マタイの福音書 4章1節から11節 e-聖書研究会 奥田昭 1、 バプテスマ

マタイの福音書
4章1節から11節
e-聖書研究会 奥田昭
1、 バプテスマを受けられたイエスさまは、いよいよ宣教活動に出られる前に、荒野にい
かれました。ユダヤの荒野は、一木一草ない荒涼とした世界です。日本にいては想像でき
ない風景です。何のためでしょうか。「悪魔の試みを受けるため」と書かれています。我々
では想像できない出来事です。我々人間は、もともと弱い存在ですから、主の祈りのなか
で「こころみにあわせず、悪より救い出してください」と祈ることで精一杯です。イエスさまの
みできることでしょう。なぜなら、悪魔の試み、言い換えれば挑戦とでも言ってよいと思いま
すが、それを受けるためです。それでは、また、何のためでしょうか。それは、イエスさまが、
神の子として、メシアであることを、一層はっきりさせる狙いがあったからです。悪魔からの
挑戦を受ける、まさにイエスさま以外できることではありません。
2、 イエスさまは、悪魔の挑戦を受けるために、そのウオーミングアップをされました。そ
れが40日40夜の断食です。神学生時代は毎月1回は断食の日がありました。良き訓練
でした。私も個人的に断食は何回か挑戦したことはありますが、それはせいぜい3日という
ようなものでした。しかし、日本のクリスチャンの中にはすごい方もおられ、この40日40夜
の断食をなさった方がおられます。その体験談を聞かせていただきましたが、まさに、生き
るか死ぬかの世界で一歩間違えば非常に危険で、感想として、ただただ40日に耐えるた
めも難行苦行ではなかったかなー、という思いでした。お隣の韓国のクリスチャンの信仰
は激しいことで有名ですが、この40日の断食にチャレンジされておられる方も多いとお聞
きします。そのための特別な施設もあるそうです。お医者さんも必ずいるそうです。しかし、
さきほども言いましたように、キリスト教は、肉体の難行苦行を求める信仰ではありませんの
で、イエスさまのように悪魔への挑戦に対するチャレンジというような、余裕をもった断食で
なければならないと思っています。ともあれ、断食は、祈りのためには、とてもよいことで、
そのために1食、2食を断食するのはよいと思います。ただし、断食と、絶食は明らかに違
います。おやつを食べ過ぎたり、時間外で何かを食べて、夕食時、たべられないから、「夕
ご飯は断食します」は断食ではありませんで、お間違いの無いように。
イエスさまは40日40夜断食したあとで、空腹をおぼえられました。そこにこころみるもの
がつけこんできました。こころみるものとは悪魔、サタンのことです。サタンが挑戦してきた
のです。サタンの挑戦の目的は、一つことにしぼられています。イエスに罪を起こさせるこ
とです。そうすれば、イエスはメシアでなくなり、メシアの人類の救いという使命ができなく
なるからです。神様の人類救済という大計画に対して攻撃してきたのです。イエスへの挑
戦はメシアであるかどうかについてです。サタンはいくつかの難しい問題を持ってイエスに
挑戦し、イエスはそれを受け答えられたのです。
3、 サタンのまず最初1番目の挑戦は、「あなたが神の子なら、この石をパンになるように
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命じなさい。」でした。このサタンの挑戦は考えれば、おかしいものです。普通、私たちが
おなかをすいた時に、何をのぞむでしょうか。当然たべものです。パンもそのうちに入るで
しょう。したがって、お腹が空けばパンを求めるはずなのに、サタンは石をパンに変えろと
挑戦してきたのです。
サタンはイエスが「あなたが神の子なら」ばと言いました。そこがポイントです。神の子で
あれば、神の全知全能の力があるはずだ。神は何でも出来る。したがって、何でも出来る
神の力で、石をパンに変えて、自分の飢えを解決できるはずだというのです。サタンの甘
い囁きと言ってよいかもしれません。神の子である、イエスにふさわしい挑戦といえるでしょ
う。
さきほども言いましたようにサタンはイエスに罪を犯す様にたくらんだのです。イエスが
石をパンに変えることは、イエスの罪になるのでしょうか。このことが、罪を犯すことになるの
でしょうか。サタンの狙いはどこにあるのでしょうか。
4、 イエスはサタンの挑戦に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る
一つ一つの言葉による」と書いてある、と答えられました。「書いてある」、それは旧約聖書、
申命記の8章3節の言葉を用いられました。有名な言葉です。
しかし、多くの方は誤解していらっしゃいます。また勘違いされておられます。
まず、大きな誤解は、聖書や、キリスト教は、現実の貧しさ、飢えを無視しているのではな
いか、というものです。聖書はパンより神の言葉、聖書の言葉が大切にして、現実の問題、
飢えや貧しさの解決になっていないというものです。聖書の言葉をもう少し、丁寧に読ん
でいただかねばなりません。聖書には、パンはどうでもよいとは書いていません。正確には
「パンだけでは」と書いてあります。それどころか、このマタイの福音書を進んで読まれると、
