福音主義の聖書解釈ハンドアウト

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福音主義神学に立つ聖書解釈
1)福音主義とは
①宗教改革に見られる福音主義の源流
★福音主義・・・キリストの伝えた福音にのみ救済の根拠があるとする思想。律法主義や儀礼・制
度・伝統などを重んずる立場に対し、聖書にもとづく信仰のみを強調する。プロテスタントの思想
的支柱。
(大辞泉)
信仰のみによって義とされるという思想、信仰義認の再発見は、宗教改革のときに見られる。
本来、キリスト教において宗教改革の立場を採る考え方を福音主義と呼んだ。21 世紀初頭を代表す
る英国聖公会の福音派神学者であるアリスター・マクグラスは次のように言及する。「『福音的
(Evangelical)
』と言うことばは 16 世紀に遡り、カトリックの思想家の中で、信仰や実践について、
中世後期の教会と結びついたものよりも、より聖書的なものに立ち返ろうとした人々を指している」
。
これは、それまでのカトリック教会の伝統と思想からの峻別を意味する。プロテスタントが「福音
主義・福音派」と呼ばれたのは、このように教会における権威の所在を「聖書のみ」とし、神のこ
とばに求めたからである。
★信仰義認(ラテン語: Sola fide、英語で by faith alone、信仰のみ)
・・・プロテスタント信仰
の根幹であり、聖書のみ、万人祭司とともに、宗教改革の三大原理の一つ。
ルターは、アウグスティヌスの恩恵論を信仰義認によって表現される、
「教会が立つか、倒れるか
の条項」(articulus stantis et cadentis ecclesiae)とみなした。信仰のみによる義認は、ルタ
ー神学の中軸をなす教理である。ルターは 16 世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、行為義認(善
行によって神は人を義とする)説に由来するものと考え、これに対して、人は善行ではなく信仰に
よってのみ義とされるとパウロ書簡によって説いた。ルターの贖宥状批判はこの説に基づいている。
ルターは自ら翻訳したドイツ語聖書の序文で、信仰義認の根拠の聖句としてより重要な『ローマ
教会への手紙』と比較し、
『ヤコブの手紙』を「藁の手紙」と呼んだこともある。ただしルターはこ
の記述をのちに削除した。すべてのプロテスタントは新約聖書のヤコブ書を聖書正典と認めている。
ルターはデジデリウス・エラスムスの『自由意志論』に反駁する書『奴隷意志論』においては、
信仰義認に対して、自由意志による善行から救いが得られるというカトリック教会の説を否定し、
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人は最初の人アダムの堕罪後、神に向かう自由意志をもたないため、そもそも善行を行うことがで
きないと説いた。
★宗教改革・・・ドイツ中東部の領邦、ザクセン選帝侯国の首都ウィッテンベルクで、アウグステ
ィヌス会の修道士であり大学の神学教授であるマルティン・ルターが、1517 年 10 月 31 日、贖宥の
効力に関する「95 ヶ条の提題」を公にしたことが、宗教改革の口火となった。深い罪意識と鋭敏な
良心から、律法の遵守や善き〈行い〉(功績)による救いの道を説くカトリシズムの教義に根本的な
疑いをいだいた彼は、オッカム神学の研究や上司シュタウピッツを通じての神秘主義との接触、し
かし何よりも神の言としての聖書への沈潜の中で、救いの問題の新たな神学的理解へと到達した。
(世界大百科事典)
★贖宥(しょくゆう)
・・カトリック教会で、信徒が果たすべき罪の償いを、キリストと諸聖人の功
徳によって教会が軽減すること。元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)
によって許されるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階か
らなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔/つうかい)、次に司祭に罪を告白してゆるし
を得ること(告白)
、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会
ではこの三段階によって初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷
してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カト
リック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」
である。
★ 贖宥状/indulgence・・・16 世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。
