妻医 発行所 ︺ 石 内 古向 校 務 同 窓 局 会 し た 。 同 級 庄 の丹 野 君 が べら ほう 、 に強 か った ので 岩 内 高 校 は連 勝 を 重 ね て いた . 萩 原 教 頭 が 思 師 で 。 あ った ︱ 、 ︱ 父 は今 の尺 師 範 母も ︱ 古 流 人 、 家 で教 え た り が ぬるぬる し た 部 屋 で1か 月 ほど 過 ごし た 時 めた 父 が 勝 手 に願書 を 出 し て いた 北大 の 。 札 幌 医大 が進 学 課 程 を 新 設 し て新 規 募 集 を 始 。 。 徒 会 長 に な った な ってブ ラジ ルかド ミ ニカ に行 こう と 思 って い 、 。 た の で 北 大 の理 学 部 に入 った 恵 迪 寮 の床 、 。 だ つた そ れも 補 欠 と いう こと で 父 が大 学 に 、 呼 ば れ 寄 付 金 を ふ つか け ら れ て怒 って帰 っ 、 、 てき て あ ん な 大 学 には 行 く な と 浪 人 す る こと にな った . 。 子 備 技 で高 校 の分 を 全 部 勉 強 し た 獣 医 に し て いた . 父 の弟 子 は 私 の弟 だ け 、 だ った が 母 の弟 子 は た く さ ん い 。 た そ ん な こと で小 さ い頃 か ら楽 、 器 を 持 って遊 ん で いた ので 高 校 でも そ れ ま . でな か った 音 楽 部 を 作 った 顧 問 は今 な お ご 、 健 在 の藤 井 先 生 にお 願 いし た が た いし た 市 。 動 は し な か った 1年 の時 の担 任 は体 操 の林 先 生 、 2年 か ら 、 梅 産 先 生 が 担 任 の進 学 ク ラ ス に いた が 勉 強 は殆 ど し な か った 。 そ のせ い で現 役 で, 党か っ た大 学 は 父 が卒 業 生 だ った 岩 手 医 科 大 学 だ け 回 流 の琴 の先 生 で ︲年こ 会長 丸山 淳士 G3 がん こう だ ま し い 恵 庭 市 恵 み 野 西 4 丁 日 81 6 電 話 フアック ス 〒 0 6 1 11 3 7 3 事槍 私 の人 生 の支え ︱ 培 われた ク岩高 魂ク 5年 、 住 友 金 属 工業 の回 富 診 療 所 に父 昭和 2 、 、 が着 任 し て 北 見 の山 奥 鴻 之 堆 金 山を 後 に し た のが 中 学 1年 の夏 休 み明 け であ った 。 、 小 沢 中 学 校 か ら岩 内 高 校 へと 進 学 し 3年 間 。 汽 車 通を し た 高 校 1年 の秋 に洞 爺 九 台 風 で 。 岩 内 が ほ ほ全 焼 と いう 経 験 を し た 十 い高 校 、 は 焼 け な か った が技 災 者 の避 難 所 と な り 近 。 郊 の泊 村 な ど の技 合 で転 々と 授 業 が 行 われ た 今期で勇退される丸山会長の渋拶 恵 迪寮 か らも鞍 替え, 受験 者 が た く さ ん いた 新 聞 記 者 も い いな ぁと 思 って いた ので新 聞 。 局 に入 った 幌 似 のあ じ さ い寺 の鹿 谷 法 純 先 、 。 輩 が 局 長 であ り 妹 さ んは 同 期 生 であ る 深 、 夜 に 及 ぶ編 集 作 業 の後 よ く お 寺 に寄 せ ても ら い、 火 鉢 の火 を つ つき な が ら ボ ツボ ツと 語 り 合 つた 。 鹿 谷 先 輩 が 卒 業 し た 後 、 新 聞 局 の 、 局 長 が代 々生 徒 会 長 にな ると いう こと で 生 。 メ 父 が 乗 道 を し て いて子 供 の頃 か ら寝 間 着 は 、 柔 道 若 だ った の で こ れも 抵 抗 な く 乗 道 部 に 。2 と 3 年 年 の時 には 全 道 大 会 に出 場 入 った 札 幌 医 大 で は 学 生 と 教 師 の交 流 会 であ る 。 ﹁ 学 友 会 ﹂ な るも のが あ った 教 師 陣 も 学 生 も 新 し い字 校 と いう こと も あ り 希 望 に満 ち て 、 。 いた そ こ で 岩 内 高 校 新 聞 局 の経 験 を 生 か し て最 初 は ガ リ 版 刷 り の新 聞 を 発 行 し た 。 4年 生 の時 に後 輩 に乗 道 を や る学 生 が 入 学 し てき て、 彼 ら の誘 いで物 置 に放 置 さ れ て い 7 の柔 道 た ズ ック の畳 を 引 っ張 り 出 し て 2 場 畳 を 作 った 。 顧 問 は 一番 体 格 の良 か った 新 保 幸 。 