1 ルカによる福音書15章11~32節

ルカによる福音書15章11~32節
「優しさに心を開く」
水曜日から、韓国グムホ教会から来られた短期宣教チームと行動を共にして、一緒に過ご
させていただいています。遠いところから、また忙しさに追われている中で、わざわざ、日
本に来てくださり、この板宿教会を目指して、ここに来て、今ここに居てくださって、本当
にありがとうございましす。
私は牧師として、グムホ教会のチームの方々と一緒に過ごさせていただけるという特権に
あずからせていただいていますが、その中で、 チームの方々と関わり合いながら、この数日
間、特に感じましたことは、私の心が閉じていたということです。それは、人に対しても、
神様に対してもです。そして、とてもオープンな心を持ったグムホ教会の方々と触れ合いな
がら、私の心の閉じた部分が、いつもノックされているように感じていました。
心が閉じているということはどういうこと でしょうか?私の場合にはそれは、心が、相手
を信頼し切れていない状態にあるということです。私たちが普段、夜に玄関の鍵を閉めるの
は、泥棒や不審者が家の中に入って来られないようにするためです。それはもちろん、泥棒
には信用が置けないからです。けれども、私の 心にも、そんな部分があった。相手を信じず
に、神さまを信用せずに、心の扉を閉じている部分が 自分にあったと、気づかされました。
もっと人を信じていいし、もっと、神様がなさることに信頼し、期待して、大胆に踏み出し
て言っていいんだと、大きく神様に祈り、多くを神様に求めていいのだと、ぐむ教会の方々
から、私は学びました。
今日、初めてこの教会の礼拝に来てくださった方もおられるかもしれません。 その方々を
心から歓迎いたします。ようこそおいでくださいました。始めて来られた方、また久し振り
に来られた方は、今、とても緊張しておられるのではないかと思います。なぜなら、この教
会が信用できるか、牧師の話が信用に値するか、そしてこの聖書が語る神様という方が、信
頼できるかどうか、まだ分からないからです。そんな簡単に、心なんか開けるものでは あり
ません。けれども、この聖書が語る神様は、そんなあなたの 開きづらい心をよくご存じです。
そして神様は、簡単に開けるようなものではないこの心の前まで来てくださって、どうされ
るかというと、無理やりこの心をこじ開けるようなことは、絶対にされ ずに、ただ、
「 おいで!」
と、自分から両腕を開いて、招いてくださいます。そして、その招いてくださる神様は、私
の顔や体では、とてもその千分の一も表現できないぐらいに、優しいのです。
キリスト教において、神様を知るということは、難しい特別な知識を手に入れるというこ
とでも、何かの悟りを開くということではありません 。また、何かの修行や苦行のようなこ
とをしなければ、神様に出会えないというのでも全くありません。神様に出会うということ
は、それは、優しさに出会うということです。優しい神様が、
「さあおいで」と言って招いて
くださるので、その声に合わせて、心を開く。その時に、本当に、水門を開いたら 、向こう
から水がどっと流れ込んでくるような仕方で、神様の優しさが、自分の心に流れ込んできて、
その優しさに包まれて、自分が大切にされていることが分かる。その時、心が、芯から和ら
ぐ。これが、神様との出会いです。
そして、この神様の優しさを、非常に分かりやすく語っている有名なたとえ話があります。
それが、今朝の放蕩息子の譬えです。私たちは、これを読めば聖書が分かると言われる程の、
このたとえ話を、この登場人物に私たち自身を重ね合わせるよう にしながら味わって、優し
い神様に、御一緒に出会いたいと願っています。
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まずこのたとえ話しは、大変ぶしつけな、弟息子の言葉で始まります。12 節の御言葉です。
「弟の方が父親に、
『お父さん、私がいただくことになっている財産の、分け前をください。』
と言った。」 とあります。 これは、生前相続という、父親が恐らくまだ 元気なうちに、遺産
の分け前をもらうという要求です。私たちの社会では、こういうやり方も可能だと思います
が、この弟息子の要求は、聖書が書かれた中東の世界では、 今でも昔でも、父に対する、大
変侮蔑的な要求なのだそうです。それは言うなれば、
「 私は父さんが死ぬまでとても待てない。
いっそ早く死んでくれ」と、そういう風に、父の死を願うことに等しい行為なのだそうです。
そんなやり方をして、父親から相続を受けた弟息子は、すぐにその遺産をきれいに売り払
い、お金に換えて、サッサと家を出て行きます。これは、家族からの絶縁であり、彼が生ま
れ育ってきたその社会からの絶縁を意味します。もう帰ってくることはできません。けれど
も、弟息子は、喜んでそれをやる。彼は、
