入 宋 僧 の勧 進 活 動 に つい て 嗣 朗 栄 西 が 二度 に渡 り 入宋 し、臨 済 禅 や茶 な ど を招 来 し た こと 馬 小論 は ﹁入宋 僧 の勧 進 活 動 に つい て﹂ と題 し て、 入宋 僧 の いな い。特 に、 栄 西 の 一回 目 の入宋 に つ いて は不 明 な 点 が多 は よ く知 ら れ て いる 一方 、 そ の詳 細 に つ いて多 く は語 ら れ て 有 仏 教 史 や 日 中 交 渉 史 等 の流 れ の中 で、入宋 僧 は ﹁ 求 法 ﹂﹁ 巡 渡 航目 的 と そ の社会 的 背 景 を 明 ら か に す る ことを 目 的 とす る。 よ って変 容 す る こと を 指 摘 し た 。ま た 近 年 、東 大 寺 復 興 を め し て いた こ と を述 べ、 そ の渡 航 目 的 は そ れ ら外 護 者 の意 図 に 彼 ら の血 縁 ・法縁 関 係 を 母 胎 と す る宗 教 的共 同体 が深 く 関 与 礼 ﹂が そ の渡 航 目的 と さ れ てき た が 、か つて入 宋 行 の背 景 に 、 宋 自 体 に つ いて疑 いをも つ向 き も あ る が、 そ の根 拠 は ﹁入宋 で行 動 を とも に し た と いう 。 重 源 の入 宋 に つい ては 、 そ の入 両 者 は天 台山 万 年 寺 .阿育 王 山 と 巡 歴 し 、 同年 九 月 の帰 朝 ま 栄 西 は そ こ で俊 乗 房 重 源 と 出 逢 っ たと いわ れ て い る。 そ の後 航 し、 寧 波 に着 岸 す る こと とな る 。 四明 山 ・丹丘 へと 赴 いた い。仁 安 三年 (二 六八) 四月 、 栄 西 を乗 せ た 船 は 博 多 を 出 (1 ) ぐ る勧 進 行 の延 長 に 大 陸 で の勧 進 が 執 り 行 わ れ た とす る試 み 三度 ﹂ が 自 称 であ るか ら と いう 指 摘 であ り 、重 源 の東 大 寺 勧 (2 ) が な さ れ た が、これ は入 宋 行 に関 す る新 たな 視 座 と いえ よ う 。 進 にお け るそ の行 動 力 、さ ら に栄 西 と の深 い関 係 を 考 え れ ば、 (4) 本 稿 で は入 宋 僧 の大 陸 に お け る勧 進 行 が わ が国 にど の よう 入 宋 三 度 は誇 張 と し ても 重 源 の入 宋 は 当然 行 わ れ た と考 え る (3 ) な影 響 を及 ぼ した か に つい て論 じた い 。ま た 、 こ こ で は特 に て いる 。 こ の書 状 の内 容 は、 天 台 教 学 の疑 義 を 質 し た 返 書 訪 ね 、天 台 新 章疏 三 十 余 部 六十 巻 と 大 陸天 台僧 の書 状 を 届 け 栄 西 は帰 朝 後 、 比 叡 山 座 主 の明 雲 (一一一五∼ 一一八三)を (5 ) 重 源 (一一二 一∼ 一二〇六) ・栄 西 (一 一四 一∼ 一二 一五) な ど べ き であ る 。 平成 十 年十 二月 の南 宋 期 に渡 航 し た 僧 侶 に重 点 を置 き、北 宋 期 ど 南 宋 期 の入 栄 西 の入宋 宋 僧 の相 違 点 な ど にも 言 及 し て み た い 。 一 印度 學 佛教 學 研究 第 四 十 七巻 第 一号 一181一 入宋僧 の勧進活動に ついて ( 有 馬) だ った の ではな か ろう か 。 こう し た教 学 に関 す る質 問 を 担 っ て の大 陸 への渡 航 は、 円 載 (? ∼八七七) や 寂 照 (? ∼ 一〇 三四) に みる こと が でき るが 、 彼 ら の渡 航 は いわ ば 公 的 な使 び そ の教 え を 相 承 し た の であ る 。 命 であ った 。 ま た 、 播 磨 増 位 寺 の 二十 代 長 吏 と な った 唯 雅 黄 竜禅 を相 承 し た こと 以外 に 、外 護 者 であ った平 頼 盛 の菩 提 栄 西 の大 陸 で の事 績 に つい ては 、先 に述 べ た虚 奄 懐 傲 よ り 栄 西 の大 陸 勧 進 ( 生没年不詳) と いう 僧 侶 が 栄 西 と と も に入 宋 し て い る。 