「西成区の単身高齢者の健康・生活状況について」

平成 23 年 12 月 8 日
「西成区の単身高齢者の健康・生活状況について」
訪問看護ステーション鶴見橋
看護師 梅田 道子
司会
ヘルスサポート大阪主催のホームレス健康問題研究会を開催します。
今回は訪問看護ステーション鶴見橋の訪問看護師・梅田道子さんのお話しです。梅田さんは以前は臨
床看護活動をしておられました。2003 年から主にホームレスの人々、日雇い労働の人々の健康支援
の活躍をおこなっています。2004 年からは桜ノ宮公園等でのホームレスについての健康支援活動も
せんせい
行っています。本日はそれらも含めて話していただきます。座長は逢坂隆子医師にお願いしておりま
す。あとで紹介しますが、同僚看護師のお二人にもお話に参加していただきます。
逢坂
最初、梅田さんから「どうして釜ヶ崎の人たちと関わるようになったか」という話をしていただき
ます。梅田さんの日常活動で見聞きされたことや実際ご自分が経験されたこと、感じられたことを話
していただきます。
梅田
梅田です。現在は鶴見橋で訪問看護ステーションの看護師として働いております。こちらの二人が
私の仲間で同じ思いで活動させていただいております。
私は 12~3 年前に西成の病院に勤めることになりました。そこの病院は西成でも有名な病院で、
「野
宿を余儀なくされた方たち」を専門に「救急医療」をやっている病院でした。野戦病院といいますか、
そんな雰囲気がありショックでした。就職当時は、とにかく「病院を何とかしなくては」という思い
せんせい
だけが揚まっていました。そのころに、大阪大学公衆衛生学の高取毛医師が来られまして「大阪都市
圏におけるマイノリティの保健医療サービスの利用状況」という題で、「入院患者の聴き取り調査」
の依頼がありました。私は職場の中で時間に縛られた立場ではなかったので、私に調査の話が来て
「600 人位の患者さんの聴き取り」をしました。その調査は、一人ひとりの患者さんと向き合って話
を聴いていくものでした。聞いていくうちに、「野宿にならざるを得ない状況」が、ただ「個人の怠
けから生じているのではなくて大きな社会的な問題がバックに絡んでいる」ということを、そのとき
初めて知りました。そのあと職場の中で「私の意向と経営者の意向」がかなりズレてきまして、私は
その病院を退職せざるを得なくなりました。
それから退職後ある社会福祉法人に勤めることになりました。病院退職時から「この地域で、でき
ることはないか?」と考えていましたので、その法人に「野宿を余儀なくされている方たちの健康状
態を把握したい」と提案しました。ちょうどその時、あいりん地域の施設から「月に2回ほど健康相
談をしてほしい」との依頼があり、就職して1か月すぎから「月2回、健康相談」を施設で始めまし
た。
1
十数年前のその頃は着る物も食べる物ももっと貧しくて、シラミをつけたぼろ服を着てトボトボ歩
いたり、しゃがんでいたり地面にベターと座っていたりしている人がたくさんいました。路上で片足
の指先全部なくてその傷がまだ赤く治療が必要と思われる人が横たわっていたり、手や足に縫った糸
をつけたままの人がそのままウロウロしていました。実際怪我で縫合治療を受けた直後の糸をつけた
ままの方は救急搬送で外来診療で処置を受けた後、お金がなくて受療できず放置しているのです。健
康相談でやむを得ず「抜糸せざるを得ない」状況の方が何人もありました。
現在より「生活保護受給の手続き」は厳しく、
「65 歳までは保護は受けられない」とか「重い病気
にならなければ受けられない」と思われていて、実際、医師の「就労不可」という「診断書」がなけ
れば受け付けてもらえなかったのです。
大阪市役所の前でも炊き出しをしていた時期が 3 年ぐらい続いたのです、その内の後の 1 年間、健
康相談をさせてもらいました。約 200 名位の方との出会いがありました。病気としては、血圧の高い
方(200mmHg/100mmHg以上は当たり前のように)
、肝硬変、糖尿病と診断されたが放置して
いる人、胃潰瘍や便秘の人、今まさに脱水状態で動けない方など。必要に応じて救急依頼や無料定額
診療の病院受診の手伝いをしました。大阪市役所前の炊き出しが閉鎖されたあと、NPO 釜ヶ崎支援機
構が「空き缶の収集」を中之島の昔の弁護士会館の向かい側で事業として開始し、そこで健康相談を
月 1 回 3 年間継続し延べ約 2,000 名の方が相談に来られたと記憶しています。そこでの事業も終わり