新 保 先 生 はただ 体格 太 郎 教 授 に お 願 いし た が 良 か った だ け で柔 道 専 門 学 校 の校 長 にも な って いが 、 柔 道 は全 く し た こと が な いと お っ し ゃ って いた 。 、 先 輩 に後 に精 神 科 に進 んだ 吉 野 先 生 が いて ク ラ シ ックギ タ ーを 習 った 。 二人 で演 奏 会 に も 出 演 し た 。 今 、札 幌 乗 道 連 盟 の会 長 を 務 め 、 、 。 て いて ま た お じ さ ん バ ンドも や つて いる 我 が家 の地 下室 が練 習 場 だ が 練 習 は成 多 にし 。 な い ベ ンチ ャーズ の コピ ー バ ンド を し て い 、 。 て 時 々変 な宴 会 に呼 ば れ る 、 今 な お 現 役 で仕 事 を し て いる が 生 活 の主 軸 にな って いる のは岩 内 高 校 で の廷 長 のよう 、 こ に 思 わ れ る 今 思 え ば 趣 味 も 含 めあ ち こち 、 に顔 を 出 し 多 芸 の少 年 であ った のだ 。 度 胸 と 体 力 は 言 電 の荒 波 で鍛 え た と 思 って いる。 ク . 負 け な い根 性 が 岩 高 魂 ″ だ と 思 って いる 、 札 幌 に来 て 岩 内 と いう 名 前 を 聞 く と ほ っ と す る。 先 輩 にも 後 輩 にも 傑 出 し た 人 物 が多 。 ︶ ハ い 皆 大 人 し いが 肝 っ工 が 据 わ っている 女 宇 、 校 だ った せ いか 先 輩 に女 性 が多 い のも 男 が 。 成 張 れ な い原 因 と な って いる のか 天 照 大 神 を 始 祖 と す る 日本 人 だ か ら 女 性 が 作 った 道 を 、 。 歩 く 方 が 向 いている ち な み に 札 幌 医 大 も 前 。 . 身 は女 子 区 字 専 門 学 校 だ った 2年 だ け だ が 、 札 幌 岩 内 高 校 同窓 会 も 若 い会 員 が 少 な い と 心 配 さ れ た時 も あ った が 、今 年 か ら は 結 揺 若 い人 も 顔 を 出 す よ う にな り 心 強 い限 り であ 。 る。 向技 時 代 が 体 力 も 頭 脳 も 一番 優 れ て いる 吉 そ の時 代 に架 か れた も の で人 生 の価 値 が 決 ま 。 る よう な 気 が す る 、 これ か らも 岩内 に支 え ら れ な が ら 人 生 を 。 歩 ん で いく 四代 日会 長 同 団 国 で あ曇 ︶ 佐 々木幹夫 氏︵ 今 総 会 で九 山淳 十 さ ん が会 長 を 退 任 す る 、 後 任 の人事 に つ いては 後 輩 に 、 発表 があり 委 ね る に若 干 の時 間 的 検 討 を 有 す る た め 2年 卒 ︶ が リ リ S3 副 会 長 の佐 々木 幹 夫 氏 ︵ ー フ の役 日 で指 名 さ れ ま し た 。 佐 々木 さ ん は江 別 市 在 住 で市 教 育 委 員 会 0 2 務 砦 学 園﹂ ︵ 所 培 の高 齢 者 大 学 ﹁ 4名 在 籍 ︶ 、 の副 学 園 長 と し て教 養 講 座 の企 画 催 事 の 。 逆 営 にボ ラ ン テ イ ア で取 り 組 ん で いま す 当 会 の会 報 ﹃ 津 馨 ﹄ の編 集 長 と し ても 活 。 躍 し て いた だ いて いま す 5年度 平成2 3回 干交流会 第3 総合 来費 のご祝 辞 岩 内高等学校長 佐藤敏行氏 高 らかに祝杯を 岩内町長 上同雄司氏(S44年卒) ■ r成 25年 12月 25日 啓 濤 〉 (1)(第 32 号 特 別幹事 大同団 結 H 6 福 嶋 哲 哉 G 4年を 札 幌同 窓会に携 わって 。 であ る よ う に 思 わ れ ま す 仲 問 と の自 由 で奔 、 放 な 高 校 生 活 は 毎 日 が 楽 し く 面 白 いも ので ど の時 代 にも 多 く の人 と の出 会 いの中 でそ 、 れ ぞ れ の思 いはあ るが 中 でも 高 校 時 代 は特 別 、 0 6 歳 の定 年 を 迎 え ふと 思 う こと が あ り ま 、 し た 。小 中 高 大 学 そ し て社 会 人 と いつの時 。 代 が 最 高 の時 間 であ った のだ ろう か と 代表 表 芳弘 G6 4年こ 、 4 今 年 度 担 当 の 私 達 特 別幹 事 同 期 出 席 者 5 、 名 が 一致 団 結 札 幌 同 窓 会 の運 営 にあ た り ま し た。 、 本 会 出 席 の同 窓 生 を 笑 顔 で迎 え 福 嶋 君 の 。 