表現について - プール学院大学・プール学院短期大学部

プール学院大学研究紀要 第 56 号
2015 年,351 〜 358
表現について
幼児教育における「表現」の内在的意味と保育者の志向性に関連した考察
髙 間 準 1.はじめに
ここでは、幼稚園指導要領や保育所保育指針の5領域のなかで「表現」という概念によって示さ
れている「造形」分野の意味について考察します。
また、それを契機にして、保育者が持つ志向性をどのように捉えるか、依拠するモデルを示しな
がら、保育者の志向性を示唆します。
2.表現について(現象学的見方より)
まず、本来的に表現そのものが持つ両義的(または多義的)な意味に関して、幼児教育の特殊性
を追っていきます。それを解明するために、フッサールやメルロ=ポンティの提唱した現象学的な
視点をもとにして、その理念のバックボーンとして基礎づけられた経緯を説明したいと思います。
そのために、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」や「眼と精神」をもとにして、「表現」の位置
づけと保育の観点に係り、顕在化すべき着眼点について考察していきます。
そもそも領域「表現」とは、1989 年(平成元年)の幼稚園指導要領が改定された時点で「感じた
ことや考えたことを自分なりに表現することを通して、豊かな感性や表現する力を養い、創造性を
豊かにする。」と明示されています。それ以前では「音楽リズム」
・
「絵画制作」
・
「社会」
・
「自然」
・
「言
葉」などの領域を、小学校以降の教育に準拠して、教科的に6領域としていましたが、子どもの発達・
成長を考慮して、現在の5領域となり、それぞれに心情・意欲・態度が育つよう『ねらい』と『内容』
が明記されました。この改革は、単に領域が1つ減って統合されたといった教科間の軋轢による統
合ではありません。
そこでは、教師(保育者)主導の画一的な教育からの脱皮を意図し、社会の変化に対応できる子
どもを育てる教育を目指して、子どもの発達の視点を加えたという趣旨が読み取れます。1956 年(昭
和 31 年)に6領域(健康・社会・自然・言語・音楽リズム・絵画製作)であったものが、1964 年(昭
和 39 年)の改訂を経て、1989 年(平成元年)に幼児の発達の側面からまとめた5領域(健康・人間
関係・環境・言葉・表現)に編成されました。
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それは、今まで教科的な内容や方法として了解されていた「絵画製作」(造形)と「音楽リズム」
と呼ばれていたものが「表現」に変わっただけの教科統合ではなく、この領域の理念・概念の転換
を迫るものと捉えられます。
そもそも、「絵画製作」という位置づけは、小学校教育との接続や分類を強調するだけの、幼児期
特有の発達をあまり考慮に入れない、いわば、文部(科学)省サイドの「教科」概念に過ぎないも
のです。幼児期の描画に係るローダ・ケロッグなどの研究者のさまざまな業績を鑑みると、この時
期の子どもの絵画は発達段階に従い、比較的ステレオタイプな描画が中心となり、自分で描画のテー
マや内容、方法を選び取る個性や主体性の差別化が未分化な時期であることは理解されると思いま
す。つまり、幼児期に「絵画製作」を謳って他領域に対抗できるだけの大きな内容があるかが疑問
なところが多分にあると思います。では、それらの分野や領域は、この年齢では意味が無いのかと
言えば、そうではありません。つぎに、より厳密にそれらの経緯や意味を確認していきたいと思い
ます。
現在の5領域の1つとして示された、新たな概念である「表現」とは何か、以下には私論を示し
たいと思います。
一般的に思われている「表現」は英訳の expression であって、目に見えない心の内側の思いや考
えを目に見えるかたちとして外部に現す(作品)ことと了解されています。しかしながら、
「目と精神」
において、メルロ=ポンティは画家の「表現」の両義性について、以下のように例示しています。
「画家と見えるもののあいだで、その役割は不可避的に逆転するのだと多くの画家が語ってきたの
もそのためだし、クレーに続いてアンドレ・マルシャンが次のように語っているのもそうである。『森
のなかで私は幾度となく、森を見ているのは私でないという感覚を抱きました。木々こそが私を眺め、
私に語りかけてくるのだという感覚を抱いたことが幾日もありました。(中略)私は内的に沈められ
埋められるのを待ち受けているのです。』(中略)ここでは、能動と受動はほとんど見分け難く、も