まだ大勢の野宿者がいるのに「終わってはいけない」との思いがありバラ園に移動して健康相談継続
しましたが、そこも閉鎖され次は桜ノ宮、源八橋に移って健康相談継続しています。今はテニスコー
トとか野球場がありそこに移動して 5 年ぐらいになります。この間に皆さんの協力を得ながら「生活
保護を受け」生活をしてる方が 2~30 人は居るかと思います。その他、自立支援センター、大淀寮等
にも居住を依頼しました。
これらの活動と同時に NPO 釜ヶ崎支援機構でも 4~5 年、健康相談をさせていただいて 2 年前に終
了しました。ふるさとの家では今も継続して健康相談をしているところです。私はただ「目の前に来
た人をどうするか」という「対応」だけで精いっぱいで、人数とか細かいことのまとめがないまま現
在に至っています。補足ですが健康相談時は歯科医師と散髪をする神父さんとの共働です。
逢坂
いろんなところで相談を受けられた時に、最初の病院で感じられたのと同じように、普段の生活か
ら「想像もつかない、思いもよらないことに遭遇された」と思うのですが。
梅田
病院勤務の時は、入院すると衣食住が満たされるので、病状が一時的には安定します。
「医療の限界」と感じた事例が糖尿病の患者さんでした。症状が重く、内服だけでは安定せず、イ
ンシュリンが必要でした。医師の指示で、薬物療法、食事療法、運動療法とすすめ、退院後の生活の
仕方も視野にいれた看護計画をたてました。そしてインシュリンの自己管理もでき病状も安定しまし
た。ところが帰るところは「路上」なのです。
継続治療ができない、その前に生活ができないのです。今は糖尿病の患者さんの例を挙げましたけ
れども、その他に胃、大腸、肝臓などの癌の手術後も「路上」だったり、普通だったら考えられない
2
ような現実でした。
なんのための医療なのかという思いと、医療の前に福祉ではないかと強く考えるきっかけになりま
した。健康相談を通して出会った患者さんには、とにかく「医療につなぐ」ことと同時に「最低限度
の生活の保障」のところに力を入れていこうと思いました。
逢坂
今糖尿の方の話がありました。他に印象に残った方をご紹介ください。
梅田
ほかに、
アルコール依存症の男性のこと。その人は、いつも酔っぱらって路上で寝ているところを、
救急車で運ばれてくるのです。禁断症状が薄れてきたときに話を聴くと彼は、「自分は普通に、親子
で幸せに暮らしていた。もう 20 数年前になるけど、娘が小学校に上がるので、高島屋にランドセル
を買いに行ったときだった。自分は車で待っていた。妻と子どもがランドセルを持って、
『お父さん!』
と言って走ってきたそのすぐ目の前で2人とも車にはねられ死んだ」というのです。
「もうそれから
自分は立ち直れなかった」と「アルコールに逃げるしか道はなかった」というのです。また彼は、こ
のように言うのです。
「路上で寝ていると人の足音がどんどん近づいてくる、そして遠ざかっていく」
と。そして「自分の意識がどんどん薄れていきながら、このコンクリートの中に自分自身が溶けてい
くように感じる、そのコンクリートの中に溶けていくときに、妻と子どもが見えるんだよ」と。お酒
を飲んで意識を失っていき、そのコンクリートの中に溶けていきそうなときに、妻と子どもの姿が見
えると言うんです。そして「気がついたら病院のベットの上で」、看護師に「またあんたか?」との
繰りかえしだったのです。
「何とも言えない、誰にも、どうしてもあげられない」このような悲しみ
を背負っているという人に出会いました。彼は最終的にはアルコール依存症から抜け出せないまま、
肝臓を患って亡くなりました。
その他に、阪神大震災のときに家族や家を失い、生きる力をなくしてアルコール依存になってしま
った人など、辛い体験をした人の話を聞きながら思いました。大きなショックを受けたときの支援、
誰かの支えがあれば危機的な状態から抜け出せたのではないかと。アルコール依存のことで言えば、
「生きる目的とか生きる意義」が自分の中で見つかれば、そこから「抜け出せる」場合もあります。
自分の根性だけでは治せないので、きちんと病気と捉えて治療をすることをすすめています。
逢坂
関わった方はほとんど野宿して公園で寝ている人たちですね。公園で会い、医療につなぎ、いろい
ろな相談に乗るだけでなく、例えば「最後がんで死んでしまった」など、どのような経過だったかを
把握し継続して相談に乗って、その人が命の最後を迎えるまで見守っておられる人がかなりおられる
