講義 7: 祇園祭山鉾行事と祇園祭山鉾連合会について 財団法人祇園祭

財団法人ユネスコ・アジア文化センター
第 2 回無形文化遺産保護のための集団研修
講義 7:
祇園祭山鉾行事と祇園祭山鉾連合会について
財団法人祇園祭山鉾連合会
理事長 深見 茂
2008 年 12 月 16 日
アウトライン
1)
祇園祭の成立
2)
祇園祭行事の二分化
3)
今日の山鉾行事の直接のルーツ―明応 9 年(1500)以降
4)
祇園祭の山鉾行事を支えてきた組織「町中(ちょうじゅう)
」
5)
町中の衰退
6)
祇園祭山鉾行事の維持・復興への取り組みについて(「祇園祭山鉾連合会」の
成立)
7)
結び
1)
祇園祭の成立
最初にごく簡略に祇園祭の成立について述べます。京都の町が日本の首都として拡大
し、人口の集中が始まると、衛生条件の悪化が生じ、とりわけ水の汚染を原因とする疫
病が、夏期を中心に蔓延しました。当時、人々はこれの原因を諸々の怨霊の怒りや呪い
に求めましたから、その怒りや呪いを鎮め、疫を祓う目的で始まったのが、祇園御霊会
(ぎおんごりょうえ)の成立です。仏教の行事でしたが、のち、祇園社、すなわち祇園
感神院(ぎおんかんじんいん)が、八坂神社と称されて、神道の行事となってからは、
祇園祭と呼ばれるようになったのです。
この祭りの開始年には諸説ありますが、今日の学者たちが主張するところによれば、
貞観(じょうがん)11 年(869)、祭の形式は、祇園社から二丈(約 6 メートル)余の
鉾 66 本を、神輿とともに、京都の水流の源とされる神泉苑に送り込む、というものの
ようでした。
なお、祇園社の祭神はヒンズー教の神、牛頭天王(ごずてんのう)、八坂神社になっ
てからは、日本神話の神である素戔鳴尊となっております。いずれも、怒りと災厄の神
です。
2)
祇園祭行事の二分化
こうして、疫を氏子たちから取り除いてくれるようにと、祇園社を中心に皇室、貴族、
武家等、要するに時代の権力層が主催する神事が、神輿渡御(みこしとぎょ)を中心に、
その形態を次第にととのえて行ったことに対応し、やがて、氏子自身も、これを擬した
別個の祭事を工夫するにいたります。これを風流(ふりゅう)と称し、さまざまの飾り
ものが練り歩きました。やがて、この行事がひろく知られて評判となり、全国から見物
人が訪れるようになるにつれ、また、当時の政治権力(幕府)もこの祭事を支援したこ
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ととも相俟って、次第に多彩となり、今日の鉾や舁き山に近い出しものが、応仁の乱
(1467)以前、すでに 58 基も存在したと、文献は伝えています。
この氏子たちによる山鉾風流、これが本日の主題の前半、すなわち「祇園祭の山鉾行
事」の原初的ルーツ、すなわち原始的形態です。
なお、このような、神社の神事と、氏子の祭事との二分化は、日本では全国的に見ら
れる形態です。江戸の神田明神、山王社の祭で、本来の出車(だし)以外に出る、踊り
屋台などを「付け祭」と呼んでいましたが、これなどもその一例でしょう。
3)
今日の祇園祭山鉾行事の直接のルーツ ― 明応 9 年(1500)以降
応仁の乱が 1467 年に始まり、京都は焦土と化し、祇園祭の山鉾風流 58 基もことごと
く灰塵に帰したとされます。
戦乱が次第に収まるにつれ、山鉾行事も徐々に復活し、明応 9 年(1500)
、36 基前後
の山鉾が巡行に参加しました。そして、このとき復活し、巡行した山鉾のほぼすべてに
関して、町籍(すなわち、どの町内<ちょうない>にその山鉾が所属していたか、とい
うことです。この「町内」については後にあらためて説明します)、風流(ふりゅう:
すなわち、どのような趣向の飾りものを載せていたか)
、名称(なんと呼ばれていたか)
、
の3点を明確に確定することができます。そして若干の例外はありますが(たとえば木
賊山<とくさやま>はこの年よりも後に生まれています)、これらの山鉾ほぼすべてに
おいて、今日にいたるまで、町籍、風流、名称がそのまま変わらず伝承され、現在も巡
行されています。また、この明応 9 年(1500)に再興された折の山鉾の外的形態も、そ
の後、規模は大に、装飾はより華麗になりはしましたが、ほぼ今日のそれと同じである、
とされます。
