№10 久喜中学校 学校便り ポ 学校教育目標 2月号 平成26年2月5日 プ ラ 「志に生きる」 やる気 おもいやり 生徒数658名 教職員数45名 たくましさ 「アリとキリギリス」について考える 校長 関 泰彦 「アリとキリギリス」の話は、もうご存知のことと思います。 イソップの寓話の一つです。「寓話」というのは、「教訓や風刺を 含めたたとえ話」で、よく動物などが擬人化されて登場します。 たとえ話ですからアリとキリギリスの演じる役割は、はっきりし ています。イソップの寓話が創られたのはギリシア時代ですが、 今なお私たちに考える材料を提供してくれる素晴らしい話です。 1 あらすじ 夏の間、アリたちは冬の食糧を蓄えるために勤勉に働き続け、キリギリスはアリが 働いている間、楽器を演奏したり、歌を歌ったりして享楽に耽ります。 しかし、アリにもキリギリスにも平等に厳しい冬がやってきます。アリたちは夏に 蓄えたえさを食べながらまたも働き続けるのです。一方、夏に楽器を演奏したり、歌 ったりしていたキリギリスは食べ物を探しますが見つからず、アリに食べ物を分けて もらおうとお願いをします。 アリは、「夏は歌っていたんだから、冬には踊っていればいいんだ。」と言って、食 べ物を分けることを拒否し、最後は、キリギリスは飢えて死んでしまいます。 イソップの話にも長い歴史があります。最後の結末についても時代によっていろい ろ改変されたようです。例えば、キリギリスが飢え死にするのは残酷だということで、 アリが慈悲の心をもって食べ物をキリギリスに恵み、キリギリスは心を入れ替えて、一 生懸命働くようになったというものに改変されたこともありました。また、1934年 にウォルト・ディズニーが制作した短編映画では、当時のアメリカのニューディール政 策により社会保障制度の導入を進めていたフランクリン・ルーズベルト大統領への政治 的配慮から、アリが食べ物を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏する という結末に改変されているようです。 2 この話の意味するところ この話には、「キリギリスのように将来の備えを怠ると、危機が訪れた時に非常に困 ることになるので、アリのように将来のことを常に考え、準備しておくことが大切であ る。」という意味があるようです。ここで、私たち大人は、「生徒にアリのように先を見 て、こつこつと生活しなさい。」と言うでしょう。それも、正しいと思います。 3 変化の激しい社会の中でこの話をどのように解釈するか 現代は変化の激しい社会です。変化の激しい世の中で生きていく生徒たちに、この話 から教えるとしたら何が教えられるのかということを考えます。最後は、生徒一人一人 が判断することが大切なのですが、そのためにも、いろいろな見方や考え方を示すこと も大切なことだと思います。 (1) 見方1=アリは本当に幸せだったのか アリは夏でも冬でも食糧をためこむために汗水流して働いていました。これは勤勉さ の表れです。賞賛に値します。このことを生きるための基本を教えるべき小学生や中学 生に「善」として教えることも必要であると思います。 しかし、毎日、毎日、汗水流して食糧を確保するような強い人間はどれだけいるでし ょうか。キリギリスから見れば、食糧を確保するという目的はあるにせよ、誰のために 食糧を運んでいるのかわかりません。一匹のアリですら、本当に危機が来たとき自分に 食糧が回ってくるのかという疑問をもたないのでしょうか。また、キリギリスのような 楽しみ方を知らないうちに人生が終わってしまうのではないかという怖さをもたないで しょうか。 そして、もう一つの疑問が湧いてきます。アリは自分たちのために一生懸命食糧を運 びましたが、冬になると餓死寸前のキリギリスに向かって、「私たちは暑い夏にせっせ と働いたとき笑われたアリです。あなたたちは遊びほうけて、何の備えもしなかったか らこうなったのですよ。」と言って、食糧を分けてあげませんでした。この行為は、困 ったキリギリスに対して、第三者から見てもとても冷酷で、独善的だと思われてもしか たがありません。そこまでして、冬を越すアリを見て、私たちはアリのような生き方を しなさいと生徒に言い切れるでしょうか。キリギリスを見捨てて、冬を越すアリとは本 当に幸せだと言えるでしょうか。 (2) 見方2=キリギリスの生き方は「悪」なのか キリギリスは夏の間、一生懸命演奏したり歌を歌ったりしていました。食糧を確保す るために一生懸命に働いていたアリを笑いました。なぜ、そんなにまであくせくして働 かなければならないのか。本当のところキリギリスには分からなかったのかもしれませ ん。