唯雅 追 善 のた め に 香 椎 神 宮 へ菩 提 樹 を 送 った こと (﹃ 吾妻 鏡﹄元暦 二 が いか な る人 物 か 知 る こと は でき な いが 、 こ の同 行 に つい て (6 ) は か つて の入宋 僧 のよ う な 侍 者 と し て では な く、 栄 西 と は別 亭 を建 立 し た こと 、天 童 山 景 徳 寺 内 の千 仏 閣修 繕 の た め の材 元年 四月六日条)、 天 台 山 の観音 院 .智 者塔 院 を修 繕 し 、覧 衆 (7 ) の目 的 を持 っ て入宋 し た か 、あ る いは 増 位 寺 ( 現在随願寺 )は 入宋 であ った の であ ろ う 。 仁 安 元 年 (二 六六) 七 月 に太 宰 に位 置 す る誓 願 寺 で そ のほ と ん ど を過 ご し 、万全 を期 し て の 十 九 年後 、 栄 西 は再 び 入宋 す る。 大 陸 の入 り 口 であ る博 多 同 じ も の で、公 的 な 天 台 山 への訪問 だ った の かも し れ な い。 わ れ た か定 か で は な いが 、⋮藤 原 道 長 ( 九六六∼ 一〇 二七) や ⋮藤 いる 。大 慈 寺 再 建 が果 た し て行 わ れ た か、 ま た いか に し て行 る にあ た って喜 捨 を求 め て 帰朝 し 、寂 照 の許 へ再 度 入 宋 し て ば 寂 照 の弟 子 、 念 救 ( 生没年 不詳) は天 台 山 大慈 寺 を 再 建 す 大陸 勧 進 の例 は先 の入宋 僧 に も求 め る こ と が でき る。例 え 木 を送 付 す る約 束 を し た こと な ど が 知 ら れ て い る。 大 弐 と なり 、 当 時 の慣 例 に反 し て任 地 に赴 いた 平 頼 盛 (一一 財 を喜 捨 し て い る 。 こう し た 喜 捨 を 求 め る事 例 は ほ か に も み 原 実資 ( 九 五七∼ 一〇 四六) を は じ め と し た貴 顕 たち は、 そ の 天 台 系 寺 院 であ る こと か ら 、外 護 者 や そ の渡 航 目 的 は 栄 西 と 三 一∼ 一一八六) の外 護 の許 、 栄 西 は文 治 三 年 (一一八七 )瑞 西 域国 情 が 不安 定 と いう こと あ って そ の願 いは叶 わ な か った 。 う 。 し か し な が ら 、 南 宋 の都 臨 安 (杭州) に至 っ たも の の、 栄 西 の 二度 目 の入 宋 の目的 は 、印度 仏 跡 巡 礼 に あ った と い 報 恩寺 宋 淳 煕 中 日本 僧 栄 西建 内 有 釜 極 深広 ﹂ と 記 さ れ 、淳 煕 が 残 さ れ て い る。 ﹃大 明 一統 志 ﹄ には ﹁ 覧 衆 亭 ・在 天 台 県 旧 る こと が で き る が 、栄 西 に つい て は大 陸 側 の文 献 に そ の事 績 (8 ) 安 ( 漸江省南部 ) へと 出 航 し た 。 予 定 を 変 更 し、 天 台 山 で虚 蕎 懐 傲 ( 生 没年 不 詳 ) に相 見 し 、 る 。栄 西 が 入宋 し た のは 一 一八 九年 三 月 (﹃ 興禅護 国論 ﹄) で、 年 間中 (一一七四∼ 一一八九 ) に栄 西 は 覧 衆亭 を建 立 し た と あ 天 童 山 に移 った のは 一一八 九 年 であ る か ら 、天 台 山 に 入 っ て (9 ) 文治 五年 (一︱八九 )、懐 傲 に とも な っ て天 童 山 へと 移 り 、建 久 二 年 (一︱九 一) の帰 朝 ま で虚 奄 懐 傲 に つ い て黄 竜 禅 を学 一182一 い る。 わず か 一年 の間 に建 立 が 果 た さ れ た な らば 、栄 西 は 入 方 ﹃漸 江通 志 ﹄ によ る と、 淳煕 十 四年 に建 立 し た と記 さ れ て から す ぐ に覧 衆 亭 建立 の準 備 に取 り か か った の であ ろう 。 