この内容は、首都圏コープ事業連合会(現パルシステム連合会)元理事長で、故人の中 澤満正氏 著書『 「おいしい日本」を食べる』を、そのまま転記したものです。 著作権の関係で、個々にお読みになることは可能ですが、転送・転記等はしないでくだ さい。 こんせん牛乳ができた 「コープ・こんせん牛乳」という根強い人気を持つ牛乳があります。 「こんせん」の名前は北海道の 釧路原野に由来します。根室と釧 路にまたがる渺々(びょうびょ う:水面などが限りなく広がって いるさま)とした原野です。 冬になると、根釧原野にはシベ リアから丹頂鶴がやってきます。 そして網の目のように流れる川 には、幻の巨大魚イトウが棲んで います。過酷な寒さが営む豊かな 自然。その地の牧草を食べて育っ た牛から採れた牛乳、それが「こんせん牛乳」です。 こんせん牛乳は、パルシステム生協連合会のプライベート・ブランド(PB)商品です。 実に30年もの長きにわたって「こんせん牛乳」はトップブランドとして君臨してきま した。さまざまな商品が現れては消えていくこの時代に、ほんとうに驚くべきことです。 「ほんものの牛乳」だったからだこそ、支持をいただくことができたといえます。 そういってしまえば簡単ですが、この牛乳の開発に関わった者としては、万感の思いが あります。 ヒ素ミルク事件の衝撃 私が父親の創立した「北多摩生協」という地域生協に入ったのは29歳の時でした。 その1970年前後は、全国各地で市民による消費者運動が起こり、自前で安心な食を 手に入れようと、グループ購入の組織や地域生協が次々に設立された時代です。 こうして興された地域生協の多くが最初に手がけたのが「牛乳の共同購入」でした。 そこには、乳幼児を自分たちで守らなければ・・・という親たちの切実な願いがあった のです。 当時、子どもを育てる母たちにとって、大変ショッキングな事件が起きました。 「森永ヒ素ミルク事件」です。 1960年代、日本の高度成長期の熱狂の中にありました。利益が上がるのなら企業は 手段を選びませんでした。また、それが許容されるような雰囲気が社会に充満していたの です。 「森永ヒ素ミルク事件」は、1955年に岡山大学で「森永ドライミルク」にヒ素が混 入している事実が突きとめられたことが発端でした。 発生後1年以内に確認されただけでも、 「森永ドライミルク」を飲んで亡くなった乳幼児 は131名。そして1万3000人にのぼる乳幼児がヒ素中毒を起こしたという凄惨な事 件です。日本食品事故事件史上、類をみない大きな事件でした。 当初、森永乳業は自らの非を何も認めませんでした。ヒ素化合物が森永の乳幼用粉ミル クに混入していた事実をやっと認めたのは、裁判中の1970年です。企業が自ら責任を 認めるまでに、実に15年もかかったのです。ヒ素中毒患者は、その後も重い後遺症を負 って悲惨な生活を強いられています。 最近、中国でも牛乳にまつわる同様の事件が起きました。メラミン入りの粉ミルクによ り、約3万人の乳幼児が腎臓結石になってしまったのです。 「ヒ素ミルク事件」を過去に起こした私たち日本人は、この中国の事件を他人事のよう に批判したり笑ったりすることはできないと思われます。 そして1971年には明治乳業の事件が起きました。 公正取引員会が明治乳業を告発したのですが、その内容は本当にひどいものでした。 明治乳業は、長年にわたって、せっけん原料として輸入したヤシ油を価格の高いバターの 代わりに使い、接着剤原料と輸入したガゼインと乳糖で牛乳を製造。販売していたのです。 ひどい不正です。 当時明治乳業をはじめとする乳業メーカーは、原料が安く利益の大きい「加工乳」 (今で いうと還元乳)に力を入れ始めていました。普通の牛乳でも、法的にぎりぎりのところま で脂肪分を抜き取る「脂肪調整」が全盛の時代でした。