複言語、複文化共存 - フランス日本語教師会

第十回フランス日本語教育シンポジウム 2008 年 於リール(フランス)
10ème Colloque sur l’enseignement du japonais en France, Lille (France), 2008
「複言語、複文化共存」という背景の下での日本語教育の展望
鈴木恵里 (SUZUKI Elli)
ボルドー第三大学
ヨーロッパ連合が拡大し、ヨーロッパ内だけではなく世界的なレベルで人の移動や情報
の交換が頻繁に行われるようになった現在、複数の言語や文化に日常的に接する機会が増
えている。このような状況の中では、言語教育も多様化する学習者のプロフィールや学習
目的に見合ったものを提供して行く必要が出て来るのは当然のことだろう。
この記事は、専科以外の学習者対象の日本語学習に関する考察に加えて、アンケートを
実施して得たデータを基に執筆したものである。
バイリンガル主義の教育か、複言語主義の教育か?
現在、フランス全国で10校ほどの高等教育機関で「日本学」あるいは「日本語」学部が
設けられ、日本語を専科とするコースの中で授業が行われている。このコースでは、日本
語を第二言語として学習するわけなので、学習者の母語と日本語の二本立ての、いわゆる
「バイリンガル」主義の教育になるわけである。それに対してformation continue のよう
なコースは基本的に、日本語は学習者がすでに学んだ、あるいは学ぼうとしているいくつ
かの言語のひとつでしかないわけで、これを「複言語」主義の教育と言う。
「欧州評議会」が謳っているように1、これからの展望として「複言語、複文化」主義の
教育、つまり、外国語と自分の経験や知識を駆使して様々なコミュニケーション状況や環
境に柔軟に対処していけるだけの能力2を身につける教育は必要不可欠になりつつある。そ
の教育はつまりそれぞれの外国語を学ぶだけではなく、より大切なのは、
「外国語を学ぶ術
を学ぶこと」である。言い換えれば「欧州評議会」のこの定義は、現在まで当然のことの
ように見なされていた「語学学習の最終目的は、それぞれの言語の最も高いレベルまでた
どり着いてその言葉を完全に使いこなすこと」というコンセプトに相対するものである。
具体的には、様々な言語を学習するということは、ある学習者の各言語に於ける運用能力
が同じレベルであることは非常に珍しく、またそれらのレベルは少しずつ変化して行くも
のだということである。これを「部分的な能力」あるいは「不完全な能力」3という。
「バイリンガル」主義の教育あるいは学習上、第二言語運用能力をネイティブ話者のレ
ベルにかなり近いところにまで高めることは不可能ではない上、ある言語をかなり高いレ
ベルまで習得した後、別の言語をまた同じように習得することも可能だろう。しかし、複
数の言語をほぼ同時に学習している場合、それぞれの言語運用能力を同じレベルにまで高
めることが不可能なことは明白であろう。学習言語同士で優先順位があるので、それぞれ
の言語学習に割く時間も違えば、力の入れ具合も当然違って来るわけである。要するに、
「複
言語、複文化」主義の教育をするということは、この「部分的な能力」を受け入れて、そ
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の代わり相互理解の能力や、相手と自分の共通の言語を媒介にしたり、翻訳などに頼った
りしながらコミュニケーションをはかっていく4ということである。それぞれの言語の運用
能力が不完全なものであっても、数カ国語を学習した、あるいはしているということ自体
がその学習者に取って意義のあることなのだということを、まず教える側も理解する必要
がある。
アンケートの方式
今回行ったアンケートは、飽くまで高等教育機関の日本語を専科としていない学生が対
象である。対象者を中等教育や、語学学校などの社会人に広げた場合、結果に多少なりと
も違いが出てくる可能性はある。その中でも、今回は筆者の配属先のボルドー第三大学の
CLUBの学生と、二年前に実際に教えた経験のあるストラスブール大学付属のSPIRALの学生
を選んで行った。CLUB5というのは、CLES6に相当しない言語の専門外学習者(基本的にボル
ドーに4つある大学の学生、教師、業務担当の人達)を対象としたボルドー大学の免状で、
