Vol.44

リスクマネジメントの視点から
医療安全文化と
薬剤師の役割
リスクマネジメントに関する本特集の 3 回目として、大学医学部で医
療安全管理学を科目として開講されている横浜市立大学医学部教授の
橋本廸生先生にお話をうかがいました。 橋本先生は、厚生労働省が行
っている医療安全対策検討会議事例検討作業部会で座長を務められる
ほか、横浜市立大学医学部附属病院で安全管理指導者として現場の指
導にもあたっておられます。 リスクマネジメントの基礎になる医療安全
文化づくりのほか、病院薬剤師としてのリスクマネジメントなどについ
横浜市立大学医学部
医療安全管理学教授
(横浜市立大学医学部附属病院
安全管理指導者)
橋本 廸生先生
てお話しいただきました。
1
をとることを意味します。
医療安全文化とは
医師やスタッフに、疑問を感じた点を指摘する
のは躊躇するのでは。
橋本
患者さんと同時に
医療者を守る
特
集
医療安全管理では、患者さんを守ると同時
に医療者を守ることが重要です。 医療者が医療事
故の当事者になるのを防ぐためには、何かミスなど
多くの病院ではリスクマネジメントとして様々
に気づいた時に黙っていてはいけません。 米国の
な取り組みが行われてていますが、医療安全のた
看護師間では、ミスや問題点を指摘することによっ
めの基本から教えてください。
て生じるのは「せいぜい怒鳴られて嫌な思いをする
橋本
程度」として、医師やスタッフが事故の当事者にな
安全な病院をつくるための根本的な課題は、
病院の中に安全文化を確立することだと思います。
らないための心構えにしています。
例えば、当院(横浜市立大学医学部附属病院)で平
成 11 年に起きた患者取り違え事故では、各段階で
いろんな人が おかしいじゃないか
危ないのでは?
と思っていたことがわかりました。 しかし、結局、
3
医療の質向上のための
クリニカル・ガバナンスという考え方
安全文化は、病院全体で形成しなければなら
間違いが遂行されてしまいました。 つまり、危ない
ないということですか?
と思ったことにブレーキをかける姿勢が組織として
橋本 まず、病院長が組織のリーダーとして、安全
できていなかったわけです。 そこで、患者さんの
に関する価値観と行動様式を共用することを宣言す
安全に関して何かおかしいと思ったら、どの場面で
ることが前提です。 そして、それは安全管理だけで
もいつでもいえるルールをつくりました。 それが「安
なく、病院全体の質の向上を目的とした取り組みであ
全文化」のひとつの具体例です。
るべきです。 組織として、安全の問題を含めた医療
一般化していうと、安全文化とは、病院にいる全
の質を担保にしていくことです。 それを私は「クリニ
ての職員が、医療にとって安全が重要な価値であ
カル・ガバナンス」といっています。 院内全体の診
るという共通の認識を持ち、それに基づいた行動
療品質にかかわるルールや常識を共有する概念です。
それはクリニカルパスにも共通しますね。
犯すかもしれないことで、たまたま、あなたが犯し
橋本 クリニカル・ガバナンスの具体例が、クリニ
たのだと解釈できる価値観が先ほど申し上げた安全
カルパスであり、診療ガイドラインの適用、EBM の
文化なのです。 自分のミスだから自分が悪い と
実践環境の整備などです。 クリニカル・ガバナン
責任を負うことは、一見美徳のように思えますが、
スという考えを中心に据えて、医療の質の向上を
実は正しい改善への努力を怠っていることになります。
組織的、自律的に取り組む中に、医療安全活動を
ほかの人が間違わないですむための情報を、与え
位置づけることが重要なのです。 そうでなければ、
ていないということを認識してほしいですね。 とり
医療への信頼を取り戻し、患者さんと医療者を守る
あえずは、自分にだけ原因があると思わないことが、
ことはできません。
ヒヤリ・ハット分析につながります。
ヒヤリ・ハット報告数の基準といったものはあ
2
りますか?
