ハンドブック(STEP 1 「読解編」)より

ハンドブック(STEP 1「読解編」)より
「ハンドブック」は、英日出版総合コースの「概論」の内容をさ
らに発展させ、翻訳全般に関わるさまざまな視点・概念を整
理した概説書で、
「 読解編」
と
「訳出編」の2つのSTEPで構
成されています。あらゆる出版翻訳のシーンに通用する方法
論が述べられた本講座の指針なので、学習を始める前に全
編を通読し、全体的な枠組みを一通り理解しておきます。
STEP1 読解編
■ 3.4. 意味の次元
Part 2 内部コンテクスト
ん。例えば用いられている内容語(名詞、動詞、形容詞など)の暗示的意味がテクスト
に微妙なニュアンスを与え、表現をより鮮明に、あるいは独特にすることがあります。
暗示的レベルの意味がだいたい分かったところで、次は語用論的意味の領域に進みます。
本講座ではここまで、特定の細かな部分を個々に吟味するのではなく、体系的にテク
ストを見るという方針をとってきました。
「意味」
を考えていく際にもこの方針を続けま
3.4.2. す。意味がどこに存在するのかは非常に複雑な問題で、ここでは軽く触れることしかで
「X とは何を意味するのか」という問いに答えようとするのが意味論であるのに対し、
きません。しかし、言語 A のある単語が言語 B のある単語を「意味する」ことはなく、
語用論は「話し手または書き手は X という言葉で何を意味しているのか」に答えようと
一語対一語で意味が同等となるような対応はない、ということを翻訳者は覚えておくべ
します。具体的に言うと、語用論は文や命題よりも発話に関心を持つのです。言葉が発
きです。また、テクストの意味はそのテクストに含まれるさまざまな語彙的要素の意味
せられる場、あるいは話し手と聞き手の対人関係の状況に関心があると言ってもよいで
の総計よりもはるかに大きいことも、読者としての翻訳者は理解する必要があります。
しょう。ケイティ・ウェールズは A Dictionary of Stylistics(1989)の中で Can you drive
互いに結びついて意味を生み出す複雑な体系を理解するために、意味の持つさまざまな
a car? という興味深い例文を挙げています。この文は、居酒屋である人が別の人に言っ
側面を見てみましょう。ここでは意味論的意味(semantic meaning)、構造的意味
た場合(例1)と、急に具合の悪くなったドライバーが助手席の人に言う場合(例2)
(structural meaning)
、記号的意味(semiotic meaning)
、語用論的意味(pragmatic
とでは、別の意味になりうるとウェールズは指摘しています。最初の場合には「君は運
転してはいけないと思う」の意味になり、後の場合には「運転を代わってください」の
meaning)の4つを取り上げます。
意味になりますが、どちらの意味もこの文を純粋に意味論的に分析しただけでは引き出
3.4.1. せないでしょう。
広い意味では、
「意味論」
とは言葉の意味の研究を指します。つまり、語や文そのもの
すでに見てきたように、小説では一般に会話が多用され、手紙のような下位テクスト
の研究です。最も基本的なレベルでは、意味は指示的あるいは明示的(denotative)な
が埋め込まれているものもしばしば見受けられます。ですから語用論的意味を考えるこ
もので、学校のような場で外国語を学習するときに最初に出会うのが言葉のこうした側
とは、テクストの内部分析の一部になるのです。
面です。小学校の教科書には、日常生活に結びついた簡単な文の基礎となる語彙が載っ
同じ発話が異なる語用論的意味を持つ例
ているものです。しかし、その言語に関する知識が増すにつれ、暗示的(connotative)
意味が分かるようになってきます。つまり、
「イメージ」
というどんな語も持ちうるもの
(例1)
(例2)
I don't think
you should
drive.
について学び、その言語で用いられるさまざまな比喩的言葉に関する知識を習得してい
くのです。しかしすでに述べたように、テクストの意味は、各文の語彙項目の辞書的な
定義や各文の文法構造を単純に足し合わせても、必ずしも再現できるわけではありませ
語用論的意味
Can you drive a
car?
Please take
the wheel.
Can you drive a
car?
暗示的意味の異なる認識の例
Dogs are
so cute.
暗示的意味
Dogs scare
me.
3.4.3. 構造レベルにも意味の次元があります。後ほど文体を扱うときに取り上げますが、修
I’
m going
to buy
a dog.
犬好きのA
1
36 │ハンドブック
辞構造などの有標の構造を選択することにより、作品に独特のトーンが生まれ、それが
また意味にも影響してきます。しかしここで考えようとしているのは、それ自体で意味
犬嫌いのB
を持つ文法構造です。日本語の簡単な例として、起きた出来事が不幸な、悲しい、ある
いは不都合なものだったことなどを表す受動態が挙げられます。例えば「彼は 10 歳の
ハンドブック│ 37
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TEXTBOOK 1(STEP 1「読解編」)より
出典解説
原文
AN EXTRAORDINARY WRITERS’ CONFERENCE was held one summer at
Why Write ?
