フランスの膝画像診断法を応用する

フランスの膝画像診断法を応用する
フランスは夏時間(サマータイム)を採用している。冬時間(通常の時間)ともなると、
夏が、日が暮れない夜を伴ってあっという間に後ろの幕に後退していくのである。今まで
夜の9時と思っていた夕暮れが、8時となるのである。夏時間では節電となるとされてい
る。例えば、23 時に寝る人は、夏時間では 21 時までは明るいので、家で灯りをつける時
間は寝るまでの 2 時間である。冬時間では 20 時から暗くなるので、寝るまで 3 時間明かり
を灯すことになる。1980 年、南のトゥルーズさえも自宅や自家用車にはクーラーがいらな
いほど、夏でも暑くならず、冷房で電気代が上がることは考慮外であった。
システムが切り替わる日の朝は、時間を間違えて遅刻しないように短針を1時間戻す。
少しだけ緊張するものの、なぜか夕方にはすでに慣れているのである。初めての経験なの
に、心身とも容易に状況変化に騙される(順応する)ことに驚いた。いい加減なというよ
りも、柔軟性を備えた心身に脱帽した。
これから師事することになるフィカ教授に初めて会ったのは、冬時間に戻されて、夜が
威張り出した3日後のことであった。初秋のトゥルーズ、全体が赤系統で統一されている
街では、丘の上に聳えるラングイユ病院の建物も赤く色付いている。周囲の丘の木木は、
赤くなれという街の風圧にもめげずに、十分な葉緑素を保持し続けていた。
英語で出版されたフィカの膝の専門書を読んで、是非とも学びたいという趣旨の手紙を
出して、承諾の返事を受け取っていた。しかし実際に会うまでは、彼が気難しいのか、好
好爺なのか、冗談を好むのか、理屈っぽいのか、冷淡なのかが分からず、そういう点にお
いて少少不安であった。
駐車場から病院玄関近くまで完備されたエスカレーターで上がっていく。整形・外傷外
科の施設を訪れる。秘書に案内された部屋では、診察の最中であった。周囲より一際大柄
で、ふっくらした白衣に包まれた人物が、こちらを振り向いた。そして、その人は長年の
知り合いの如く「イアラ」とフランス語で私の名を発した。人懐っこい目が青色に微笑ん
で迎えてくれた。挨拶を交わしながら、握手した手の平から、包容力と暖かさが伝わって
きた。忽ちのうちに、緊張から放たれていった。初対面の印象は、トゥルーズを去るまで
変わることはなかった。さらにチーフスタッフのデデオン医師の、
「インターン宿舎に住む
なら、食事が良いよ。」の言葉で、スタッフからも歓迎されていることを知った。日本人が
初めてで、極東からはるばるやって来たのが、幸いしたのであろうか。
外来の診察室は幾多の部屋が並んでいた。ここで、我が国との相違点を少し述べてみよ
う。我が国では、医師が診察室に座って患者さんを呼び入れ、それから話を聞いて患者さ
んを診察台に上がらせ身体を診察をする。フランスでは、患者さんはすでに診察台に上が
って仰臥位になっていて、医師が隣の診察室から現れるのを待っている。医師は椅子に座
ることはなく立ったままで(医師の健康には良い)、次から次へと診察台で待っている患者
さんを順に診ていくのである。患者さんが衣服を着脱する時間が節約できる。
整形外科疾患には下肢のアライメント(身体軸)が関係することも少ない。膝だけでは
なく、股や足首や脊椎の関連からも眺めなければならない。フランスの女性の場合、下着
が見えようが全く気にしない。診察に来ているのだから、十分に診察して欲しいと思って
いる。我が国では、看護師がスカートの奥が見えない様にバスタオルを掛けて、全体的な
アライメントをわざわざ見えないようにしているのも恥の文化の皮肉な側面である。
我が国では、患者さんが持ってくる保険の書類を始め、各種証明書をいちいち手書きで
書く。かなりの時間を費やされる仕事である。やっと最近になって、書類記載を補助する
医療クラークの制度が認められた。フランスでは、秘書や事務員が書類をタイプで打って