一 加 し た 。 覧 衆 亭 は天 台 山 巡 礼 者 の接待 寺 ・施 水 庵 と し て 、 湯 木 事 業 や 医 療 救 済 な ど の社会 福 祉 事 業 の 一環 と し て創 建 が 増 時 代 に巡 礼 ・遊 行 者 の増加 と 江 南 地 域 の開 発 に とも な い、 土 五 台 山 を は じ め と し た巡 礼 ルー ト に建 てら れ て いた が 、宋 元 (10 ) 宋 当 初 か ら こ の覧 衆 亭 の建 立 を 計画 し て いた ので はな いか と 屋 を 広 く 開 放 し て いた の であ ろ う 。 栄 西 の天 台 山 報 恩 寺 内 での覧 衆 亭 建 立 に つ い て考 察 し て み おわり に (13 ) 想像 し てし まう ほど の迅 速 さ であ る。 ま た 、建 物 の中 に は 釜 が あ った と記 さ れ て いる 。 そ の釜 は 極 め て深 く広 か った と あ り 、巨 大 な 釜 を 備 え た湯 屋 堂 であ っ たと 思 わ れ る。 ど の よう な 構 造 であ った か そ の詳 細 を 知 る 術 た が 、栄 西 の大陸 勧 進 は 日本 にお け る勧 進 事 業 に繋 が って い る と は 考 え ら れ な い であ ろう か 。湯 屋 堂 に つい て は帰 朝 後 の はな い が、 そ の可 能性 を いく つか 提 示 し て みた い。 重 源 は東 大 寺 の復 興 事 業 に お い て東 大 寺 を は じ め 、そ の別 し た 重 源 が 東 大 寺 復 興 と いう 大事 業 の 一環 に、 大 陸 の技 術 を 栄 西 に そ の建 立 を み る こと は でき な いが 、入宋 を と も に体 験 (11 ) 所 に 湯 屋 堂 を 設 け た が 、入 宋 経 験 を し た 重 源 が 釜 や 湯 屋 堂 を 湯屋 堂 建 立 の みな ら ず 様 々 な建 設 物 の中 で駆 使 し て いる 。 多 数建 立 し て い る こと は実 に興 味 深 い。東 大 寺 大 湯 屋 に は鉄 (12 ) 湯船 が 現 存 し て い るが 、 ﹃ 東大寺造 立供養 記﹄に ﹁ 鋳 鐡 湯船 栄 西 は 、 天 童 山 景 徳 寺 千 仏 閣 修 営 のた め に帰 朝 し て か ら 、 二年 後 に木 材 を 送 付 し た と あ る が 、重 源 も ま た 建 久 年 間 に阿 為 永 代 不 朽 之 寺 物 。大 湯 屋 之 寳 物 也 。 薪 以 昔 之 半 分 為 今之 湯 た こと にな る。 す な わ ち 、 東 大寺 大仏 の鋳 物 師 と し て活 躍 し 木 也 ﹂ と あ り 、 従 来 より 数 段 に 進 歩 し た 技 術 に よ っ て造 ら れ と す る説 も あ るが 、入 宋 行 で繋 が る両 者 の関係 は ま た し ても 育 王 山 の舎 利 殿 に周 防 国 の材 木 を寄 進 し て いる 。 二人 を 兄 弟 一致 す る 。重 源 のあ と を つい で、 栄 西 は 東 大寺 大 勧 進 職 に就 (14 ) ( 生没年不詳 ) を は じ め と し た 宋 人 の新 技 術 に よ る と こ ろ が 大 き か った の で あ る。 栄 西 の 覧 衆 亭 も 宋 の職 人 に 任 す る が、 そ の背 景 に は入宋 行 や 大 陸勧 進 で培 った 宋 代 技 術 た陳 和 卿 よ っ て造 ら れ た わ け だ か ら 、同 様 なも の であ った と 考え て よ や職 人 に関 す る 知識 が あ った か ら こそ と 考 え る の は当 然 であ ろう 。す な わ ち 、東 大 寺 大 勧 進 職 に就 任 の選 択 は、 入 宋 と い か ろう 。 こう し た 湯屋 堂 を 設 け た 建 設 物 は 、唐 末 か ら宋 元代 に多 く う キ ー ワー ド が あ る の で はな か ろ う か 。 