はや誰が見、誰が見られているのか、誰が描き、誰が描かれているのか分からないほどである。」
「表現」に係る両義性は画家の探求をモデルとして絵画の生成を追うこと、そして見えるものや見
えないものの論考を通して世界を分節しながら、現象学的な記述をすすめたのは周知のことです。
現象学というメソッドをもとに、フッサールやメルロ=ポンティは見えるもののうちに見えない何
かが存在する、その何かを探ることを2項対立概念として設定し、それを丁寧に記述していくこと
を試みてきたわけです。「表現」として、見かけや見栄えはあくまでも表層としての「現れ」であって、
そのなかに存在する意味やメッセージ、つまり身体性、空間性、時間性、他者性などの「表し」を
媒介として、認識論的に内在性を探る方法やプロセスを示しました。折しも、西洋哲学にあまねく
敷衍した科学主義的な誤謬を還元しようとしたのも現象学の方法でした。しかも、それを科学同様
の方法による論理性により明確化することが目的なのではなく、これは、その思考のプロセス自体
に意味を求めたものとも言えます。まるで画家の取る方法、美術的な方法のアナロジーであることは、
表現について 幼児教育における「表現」の内在的意味と保育者の志向性に関連した考察
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描くことに少し自覚的であった人なら誰でも想起できます。この観点により、現象学的な方法は「表
現」の追求・プロセスと相似的なものと言えます。美術の制作過程を哲学の問いになぞらえると、
描くことの方法過程やプロセスである「表し」は本質的・普遍的なものを捜し求める存在論の問い
と同じように、次元の高低はあれ、平面とは何か、空間とは何かという最も根源的な問いについて
試行錯誤を繰り返しているものであって、科学の目指すものと同様、ある真理を確立することに他
なりません。しかし科学との相違は、方法の差異であって、科学の定義および検証という論理的方
法と質を全く異にしていますが、同一の秩序へ適合する目標であることは、絶えざる踏査を繰り返す、
またはその試行錯誤のプロセスを記述する方法過程を通していることから了解されていることと思
われます。そして、「表現」の制作過程が明示しにくいものから、現象学が踏査を繰り返した方法過
程を援用することで顕在化する努力を試みること、つまり、現象学によりどころを求めて、造形に
係る「表現」固有の方法過程を自覚することによって、造形教育が科学とはまったく異なった方法
論によって理念化されていること強調した説明を教育(保育)の現場でも示していくことが有効で
あると思われます。
ここで引用したメルロ=ポンティが示すように、見ているものと見られているものは、図と地が
未分化でぼんやりとしたイメージの世界から始まり、試行錯誤を通して、そこから生成してくる図
と地が安定化することが「表現」の醍醐味であり、そのような両義的なプロセスそのものが意味やメッ
セージを生み出す行為として、美術・造形としての普遍性があると声高に示していくことも重要で
す。「表現」は、
「作品」としての「現れ」の部分に依拠するだけでなく、それが生成していく「表し」
の方法過程、プロセスの積極的な追求が必須であることは、もっと説明していくべきだと考えてい
ます。
素朴に信じられている「表現」とは、目に見えない心の内を外部に表し出すことであり、作品と
して現前されるものです。しかし、ここで見るように、現象学的には、表現する行為や作用である「表
し」の行程と、表現されたものである「現れ」=「作品」の両義的な意味が胚胎されているものな
のです。
つまり、作品としての現れのみをあつかうのではなくて、そのプロセスである表しを重視して、
背景を含む全体を大切にしていくことが、現代の領域「表現」では求められていると思われます。
ここで、保育に特化して言うと、幼児期には、現れである「作品」に拘泥することは、断念しな
ければならないと思います。絵画製作に優劣をつけたり(コンクールなど)、指導者の能力を測った
りするむきは、厳しく戒めなければなりません。幼児期の発達過程を鑑みると、描画の差や個性を
子どもが主体的に求めて追求しているのでは全くなく、それは「遊び」の途上に位置しているゆえ、
結果としての作品に、子ども独自の個性としてのこだわり(いわゆる主体からみた芸術の意味)は
ほとんど認めにくいものです。それに比して、幼児が何に見立て、お話やコミュニケーションをし
