竹内敏晴の仕事――からだとことば

竹内敏晴の仕事――からだとことば
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研究ノート
竹内敏晴の仕事――からだとことば
岡
野
浩
史
竹内敏晴が歿して1年になる。彼の最後の本となった「語りおろしの自伝」である『レ
ッスンする人』がこの9月3
0日(2
0
1
0年)に藤原書店から出され、それを読みながら、改
めてその仕事の大きさを思った。
竹内敏晴という存在を知ったのは中津燎子の仕事を通じてである。中津燎子は一介の田
舎の主婦であったが、1
9
7
4年に自費出版の『何で英語やるの?』により大宅壮一ノンフィ
クション賞を受賞し、広くその名を知られるようになった。彼女の登場は英語教育の世界
では一つの事件となった。特に中津が注目を浴びたのは発音の指導法であった。中津は英
語を大人になってから習得した。その過程で中津は、本物の英語の発音を日本人が身につ
けようとするなら、ネイティブスピーカーの口真似だけではどうにもならないことに気が
つく。ネイティブスピーカーの発音の際の口の形、歯や舌の使い方は彼らが英語の環境に
身を置いて以来、長年の修練の結果としてあるものだ。日本人が英語を発音しようとして
ネイティブスピーカーと同じことをやっても同じように発音できるはずがない。日本人の
口も舌もあくまでも日本語のためのものである。日本人には英語のネイティブスピーカー
とはちがう、日本人にあった英語の発音の仕方があるはずだ。中津は試行錯誤を経て独自
の発音の方法を編み出し、英語の発音をわが物とする。進駐軍でアナウンサーとして働い
た後、中津は日本人の子どもたちに英語を教え、その実践の記録が本となり大宅賞を受け
たものである。彼女の発音の指導法は「中津方式」と呼ばれ、英語の発音に自信を持てな
い日本の英語教師が数多く彼女のもとに集まり、指導を受けることとなった。しかし、指
導を求めて集まってきた英語教師に中津はショックを受ける。教師たちのからだがまった
くだめなのである。
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平成国際大学論集 第1
5号
英語の音はおおざっぱな言い方だが日本語よりも速くて強い。英語の持つ、鋭い、強い
音を十分に出そうとすれば、口も舌も英語のネイティブスピーカーとはちがう日本人なり
の工夫をしなければならない。その前提として、深い、豊かな呼吸による発声が不可欠で
ある。ところが日本人の英語の教師にはこれができない。息が浅く、貧弱な声しか出ない。
そもそもからだ全体が発声器官としてなっていないのだ。これに気がついた中津が英語教
師のからだと声の開発のために探し出したのが竹内敏晴だった。
竹内敏晴は当時、演劇の世界では先鋭な演出家として有名な存在だった。また、声に関
する専門家としても一部の教育者のあいだでは知られていた。竹内敏晴の名を広く知らし
めることになったのは彼の自伝的著書である『ことばが劈かれるとき』である。1
9
7
5年に
思想の科学社から出た。
『ことばが劈かれるとき』はチヨコちゃんという、新潟の心身障害児の療育施設にいる
女の子の話から始まる。彼女は当時小学校3年生である。チヨコちゃんは声は出るがこと
ばを話せない。肉体的にはまったく異常はない。担当教員のつるまき先生はチヨコちゃん
にあいうえおの発音から教えていく。その方法は竹内敏晴からヒントを得たものである。
「アー」という声を出させるにあたって、つるまき先生はチヨコちゃんに三段階の練習を
させる。最初は「正面の黒板を突き通して隣の教室にいる伊藤先生のおでこにアーのこえ
をくっつける」というものだ。次は「頭の上の蛍光灯に正面を向いたままのアーで届かせ
る」
。第三は「正面を向いたままでうしろの壁を突き抜いて秋山先生の教室にアーを入れ
る」である。この訓練が功を奏し、チヨコちゃんはみごとな「アー」の音を出せるように