司 会 進 行 で円 滑 に進 め させていただ き ま し た 、 最 後 ま でご 尽 力 いただ いた 同 期 の仲 問 参 加 し ていた だ いた 同 窓 会 員 の皆 様 に感 謝 申 し 上 げ ま 。 す 、 ︺ のあ と 今 日ご集 合 の仲 間 と 6 私 共は ≡ 4年 、 会 は とても楽 しく刺 激 のあ る 一日となり ま 6年 ぶ した。こう した気 持 ちが冷 めぬう ちに、1 6年 卒 3年 7組 の開催を り のクラス会 ︵ 昭和 4 ︶ 。 考 え よう かなと思う今 日です 必然 的 に私 が 。 幹事 とならなければなりませんが 特別幹事挨拶 代表 表 芳 弘 さん 4 6 年 卒生 による応援歌合唱 し た 。良 し 悪 し の数 多 く の出 来 事 は 思 い出 と 、 、 な り 一﹂ れ ら は 今 も な お 仲 間 と と も に笑 いな 、 が ら そ し て声 を 大 に し て語 り 合 え る 私 の財 。 産 と な っていま す 、 3 こう し た 時 に 第 3 回岩 内 高 校 札 幌 同 窓 会 。 6年 卒 業 は特 別 幹 事 と の 開 催 の話 です 昭 和 4 、 こと 簡 単 に司 会 進 行 ま で引 き 受 け てし ま い ま し た。 同 窓 会 が 持 つ﹁ 岩 内 高 校 ﹂と い つバックボーン 、 、 は 司 会 と い つ重 圧 を も 妙 に軽 く し 初 め てお 4 は 回 会 総 第3 6年0 1月3日働 2 開催 、 同 じ学 舎 で育 った仲 間違 。 多 く の同窓 生 の出席を ※毎 回多 く の先 輩 諸 氏 や岩 内 同 窓 会 か ら の当 日 の景 品 のご 寄 贈 に 。 感 謝 いた しま す 数 も 少 な く な っ 、 て参 り ま し た ので 当 選 者 選 び の 。 方 法 も苦 労 し て いま す 乾杯 尾形友秀さん(岩内高校教諭) 藤倉英幸さん 作品展パンフレット 会 いす る方 々に対 し ても ご く 自 然 と 親 し みを 、 わ かせ ︿〓場 内 を 温 か で和 や か な 空 気 で包 んで く れ る、目 に見 え ぬパワーを 発 揮 し ま す 。 、 参 加 さ れ た方 々にと り ま し ては m心い出 と と 、 も に大 切 にし てき た 同 窓 会 であ り 話 が つき る 、 。 こと が あ り ま せ ん 私 の ﹁皆 さ ん 少 し 耳 を 貸 し てく だ さ ヽ い﹂の声 も ヽ か ず じ ま い。≡﹂ れも 、 同 窓 会 の良 さ か な と 思 いな が ら そ のま ま 進 行 さ せ ていただ き ま した 。 、 宴 会 で は ﹁岩 高 応 授 歌 m l m 2 ﹂を 諸 先 、 輩 と と も に胸 を 張 り 声 高 ら か に歌 い上 げ 互 い にエールを 送 り 合 って ﹁岩 高 健 児 ﹂と し て 一体 、 と な った 姿 瞬 間 に 去 ”り と 感 動 を 覚 え た のは 。 私 だ け では な いよ う に思 わ れ ま す 3 私 にと り ま し て第 3 回 岩 内 高 校 札 幌 同 窓 古 械 札 偶同 悪 会構 倉.資 崩会 紙麟内 ・ LttlH隅 W凹 石円同械↑ 宮 冊君 択冊雷 i _ _ _ ` 腔 3 階 で 々し く 開 催 す るこ 同 期 会 を 当 ホ テル2 賑 ︶ 。 と にな っていま す ︵ 無 上 の喜 び な のです 司会進行を務める福 嶋哲哉 さん )(2) (第 32 号 啓 濤 平成 25年 12月 25日 を 守 り な がら最 後 ま で元気 にブレーされて 3 いま した ゴルフを 考 に先 ■ 後 計 の出 で米 し い会 。 話 がはず んだ 同好 会 でした 競 技 粘 米 傾 勝 個人戦 開催 要 領 ︼ ︻ 5年 9 月 7 H 金 ︶ 1、 H 時 成2 平 2 ︵ 9時 抑分 ス タ ー ト 2、 場 所 ダイナスティゴ ルフクラブ あ か し や ら いら つく 3、 競 技 方 法 ダブ ルベリ ヤ 方 式 に よ る 、 、 パークゴルヱ 父流 会 発 足以 来 年 2 同 開 催 されてき 、 4 0 5 6 と ま した が 平 成 2 ら か 回 ︵ は 月 月 年 年 1 大会 ,ま 7 ヽ9川 は例 会 ︶ の交 流会 が 問性 されることにな︱ したc 9月 4日に予 定 され ていた競 技 会 が 、 大 雨 のため残 、 E 念ながら中止 となり ヘヤ 年 は4回の開催 となりま した 参 加 者 全 員 に優 勝 や入貨 のチー ンスが得 られるよう 0 、 2 5試 合 の平 均 打 放 と 1 に 過 去 打 のと が ハィアィと な ♪プラス5 ︱ ー ∼0 ヽマイ ナス崎打 を 付 与 す ること にしま した。 