ヒヤリ・ハット報告の
意義と活用
橋本
経験に基づく個人的な意見ですが、ヒヤリ・
ハット報告制度が適切に運用されていれば、報告数
は、少なくとも 1 カ月にベッド数の 3 分の 1、年間
でベッド数の 4 倍くらいだろうと考えており、報告
ヒヤリ・ハットは
ひとりひとりが声を上げる権利
橋本先生は厚生労働省の事例検討作業部会で
数が少ないということは、埋もれた事例があるだろ
うと推測できます。 ただし、報告の絶対数が安全
対策の指標になるかどうかは難しいといえます。
座長を務めておられますが、そこで収集されている
ヒヤリ・ハットの意義を教えてください。
橋本
ヒヤリ・ハットは、安全文化という理念を支
える具体的な方法論です。 おかしい と思ったと
ヒヤリ・ハット報告だけで終わらせないために
現場で共有して、現場で考える
ヒヤリ・ハット報告をリスクマネジメントに活か
きの気持ちを形にすることができるのが、ヒヤリ・
すためのポイントを教えてください。
ハット報告制度です。 医療者が自発的に、病院の
橋本
危ないことや質に関することについて、ひとりひと
流れが本来のルートです。 特定の現場で起こった
特
集
ヒヤリ・ハットは図 1 のような連絡・報告の
りが声を上げる権利だともいえます。
従来から病院のスタッフには ん?変じゃない と
いう気持ちがあっ
表1 リスクセンスの概念
たと思います。 そ
①当事者(報告者)
報告
れは、表 1 に示し
「ん、変じゃない」
たリスクセンスと
▼
いう概念のひとつ
「ここがおかしい」
ですが、その個人
職場改善
②各部門
リスクマネージャー
(診療科部長・所属長)
▼
の気持ちが病院の
報告
③安全管理担当
監修:横浜市立大学医学部医療安全管理学 教授 橋本廸生
ハット制度だともいえます。
●ヒヤリ
・ハット報告
●自己の行為の見直し
●改善提案
●事実確認と対応
●事例分析
●改善策の検討と実施
●マニュアル・
チェックリスト点検
●教育・指導
分析・調査・調整
「こうしよう」
活動として保証さ
れ た の がヒヤリ・
図1 ヒヤリ・ハット発生時の連絡・報告の流れ
●事実確認
●事例集積・分析・改善策検討
●部門リスクマネージャー間の調整・助言
提案
包括的指示
●改善策実施状況調査
それでも、ヒヤリ・ハット報告数が少ないとい
う問題もありますね。
橋本
自分のミスは報告しにくいことだろうと思い
ます。 ただ、あなたが犯したミスは、ほかの人も
④安全管理対策委員会
●改善策の審議・評価
●予防策を審議
●事故防止に関する有用情報の提供
●院内周知
橋本廸生監:医療事故を未然に防止する ヒヤリ・ハット報告の分析と活用<医療安全ハンドブック②>, P2, メヂカルフレンド社, 2002
4
ことを全体に広げていくためにリスクマネジメント
図2
安全管理向上のパターン
を行っている部署に上げて検討し、改善策を実施す
医療サービス
るシステムです。
しかし、最も重要なことは、報告することではな
く、ヒヤリ・ハットが起こった場合に、現場で情報
を共有して、現場で考えることです。 リスクマネジ
メント機能を持っている部署やリスクマネジャーが、
ヒヤリ・ハット報告をもとに改善提案を指示しても、
現場がそれを受け止めて改善できる力を付けてい
なければならないからです。
医療の質
m
(高)
(低)
作業部会で収集したヒヤリ・ハット事例のうち、
ヒヤリ・ハット重要事例は日本医療機能評価機構が
運用しているホームページ(http://www.hiyarihatto.jp/)から検索できますね。
橋本
公表するに値すると考えたヒヤリ・ハット報
告の具体的内容と要因、改善策を示しています。
一つの事例から得られる情報は大きいと思いますの
この群の存在に
留意した対策も
非改善群
で、自分の病院で同じようなことが起こるとしたら、
と想像してほしい。「専門家のコメント」を付して
いる事例でも、それを参考に自院での解決方法を
考えてもらいたいと思います。
特
集
医療の質
m
監修:横浜市立大学医学部医療安全管理学 教授 橋本廸生
3
「Fool Proof」と
「Fail Safe」
(高)
(低)
橋本
私は、全ての医療職に、安全確保のキーワ
ードとして「Fool Proof」と「Fail Safe」の二つ
を絶対に覚えてください、といっています。
「Fool Proof」は、文字通り、Fool な人でも大丈
間違えやすいものは
排除する
夫にすることで、間違いを誘発しやすいものは排除
するということです。 いい換えれば
間違うと使え
病院全体の質を上げて安全管理を進めても、
ない ものを使うということです。 誤接続しやすい
どうしてもミスは避けられないという現状があります。
場合は、接続しないですむ機器にするとか、誤投
橋本
病院長が病院全体の安全または質を良い方
与が起こらないような剤型のものを使うといったこ
向に行くように動機付けをはかっていても、図 2 に
とになります。 また、最近多くの病院から10%キ
示すように反応しない群(非改善群)が残ってしま
シロカインが排除されつつあることもこれにあたり
っています。 良く反応する群が動いているだけで、
ます。
全体が動いているのではないことが想像できます。
非改善群の存在は、残念ながら、個人として特
定することは容易ではなく、そういう人たちに対す
る決定的な手段も見当たりません。
ただ、全員が心得るべきことがありましたら、
教えてください。
5
間違ったとしても、
安全な方向に向かう仕掛けづくり
「Fail Safe」とは?
