1. ブラウン運動 取り敢えず石村直之「確率微分方程式入門」に沿って書いていく。私には未知の分野 であるので。 ブラウンは1828年の論文で顕微鏡で水に浮かんだ花粉を観察して、面白い現象 を見出したと報告している。 丁寧に言うと、花粉が水を吸って破裂して出てきた微粒子が、ちょこまか小さく不 規則な動きをするという現象である。 ブラウンはその後、どのような物質でも細かく微粒子にして水に浮かべると、ちょ こまかと小さい激しい運動をするという普遍的法則を見出した。 そこでこの種の運動をブラウン運動というよになった。 ブラウン運動の理論的基礎付けは1905年にアインシュタインにより与えられた。 アインシュタインによるブラウン運動の理論の特徴のひとつは、ブラウン運動が本 質的に確率過程であると捉えている点にある。 確率過程については後述するが、ともかくアインシュタインは、入念な推論の結果、 ブラウン運動について次の重要な性質を導いた。 √ 時間間隔 ∆t > 0 における微粒子の変位の大きさ ∆x は ∆t に比例する。 √ このブラウン運動の ∆t 法則は、姿形を変えながら、いくつかの場面で現れる重要 な性質である。 しばらく石井直之の教科書を離れて、アインシュタインについて触れていく。彼の ブラウン運動についても背景などを述べる。 要するに自分が面白いからである。 2. アインシュタイン アインシュタインの業績 ここからはウィキによる。 1879∼1995.ドイツ生まれのユダヤ人の物理学者(両親ともにユダヤ人)。 アインシュタインは敬虔なアシュケナージ系ユダヤ人でなかった。 特殊相対性理論はそれ以前からポアンカレやローレンツなどにより、論理的に展開 されていた相対性理論をニュートン力学とマクスウエルの方程式を基礎とする物理学 の体系を根本から再構成した。 この理論では、質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって 異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度のみでああるとした。 ユング心理学の共時性はこの同時性と関係あるかも。 この場合、重力場のない状態での慣性系である。 1915∼1916 には加速度運動と重力を取り込んだ一般相対理論を発表している。この ことから宇宙は膨張または収縮していることが結論される。 奇跡の年といわれる1905年に上記特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動 に関する5つの論文を発表している。 1895年にスイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験したが失敗した。 ただ数学と物理の点数が最高点であったため、アーラウのギムナジウムに通うこと を条件に、翌年度の入学資格を得た。 同大学(数理物理学科)では講義などはあまり出席せず、教師にも反抗的で、好き な物にだけ熱中していた。 1900年に卒業したが物理学部長と不仲で、助手にはなれなかった。保険外交員、 臨時の代用教員、家庭教師のアルバイトをしながら論文の執筆に取り組んでいた。 1901年、友人の口利きでスイス特許庁の審査官として就職した。 ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷり出来て、特許申請書類の中に ある様々な発明理論や数式を知る機会を持つことができた。 奇跡の年(1905)の特殊相対理論は博士号を取るつもりで書かれたが、内容的 に大学側に認められなかった。 そこで急遽書かれたのが「分子の大きさの新しい決定法」であり、それは受理され た。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展する。 他に「光量子仮説」も書いている。 「特殊相対性理論」は当初は周囲の理解が得られなかったが、プランクの支持を得 て次第に物理学会に受け入れられていく。 1907年に有名な E = mc2 を発表している。この年にアインシュタインが生涯最 良の名案という等価原理を考案した。 箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力か重力なのか区別できないというもの で、後の一般相対論の基礎となるアイデアである。 1909年に特許局を辞職してチューリッヒ大学助教授。1912年にプラハ大学 教授。1912年に母校チューリッヒ工科大学教授。 1916年に一般相対性理論を発表。この理論は星の重力により光が曲げられると いう予言も含まれている。後に実証された。 1919年の皆既日食で太陽の重力場で光が曲げられることは観測で確認されたが、 一般相対性理論の立証には不十分であった。 ただ、この理論は物理学の理論として一定の地位を得た。 1925年にボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表した。 