なる。つるまき先生は次に「アサヒガアカルイ」で始まる「アイウエオの歌」を歌わせて
みようとする。ところが歌えない。声がかすれてしまう。つるまき先生は竹内敏晴に相談
をする。竹内の判断はこうである。隣の教室にいる先生のおでこにアーの音をくっつけよ
うというのはチヨコちゃんにとってきわめて現実的な切実なもので、イキイキとイメージ
することができる。だから、からだ全体でぶつかっていくことができる。からだ全体でぶ
つかっていって初めてチヨコちゃんの声は劈かれたのだ。それに対して「アサヒガアカル
イ」ということばはチヨコちゃんにとっては何の切実さもない。からだをぶつけていくよ
うなイメージもわかない。だから声にならないのだ。つるまき先生は竹内敏晴のことばに
思いあたるものがあった。子どもが十分なリアリティを持ってイメージすることのできる
ものこそ子どものからだを動かし、ことばを劈いていくものなのだ。チヨコちゃんは次第
にことばを獲得していく。ある日、つるまき先生はチヨコちゃんの母親からチヨコちゃん
が赤ちゃんの時の話を聞かされる。姑がとてもきびしい人であった。夜中にチヨコちゃん
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が泣くと「うるさい」と叱りとばされた。それでチヨコちゃんが泣きだすと母親はチヨコ
ちゃんの口に手を当てて声が漏れないようにした。それを繰り返しているうちにチヨコち
ゃんは大きくなっても話せないようになっていた。竹内敏晴はチヨコちゃんのことをとて
も他人事とは思えず、後に自ら会いに行くのだが、それは彼自身もほとんど聾唖者のよう
な時期を長く過ごしてきたからである。
竹内敏晴は1
9
2
5年3月3
1日に東京に生まれた。生後数か月から患った中耳炎により難聴
となった。友だちからは「ツンちゃん」と呼ばれていた。1
2歳で浦和中学校に入ったとき
に中耳炎が悪化し、音声がまったく聞こえなくなった。1
5歳のときに新薬が開発され、投
与の結果、右の耳が聞こえ始めるようになった。しかし、耳が聞こえない状態が長期にわ
たったことからまともにことばを話せない状態が続き、それは第一高等学校に入学したと
きにも変わらなかった。寮では自己紹介すらできなかった。竹内敏晴が人並みの会話が可
能になったと感じたのは4
4歳のときである。その6年後に出されたのが半生を語った『こ
とばが劈かれるとき』である。(彼は「劈かれる」という表記を好んで使う。閉ざされて
いたものが外に開かれていって解放されるというイメージを重んじるゆえである。
)
竹内敏晴は第一高等学校から東京帝国大学文学部歴史学科に進む。戦時中、一時は絶望
感から自死しようとしたが果たせず、たまたま東大で行われた竹内好の魯迅に関する講演
で「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」ということばを聞いて生きる道を選
び、歴史学を選択したのだった。大学を出ると演劇の世界に入る。岡倉天心の甥にあたる
岡倉士朗に師事し、演出を学ぶ。ここから竹内敏晴はことばと、そして、からだの問題に
徹底的に取り組むことになる。当時は、新劇を中心とした新しい演劇運動の盛んな時期だ
ったが、岡倉士朗の助手として歌舞伎、新派、オペラなどにも取り組み、経験と思索を深
めていく。木下順二の傑作『夕鶴』の演出も行っている。そして何よりも重要なのは竹内
敏晴が演劇の現場だけでなく自分自身のからだをも実験場としてことばとからだの問題に
沈潜していったことだろう。ことばとは何かということをたえず自らのからだで検証して
いった記録の結晶が『ことばが劈かれるとき』という稀有の書である。
竹内敏晴にとって、ことばとはまずからだである。戦後の新劇が築こうとしていたのは
近代的なリアリズムの演劇だった。特に演技については、登場人物の性格を細かく分析し、