要するに、今日、祇園祭に巡行を認められている山鉾は、未再興のため休止中のもの
をも含めますと、35 基ですが、これらの直接のルーツは、以上の経緯よりして、この
明応 9 年に求めることができると考えられます。
4)祇園祭山鉾行事を支えてきた組織「町中(ちょうじゅう)」
前章で、
「町内」という言葉を用いましたが、正確には「町中(ちょうじゅう)
」と呼
ばれる組織が京都には明治 31 年(1898)までありました。このような組織は室町時代
から次第に実質が形成されたものと推測されますが、正式なその成立は、おそらく豊臣
秀吉の統治以降と思われます。京都の町は、中国の長安を模範として造営され、その中
心部は碁盤の目状になっています。その枡目の一辺は 60 間(けん)
、すなわち約 110 メ
ートルです。この一辺の通りを隔てて相対する住居区域が「町中」と呼ばれる行政単位
なのです。そしてこの相対する住居に住む住民、これが「町衆(ちょうしゅう)」と呼
ばれる人々でした。 祇園祭の山鉾は、この町中が所有し運営していたのです。
さらに、この山鉾を所有する町中それぞれを、近辺の数ヶ町の祇園社の氏子(うじこ
=信者)からなる町中が、労力的、財政的に支援することを義務づけられていました。
この制度を「寄町」(よりちょう)制と称して、豊臣秀吉が定めたものです。彼は、裁
判権、警察権以外のほとんどの行政権をこの町中という組織に請け負わせた結果、江戸
時代以降、明治 31 年まで、たとえば不動産所有売買権、居住転出入認許可権、印鑑証
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明発行権、等の諸権利を行使する権利と義務とを所持し、今日風に申せば、行政直轄の
特殊法人のごとき存在でありました。
具体的、かつ簡略に、これらの権利の持つ意味を説明します。例えば、町中の居住者
の一人が転出するとします。すると、町中はまずその空き家を買収します。そして、次
に誰をその家に住まわせるか、または貸与するか、を希望者のなかから選定することが
できるわけです。適当な人がいなければ、その空き家は当面、「町中持(ちょうじゅう
もち)」として保管されます。古地図を見ますと、一つの町中にこのような「町中持」
の家屋が一時期、複数存在していることもあります。また、手形発行に必要な印鑑証明
発行権を握っていることの意味は御説明するまでもないでしょう。つまり町中の承認が
なければ商売さえ出来なかった、ということです。
さらに、町中は町内の家屋所有者から、間口(まぐち)、すなわち道路に面して占有
している家の幅、に応じて、
「地の口(じのくち)」料なる、一種の町内会費を徴収して
いました。
要するに、町中は、自分たちの居住地区に、ある特定の職業集団のみを結集し、これ
を制御しつつ、自らの自治権を行使して町衆を指揮し、祇園祭を執行していたのです。
その際、町衆は町中持の家屋の一つを「町家(ちょういえ)」として保有し、各種集会
に使用するとともに、普段は祇園祭の懸装品や木部、車輪等をその土蔵に収蔵していま
した。また、祭に際しては、人形や懸装品を飾って展示する、いわゆる「会所飾り」の
場として、また、囃子方を持つ山鉾では、「二階囃子」の場として利用しました。です
から、「町家」こそは、各山鉾にとっては、あらゆる意味で祭の基地となる、不可欠な
設備であったのです。
さらにまた、京都は天皇が君臨する都としての特殊性から町衆は租税が免除されてお
りましたことも併せて考えますと、「町中」は相当強力な権限と財力とを所持していた
ものと推測されます。(ただし、他方において町中は雑色(ぞうしき)と呼ばれる行政
官の給料を負担したり、事あるごとに応分の寄付をいつもさせられていたようですから、
その支出は馬鹿にならぬものであったとも思われます。
)
5)
「町中」の衰退
(1)明治維新になると、まず、明治 5 年、先に述べました「寄町」制度が
廃止されます。これによって多くの山鉾に深刻な経済的ダメージが発生します。すなわ
ち、財政的、労力的に支援してくれていた数ヶ町の「寄町」が、その手を引いてしまっ
たわけですから、山鉾を持つ町中は、いわば孤立してしまったのです。いくつかの鉾は
質入れ、売却の危機に瀕しました。これが近代における「町中」第一回目の危機と言え
ましょう。
この事態は、幸い、氏子の間から基金を募集して、これを困窮山鉾に貸与するという