「自分がここに帰ってくることはもうない。自分は
異国の地で新しく生きる。そこで成功をおさめる。それこそが自分の人生なのだ」と、固く
信じているのです。けれども父親は、その息子の無礼な要求を聞き入れてしまうのです。な
ぜでしょうか?それだけ父親は、息子を信じているからです。父親は、息子の敬意を欠いた
要求に、口を差し挟むことさえできない程に、弟息子のことを深く愛し、息子の意志を尊重
してあげているのです。
この父親の姿は、神様の姿を表しています。神様は、愛に条件を付けられません。よくで
きる息子だから、財産を与えるのではなく、お金の使い道をよく考えているからあたえるの
でもなく、お願い事が理に適っているから答えるのでもなく、ただ自分が、息子を愛してい
るから、持っているものを与えたい。息子に喜んでもらいたいと思っている。 愛しているか
ら、その相手を信じ信頼する。それだけです。神様の心は、無防備すぎるぐらいに、オープ
ンです。神様は、私たち一人一人のことも、こういう目で見てくださる。自由にさせてくだ
さる。たとえそれが変な要求であったり祈りであったとしても、それに答えてくれる父親、
それが神様です。
しかし、出て行った弟息子は、父親から得た財産を 、たちまち湯水の如く使い切って、み
るみる落ちぶれてしまします。14 節から 17 節をお読みいたします。
「何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚
の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆をたべてでも、腹を満たしたかったが、食べ物を
くれる人は誰もいなかった。」
ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物です。その豚の餌にさえもありつけない。弟息子は豚
以下に落ちてしまいました。そこで弟息子は、 もうどうにもやっていけないので、ただ、生
き延びたいという一心で、家に帰ることにしました。本来、もう実家には帰る場所がないの
で、弟は、息子としてではなく、当然叱られるだろうけれども、雇い人の一人としてならば、
どうにか実家に滑り込めるかもしれないと思い、かなりの低姿勢で、実家に帰ろうとします。
18 節から 19 節です。
「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父
さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人に
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してください。』」
これは、父親の前で言うセリフのリハーサルです。弟息子の心は閉じて、緊張しています。
自分から出て行っておいて、また戻ってくるという、いかに都合のいいことを自分がやろう
としているか、かれは知っていますから、弟息子は緊張しながらも、とても警戒して、父親
から雷を落とされることを想像しながら、そろりそろりと実家に帰っていきます。
けれども、弟息子は、地元の村に入るなり、両手を広げて、こちらに 向かって駆け寄って
くる父親を発見するのです。父親は、村の入り口でずっと弟を待っていたのです。そして息
子が見えるやいなや、駆け出して行って、その首を抱き寄せました。さらに弟息子がまだ、
謝罪の言葉さえも口にしていない先から、父は、和解の接吻をして、 彼を赦してしまうので
す。叱るなど、とんでもない。父は喜びにあふれて息子を腕に抱きました。弟は、父親の大
きな優しさに出会いました。
まさか、こんな自分を父が赦してくれるなんて、想像だにしなかった。謝っても 、赦して
くれるとは思わなかった。あんな悪いことをして、父を裏切って 、傷付けたのは、この自分
の方なのに、父親は、こんな私を愛してくれていた。心に壁を作る必要はなかった。父親の
腕の中で、その優しさに、弟の父に対する心の扉は、この時初めて開かれました。弟に向か
って駆け寄ってくる、この父親の姿が、御言葉の中に見えるでしょうか?神様と人間の出会
いの瞬間を、この場面は描いています。
この時、父はそれを指して、「この息子は、死んでいたのに生き返った。」と、喜びの声を
あげました。こういう父親の、すべてを赦す大きな優しさに包まれると、どんな人でも、ど
んなに大きな失敗を犯した人でも、人はまた新しく立ち上がることが出来る。生き返り、人
生を生き直すことが出来ます。この聖書は神様のことを、父なる神様と呼びます。このよう
な優しい父のもとに帰り、父にすべてを赦され、受け入れられて、 生き返るようにして歩む
新しい人生、神様に出会うことの幸せが、ここに描かれています。
そして、父親と、自由気ままに放蕩の限りを尽くした弟息子との、劇的な一部始終が語ら