事 実 栄 西 の孫 弟 子 、 馬) 建 立 さ れ た 接待 寺 ・施 水 庵 の中 に いく つか み ら れ る 。当 初 は 入宋 僧 の勧進活動に ついて ( 有 一183一 9 ﹃ 浙 江 通 志 ﹄七 巻 ﹃ 大 明 一統 志 ﹄六 巻 馬) 10 入宋 僧 の勧進活動 に ついて ( 有 円 彌 弁 円 (一二〇二∼ 二 ︱ 八○) は入 宋 僧 であ り 、 東 大 寺 大 勧 ﹁ 重 源 入宋 伝 私 見 ﹂ (﹃ 日 本 歴 史 ﹄ 一九 九 号 ・昭和 三 ﹁ 誓願 寺 の孟 蘭 盆 一品 経 縁 起 ﹂ (﹃ 仏 教 芸術 ﹄七六 号 ・ 三年 一 一月 ) 参照 。 ( 文 海 出 版 社 ・三 一〇六 頁 ) ﹁ 宋 元 時 代 にお け る 接 待 ・施 水 庵 の展 開︱ 僧 侶 の遊 ﹃ 東 大寺 造 立 供養 記 ﹄ ( ﹃大 日 本 仏 教 全書 ﹄東 大 寺 叢 書 一・五 六 石 川茂 雄 行 と 民衆 教 化 活 動 1 ﹂ ( 宋 代 史 研 究 会 編 ﹃宋 代 の知識 人︱ 思想 . 制度 ・地 域 社 会 ︱ ﹄・汲 古 書 院 ・平 成 五年 一月) 参 照 。 ﹃日本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 ﹄ (﹃ 続 群 書 類 従 ﹄ 第 九 巻 上 ・二七 三 二頁 )。 ( 愛知学院大学大学院) 頁 )。 小 林 剛 編 ﹃ 俊乗 房重源史料集成﹄ ( 昭 和 四 〇年 三月 ・三 四 ︿ キ ー ワー ド ﹀ 栄 西 、 勧 進 、 入 宋 僧 14 13 頁 上段) 12 定 海 ﹃日 本 寺 院 史 の研 究 ﹄ 中 世 ・近 世 編 ( 吉 川 弘 分 館 ・昭 和 六 11 小 林 剛 ﹃ 俊 乗 房 重 源 の研究 ﹄ ( 有 隣 堂 ・昭 和 四六 年 六 月 )、 平 岡 ( 台湾 華 文 書 局 ・三八 三六 頁 ) 進 職 に就 任 し 、 そ の法 脈 は引 き継 がれ て い る。 ま た 、 心 地 覚 心 (二 一 〇七 ∼ 一二九 八)も栄 西 の法 脈 を 嗣 ぐ 入 宋 僧 であ る が、 か つて西 国 巡 礼 地 の接 待 寺 と し て機 能 し て いた 紀 伊 歓 喜 寺 と 覚 心 と の関 連 が 指 摘 さ れ て いる 。 こ の こと に つ いて は 、日 本 裏辻憲道 九年 二 一 月)参照 。 山本栄吾 四 六︱ 一 ・平 成 九 年 一二月 ) 参 照 。 青木淳 ﹁ 俊 乗 房 重 源 の入 宋 と 技 術 移 入 ﹂ (﹃ 印度学仏教学研究﹄ (﹃ 東 海 仏 教 ﹄ 四 二号 平 成 九 年 三 月 ) 参 照 。 拙 稿 ﹁入宋 僧 の型︱ 北 宋 期 の三 人 の 入 宋 僧 を 中 心 と し て︱ ﹂ 仏 教 史 の研 究 ﹄ ( 百 華 苑 ・昭 和 五 〇 年 五 月 ) 等 参 照 。 ﹃ 日華文化交流史﹄ ( 冨 山 房 ・昭 和 三 〇年 七 月 )、 高 雄 義 堅 ﹃ 宋代 輯 五 ﹃日支 交 渉 史 ﹄ ( 立 命 館 出 版 ・昭 和 一六 年 九 月 )、 木 宮 泰 彦 辻 善 之 助 ﹃日 支 文 化 の交 流 ﹄ ( 創 元 社 .昭 和 二 二年 一月 )、 王 に おけ る接 待 寺 普 及 の問題 も 含 め、別 の機 会 に 考 え て みた い。 1 2 3 4 5 多賀宗隼 ﹃ 栄西﹄ ( 吉 川 弘 文 館 ・昭 和 四 〇 年 六 月 ) 参 照 。 拙稿、前掲参照 。 昭和四五年七月)参照。 ﹃御 堂 関 白 記 ﹄長 和 四年 七 月十 五 日条 ( ﹃大 日 本 古 記 録 ﹄下 巻 . 6 7 一八 ∼ 二 〇 頁 )、 ﹃小 右 記 ﹄ 長 和 四 年 六 月 十 九 日 条 (﹃ 史 料 大成 ﹄ 8 一巻 ・四 四 八 頁 ) に は、 砂 金 百 両 を は じ め と し た 金 品 と 財 物 が 送られ ている。 一184一
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