「清々講社」なる、金融機関の設立によって、回避されます。
(2)次に、近代における第二の、それも決定的な危機が訪れます。それは
明治 31 年、京都市政が自治権を獲得して独立したことによります。すなわち、それま
で町中に委託されていた、先ほど挙げましたような、行政上の諸権利がことごとく京都
市によって剥奪され、「町中」は「公同組合会」という名称に変わります。さらに、こ
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うして諸行政権を手中にして巨大化した京都市の有給の官僚体制を維持するための課
税が、町衆の上にのしかかって参りました。そして、この納税業務を請け負わされたの
が、実にこの「公同組合会」であったのです。
一言で申せば、輝かしき日本近代化、中央集権化の生贄となって、町中はその法人格
をほぼ完全に喪失し、町衆は単なる課税の対象と化したのであります。また、単なる「公
同組合会」という任意団体におちぶれた「町中」は、ただに町内の町衆に対する法的支
配権を失っただけではありません。不動産の所有売買権をも喪失したのでありますから、
もはや祇園祭の重要拠点である「町家」を所有する権利をも失ったのみならず、山鉾本
体についての所有権すらもグレーゾーンに入ってしまいます。
以上、要するに、任意団体「公同組合会」は、法的には、
(a)祇園祭を執行すべく町衆を動員する権利も、
(b)祇園祭の重要拠点である「町家」所有権も、
(c)山鉾の明確な所有権すらも、
喪失してしまったのです。
さて、以上の 3 点の、昭和 20 年(1945 年)までの歴史的経過を少し述べます。
(a)まず、祇園祭のための町衆動員の件ですが、幸い、当時の町衆は、たとえ市制
がひかれようが、町中組織が消滅しようが、その土着の祇園信仰を失ったわけではあり
ませんでしたから、祭は全員の協力で維持されました。
(b)次に不動産問題であります。旧「町中」の人々は急遽、一名ないし複数の町内
の有力者の名義で、「町家」を法務局に登記し直しました。おそらく当局からの指導が
あったものと思われます。この共同体名義から個人名義への登記替えは、御推測頂ける
と思いますが、のち、さまざまな問題を惹起しました。公的財産が個人の恣意に委ねら
れるに至ったからであります。
(c)山鉾の所有権につきましては、さすがに祇園祭の山鉾ともなりますと、世間に
よく知られたものですから、これを奪取、売却する者は現れませんでしたが、部分的な
流出は生じていたと思われる証拠はあります。問題は法人格を喪失した今、それに対し
て告訴し得る正当な所有者が曖昧になってしまったことでした。
(3)敗戦(1945)
:近代第三の、そして最後の危機は、第二次世界大戦と、
その敗北であったことは容易にご想像頂けましょう。「公同組合会」は、大政翼賛会指
導のもと、昭和 15 年(1940)、
「隣組(となりぐみ)」と名を変え、国民統制のための末
端組織に堕落してしまったこととも相俟って、敗戦の混乱は、単に政治的、経済的なも
のにとどまらず、町衆の、そして又、日本人の従来の価値観を根底からゆるがせたから
です。
まず、インフレ、財産税、相続税、等々により、個人名義の所有に書き換えられてい
た「町家」のいくつかが手放され、祭の拠点を喪失した町内が続出しました。今日、で
も10に近い保存会が「町家」を所有していません。
次に、戦時中から戦後にかけての混乱から、多くの旧住民が町内を去り、全く異質で、
京都の伝統とも、祇園信仰とも無縁の新住民が増えてきました。しかも、「隣組」も,
戦後またまたそれが衣替えした「町内会」と呼ばれる組織も、もはやかつての「町中」
のごとき法的権威も強制権も保持していませんから、町衆に対し、祭への協力を強制す
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る力はありません。ここに当然のことながら、祭を維持するための組織力の衰退が生じ
たのです。
6)
祇園祭山鉾行事の維持・復興への取り組みについて(「祇園祭山鉾連合会」の
成立)
はなはだ暗い話題のみを語ってきましたが、もとより、こうした近代の危機に対応する、
各方面の取り組みは早くからなされてきました。既に、5)の(1)で触れました、募
