教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂冠名式に際する 名誉教皇ベネディクト 16 世のメッセージ 2014 年 10 月 21 日 2014 年 10 月、教皇立ウルバニアーナ大学は改修を終えた主講堂(Aula Magna)に「ベネディクト 16 世」のお名前 を頂いて献堂した。「禁域の修道僧」の戒律を守る名誉ババ様は参列なさらなかったが、現教皇公邸管理室長で名 誉パパ様の忠実な特別秘書ゲオルグ・ゲンスヴァイン大司教が代理として出席され、名誉パパ様の祝辞を代読され た。長年、神学教授として神学研究を究めながら、若者達の教育に献身されたパパ様は大学の教育の現場に時空 を超えて共に存在できることを喜んで、大学の将来を祝福される。宗教の本質とキリスト教の本質を透察する名誉パ パ様の信仰と知性の煌めきは全く翳ることがない。 私はまず、教皇立ウルバニアーナ大学の総長と首脳陣、主要役職員の方々、学生代表諸君に対 し、改修された主講堂に私の名前を付けてくださるというご提案に真心込めた感謝を表明した いと思います。特別に御礼申し上げたいのは、このイニシアティブを受け入れて下さった大学 グラン・カンチェリエレのフェルナンド・フィローニ枢機卿に対してです。このようにして、 教皇立ウルバニアーナ大学の仕事の場にいつも存在できるということは、私にとって大きな喜 びです。 教理省長官として行った幾度かの訪問において、私はいつもこの大学に漂う大学らしい雰囲気 に心を打たれたものでした。この大学では、実質的に地上のありとあらゆる国々から来ていた 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 若者達が今日の世界で福音に仕えるための準備をしていました。きょうも、私の内的な目の前 に見ているのは、あの主講堂の中にいる大勢の若者達で形成されている共同体、カトリック教 会の驚嘆すべき現実を活き活きと実感させてくれる若者達です。 「カトリック的」 、教会のこの定義、最古の時代から早や信仰宣言に含まれていたこの定義は、 それ自体の内に聖霊降臨の何かしらを抱えています。イエス・キリストの教会は未だかつて、 ただひとつの民やただひとつの文化だけを対象としていたことはなく、当初から全人類のため にあったということを私達に思い出させてくれます。イエスが御自分の弟子達におっしゃった 最後の言葉は、 『全ての民を私の弟子にしなさい』 (マタイ 28,19)というものでした。聖霊降臨 の時点で使徒達はありとあらゆる言語で話しており、こうして、聖霊の力によって、彼らの信 仰の拡がりの全容を明らかに示すことができたのです。 それ以来、教会は現実に全大陸において 発展してきました。あなたがた親愛なる 女子学生・男子学生諸君の存在は、教会 の普遍的な顔を映し出しています。預言 者ザカリアは、海から海へと拡がってい き、平和の王国となるメシアの王国を告 げ知らせています(ザカリア 9,9-10) 。そ して実に、エウカリスチアが祝われ、主 に端を発して人々が互いにひとつの体と なる所にはどこでも、主イエス・キリス トが彼の弟子達に与えるとお約束になった彼の平和が存在しています。あなたがた親愛なる友 人方は、この平和の協働者なのです、この平和を構築し、保護することが、ますます緊急課題 となってきています。このために、あなたがたの大学の仕事はこれほど重要なのであり、あな たがたはイエス・キリストの証し人となるために、彼を近くからもっとよく知るようにこの大 学で学んでおられます。 復活なさった主は御自分の使徒達に、それから使徒達を介してありとあらゆる時代の弟子達 に、御自分の言葉を地の果てまでもたらすように、そして、人々を御自分の弟子にするように という任務をお与えになりました。第 2 ヴァチカン公会議は、“Ad gentes”教令の中で地道な伝 統を踏襲しながら、この宣教任務の奥深い根に光を当て、そうすることによって新たな力を以 て、今日の教会にその任務を割り当てたのです。 しかし、本当にまだ価値があるのか?――教会の内外で今日、多くの人が問いかけます――宣 教は本当にまだ通用するのか?諸宗教間の対話の中で出会い、共に世界の平和のために仕える 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 方がもっと適当なことなのではないだろうか?それに対する反問はこうです、果たして対話は 宣教に取って代われるものなのか?今日多くの人々は実のところ、諸宗教は互いに尊敬し合わ なければならない、そして、相互間の対話において、平和の共通の力とならなければならない という考えです。