置かれた状況を計算し、それにふさわしいと思われる感情を込めて、覚えてあるセリフを
言えばよいという考え方があった。「だが、これはどれほど努力し精密にやってのけても、
この人はこういう性格だとすればたぶんこうだろう、と頭の中に描いたお手本にすぎない。
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行為の蓋然的ななぞり、でなければ干からびた押し花」にすぎないと竹内敏晴は言う。そ
のとおりだろう。新劇のリアリズム論にはデカルト以来の心身二元論に基づく精神の優位
性がある。役者のからだのコントロールをしているのは精神であるという考え方だ。しか
し、からだとは精神のコントロールのままに動かされるだけのものなのだろうか。また、
そこから本当のリアリティは生まれてくるのか。むしろからだこそが精神に対して優位性
を持ち、そのからだの優位性を生かした演技こそ本物のリアリティを持ちうるのではない
か。竹内敏晴がそのようなことを考えはじめていたときに出会うのがモーリス・メルロ=
ポンティの『知覚の現象学』である。メルロ=ポンティの人間の行動や知覚、対人関係に
おいて主体となるのは精神ではなくからだであるという考え方は竹内敏晴に大きな影響を
及ぼし、以後、死ぬときまでメルロ=ポンティの著作を繰り返し読むこととなった。
メルロ=ポンティの著作と出会ったころ、竹内敏晴は野口三千三の体操を取り入れた俳
優の訓練方法を開始し、さらに具体的にからだの問題を考えていくことになる。4
0歳前後
のころである。野口三千三は1
9
1
4年生まれで竹内敏晴よりも1
1歳年上である。戦前の体育
教育界にあっては若くして名を知られた存在であった。しかし、戦争をくぐりぬけて敗戦
を目の当たりにしたとき野口は自分がそれまでやってきた体育、そして体育教育を全部否
定せずにいられなかった。戦後の虚脱感のなかで野口は手探りを繰り返し、模索する中か
らまったく新しい独自の体操を作り上げていった。野口三千三にとって新しい体操の目的
は「本来自分自身の中にもっている可能性を発見し発展させ、それがいつでも、どこでも、
最高度に発揮できるよう準備すること」であり、「体操の特質は、人間が言葉や文字、頭
の中だけでわかってしまったかのように思い込んでいる事柄を、自分の体による生体実験
によって、皮膚を含めて、その内側の全感覚で見つめ・味わい・確かめ・計算し・判断し
・行動することにある。そしてこのことが単なる言葉の遊戯でなく、「実感」としてつか
めるようになったときに、体操が初めて人間のために役立つものと」なる(
『原初生命体と
しての人間』初版は三笠書房、新版は岩波書店)
。別の言い方をすれば野口の目指してい
たものは体操を通しての人間の回復である。このような目的のために開発された体操――
野口体操と呼ばれるようになる――において最重要なのは「からだの力を抜いて重さにま
かせること」である。力を抜き、重さに身をまかせることによって体内の感覚が研ぎ澄ま
され、私たちはからだが本来持っている生き物としてのしなやかさ、敏感さを取りもどす
ことができる。それが野口体操の根本的な考え方である。
野口体操の動きの代表的なものとして「寝にょろ」と呼ばれる動きがある。二人一組で
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一人は床に仰向けとなり、もう一人は立って相手の両足を足首で持って1
0センチから1
5セ
ンチほど持ち上げて足をゆすることによってからだ全体をゆすろうとするものである。脱
力がうまくいき、ゆすり方が適当であれば床に寝た者のからだはそれこそ波のように揺れ
る。「生きている人間のからだ」は、「皮膚という薄い柔らかい伸びちぢみ自由な大小無
数の穴によって外界と通じあっている複雑きわまりないひとつの生きた袋の中に液体的な
ものがいっぱい入っていて、その中に骨も内蔵も浮かんでいる」ものであると野口は言う。