この時期に行っていた誘導放出の研究が後のレーザーの開発につながっている。 1935年にアインシュタイン=ボドルスキー=ローゼンのパラドックス(量子力 学と相対性理論の矛盾)を共著で発表。 1936年にワームホール(アインシュタイン・ローゼン橋)の概念を共著で発表。 1939年に当時のアメリカ大統領のルーズベルト宛の、原子力とその軍事利用の 可能性に触れた手紙に署名している。 内容は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に 考えられます。この爆弾1つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかそ の周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」ということである。 1940年にアメリカ国籍を取得。 1943年にアメリカ海軍省兵器局顧問に就任して、魚雷の起爆装置の改善に尽力 した。 一部に「アインシュタインが原子爆弾を開発した」と言うむきもあるが、E = mc2 はあらゆるエネルギーに成立する式であり、ルーズベルト宛の手紙では開発の可能性 しか言っていない。 マンハッタン計画には一切関与していない。ただルーズベルトは上記手紙によりウ ラン諮問委員会を作り、アインシュタインの提言?が検討されることになった。 この時点では黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決まったが、原 子爆弾についてははっきりしないことが多すぎたため、原爆開発は見送られた。 アインシュタインの人物像 これもウィキによる。 5歳ころまであまり言葉を話さなかったと伝えられている。その間に全体把握能力 を養っていたという意見がある。 性格はおとなしく、生真面目であった。 彼は常に、発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも 思っていなかったという。 「私は天才ではない。ただ人よりも長く一つのことと付き合っていただけだ」と言っ ていた。 特許庁の審査官をつとめていたころ、 「君ほどの人物が大学に残れないのは納得がい かない」と言われた時、 「研究は大学しかできないわけじゃないよ。こうして君とお茶 を飲みながらでも議論ができるじゃないか。ここは私にしてみれば、実に立派な研究 室だよ」と返事したそうである。 ノーベル賞受賞後ニューヨークである少女に数学を教えていたことがあった。少女 の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインであることを知って、慌てて彼の元を訪 れると、彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、 礼には及びません」と返答した。 ド・ブロイがソルボンヌに学位論文を提出した際、教授陣は誰も理解出来なかった。 教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ、 「この青年は 博士号よりノーベル賞を受けるに値する」という返答を得た。 その5年後にドブロイは本当にノーベル賞を受賞した。 湯川秀樹がアメリカ滞在中にアインシュタインは彼のもとを訪れ、 「原爆で何の罪も ない日本人を傷つけてしまった。こんな私を許して下さい」と激しく泣き出し、深々 とお辞儀を繰り返したといれている。 この姿を見た湯川は、 「学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和 なくして学問はない」という考えに至り、世界平和に力を入れるようになったという。 アインシュタイン小伝ー特殊相対性理論の建設を中心として アインシュタイン選集3より。 チューリッヒ工科大学ではミンコフスキーから数学を学んだ。その影響はアインシュ タインのその後の研究に非常に役立ったようである。 ミンコフスキーは1907年に「時間と空間」という論文を書き、時間と空間を独 立でない、一つのまとまった座標と見るべきだとして、4次元宇宙という抽象的な空 間を導入した。 これは1905年のアインシュタインの特殊相対性理論幾何学的発展形とも言える。 アインシュタインの特殊相対性理論の真価を認めた最初のひとがミンコフスキーで あった。 学生時代、先生から見て怠け者に見えたアインシュタインが卒業後わずか5年で素 晴らしい物理学の理論を創造したことに驚嘆したと言われている。 奇跡の年(1905年)の少し前に研究が急速に進みだした。アインシュタインは 研究者としてはエリートコースから外れているが、知的活動はあふれるばかりに活発 であった。 1905年にアインシュタインは5編の素晴らしい論文を完成させた。大学卒業後 5年、26歳の時である。 ここでどのようにしてこのような研究が出来たか、少し真面目に触れる。 19世紀終わりから20世紀はじめにかけて、ヨーロッパの基礎物理学は重大な転 機を迎えていた。 