授業が3つのレベルに分かれて行われている。また、SPIRAL7は21カ国語の専門外学習者が
自主的に学習を行う機関で、フランス全国の大学のパイロット的存在となっている。
第一段階として、SPIRALの方はアンケート用紙をdirectriceからメールに添付という形
で配布してもらった。一方、CLUBは受け持ちの3人の先生に頼んで、メール添付と紙に印
刷した形のどちらかで配った。回収した数は、SPIRALが24、CLUBが32だった。次の段階と
して、SPIRALは地理的に距離があることから、今回はCLUBの教師2人と学生3人にインタ
ビューをした。インタビューの時間は一人30分から45分ぐらいだった。
学習者のプロフィール
どちらの学習者も大学生がほとんどで、主専攻はさまざま、日本語のレベルは初級に相
当するレベル(CLUBはレベル1、SPIRALはA1)がほぼ半数である。
日本語を学ぶことに決めた動機は、どちらも日本語と日本文化に興味があるという学習
者が半数近くいて(40%)、次いで家族に日本人がいるとか、日本に旅行するため、仕事の
ためというのが挙げられる。彼らの授業中のモチベーションに関しては、CLUBの先生は2人
とも、彼らは日本語を学んでいる動機も目的もはっきりしている分だけ、下手をすると専
科の大部分の学生よりもモチベーションが高いかも知れないと言っている。私がSPIRALで
日本語会話のアトリエを開いていた時も、A1のレベルから毎回アトリエは満員で、ほとん
どの学生が休むことなく毎回出席していた。
漢字学習の導入に関する諸問題
漢字学習の問題に取り組むことになった動機
事の初めは、2005年から2006年にかけてSPIRALで学期末にポートフォリオ8を使って各言
語の学習者の運用能力の評価をすることになった時である。日本語学習者の評価に当たっ
て、5つある能力9の中で最も大きな問題となったのは当然「読む」と「書く」だった。特
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にA1のレベルでは漢字の導入をしていなかったため、
「町中の標識や看板に書いてあること
にだいたい見当がつきます」や、
「買い物リストを作っておくことができます」などのよう
な問題が出てくると、実際学習者にそれらの作業をする能力があったとしても、今現在の
日本語を専科として勉強している学生対象の漢字の評価基準から判断すると、どの学生も
この作業はできないことになってしまう。取り合えずその場で評価をせざるを得なかった
ため、A1の読み書きの評価には漢字は考慮しないことにしてなんとか対処した。
十年来専科の一年生に漢字の授業を行っている経験から、専科とそうでない学生を対象
に同じ漢字教育はできないことを確信している。この時から専科以外の学習者の日本語運
用能力を(CECRL)(「ヨーロッパ言語共通参照枠組み」)に沿って評価するための基準を設け
る必要性があることを痛感している。
漢字学習の問題に関しては、大きく分けて二つある。漢字の授業への導入の問題と、そ
の評価基準のそれである。評価基準に関してはまた別の機会に取り上げることとして、こ
こでは漢字の導入問題のみに限ることにする。
漢字を授業に導入すべきかどうか?
アンケートの中で、
「あなたが授業やアトリエでやりたいと思っていることがあれば教え
て下さい」という質問に対して、CLUBもSPIRALもほぼ4割の学習者が日本文化に関して知
りたいと答えておあり、
「日本文化」は、伝統文化、日常生活の習慣、ポップカルチャー、
など様々であった。次に多かったのは、
「漢字学習」の導入である。CLUBの4人に1人、SPIRAL
の5人に1人が望んでいる。しかし、別の質問の中で、
「漢字を学習したいですか」と聞くと、
大多数(CLUBで84,4%、SPIRALで87,5%)が「はい」と答えた。これはどういうことなのだろ
うか。
学習者は漢字に対して多少なりとも興味があって勉強したいのだが、全く知識のない文
字の上にその数が多すぎることがブレーキとなって、自分一人ではなかなか始めることが
できないのではないだろうか。確かにほとんどが大学生なので、それなりに知識欲が旺盛
だろうし、外国語学習がどういうものかを多少なりとも知っている学習者層だと思われる