この考え方において人々は、諸宗教が唯一の同じ現実の様々な変異体である という仮定、「宗教」とは通性であるという仮定、異なる様々な文化に従って異なる様々な形態 をとるが、ともかく同じ現実を表現しているという仮定にほとんど傾倒しています。真実の問 題、元々は他の何にもましてキリスト者を動かしていた真実という問題は、ここにきて括弧の 中に置かれています。神に関する正真正銘の真実は、結局のところ、到達不可能なもので、せ いぜい言葉に表せない事を多様なシンボルでのみ表しえるのが関の山と仮定されています。こ の真実の放棄が現実的であり、世界の諸宗教の間の平和に有益であるように見えます。 それでも、真実とは、信仰にとって致命的に 重要なものです。実際、信仰は、もしも全て が結局は相互交換不可能で、神聖な事柄の近 づき難い神秘に遠くから留意させるだけのシ ンボルに成り下がるのであれば、その束縛的 な性格とその真剣さを失ってしまいます。 親愛なる友人方、宣教の問題は私達を信仰の 根本的疑問の前にだけではなく、人とは何なのかという疑問の前にも据えるということを、ど うか分かってください。ほんの短い御挨拶の範囲では、今日私達全員に深く関わるこの難題を 万遍なく分析しようとしても無理なのは明らかです。それではともかく、最低でも私達の考察 を向けていくべき方向について触れたいと思います。それを異なる二つの出発点から論じ進め ることにします。 I 1. 共通の意見は、諸宗教はいわば、地図上の諸大陸や個々の国々のように、隣り合っていると いうものです。しかしながら、これは正確な意見ではありません。諸宗教は、歴史的レベルで 動いている状態です、それはちょうど諸民族や諸文化が動いているようなものです。待ち望ん でいる状態にある諸宗教が存在します。諸部族宗教はこのタイプに当たります、つまり、この 宗教は自分達の歴史的な時がありながらも、完成に至らしめるもっと大きな出会いを待ち望ん でいる状態にあります。 私達は、キリスト者として、これらの宗教が沈黙の内にもイエス・キリストとの出会いを、彼 から来る光を待っており、彼だけがこれらの宗教をその真実に完全に導くことが唯一できると 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 確信しています。そして、キリストはこれらの宗教を待ち望んでいます。彼との出会いは、自 分達自身の文化や歴史を破壊する部外者の雪崩れ込みではありません。それは逆に、より大き な何かに入ること、それに目指してそれら宗教は歩いている最中です。ですから、この出会い は常に、浄化であると同時に成熟です。とはいえ、出会いとは常に相互のものです。キリスト はそれらの宗教の歴史を、英知を、物の見方を待っておられるのです。 今日、私達は、どんどん鮮明になる一方の別の側面も見ています。つまり、キリスト教は、そ の偉大な歴史がある国々では多くの点で疲弊し、福音の辛子種から成長した大きな木の枝はと ころどころ枯れて、地に落ちている一方で、出会いを待望している諸宗教のキリストとの出会 いからは新しい命が迸り出ているのです。前は倦怠感しかなかったところに、信仰の新しい次 元がいろいろと出現し、喜びをもたらしています。 2. 宗教はそれ自体、単一現象ではありません。宗教の内では絶えずより多くの次元が識別され ていきます。一方では、この世を超えて、永遠の神に向かって伸びていく偉大さがあります。 しかし他方、宗教の内には、人々の歴史や宗教の実践から迸り出る諸要素があります。その中 にはもちろん美しく高貴な事がいろいろ見出されますが、しかし下劣で破壊的な事もいろいろ あり、そこでは人のエゴイズムが宗教を我が物としてしまい、開かれた態度よりも、自分の空 間の中に閉じ籠ることへと、宗教を変容させてしまいました。 このために、宗教は単純にポジティブだけとかネガティブだけの現象ではありえず、つまり、 宗教の中にはポジティブな面もネガティブな面も混ざり合っているわけです。当初、キリスト 教の宣教は、遭遇した異教の何よりもネガティブな要素を大変強く感じ取りました。これが理 由で、キリスト教の告げ知らせは他宗教に対し当初は極端に批判的でした。一部には悪魔的と も考えていたそれらの伝統を乗り越えることによってのみ、信仰はその刷新力を発展させるこ とができました。この種の要素に基づいて、福音派神学者 Karl Barth は宗教と信仰を対置さ せ、前者を、自分自身に基づいて神を捉えようとする人の専断的振る舞いとして、絶対的にネ ガティブなものと判断しました。Dietrich Bonhoeffer はこの構図を改めて取り上げ、「宗教な しの」キリスト教を肯定すると発言しました。それは疑いなく、受け入れられない一方的な見 方です。