ニュートン力学、熱力学、電磁気学などが次々完成されてきた一方で、伝統的な物 理的世界観をゆさぶるような新事実がいくつも発見されつつあった。 たとえば陰極線・X線・放射能などの現す神秘的な現象が人々を驚かせた。 そして物質の究極の構造についての分子・原子あるいは電子の役割が少しずつ明る みに出かかっていた。 他方で、ニュートン力学、熱力学、マックス−ファラデーの電磁場理論などは、い ずれも自然界の本質を突く理論体系として、内的に整然とした世界観が、完成した権 威のあるものとみなされていた。 こうした雰囲気の中で、アインシュタインが自然の秘密を探る方法を常に模索して いた。 アインシュタインは「私は観測された事実だけを頼りにして物理学の法則を発見す ることは出来ないと考える。むしろ実験事実から出発した仮説と思考によって、遠い ところまで考えを延ばす。 そして内部的な統一のある理論を発見し、あとでもう一度実験にまで立ち戻って、そ の理論をテストし、きたえなおすべきである。 実験からの距離が遠ければ遠いほど、たくさんのものが見える視野が開かれる」と 言っている。 けだし名言といえよう。 例えば、マクスウエルの電磁場の理論とニュートン力学とは、それぞれの分野で十 分確かめられた正しい理論である。 アインシュタインは両者とも自然現象である以上、内的に関連していて統一される べきものと考えた。 特殊相対性理論はこの両者の統一という、より広い立場に立ってはじめて姿を現した。 つまり両者の矛盾が手がかりとなって生まれた、整然とした論理にもとづく本質的 な理論である。 これはマクスウエル理論を完成させた、とかニュートン力学の拡張、是正といった ものではない。 アインシュタインは晩年に到るまで、重力場と電磁場の統一理論を志し、新しい幾 何学が出る度に、統一場理論を作ろうとしたが、不成功に終わった。 どうも弱い核力について知らなかったようであるから、無理もない。 現代の4つの力(重力、電磁力、強い核力、弱い核力)の統一理論が超弦理論として 物理、数学の人が努力しているようであるが、多分成功しないのでは?と思っている。 理由は特殊相対性理論は4つの力のうちの2つの力である。 ここで連想するのが、数学基礎論で著名なゲーデルの不完全性定理である。 すなわち、任意の公理系が与えられたとき、その系の内部では証明出来ない命題が 存在する。 これに卑近な解釈をすると、人間は有限な存在であるから、それより高次の系であ るところの神は、決して人智の及ばざる処、言い換えると神の存在証明は出来ないの ではないか?ということになる。 超弦理論としての統一理論にあてはめると、4つの力の枠内で頑張っても、多分成 功しないであろうと思うわけである。 人それぞれであり、好きなようにやればいいのであるが、これだけ色々な問題を抱 えているときに、科学者が理論のための理論をやっていてどうなの?それは神さんも 微笑まないのでは?と思う。 そういう人達は神さんなど信じて居ないであろうし、どうでもいいことであるが。 少しそれたが、最初の特殊相対性理論の論文中に引用文献は一つもない。 そのことをもってアインシュタインが当時の先端的な研究成果を知っていたか、疑 問に思う向きもあるかと思う。 彼は特許局の技師で、大学など研究職についていたし、ネット情報も無かった時代 であり、学問の動きにさほど触れる機会は少なかったと推察出来る。 ところが、彼の講演、執筆したものから、一応当時の大切な研究成果は知っていた ということである。 詳細に言うと、運動体の光学について、エーテルに対する地球の相対運動を否定す るマイケルソン・モーレーの実験は、彼が学生の頃にその結果を学んでいたという。 彼自身もすでにエーテルに対する地球の運動を実証したいと思い立っていた。 すなわち、一つの光源からくる光を鏡によって反射させ、その光の進行が地球の運 動の方向に向いているときと、反対のときとでエネルギーの差があるかないかを熱電 堆によって測り、これからエーテルに対する地球の運動を測ろうと考えたことがある という。 方法は違うが、マイケルソン・モーレーの実験結果を聞いて、エーテルに対する地 球の相対運動は実験的に無意味名考えであろうという結論に達した。 更に、彼は1895年のローレンツの論文を学び、フィゾーの実験も知っていた。 そして彼は、電子に対するローレンツの方程式は、真空中でも運動体の中でも同じ ように成り立つ仮定すれば、上記の二つの実験を説明できることを見出した。 この仮定は、マクスウエルの電磁気の法則が静止系座標系でも運動座標系でも同じ ように成り立つと仮定することと同じである。 そして、この仮定はまた、光速度が静止座標系でも運動座標系でも不変である、と いう仮定を含む。 そうすると、ニュートンーガリレイの力学における、速度の合成則と真っ向から矛 盾する。 これは全く根本的な矛盾であり、アインシュタインはこの困難を1年以上考え抜い たという。 