(教皇レオ 10 世)が(サン・ピエトロ大聖堂)建立のために企てた新たな贖宥状発行に対して、
マルティン・ルターが「95 ヶ条の提題」を発表し、ローマ教会を激しく批判したことが宗教改革の
口火となった。
②近年における福音主義
アリスター・マクグラス他の福音主義神学者によれば、福音主義は大きな 4 つの前提を中心として
いる。
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聖書の権威と十分性
十字架上のキリストの死による贖いの独自性
個人的回心の必要性
福音伝道の必要性・正当性・緊急性
2)福音主義に立つ聖書解釈
①言語霊感
言語霊感(Verbal Inspiration)とは、聖書の霊感が思想だけではなく、ことばに及んでいるとす
る聖書の霊感説である。言語霊感は逐語霊感と訳されることもあったが、機械霊感(mechanical
inspiration)と混同され非難される場合があるので、日本の福音派では、逐語霊感と訳さず、言語
霊感と訳すようにしている。福音派は言語霊感の立場をとるが、機械霊感説を退けている。思想は
ことばを媒介されなければ表現されず、霊感とことばは結びついているため、思想霊感では講解説
教ができない。聖霊は聖書の記者たちの人間的な特徴を十分に用いて、しかも彼らをして文書を書
かせたという点において、機械霊感とは異なる。言語霊感説と対極をなす霊感説は思想霊感説。
②十全霊感
マクグラスなど、福音主義神学者が掲げた福音主義の大きな 4 つの前提をすべて含む聖書解釈は
十全霊感である。
★十全・・
[名・形動]少しも欠けたところがないこと。十分に整っていて、危なげのないこと。ま
た、そのさま。万全。
十全霊感(Plenary Inspiration)とは、聖書の霊感が、救いや信仰のことがらだけではなく、科学
や歴史の領域にも及んでいるとする聖書解釈のことをいう。部分的霊感説と対立する聖書観である。
聖書は科学的な用語でかかれてあるわけではないが、イエス・キリストの十字架の死と復活は歴史
の中で事実として起こったことであり、キリスト信仰と歴史的なものを分離することはできないと
信じる。日本プロテスタント聖書信仰同盟は、変更不可能な規約として聖書の十全霊感を掲げた。
言語霊感と十全霊感を合わせて、言語十全霊感という。
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③言語十全霊感の根拠となる聖句
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえ
に有益です。(第二テモテ 3:16) 新共同訳聖書
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(第二テモテ 3:16) 新改訳聖書
「神の霊感による」と日本語に訳されていることばを、原語のギリシャ語で見てみると、
「θεόπνευστος
/セオプニューストス」ということばが使われている。これは、
「神が息を吹き込まれた」という意味である。
「神 /セオス」が、
「息を吹き込まれている/プニュー
オー」で構成された語である。神が土から造られた人間に息を吹きかけると命が与えられたという
記事(創世記 2:7)に見られるように、神がことばに息を吹き込まれたイメージが浮かんでくる。
神が息を吹き込み聖書記者を通してご自身のみことばを書かせられたので、聖書には間違いがない
という理解である。新約聖書ギリシャ語小事典には次のように述べられている。
全聖書は神の息(霊=死者を生かす力)を吹き込まれた言葉であり、従って、現にその中から神の
霊が読む人の霊に力強く働いて、死んだ者をいかさずにおかない生きた書物であることを意味する。
(新約聖書ギリシャ語小事典)
3)言語十全霊感以外の霊感説
①機械的霊感説
聖書記者が無意識、恍惚状態になり、機械的に口述筆記のようにして記したとする。口述筆記説と
も言われる。聖書学者によっては、この説を逐語霊感説というが、
「逐語」という語は様々な意味で
理解されているので注意する必要がある。
★逐語・・・翻訳・解釈などで、文の一語一語を忠実にたどること。
「―的に訳す」
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ベルコフは「機械的霊感説は言語霊感であるが、言語霊感は必ずしも機械的ではない。聖霊の
導きが用語の選択にまで及んでもそれは機械的になされたのではないと信じることはできる」と述
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べている。ルイス・ベルコフ著
『組織神学序論』
聖惠授産所出版部
1997 年
p.293~
②人間インスピレーション説