それでも、あらゆる宗教は同時に、正当な状態に留まるために、宗教について常に批 判的であり続ける必要もあると言明するのは正しいことです。キリスト教信仰にはっきり当て はまることは、その起源からしても、その本質に基づいても、一方では諸宗教の深い待望や深 い豊かさを大きな敬意を抱いて見つめつつ、他方、ネガティブな事も批判的に見ているという ことです。キリスト教信仰が、自分達の宗教的歴史に関しても、そのような批判的な力を常に 新たに発展させなければならないのは、自明の理です。 私達キリスト者にとってイエス・キリストは神のロゴスであり、宗教の本質とその歪曲とを私 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 達が識別するのを助けてくださる光です。 3. 私達の時代にどんどん強くなる一方なのは、そのような宗教はもう時代遅れだと、私達を 納得させようとする人々の声です。批判的理性だけが人々の行動を方向付けるべきであろうと いうものです。そのような概念の背後にあるのは、実証主義的考え方を以て理性がその純粋さ の限りを尽くして決定的に支配権を手にしたのだという確信です。現実には、このような考え 方と生き方も歴史的に左右され、限定的な歴史文化に縛られています。それを唯一妥当な方法 と考えることは人間を矮小化し、その実在から本質的次元を取り去ることでありましょう。人 間は、その正真正銘の本性に基づいて、実利主義を超えて送り出してくれる ethos エトスのた めの場がもうない時、神に向けられた眼差しのための場がもうない時、もっと小さくなるので あり、もっと大きくなるのではありません。実証主義的理性に固有の場所は技術や経済の諸活 動分野の中ですが、それでも人間全体を究め尽くすことはできません。このように、単なる技 術や純然たる実利主義を超えて、私達の実在の偉大さの全てへと、生ける神との出会いへと、 至らしめる扉を常に新たに開け放つかどうかは、信じる私達にかかっているのです。 II 1. この考察はおそらく、少々難しいです が、今日でも、深く変化した世界の中で、 イエス・キリストの福音を他者に伝える任 務は合理的であり続けるということを、示 すに違いないでしょう。 それにしても、2 番目の方法、もっと単純で、今日この任務を正当化する方法もあります。喜 びは、伝えられることを求めます。愛は、伝えられることを求めます。真実は、伝えられるこ とを求めます。大きな喜びを戴いた人は、その喜びを単純に自分自身のために取っておくこと はできません、それは伝達しなくてはなりません。愛の賜物についても、明らかにされた真実 の認識の賜物についても、同じことが当てはまります。 アンデレがキリストに出会った時、 「私達はメシアを見つけた」 (ヨハネ 1,41)と彼の兄弟に伝 える以外に何もできませんでした。そして、同じ出会いを戴いたフィリッポは、モーゼと預言 者達が書き記したその方を見つけた(ヨハネ 1,45)とナタナエルに伝える以外に何もできませ んでした。イエス・キリストを告げ知らせるのは、私達の共同体にできるだけ多くのメンバー を取り込むためではありません、権力のためでもありません。私達が彼について語るのは、私 達が戴いた喜びを伝達しなければならないと感じているからです。 教皇立ウルバニアーナ大学主講堂「ベネディクト 16 世」冠名式祝辞 ベネディクト16世―ヨゼフ・ラツィンガー 信じるに値するイエス・キリストの告知者に私達がなれるのは、私達の実在の深みで本当に彼 に出会った時です、彼との出会いを通じて、真実の、愛の、喜びの大いなる体験を私達が戴い た時です。 2. 宗教の本性の一部を成しているのは、私達を神に全面的に委ね切る神への神秘的奉献と、 神によって創られた世界や隣人に対する責任の間の深い緊張です。マルタとマリアは常に切り 離すことができません、たとえ、その折々でどちらかにアクセントがかかることがあろうと も。二極の間の邂逅点は愛であり、その愛の中で私達は、神と神の被造物に同時に触れるので す。 『私達は愛を知りましたし信じました』 (1ヨハネ 4,16) :このフレーズはキリスト教の正真 正銘の本性を表わしています。愛、ありとあらゆる時代の聖人達の内で、多種多様な形態で実 現し、映し出されている愛は、キリスト教の真実の正真正銘の証明です。 Benedetto XVI 原文© Copyright 2005-2015 – Libreria Editrice Vaticana 邦訳© Copyright 2015 – Cooperatores Veritatis Organisation www.paparatzinger.com
© Copyright 2024 Paperzz