ミクロ経済学 1 : 方法および前提

Ken URAI, Osaka University
October 29, 2013
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■ミ ク ロ 経済学■ 1 : 方法およ び前提
* 以下の内容に ついて は、 教科書 浦井・ 吉町 (2012) 第 1 章 基礎的概念 ∼ p.23 ま でを 参考に せよ
経済学: 交換の場であ る 市場と いう 概念と そ の役割、 すな わち そ の仕組みの下で世界( 人間社会) がど のよ
う に 回り 、 動き 、 存続し て 行く のか。 そ し て そ れはど のよ う な 意味で良いと 言え る のか、 あ る いは悪いと すれ
ば改善でき る のか。
個人と いう も のを そ の出発点と し て 、 こ れら を ど こ ま でも 詳細・ 緻密な 理論的可能性と し て 取り 扱う ミ ク ロ
経済学。 一方で、 現実社会におけ る 集計的( 貨幣的) 数量に着目し て 、 一国の生産量や失業率、 物価水準と いっ
た 概念を 用いて 、 そ の全体的動向を 取り 扱う マ ク ロ 経済学。
★経済学: ミ ク ロ 経済学と マ ク ロ 経済学( 静学と 動学、 部分均衡と 一般均衡)
★個人と 社会: 近代的な「 社会」 およ び「 科学」 概念の成立( 国家・ 共同体・ 個人: 人間概念—和辻哲郎『 倫理学』 etc.、 近代—経験
的・ 先験的 2 重体( フ ーコ ー)、 社会を 見る 個人)
★市場について: 市場の勃興・ 交易と 交換の違い・ 余剰生産物と 文字の登場( 人類学・ BC3500 年頃 シュ メ ール人・ ケ イ ン ズ『 貨幣論』)
市場と そ の働き こ そ 、 経済学の中心テ ーマ であ る 。 社会学や人類学と いっ た 関連分野よ り 古く から 指摘さ れ
る 交易と 交換の違いと いっ た こ と も 、 市場に おけ る 、 同一の事柄の表と 裏と し て 眺める こ と ができ よ う 。 市場
に お いて 、 交換と は取り 引き 数量から 価値が伸縮的に 決ま る メ カ ニズム であ り 、 一方で交易と いっ た 段階は、
価値が硬直的に 上から 与え ら れ、 取り 引き 数量がそ れに と も な う 必要のあ る 状況( 逆選択と 呼ばれる 状況の一
つ) と 見れば、 市場はあ た かも 人類の歴史を 通じ て 、 我々 と と も に あ っ た と 言う べき かも 知れな い。
【 1 】 Economics エコ ノ ミ ク スの語源を たど れば、 ギリ シア語のオ イ コ ス ( oikos 家: その家長が市民と し て 都
市国家ポリ ス を 形成する ) と ノ モ ス( nomos 掟、 習慣、 法律な ど 、 社会制度上の道徳概念を 形成する も の) に
行き 着く 。
ク セ ノ フ ォ ン (Ξǫνoφών) に よ る oikonomikos 家政学と いう べき こ の言葉の使用に 加え て 、 ア リ ス ト テ レ ス に よ る 「 オイ コ ノ ミ ケ ー」
と 「 ク レ ーマ チス チケ ー」 いわゆる 経済学( オイ コ ス ・ ノ モス の意味での) と 貨殖学( と し ばし ば訳さ れる がむし ろ 生活必需品の供給術
と の指摘も あ る ) の区別があ る 。
カ ールポラ ン ニー Polanyi (1957) に よ れば、 当時のギリ シア の都市国家に おいて 一般に 共同体( コ イ ノ ニア ) に おけ る 原則は、 オイ
コ ス での自給自足( ア ウ タ ルケ イ ア ) の堅持を 公準と し た 善意( フ ィ リ ア ) に 基づく 互酬行動( ア ン ティ ペポン ト ス )「 互いに すすんで負
担を 引き 受け る 行為」 であ り 、 そ こ は交換や契約と いっ た 今日言う 市場メ カ ニズム 的に 相対化さ れた 価値の入り 込むべき 場所ではな いと
いう のが、 ア リ ス ト テ レ ス の視点であ っ た と いう 。( 実際、 ア リ ス ト テ レ ス に おいて 、 ポリ ス の運営術( ポリ テ ィ ケ ー) た る 政治学と は、