0 ▼第 3 回交 流 会 さとらんど 6 月 7日 9 ︲ S3 スコア0 年 卒 ▼平 木 武 司 ︲打 で中 止 外 百 男 さん ︵ 4午 半 ▼小 林 力 さん ︵ 3年 年 ︶ さん︵ S3 S3 が並びま した 、 . が マイナス→ンディの大 き い小林 さんが 3位 同ハスアィ 、 0年 0 打 の岡 崎 嘉 彦 ︵ S3 初 優 勝 を 果 た し ハス アィー ︲ . 2 ヤと が ︲ 打 で半 優 勝 し ま し た 3 位 に実 力 者 ●ンディ 2 。 崎打 の竹 内 秀 雄 さんが 2 ︲打 で続 き ま した 4位 にはマ 5 0 イ ナスー S3 打 のハス アィが物 を 言 r化岡 美 保 子 さん ︵ ,ま したc 年 女ご が入 ︱ 冨 卸回PG交流会の成績︺ ア ハ ンディ 臨位 氏 名 卒年女 スコ ︲ ー位 中■外導 男 ︵ 3︶ 岬 中 4 2位 平本 武 H ︵ 3︶ m ■ 3︶ Ю = 3位 小林 力 ︵ 3 1 7 一 1 4位 竹内 秀 雄 ︵ 3︶ ︲ “ 1 1 0 5位 漬 野 保雄 ︵ 嶋︶ 1 4 , , 1 6位 上崎 芳 二 ︵ ・ 鶴︶ 1 ︲ 6 ■ 0︶ 1 1 7位 大中 央歌 ︵ 4 ︲ 第 3回 P G交 流 会 の成 績 ︺ ︹ 1位 金澤 弘 子 ︵ 的︶ 4︶ 2位 平木 武 司 ︵ 3 3位 工藤 章 ︵ 勢︶ 5 4位 上宗 勝 ︵ 3︶ 5位 結城 道 子 ︵ 的︶ 6任 岡崎 嘉彦 ︵ 抑︶ 5︶ 7位 栗林 守正 ︵ 2 2 ︹ 第 3回 PG交 流 会 の成 歯 岨 WWm崎 岩 内 高 校 卒 業 生 の親 悔 を 目 的 にスター 4 阿 日を ト したゴルフ同 好 会 も 、 ︿ヱ十で1 迎 え ま し た。今 年 も 開 催 結 果 を 報 告 でき る ことを 大 変 婿 しく 思 いま す 。 今 年 は 異 常 気 象 だ った と いつて良 いと 思 、 いま す が ﹁猛 暑 ﹂と コ景雨 ﹂が交 差 した夏 、 、 が続 いたことも あり 早 めの開 催 を控 え 天 候 不 順 が収 ま った9周 下句 に実 施 す ること にいたしましたセ 、 、 ま た 参 加 者 Q 吊齢 化 が進 んでいる一レ ︶ 平 日のプレーがしにく い現 役 世 代 の参 加 が 4 半優勝 3 位 芝 西 新也 S0 ︵ 4年 ■ ︶ 橋 野 茂 S2 ︵ 4年 卒 ︶ 補 本 呑 定 S 翌年 十 ︶ ︵ 山 田 忠 義 S 換年 平 ︶ ︵ 藤嶋 正 紀 3年 卒 S4 ︵ ︶ 1位 谷 口 h望 ︵ 踊︶ 0 2位 れは 繁 ︵ 4︶ 4 3位 工藤 章 ︵ 3︶ 3︶ 4位 演野 保雄 ︵ 4 5位 金澤 弘 子 ︵ 的︶ 7︶ 6位 竹内 秀雄 ︵ 3 0︶ 7位 札岡美保 子 ︵ 3 第 範回 PG交 流 会 の成 機︺ ︹ 111 伊ⅢⅢⅢ S ' ■1 に 3 0 5位 大 中 央 軟 ︵ 4︶ 2 1 , 4 3 ︶ ︲ 2 6位 佐 藤 修 ︵ 一 4 一 5 3 7位 演 野 保 妹 ︵ 4︶ 2 ︲ ■ 。 次 の方 々も交 流 会 に参 加 し て いま す ︲ S2 水嶋 勝蔵 ︵ 年卒︶ S 努年 字 ︶ な 川 佳 子 ︵ 3年 十 ︶ S3 池 出 科 子 ︵ 、 し パークゴルフを している方 は ” 保 い同 窓 会 のパークゴル 、 フ交 流会 にぜひ登 録して 緒 に楽 しみませんか, 2 , 7︶ 2 3位 竹内 秀雄 ︵ ︲ ﹁ 3 2 5︶ ︲ ・ 4位 一 2 化岡美保子 ︵ 3 T コア ハ ンディ 順位 氏 名 年︲ 年次 ス 0 ー位 山 本 勇 治 ︵ 2 ﹁ 3︶ 1 ︲ 2位 岡崎 嘉 彦 ︵ 卸︶ 2 1 ■ いl Ⅲ JⅢ キ■卜 Iン 岨 季 口 m t t H 8 町W 畑 身 帥 4 位 ・ D 位 の中 止 さ んと 平 木 さんは学 年 上 位 で中 上 さんが優 勝 。 平木 さんが準 優 勝 となりま した 8 な S 釘年 年 ︶はグ ロス9 実 力 者 の竹 内 秀 雄 さん ︵ 打 , がらブラス3 ーの小ンディのため m打 となり 4位 でした ︲ ▼第 3 回交 流 会 山 根 園 7月 8 日 3 1打 で 昭和 0 が1 女 性 の実 力 者 今 澤 弘 子 さん ︵ 4年 卒 ︶ 、 0 回 に続 き 準 優 勝 優 勝 し 平 木 武 司 き んが h打 で第 3 9 . 