ながら、保育者とともに時間を共有し、画面の上をお散歩するように描いてきたプロセスそのもの
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の方が、明らかに大切で濃密な追求なのです。でも、それらは結果としての「作品」のように、か
たちあるものとして、結実はしません。時間とともに移ろってゆく淡く儚い現象に他なりません。
だからこそ、レッジョ・エミリアのメソッドのように、それらのプロセスをしっかりドキュメンテー
ションとして残していくことが、これからの「表現」では求められることとなります。保育現場の、
子どもとのお話や細やかな援助や夢いっぱいに見立てた何気ない描画の部分にこそ、保育のアクチュ
アルなリアリティーがあると思われます。作品展としての作品完成を到達点とするのではなく、描
いていくプロセス、子どもと保育者のデリケートな「表し」の部分にこそ、領域「表現」としての、
大切な理念が潜んでいるものだと考えます。このことはもっと顕在化されてもいいと考えます。領
域「表現」は単なる方法の分類や目標でもなく、保育「理念」そのものに他ならないと思われるか
らです。
次は、これらの理念を敷衍して、具体的な保育者の志向性について見て行きます。
3.現象学的な視点による、保育者の志向性について
現象学の探求は、ほんらい「自明なものの学」としてあります。ほんとうになんの疑いもなく自
明なものと思われていることは、あまりにも確かゆえに、語られることさえなく、沈黙のうちに沈
殿してゆきます。その沈黙の、広大な世界を探求しようとするのが現象学と言えると思います。し
かし、「あたりまえのこと」をあたりまえに前提にした上で、「あたりまえでないこと」から驚くよ
うな新奇な知見を求めることではありません。(ここでも科学と異なるものを志向するのは明らかで
す。)それはまた、何かをテーマとして設定する思考にとっては、ほとんど意識に上らないような次
元のものを問題にすることとなります。つまり、このような「自明性」へと問いを差し向けることは、
われわれの経験や生がどのように成り立ち、営まれているのかを問うことに他なりません。現象学
の問いの根底にあるものは、人間の意識や存在論的な問いに帰着してゆきます。わかりやすい言葉
で置き換えるなら、常に「意識改革」を迫っていくものだと言えます。
そのような哲学的な態度をベースにして、現象学では、前項の「表現」で引用した能動-受動以
外にも、さまざまな抽象性を伴った両義的な「あたりまえと思われる」二項対立が数多く取り上げ
られています。「精神-身体」、「主観-客観」、「内部-外部」、「同一性-差異」などを探求していく
なかで、両義性やその関連を説明して、意識改革を迫るものです。
メルロ=ポンティの未完の遺稿「見えるものと見えないもの」では、事物の奥行きや細部の眼差
しについて語る部分に「可逆性」の経験を執拗に取り上げています。見るものが見られるものとな
る経験、感覚が反転していく経験の原型は両義性にありますが、その役割はやがて交替して、反転
することとなる事実の発見を伴っています。メルロ=ポンティは、感覚するものと感覚されるもの
が転換する関係を、多くの事例により示すことで明証性をめざしているのです。
表現について 幼児教育における「表現」の内在的意味と保育者の志向性に関連した考察
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ここの事情を保育のフィールド落とし込んだ理論を展開しているのが幼児教育における鯨岡峻の
研究です。彼は人間関係が可逆性を持つ「相互主体的な関係」という視点を具体的な方法に落とし
込んで展開させています。子どもと養育者(保育者)の関係について、「お互いに主体である者同士
が関わり合う関係、お互いが相手を主体として受け止め合う関係なのだという認識にようやく辿り
着いたのです。」と述べ、現象学の課題設定や方法の援用により、学問的な立ち位置を説明しています。
「 現 象 学 の 精 神 を 生 か し な が ら 子 ど も の 発 達 の 問 題 を 対 人 関 係 の 中 で 考 え る 」 と し な が ら、
intersubjectivity という概念、間主観性、相互主観性、共同主観性などと訳出される、(ある意味で
は曖昧な)概念に依拠しているのですが、人間の、いわば幼児とのコミュニケーションを「単なる
意味の伝達・交換にしてしまうのではなく、二人のあいだで情動や気持ちが共有されることが、コミュ
ニケーションの根底的な意味」と考えるに至り、間主観性の問題を保育関連の体験に組み込む努力