金機関「清々講社」による困窮山鉾に対する融資事業などは、最も早い対策の一つでし
ょう。
次に、早くも大正時代(1912―26)、山鉾の所有権や「町家」所有権、つまり不動産
所有権を奪回すべく、山鉾保存会の公益法人化運動が開始されます。1923 年に一件(「放
下鉾
<ほうかほこ>保存会」)が成功したのを手始めに、この運動は戦前戦後を通じて行わ
れ、今日、全 32 基の山鉾保存会中、23 保存会までが財団法人化されています。
また、行政の援助も始まりました。大正 12 年(1923)、京都市による修繕補助制度の
新設が、また、昭和 14 年(1939)には、
「私祭奨励金」名目による補助制度の新設がそ
れです。
他方、山鉾を所有する保存会相互間には、もちろん、江戸時代から連絡機関は存在し
ましたが、前節で述べましたような、日本近代化の事態を受けて、もっと整備された組
織が要請されるに至ったことは必然の成り行きでしょう。
こうして、公的支援の公正な受け皿の必要上、また、京都市の電気線・電話線の架設、
市街電車の敷設等、要するに、都市近代化の諸問題、さらには観光化の拡大による宵山
や巡行時における交通規制、山鉾警備、人的安全確保の諸問題等、各山鉾単独では解決
不可能な諸問題を協議し、あわせて、各山鉾間のより円滑な意思の疎通を図るべく、大
正 12 年(1923)
、「山鉾連合会」が結成されたのです。これが、現在、私が理事長を務
めております、「財団法人祇園祭山鉾連合会」(1992 年、法人化)の前身に他なりませ
ん。こうして、ようやく、今、皆様の前でお話しております私の存在を権威づけてくれ
る組織の母体がここに誕生したのです。
その後、この組織の使命と責任は極めて重要となり、今日、祇園祭山鉾行事にかかわ
る国内外のほとんど全ての事案の窓口を務めるにいたっています。
中でも責任重大なのは、 昭和 54 年(1979)、「京都祇園祭の山鉾行事」が国家によ
り「重要無形民俗文化財」に指定された際の受け皿となる指定団体が、当祇園祭山鉾連
合会であったことでありましょう。
山鉾行事と一言で申しますが、その内容は多岐にわたります。すなわち、巡行当日の
行列形態はもとより、巡行中や巡行前後の一切の行事、所作等も入ります。具体的に主
なところのみ挙げれば、各保存会が行なう吉符入り(きっぷいり)と称する祭開始の儀
式にはじまり、籤取式(くじとりしき)、会所飾り、二階囃子、翌日の巡行当日の晴天
を祈念してお旅所までを往復する日和神楽(ひよりかぐら)、一切の宵山行事、また、
山鉾巡行そのものは勿論、音頭取り、屋根かた、曳き手、舁き手、お供、等の作業や作
法、さらには稚児にかかわるすべての行事も入ります。
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祇園祭では、また、国家により、重要有形民俗文化財の指定もほとんどの山鉾が受け
ていますが、実は、有形指定以上に、当山鉾連合会は無形指定の順守にエネルギーを費
やしています。と申しますのも、有形文化財の保存は、極言すれば、国家、学者、技術
者たちがしっかり指導してくれていれば、なんとか可能でありますが、無形文化財の維
持継承に関する限りは、ひとえに私ども氏子町衆、そしてそれを代表する祇園祭山鉾連
合会の双肩にかかっているからです。
さらに、本年、当連合会の役割として、重要な一項目が加わったことを御報告いたさ
ねばなりません。それは、第一回ユネスコ無形文化遺産リストに登録されるべき国内候
補の一つとして、上記「京都祇園祭の山鉾行事」が選定され、当「祇園祭山鉾連合会」
がその受け皿となる組織として指定されたことでありましょう。
ユネスコ無形文化遺産リストへの登録を目指す運動には、さまざまの意味が考えられ
ます。とりわけ、地元京都市の文化的活性化への貢献が目的であることは論をまちませ
ん。しかし、それと並んで、私自身は、もっと深刻な危機意識から、この運動に関心を
抱いて参りました。すなわち、祭行事というものは大きな社会的政治的変動に遭遇しま
すと、簡単に消滅してしまうものであることは、歴史が証明しています。その一番典型
的な例は、東京です。祭礼の都、祭の町とうたわれた江戸の町には、神田と山王だけで
も 80 本を超える山車(だし)が存在したと記録にあります。それが、今日ほぼ全滅し、
