乗合自動車 ―耐えて忍んで七円五十銭

乗合自動車 ―耐えて忍んで七円五十銭
大正八、九年、浦河にも自動車が走りはじめた。当時、 最も多く出まわっていたT型フォード車は
五人乗りだったが、そんな小さな車に七人も八人も客を詰めこんで、汽車の出る富川まで運行してい
た。ちょうど小型バスの役割を果たしたこの自動車は 乗合自動車 と呼ばれた。
乗合自動車出現前の浦河の陸上交通は、唯一、乗合馬車だけだった。大正七年、堺 頼吉は、支庁
庁舎建て替え視察のために来浦する俵 孫一北海道長官を、二頭立ての馬車を購入して、富川まで出
迎えている。長官ですら馬車にゆられた時代、一般庶民にそれ以上のものがあるはずはない。
大正八年、高木アサの弟が亡くなったときには、アサの姉が室蘭まで駆けつけたが、馬車と汽車を
乗り継いで三日もかかったという。浦河から富川までが二日がかりだった。それが自動車に乗れば、
わずか数時間で着くという。まるで夢のような話だった。
浦河にも自動車を走らせよう 高津弥三吉は有志と共に自動車四台を購入し、富川まで一日二回
運行した。大正八年のことだという。また武中石松は、十八歳になった弟初蔵に免許を取らせ、鳧舞(け
りまい)の原口、静内の伊藤など、大手金貸しから金を借りまくって念願の自動車を購入した。当時、
T型フォードは一台三千五百円、家三軒分の値段だった。注文した車は梱包されて小樽の港へ着く。
自動車に塗ってあるサビ止めを洗い流してから、浦河まで初蔵に運転させて戻った。石松が乗合自動
車会社(日高乗合自動車株式会社か?)を設立したのは、大正九年のことである。また堺 頼吉が、
奥田惣兵衛らと自動車三台を購入したというのもこの頃で、大正十年の浦河港の起工式には、宮尾舜
治北海道長官を乗せて走ったという。
しかし当時の粗末な造りの自動車は、道路事情の悪さや無理な運転により、じきに故障し、廃車に
なった。新しい部品は容易に手に入らなかったし、修理する技術もなかったのである。こうしたわけで、
自動車を手がける者が現われては消えてゆく。大正九年の秋から逓送(ていそう)の仕事についた伊
野清作によれば、いっとき、浦河には使用可能な自動車が一台もなかったこともあるという。
故障だけでなく、事故もずいぶん多かった。武中石松がつぎつぎと社名を変更(大正十三年 北日
本自動車株式会社 、同 十五年 日高自動車合名会社 )したのも、やがて自動車業界から手を引く
ことになるのも、この事故のせいだった。自動車学校の試験官だった岡田某(後の北海道自動車学校長)
でさえ、自動車に乗りたくて石松から借り出した車を、崖から落としてダメにしてしまったというく
らいだから、運転手のせいばかりではなかったのだろうが ・・・・・・。
しかし多発する事故や故障にもかかわらず、 乗合自動車はどんどん需要を伸ばしていく。個人で営
業を始める者も多かったようで、「荻伏百年史」には、大正十一年から十三年頃に営業していた者と
して、 甲 政夫、武中孝之助、川村、石田、 木村らの名前が記されている。車体に赤い線を入れた通
称 赤線自動車 (木田浅夫経営)がスタートしたのもこの頃で、車種はダッチ。T型フォードに比
べてタイヤが太く、パンクも少ないということで、いつも あっ というまに満員になった。
大正十四年八月、伊野清作は苫小牧からの帰りに、厚賀からこの赤線自動車を利用している。この
日の乗客は十一人。定員をはるかに超えていたが、人の膝の上といわず腹の上といわず押し込まれた。
荷物がすべてボンネットとスペアタイヤにくくりつけられると、自動車は轍(わだち)の残るデコボ
コ道を、土煙を上げて走り出した。途中有勢内(うせない)のあたりでは海岸を走った。潮の引いた
砂浜は、水を含んでパンパンに締まっていて、国道よりよほど走りやすい。三石を過ぎると今度は山。
鳧舞山道を走る。幾重にも曲がりくねった道で、車はひどく揺れた。後の話になるが、初めてこの道
を通った杉本ミツエなど、いったいどんな山奥へ連れていかれるのかと、心細くて涙が出たという山
道である。やっと浦河へ辿り着いたときにはクタクタに疲れてしまったという。
このとき清作の払った運賃は七円五十銭。米一俵分以上の値段だった。もちろん乗合自動車を利用
するのは、一部の金持を除いては仕事や病気、親戚の不幸に駆けつけるなど、特別なときでしかなかっ
たが、こんなふうにビックリするような料金を取られても、いつでも自動車は満員で、予約しても三
日も待たされることすらあったという。
赤線自動車の出現に前後して 金線自動車
白線自動車 と呼ばれる自動車も運行していた。現三
和運輸社長藤江 助は、昭和二年八月に庶野へ行くとき、
幌泉(現えりも町)までこの白線自動車に乗っ
ている。当時 赤線 が浦河・富川間を走っていたのに対し、
白線 は浦河・幌泉間の権利を受けて
運行していたのだという。
しかし昭和六年には、最大の規模をほこっていた日高自動車合名会社も金線、白線自動車などとと
もに、この年設立となった 日高自動車株式会社 (社長谷 万吉、
専務取締役出口慶二郎)に吸収され、
十四、五年には赤線自動車もこれに統合された。一方大正十五年に静内まで開通していた国鉄は、よ
うやく重い腰を上げて、昭和八年三石、同十年浦河、同十二年には終点様似へと延長された。この国
鉄の開通は、昭和六年から走りはじめた日高自動車株式会社所有の二十五人乗り大型バスの出現とと
もに、ますます増えてくる旅客の需要に応えることになった。
[文責 河村]
【話者】
中野 誠士 浦河町大通五丁目 明治四十一年生まれ
藤江 助 浦河町東町かしわ 大正十年生まれ
武中 進 浦河町潮見町 昭和四年生まれ
塚田 正吉 浦河町大通二丁目
明治四十年生まれ
伊野 清作 浦河町堺町西 杉本 ミツエ 浦河町常盤町 高木 アサ 浦河町堺町西 明治四十一年生まれ
大正五年生まれ
明治二十七年生まれ
【参考】
荻伏百年史 昭和五十八年 荻伏百年史編さん委員会
堺家四代目の回顧録 昭和六十三年 堺 寅吉 私家版