抽出した脂肪を、バターとして高 く売れば、大きな利益が出るからです。 乳幼児の健康や生命に直結する牛乳ですら、こんな状態でした。思い返せばほんとうに ひどい時代です。 こうした背景の中で、 「大手の牛乳メーカーには任せておけない」「子どもたちのために 自分たち自身が安心して飲める牛乳を確保しよう」という機運が生じたのは必然といえま しょう。 自前で牛乳を作る! そして当時、 「生協」をめぐる状況も変化しつつありました。 1975年、 「日本生協連」が大きく方向を転換したのです。組織を合併して、各県に拠 点を作って集中させ、大手流通資本と互角に戦える生協を本格的に作ろう、という方針が 出されました。 関東の小さな地域生協は、この規模拡大路線に反発しました。 1977年「首都圏生活協同組合事業連絡会議」(事業連)が結成され、19の生協が結 集したのです。 しかし組合員は、たったの3万8千名。地域も東京や埼玉、千葉、茨城、神奈川に広がり、 事業を進めていくにはあまりにも脆弱でした。しかも、ほとんどの生協は赤字経営を続け ており、とても新しい連帯事業に費用がかけられる余裕はありません。 発足した事業連の事務所は、常勤の事務局長がたった一人(川西弘泰氏)。そして4名の 事務局員は非常勤というかたちでスタートしました。私も最初の非常勤に事務局員で、「北 多摩生協」の仕事をしながら毎週の事務局会議に参加していたのです。 この貧弱な5人の集まりが、その後組合員100万人の生協組合となる「パルシステム」 の母体です。 その当時、事業を一本化してメリットを出させる商品となると、牛乳しかありませんでし た。 ほとんどの会員生協が北海道の牛乳を扱っていたので、取扱量も比較的多かったからです。 「取引窓口の一本化」 、 「牛乳の産地指定」、そして「自分たちのブランド作り(プライベー ト・ブランド=PB) 」を目指し、事務局が一丸になって取り組むことになりました。 牛乳の開発にあって、まず考えたのは「酪農とは何か」ということでした。 「酪農」とは何か 人類の歴史は、人間が食料をいかに確保するかという歴史であったといっても過言では ありません。 人類史上、最初の革命は「農業革命」でした。 「狩猟・採集」で食物を得る時代ののち、土地に適していて、効率の良い作物を生産す る「農業」をはじめるようになったことを指します。 メソポタミヤの「肥沃三日月地帯」での小麦の生産が、人類最初の「農業革命」だとい われています。 日本を含むアジアでは、高温多湿の風土条件のなかで、最高の土地生産性を発揮できる 穀物として「米」が合理的に選択されました 「農家の農地の狭いことが日本の農業の弱点」などといわれていますが、畜産や酪農、 他の穀物の生産に比べても米の生産性は比較にならないほど高いのです。 こういう理由があったからこそ、日本は狭い土地しかなくても農業で生きていけたので す。 技術も低く機械らしい機械もない江戸時代の終わりごろでも、日本列島全体で4000 万人近い人口が農業のよって自給自足していました。当時、これだけの人口密度の高かっ た国はそれほど多くないでしょう。 一方で、酪農や畜産は、土地生産性は農業に比べると低いのです。 「土地の生産者」というと言葉は難しいのですが、 「ある土地で生産できる食料で、何人 の人が生きていけるのか」と考えればわかりやすいでしょう。同じ広さの土地ならば、米 を作った方が、ずっと効率がよいのです。日本はただでさえ土地が狭いのですから、酪農 は農業よりもいわば「ぜいたく」だといえるでしょう。 これはカロリーを考えてみても一目瞭然です。 直接穀物を食料にした場合を100とすると、穀物飼料を与えて牛乳や肉を生産した場 合、牛乳19・4、鶏肉9・7、豚肉18・5、牛肉6・8しか回収できません。 