残っているのは、神輿行事のみであります。関東大震災、東京大空襲等も考慮されねば
なりませんが、その前に決定的であったのは、まず、首都機能完備のための電気線、電
話線、市街電車敷設、等に伴う架空電線でした。つまり、都市の近代化に伴う道路障害
の発生でした。次に重要な理由は、江戸の祭は、天下祭と称され、山王祭は元和元年
(1615)以来、神田祭は元禄元年(1688)以来、江戸城参入、将軍上覧の資格を持つ、
いわば徳川幕府の威光の象徴であったため、明治政府に嫌われたことです。前者は社会
的、後者は政治的理由です。このように、中央官僚が江戸の文化を抹殺しましたから、
今日、東京は、世界中の文化が集まるところでありながら、自らは何の文化も発信し得
ない不毛の大都市と化しています。
実は、この現象は人ごとではなかったのです。京都でも、明治 45 年(1896)、京都府
知事から、祇園祭の山鉾巡行中止命令が出されました。理由は、やはり、電気・電話・
市電のための架空配線による道路障害でした。これは地元新聞社を中心とした、反対キ
ャンペーンが展開され、命令は撤回されています。次に、昭和 20 年(1945)の敗戦に
際し、占領軍による国家神道の禁止令です。八坂神社の祭行事に付属する山鉾も没収さ
れるのではないか、もはや祇園祭そのものも不可能になるのではないか、と当時の町内
の大人たちがひそかに相談していたのを記憶しています。前者は社会的、後者は政治的
大変動です。
また、このような急激な変動のほかに、じわじわと迫りくる、経済的・思想的な変動
も、日本の民俗文化の、そして、祭文化の根を掘り崩しつつあります。
その見地から、わたしども祭文化を保存継承しようとする者たちは、あらゆる機会を
とらえて、品位ある方法で、祭りのステータスを高める努力をしなければなりません。
その意味において、今回のリスト登録に成功することは、祇園祭の山鉾行事を国際的な
関心のもとに置き、日本政府にこれを守る責任をより強く自覚させる機会となるであり
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ましょう。
7)結び
以上をふまえ、最後に、山鉾連合会の責任者として、祇園祭の山鉾行事を執行してゆ
く上での私の基本的な考え方を申し上げておきたいと考えます。
まず、やや長文ですが、引用をひとつさせて頂きます。中村敦夫という政治家の言葉
であります。
(『子どもたちの八月十五日』 岩波新書 より)
「江戸時代から日本はお上の国だった。しかし当時のお上は各藩の藩主であり中央政
府ではない。そして藩の下には無数の地域共同体がそれなりの自主性をもって呼吸して
いた。自分たちの生活についてはある程度の地域の自主志向が残されていた。こうした
共同体的主体性が失われたのは明治維新以降である。日本は近代化を急ぐあまり強権的
な国家主義路線を選択した。中央集権を強化させるために個人や地域の自主自立性を徹
底的に抹殺した。人々はつかみ所はないが巨大な権力を行使する国家、つまり新しいお
上の影におびえ、次々と主体性と自己決定権を放棄してきた。だからお上の始めた戦争
に関しても責任を感じないし、その是非についても考えもしない。主体性の放棄は思考
停止を生み、今日でもその状況は続いている。」
京都におきましても、日本国家の近代化と中央集権化は、かつて活発な市民生活を展
開してきた市内中心部の町衆の「自主自立性を徹底的に抹殺し」てしまいました。にも
かかわらず、その町衆の精神が支えてきた祇園祭山鉾行事のみは無傷で町衆の手に生き
残ったという事実を、いま引用しました文章の趣旨に沿って考える時、その象徴的意義
は重要です。すなわち、祇園祭山鉾行事こそは、京都市民がかつては行政的諸権利を保
有し、自主性と自己決定権とをもって自律的精神生活を営んでいたことを人々に、①想
起させ、市民が今日もなお潜在的にその能力を備えていることを②保証し、将来その能
力を社会的政治的に顕現させ得る③希望を与える、これら三点を象徴する民間行事とし
て我々の手に委ねられたのである、と考えられるからです。
これが、祇園祭山鉾行事を日本国民の文化財として維持継承してゆこうとする、祇園
祭山鉾連合会の責任感と使命感とを支える精神的支柱に他なりません。
以上
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