人間の最高善であ る 幸福を 達成する た めの学問であ り 技術だっ た のであ り 、 そ れはハン ナ・ ア レ ン ト の言葉を 借り れば「 個性のた めに 保
持」 さ れて いた 「 公的領域」 であ っ て 「 ひと びと が他人と 取り 換え る こ と のでき な い真実の自分を 示し 得る 唯一の場所」 Arendt (1958;
2 章6 節) だっ た のであ る 。) ポラ ン ニーは、 そ う いう 視点で書かれた ア リ ス ト テ レ ス の経済論が近代の「 交換と いう 偏見」 に と ら われた
視点から 陳腐化さ れ、 解釈さ れて いる と いう 。 通常「 貨殖学」 と 訳さ れる 「 ク レ ーマ チ ス チ ケ ー( 生活必需品の供給術)」、「 交換」 と 訳
さ れた 「 メ タ ド シス( 分け 与え る こ と )」、 そ し て 一般的な 商業交易のこ と を 指し な がら も 「 小売の技術」 と 訳さ れた 「 カ ペーリ ケ ー」 は
( マ ルク ス の『 資本論』 な ど ではいく ぶんそ の真意に 接近する 形で扱われて いる が Marx (1867; 4 章, 注6 )) 当時ま だ市民に は入り 込ん
でき た ばかり と いう べき 商業的な ( 利潤を あ げる た めの) 取り 引き に 向け た 批判と いう 側面を 、 も う すでに 「 市場メ カ ニズム 」 がそ こ に
あ っ た と いう 偏見で見誤っ た 誤訳であ る と 述べて いる 。
一方「 経済」 と いう 語は荻生徂徠の弟子、 太宰春台の『 経済録』 に お いて はじ めて 用いら れた と 言われる 。
丸山眞男 citeMaruyama1998 は徂徠学の特徴を 「 道の外面化」 と 呼ぶ。 そこ では儒教的な 「 道」 が徹底し て 統
治術と し て の制度文物に 他な ら な いも のと し て 位置づけ ら れ、 個人道徳と いっ た も のも ま た 、 そ れに 資する 限
り に おいて そ の存在意義を 認めら れる 。
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以下では、 社会において「 ど う こ う すべき 」 と いう 形で与え ら れたルール( 規範) に対し て 「 社会規範 (social norm)」 と いう 言葉を
用いる 。 社会規範が個人に おいて 内面化し たも のを「 道徳」 と 呼ぶ。「 倫理」 と は「 倫=な かま =人の間」 の「 理( こ と わり )」、 すな わち
「 人間のある べき 姿」 である ( 和辻 (1934))。 ま た、 英語の「 モラ ル (moral)」 を 上で言う 「 道徳」 も 「 倫理」 も 含む広い意味で用いる 。
そう し た「 規範の制度化( 外面化)」 を 極端にま でおし すすめたのが太宰春台であり 、 経済と いう 語が「 凡( お
よ そ ) 天下國家を 治むる を 經濟と 云、 世を 經め民を 濟ふ義なり 」 と いう 今日よ り も およ そ 広い意味で用いら れ
な がら も 、 統治あ る いは一国の秩序、 そ のた めの一国の制度と いう 視点で論じ ら れる「 経済」 の学は、 今や狭
義の「 科学( 技術)」 と いっ た 概念に 支配さ れ兼ねな い社会科学分野に お いて は、 そ の本来の視座を 明確に 与
え て く れる と こ ろ ではな いだろ う か。
今日、 経済学は社会科学の一分野であ る と 言われる 。 直前で狭義の「 科学」 と いう 言葉を ( 技術そ し て 産業
と 直接的に 結びついた ) 否定的な 意味で用いた が、 以下ではも う 少し そ の意味を 広く 、 科学=学問と いう 、 万
人が容易には否定し 難い意味で用いる こ と にし よ う 。 その意味で、「 社会科学」 と いう 言葉に見る よ う な 、 そも