ようですが、それは相手が相談に来るからか梅田さんが出かけられるからですか。
梅田
継続して関わるときは、結構しつこく関わります。13 年ほど前、北区でホームレスで詩を書き、
ホームレス詩人と言われた方ですが、私がまだ病院勤務していたころに、大腸癌の手術をされました。
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肝臓に転移していましたが、在宅を希望され多くの支援者に支えられて退院しました。その後腹水も
溜り病状が進行しても「二度と入院はしたくない」と拒否、介護保険を利用しての在宅死を望まれま
した。私はその頃、法人に就職しており、顔見知りでもあったのでその方のケアマネジャーをさせて
いただきました。介護保険制度が始まったばかりで、往診してくれる医師も知らず、社会資源もとぼ
しく、医療拒否するので痛みがあっても受診できません。なんとか知り合いの医師に往診をお願いし
せんせい
て最期をみとってもらいました。あの時は苦労しました。今は多くの医師が往診してくれています。
他には、桜ノ宮で 4~5 年、テント生活をしていた 60 歳代の方。毎月 1 回の健康相談以外にもテン
トを訪問しました。同じ場所で 3 人のテントがありました。彼は「猫と兎がいるから」と生活保護受
給を拒否していました。
「血圧が高い、体重が減少してきた、一人生活は危険である。
」ことなどの不
安は多くあります。何度か訪問を繰り返しているうちに「自分でも限界を感じていた、此の頃は空き
缶集めもきつい、猫たちと暮らせるアパートがあれば保護を受けたい。
」と。1年近くの説得でした。
その後、兎は死にましたが今猫と元気に暮らしています。今年住民票を移し、これから自分はどのよ
うにして生きていったら良いかと前向きになっています。今は鶴見橋訪問看護で訪問看護対象者とし
て関わっており今後、共にありたいと思っています。
フロアーの①氏
僕は梅田さんに相談した者です。親切に血圧を測ってもらいました。不整脈があり説明をしてくれ
ました。病院に入院してたときに、不整脈のことは「そんなん大丈夫や」とか、「足には静脈の血管
出たりしとった」と梅田さんに話したら、サポーターや包帯を巻いたりしてくれた。こんなことをや
ってくれたのは梅田さんが初めてやった。結核の病院から出て今 DOTS をやっているし血圧とか、い
ろいろ相談している。
今回の話を聴いたら、梅田さんが、いろいろここでやっていることが分かった。
私は釜でずっと 40 年ぐらい居るんです、実は 45 年間アルコールを飲んでいてアルコール依存症。自
分では依存症というのはあまり認めたくなかったんですけれども、アルコールで対人関係を壊したり
して、天王寺の小杉クリニックに去年の 12 月 27 日に初めて行った。俺も覚悟を決めて行ったけど
せんせい
『そうじゃない』というのも僕の中にものすごくあった。そこに初めて行って「身体依存症」やと医師
にすぐに言われて、
「お酒飲んだらあかん」と薬を飲まされた。俺も 45 年も飲んでいたから身体依存
症になっているんだと(納得)、もうしゃあないと思いそれから自分の中で覚悟を決めて、アルコール
を止めて現在もずっとやめ続けているのです。僕、何でそんなになったかといったら、
「自分でやめ
ると。自分で何とかしなきゃ」というのがあった。人に言われても、なかなかできないと僕も感じて
いたから僕自身の中に目標というか、
「生きがい」というのを見つけた。僕の中に「生きがい」がな
いと、その場で酒に流される心配があった。
2 年くらい前に「カマボコバンド」に入っていた。イベントに参加したり、自分の趣味と生きがい
を見出して初めてお酒を止めても楽しみがあるという経験。それまで僕は酒を飲まないで人と話をし
たことがなかったからね。仕事に行くのにも、朝から一杯飲んで現地に行った。人々が集うココルー
ムへ来てから止められた。自分で楽しみができ、酒に変わるものを僕も見つけ出せたのが一番大きか
ったし嬉しいです。カマボコバンドに行くようになって 2 年くらいの間に、僕の中に少しずつ変化
が生まれた。今 60 歳やけどそれが「一番大きな人生の転換期としては最高です。
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梅田
Fの②さんはカメラですね。写真がすごく上手で、味のある写真を撮っています。
Fの②氏