をしています。
加えて、彼は現象学の示している「両義性」にも言及しています。つまり、「人はどこまでも自分
を貫きたいのに一人では生きていけない存在」としながら、「私」にとって「あなた」はもう一人の
「私」(他我)であり、「あなた」にとって「私」はあなたの「他我」でもあるということにより、メ
ルロ=ポンティの言葉を借り、
「大人は目の前の子どもの中におのれの子ども時代を生き直すのです」
と言い、
「子どもは子どもであって未来の大人であるというこの二重の規定によって、
『子どもである』
ということ自体が両義性を孕まずにはおれなくなる」と明言しています。
そして、これまで、「子どもという存在が抱える両義性と、大人 = 養育者という存在が抱える両義
性を切り分けて考察してきましたが、実際には『育てる-育てられる』という関係の中で、両者の
両義性は響きあう」としつつ、「子どもは一個の主体として受け止められて、一個の主体として育つ
ことができる」と結論づけています。
これに加えて、現象学の示す両義性という概念は、やがて交錯して反転する、「一種の反省」と確
認されます。現象学の研究者である熊野純彦は「立ちかえること、立ちもどること、また取りもど
すことが問題である以上、問われているのは反省の可能性である。生きられた経験とその細部に回
帰するような反省が可能であるかが、同時に問われていたことになる。」と説明し、現象学では、自
分が反省であることを知っている反省、反省についての反省が問題となっているのだと強調してい
ます。
これを保育現場に導入して、『育てる-育てられる』関係を射影して具体化したものが、保育現場
のドキュメンテーションとしての「エピソード記述」という鯨岡のメソッドです。
鯨岡が言うように、「現場では、子どもの心の育ちが大事と言われながら、肝心の心の育ちが目に
見えないために、それがなかなか記録に取り上げられず、保育の記録と言えば、誰の目にも見える
子どもの活動の記録が中心になってきた現状がありました。」そしてそのことが、「昨今の保育の質
の議論とも重なって、保育の質といえば、管理が行き届いているかどうか、具体的なニーズに応え
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られているかどうかで議論するなど、肝心の保育のありようそのものに迫る質の議論」が乏しかっ
た現状があります。「子どもの心の育ちに目を向け、そこに保育の質を見ようとする人たちには、心
の育ちは目に見えないので、そこはエピソードに描くしか人に伝える方法がないことが分かるはず
です。エピソードに描いてみてはじめて、そこでの関わりをみなで検討し、そこでの子どもの思い
を受け止めるありよう、保育者としての思いを伝えるありようを吟味し、それが子どもの心を育て
ることに繋がっていることをお互いに確認しあうことができるのです。」とエピソード記述の重要性
を明言しています。「表現」の両義性は現象学的な知見に依るところが大きいことを確認しましたが、
ここでも、彼はその観点を保育全般の領域に敷衍させ、現象学的な発想に起因するドキュメンテー
ションとしてのエピソード記述やそれに係る振り返り(反省についての反省)や保育者の特性と志
向性に着目しているのです。今や保育現場では、鯨岡の提唱した「エピソード記述法」として人口
に膾炙し、保育のスタンダードとなっています。
保育者は、現象学で言う志向性(intentionality)に係り、人間の意識が外部の世界の何か(志向対象)
に対して注意を向ける能力、または心的状態を関連付ける能力をフルに発揮し、志向対象を持つも
のです。そこでは、「表現」において、何が肝心なのか、作品よりもそれを生み出す「表し」のプロ
セスを子どもとともに感じられる・見られる能力が要るものです。そして、間主観性を感得し、常
に子どもと同様の時間を共有しつつ、育ち合うことができる資質も求められます。
保育士のしごとは常に懐疑的な事物の連鎖の中にあり、また、両義的な現象に立ち向かうことを
余儀なくされるものです。それゆえ、小さな気付きは移ろってゆき、当たり前の日常を生きること
のみに終始しがちなものです。受容しあう保育現場では、指導といった概念がありません。常に育
ち合うといった両義的な概念があるだけなのだと思います。
子どもをよく見ること、そして見えないものに思いを巡らせること、その現象学的な射影、記述
がエピソードとなり、振り返りの原初的な立ち位置となります。見て記述すること、そして見られ