そ も 「 社会」 と いう も のを 、 あ た かも 自然のごと く の対象に し て「 科学」 する と いう よ う な 考え 方が、 少な く
と も 今日の学問体系の中に 位置付け ら れた こ と そ れ自体が、 実はそ れほど 古いこ と ではな い。
そも そも 、 今日的な 科学と いう べき 学問体系が、 中世神学から 独立し 得たのは 17 世紀のデカ ルト 以降であり 、 その心身二元論や存在論
から 認識論への哲学的重心の移行に 負う も のであ る と いう のは、 自然な 見解であ ろ う 。 有名な 「 我思う 故に 我あ り 」 と は、 存在する ( 我
あ り ) と いう こ と から 、 認識する ( 我思う ) こ と への、( 哲学的な ) 根源事項の変換に 他な ら な いのであ る 。
古代ギリ シアにおける 哲学は、 ま さ し く 今日において も その学問体系の礎を なすも のである が、 カン ト は『 道
徳形而上学原論』 Kant (1785) の冒頭でア リ ス ト テ レ ス に な ら い学問を 次のよ う に 分類する 。 ま ず、 学問( 哲
学) を そ の形式に 関わる も のと 実質に 関わる も のに 分類し 、 さ ら に そ の実質を 「 物」 すな わち 「 自然( 自ずか
ら 然る べく ある も の) 」 に 関する 理( こ と わり ) を あ つかう も のと 「 人間」 すな わち 「 自由( 自ずから そ の由
を も っ て ある も の) 」 に 関する 理を あ つかう も のに 分け る 。 形式に ついて の理を あ つかう のが論理学であ り 、
自然の理を 扱う も のを 物理学、 そ し て 人倫に ついて の自由の理を 扱う のが倫理学であ る 。
― ( 形式的) ― 論理学
| ― 理論的部分
哲学 + ( 実質的) ― ( 物: 自然) 物理学 ― 経験的部分
| ― 理論的部分
― ( 実質的) ― ( 人: 自由) 倫理学 ― 経験的部分
更に そ の各項目はそ の経験的部分と 理論的部分( 実は、 そ の分け 目が明確か否かが今日に 至る 重大な 哲学的問
題な のであ る が) つま り 経験に 基づく 部分と 基づかな い先験的( ア ・ プリ オリ ) な 部分に 分類さ れる 。
カ ン ト は人間知性を 「 認識する 」 と いう 側面から と ら え る ので、「 経験によ る 認識」 と 「 経験によ ら な い認識」 と いう と り あえ ずの分類
はそ の哲学的立場から き わめて 自然であ る 。 経験と いう ブラ ッ ク ボッ ク ス に 「 な に があ る のか」 と いう 問題を 閉じ 込め、 議論を 「 な に を
知る こ と ができ る のか」 に シフ ト さ せる のであ る 。
カ ン ト に よ れば論理学は( そ れは思惟の普遍的・ 必然的法則の根拠と な る も のであ っ て ) 経験的部分を 持ち
得な い( 持つと すればそ れはも はや論理学ではな い) と さ れる 。
こ の点に ついて は、 今日我々 は( 例え ば限代数学に おけ る 公理的集合論の公理のよ う に ) そ れの生み出す議論の豊富さ ( と いう 経験)
が、 思惟の必然的法則の根拠と な り 得る こ と も 十分に あ り 得る と いう 、 カ ン ト の時代に は無かっ た 体験を 持ち 得て いる 。 同時に 「 一切の
思惟に 例外な く 通用する 唯一無二の規準」 と いう よ う な 概念の存在は、 今日き わめて 疑わし いも のと な っ た のであ る 。
理論的部分は「 形而上学」 と 呼ばれ、 要する に「 経験に よ ら な い認識」 と し て 形成さ れる 部分であ る 。「 科
学」 と いう こ と が「 データ 的実証」 と いう こ と と 固く 結びつけ ら れた 2 0 世紀の風潮( 論理実証主義) から 、
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今日では形而上学と いう 言葉自体あ ま り 良く 無い意味で( いわば科学でな いも のの意に おいて ) 用いら れる こ