そうですね。何と言ったら良いのか、下手なんですが、ある人から「この写真を見たら元気が出て
くる」と言ってくれてうれしい、自分で言うのはおかしいけど。「テクニックじゃない」です。絵と
か写真とかは「気持ち」で撮るのです。下手ですけども。
梅田
最近社会医療センターの看護師さんと連携を取っています。例えば訪問して医療判断が必要なと
きやセンターに通院中の患者さんの病状に変化があったときにはセンターの看護師さんに相談して
います。臨床看護の現場の看護師との連携は心強く思っています。
フロア
私は社会医療センターで看護婦として働き 15 年になります。8 月は病棟勤務していたので、梅田
さんが入院患者さんの面会や見舞で訪問に来ておられるのは知っていました。梅田さんとの出会いの
きっかけは、肝臓癌で入院の患者Kさんです。B病院を自己退院されたところを、たまたま梅田さん
が路上で会われ声をかけられた。そしてうちの病院を受診され入院されました。Kさんは 8 月に一般
状態が悪くなり人工呼吸器を付けられましたが元気になられ、
「退院しょう」というときに、おしっ
この管が入ったままでまだ抜けない状態でした。
「病院でこれ以上治療はない」と医師。
「家に帰した
いけれど一人人では不安と看護師。そのときに梅田さんが来られていたので相談。訪問看護をお願い
したのです。梅田さんの訪問看護を受け、駅から歩いて2~30 分の病院に通院し、おしっこの管も
無事取れました。あと内服薬を続けてもらっています。
9 月からは医療相談係に異動になりました。退院困難事例があり対応を考えないといけないところ
でしたので、その前に病棟で梅田さんと出会えたのはよかったです。外来受診ではKさんの受診を互
いに声をかけて、
「今日は来たよ」とか、
「この間、家でこんなことがあったよ」と話し連絡調整をし
ました。私はたまたまKさんが初めてだったので、あと、どんな経過で、訪問看護もなくなり、どん
な生活をしていくのか・・・。ぜひ自立してもらえばいいと思います。
その他にアルコール依存の方もいますし、人生孤独な人。生まれてすぐ施設に預けられ、一生懸命
働いて体を壊し医療センターに入院、転移悪化、そのまま治療中に亡くなった人もいます。悲しい人
生の看取り経験があるので、
「生きるって何か」というのを常に思います。そして健康より人が生き
るとは何かなと考えさせられます。
逢坂
今、生活保護に移るのは、以前と比べ年齢の制限もずいぶん低くなって、生活保護に移っていく方
が多いようです。生活保護を受けアパートで生活してる人に対しての訪問看護も行っているのですね。
「ホームレス状態にある人たちへの相談」とは違った問題があると思うのですが。
5
中尾
訪問看護ステーション鶴見橋の中尾と申します。野宿から在宅に変わった方で感じることですが
それは「生活の仕方が分からない」
「歯を磨く」とか「頭を洗う」などの習慣です。入浴の習慣のな
い方が 13 年間お風呂に入ってないから大丈夫だと言う。お風呂に何とか行ってもらい、行った割に
は何かこざっぱりしてないと思ったら、
「20 円出せば貸してくれるのでタオルは向こうで借りる。石
鹸は持っていったら持って帰らないといけないので、持っていかないと」いう。ずっと皮膚がべっち
ゃりした感じでした。最近やっと「疥癬になったおかげで洗ってもらえるようにはなった」です。ま
ず、そういう清潔面、歯を磨く習慣もないし洗面も、ちょっとだけ(歯が)残っているからこれは邪魔
だ」と爪切りで(歯)を切るとかいうこともある。何かそういう生活習慣がない方が結構多い。片付け
方が分からない。お部屋の中がすべて平面で、タンスを買って部屋の真ん中に。これはなんぼも入ら
んなというので「ちょっと見せて」と言って中を開けると、たたまないで衣類がグチャグチャになっ
ているのだから入らない。たたみ方から説明し何とかタンスを使ってもらおうと助言。いろんなもの
が壁際に置いてある。タンスは部屋の隅っこに置いた方がいいよと話しても真ん中から動かない。
あと、ゴミもポンポンと、ゴミ箱に入れないで部屋の中で捨てる。もっと汚い方もある。また「夏な
ど脱水傾向になりますので1日ペットボトル2本は飲んでねといい、コップで何杯ぐらい飲む?と聞
くと、蛇口をひねって口を蛇口にあて、こうやって飲むんやとゴクンゴクンと実演。水分量のイメー
ジが湧かない。このようにコップで飲まない、コップは使うことがないという方も。 きっちとして
いる方もありますが。看護というより生活全般を見ていくのが仕事かと思っております。