聖書の霊感を人間の「霊感」のレベルに引き下げて、アーティストや作家、詩人のインスピレーシ
ョンと同じようにみなす立場である。マックグラスは具体的にJ.G.ヘルダーが彼の著書『ヘブ
ライ詩の精神』
(1782~3)という書物を例にあげ、その中で、このような霊感についての示唆
を与えている。
③部分霊感説
近代の合理主義的な聖書批評学の影響により、聖書に誤りがあると考えた人々によって試みられた
解釈方法。霊的、宗教的な事柄に関してだけ霊感が及んでおり、科学や歴史に関しては霊感が及ん
でいないとする説。進化論と聖書を合致させるために考えだされたとされる。日本基督教団亀有教
会牧師鈴木靖尋は、日本基督教団の牧師の 95%が部分霊感であり、有神的進化論の支持者であると
している。誤りを聖霊に帰す代わりに、聖書の誤りのない部分にのみを信頼しようとする。これに
対する説は十全霊感である。
④自然主義的学説
聖書の起源やその内容に関して、超自然的と考えられるすべてのことを拒絶する。この説をとる者
は、人間精神の働き以外に、聖書からの何の影響も認めないため、キリスト教の根本的教理と事実
の一切とを否定することになり、聖書は他の書物と同じ価値になる。
⑤新正統主義の霊感説
カール・バルトら弁証法神学者の説。聖書は誤りがある人間のことばにすぎないが、これが神のこ
とばになる時があるとする。バルトは、
『教会教義学』
(1・二)で、聖書信仰の言語霊感を否定して
いる。聖書は神の啓示を証するものであって啓示自体ではないと理解する。バルトを頂点とするこ
の新正統主義は、自由主義神学を批判する中で形成されていった立場である。人間の業を否定する
あまり、聖書は人の手によって書き記されたものであるので、聖書自体は霊感されていないが、聖
書の読者に聖霊が霊感を与えるとき、それが神のことばとなって啓示される、という理解をする。
これが「聖書は神の啓示を証しするものであって、啓示(という出来事)自体ではない」という新
正統主義の一般的な理解である。ここにおいて、この啓示を正しく理解するための解釈が必要とな
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るのである。バルトの理解は、聖書がしばしば「啓示そのものである」という聖書の自己証言を無
視してしまうことになる。このような啓示理解では、神認識は非常に主観的なものとなり、また神
秘主義ともなりうる。なぜならば、霊感された聖書ではなく、霊感されて啓示を受けた、という経
験に信頼を置くということになるからである。
★カール・バルト(ドイツ語: Karl Barth, 1886 年 5 月 10 日 - 1968 年 12 月 10 日)
・・・20 世紀
のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者。その思想は弁証法神学や危機神学、ある
いは新正統主義と呼ばれる(バルト自身は自らの神学を「神の言葉の神学」と呼んでいる)。1934
年、ナチス・ドイツの政策に従うドイツ福音主義教会に対して結成された告白教会の理論的指導者
となり、バルメン宣言を起草した。
★新正統主義(Neo-orthodoxy)
・・・16 世紀の宗教改革の強調点を新しく捉え直そうとする 20 世
紀の神学の流れに対して、アングロ・アメリカの神学界が与えた名称。内在主義と楽観主義が強い
19 世紀の自由主義神学に対抗して、神の超越性、人間の罪性、神の恵みのみによる救いなどを、従
来の宗教改革的な正統主義ではなく、啓蒙主義以降の近代的視点から捉えなおそうとした。弁証法
神学とも呼ばれる。
バルトの特徴は「神の言葉の神学」と呼ばれる神学にある。バルトは、誤りだらけの人間のことば
に過ぎない聖書が、神との出会いの契機において、神のことばと見なされるときがあるとし、聖書
の客観的な権威を認めない。新正統主義の聖書観は、断続的神言化説と呼ばれる。バルトは、自由
主義神学(リベラル神学)に欠陥があるとしたが、聖書についてリベラル派の高等批評を受け入れ
ていた。 正統主義では、聖書を神の言葉と信じるが、それに対して新正統主義は聖書そのものの霊
感を認めず、聖書は神のあかしであるという。
日本のエキュメニカル派の神学には、バルトの弁証法神学が強く影響を及ぼしており、植村正久の
後継者である高倉徳太郎がその備えをしたとされる。高倉はバルト以前のバルトと呼ばれるピータ
ー・フォーサイスの影響を受け、1924 年に東京神学社でバルトとブルンナーを紹介した。これは日
本における神学の「ドイツ捕囚」と呼ばれる。バルトは世界像、人間観、歴史的、宗教的、神学的
矛盾、文化的制約において、聖書が誤っていると主張した。
高倉徳太郎の神学は、バルト主義者の桑田秀延(ひでのぶ)
、熊野義孝、山本和(かのう)が継承し、