生命は4
0数億年前に地球に誕生した。原初の海の中に私たちは細胞として漂っていた。私
たちのからだの中にある原初の生命体としての感覚を呼び起こすこと、そして長い長いあ
いだに失われてしまった生き物としての感受性を取りもどすことの必要性を野口は繰り返
し言う。この野口の主張は「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の理論を思い
出させる。ヒトの胎児は受胎の瞬間から子宮の中で生物の進化の過程を繰り返す。ヒトの
胎児の初期の相貌がいかに魚のそれに似ているかは驚くべきものがある。たしかに私たち
は海から来たのである。そして野口三千三は体操を通じて魚よりもはるか以前の私たちの
命の記憶をこのからだに呼び覚まそうとするのである。
竹内敏晴は人間における意識・無意識の問題に関する野口三千三の考え方をその口吻を
まねてこう説明する。人間は体液が袋に入った存在であり、「意識が果たす役割はほんの
少しにすぎない。人間は意識的に心臓を動かしたり止めたりできるか?肉体をコントロー
ルする動きは、ほとんど意識とは関係なしに機能しているではないか。人間が生きること
の主導権は無意識の中にある。生物の発生に遡って考えてみると、まず、なんとも名づけ
られぬものが、何かを凝集して境界を作る。これが細胞膜、さらに、細胞の中の体液が、
生きるのに便利な器官を作りだしてくる。これが生物の進化であろう。そうすると生物に
とっては、根源的に体液が主体であって、脳は体液の作りだした道具と考えるべきではな
いか。
」
(
『ことばが劈かれるとき』
)
からだを支配しているのは意識ではなく無意識のほう
であるという考え方はフロイトをひくまでもなく決して新しいものではなかったが、野口
の肉体を通しての主張に竹内敏晴は深いところで衝撃を受ける。
野口体操を実践することによってからだが変わり、声が劈かれていく。竹内敏晴は自ら
のからだでそれを経験する。俳優の養成にもその方法を使う。また、竹内敏晴はグロトフ
スキーやスタニスラフスキーの俳優や声の訓練法にも取り組んでいった。ある日彼はグロ
トフスキーの声の訓練法を懸命に練習していた。「まっすぐに立ち、頭のてっぺんから天
井に向かって話しかけ、または歌いかける。エコーが帰ってきたら、それに向かってまた
話しかける。次にはうしろの壁の上部に、後頭部から話しかける」というものだ。これが
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できない。しかし、何度か歌いながら繰り返すうちに頭の中をビビッと突きあがっていく
ものがあり、経験したことのないような高音が一気にほとばしるように出る。上部共鳴の
技術が獲得されたのだ。以後、高度の集中による訓練をして竹内敏晴は自分の声を後頭部
に、前頭部に、胸に、腹に、意のままに共鳴させていくことができるようになる。そして
自在に人を声でつかまえられるようになる。このとき竹内敏晴はことばを自由に操ってい
る自分に気がつく。声が変わるとはことばが変わることなのだ。そしていつのまにか竹内
敏晴は、声が出ない人のからだの状態を見て緊張している場所を探し出し、野口体操によ
ってその緊張をほぐし、声を開放することができるようになっていた。人は彼を「声の産
婆」と呼んだ。また、人の話し方を聴いてその人がどのような生き方をしているのかまで
推測できることも稀ではなくなっていた。
1
9
7
3年、竹内敏晴は4
7歳のときに竹内演劇研究所を設立し、これは1
9
8
6年まで続く。こ
こには常時1
0
0人ほどが学んでいたという。そしてこの研究所が閉じられたあとも竹内は
大学の教壇に立つかたわら、自らの経験をもとに教師ばかりでなく、障害者や吃音者など
も含め様々な人たちにレッスンをしていくことになる。レッスンの中で竹内はからだと声、