14章の箇所で、イエスさまは飢えた人たち、それも1万を超える人たちにパンと魚を与え
ておられます。現実を無視しておられません。キリスト教は現実的、実際的な教えです。パ
ンは我々の胃袋を満たすために必要不可欠なものです。欠かせないものです。そこはは
っきりしておかねばなりません。
そうはいっても、現在の日本のように、飢えや飢餓をしらず、豊かな国では、「パンだけで
はなく」、と言っても余り抵抗がないかもしれません。しかし、今なお、世界中では飢えた人
たちが大勢いる国でこのことばをはたして、素直に聞いてもらえるかは、少し疑問かもしれ
ません。まず、パンだという人たちに対して、「パンだけで生きるのではない」というとき、何
が必要でしょうか。しかし、キリスト伝道師や宣教師が、非常に貧しい国、アジヤやアフリカ
に出かけて、パンだけでなく、いうメッセージをしていることを見るならば、やはりキリスト教
は現実にあった、現実に即した教えであると言って良いのではないでしょうか。
イエスさまがおっしゃった言葉は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る
一つ一つの言葉による」です。これは、人はパンだけで生きない、人が生きるのは神の口
から出る一つ一つのことばである、です。パンは大切だが、人が本当に生きていくために
必要なのは、むしろ、神のことば、聖書のことばであるというのです。
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ここでもう一つの誤解を解かねばなりません。それはパンを求めることは罪ではないとい
うことです。当然といえば当然なのですが、確認しておきましょう。私たちも主の祈りのなか
で「われ等に日用の糧を与えて給え」と祈っています。問題は、イエスが自分の持てる力
を使ってパンを求めること、石をパンに変えることは、まず、頼むべきお方である、神さまに
対して背を向けることになる、まず、大切はことである、神様へ頼むこともせず、自分の力
に依存しているというのです。神の力に頼むべきで、それ以外に頼むことは神という的を
外れているから、罪だというのです。パンか神のことばか、どちらかではなく、どちらを優先
するかです。どちらを第1とするべきかです。どちらを向いているかです。
パンですか、神様ですか。サタンはまず、自分の力に、そしてパンに目を向けさせたの
です。イエスにあなたは神の子で、全知全能、何でも出来るから、石をパンに変えなさい、
自分の力を発揮しなさいとたくらんだのです。パンだけに目を向ければ必ず生活そのもの
に敗れます。神に目を向け、神に頼る生活をすれば必ず勝利します。
イエスさまは、信頼する神に頼んで、み言葉によって生活することをもとめ、その中でパ
ンを求めたのです。そしてイエスさまは申命記のことばを引用して答えたのです。
パンももちろん大切です。しかし、もっと大切なことは、パンを与えてくださる神を優先し、
信頼することです。パンを与えて下さる神を知り、神の言葉を知ることを第1とすべきです。
われわれがもし仮に、神の子のようになり、何でも出来るようになって、飢えた場合、まず
石をパンになれと命じてしまうようにはならないでしょうか。何でも出来る自分の力に頼らな
いでしょうか。イエスは自分ではなく、まず、神さまである、としたのです。
あなたは、パンを信じますか、神を信じますか。神でしょう。それなら、まず為すべきは、
石をパンにではなく、「神様、私はみことばを第1にする生活がしたいです。そして今パン
が必要です。どうか、私にパンをあたえてください。」このように祈りましょう。われわれが為
すべきことは、自分にとり都合のよい解決方法、自分の力で解決できる手段ではなく、ま
ず、神さま、あなたが、計画されている方法で、あなたが今なされようとされて一番良い方
法で解決して下さい、と祈ろうではありませんか。
サタンの第1番目の挑戦、神への信頼を二の次にすることは失敗に終わりました。
5、 サタンの2番目の挑戦も手の込んだものでした。
イエスさまを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、身を投げてみろというのです。
そしてこともあろうに、詩篇91編を引用して、「あなたの足が石にうちあることがない」すな
わち助かるので、それをしろというのです。
サタンは、イエスが第1番目では、聖書の言葉を引用して、挑戦に答えたので、こんどは
聖書から引用してあらかじめ、返答を難しくしようという狙いかもしれません。なんにしても
巧妙なことはいうまでもありません。聖書の言葉を悪用して、ウソで罪を犯せさせようという
のです。なぜ、サタンの言うようにすれば罪を犯すことになるのでしょうか。
サタンは「あなたが本当のメシアなら、神殿の頂、てっ辺から、下へ身をなげてみろ、神
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はかならず、あなたを助けてくれるであろう、あなたはメシアで神から愛されているから」と
いうものでした。しかし、このことは罪になるのです。なぜなら、神を試す、すなわち試みる
