『トロイラスとクレシダ』を読んで 正直なところ、あまり後味が良くなかった。作品は「おまえさんたちへの遺産が梅毒だ けとは同情するよ」で終わっているのである。これは「消え失せろ、周旋屋。死ぬまで生 き恥をさらすがいい、死んでもきさまの汚名はさらに生きつづけるがいい」とトロイラス に言われたパンダラスの言葉である。クレシダの心変わりは自分のせいではないのに、と パンダラスは思わなかっただろうか。そう、シェイクスピアではトロイラスはまだ生きて いる。一方、材源であるチョーサーの『トロイルスとクリセイデ』では、アキリーズの手 にかかって死んだトロイルスの魂は、昇天して至福に達し、「すべては空しいものだと」と 観ずる。そして自分の殺された場所を見下ろして、自分の死を嘆く人たちの悲しみを心の 中で笑うのである。こちらには救いがある。が、シェイクスピアには救いがない。これが 一番の違いではないだろうか。 違いは他にもある。チョーサーのクリセイデは寡婦であり、父のカルカスがトロイを裏 切ったため、肩身の狭い思いをして生きている。一方、クレシダは才気煥発で、したたか な乙女であり、ギリシア側の名将ユリシーズの目には「あのような浮気女は口も達者なら、 色事も達者だ」と映る。これはクレシダの心変わりの伏線のようなもので、作品を薄っぺ らにしている。クリセイデには Frailty, thy name is woman! と言いたくなるが、クレシ ダには、トロイラスは正直すぎて見る目がなかったのだ、とならないか。 もう一つ、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』に抵抗を覚えたのは、サーサイ ティーズという非常に口汚いギリシア人が登場することである。この人物は道化の役もし ているのだろうが、それにしても口が悪い。パトロクロスからも「ことばがすぎるぞ、サ ーサイティーズ」とたしなめられている。もっとも、本質をつくこともある。例えば、「こ との起こりは間男と淫売女じゃねえか、いがみあい、徒党をくみ、血を流して死んじまう には、ごりっぱな大義名分だ」と言う時。 それから残念だったのはヘクターの殺され方である。休もうとして武具を外しているヘ クターを見つけて、アキリーズは堂々と闘うのではなく、部下たちに四方八方から襲わせ ているのだ。これではギリシア軍随一の英雄アキレウスの名がすたるというもの。 (補遺) 最後に触れたアキレウスの卑怯さだが、このような「反ホメーロス的」な扱いはシェイ クスピアが最初ではないようだ。『トロイア滅亡史』(グイド・デッレ・コロンネ著、岡三 郎訳)の最後の解説を読んでいたら、チョーサーの『名声の館』第三巻にこう書いてある 由。 ところが、良く分かって来たことだが、 彼等の間に、多少の妬みがあった。 ある者が言うには、ホメロスは嘘を付き、 その詩の中に虚構をなし、 その上、ギリシャ方に味方しており、 それゆえ、その作品は作り話に過ぎぬ、としたのだ。 (1475-80) 文中の「彼等」とはトロイの物語を書いたダーレス、ディクテュス、グイドたちであるが、 前の二人はそれぞれ5世紀、4世紀とあまりに古いので、チョーサーが読んだのはグイド のラテン語の『トロイア滅亡史』 (13 世紀末)か、この本の種本であるサント・モールのブ ノワによるフランス語の『トロイアの物語』 (1160 年頃)であろう(トロイラスとブリセイ ダの恋物語は Benoît の創案)。 そこで岡三郎氏の訳でヘクトールが殺されるところを読んだ。すると、アキレウスはシ ェイクスピアが描くように、武具を外したヘクトールを部下たちに襲わせたりしていない。 ヘクトールはあるギリシアの王に襲いかかり、彼を捕え、分隊から引き立てようとしてい た。そのため自分の盾を相手の背中に投げかけていた。彼の胸は無防備であった。それを 見て、アキレウスは強力な槍でヘクトールの腹部に致命傷を与えたのである。これがそれ ほど卑怯であろうか。 一方、シェイクスピアが利用したのはチョーサーではなく、リドゲイト(Lydgate)の『ト ロイ物語』 (これはグイドからの翻訳)か、キャクストンの『トロイ物語集成』 (1474)か、 恐らく後者だろうという意見がある。後者はキャクストンがまだブルージュにいた頃、ブ ルゴーニュ公爵夫人マーガレットから頼まれてラウル・ルフェーブルの Recuyell of the Historyes of Troye を英語に翻訳したもので、英語の最初の印刷本である。リドゲイト版は グイドの翻訳であるから、先に見たように、そこに描かれるアキレウス像はそれほど卑怯 とは思えない。実際に読んでみると、少し違いがあり、ヘクトールは捕えた敵の王を馬に 乗せて運ぶため、自分の盾を「自分の」背中に回していたので、胸が無防備になっていた。 「残酷で有害なアキレウスは」それを見て、「密かに」彼に近づき、鋭い槍で彼の「胸を」 突き刺した、とあり、確かに、だいぶトロイ寄りになっている。 シェイクスピアだけでなく、イギリス人もイタリア人もトロイ贔屓なのだろう。英国の 神話上の祖先である Brutus はトロイの勇士 Aeneas の孫であり、アエネーアースは古代ロ ーマ建国の祖ということになっているからである。その点、 「反ホメーロス的」な姿勢を「妬 み」と見たチョーサーは大人であった。
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