そしてことばとの密接な関係にさらに思いを致し、からだとことばが一つであることを深
く確信するようになる。その中から生まれたもっとも代表的なレッスンが「話しかけのレ
ッスン」と「出会いのレッスン」である。
「話しかけのレッスン」は文字通り、人に話しかけるレッスンである。「呼びかけのレ
ッスン」と呼ばれることもある。二人で行われる場合もあるが多数で行われることもある。
これは二人でやる場合、A、B の二人は、ある程度の距離で離れて A が話しかけのこと
ばを言い、B は背中向けになってそのことばを聞く。B は A の発したことばが本当に自
分に話しかけられているように感じたら、そのことばに応じて行動を起こす。これをする
と多くの場合 B はすぐに反応する。しかし、そこで竹内敏晴は A の言い方をもう一度よ
く聴くように B に言ってみる。A がまた話しかけてみる。B は前よりも集中して A の声
を聴いてみる。すると何度かの試みのあと、じつは A が全然自分に話しかけているよう
に聞こえないことに気がつく。隣にいる人に話しかけているように聞こえたり、頭の上を
声が飛び越えていくだけと感じたりする。そこで今度は A が B の反応に応じていろいろ
な言い方をして、何とか相手に話しかけようとするがなかなか B は自分に話しかけられ
た気にならない――こういうことが繰り返されることが多い。なぜこういうことが起きる
か。それは竹内に言わせれば、ことばに相手にふれる力がないからである。また、話しか
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けられる側も最初は話しかけられているように感じるのはことばに鈍感になっているから
である。本当の意味で聴くということができないのだ。
相手にふれるだけの力のあることばとはどんなことばだろう。竹内敏晴は人に「あぶな
い!」と声をかける場合を一つの例としてあげる。このとき、相手のあぶないという状態
を了解した瞬間に、私たちの声は一直線に相手のからだに向かっている。あぶないと思う
意識が働いてそれでからだが命令されてことばを発しているのではない。からだとことば
全体が丸ごとの一つになって「あぶない!」になっている。これが他者とかかわるときの
本来的なことばの使われ方なのだ。他者が存在する。それは単なるモノが存在するのでは
ない。人間として存在しているのだ。その存在が了解されたとき、からだとことばが一つ
になって私たちは行動を起こしている。それは意識で行なうことではない。意識が行なう
ことでもない。からだが行なうことなのだ。
ことばはからだから切り離されたモノではない。両者は本来一体のものなのだ。しかし、
他者に対して単なるモノとして接してばかりいるうちに、私たちの本来のからだと一体に
なったときのことばの力は失われてしまったのだ。他者のからだを忘れているから自分の
からだも忘れている。ことばを発するときにも聞くときにもからだ抜きになっている。そ
の結果、私たちのことははからだから切り離され、やせ細った、人にふれる力を持たない
ものとなり果てている。そして私たち自身はそのことにまったく気がつかずにことばを使
って「コミュニケーション」をしている気でいるのだ。
竹内敏晴は「話しかけ」のレッスンをいろいろな人たちに行なってきたが、子どもたち
でやった場合、これをみごとにこなすのは障害を持った子や、いわゆる勉強のできない子
たちで、優等生的な子どもたちは得てしてだめだと言う。興味深い指摘である。ことばと
からだを切り離して生きていくことができる子どもたちほど優等生となることができるの
が現代の私たちの生きている社会なのだ。
「出会いのレッスン」では部屋の両端に二人の人が立ち、向かい合って歩き出す。近づ
いてきたときにそのまますれちがうだけでもいいし、握手をしてもいい。要するに何をし
てもいい。また、このレッスンは床に八畳ほどの広さに線をひいたところで行われる場合