4年 卒 ▼ 0 の工懐 章 さん ︵ S3 を 果たしま した グロス︲ 打 、 5年 半 ︶ はハと ア■Z フス7打 8打 上 宗 勝 さん ︵ 昭和 3 6 1打 1 1打 で3位 と 4位 でした. ネ ット ︲ 2 回交 流 ▼第 3 会 パークワン 8月 6日 5年 卒 はハス アィ0が を S3 初 参 加 の谷 日豊 さん ︵ ︶ 物 8 。 言 い0 1 打 で初 優 勝 を 果 たし ま し た 実 力 者 の福 藤 紫 0 さん ︵ S4 ︶ 年 卒 さんがハスアィ0 ー 打 を物 とも せず 2 ︲ スコア ︲ 打 で準 。 優 勝 工藤 章 さ 0 ん も ハンデ ィ ー 0 ー 月 4 日 打 なが ら W打 で 3位 と健聞 し ま した。 3回交流 ▼第 3 会 王 子ゴルフ 山本功治 き ︲ ん ︵S 3 年 卒 ︶ が スコア 抑打 で 前列左 から漬野 岡崎 谷 日 平木 中列左 から花岡 工 藤 松川 後列左 から大中 山本 中上 佐藤 竹 内 福藤 栗林 可 能 な 同 好 会 に進 化 さ せていく 必 要 があ 、 るヽア ﹂ などを 考 は し H柱 ち ︱ス選 定 に十 、 。 意 しま した 結 栄 こ 札 幌 近 郊 0 カート によるセルフプレーが 可 能 0 適 正 な料 金 、 な どを 条 件 にコースを 選 定 し 条 件 可能 な 、 。 金 曜 日 と い 9日程 にな り ま した ただ 9 と で午 後 スタート と 月 下 旬 の開修 と い? ﹂ 、 いう わ け には いかず そ のた め 現 役 世 代 の 参 加 が 難 しか ったよう で昨 年 よ り 1純 少 な く な ったこと が反 省 点 です 。そ れでも 少 、 数 精 鋭 といいま す か 3組 n名 の岩 内 高 校 。 同窓 生 が参 加 してく れま した 、ク ︼ H は大 依 にな ま れ ケ ガのな いよ う 、 にクを 合 吉求 にスタートしま したが 変 化 に 、 富 んだ コースと 難 し いグリーンに悩 ま され 回ち た よ う な スコアを 出 せ な いで終 わ って ,で し ま った方 も 多 く 、 落 胆 す ることし き ︱ した. 、 プ レー諮 了 後 2 フブハウスに戻 う 岩内 お よび 近 郊 の物 産 を 賞 品 に表 彰 式 を 行 いま した 。思 う 存 分 打 ち 込 んでいただ く た め、 カット なしのダブルペリヤ方 式 で順 位 を決 め ま し たが 結 果 は以 下 の通 り です 。順 位 賞 の他 にドラコンな ど特 別 賞 を 設 け ており ま した が 、結 果 的 に賞 品 は参 加 していただ い た皆 さんに概 ね均等 に行 き 渡 り ま した 0ネ 今 回 は久 方 ぶり に芝 西 さんがグロス8 ︲ 6と つ ット 7 い 索 晴 らし いスコアで優 勝 し 、 ま し た 。ま た 飛 ばし 度 の惟 命 きんと 一派 若 い遠 藤 さ んがドラP/貨 を 獲 得 したのは 、 さ す が でした し 鶴歳 の藤 井 先 生 も マナー 茂 芝西新也 楠 本泰史 山□忠義 左から藤嶋正紀 橋 野 ゴi"霧 喪 同喬ヨ│ゴ ルヲ同"ヨ切餞 平 成2 5 年 1 2 月2 5 日 啓 濤 ) 32 号 (3)(第 ! 思師 ︲ S2 藤井 昭吾 ︵ ︶ ! 岩 内高 等学校 佐藤 敏行 ︵ 学校 長︶ 尾形 友秀 ︵ 教諭 ︶ 一 岩内 町 S 坐︶ 町長 上岡 雄 司 ︵ 一 内 方 面 から の同窓生 ︵ 学校 経由 ︶ 岩 5︶ S2 真非 敏 宏 ︵ 7︶ S2 勝 間 慶 一︵ 7︶ S2 馬場柳太郎 ︵ S3 坂井 弘治 ︵ 3︶ 9︶ S3 岡 崎 男 孝 ︵ 2︶ S4 三 田 正夫 ︵ 5︶ S4 今泉 明 ︵ 5 S4 玉村 博 ︵ ︶ 4︶ S5 福嶋 尚之 ︵ 4︶ S5 和崎 洋 一︵ 5︶ S5 栗林 英之 ︵ H3︶ 小林 健 一︵ 卒年︶ ︵ ︶ は旧姓 ! 会員 ︵ 0 S2 年 川 ︵ ︶ 早 一 子 小 林︶ 号 ︵ 尾崎 久 子 ︵ 尾崎 ︶ S6 年 嶋 逸 ︵ ︶ 桂 子 ︵ 上 宗︶ 2 中野︶ 三浦 テイ 子 ︵ 会場 に彩りをそえた曹永俊朗さん(S42年 )の神仙沼などの写真 ! 