ことになるからです。試みるとは、神の言葉を試すことです。聖書の言葉はこのように書か
れているが、本当かどうかためしてみよう、みことばにはこのように書かれてあるが、一度試
して見ようという態度です。
イエスの2番目の返答もやはり、申命記6章6節に書かれている「あなたの神である主を
試みてはいけない」でした。これはすこし、説明が必要です。昔、イスラエルの民が、出エ
ジプト、エジプトを脱出して、シナイ半島をさ迷い歩いていたとき、マサというところにきて、
飲む水がなくなったので、指導者モーセに水を求めたのでした。そのときイスラエルの民
は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って叫んだことに由来していま
す。もし、主が私たちの中におられるなら、私たちを守ってくださる、いなければ守ってくだ
さらない、と言って主を試みた背景があるのです。
サタンは見言葉が正しいかどうか、みこばに力がるかどうか、試しにイエスさまに飛び降
りてみなさい、というのです。
イエスの答えは「神である主を試みてはいけない」でした。すなわち、助かるか、助からな
いかとためしてみて、助かれば信じるは、おかしい。信じることは、そのように条件つきなも
のではない。神のみことばに対する信頼は、例えどのような結果になろうとも信じることであ
る。これも自分の思いどおりに神のことばを利用しようとするサタンのわなに対するイエス
のいましめです。サタンの思惑、神のことばへの信頼に対する,不信という罪を犯させるこ
とに対して、イエスが答えられたのです。2番目のサタンの挑戦も退けられました。
6、 サタンの3番目に挑戦はどのようなものだったのでしょうか。
サタンは言います。もし、ひれ伏して私を拝むなら、この世のすべての国々を差し上げ
るというものでした。これはあからさまな、偶像礼拝への誘いです。真の神以外への礼拝
の勧めです。サタンは、一応この世の支配者です。ですから、メシアであるイエスは、すべ
ての人に対する救いを完成する、しかし、その道、十字架の道は険しい、そのようなことで
はなく、もっと簡単に偶像礼拝さえすれば、この世の富、栄華を手見入れることができるか
ら、簡単な道を勧めたのです。しかし、これもメシアに対して罪を犯させることになるのです。
なぜなら、人の救いを、神様以外のことや方法でなそうとするものだからです。お金や富
や権力で、救いをえることができるのでしょうか。イエスの十字架以外に救いを求めること
は罪です。十字架以外に救いの道はありません。そのみちは険しいこと、みなの僕となる
こと、安易なことでありません。しかし、それが神様が計画された人々の救いの計画であり、
御心です。それ以外の安易な方法、近道、楽な道は、皆神さまから離れた、罪を犯す道
なのです。
サタンの勧める方法は、唯一の神に対する背信の道です。大きな罪です。なさなければ
ならないのは、イエスが申命記6章13節に書かれてある箇所から引用されたみことば、「あ
なたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」です。
サタンからの3番目の挑戦もイエスさまは退けられました。
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サタンは立ち去りました。しかし、永遠ではありません。これは我々にとってもおなじことで
す。サタンの攻撃はいつあるかもしれません。しかし、怯えることはありません。イエスさま
が為された、唯一の方法、御言葉をもって立ち向かうことです。
イエスさまがサタンの挑戦にを退けられたことに共通していることは、みことばです。わ
れわれが神の言葉がありながら、それを軽視し、それを生活に用いず、あまつさえそれを
放棄していることが、あるからです。ですから、この世のいろいろなものに敗れてしまうので
す。サタンの攻撃に対処できないのです。神様の言葉を第1とすることの大切さです。生
活のなかで、もう一度み言葉の生活を回復しなければなりません。み言葉第1、これ以外
に無いというくらい大切な原則です。我々は苦しいこと、大変なこと、困難なこと、があれば
まず、なによりも神さまをみることです。神様のことばをおもいだすことです。覚えていなけ
れば聖書をみるべきです。みことばを見上げることです。みことばが勝利の鍵です。それし
かありません。イエスさまはすでにみことばによって勝利を取っていてくださっています。
安心しましょう。確信を持ちましょう。
1、 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉」と書いてあ
る。
2、 「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。
3、 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。
今週1週間も、いやこれからも、みことば第1として生活しましょう。
お祈りします。
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