そして、この道の素人の友人に(アインシュタインの論文には、この人に対する謝 辞だけが述べられている)と色々議論をしている途中、 「時間の概念」を根本的に変え るほかはないこと、つまり、ニュートン力学とマクスウエルの電磁気学との矛盾を解 くには「時間は絶対的なものではなく、信号を伝える光の速さに関連している」と考 えればよいという事実を思い付いた。 これがヒントになって、特殊相対性理論を建設することに成功したのであるという。 3. ブラウン運動ーアインシュタインを巡って アインシュタイン選集1より。 先ず、ブラウンの論文に遡る。 ある種の植物の受粉過程を調べていて、顕微鏡で水中の花粉を観察すると、微粒子 が激しい振動状の運動をしていることを見つけた。 他の種類の花粉でも同じであった。 これから、ブラウン運動は生き物の運動であり、しかもそれは、植物の雄性の生殖 細胞の特異性に帰するという最初の仮説を立てた。 その後、この仮説は修正されて、 「見た目大きさの揃った分子こそ、生き物であろう と鉱物であろうと、ブラウン運動をする」という風になっていった。 ブラウンの研究は広範な興味を引き起こし、多くの人に追試され、その運動原因に ついて、種々の議論を生んだ。 結局、ブラウン自身の研究は、ブラウン運動を一つの重要な現象として確認し、そ れは有機物、無機物にも起こる、またこの現象の安易な力学的説明を否定した、とい うことにあるといえよう。 アインシュタイン理論が出るまでは、目立った研究は無いとは言えるが、ほぼ以下 の7項目に集約される。(ギイ、1888) (1) 運動は極めて不規則である。これは至る処接線のひけない連続曲線の数学的存 在を意味する。 (2) 2コの粒子が、その直径よりも小さな距離に近づいても、引き合う、あるいは 反発せず、それぞれ独立に運動しているように見える。 (3) 運動は粒子が小さいほど活発である。 (4) 粒子の組成および密度による効果は見られない。 (5) 運動は液体の粘性が低いほど活発である。 (6) 運動は温度が高くなると活発になる。 (7) 運動は決して停止することはない。 この流れで、ブラウン運動を分子運動論の簡単なテストに利用することが考えられる。 分子運動の統計理論によれば、エネルギー等分配の法則は、媒質分子および粒子の 並進運動のエネルギーに対して同じく成立すべきものである。 従って、何らかの方法でアボガドロの数が決定されておれば、媒質分子の運動エネ ルギーは算定可能であり、ブラウン粒子の数量が決定出来れば、分子運動論的説明の 正否の判定条件はブラウン粒子の速度の測定にかかることになる。 ところが、この線で数人によって実験が試みられたが、その結果は、両者の運動エネ ルギーは5桁ほどの違いがあり、分子運動論の正しさを確認するにはいたらなかった。 この困難は (1) の性質にあった。 言い換えれば、ブラウン粒子の速度とは一体何を意味するのか、ということになる。 1905年に現れたアインシュタインの理論の秘密は、この問題点が回避されてい た、という点にあったということもできる。 4. アインシュタインの理論 アインシュタインは、それまでに精力的に研究が行われていたブラウン運動について は、この現象自体、全く知らなかった。 彼はこの種の現象を理論的に予想し、それについての定量的に正しい理論を作り上 げた。 アインシュタインが69歳のとき、ブラウン運動を含むゆらぎ現象を論じ尽くして いた、ボルツマン、ギブスの研究を知らずに、統計力学とそれに基づく熱力学の分子 論を展開した、と語っている。 その際に、自分の主要な目的は、一定の有限な大きさの原子の存在を可能な限り確 固としたものとする事実を見出すことにあった。 そして自分は原子論によれば、顕微鏡的な懸濁粒子の直接観察にかかる、ある種の 運動が存在しなければならないことを発見した。 ただし、ブラウン運動についての観測がすでに以前から知られていたことに気が付 かなかった・ ・ ・、ということである。 ただ、この論文を書き上げる時点では知っていた。 ブラウン運動の法則の定量的表現に到達する、アインシュタインの論法は、いつも のことながら本質的な最短ルートを開拓するものである。 大筋は次のようなものである。 もしも分子運動論が正しいとすれば、可視粒子の懸濁液は分子溶液と同様に、気体 法則に従う浸透圧を持つはずである。 この浸透圧は 1 グラム当量中の分子数によって変化する。 ところで任意の外力場(例えば重力場、電場)の作用の下で熱平衡にある懸濁液を 考える。 この懸濁液の密度は一様でないため、密度を一様化する拡散過程をひきおこす。 この拡散過程は上に述べたような空間的に一定でない浸透圧、つまり本質的には無 秩序な分子運動の結果として生じるものであるが、それを次の二つの見方から観測に かかる形でとらえることができるはずである。 第一には、定常状態(熱平衡)である以上、見かけ上物質の移動はないはずだから、 この拡散過程は外力場による懸濁粒子の移動の過程と釣り合っているものとして考え ることが出来る。 第二には、熱運動による懸濁粒子の無秩序な変位の結果として調べることが出来る。
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