もある。この場所はいろいろな場所となるが、もっとも多いのは砂浜である。だから、
「砂
浜のレッスン」と呼ばれることもある。砂浜に入るのは二人の男女である。同性同士もな
いわけではないが異性と組んだ方がいい結果が出ることが多い。砂浜の中では二人は何を
してもいい。イメージのままに行動する――それだけである。その二人を行司のようにそ
ばで竹内敏晴が見守る。レッスンに参加している他の者も二人の様子を見ることができる。
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ある日のレッスンで、二人の男女が砂浜に入る。女は砂浜に入るとしばらく立ったまま
ぼうっとしていたが、やがて足元の砂を払うかのような動作をしたかと思うとかがみこん
で掘り出した。男も砂浜に入り、そばでじっとその様子を見ている。どうやら大きな穴ら
しきものが掘れたらしい。女はそこに向かって「おーい」と呼びかける。何度かそれが繰
り返される。男が何か風のような動作をすると女はその腕のなかに抱きとめられ、号泣し
ていた。ここで竹内敏晴が待ったをかける。しばらく休んだあと、竹内はその女性と話を
し、何が起きていたのかを聞く。この女性は後にこのときのことをこう書いている。「砂
浜に立った。別に何の感情も湧いてこない。砂浜を歩く。少し砂を蹴りながら。ふと四つ
んばいになって這ってみたくなる。と目の前の砂が気になる。「ふっ」とふいてみる。ふ
っと砂が散る。その散り方が気にくわない。「ふっ」とまたふく。気にくわない。「ふっ」
「ふっ」
「ふっ」ガリガリとつめをたて、「ふっ」とふく。また、いやーなものがついて
くる。・・・どんどんほって、ふいてふきまくる。あ、穴だ、穴があいた!うわぁーふか
ーい
ふかーい
地球の反対まで届いているような・・・「オーイ」
「オ―――イ」・・
・だれに向かって?わからない。ただただ全身で呼びかける。からだの中から「オーイ」
がとび出していく…。と、風の音!その瞬間、わたしのからだは深い穴の中に入っていた。
穴の中は広かった。果てがなかった。・・・・気がついた時は抱き合ったままころがって
いた。
」
(
『からだが変わる
授業が変わる』晩成書房)彼女は竹内敏晴と問答をしながら
これまでの自分が本当の自分ではなかったことに、そしてそれまで知らなかった自分に気
がつく。この女性の名は鳥山敏子。彼女は小学校の教師である。子どもたちを教えること
に何の疑問も持たず、自他ともに認める、いわゆる「熱心な、いい先生」だった。しかし、
そのうちに、自分のからだには本当に子どもたちの豊かな感性に応えられるだけのものが
あるのかどうか疑問を抱くようになり、縁あって竹内のレッスンを受けることとなった。
その経緯、そしてからだが変わってからの授業がどんなものであったかは『からだが変わ
る
授業が変わる』ともう一つの著書『イメージをさぐる』
(太郎次郎社)に詳しい。か
らだの変化で生き方が変わり、教え方が変わり、授業でいかに命に満ちた豊かな空間を子
どもたちと作りだしていったかが具体的かつ鮮明なことばで語られている。驚異の記録で
ある。後者には「スイミー」や「スーホの白い馬」の授業の記録も含まれ、読む者は教師
の、そして子どもたちのことばに対する感性の発露に圧倒される。また、レッスンで鳥山
を抱きとめた男性は真木悠介(見田宗介)である。真木は、以後、新進気鋭の社会学者と
して教育者として東京大学で独創的な仕事を展開していく。
「出会いのレッスン」は無意識の領域を解放する。限られた空間に閉じ込められた男女
竹内敏晴の仕事――からだとことば
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は、高度の集中の中、非日常の世界に入り、無意識が発動する。そこから生み出されたも
のを見極め、からだの中に埋もれていたものを取り出し、当人に気づかせるのが竹内敏晴