と が多い。 カ ン ト の道徳形而上学と は、 言う ま でも な く 人( 自由) に ついて の倫理学の理論的部分であ る 。
近代に おけ る 経済学の出発点と 言え る ア ダム・ ス ミ ス の『 諸国民の富』 Smith (1776) は 1776 年であ り ( 当
時のプロ セ イ ン と ス コ ッ ト ラ ン ド の違いはあ る も のの) ま さ し く 上と 同時代であ る が、 ス ミ ス の大学( グラ ス
ゴ ー) に おけ る 立場( 1764 年ま で) は道徳哲学の教授であ り 、 そ れから 時代を 1 0 0 年下っ て マ ーシャ ルの時
代のケ ン ブリ ッ ジに おいて も 経済学は道徳科学( モ ラ ル・ サイ エン ス ) の課程の下で扱われて いた 。 つま り 経
済学と いう のは2 0 世紀の初頭ま で、 上の図式で言う な ら ば堂々 と 「 倫理学」 の一部と し て 扱われて いた ので
ある 。
も ち ろ ん、 経済学を サイ エン ス( そ の2 0 世紀的な 意味よ り も やや広く 、 あ た かも 自然科学と 似た も ののよ
う に ) と し て 扱おう と いう 姿勢自体は、 一般に「 社会科学」 を 成立さ せよ う と いう 試み、 すな わち 「 社会」 に
対する 「 認識の( 自然に対す る がご と く の) 客観性」 を いかに 保証する かと いう 問題と し て 、 近代社会の成立
から そ の2 0 世紀初頭に 向け て 着々 と 準備さ れて 来たのであ る 。 そ れに 際し て も っ と も 「 社会科学ら し い社会
科学」 と いう 位置付け がと り わけ 「 2 0 世紀の経済学」 に 期待さ れて いた こ と も 、 ま ち がいな い。
【 2 】 経済学はアダム・ スミ ス以来、 近代の人間社会のあり かたを 、 それがある 統合化さ れたシステム の総体で
あ り 、 そ の動き が科学的に 決定可能な 法則と し て 把握さ れう る よ う な も のと し て 、 描き 出そ う と 試みて き た 。
ミ ク ロ 経済学の立場は、 こ の目的に 対し 「 個々 の意志決定主体」 と し て の「 個人」 を 出発点と する 「 方法論的
個人主義」 に 基づいた 、 古典的な 接近方法と 言え る であ ろ う 。 こ れに 対し て 、 前世紀の前半と り わけ そ のシス
テム の全体性と いう 視点から 出発し よ う と する Keynes の General Theory( マ ク ロ 的視点: Keynes (1936)) に
はじ ま る 「 マ ク ロ 経済学」 のア プロ ーチがあ っ た 。 後者は「 貨幣的価値」 に 基づいて 、 G D P 、 国全体の貯蓄
額、 投資額と いっ た 現実のデータ と の接点を 持つ。 こ れが経済学理論に「 実証性」 と いう ( 2 0 世紀的観点か
ら する と き わめて 重要な「 科学」 と し て の側面) を 付与し た と も 言え る 。 け れど も そ の後、 そ う し た マ ク ロ 経
済学と ミ ク ロ 経済学の連携が経済学と いう 学問分野に おいて( そ れを いわゆる 2 0 世紀の科学な ら し める ) 理
想的な 共同作業を な し 得た かと いえ ば、 むし ろ そ の逆であっ た( 多く の論争と 互いに 相容れな い知見を 産み出
すし かな かっ た ) と 言う べき であ る 。
今日、 経済学理論のそ の( 広義の) 科学性と いう こ と を ど のよ う に 考え る かと いう 問題は、 も う 少し 時代を
遡っ て 、 も う 一度、 そ の社会科学と いう も のの黎明期の考え 方に 、 そ の足場を 求める べき であ ろ う 。
古典的に 個人と いう も のを そ の出発点と する と き 、 社会科学は「 自ら が自ら を 眺める に あ たっ て の客観性」
と いう 、 そ のき わめて 特徴的な 問題に 直面する 。 社会科学に おいて そ の認識の客観性あ る いはそ れが科学た り
