LAの日 - 自由学園

リビング アカデミー LAの日
2016年11 月 12日 (土)
前日の激しい雨も上がり、素晴らしい秋の青空に迎えられて「第
6回LAの日」が、学部棟で開催されました。教室のある学部棟か
ら、朝は冠雪した美しい富士山が望めましたが、開始時刻には地平
線にうっすらと雲がかかり、その姿を楽しむことができず残念でし
た。
讃美歌 313 番を歌ってから、学生の柏木正之さんが、
「忘れられ
ない人」として、
「学生時代に優しく厳しく接して下さった恩師の
母上」の話をされました。
第 6 回サロン講座
江戸時代に学ぶ (要旨)
自由学園 最高学部学部長 渡辺憲司氏
(注) 講演後半の「芭蕉について」をまとめました
●歌は、神・恋人・仲間との交歓
文字を持つ以前から口承の形で歌がありました。最初は宗教的なもので、
『古事記』でも『日本書紀』
でもずっと昔から“挨拶”という意味を持っていました。神と人間との交流、恋人同士の交歓、仲間との
意志の確認という性格があります。
神様に奉納するというのが連歌の基本形で、神社には必ず能楽堂と連歌堂が左右にありました。
例えば、明智光秀が出陣をする時に連歌の会をします。そしてお互いに「行くか」と、意志の確認を
するわけです。
常に形式を重んじながら続けていくのが連歌ですが、それをちょっと崩して俳諧が生まれます。俳諧
は、いわばパロディー。
『源氏物語』を『偐紫田舎源氏』というふうにパロディーにして、滑稽化・卑俗
化していくわけです。
それがあまりにも乱れていくので、松永貞徳が格言や和歌を踏まえたものをつくろうとしたのが貞門
という俳諧でした。京都ですから、公家や町衆と呼ばれるある種の品位をもった人達が参加していまし
た。それが町人に広まり、西鶴を中心とする談林というグループが生まれ、徹底的に俗語を使います。
それではあまりにも詩性がないというので、改句に乗り出したのが松尾芭蕉でした。
●夢破れて江戸に下った芭蕉
松尾芭蕉、伊賀上野の農民居住区の赤坂町に二男四女の次男として生まれました。殿様は内藤家。今
の上野公園は内藤家の屋敷跡です。
次男であったので家を継げず、藤堂家の嫡男・良忠のお
守役になります。ところが芭蕉の 2 歳年上の主君は 25 歳
の若さで亡くなってしまいます。
出世の夢が破れて、三十番句合『貝おほひ』を主催し、
これを伊賀上野の天満宮に奉納して文運を祈り、俳諧師と
して立つために江戸に下ります。
その頃、俳壇は上方で新旧両派の論争が泥沼化し、末期
状態を呈していました。弟子の句に点をつけて収入を得る「点者」として暮らしていた芭蕉は、自らの
耽溺するイメージの世界と、大衆迎合を余儀なくされる現実のギャップに悩み、点業を廃止して深川村
に退隠します。
ところが、天和二年末、江戸の大火で庵は焼失し、再建はされたものの、むなしさを悟った芭蕉は「旅
人」として生きる覚悟で一歩を踏み出すのです。
●野ざらし紀行
冒頭に「千里に旅立ちて、路糧を包まず、三更月下無何に入る」と書いています。千里を行く道中の
食糧を準備しないで帰路を絶つ、三更とは真夜中、月の下にただ一人で旅をする、という覚悟ですね。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
野ざらしの「さらし」はしゃれこうべのこと、水で晒すという意味です。野に行き倒れて髑髏となる
覚悟で独自の俳風を確立するために旅に出よとする時、秋風が心にしみることよ、という句です。
「秋十年却つて江戸を指す故郷」
2 句目です。良い句ですね。10 年、江戸に住んだら、実は江戸は故郷だったんだなという心境です。
●ヒューマンと現実を鋭く問う
「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れに泣く有り。この川の早瀬にかけて、浮世の
波をしのぐにたへず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明