きて、サインだけすれば良い。診察時の紹介状やその返事も、医師が話すのを速記係が筆
記して、タイプで打ってきた書類にサインだけすれば済む。手術記録も医師がテープに口
述して録音したのを、秘書がおこしてタイプに打ち出すのである。
フィカの診察にはしばしば放射線医のフィリップ医師が同席し、レントゲンカンファレ
ンスにも出席しては貴重な意見を述べていた。診察室の横にも関節造影が行える部屋があ
り、急を要する場合は放射線技師が撮影しているが、出来上がった写真を見るたびに、
「や
はりフィリップのほうが格段よいな」とフィカは言う。フィカから膝関節造影を指示され
た患者さんは、ガロンヌ川を渡った対岸にあるジョゼフ・デュキャン病院に行って、フィ
リップから検査を受けることになる。フィリップは関節造影専門で、それまでに約1万例
の関節造影を行っていた。
我が国では、膝関節造影として、空気と陽性造影剤による半盲目的な二重造影法が広く
行われていた。一方、フィリップの造影法は、空気を使わずに陽性造影剤のみを使い、イ
メージ透視下に X 線を関節の隙間に正確に入射させ、しかも像を拡大する。当初、フィリ
ップの方法に慣れていない私は大いに反感を抱いていて、二重造影法の方が半月が良く描
出されると高を括(くく)っていた。しかし、膝蓋大腿関節の造影像の素晴らしさに感嘆
し、彼の方法の診断率の高さと断裂像の鮮明さに圧倒されるのにそう時問は掛らなかった。
夏時間がない国に戻ると、膝疾患の診断のために、フランスで得た新しい知識を是非と
も導入したかった。強力な画像診断となる MRI はまだ登場していなかった。半月損傷を診
断するには、膝に造影剤を注入して X 線写真を撮る方法である、関節造影が画像診断とし
ては最も有用であった。
画像を拡大すれば、病変がより明瞭に判別される。被写体と管球の間を縮め、X 線フィ
ルムとの距離を長くするため 40cm 高の発砲スチロールの台を作った。拡大によるボケを防
止し鮮明な像を得るためには、小焦点の特殊な管球が必要である。通常の管球よりも高価
である。約¥150 万する管球を、必要性を説明し、事務長を説得して購入した。これによ
り約 1.7 倍の鮮明な拡大像を得ることができた。それからというもの、膝疾患の診断を向
上させて、治療に結びつけた。
膝蓋骨の軟骨を見るために、30、60、90°の角度で膝を固定できる撮影台の製作を、木
工を専門とする職員に依頼した。特注の撮影台を使用することで、膝蓋骨軟骨の造影像を
得た。この検査で診断し、手術した患者さんの1人は、30 年後の現在、79 歳にも拘らず正
座も可能で、元気に国内外を旅行して回っている。
ある時、切断膝を CT で撮影して調べていたら、膝蓋骨の軟骨が関節造影よりもより鮮明
に描出されることに、偶然に気付いた。通常の仕事が終了後、
「こうしたらどうですか」と
新たなアイデアを示す KD 放射線技師とともに研究を開始した。大学の解剖学教室に関係が
あった医師の協力で入手した膝蓋骨標本を用いて、軟骨にドリルで孔を開けて軟骨病変を
作り出した。孔に造影剤を塗って、どのくらいまで小さい病変が描出できるか調べた。
膝に空気と造影剤を膝に注入して CT 撮影すると、患者さんの膝蓋軟骨の病変の診断に力
を発揮することが判明した。この研究は一流の英医学雑誌に掲載された。
今では MRI という優れた診断手段にて、関節造影も、2重造影 CT も駆使されてしまった。
医学の発展とともに、診断法や治療法が変遷していくことは当然の成り行きである。しか
しこの過程で、フランス留学から受けた恩恵の多少なりとも、還元できたことは嬉しいこ
とである。
我が家では、フランスの恩恵を今も受け続けている。最も恵みを受けているのは、日日
ワイングラスを傾けている妻であることに間違いない。
九州労災病院勤労者骨・関節疾患治療研究センター
井原秀俊