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日本で発展した。戦後のプロテスタント神学は「バルトの刻印」を帯びていると評される。この系
統を日本において代表する神学校は、日本基督教団の東京神学大学であり、桑田秀延、北森嘉蔵、
竹森満佐一(まさいち)らを輩出している。
コーネリウス・ヴァン・ティルは、バルトの聖書観では、神そのものと、福音の真理を知ることが
出来ないと批判している。改革派の神学者 K・ルニアは、1971 年に来日して「神の言葉としての聖
書」と題する講演を行い、福音派の信じる聖書の霊感と、新正統主義の霊感理解とを区別した。
4)自由主義神学とその聖書解釈
①自由主義神学の意味
自由主義神学とは、プロテスタントの神学的立場の一つで、エキュメニカル派の多くが採用してい
る。「自由主義」というのは、「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って
再解釈する」の意である。かつては新神学(New Theology)とも呼ばれ、日本のキリスト教界にも
大きな影響を与えた。
★エキュメニズム (Ecumenism) は、キリスト教の超教派による結束を目指す主義、キリスト教の教
会一致促進運動のことである。世界教会主義ともいう。転じて、キリスト教相互のみならず、より
幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことをさす場合もある。
②自由主義神学の特徴
* 科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造、ノアの箱舟、
バベルの塔等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・
説話・物語等々)とみなす。
★寓話(ぐうわ)・・・比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭す
事を意図した物語。 名指しされる事のない、つまりは名無しの登場者は、動物、静物、自然現象など
様々だが、必ず擬人化されている。 主人公が、もしくは主人公と敵対者が、ある結果をひき起こした
り、 ある出来事に遭遇する始末を表現する本筋は、なぞなぞと同様な文学的構造を持ち、 面白く、
不可解な印象を与えることによって読者の興味をひき、解釈の方向を道徳的な訓話に向ける特性を
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持つ。 民話によく見られる様に、物語りの語り末には、寓意的な解釈を付け加えることが習慣的に行
なわれてきた。
* 聖書本文に対する批評的な研究・解釈、高等批評を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々
にどう読まれたかを解釈の第一義とする。各書の成立に纏わる伝説(モーセ五書の著者はモーセ、
イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)を必ずしも採用せず、聖書無謬説、聖書無誤説、逐語
霊感説を採らない。
* 古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから
現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする。
* 一部の甚(はなは)だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中
心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。この段階に達すると、聖
書と基本信条に示される三位一体の神を信じる、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に
逸脱する。異端神学というより、その宗教性そのものが根本から問われる。改革派の保守的神学者
メイチェンは、自由主義神学(リベラリズム)はキリスト教では無いと断言した。
* 用語「自由主義神学」は、これら科学や聖書学の成果を謙虚に受け入れる理性と保守的信仰を両
立させている層から、宗教的に甚だしく形骸化している層・いわゆる宗教色の希薄な信仰者・共感
者層までを幅広くカバーする。
★高等批評(Historical criticism、higher criticism)
・・・文学分析の一分野で文書の起源の批
判的調査である。それは近代聖書学によって使われた手法で、聖書を対象とする。
高等批評は聖書の文書を、ある時代の人間の様々な動機によって作成された人間的な創作文書であ
るとし、誤りが無い神のことばである聖書を信じる立場とは対照的である。
西洋古典学において新興の高等批評は、聖書、古典、ビザンティン、中世の時代の、誰によって、