朧 ― 玉‐ヽ S 7年 ︶加 藤 光 則 川村 弘 利 ︵ 2 8 S2 ︵ 年 ︶吉 田 陸 雄 久 末 満 三 0 S3 年 ︵ ︶小 川 昭 一部 小 島 一 言代 ︵ 小澤︶ 清 水 千枝 子 ︵ 清水 ︶ 岡崎 嘉 彦 花 岡美 保 子 ︵ 花 岡︶ ︲ S3 ︵ 年 九 山 淳 士 高 橋 博 正 ︶ 福鳴 斎 ネ 矢 淳 子 ︵ 大 田︶ 阿部 てる 子 ︵ 鈴木 ︶ 2年 佐 々木 夫 池 田 S3 ︵ ︶ 幹 高橋 末 次 大 谷 3 S3 ︵ 年 ︶高 野美智 子 ︵ 佐 々木 ︶ 谷内 繁 小林 S5 々 年 木 弘 ︵ ︶ 佐 3 和 岡崎 ︶ 久 保 田美 也 子 ︵ 6 S3 ︵ 年 ︶江 本 嘉 徹 藤倉 英幸 西 原 中村 倫 子 ︵ 榊 原︶ 田中 繁 道 富 永 木村 建志 橋 野 出花 ︶ 高 川まち こ ︵ 佐藤 隆 司 S2 ︵ 4年 ︶楠 本 泰 史 濱 埜 平 泉 真知 子 ︵ 得 永︶ 石山 瑠美 子 ︵ 石山︶ 金 森 康 秋 櫻 庭 美津 子 ︵ 舟 山︶ 涌井 章 久 子 ︵ 波 田︶ 近 藤 隆 昌 7年 岡本 S3 ︵ ︶ 五十 雄 0 S4 ︵ 年 ︶前 鳥 孝 治 芝 西 新 也 チ「 昭 隆 要 俊 思 吉 茂 朗 義 啓 一 敬冶 晋 雅 壱 孝 裕 弘昭 6 S4 年︶ ︵ 2組 ︶山 野井朱 美 ︵ ︵ 小山︶ 川村 健吾 渡 邊 哲 規 福 田 公 子 ︵ 福 田︶ 江 川 邦 美 3組 田中 弘 子 田中 ︶ ︵ ︶ ︵ 梅村 弘 子 ︵ 小林 ︶ 四辻 信 子 ︵ 木村 ︶ 鈴木 郁夫 坂東 久 司 同部︶ 鈴木 輝子 ︵ 西 日 孝 行 石谷 新 子 合叩川 ︶ 白子 野 沢 ︶ 堀 川 自 ︵ 細 田 順 子 ︵ 笠井 ︶ 佐 藤 静 子 ︵ 村本 ︶ 古 平 良 子 ︵ 金井 ︶ 4組 ︶小 林 雪枝 ︵ ︵ 北山 ︶ 佐 藤美 智 子 含石田︶ 芳弘 山 本満 智 子 ︵ 広谷 ︶ 石 川 て い子 金褐本 ︶ 5 九 山 年 代 小 形 耕 三 ︵ ︶ 紅 吉 田 圧 司 菊池 ひめ子 ︵ 土 門︶ 久保 雅之 土谷 勇 6組 ︶緒 方 公 表 ︵ 河合 康 子 ︵ 久市 ︶ 上 岡 淑 子 ︵ 林︶ 三村 恵 子 ︵ 真 非︶ 田村 ︶ 西 本真 理 子 ︵ 預 田恵 美 子 ︵ 演 田︶ 下 田 陽 一 平浮 一康 7組 ︶高 橋由 紀 子 ︵ ︵ 渡部 ︶ 福 嶋 哲 哉 和泉 悟 中 川 新 司 8組 ︶工藤 一 本 間 ︶ ︵ 枚 ︵ 神 山 悦 子 ︵ 高木 ︶ 宮 川 和 子 ︵ 分銅 ︶ 9組 ︶長内 寿 美 佐 々木 達也 ︵ 塩 塚き み子 含化岡 ︶ 成 原 啓 子 全同山 ︶ 0 ︵1組 ︶大 野 明美 ︵ 石井 ︶ 岩 井 博 子 ︵ 原︶ 森 あき ら 寺 西 保 佐 藤 俊 司 鈴 木 均 塩 山 秀 男 7 S4 ︵ 年 ︶森 隆 准 大 谷 良 介 和 田 義 一 西 川 幸 雄 石栗 康 三 4 S5 ︵ 年 ︶菅 原由 美 子 ︵ 松 屋︶ 2 4名 ︶ 合計 ︲ ︵ 小倉 啓 悦 市川 浜本 ︶ 公 子 ︵ ︲ S6 ︵ 年 ︶佐 藤 る み ︵ 佐藤 ︶ 一賛次第 岩 内 高 等 学 校 教諭 尾形 友 秀 様 S 仏年 ︶ ︵ 次 回担 当幹事 代 表 挨 拶 寺 西 保 7 S4 ︵ 年︶ 来 賓祝辞 岩内 高等 学校長 佐藤 敏行 様 祝 杯 岩内 町長 上岡 雄 司 様 1 開 別 当 会 宣 言 特 幹 表 代 事 担 6 S4 表 芳 弘 ︵ 年︶ 1 会 長挨 拶 札 幌 同窓 会 会 長 S︲ 九 山 淳 士 ︵ 年 ︶ 3 、 総会 審 議 思師 来室ふじ 紹介 1 前 田 利 文 柿 原 中 里恒 一郎 住 吉 渡部 博 傑 田 島 義 慈 S 3年 ︶藤 鳴 正 紀 ︵ 4 4 S4 年 ︶林 誠 演 岸 ︵ 一 局子 雅 晴 山 本 5 S4 ︵ 年 ︶石 田 和 彦 細 田 上端 隆 一 乾 第 32 号 〉 (4) 〈 平成 25年 12月 25日 左:藤倉英幸さん(版画家)右 :宮永使用さん(写真家) 会場全景 坂井弘治さん(S33年 )のスピーチ 、 かすべ文 芸 ﹂では安 達英 明 氏 の遺 稿 水嶋 勝蔵 ﹁ 、 氏 戸巻 昭 三氏 の随 想 昭和 ■年 卒 の岩内 郷 土史 、 安遥牧 場 は子 供の頃の想 い出 の地 であり 左 側の 。 機 やかな斜 面は冬の恰 好 のスキー場であった 安達家 はみんな美男美女 で敬 虔なクリスチャンで あ った。私 は子供 の頃牛 乳 配 達 のアルバイトをした 。 が 一ヶ月 しかも たなかった 、 西小学 校 の代 用教 員も 一緒 で 当 時は戦後 の物 、 騒な時代 でガラス窓やピアノの幕 などが盗ま れ 梅 、 、 村 鳴 海 安 達 と若 い代 用 教 員 が 一緒 に宿 直 を し 。 ていた 、 大 学に入 った年 の夏 には 梅 屋 の化 粧品 店 でアル 。 