものだけでは ないことには改めて留意すべきでしょう。 以上、本特集の記事を読む上での基礎的な情報 9
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