いつ、どこで書かれたか決定しようとした。高等批評は共観福音書の問題、すなわちマタイによる
福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書を調べる。高等批評はいくつかのパウロ書簡がパ
ウロによって書かれたという伝統的な理解を認める一方、教会の伝統を否定し(福音書)
、さらに聖
書のことば自身を否定して第 2 ペテロがペテロによるものでないとする。文書仮説はモーセ五書の
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起源を説明しようと試みるもので、高等批評の鍵となる仮説である。
モーセ五書(トーラー)の起源については、文書仮説を用いて 4 つの独立文書からなると考える。J、
E、D、P を BC450 年ごろに恐らくエズラが編集したとする。伝統的な立場は、モーセによって書か
れ編集されたと理解されている。
(文書仮説)
本文批評(下等批評、下層批評)は、高等批評と対比される。 本文批評は聖書自身の内的証拠に基
づいてテキストから釈義する。
★文書仮説(Documentary hypothesis)
・・・旧約聖書のモーセ五書の記者がモーセであるという伝
統的なキリスト教会の立場を否定し、これがモーセの後の異なる時代の別々の著者による合成文書
であるとする聖書学における仮説である。19 世紀に出現したこの仮説によると、ある程度互いに平
行する四つの文書は、編み合わされたものであったという。もっとも影響力のある仮説はユリウス・
ヴェルハウゼンによる。以下のような著者を仮定としてあげて推定する。
* J - Jahwist(ヤハウェスト)により、BC950 年頃に南ユダ王国で書かれた。
* E - Elohist(エロヒスト)により、BC850 年頃に北イスラエル王国で書かれた。
* D - Deuteronomist(申命記文書作者)により、BC621 年頃にエルサレムの改革時に書かれた。
* P - Priestly により、BC450 年頃に書かれた祭司文書。
* R - 最後にエズラと考えられる編集者がこれらを混ぜ合わせた。
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最後の編集者が、この後者の(祭司)文書を利用して、全体に構造を与えたと仮定する。
ヴェルハウゼンは 4 文書がイスラエルの宗教の歴史における、中央集権化と祭司の力の拡大を示し
ていると考えた。この考えは自由主義神学派によって広く受け入れられている。
同じような方法で、三つの共観福音書間の一致と不一致を説明するために、学者たちは、「二資料」
仮説を考えた。この仮説によると、マタイとルカは、二つの主要な資料から作成されたという。
一つはマルコの福音であり、もう一つはイエス語録(「資料」を意味すドイツ語の「クヴェレ」[Quelle]
にちなんで「Q 資料」と呼ばれている)であった。
★Q 資料・・新約聖書の『マタイによる福音書』および『ルカによる福音書』の執筆の際に両福音
書に共通の源泉となったと考えられる仮説上の資料である。
5)聖書の無謬と無誤
★聖書無謬(むびゅう)説(Biblical infallibility)・・・逐語無謬説、無誤無謬説、あるいは、
逐語的無謬説などとも表現され、
「聖書」は無謬である(誤りがない)ことを絶対的要件とする概念。
キリスト教関連用語としては、神学者、聖書学者、キリスト信仰者が用いる用語。この用語は、キ
リスト者が「聖書」をどのように信仰の中で、あるいは神学、あるいは聖書学のなかで位置づける
かにも大きく関連する教義の基本にかかわる考えであり、また聖書の読み方の基本的な姿勢を規定
している用語でもある。本来、「無誤」と言う語にしても「無謬」と言う語にしても「誤りがない」
ことを表現する同義語であるが、聖書理解に関しての論議が進むにつれて、これらの語を区別する
ようになった。
* 「無謬」
:教理や道徳に関する聖書の言及において、誤って導くことがないこと。
* 「無誤」
:聖書の歴史的、科学的言及において、誤った内容のないこと。
このように、用語間にその意味の差異を設けえた上で、ある人は「聖書に誤りがない」と言うとき、
前者のみを主張し、ある人は、双方を含めて主張するという事態が生じた。聖書の「無謬」性のみ
を主張する立場を、「部分的無誤性」、「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場が「全的無誤性」で
ある。聖書の無誤性に関するシカゴ声明は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。
この立場を取る学者も、オリゲネス以来、聖書に平行記事間の矛盾など、問題があることに気づい