ので、言葉を学習するということの中には文字を身につけることも含まれていると解釈し
ているためだと考えられる。ちなみに、
「漢字学習は時間もかかるしかなり強い意志がない
となかなか進まないが、それでも学習する気はあるか」という質問に、
「随分前から日本文
化に興味があったので、勉強したい」10と「漢字学習も日本語の勉強のうちだから時間をと
るようにする」の2つの回答を合わせると、その数はCLUBでほぼ半数(47,3%)、SPIRALでは
3人に2人(67,7%)にまで上る。ただし、この数字に出ているだけの学生が漢字の自律学習
をするかというと、そこにはある程度の差が出て来るのはまぬがれない。
「文字学習のアト
リエのようにサポートしてくれる場所があれば勉強したい」と答えてきた学習者は、CLUB
で21,8%、SPIRALで12,9%いることが示しているだろう。
私は以下の理由で専科以外の学習者に対しても漢字学習を勧めた方がいいと考える。
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まず第一に、これだけ多くの学習者が希望しているのであるから、実際に要望があると
いうことが明白に示されている。
第二には、時間の問題がある。大多数の学習者は授業中に習ったことの復習ぐらいしか
普段はやらない。これは、学生が問題だと言っていることの一番に挙げた「時間がないこ
と」が大きな要因になっていると思う。確かに、日本語専科の学生に比べて日本語に割け
る時間はかなり少なくなるのはやむを得ないであろう。
第三には、例えば、インターネット上で容易に手に入れることのできる資料や情報など
や、映像を見たり音声を聞いたりするような、ある程度楽しみながら学習できるような内
容に対しては学生は時間をそれほど惜しまずに使うということである。それに対して、漢
字の復習のように決して楽しいとは言えず、時間と努力を惜しまずにやらなければならな
いものはなかなか行わないのが現状である。
第四には、動機の問題もある。例えば、趣味で日本語を習いにきている学習者と、日本
への留学や研修のような明確な目的があって、限られた時間の中であるレベルに達しなけ
ればならない者との間には、モチベーションと努力の仕方に自然に違いが出て来るのは当
然のことと言えるだろう。
以上のような理由で、
「漢字学習」のような「面倒で大変な」勉強は、
「漢字の勉強は一
人ででもできるから」などと教師側が構えていると、学習を始めないでしまう学習者がか
なりいると考えられる。
ここまで、漢字学習を希望する学生を対象に話を進めて来たが、忘れてならないことは、
「漢字など必要ない」
、
「勉強したくない」と考えている学習者もいるということだ。イン
タビューをした2人のプロフィールをここに簡単に紹介したい。
二人とも化学系の研究者で、日本滞在の経験がある。学習の動機は二人とも「趣味」な
ので、
「日本へ行った時に少し日本語で話ができればいい」そうで、そうなると当然、
「授
業にオーラルコミュニケーションだけあればいい」と言う考えになる。
漢字学習に関しては今の時点では二人とも覚えたくないし、その必要性も感じないと言
う。Bさんは、優先順位の問題で、今は漢字の学習はその中に入っていないと強調していた。
「もしCLUBの授業に漢字学習が導入されていたらどうするか」という質問に、二人とも「や
ってはみるが、たぶんすぐにやめることになると思う。始めから関心がないからうまくい
かないと思う」と答えている。
次に「語学学習のなかでオラルと筆記はかけ離して考えることができると思うか」と聞
くと、Aさんは、できないと答え、Bさんは自分にとってはできると答えた。
「もしアルファ
ベットとは別の文字を使うアラビア語やロシア語のような言語を学ぶ時にはどうするか」
と聞いたところ、
「文字数がそれほど多くないので、たぶん文字も覚える努力をすると思う」
という答えが返ってきた。二人とも「日本語は他の言葉と違う。漢字の数が多すぎるし、
一応ひらがなとカタカナがあるので文字を全く書かないのとはわけが違う。例えば中国語
は漢字を知らないと文字の導入が不可能なので中国語は勉強したくない」と答えた。
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漢字をどう導入するか?