橋本 「Fool Proof」が難しい場合に何かしなけれ
ばいけません。 そこで、次の手として、間違っても
危険な方向に行かずに安全な方に向かうように仕掛
の目は病棟のナースステーションでこそ活かされる
けをつくることが「Fail Safe」です。 患者さんの
べきだと考えます。
安全に関して、何かおかしいと思ったら、すぐにい
患者さんが参加する医療に、
薬剤師は関与できる
うルールも「Fail Safe」の一例です。
オーダリングシステムで名称のよく似た薬剤が上
下に出てきますが、危ない方の薬を選んだときに、
「 それでいいですか?」という応答を画面に示し、
病棟での服薬指導業務もリスクマネジメント面
からみて重要な業務ではないでしょうか?
<いいえ>のボタンを初期値として設定しておくこ
橋本
とも 「Fail Safe」です。
療に参加していることです。 参加することで、医療
薬を飲むという行為は、患者さん自身が医
薬剤や機器についていえば、「製品の安全」と
に対する満足感が高まります。 自分が受けている
いうことから「使用の安全」という概念の重要な変
医療行為がわからない場合と比較すると、服薬指
更があります。 専門家である医療者は正しく使って
導による満足度は相当違いますね。
くれるという前提のもとに製品がつくられていたの
ただ、薬剤師さんに限らず、医療者は一般的に
が、医療者も間違えると考えて仕様を改良した製
コミュニケーションできる技術に欠けている傾向が
品が開発されています。 例えば、ダブルバックの
あります。 医療や薬剤に関する知識や技術のほか、
開通忘れを防ぐための注意喚起の工夫などもあげ
人と接する技術教育も必要だと思います。
られます。
最後に、医療訴訟についてうかがいたいと思
います。
4
薬剤師としての
リスクマネジメント
橋本
医療訴訟は、明らかに過失があるケースば
かりでなく、むしろ医師がちゃんと説明しなかった
といった患者さんの不満や不安から起こる場合に
多くみられます。 患者さんとの信頼関係がベース
にあれば、訴訟を回避できることも少なくないで
病棟でこそ、薬剤師のリスクマネジメントが
有効に活かされる
ヒヤリ・ハット事例をみると、薬剤に関する事
しょう。 薬剤師さんは、服薬指導で患者さんとコミ
ットしやすいと思いますので、そこで力を発揮して
いただけるといいですね。 医療の安全のほかに、
例が最も多いですね。
医療サービスの質向上においても、薬剤師さんが
橋本
積極的に役割を担っていくことを期待しています。
たしかに薬に関するヒヤリ・ハット事例が最
特
集
も多いのですが、その多くは薬剤師さんではなく看
護師さんが関わっています。 ただし、病棟に出て
行く薬剤師さんが多くなっており、薬剤師さんが病
院の中で安全または質の向上のために力を発揮す
る機会が増えてきていると思います。
リスクが高い混注業務は、薬剤部で行うケース
が増えています。
橋本
病棟で看護師が混注する場合よりも間違い
が少ないという理由で、薬剤部で混注した後病棟に
上げる例がみられますが、それで 100%安全にな
るわけではありません。 薬剤師さんにしてもベッド
サイドまで自分の目でみないと不安だろうと思い
ます。 混注を含めて、薬剤師のリスクマネジメント
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