バイトをした事 を標かしく想 い出す のである 、 安達 医 院 開院 の時のパーティに札幌 小樽 の名 医 主 に東 京 を含 む東 日本 ︶の動 物 性 蜜白 質 の主 要 ︵ な供給 源 であ ったことが分 かってき ました。東 京 の ませんでした。 し し、2 0 1 1 に中瀬 勝 氏から寄 贈され か 年 。 資料 ︶ から謎 が解 明 されま した そ た貴重 な文 書 ︵ 、 れは 平 たく 言えば当 時 の岩内 にはお金があったか ら、 といつことです。 この文 室具資 料 ︶ を見 ると 、 そ の頃 の岩 内 が日本 師 からは ﹁ 岩内 に不入り無 し﹂と言われたくらい芸 、 能 が好 き な 人 間 が多 く いたから と言う だけ では 。 ﹂ はこ ま の謎 れ で解 明されてい 説 明 がつき ません ≡ ていま 。 す つか。それは、 なぜこんなことができ たのでしょヽ 函 、 葉 座 ﹂があり 興行 館 以北 随 一といわれた劇 場 コ 一 。 あ った 、 、 、 迷 馬 篤 馬 甲 馬 と 馬 を育 てるのは矢 張り牧 、 場と関係 があ るのか 広 い視 野 と豊かな感 性をも っ 。 て世界 中を駆け巡るのであ る 紅白 歌 合戦 の替え歌を作 詞す るから勿論 カラオ 、 。 ケも抜 辞で もう 一度あ の美 声を聞き度い 、 我 々のささやかな集 まりに 娘 さんの運転 で出 る ようになったのは、 実はあ の頃から体 詞が好 くなかっ 。 たのか?迂間であったなあ 合掌 葬 儀 の時 の供 花 が会 場 一杯 四方 に飾 られ納 ま らな準化は廊 下や待合 にも並べられていた。 、 正 面 に飾られた遺 影 は 並中段 通り今 にも 語り か けてくるように微笑 んでいた。 一時 期 岩 内 町 の文 化 振 興 の 一翼 を 担 っていた の 、 は 岩内 高等 女 学校 関係 者 であったのですど石内 高 。 等 女学 校 恐るべし 、 商 店 ︶から9 江 の芸術家 の公演などが目自 押 しに催 された といつ 築 地 市 場 を 始 め各 地 の公 設 市 場 ︵ 。 ことです。 文 書がそれを証明しています さらにフィリピンのマ 、 、 更 に興味 深 いのは これらのお金 がかかる催 しの ニラまで 兼 松商事 を経 由 して塩蔵 開きホッケが輸 、︺ 、 。 は 近 別な資 料 から分 れ 最 道 立︶ 岩 出 されています また キ 畿 つかの主 催 ま たは後 援 を 一介 の庁立 ︵ 、 スケトウダラの乾 内 高 等 女 学校 ︵ 以 下高女 ︶同 窓会 が行 っているとい かったことです が 韓 国 へも 明 大 ︵ 、 4 ヽ 19 48年 5月 1 2︶ とです。例 えば、 日 で 物︶ が大 量に輸 出され 昭和 数年頃には韓 国陸 軍の 二 葉 座 、 。 糧食 にもなっています 歌 劇 カルメン﹂公演 同年 行 われた東 京 歌 劇協 会 ﹁ 、 6月 1日 この内 での商 取引 で得 たお金 が広く 町内を 潤 を主催 での 1 外 万 生 座 ﹁ 石 井 漠 舞 踏 会 ﹂ 公 演 、 したのです。そして、 8 月 3日高 女 講 堂を会 場 にしての武蔵 野音 楽 大 そのお金 の 一部 が ひょっとし 、 、 たらかなりの部 分が 高女 同窓会会 貝へも回って行 っ 父 福 井直秋氏は武蔵 学教授 福 井直俊 直弘 兄弟 ︵ 、 、 、 。 野音楽 大 学創 立者 であり 岩内 高等 学校 校歌 の作 ヽ た のです その結 果 大 胆 な ことを 言えば 戦 後 の ピアイ ヴァイオリン演奏会 ﹂は後 援し 曲者 ︶ による﹁ 0 ● 110● 110 0 110 ● 1100 110 ● ︱10 ● ︱10 ● 1 0 ● 110 ● 1,0 ● 11 0 ● 110 ● 110● 110 ● 110 0 110 ● 110 0 110 ● ︱10 ● ︱10● が 大 勢 招 待 さ れ そ の数 の多 さ に驚 いた も ので ぎ 葬醤 講や 毛試葬中 初 代 岩内 部長 築 瀬 研究家 森 柳司氏 の寄稿 ﹁ も掲載 真 精伝 衣 二期 生会 員 築瀬真 実 氏の父君︶ 。 されている。その他、 各地 の短信 消息 なども 、 表 紙題字 は故 山岸 正己画伯 の筆 表 紙絵は千葉 県在 住 の会 貝 中山 裕氏 の筆 による関東 平 野を 栗 山 川 ﹂の風 景画 で飾 ら 蛇 行 して大 平 洋 に注 ぐ ﹁ 。 れている このよう に立 派 な本を毎年 欠 かさず出 している 、﹂ も 同期 会 は他 にな く ヽ れ 偏 に小樽 在 住 の瀬 川 二 同から感謝 の的に 夫 氏 のご努 力 によるも ので会 員 一 なっています。 。 