漢字を導入すると決めてもどのように導入するかが大きな問題となる。上記したことを
考慮して考えたのは、漢字を勉強したい学習者用と、したくない学習者用の二つに分ける
ということである。言い方を変えると、漢字の消極的な学習と積極的な学習に分けるので
ある。つまり、漢字の読みに関しては全員強制とし授業で導入するが、書きの方は希望者
だけにし、授業外の「文字学習のアトリエ」で扱うことにする。当然アトリエでは読み、
書きの両方を練習するが、授業では教師が学習者に漢字を書かせることはしない。しかし、
教師は文や簡単なテキストなどの中に既習漢字を導入することができる。ごく簡単で、使
用頻度の高いものから少しづつ導入していくのである。
漢字の読みだけを学習させるというのには二つの理由がある。一つは、読み書きは必要
ないと言う学習者でも、日本に行けば、かなだけでは何にもならないことがわかるだろう
し、駅の名前やよく目にする看板などに書いてある漢字に多少覚えがあるとわかれば「文
盲」感覚が少し和らげられると思われる。もう一つには、日本語を学習した、あるいは使
用している人は皆身に覚えがあると思うが、漢字は読めるのに、書いてみると書けないと
いうことが頻繁にある。漢字が正確に書けるようになるためには、読みを覚える以上に時
間とエネルギーが必要である。特にこれらの学習者にとっては目の前の漢字が「認識」で
きればいいわけなので、学習自体もそれほど辛くはならないのではないだろうか。
終わりに
漢字の導入に関して読みだけを全員に強制して、書きは希望者のみとすることによって、
日本語学習の中で「大変だ」と形容されている漢字学習を導入はするが、望んでいない学
習者に対してはその「大変さ」を軽減しようとする試みである。
もちろん私達を含めて、漢字を学習した経験のある人は誰でも「漢字は見ているだけで
は覚えない。自分の手で何度も書くことによって自然に覚えていくのだから」と言うだろ
う。学習者の中でも同じように考える人がいれば、書いて覚えればいいわけである。何も
漢字を書いてはいけないと言っているわけではないので、
「書く、書かない」や「どう覚え
るか」は個人の判断に任せるわけだ。そうして漢字を書いていくうちに関心が高まってき
て読みも書きも覚えたいという学習者には、両方を勧めればいいわけである。
逆に、企業から日本に派遣されるビジネスマンなどの研修の場合は、経験のある人もい
るかと思うが、漢字の読みすらいらないという場合がほとんどで、その場合は漢字学習を
一切排除してもいいと私は考えている。
要するに、
「複言語」主義の教育の観点から見ると、学習者のプロフィールも学習目的も
さまざまなので、
「何」を「どう」教えるかは、漢字学習に限らず、大半の学習者の必要と
しているものにできるだけ適応するものを選んでいけばいいと私は考える。これが、
「部分
的な」言語運用能力を身につけるということで、まずは教師側がこの観点を理解し共鳴し
なければ、このタイプの教育、学習は成り立たないことを強調してこの記事の終わりの言
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葉とする。
注
1
“Il est possible d’apprécier l’urgence pour tout citoyen européen, non pas
d’apprendre une ou plusieurs langues étrangères, mais d’apprendre à apprendre les
langues étrangères et d’accéder ainsi à la compétence plurilingue où toute
connaissance et toute expérience sont en corrélation et interagissent”.(Annie
SEMAL-LEBLEU, p.27 ; CECRL pp. 129-134)
2
“Par plurilinguisme, le Conseil de l’Europe entend l’aptitude de l’individu
à puiser dans un répertoire de savoir faire et de connaissances dans plusieurs langues
pour faire face aux situations de communication les plus variées”.(Francis GOULLIER,
p. 88)
3
“Le Cadre définit clairement plurilinguisme comme une compétence unique,
naturellement déséquilibrée et évolutive, c’est-à-dire dans laquelle les niveaux
de maîtrise dans les diverses langues et dans les différentes activités langagières
de compréhension et d’expression ne peuvent être que très rarement identiques et
sont appelés à évoluer pendant le parcours individuel. Cette définition est parfois
traduite par la notion de compétence partielle, encore mal comprise en France”(F.
GULLIER, p. 88)
4
“Ce serait aussi choisir d’accepter le développement des compétences partielles,
favorisant l’émergence des capacités de compréhension mutuelle, de médiation et de
traduction.” (SEMAL-LEBLEU, p. 28)
5
6
Certificat de compétence en Langues de l’Université de Bordeaux の省略した形
“Certificat de compétence en Langues de l’Enseignement Supérieur”. Le Certificat
de Compétences en Langues de l’Enseignement Supérieur est une certification
accréditée par le Ministère de l’Education Nationale (créé par l'arrêté du 22 mai
2000) et adossée au Cadre Européen Commun de Référence pour les Langues (CECRL)(「ヨ
ーロッパ言語共通参照枠組み」). Il permet d’évaluer les compétences opérationnelles
de
communication
des
étudiants
en
plusieurs
langues.