清水
訪問看護ステーション鶴見橋の清水と申します。入職して半年です。先輩方に教えていただくこと
ばかりです。高校は今宮高校でした。この辺には縁があって、職場もこの辺で戻ってきたという感じ
です。高校の頃はホームレスの方を見かけながら、路上で大の字で裸に寝てる横を通って通学してい
ました。まさか、自分が訪問看護師として関わるとは思っていなかったです。諸先輩方のご指導のも
と、ようやく「人として関われる」ようになってきました。ここでは精神疾患を抱えている方が多い
と思います。コミュニケーションに障害があって、生活面ももちろんですけれども。こちらが言って
も受け入れられないのです。こちらが、こうしたほうが良いよといっても固執した考えであったり、
その情動性自体が健康を害するものであったりするのです。まずは精神的にお話を聴くところからが
はじまりだと日々感じております。
梅田
訪問看護を始めて、
「治療を勧める」よりも、
「本人の意識をいかに変えていくか」ということが難
しいと気づきました。いろいろな病気を持っていて、生活習慣を変えないと治療効果もでないという
ことを伝えても、
「そんなことしたくない」、
「お節介だ」との拒否にあう。私たちは「もう病院行か
ないよ」と言われても、
「あっそう、じゃあもう止める?」と言えない立場ですね。いろいろな方法
で何とか医療につなぎ、その人なりの健康のレベルが維持できる状態まで引き上げる、治療するのは
患者さんなので、患者さん本人が治療しなければならないと感じ、生活を見直そうと思うことが大事
ですね。そのためには、意識を変えていく必要があると思います。それがとても難しい。やはり、自
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分で生きがいを見つけることがポイントなのだと思います。Fさんが「生きがいを見つけたんや」と
話していましたが、どんなきっかけがあったのか知りたいですね。
F ①
釜ヶ崎で日雇い労働をずっとやっています。僕は性格的に気が弱い面があり 20 歳からずっと常に
酒に走っていた『弱い自分』がいた弱さで社会の中から弾かれた。そしてここを選んで 21 歳のとき
に釜に来ました。でも僕の中では「気の弱さ」がずっと嫌でいやで。自分の性格が・・・。釜ではと
りあえず結婚できて子どももできた。僕の人生の中では大きな嬉しいことだった。しかし僕は弱さを
抱えずっと酒を飲んで仕事した。それが2年前からイベント関係とかボランティア的な行事に参加す
るようになった。それで俳句を作った。三角公園の夏祭りには『ねぶた』を作った。歌も好きやから
カマボコバンドに入ってヴォーカルで三角公園の夏祭りでは歌った。そんなことをずっとやること
で、僕の中に何か自信ができたんです。それまで何回か酒飲んでは出ていた、三角公園へ行く時はい
つも飲んでパァと発散してた。けれどもうあかんなと思い、飲まないでちょっと足が震えながらでも
歌ったのです、いっかい! それが僕の中ではすごい自信になった。
あっ、俺!酒を別に飲まなくてもパフォーマンスできる! 皆が、今日のノボルさん、良かったん
ちゃうか! 飲んどったんちゃうん?とか言う。いや俺全然、今日は飲まずに歌えたんやで! これ
だけパフォーマンスできたんやで! という。皆が、良かったよ!と言ってくれたのが、ものすごく
励みになって、あっ、俺行けるんちゃうかというのが、去年アルコールやめてすぐのことです。それ
があって、僕は酒を飲まなくても歌えるのんちゃうかとカラオケに行くにもウーロン茶」に。皆は酒
飲んでるけれども、僕はもうウーロン茶でカラオケが歌えるようになった。
3.11(東日本大震災)が、ドツカレタぐらいの衝撃が起きた。とくに福島の原発の事故の問題が。
釜の日雇い労働者もそこで被爆労働し、やっと今、公になっているけれど、実際そこで白血病になっ
たり、闇から闇に葬られて使い捨てにされている僕らの同じ仲間がいた。ということで衝撃を受けた。
こんなことで俺はあかんのちゃうか、こんな俺で良いのか!と僕の中で自問自答。腹に決めて「原
発に関わる! 例えば署名運動とかに関わってやって行くのだ!と決めた。今 60 歳ですけど、やっ
と僕のやりがい生きがいができた。僕は今、酒どころではないのです。時間もない余裕もないです。
僕は「この原発関係のことをやろう!」が今の決意です。ありがとうございます。
逢坂
そんなふうにして「いろんな支援者と一緒に変わっていかれる」すごい。本当に!