カロリーでの比較で言えば、酪農では、回収量は増えるどころか、5分の1以下に減少 しています。 私たちがめざす「草地型酪農」 1960年代に入って、我が国にも「近代畜産」「近代酪農」「近代養鶏」の時代が訪れ ました。 輸出産業が好調になった日本は、豊富な外資で、大豆やトウモロコシなどの穀物飼料を 大量に購入できるようになりました。その飼料を牛や豚・鶏に与えて、肉や卵、牛乳を生 産する仕組みが作り上げられました。 しかし世界には飢餓線上にある人たちが8~10億人います。食料を大量に海外から買 い、それを畜産に与えてカロリーやたんぱく価を大幅に落とす酪農生産を行うことは、本 来間違っていると思えます。 したがって、私たちの生協がめざす酪農は、他の酪農と一緒ではいけません。 私たちがめざしたのは「牛」という動物の生理・機能を生かして、他の農作物を生産で きない環境でおこなう酪農です。 「草地型酪農」 ― 。私たちはそう名づけました。 牛乳問題を、ただ安全性の観点からアプローチするのではなく、私たちが暮らす社会や 環境、暮らしや「食」の文化全体の見直しとして考えたのです。 いささか大上段にふりかぶった意見のように聞こえるかもしれません。 しかし、私たちは真剣でした。 牛は人間と共存できる動物 牛は、4つの胃を持つ草食動物です。 牛の胃はじつに精巧な器官です。胃の中には微生物が大量に棲息していて、この微生物 が出す分解酵素で草のセルロースを糖に分解するのです。牛も人間と同じで、本来はセル ロースを分解する酵素を持っていませんでした。しかし、胃を4つに増やし、体内に微生 物を棲まわせることで、牛は草地に適応しました。牛が草だけで生き育つことができるの は、こうした理由です。 牛の第1胃は( 「ルーメン」 )は胃の8割を占めます。消化器官全体の約半分の大きさで、 成牛のルーメンは150~250リットル。巨大な器官です。ルーメンでは、食べた草の 50~80%が糖分に分解され、草のタンパク質も分解されて、より質の高いタンパク質 に変換されます。 30年前、畜産農家の方が私に言った言葉は今でもよく覚えています。 「中澤さん。牛は、人間には役に立たない雑草を消化して肉や乳に変える能力があるん だ。牛は人間と共存できる、天が与えてくれた動物なんだよ」 逆に、穀物のような高カロリー・高たんぱくの飼料ばかり食べると、牛が生理的な障害 を起こすことがあります。草食動物である牛の消化器官では、草が少なくなるとそこに棲 息している微生物集団に悪い影響が出てしまうのです。 このように、牛は人間と食べ物を争奪しない、共存可能な動物です。そして、この牛の 能力を利用した農業が酪農や畜産であるともいえます。 「草地型酪農」というのは、自然に備わった牛の能力を活用する農業だといえます。 栄養過多時代にカルシウムが不足する! 1970年代になると、日本ではもうひとつの大きな問題が起こり始めました。肥満や 成人病の問題です。 高度経済成長に日本人は生活が豊かになりました。食品が市場にあふれ、肥満児が現れ るようになりました。その一方で漁業が衰退し、小魚を食べる習慣などもなくなっていま した。 日本人は伝統的に小魚からカルシウムを摂取していました。皮肉なことに栄養過多の時 代であるにもかかわらず、成長期の子どもにカルシウムが不足しはじめました。子どもの 骨折、虫歯の増加などが顕著になってきたのです。 ところが、乳業界は一貫して「乳脂肪重視」という価値観でした。戦後のある時期、国 民に動物性脂肪が不足していたこともあり、またバターがまだ高価だったから、というこ ともあるでしょう。したがって「コクのある美味しい牛乳」がよいとされていました。 原乳の買い入れも、脂肪分の高いものは価格が高かったのです。 こうしたことから、水分の多い生草を食べる放牧牛は敬遠されはじめました。