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ていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、
「誤り」
(errors)と断定しないで、聖書の「諸
現象」(phenomena)と言う表現に置き換え、歴史的・科学的分野での聖書の言及に明らかな誤ちが
立証されるか否かを待つという姿勢である。聖書に誤りがあると主張する異端や異教徒に対し、ユ
スティノスは、その箇所が「わからないと告白する」と言った。またアウグスティヌスは、写本の
欠陥、翻訳の問題、自分の理解の不足を理由とした。トマス・アクィナスは、聖書の真理性を無条
件に確信するべきであるとした。
★ 聖書の無誤(むご)性(Biblical inerrancy)・・・聖書が原典において全く誤りがない神の言
葉であるという聖書の教理の前提である。この立場では「歴史と科学の分野を含んで完全に正確」
であり誤りの部分はないと言われる。無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、
歴史や科学の分野には誤りがあるとする聖書無謬説(限定無誤性、部分霊感)とは区別される。
聖書は、神の霊感を与えられた聖書記者によって書かれたという。根拠となる聖書箇所は
第二テモテへの手紙 3 章 16 節である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(第二テモテ 3:16、新改訳聖書)
聖書の霊感を信じるクリスチャンはそれが無謬であると教える。この無謬性に同意する人は、聖書
が信仰とクリスチャン生活において有益で、真実な規範であると信じる。しかし、無謬性を教える
幾つかの教派は、信仰と生活においては無謬でも、歴史と科学の分野に誤りがあると考えている。
無誤性の前提を持つクリスチャンは、聖書が原典において、科学、地理、歴史の分野についても、
十全に真理を教えており、全く誤りが無いと信じる。
キリスト教の観点からの、この信仰の基礎と範囲は、使徒パウロのガラテヤ 3 章 16 節で要約され
る。パウロは創世記 3 章 15 節が複数形の「子孫たちに」ではなく、単数形、男性である「子孫に」
と述べていることに議論の基礎をおいている。これは、救い主イエス・キリストの到来を預言する
箇所であり、聖書の一言一句が、誤りが無い例を示している。また、イエスは、聖書の「一点一画」
にわたって権威があることを群集に話した(マタイによる福音書 5 章 18 節)。
神学的にもっともシンプルな説明は、神が完全な方であるから、聖書は、神のことばとして、誤り
から守られ、完全であるということである。
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聖書の無誤性の立場では、また、神がそれぞれの聖書記者「特有の個性と文体」をそのまま使い
ながら、彼ら聖書記者自身の言語と個性を通して誤り無い神の啓示を伝えるために、神の霊感が彼
らを導いたと教える。この無謬性と無誤性は聖書の原典について言われる。そして、保守的な学者
は、翻訳における人為的な誤りの可能性を認めるが、66 巻の聖書は「神の摂理と保護」によって「純
粋に保存」されてきたとしている。また Geisler & Nix は、聖書の無誤性が以下のことによって確
立されていると主張する。
* 聖書の歴史的正確さ
* 聖書自身の無誤性の主張
* キリスト教会の歴史と伝統
* クリスチャンの個人的な神の体験
ローマ・カトリックは公会議とローマ教皇のいくつかの宣言は、誤りから守られ、無謬であると考
える。1870 年に教皇無謬説が正式に定められた。ローマ・カトリックはイエスがローマ教皇を任命
したので、信仰と道徳に関して宣言できると断言する。またローマ教皇ピウス 12 世は Divino
Afflante Spiritu において、教皇の無誤を信仰と道徳の問題に限定して考える人々を弾劾した。ロ
ーマ・カトリック教会は正しい解釈をする権威はローマ・カトリックの教権にあると考える。この
見解はカトリックのカテキズムの中で繰り返されている。
1978 年、シカゴにプロテスタント諸教会の代表が集まり、聖書の無誤性に関する大きな会議が開催
され、シカゴ声明を発表した。この会議には保守的な改革派教会、長老派教会、ルーテル教会、バ
プテスト教会の教派の代表が参加した。 シカゴ声明はどの伝統的な聖書翻訳についてもそれが誤り
がないとは主張していない。聖書の原典において誤りがない神の言葉であると宣言している。聖書
の無誤性は、シカゴ声明で明確化され、日本では聖書信仰として確認された。
福音主義の対場に立つ教会は、正教会やローマ・カトリックと違い、聖書と同等の権威を持たされ
た無謬の伝統の存在を拒絶する。福音派は、イエス・キリストが最終的な権威として聖書を引用す
ることを指摘して、聖書自身がその権威を立証するとしている。