日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに」
「猿を聞く人捨子に秋の風やいかに」
富士川のほとりに三つばかりになる捨て子が哀れに泣いていた。この川の早瀬を見るにつけても、そ
れにも比べられる浮世の波をしのぐに堪えず、この露ばかりの命として死んでいくのか、命を待つ間と
捨てておいたのか。小萩のもとの秋の風によって、今夜、死ぬのであろうか、明日死ぬのであろうか。
袂から食べ物を投げて通っていったというんですね。
中国に猿の声を聞くと断腸の思いがするという詩があります。その詩人たちは現実の捨て子を前にし
てどういうふうに思うだろう、手を出すことができない場合がほとんどですよね。現実を鋭く問いかけ
ているわけです。そして文芸を媒介としてその悲しみを感じている。ヒューマンと現実のアンビバレン
トな二元性を持った感動を述べているわけです。
●最後の到達点は「軽み」
芭蕉は大阪の御堂筋で亡くなります。奥の細道から帰った直後、あこがれの長崎に行く途中でした。
その前に奈良に寄ります。芭蕉最の旅の途中の句です。
「ぴぃと鳴く尻声悲し夜の鹿」
同行していた支考の作。
「鹿の音の糸引き映えて月夜かな」
どちらが詩的かというと、支考のほうでしょ。しかし、ぴぃと鳴くとか、尻声とか、俗物的な表現の
中に実景として鳴く最後の音が悲しいといっている。そこに芭蕉の句のおもしろさがある。自分の悲し
みとか寂しさを表現している象徴がこの句だと思います。
芭蕉が晩年に到達した境地は「軽み」でした。我々が今、必要なのは軽さなんです。
「今時の若者はダ
メだ」などと説教をするのじゃなくて、軽く、フェザーに生きること。芭蕉が年を取って到達したのは
「さび」への興味ではなく、
「軽み」だったということを感じ取っていただければ幸いです。
●江戸時代面白話
江戸時代で長屋で教えている 6 割は女性です。
お宿さがりの女性や遊女たち。遊女には字が必
要、つまりラブレターを書かなければなりません
でした。
現在は、犬は繋がれ、猫は繋がれていません。
しかし室町の末まで、猫は繋がれていました。有
名な のは『源氏物語』で、猫の紐がすだれに引っ
かかり、柏木が女三宮を見るという情景です。
犬は繋がれてないのは、犬は汚物を食べてくれ
るからです。絵双紙を見ても犬は繋がれていません。
それが、ネズミが大発生して農作物を荒らすようになり、猫を放すんです。それ以来、猫は放たれち
ゃいました。
猫の代わりに愛玩用になったのは犬でした。唐犬やチワワが江戸で流行り、それを繋がなければなら
なかったので、それからは犬が繋がれることになりました。
芭蕉を中心にお話しましたが、江戸時代の面白話はいっぱいありますので、またの機会をご期待くだ
さい。
サロン講座のあと、全員で「リビング賛歌」を斉唱し、そのあと、外に出て春を思わす日射しの
中、学部棟前で「生活体操」をしました。
昼 食
しののめ茶寮と学部食堂に分かれて昼食をとりました。
献立は、 食パン
クリームコーンシチュー
グリーンサラダ
牛乳と紅茶
熱量 790.15Kcal
蛋白質
30.12g
脂質
34.20g
カルシウム 240.24mg
鉄分
午後の活動
2.61mg
です。
皆で美術工芸展尾の準備
午後は、11 月 19,20 日に開催される「自由学園美術工芸展」への出展の準備をしました。
「美術工芸展」は、全校が参加して4年に一開催されます。4 月開校のLAも参加して、LAクラスで
「学び、創作した作品」を、LAの教室を使って展示することにしました。
展示は「樹木の樹拓」
「染色」
「箱貼り」
「カトラリー」
「木工」が参加することにして、そのクラスの
人は自分たちの展示の準備、その他の人達は、会場の装飾や案内版の製作をしました。
美術移工芸展の様子は改めてご紹介します。
染色
何をどのように展示するかを相談する
カトラリー 作った食器を使って、テーブル・セッティング
樹 木 樹拓の展示のための説明や関連資料を整える。