梅田
F①さんすごいと思います。「生きがいをみつける」ことがやはりポイントですね。
患者さんのなかには「自分は税金で生きている。これ以上医療費をかけられんから病院やめるわ」と
か「大阪市も赤字やし体調が悪くても行かへん」という人が結構がおられます。「通院をやめて重症
になったら、もっと医療費が高くなるよ」など話したりしています。
医療に繋げるときも多くの難しいことがあり、また繋がった人も途中で中断するという問題があり
ます。医療センターでもいろいろ大変だと思うのですが。
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F ③
医療センターはいろんな方が受診している。今お金の話が出ていましたけれども、会計で、「一応
支払いは 0 円と打ち出されているのですが、実際にかかった金額はこれだけですよと明示されたもの
を、ご本人にお渡しすることになっている。ずっと昔、私が就職した頃は、発行してなかったのです。
薬を簡単に捨てたり、売ったりする問題もあります。患者さんに「これは良くないことだ。自分が
ここで治療を受けるとこれだけ医療費が費やされているのだから無駄にしてはならない。」というこ
とを知ってもらう。全然知らせないと、いくらでも無駄にするからと提示するようになったのです。
支払って行かない方もありますが、自分はどうしても払いたいが今現金を持ってないから払えないけ
ど、いつかは払うからといって退院。1年とか2年経ってから書留で送ってこられる方があります。
当時の領収書と共に送ってこられます。入院費用も1割負担の 70 歳すぎの方もあります。今日も送
ってこられた方がありました。何ヶ月か前に退院、何かの事情があって家に帰られ、そこから送って
こられました。そういう方が年に何人かあるのです。医療センターで支払いのない方は、生活保護か、
依頼の方です。時々国保の方もおられます。国保の方には「この病院はよそと比べてどうでしたか」
と退院のとき感想を聞くようにしているのです。いかがでしたか?と。「ちょっと食べたけど、まあ
良いや」と看護婦さんも「大らかだし怒られないけど自覚する」と。「男の方ばかりだったのでは気
楽で、のんびりできて良かった」「勉強もさせてもらって良かった」と。私は病院の中の関わりなの
で、今回梅田さんの在宅患者の人に1~2人、関われるようになってから「さようなら」と声をかけ
て帰って行く。来院したとき「やぁ、おはよう!今日は来たね」「今日は薬なの?」と一言ふたこと
声をかける。さっきも言われたように、周りの人に「今日は良かったね」と認めてもらったり「自分
のことを気にしてもらってる」、そういう関わりが医療が途切れないことになるということが大事な
ことだと感じています。
F
④
小学校の教師をしています。野宿者の支援で 1 年ほど釜ヶ崎を回っています。今、話したいのは子
どものことです。今の子どもたちが、話を聴いていてちょうど繋がっている。家庭ではいろんなしん
どいものを抱えて、親御さんが子育てが上手にできない場合、その子どもの支援は、教師との関係を
拒否されるところからスタートします。僕らが野宿者ネットワークの中で巡回しています。支援した
いと思っていても拒否が基本や、ということを言われながら、ずっと巡回っている間に「話ができる
方が何人か出てくる。その中で、次の支援かサポートできることが見つかってくる人も出てくる。1
年間で、100 人以上の方と出会うのです。話ができる方というのは 10 人前後かと、一握り。その中
で生活保護で居宅保護になり、またサポートする方は、ごく一部です。 医療に関わっていると、健
康問題ですごく関われる思うのですが、教師の場合は関係性とか心の問題が重要です。健康問題とは
何か?と思っていることと同時にそれ以上に、人が『生きるとは何か』を考える。といわれた言葉が
強く残りました。しんどい状況にありながらも逆に自分も元気をもらっている。何かがあるとの大変
な話を聴き、自分がどうしてこの関わりをしようと思ったのか?から考え始めた。自分にも「いろん
なしんどいものがあって、共感するものがあるのか? と関わっている自分がいる。このつながりで
次のステップに行けるものがあるのかと聴いていました。感想です。
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逢坂
せんせい
高鳥毛医師、梅田さんとの関わりがあったけれど話全体を聴かれて。
高鳥毛
確かに梅田さんとの出会い、それが元で梅田さんを野宿者・ホームレスの世界に導いてしまったの
かと聴いていました。僕が日頃考えているのは公衆衛生です。今の日本には「何で公衆衛生がないの
