8 インチ砲搭載巡洋艦対米 7 割 潜水艦現有数確保(7 万 8 千トン) 会議は各国の主張が異なり喧々諤々の論戦を繰り広げますが、焦点は日米の比率問題が 中心となり紛糾した。 アメリカの主張は、補助艦艇総トン数と 8 インチ砲搭載巡洋艦共に対米 6 割、潜水艦対 米 6 割 6 分を主張、補助艦艇全体においては対米 6 割 2 分となり、日本側としては絶対に 呑めない比率なのだ。 何故日米がこれほどまでに比率に拘ったのか、ワシントン会議で主力艦の米英日比率は 5,5,3 でした、が、ロンドン会議での補助艦艇に比率を我が国は米、英、日、10,10、7 を主張、米英は 10,10,6.2 の比率を主張。この当時未だ航空機の戦力は補助的なもので したから、巨艦・巨砲が雌雄を決するものと考えられて、日米戦えば太平洋が主戦場であ り、アメリカ海軍大艦隊がハワイを根拠地にして日本に進攻してくる、それを迎え撃つ帝 国海軍連合艦隊が小笠原近海で会敵戦になる、その時の連合艦隊の編成のためにも補助艦 艇対米 7 割はどうしても必要であり、絶対に譲れない数値としていたのだ。 アメリカ側が比率で上回るが、アメリカ海軍が進攻してきて日本側がそれを迎え撃つの だから比率が少なくとも、アメリカ艦艇は遠距離を航行してくるので、その途中海域で潜 水艦その他で待ち伏せして漸次減敵攻撃が出来るだろうと踏んでいた。 その頃の海軍の構想は日露戦争時のバルチック艦隊を迎え撃つたように、次の海戦もそ うなるだろう想定しており、その対策だけが念頭にあり、日米海戦の前哨戦がこの会議で 行われていたと言えるが、後年の日米激突は構想とは全く違ったものになってしまった。 結局、折衷案として総括的比率で日本案を採用、重巡洋艦については 1936 年までは日本 案、それ以後はアメリカ案を実行するということで折り合いがつき、日本政府に報告した が、対米 7 割を固持する軍令部は絶対反対、しかし、会議を決裂させてまでは反対するこ とができない。 しかも国内的には深刻な不況に陥っており、今まで以上に予算を投入しなければならな い建艦競争に国民は耐えられるか、政府と対立してまで自説を押し通すことができるか、 海軍軍令部としては悩みますが、「アメリカ案には専門的見地からは反対であるが、政府が 大局的見地からこれを受諾するのならや無を得ない」との態度をとったのだ。 これでロンドン会議は無事終了となったが、残念ながら国内では新たな火種が出来てし まった。 結束を誇っていた海軍内部に亀裂が生じ、条約批准を可とする条約派と艦隊増強を主張 する艦隊派に分かれてしまったことだ。 さらにもう一つ、当時 浜口首相が率いる民政党が議席の過半数を占め、犬養政友会が 野党というのが国会の構図の中で、政友会が政府攻撃手段としてロンドン軍縮条約を利用 し、政府と軍令部を対立させ、もって浜口政権退陣の世論喚起を促し、窮地に追い込もう と謀り、「首相や外務大臣が軍事専門家が下した見解と反対の誤った判断をしながら、しか も国防は極めて安全だと断定するのは軍令部無視の越権行為であり、統帥大権を干犯する ものである」と政府を攻撃したのだ、が、これが後で「統帥権干犯」という言辞を盾に軍 部暴走へ繋がってしまったのだから歴史の流れは怖ろしい。 明治憲法「第 11 条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」これを統帥大権と言いますが、陸海軍の最 高指揮権である統帥権は天皇大権に属し、内閣の輔弼の外に置かれ、政府、議会とも関与 できない仕組みになっており、軍事作戦は陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が輔弼し、帷幄 - 10 -
© Copyright 2024 Paperzz