しかし、夏に遊びほうけて、冬の備えをしなかったのだから、アリに食糧を分けて もらえなくても文句を言えないのではないかという意見もあるでしょう。 キリギリスは、果たして自分たちだけのために音楽を奏でていたのでしょうか。アリ に芸術的な演奏を聞かせていたのではないでしょうか。むしろ、キリギリスは芸術家で あり、その消えゆく運命が分かっているために、その一瞬の積み重ねを芸術に変えてい たのではないかという疑問が湧いてきます。アリの生き方が「善」で、キリギリスの生 き方が「悪」だと線を引き切れるでしょうか。人生とはそんなに簡単に線を引きながら 続いてはいないのだと思います。食糧の確保のみで生を終えたアリよりも自らの享楽を 追究し、生を謳歌したキリギリスの生き方には賞賛される価値はないのでしょうか。 勿論、これは大人の判断です。子どもに教える立場にいるものは、享楽に耽ることは、 どちらかと言えば子どもには教えたくないところです。 4 「アリとキリギリス」とこれからの私たち 「アリとキリギリス」の話は、寓話ですから、アリやキリギリスの役割はステレオタ イプにならざるを得ないと思います。しかし、読む側の人間は、それぞれ担わされた役 割を通して、この話を読み解かなければなりません。 (1) 目的と目標と方法をもって生活するアリになる アリが毎日こつこつと一生懸命食糧集めをする。この「一生懸命にこつこつやる」こ とは生きるための基本です。何かあったとき自分が戻るべきところです。このことをま ず、家庭や義務教育の中で教える必要があります。ここがないと人生の土台がありませ ん。しかし、毎日これを繰り返すばかりでは人間の能力は続きません。何のためにとい う目的意識が必要です。「冬の食糧難に備える」という目的です。これがないと、現在 の努力や苦労の道筋と到達点が見えなくなるのです。次に、目的意識をもったら、「い つまでにどのくらいの食糧を集めればよいか」という目標が必要です。今度は、「どの ように食糧を集めたら効率がよいか」という方法を考えなければなりません。アリの場 合は、人海戦術でしたが、私たち人間は一人一人がこの方法を考えなければなりません。 (2) 「なぜ、今、食糧を集めているのか」という動機を確認できるアリになる アリはそれぞれ食糧を探しますが、いったん食糧を見つけると隊列をなして、食糧を 運びます。まるで何かに憑かれたようにもくもくと食糧を運びます。運んでいるアリに は「どうして自分は食糧を運んでいるのだろう」と考えてはいけないのです。ましてや 途中で食糧を下ろして食べているアリなど見たこともありません。 私たちは、好きなことなら努力できるのです。では、物事を実行するときに、その物 事を好きになることが大切なのだと思います。好きなことをやっていれば、それを努力 とは言わないでしょう。 アリも自分が背負っている食糧を巣に運ぶことで何人の笑顔が得られるのかというこ とが動機としてあれば、もっと楽しそうに運べるでしょうし、冬にキリギリスにも喜ん で食糧を分けてあげることもできたのだと思います。 (3) キリギリスにもチャンスはなかったのか キリギリスは、アリに食糧を分けてもらえませんでした。キリギリスは飢え死にして しまいました。なんと愚かな生き方なのかと思います。しかし、キリギリスには他の生 き方は残っていなかったのでしょうか。例えば、キリギリスは夏の夜長に夜通し演奏し た後で、昼間はこっそりアリの知らないところで仕事をするというようなチャンスはな かったのでしょうか。そうしたらキリギリスは、冬でも演奏することができたでしょう し、飢え死にすることもなかったでしょう。むしろキリギリスの芸術活動は長続きした のです。問題は、キリギリスがこれに気づかなかったために死んでしまったということ なのです。 5 まとめ 人生、享楽だけで生きていけるわけがありませんし、働くだけでは生き続けることも できません。アリもキリギリスも寓話の中では極端な役割を背負わされていますが、そ れが極端な比喩だからこそ、私たちは、それを読み、立ち止まって考えることができる だと思います。 キリギリスのいなくなった霜枯れた原っぱに、キリギリスの奏でる音色は、今も響い ているでしょう。アリはその演奏を耳にしながらも、無心に食糧を運び続けているので す。そこで、私たちは、時には賢いアリなり、時には賢いキリギリスになりながら、立 ち止まって、物事をよく見て、考えを深めていきたいです。そして、イソップの寓話を 題材に、もう一度、原っぱを見渡してみたいと考えています。
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