だろう」と歴史の中にはあるけど今の日本にはない。
今日の梅田さんの話を聴いていると、それを示してくれている。
日本の医療は「皆保険制度」であり「全ての人が平等でフリーアクセスで、どこの医療機関でも国民
が受診できるし、大学病院でもしかり、患者の選択権もある」ということだけれども。ホームレスに
限ってみると、「行く病院は決まっている」と。特に僕が「結核」でやっていると、ホームレスの人
は「私立の複数の病院」にほとんど収容されて、昔仕事をしていた公的な病院では「救急車でホーム
レスの人が来るのよ!」とみな身構えていた。「生活保護の受給があっても正面から入りづらい」と
いう構造がある。
西成には、結核の罹患率や死亡率とかいろんな健康問題がたくさんある。ここ西成あいりんに居る
人は、日本の中でも一生懸命働いて来た人だけど「医療」という、誰しもが得れる平等であるべきも
のがないところです。例えば、路上で倒れると二つのどちらかの病院に搬送される。その中で何が起
こっているのか、病人の受診の入口が救急車で受け入れ、振り分けするのが救急病院。後ろに、たく
さんの受け入れ病院がある。の病院も、患者を治すより、自己退院をすることを、織り込み済みの仕
組みがある。
考えると自分が医学部を出てやっている「医療というのは何なのか、人を治すためのものである」
のに、実際の使われ方はそうではないと。救急車も人を助けるために税金を使って搬送をしているけ
れど、人を助ける、そういう目的にも繋がっていない。普通に考えると、日本の社会で、こういう構
造があるのが何ぜなのかと、とにかくそこにいる患者さんが、どういう状況の人なのかを調査しても
らうことを、院長先生に無理矢理お願いした。その病院は、この結核の問題で大阪市から指導されて
対応しないといけないという状況があった。僕は長年結核の仕事をしていたから頼みこみ了解され
た。梅田さんとはこの病院で出会いました。病院の、特に入院している患者さんの調査をしてもらっ
た。そこで初めて知ったけど、病院の看護師も患者さんと日頃会話をしてないということです。看護
部長さんと看護師長さんは、僕が解放軍に見えたようで、病院に行くと、病院の離れの部長室に籠も
って、調査の進展もさることながら、会議をすることを楽しむようになった。「こういう事っておか
しいんちゃう?」「本当はこの人たちは一生懸命働いてきたのに社会のゴミのような扱いでそこに税
金(医療扶助)を付けている」けれど、その「税金という『金がバックにある』ということで人を扱っ
ているのでなく、患者その人にはあまり価値を置いてないのがおかしい」ということを、調査の進展
を聞きながら話した。梅田さんもあらためて、まじめに考えるとおかしいと気づき、僕が話した「看
護師の原点は人を支える・助けること。」である等々。梅田さんの活動をずっと観察していると、病
院の中でもより公的な組織に移り今は訪問看護ステーションと「訪問」と付くところに行っている。
それと梅田さんの話を真剣に聞いていたけど「公衆衛生の原点である訪問、生活をみながらの保健・
健康支援相談」をそのまま、誰に言われることなくやっている。と感じて嬉しかった。
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逢坂
今日の梅田さんお話のまとめをしていただいたようですが、あとまだ発言がある方。
F
⑤
甲南女子大の教員です。
「高齢者虐待」をやっています。はじめると「セルフネグレクト、高齢者
の孤独死の問題」をしないといけないと思いました。孤独死といっても 2 人に 1 人は癌で、そのター
ミナルをどうやったら良いだろうかと。私がある程度関わった方は、これ以上関わってもらいたくな
いと拒否する方もあります。僕の自由は病院ではだめだ。在宅を選び、そこで死にたいという方がお
られたときに、どんな活動をされているのか。訪問看護師さんたちは、どんな形の支援も在宅という
形になったら、かかりつけ医がないとだめですよね、そのあたりの確保と、家で、高齢者の独り暮ら
しができるのかということを知りたいです。何人かの訪問看護師さんが堺とか神戸市でもやった方
がいますけど、システムにはなってない。そのケースで終わってしまう。システム化の動きにはなら
ないのかと模索の最中です。往診してくれる医師も継続的に往診してもらえない。お願いします。
梅田
鶴見橋じゃなく、以前勤めていた訪問看護師ステーションでも、在宅でターミナルという方は、何
人か看取ったことはあるけれども、確かにシステムとしてはなかなか難しいと思います。医師の往診
はしていただいています。独り暮らしの場合は、まずご本人さんに、