脂肪分の 含有率が下がるからです。酪農業界全体が、牛舎飼いで濃厚飼料を多く与える「多給型」 と呼ばれる飼育方法にシフトしていきました。 これは、私たちの牛乳の考えとはまったく逆の方向でした。 私たちは、牛乳を乳児・成長期の子どもにとっての「主食」または「準主食」と考えま した。牛乳の主要な価値を「栄養過多を促進する脂肪分」ではなく「カルシウムやミネラ ル成分を含む無脂固形分」に置くことにしたのです。 産まれたばかりの子牛はものすごいスピードで成長します。最初の1週間では体重が毎 日1キログラムも増えます。牛乳は、それだけの子牛の成長を支える総合的な栄養を持っ ているのです。ただ体重が増えるだけでなく、骨格も作り出しています。牛乳はカルシウ ム含有量が多く、しかもそれは消化・吸収しやすい水溶性カルシウムなのです。 ちなみにカルシウムは、牧草を介して大地から補給される微量ミネラルです。その意味 でも、私たちの「草地型酪農」が好ましいのです。 「カルシウムなどの無脂固形分(ミネラルなど)が高い草地型酪農でつくった牛乳」と いうのが、私たち目指す牛乳の基本コンセプトとなりました。 難航する交渉 当時、北海道では原乳の取り扱いが一元化されていました。 「ホクレン」 (北海道農協連合会)が原乳を一手に集荷し、メーカー各社に販売していま した。 ホクレンを通さない牛乳を大量に供給できませんから、私たちはホクレンとの交渉に入り ました。 しかし、法人格を持たない事業連絡会議では取引相手にならないといわれてしまいました。 何度も足を運んでもほとんど相手にされず、交渉は難航しました。 それでも、私は自分の理念の正しさを信じ、ホクレンと粘り強く交渉し、産地の視察や酪 農家との交流を重ねたのです。 やがて努力が実を結び、ようやくのことで、ホクレンから牛乳を買えることになりました。 ホクレン系列の「北海道酪農協乳業」 (現よつば乳業)の釧路工場が生産する牛乳を取り 扱えるようになりました。しかしプライベート・ブランド化への道は、まだまだはるかに 遠いものでした。 牛乳の無脂固形分(ミネラル)を重視する私たちは、十勝工場ではなく釧路工場で作られ る牛乳を希望しました。 釧路工場で使われる牛乳が生産される地域は釧路と根室地方で、夏場でも朝はストーブが 必要なほどの寒冷地です。霧も多く、酪農・畜産と漁業以外には生きられない地域。その ような土地で生産された牛乳こそが、私たちのコンセプトにふさわしい。私はそう考えま した。そしてまた、寒冷地でも栽培できる「デントコーン」(耐寒冷品種の飼料用とうもろ こし)の栽培がようやくできるようになったこともありました。 しかし、ホクレンは私たちの話には聞く耳を持ちませんでした。 「農協の連合会」であるホクレンは、 「各農協は平等で、差別してはならない」という原 則があり、 「道内の牛乳はすべて良質で美味しい」という決まり文句しか言えないのです。 現実には産地ごとの特性があるのが当たり前なのですが、表向きの建前では、それを認め ないのです。 そして、もうひとつの問題がありました。 国の「加工原料乳生産者補給金等暫定措置法」(「不足払い法」)という法律により、生産 者はホクレンに出荷する以外、方法がなかったのです。これは国の産業保護政策でした。 北海道の酪農家は、ホクレンに原乳を売ることで、国から補てん金を受け取ることができ ました。また、この法律は、国が補てん金を出す見返りとして、北海道以外の土地に牛乳 を販売することを禁じていました。 しかし生産者側の願いは、牛乳を加工用の安い価格ではなく、牛乳として正統な価格で売 り、酪農経営を少しでも楽にしたい、ということでした。私は「不足払いの暫定時限法で いつまで続くかわからない」 「日本最大の消費地である首都圏で牛乳を販売した方が利益が 高い」と、何度となくホクレンとの交渉を重ねました。 