ること、さらに見えないものを見ようとする試みの連鎖が保育者としての毎日のしごとなのです。
保育者の資質は手遊びの数の多さやピアノの上手さだけではなく、また(学生がよく言う)「実習
ではうまく子どもに声かけをしてあげられなかった」といった、上からの指導目線ではなく、支援
する子ども、保育される子どもに寄り添って、同じ主体として認め合い、さまざまなことをいかに
同じ目線で共感できるかが求められているのだと思います。
また、造形「表現」では、子どもが遊びを通して製作したもの描いたもの(結果、作品)をあと
から収集的に追従するのではなく、それに関連した制作過程や子どもの心の動きや、ちょっとした
こだわり、またはつまずきなど、表面には見えにくいプロセスとしての現象に気を配り、それに対
する支援を共感できる資質が保育者に必要な志向性なのです。
表現について 幼児教育における「表現」の内在的意味と保育者の志向性に関連した考察
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4.おわりに
現象学とは、ある事柄に対して多義的な見方や解釈を志向する哲学の方法や過程として知られて
います。また、表現と現象学を繋ぐのは画家の多様な試行錯誤による制作方法をモデルとして構築
された経緯も関連していると思います。保育の「表現」においても、ここでは、単なる自己の思い
をアウトプットする表現主義的な側面に依るだけではなく、それが現象学的な多義的な様相を内包
していることを解説しながら、多様な展開や可能性が見いだせる領域であることを明示したつもり
です。そしてまた、この見方の、保育についての全般的な意識や様々な領域に関わる理念を気づか
せることも目論みました。保育者の持つべき指針やその志向性にまで関連するモチーフになること
を示そうとしたものです。
保育では、小学校以降でよく示される「指導する」といった概念はなく、常に共感して寄り添う、
大人と子どもの気持ちを両義的に持ち合わせている志向性が資質として求められるものです。幼児
教育の与件として、このことを顕在化することが出発点であることに他なりません。
今後は、幼児教育と小学校教育の差異をさらに詳しく検証しながら、ゆるやかに保育所・幼稚園、
小学校が接続するために、「表現」の多義性を拠り所にして、接続に係る新たなモデルを示すことが
急務だと感じています。子どもたちが小学校での一義的な志向を孕む「指導」の概念にスムースに
移行するためには、「表現」の豊かさを湛えた多義的な価値観やものの見方、それに関連する保育の
持つ遊びのフィールドを活用しながら、幼児教育の優位性を小学校教育に位置づける「保幼小接続」
の研究を進めていく予定です。 <参考文献>
『目と精神』M . メルロ = ポンティ著 みすず書房(1966 年 11 月)
『知覚の現象学』M . メルロ = ポンティ著 みすず書房(1967 年 11 月)
『見えるものと見えないもの』M . メルロ = ポンティ著 みすず書房(1989 年 9 月)
『表現原論』大場牧夫著 萌文書林(1996 年 8 月)
『ひとがひとをわかるということ』鯨岡峻著 ミネルヴァ書房(2006 年 7 月)
『メルロ = ポンティ-哲学者は詩人でありうるか』熊野純彦著 NHK出版(2005 年 9 月)
『現象学という思考』田口茂著 筑摩書房(2014 年 12 月)
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(ABSTRACT)
About expressions
A study related to the orientation of the intrinsic meaning of
expression in early childhood education and child care
TAKAMA Jun Discuss the meaning of "art" is shown by the scheme called "representation" in the area of the
five kindergarten curriculum and early childhood care.
Also I would like to suggest a study aiming at the nursery by referring to the model depends
on the orientation of it has a nursery and to think how, for guidance.