「誰もいない時に息が切れてし
まうかもしれないけど」と説明します。大概の方は、それでも良いとおっしゃいます。肝臓癌末期で、
「いつ死ぬかわからへんけれども、病院ではお酒を飲めないので退院してきた」と言って、訪問する
とお酒を飲んでいた 70 歳代の方の最期は、訪問時に吐血された状態で発見され、亡くなられていま
した。
「家で過ごしたい、家で最後を」と思っていても、夜中に一人になったとき心細いと思います。誰か
がいてくれるというのはすごく心強いので、家で死にたいと思っていても、最終的に病院を選択され
ることが多いですね。
60 歳代後半、野宿生活を6か月、生活保護を受け、やっと生活に慣れたころに肝臓癌が見つかっ
た。入院治療後在宅を希望され、個人の医師に往診を依頼、訪問看護も入り、本当にギリギリまで在
宅をされ、トイレで下血をしてぐったりしているところを訪問介護の人に発見され、即入院し一週間
後に病院で亡くなりました。その方は早い発見だったので病院で亡くなることができました。この方
は「余命も僅か」との医師の診断を聞き、ケースワーカーが家族に連絡、元妻と娘さん2人が来られ、
20 数年の空白の絆を取り戻された後に亡くなられました。家族は遺骨を持って故郷に帰られました。
在宅医療を支える医師と、急変した時に受けてくれる病院側の医師と日々関わるわれわれ訪問看護、
訪問介護の連携が重要だとおもいます。上手くいったケースでした。
F
⑤
患者さんが最期に頼むのは訪問看護と介護が最期まできっちりとあれば、患者は満足ではないか、
終末診断したのはドクターだと思うけど、そういう意味なのです。
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梅田
大事なことを忘れていました。訪問介護も十分入っていて私たちは、訪問介護者の人たちともコミ
ュニケーションが取れていました。その介護者の人たちは以前から野宿支援をされている人ですから、
すごく良い組み合わせだったと思います。ケアマネージャと私たちとのコンタクトもうまくいき「家
族と連絡取れたよ。本人に誰が話をする?看護師が話をする?」と話し合いが自由にできてすごく良
いチームプレイのケースだったと思います。
F
⑥
大勢の場で喋る機会が少なくて、心を病んでる人が釜ヶ崎には沢山いてると思うのです。黒板の(テ
ーマー)には“西成の単身高齢者”と書いてありますけども、福祉をもらっている人は高齢者だけで
はないです。私は 59 歳ですけど若い人もいるのです。仕事が無いからと福祉をもらって 3 畳一間に、
僕自身も去年までそに住んでいた。そこで 3 人自殺した。1 人は何かのいざこざで殺された。自殺の
原因というのは、孤独が一番大きな原因だと思う。59 歳とか 60 歳だとまだ生活保護がもらえる年齢
でない。だから役所は、あなたはまだ仕事ができますでしょう。仕事しなさいと追求が激しいわけで
す。その対応の中で格闘するわけです。僕自信も、少し異常になったときもありましたから、自殺の
直前まで行きました。確かに高齢者の問題も大変やけど、高齢者でなくて、心を病んでいる人が、も
のすごくいると思う。現実に、ひとつのアパートで年間 4 人も死ぬなんて異常ですもんね。これは他
の人の意見で聞いたのですが、これは、自殺者じゃなくて殺人じゃないかと僕は思うんですよ。とり
あえずそれだけです
逢坂
いろんな方々から話をいただけてとても良い会になったのですが、梅田さんから、今後どうしてい
こうかとの方向がありましたら。
梅田
今後のことは、今もあった「孤独の問題」
。いかに孤独じゃない状況にするか難しいです。
誰でもいつでも集える場所があるといいけど。または有償のボランテァ活動の場があればいいなぁー
と思っています。少し話が変わるのですが、健康相談活動をしながら思っていたことは、野宿生活か
らとにかく生活保護を受け居宅生活に変われば「なんとかなるのでないか」でした。マズローのニー
ド論でいうと、野宿では生理的ニードも安全のニードも脅かされています。ここを満たせば、あとは
自分でなんとかするだろう、と考えていました。しかし本当の意味で生活していくには人同士が関わ
り合い、大切にしたり大切にされたりしながら、生きがいを見つけて支えあうことが大切です。今後
「ともにある」という関わりを続けたいと思います。
逢坂
本当に良いお話を聴かせていただいてありがとうございました。帰ってからもいろんな言葉を噛み
締めて考えてみたいと思います。ありがとうございました。
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