活 動されている会 員は次 の方 々です 今泉 武 岩 城礼 三 戸巻 昭 三 瀬 川 二夫 永 井清保 中山 裕 藤井 昭吾 水嶋 勝蔵 とでした。 とばかりではありませんで しかし、 敗 戦は悪 ど ﹂ した。﹁ り んごの歌 ﹂と共に民主 主義 がやってきたの 0年 代に植 木 枝盛 に代表 される です 。遠 く は明治 1 ちた ﹁ 各 地 で巻 き 起 ヽ 草 の根 憲 法 運 動 ﹂に携 わった り影響 を受 けた人 々や、 大 正デモクラシーで青春 を 、 こ の制 度 を歓 迎します 。そ 過ごした国 民は 大 いに, 、 、 の象 徴が 19 46年 4月 初めて女 性に参 政権が 与 えられた総 選 挙 と 1 9 4 7年 4月 に実 施 され 。 た 一斉選挙 です 、 その選 挙 の 一つ 岩 内 町長 選 挙 で当 選 したのが 。 清 水 武夫 でした 新 町長清水 はさっそく合願 であ っ た町 民 への情 報 の提 供 と収 集 のための手 段 として 。 2年 8月 から発 公 報岩 内 ﹂を発 行 しま す 昭 和 2 ﹁ 、 行 された ﹁ 公報 岩内 ﹂は単 に岩 内だけ でなく 戦後 、 の混 乱期 物 資 不足 の苦 しい国 民生 活 の様 子が分 。 かります 。 しかし、 岩内 ならではといつ出来事 もあります 、 それは 1 9 4 7年 8月から翌年 7月 までの公 報 を見ても、194 7年 8月の全 国自 転車競技大 会 、 、 から始 ま り 1 9 48年 5月 2日 局 外 で初めて 、 遊楽 鏡 ︶国内 一流 行 われたNHKのど自 慢大 会 ︵ ことを地 でいった出来事 でした。] 石内 町 民は敗戦 と 、 占 領 されている といつ現実を ひしひしと感 じたこ と で? ﹂ とにして、 とり あえ ず 収 めた のではないか といつ と思 いま す 。正に泣 く 子と地 頭 には勝 てぬ、 0 ● ︱10● 十!0 ● 1,0 ● 110● 110 ● 110 ● 110 ● 110 ● ︱ じ 町 橘 町 吹 上 町 鷹台 町 稲 穂崎 八幡 通﹂などの 。 懐かしい名前 も見 える さらば ドクター アダチ﹂ 態 井昭吾会長 の巻頭言 ﹁ 、 では 会 員 で永 く 一緒 に活動 された安 達 英 明氏 の 、 死 を悼んだ 一文 が掲載 されると共 に 多 く の想 い 。 5年 度 定 期 総 出 の写真 も 掲 載 されている その他 2 、 、 、 会 の模様 み年 度 の会 計 決算 同期生 名簿 物 故者 、 7 の 名 所の 名 簿 昭和 1 年 入 学 時 生 名 保 護 者 住 徒 。 おもな 御 鉾内 ︵ 一覧もあ る 住 所 名には今 はな い﹁ .年卒 の 報 かすべ些 一 S2 旧制 中学 一一 期 生会 ︵ ︶会 ﹁ 。 〇〓一 年 号が発刊 された かすボ 、 0月、 は 19 4 5年 1 占領軍 岩内 の終 戦 ︵ 敗戦︶ 。 米 軍︶ が岩内 に進 駐したことから始 まりま す 彼 ︵ らの任 務 は泊 村 の茅 沼炭 鉱で働 いていた朝 鮮 人労 。 働者 対策 でした フイリップ中尉 を隊 長とす る進 駐 、 監視 ︶ 軍は南 河旅館 の 三階六室を借り 上げ 任務 ︵ を 開始します。 、 、 そして 1 9 4 6年 1月 警 察 署 の視 察 を終 え 、 、 た中 尉 は 役 場 に赴 き 町 長始 め町会 議 員 校 長 や 、 町の有力 者 を集 め 現 町長 の解 職 と新 町 長を女 性 を交 えた普 通 選 挙 で行 う ことを 宣 言 します 。いわ 。 ゆる ﹁ 岩内 町 長 識首事 件 ﹂の始 ま りです この事 件 、 は道 庁 道議 会を巻 き込んだ大 騒動になりますが 、 ヽ とで収 まります。 スとい2 ﹂ 結 局は 地 元通訳 の ヽ しかし、私は、 この発 言は実 際 にあ ったと思 ってい 、 ︲ ます。2 歳 の若 い中尉 が 占領 軍の権威 を嵩 に掛 け 、 まだ旧憲 法 時 代 ︶に無 知なま て 当時 の選挙 制 度 ︵ ま 一方 的な発 言をしたのです。 札 幌 にあ った 米 軍 司 令 部 も この処 理 に困 り ま 、 。 す 中尉 の発 言 通りに選挙をす るには まず 選挙の 、﹂ 。 れは 仕 組 みを変 え なく てはなりま せん しかし ≡ 、 。 無 理な相談 です そこで 結局 地 元通 訳 の通 訳ミス iⅢ■ 平成 25年 12月25日 腎 濤 ) 32 号 (5)(第
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