切り札 ホクレンとの交渉は行き詰まりました。 ところが土壇場で、思わぬものが役立ちました。「土壌学」の研究論文でした。 当然、私はまったく酪農や牛乳の知識がありませんでした。私はほんとうに寝る間を惜し んで、猛勉強したものです。そして、その中に「畜産の研究」(養賢堂)という酪農・畜産 の専門雑誌がありました。専門用語もわかりませんでしたから「畜産大辞典」で調べなが ら、 「これは」と思う学者や専門家の論文を片っ端から読み漁りました。読破したバックナ ンバーは計4年分以上でしょうか。 当時の北海道酪農は大規模化、そして酪農近代化の道に進んでいました。 しかし、近代化の歪みが様々な局面で噴出していたのです。 その一つに「起立不能症」とい病気がありました。酪農家が牧草収量の効率を追求しすぎ るあまりに、牧草地のミネラルバランスが崩れ、そして栄養バランスが崩れた土壌の牧草 を食べた乳牛が、産前や産後に起立不能になってしまう病気です。 この「起立不能症」は、当時北海道のいたる所で発生していました。「腰抜け病」などと 呼ばれ、酪農家に恐れられていたのです。私は、まだ世の中では知られていない乳牛の「起 立不能症」を切り札に使ったのです。 私は文書を作りホクレンに提出しました。「本格的な土壌の改良が必要だ。良い牧草を作 り、健康な牛の牛乳を作るために、生産者だけでなく、北海道の牛乳を飲んでいる消費者 と連携しなければならない」という内容でした。そしてそのためには生産者・消費者が連 携できる場をつくり、運動として取り組めるようにするべきというものです。さらに「も しホクレンがこれに背を向けるなら、北海道の牛乳の利用者として重大な決意で対処する 覚悟である」と強く主張したのです。 私はこの文書ひとつで、ホクレンを交渉のテーブルにつかせることに成功したのです。 夢が実現した「こんせん牛乳」 共同購入では、 「生産者」と「消費者」の交流は事業の根幹になります。 しかし遠い北海道の産地では、頻繁に組合員の交流はできません。集まるだけでも旅費が 大変です。 そこで、組合員の集会を首都圏でも開催しました。また生産者酪農家へのメッセージと して、子どもたちの絵を添えて「タオルを送る運動」を行ったりもしました。 「タオルを送る運動」は、乳牛の乳房を清潔にぬぐってもらおうという意図でした。そ して、タオルは組合員の家庭に眠っていたタオルです。私の予想を大きく超える量のタオ ルが集まりました。 そして、釧路地区の酪農家には、首都圏の利用者を意識して牛乳の生産をしてもらいた かったのです。 生協の場合、よりよい産地を追求し、生産者の心を動かすには、組合員の力が不可欠で す。 こうした取り組みや実績の積み上げによって、ついに1981年、第一期のプライベー ト・ブランドの北海道牛乳を開始することができました。最初はまだまだ不十分なもので したが、1983年にやっと私たちが追求する、より牛乳の成分が生かされる殺菌温度の 牛乳です。 取り組みを始めて1977年から、じつに6年以上が経過していました。 そしてさらに殺菌温度を下げるなど、さまざまな改良を経て、やっと当初から目指して いた「こんせん牛乳」になったのです。 商品の設計からその実現まで、ゆうに10年を費やしたのが「こんせん牛乳」でした。 このような苦労を積み重ねたことからこそ、今日に至るまでの、組合員の皆様が「こん せん牛乳」を愛してくださるのだと思います。 あの苦しかった時代に、私に協力していただいた方々には、ほんとうに感謝の念にたえ ません。 現在の容器になるまでの歴史です。右 2 つは未晒パック(脱色や染色加工をほどこして いない容器のこと)でした。
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