れたあと、たとえ話の第二幕に、今度はまじめな兄息子が登場します。兄息子は、弟は反対
に、大袈裟な失敗はしていないように見えます。けれども、 実はこの兄こそが、この放蕩息
子のたとえ話の中心です。これは、放蕩息子の譬えと呼ばれていますが、実は、放蕩息子と
は、弟のことではなく、兄のことなのです。その兄に力点を置いて、主イエスはこの話を話
されています。なぜなら、この時主イエスの周りを取り囲んでいたのは、律法学者とファリ
サイ派たちという、当時最も権威があり、まじめ で、人々からも一目置かれていた、そうい
う意味ではこの兄息子の生き写しのような、宗教家たちだったからです。
兄の方は、放蕩生活の中からではなく、畑から帰ってきました。つまり彼は勤勉に仕事を
していました。その仕事帰りに、兄は召し使いからこう聞きました。27 節です。「弟さんが
帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」
それを聞いた兄は激怒して、家に入ろうとはしませんでした。
27 節には、そんな兄を、「父親が出てきて、なだめた」と記されています。この言葉の解
釈が大事だと思うのですけれども、当時の中東地域の慣習においては、家で祝宴を開く際、
その家族は、全員がその祝宴の席の正面に座っていなければならず、特に父親は、常にその
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中心にいて、もてなしている客人たちと共に、宴席に座っているのが礼儀でありしきたりだ
ったそうです。ですので、自宅で祝宴が行われている真最中に、ホスト 役である父親が席を
外して、客人たちを残して家の外に出るということは、 ありえないことで、それは、当時に
おいては、家長の権威が失墜するほどの恥ずかしい行為であったそうです。弟の帰還祝いの
宴会に出ない兄息子は、その父親の立場をよく知っていて、けれどもそのうえで、敢えて父
を公衆の面前で侮辱するために、祝宴の真っただ中で怒りを露わにして、家に入ろうとしま
せんでした。この状態は、実は、兄息子による、弟とはまたかたちを変えた、一種の家出で
あり、父親への裏切り行為です。弟息子が帰って来たのに、実はここに、まだ父のもとに帰
って来ていない、本当の放蕩息子がいるのです 。
父は、ここで、こんな兄のことを叱ることができたはずです。
「どうしたんだ、お前は長男
だろ」と、
「話はあとでゆっくり聞くから、今は宴会に加わるのが筋だろう。そうやって私の
メンツをつぶして、何が面白いのか」と、父は言うことができた。けれども、父親は、当時
の習わしを破って、自ら祝宴の席を立って、客人たちの間を通って、家の外に出ました。あ
る研究者は、この父について、
「祝宴のテーブルから立って、客人たちの面前で家を出て、兄
息子のところの向かっていく父の姿は悲痛であり、兄の露骨な侮辱に耐えている。それは、
弟息子を迎えるために、あたふたと走っていく様よりも、さらに犠牲的でさえある。」と語っ
ていました。この解釈は、今朝の私たちにとって、助けになります。 そして、ここには、か
つて弟息子を迎えるために、村はずれで待ち続けて、走り寄って首を抱いたあの父親の姿が、
もう一度繰り返されています。
弟は、先程この段階で、
「お父さん」と言って罪を告白したのですけれども、しかし兄の心
は、もっと頑なに閉ざされていて、この期に及んでも、兄はさらに強く、父を非難しました。
29 節からの御言葉です。
「兄は父親に言った。
『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕え
ています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会を
するために、子ヤギ一匹すらくれなかったではありま せんか。ところが、あなたの息子が、
娼婦どもと一緒にあなたのしんしょうを食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠ってお
やりになる。』」
自分で語っていますように、兄は何年もの間、立派に、父に従い続けてきました。けれど
も、不従順な弟息子の赦しによって、自分のそれまでの従順が、ひどくないがしろにされた。
自尊心を傷付けられた。何という意地悪、なんという 不公平なえこひいきを、あなたはして
くれるのかと、私はそれを赦すことができないと、顔が焼けるような怒りをもって、兄は、
この言葉を父親に吐き捨てています。
兄の心は、固く閉じていました。弟に対しては、
「もうあいつとする話は何もない。こちら
にはもう近づいてくるな!」という気持ちで不信感を持ち、父親に対しても、 兄は、何もな
しに弟を赦してしまうその優しさが理解でき ませんでした。
心を開けない時、私たちは、自分は一人ぼっちで、誰も自分のことを分かってくれていな