得る のかと いう 問いは、 そ の歴史の中で常に 自省を 込めて 取り 扱われて 来た 問題であっ た 。 近代に おいて と り
わけ 重要な 影響を 与え た のは Max Weber (1864–1920) であ る 。 Weber は、 いわば自然科学のよ う に 単純な
「 原因と それに基づく 結果」 と いう 関連ではと ら え にく い人間社会の問題を 、 その社会を 構成する 主体におけ る
「 目的及びそ のた めの手段、 な ら びに そ の結果」 と いう 関連の中に と ら え 直し (「 目的論的関連の因果関連への
組み込み」 大塚 (1966))、 普遍的な 知見へと 到達でき る 可能性を も っ て 、 その客観性の確保を 訴え たのであっ た
( Weber (1904))。 Weber の最も 重要な 意義は、 社会科学的な議論の背景や出発点に何ら かの「 理念」 が不可避
的に入り 込むこ と を 明確に 認めつつ、 そ のこ と と そ れが科学的でな いと いう こ と の間に 線を 引いたと いう こ と
であ る 。 そ う し た 理念( 価値判断) の( 不当な 介入ではな く 自ら 根拠を 持っ て 入っ て いる と いう 意味での) 自
由性を 指し 示す言葉と し て の価値自由 “Wertfreiheit”、 ま たそう し た重要な 理念を 呼び表す理念型 “Idealtypus”
と いっ た 概念は、 今日余り に も 有名であ る 。
社会科学のこ う し た 出発から 間も な く 、 前世紀、「 科学的であ る 」 と いう 言葉は大き く 揺れ動いた 。( こ れは
分析哲学、 いわゆる 英米系の哲学と し て そ れま での大陸系の哲学と 対比さ れる 潮流に 依存する も のである 。 英
国ケ ン ブリ ッ ジに おけ る ホワ イ ト ヘッ ド =ラ ッ セ ルのプリ ン キ ピ ア・ マ セ マ テ ィ カ 、 ウ ィ ト ゲン シュ タ イ ン の
論理哲学論考な ど が有名であ る が、 下の論理実証主義自体は、 そ れと は幾分距離を 置いた ウ ィ ーン・ ス ク ール
およ び米国での強い動き であ っ た と 言う べき であ る 。) 論理実証主義の主張は、 純粋論理的な 演繹に 基づく タ
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イ プの知見に 代表さ れる 分析的判断と 経験的な データ から 導かれる 帰納的知見に代表さ れる 綜合的判断の明確
な 区分を そ の根底に 置き 、 世界の把握に おいて は純粋に 理論的な モデルの構築と 経験データ に 基づく そ の検証
と いう 方法論的形式を 備え たも のを はじ めて 科学と 呼ぶと いう も のであっ た。 経済学に「 社会科学の女王」( 物
理学が「 自然科学の王」 と 呼ばれた こ と に 対し て ) と いう 呼称を 与え 得た のはいわばそ う し た「 2 0 世紀科学
観」 に基づく と こ ろ のも のである が、 今日では、 そのよ う な「 2 0 世紀科学観」 の哲学的根拠はほぼ失われて い
る と 言っ て よ い。 W.V.O. Quine に よ る 「 経験主義の2 つのド ク マ Two Dogmas of Empiricism」( Quine
(1953) に収録) はそう し た分岐点と も 言え る 重要な 論文である 。 そこ で強調さ れる のは( 1 ) 意味のある 言明
と 言え る も のが感覚データ ある いはそれについて の言明に必ずし も 還元し え な いと いう こ と であり 、( 2 ) ま た
上記のよ う な 分析と 綜合の明確な 区分が存在し 得な いと いう こ と であ る 。 そ れは我々 の知見と し て 無視し 得な
い重要な 知見が、 そ の狭間に 存在し て いる と いう こ と を 示唆し て いる 。 奇し く も こ れは、 社会科学に おいて は
上記 Weber が不可避的に 入り 込む理念と 呼んだと こ ろ のも のでも あ り 、 人間の知性と は何であ る のかと いう