http://www.certification-cles.fr/
7
Service Pédagogique Interuniversitaire de Ressources pour l’Autoformation en
Langues の省略した形。Salle d’autoformation には、CD, CD−ROM, DVD,オーディオ
とヴィデオカセットやインターネットの使えるパソコンなど、様々な語学教材が備えてあ
り、学生達は、自分の都合のいい時間に来て、好きなだけ学習できる。自主学習をサポー
トする形で、
各言語ごとにネイティブのモニターが会話や作文のアトリエを開いていたり、
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「タンデム」といって、自分の学習している言語を話す学生を見つけて、定期的にお互い
の言語を使って会話をするなどのアクティヴィティに参加することができる。
8
”Portfolio Européen des Langues”
9
5 compétences : Lire, écrire, écouter, parler continuellement, tenir une
conversation
10
質問に関して、7つの解答例を設け、その中から最も自分の解答に近いものを選んでも
らった。以下がその解答例である。1「随分前から日本文化に興味があったので、是非勉
強したい」
、2「漢字学習も日本語の勉強のうちだから、時間を取るようにする」
、3「
『文
字学習のアトリエ』のようなサポートしてくれるところがあれば勉強したい」
、4「授業や
個人的な用事に時間を取られ過ぎて、勉強する時間がない」
、5「今のところ自分に取って
は必要がない」
、6「約 2000 字もある漢字を勉強すると考えただけで嫌になる」
、7「その
他」
参考文献
佐々木倫子、細川英雄、砂川裕一、川上郁雄、門倉正美、牲川波都季編、2007、
「変貌する
言語教育」東京、くろしお出版、p 257.
Philippe RAPATEL, 2006, Il n’y a pas de choix binaire dans “Les langues
modernes”n°1 janvier-février-mars, aplv.
Anne SEMAL-LEBLEU, 2006, Quelles finalités pour l’enseignement des langues
vivantes ? Plaidoyer pour éducation au plurilinguisme dans “Les langues
modernes”n°1 janvier-février-mars, aplv.
Conseil de l’Europe, 2001, Cadre européen commun de référence pour les langue :
apprendre, enseigner, évaluer, Conseil de l’Europe / Strasbourg, Didier
(A télécharger : culture2.coe.int/portfolio/documents/cadrecummun.pdf)
Frank GÜNTHER, 2006, Peut-on former des êtres multilingues dans des filières
bilingues ? dans “Les langues modernes”n°1 janvier-février-mars, aplv.
Seân Ô RIAIN, 2006, Les langues est l’identité européenne dans “Les langues
modernes”n°1 janvier-février-mars, aplv.
Francis GOULUER, 2006, Qu’entend-on par le “Plurilinguisme”? dans “Les langues
modernes”n°1 janvier-février-mars, aplv.
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Perspective de l’enseignement du japonais
dans un contexte « plurilingue, pluriculturel »
Elli SUZUKI (Université Michel de Montaigne – Bordeaux 3)
Confronté à de plus en plus d’occasions de vivre des situations « plurilingues
et pluriculturelles », le public d’apprenants du japonais en France et en Europe se diversifie, chacun ayant une motivation et des objectifs très variés. Les institutions qui
assurent l’enseignement d’un japonais académique devraient désormais mettre en place,
par extension, un enseignement et un apprentissage destinés à un public plus hétérogène,
en vue d’une diffusion plus importante de la langue et de la culture japonaises. Pour ce faire, les décideurs et les enseignants devraient envisager la possibilité d’un développement des compétences partielles, autrement dit que certains apprenants n’aient pas pour objectif la maîtrise de la langue.
Dans cet article, par le biais d’une enquête réalisée auprès des étudiants non
spécialistes du japonais au sein de SPIRAL, rattaché aux universités de Strasbourg, et de
ceux de CLUB, à l’Université Bordeaux 3, j’exposerai leur profil et leurs objectifs ainsi que leurs attentes, et ce, en nous limitant à l’enseignement des « kanji ». Bien que la
majorité des étudiants souhaitent les apprendre, certains d’entre eux restent réticents à cette idée. Dès lors, il me semble judicieux de mettre en place un « atelier de kanji » en
dehors des cours ordinaires, et en séparant la lecture de l’écriture, c’est-à-dire d’enseigner la lecture à tous les étudiants, et de laisser le choix à ceux qui le souhaitent, d’apprendre ou non l’écriture. Dans le contexte « plurilingue, pluriculturel » et afin de rendre plus accessible
la langue et la culture japonaises, il me paraît indispensable que les enseignants
acceptent la notion de « compétences partielles » et que l’enseignement fondé sur ce principe soit mis en œuvre.