の仕事である。そこからからだが変わり、ことばが変わる。そして生き方が変わっていく。
竹内の著書にはその実例が随所に出てくる。
竹内敏晴が心から先生と呼ぶ人物が二人いた。一人は演劇の師であった岡倉士朗、もう
一人は哲学者であり教育学者であった林竹二である。竹内敏晴が林竹二を知ることになっ
たのは、足尾銅山の公害闘争で知られた田中正造の生涯を芝居化したことがきっかけだっ
た。林竹二はソクラテスの専門家だったが、田中正造の研究にも打ち込んでいた。林が物
事を常に弱者の側の立場で見ることができたのは田中正造の研究と無縁ではないだろう。
本格的に林が竹内と関わることになるのは神戸市の湊川高校での林の授業からである。林
はその前に宮城教育大学の学長を務めるかたわら、全国の小学校を回り、主に「人間につ
いて」というテーマで授業をしていた。回数は1
5
0回以上に及んでいた。林竹二の方法は
たとえば、ビーバーがダムを作る話から始まる。ビーバーという動物がいかなる動物か、
いかなる生活をしているか、そしていかにダムを作っていくか、ダムがいかなるものであ
るか、詳細に語りつつ、生徒と問答を交わしていく。そして、ビーバーと人間のちがいを
浮かび上がらせて人間とは何かを生徒たちに考えさせようとする。林が話し、質問をする。
子どもたちが答える。その答えがまちがっていれば林は立て続けに質問をして、その答や
考え方の誤りを徹底して突く。それは子どもが自分の考えや答がなぜまちがっているのか
を自分で納得するまで続けられる。これは林が研究しているソクラテスの方法そのもので
ある。ソクラテスの対話の要諦はいわゆるドクサの吟味にある。世間のまちがった常識、
当人の勝手な思い込みなど、人は様々のドクサに縛られている。ドクサを吟味し、そのド
クサから人を自由にして本来の生き方に向かわせること、すなわち「善」を求める人間に
することをソクラテスは問答によって行った。世に言う問答法である。それを林竹二は小
学生に対してやった。林に言わせれば、現代の子どもたちは泥まみれ、埃まみれである。
大人からの借り物の、受け売りの知識を教室で振り回している子どもは山ほどいる。まず
はドクサを取り除かなければならない。子どもの持つ本来の力が引き出されるのはそのあ
とである。自分の頭で考えるとはどういうことか林は問答を通じてわからせていく。この
授業はじつにおもしろかった、子どもたちにとっても、林にとっても。子どもたちの感想
文や写真に林は感動する。子どもの持つ力に驚嘆する。「学んだことの証しはただ一つで、
何かが変わることである」という林自身の信念がそこではみごとに実践されていた。教師
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林竹二にとって小学校での授業の場は、林の妻によれば、「桃源郷」だった。(林の小学
校での授業は記録映画とされたものもあるが、残念ながら筆者は見たことがない。
)
林竹二は湊川高校でも同様の授業を試みようとする。湊川高校は定時制高校で生徒のか
なりは被差別部落出身者と在日朝鮮人である。生徒の多くが社会の最底辺で貧困と差別に
あえぐ者たちであり、「教育困難校」の最先端のようなところである。彼らは、たとえば
教師が権威で押さえつけようとしたときにどのような反応を示すか。竹内敏晴は斎藤喜博
が湊川高校で体育の授業をしたときのことを語った記録を『からだ=魂のドラマ』
(藤原
書店)に収録している。斎藤喜博は教育界に身を置くなら知らぬ者はない伝説的な名教師
である。その斎藤が湊川の生徒たちに剣道場で行進を練習させる。それがあまり気に入ら
ない生徒がいて「何でこんな幼稚園みたいなことをやらせるんや」とぶつぶつ言う。それ
を聞いて斎藤は行進がちゃんとできるということは大切なことなのだと言い、さらに「こ
れは非常に大事なことであって、例えば、東京大学で自分が授業をする時でも、東大卒業
一番という秀れた先生なんかもいるけれども、みんなと同じようにそうやって、一二、一