大き な テ ーマ を 伴いつつ、 今日の我々 に ( そ の方法論と と も に ) 投げかけ ら れて いる のであ る 。
REFERENCES
Arendt, H. (1958): The Human Condition. University of Chicago Press, Chicago. 日本語訳 : ハン ナ・ ア レ
ン ト 『 人間の条件』( 志水速雄訳) ち く ま 学芸文庫, 1994.
Kant, I. (1785): Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 日本語訳: カ ン ト 『 道徳形而上学原論』( 篠田英雄
訳) 1960, 岩波文庫, Tokyo.
Keynes, J. M. (1936): The General Theory of Employment, Interest and Money. Macmillan Cambridge
University Press / Royal Economic Society, United Kingdom. The Royal Economic Society 1973. 日本
語訳: J . M . ケ イ ン ズ『 雇用・ 利子およ び貨幣の一般理論』 1995, 塩野谷祐一, 東洋経済新報社, Tokyo.
Marx, K. H. (1867): Das Kapital I. 日本語訳: マ ルク ス 『 資本論』( 向坂逸郎訳) 1969, 岩波書店, Tokyo.
大塚 久雄 (1966): 『 社会科学の方法 —ヴ ェ ーバーと マ ルク ス —』 岩波書店, Tokyo.
Polanyi, K. (1957): “Aristotle Discovers the Economy,” in Trade and Market in the Early Empires, (Polanyi,
K., Arensberg, C. M., and Pearson, H. W. ed) , pp. 64–94, The Free Press, Glencoe. 日本語訳:『 ア リ
ス ト テ レ ス に よ る 経済の発見』( カ ール・ ポラ ン ニー『 経済の文明史』 ち く ま 学芸文庫, 第 9 章) .
Quine, W. V. O. (1953): From a Logical Point of View: 9 Logico-Philosophical Essays, Second Edition,
Revised 1961. Harvard University Press. 日本語訳:『 論理的観点から : 論理と 哲学を めぐ る 九章』( W.
V . O . ク ワ イ ン 著. 飯田 隆訳) 1992, 勁草書房, Tokyo.
Smith, A. (1776): The Wealth of Nations.
浦井 憲・ 吉町昭彦 (2012): 『 ミ ク ロ 経済学 — 静学的一般均衡理論から の出発』 ミ ネ ルヴ ァ 書房, Kyoto.
和辻 哲郎 (1934): 『 人間の学と し て の倫理学』 岩波書店, Tokyo.
Weber, M. (1904): “Die “Objektivität” Sozialwissenschaftlicher und Sozialpolitischer Erkenntnis,” Archiv
für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik 19, 22–87. English translation: “Objectivity” in social science,
in The Methodology of the Social Sciences (Edward A. Shils and Henry A. Finch, tr. & ed.) ; 日本語
訳:マ ッ ク ス・ ヴ ェ ーバー『 社会科学と 社会政策に かかわる 認識の「 客観性」』( 富永・ 立野・ 折原訳) 岩
波文庫, 1998.