Boulder, Colorado, under the poet (then Dean of College) Theodore Davison,
–– by Hallie and Whit Burnett
who gathered together a faculty of writers which included Robert Frost, Tom
Wolfe, Jean Stafford, and Whit Burnett (then young and bearded) among others.
出 典 解 説
Hallie and Whit Burnett 著 “Fiction Writer’s Handbook”(1975, Harper Perennial)
から巻頭の1章を採ったものです。Preface を Norman Mailer が、Epilogue を J. D.
Salinger が書き、もう四半世紀もの間、作家志望者たちの間で読み継がれてきた名著で
Some of the women students fainted from the altitude or went a little crazy, and
the writing faculty lectured, read manuscripts, insulted students who couldn’t
write, and had a pretty good time.
One day Robert Frost came across Whit when he was reading a rare volume of
す。
Frost’s poems—which Frost borrowed, but never returned. A few years later he
著者は 30 年以上にわたって STORY 誌の編集をしてきた夫妻で、この STORY 誌に
did send Whit an easily available volume of his collected poems in place of the
初めて短編小説が掲載されたのがきっかけで文壇に登場した作家たちには、William
Faulkner をはじめ Norman Mailer, Tennessee Williams, Carson McCullers, Truman
Capote など多彩な顔ぶれがそろっています。将来性があると見込んだ作家たちを発掘
し、育ててきた編集者の筆になるだけに、その内容は具体的できわめて示唆に富んでい
ます。ただこの著作は、Burnett 夫妻の共著という形になっていますが、夫のWhitは1973
年に他界しているので、実際には夫人の Hallie が夫の残したノートや講演の記録などを
もとにまとめたものです。
たいへん真面目に「作家とは?」
「作家になるには?」という問題を取り上げているハ
ンドブックですが、わが国の作家たちによる『文章読本』や、カルチャーセンターの堅
himself first. When an intrepid student asked him one day why anyone should
write in the first place, Frost’s answer was unequivocal:
“I don’t know why you should write, but I know why I do. I don’t get the same
satisfaction out of doing anything else.”
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To get more satisfaction out of writing than out of anything else certainly is
part of what it means to be a writer. With distractions all around us, singleness of
purpose is essential in getting at the natural rewards and pleasures of the tasks
しになっています。この作者の姿勢を把握しそこなうと、Some of the women students
we set for ourselves. Any one of us may be asked one day, “Why write?” and it is
fainted from the altitude . . . のあたりで早速つまずいてしまうでしょう。アメリカで
well to be prepared with a satisfactory answer. It is well to be able to say we don’t
る Robert Frost についても、その自分勝手な一面が容赦なく暴かれているなど、≪文
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rare book, but without apology. Obviously Frost made no bones about pleasing
苦しい「文学講座」のたぐいのいかめしさは微塵もなく、冒頭からユーモラスな書き出
は中学校の教科書にはたいてい作品が取り上げられ、国民的詩人として尊敬を集めてい
5
20
get the same pleasure from doing anything else.
豪≫の素顔に迫る柔軟な書き方を訳文にも反映させることが要求されます。
NOTES
各テキストは、ハンドブックと同様に「読解編」
と
「訳出編」の2つのSTEPで学習を進めます。
ひとつの作品を読解と訳出の2つの観点から取り上げ、演習形式で学習します。
<
「読解編」
では、下記のように幅広い視点から原文の理解を深めます。>
1. 出典解説:翻訳するうえで必要な情報や背景知識を理解。
2. 原文:「NOTES」
を参照しながら精読。
3. 大意把握:大意が正しくつかめているかを客観問題でチェック。
4. 翻訳ポイント把握:読解の段階で、訳出上のポイントが的確にとらえられているかを客観問題でチェック。
5. 作品分析:「ハンドブック」
を応用して作品の分析を行い、
プロがめざすべき作品理解と翻訳アプローチの水準を提示。
6. エッセイ:第一線で活躍中の翻訳者が、
テーマごとに実践的なアドバイスをつづった翻訳エッセイ。
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4 │ TEXTBOOK 1
Robert Frost(1874-1963)
Tom Wolfe(1931- )
Jean Stafford(1915-1979)
米国の詩人
米国の作家、ジャーナリスト
米国の作家
このテキストで扱う英文の一部です
(実際のテキストは平均7ページ構成)
。
「NOTES」
を参照しながら英文を精読します。
STEP1 読解編│ 5
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