二って歩くんだ」と続けると、とたんに生徒は全員動くのをやめてしまった。斎藤が何を
言っても動かない。最初から授業を拒否していた一人の女生徒は「あんた、そんなにえら
い先生なんか、もう二度と来んでくれ」と叩きつけるように言い、また男子生徒の一人は
「スリッパを入口のところに揃えて、どうぞと言った」という。これが湊川高校の生徒た
ちである。
林竹二は竹内敏晴と組んで湊川の生徒たちに向かう。竹内敏晴は「話しかけのレッスン」
をする。そして林竹二は授業をする。そこで林は初めて義務教育からさえ切り捨てられて
いる生徒たちに出会う。その姿は無残だった。ここでの授業は「桃源郷」ではなかった。
のっぴきならない、切るか、切られるかの真剣勝負の場だった。しかし、林言うところの
「学ぶことへのはげしい飢渇」から生み出される、生徒たちの集中の深さ、林に突きつけ
る質問の鋭さはそれまでに経験したことのないものだった。林は必死に授業をする。生徒
たちは林を受け入れた。林はそれを実感する。そして7
0歳のときに初めて授業を行ってか
ら7
9歳で死ぬときまで、仙台から神戸へ林竹二は繰り返し足を運び授業をする。(その美
しい記録のいくつかは『教育の再生をもとめて
湊川でおこったこと』(筑摩書房)や『若
く美しくなったソクラテス』
(田畑書店)で読むことができる。写真は『教育の根底にあ
るもの』
(径書房)で見ることができる。
)なぜ林竹二は何度も湊川に行ったのか。竹内敏
晴との対談で林は湊川高校での経験について様々なことを語っている。生徒の力によって
自分が高みに引き上げられたという旨の興味深い発言もあるが、もっとも感慨を込めて語
竹内敏晴の仕事――からだとことば
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っているのは「ふれあい」である。林は湊川高校での授業ではそれまでにないふれあいが
あったと言う。生徒のやさしさに何度も驚かされたと言う。林竹二を死の直前まで湊川に
行かせ続けたのは、生徒と教師という関係などを超えた、深い人間的なふれあいだった。
そして竹内敏晴の場合もそうだった。竹内敏晴が湊川高校で行ったのは当初「話しかけ
のレッスン」を中心とした授業だけだったが、後に劇を上演するようになる。ほぼ十年間、
毎年一回近くの割合で行う。上演には金がかかる。竹内敏晴の拠点は東京だったから、役
者の中にはこの一年に一回一晩きりの上演の度に仕事を変えなければならないような者も
いる。多大の犠牲があって神戸での上演は可能となる。しかし、役者たちも竹内敏晴もそ
れを厭わなかった。なぜか。それは観客の反応がまったくちがっていたからである。湊川
高校の生徒たちには都会の観客の教養はない。洗練もない。代わりにあるのは貧困や差別
や絶望に苦しみながら、学校や教師に反抗しながらじつは学びを求めている、むきだしの
からだだけだ。彼らのからだは竹内敏晴の演劇に鋭く反応する。竹内の演劇は、ことばと
一体になった役者のからだに無意識を発動させることで演劇の可能性とリアリティの極限
を追求する。その演劇に生徒たちのからだは反応する。共感する。竹内は役者の演技に対
する生徒たちの的確な反応にも驚く。また、役者たちは役者たちで疑いようのない、たし
かな手ごたえを感じる。それは竹内にとっても役者たちにとっても深く感動的なものだっ
た。深い人間的なふれあいだった。
林竹二は「竹内敏晴にとってのからだはソクラテスにとっての魂である」と喝破した。
ソクラテスにとって魂とは自己のことだという林の注釈にしたがえば、まったくそのとお
りだろう。ソクラテスは魂のドクサを吟味し、竹内敏晴はからだのドクサを吟味する。林
竹二がソクラテスに倣ってやっていたことを竹内敏晴はからだでやっていたのだ。木田元
はそれを「臨床哲学」と呼んでオマージュをささげている。
竹内敏晴は死の直前までレッスンを続け、享年8
4だった。