いと感じます。きっと、父親も、神様も、弟も、家族も、みんな、この自分の思いを分かっ
てくれていないんだと。だから何を言っても通じないんだと思ってしまう。 そこからさらに
心を開けなくなるのですけれども、主イエスはこのたとえ話を通して、そんな風に心を閉ざ
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していなくてよいのだと、もっと人を信頼し、また神様に自分が受け入れられていることを、
本当に信じて良いのだと、語ってくださっています。
私は、本当にみみっちいなと思いますけれども、他人が褒められたり高く評価される時に、
なんで自分じゃないのかと、自分が傷つくことがあります。他人との比較で、自分を見てい
るからです。
そしてこれが、兄の中にもあった思いなのだと思います。弟と比較して、自分が上に居る
時には、自分は OK で、自分は愛されるに値する人間だと考える。そして父親も、そういう
目で自分を条件付きで評価しているに違いないと思っている。優れた者、よくできている人、
まじめに勤勉にやっている人だけが愛される と考える。そこには、父親の愛に対する過小評
価も同時に含まれています。つまり、どうせ父は、出来の悪い人間は愛 さない。自分も、も
し弟みたいになったり、もし仕事もしっかり真面目にできないならば、その時は認めてもら
えなくなる。大事にしてもらえなくなると、兄は思っていました。
この兄と共に、この私たちも、その様に他との比較なしに、悪いことをしたり、裏切った
りしながらも、全面的に赦され愛されるという愛の深さを、なかなか経験することがありま
せんので、この父親を通してあらわされている、神様の愛の深さを、にわかには信じがたい
のです。
兄は怒って、繰り返し、
「 こんなの優しさじゃない。父さんのやっていることはありえない。
常識から外れている。自分は間違っていない。間違っているのは父さんだ」と、父を強く批
判しながら、父の常識を外れる優しさの前に立って、何とか意地を張って、自分の論理で 、
心を開かず、持ちこたえているのですけれども、しかし父は、それに対して、
「そうなのだ。」
と、「私の愛は、そういう、普通ではありえない愛なのだ。」と返すのです。そして、さらに
父は、
「私はそのありえない愛で、今、お前のことも愛している。弟との比較ではなく、その
あなたそのものが、何よりも大事だ」と、両腕を開いて、兄を招いてくれるのです。
父親は、31 節以下の言葉で、兄にこう語りました。
「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。
わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いな
くなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
「心
配するな。お前も愛されている」と、そして「私は前々から、近くにいたお前のことを、実
は待っていたのだと、まだ遅くはない。さあ。」と言って、父は弟を抱きしめたその腕を、今
度は、もっと力を込めて、失われていた本当の放蕩息子である 兄に向けてくださるのです。
ところで、このたとえ話には、結論がありません。ということは、オープンエンド。開か
れたままで終わっています。父親の両腕は、兄に向かって「 さあ来なさい」と開かれたまま
で、そこで話が終わっている。つまりその意味するところは、父のこの手は今も、 この御言
葉を読む私たちに向かって開かれたままだということです。父なる神様は、この私たちをも、
その大きな愛の中に包もうとして、今この時にも、
「さあ。」と手を広げてくださっています。
あなたは愛されている。神様は今、他人との比較ではなく、一人のあなたのことを、愛し
ている。神様は、
「この私の愛を信じて、さあ、安心して、心の扉を開きなさい」と言われま
す。神様を知るということは、このあなたを包む大きな優しさに、心を開くことです。
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祈り
私たちの、父であられる神様。
私たちの、心のかたくなさを、お赦し下さい。
あなたは、目の前で待っていてくださいます。
あなたは、私たちが考えているよりも、もっと温かい方です。
あなたに遠慮してしまうことなく、あなたを恐れることなく、あなたの愛を信じて、今、力
を抜いて、身を任せることができますように。
この固まった心を、あなたの愛で、溶かしてください。
あなたが今、この私たちを、愛して、赦してくださっていることに、深く感謝いたします。
主の御名によって、お祈りいたします。アーメン。
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