ODPHZH09中国の携帯電話端末産業と地場メーカーの発展

OICE Discussion Paper Series (ODP)
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中国の携帯電話端末産業と地場メーカーの発展
朱荟
1.はじめに
1990 年代末まで中国市場は外資系メーカーに寡占されて、外資系メーカーの中に最有力ブランドであるフ
ィンランドのノキア、アメリカのモトローラとスウェーデンのエリクソン(現在のソニー・エリクソン)が市
場シェアの約 8 割を占めた。日系メーカーが欧米メーカーの進出より大きく出遅れていたし、進出してもなか
なか奮わなかった。地場メーカーは中国政府が導入した産業政策の保護で、参入を開始し、2003 年まで中国
市場シェアの過半を占めるまでに発展を遂げた。しかし、携帯事業環境の変化に対応しきれず、2004 年以後
から市場シェアが下がり始めた。
日系メーカーと中国地場メーカーが一定的な程度に似ているところがあるから、今レポートでは、中国の携
帯電話端末の概況と携帯事業環境の変化、地場メーカーの発展について検討し、地場メーカーと日系メーカー
の成長可能性について展望したいと思う。
2.中国の携帯電話端末産業
2.1
携帯電話の普及
1987年、中国初めての携帯電話サービスが広東省で開始された。そのネットワーク初期の加入費は約1万元
(約15万円)で、携帯電話機本体のみで約3万元という高価であった。その時期では、携帯電話は財力や社会
的地位の象徴として、ごくわずかの個人しか持てなかった(朱 2010)
。
しかし、1990 年半ばから電気通信事業の改革が始まることで、携帯電話サービスの普及は加速した。1990
年代初めまで、中国電気通信は郵電部による独占事業であった。1993 年 12 月、中国聯合通信(以下中国聯通)
が国務院の認可のもとで、電子工業部、電力部、鉄道部の三省庁を中心に、地方政府系の国有企業を含む 16
社の出資によって成立されて、それまでの郵電部の独占局面を打開した。一方で、1994 年に郵電部も電気通
信事業の効率化を目的に中国電信を設立する形で同事業を企業化した。さらに、1999 年に事業が分割され、
その電話事業を引き継ぐために中国移動が設立された(朱 2010)
。
通信規格の面で、中国聯通はヨーロッパで実用されたばかりの GSM 方式による第 2 世代携帯電話のサービ
スを郵電部に先駆けて開始した。その後、中国移動は第 2 世代より通信速度が速く、インターネットのサービ
スも可能な第 2.5 世代の技術、GPRS を採用し、中国聯通も GPRS 並みの通信速度を持つ CDMA1x を採用
した。この二つの通信事業者の間で携帯電話サービスをめぐる競争が始まると、加入料金が引き下げられるな
どサービス普及の条件が整えられていった。そして、携帯電話端末の販売方式にも変化をもたらした。GSM
では電話番号情報などが記録された SIM カードを差し替えるだけでユーザーは自由に機種変更できるため、
携帯電話サービスへの加入と携帯電話端末の販売は切り離された。その結果、1990 年代末になると携帯電話
サービスは急速に普及し始め、2009 年 7 月には 7 億人を超え、普及率も 53%までに高まった。
(木村 2010、
P176)
2.2
携帯電話市場の生産状況
普及の急増とともに携帯電話端末の生産も増加している。中国携帯電話端末市場では、生産メーカーは主に
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外資系メーカーと地場メーカーに分けられている。外資系メーカーは海外輸出と国内販売という二つの部分で
やっている。地場メーカーは主に中国国内市場だけを中心にして,携帯電話端末を作って,販売している。
中国の携帯電話端末市場が地域的にも、価格帯から見ても多層的に構成されている。所得水準に基づいて、
消費層は①北京、上海、広州などの主要大都市、②省政府所在地などの地方大都市、③地方中小都市、④農村
市場の 4 つの区分に分けられている。消費層の大きさを反映して、携帯電話端末の機種と価格帯も格差がある。
一般的にいえば、1000 元(約一万六千円)以下はローエンド機で、1000~2500 元(約一万六千円~三万七
千円)はミドルエンド機で、2500 元(約三万七千円)以上はハイエンド機である。その中で、地場メーカー
は地方中小都市と農村市場を中心にし,ローエンド機とミドルエンド機を販売して、外資系メーカーは大都市
の市場で,ミドルエンド機とハイエンド機を販売している傾向がある(木村 2010、P178)。
3.地場メーカーの発展
3.1
成長と発展戦略
1990 年代末までの中国市場で販売されていた携帯電話端末は外資系メーカーの製品ばかりであった。その
時期に中国地場メーカーは外資系メーカーからの受託を通じて携帯電話端末の製造にたずさわったり、携帯電
話端末の国産化に取り組むこともあった。たとえば、東信(東方通信)、厦華、科健という地場メーカーが外
資系メーカーや中国政府の研究所の合弁によって、携帯電話端末を生産した。しかし、外資系メーカーの優位
性を揺るがすほどのインパクトにはならなかった。これは、外資系メーカーと比べて資金や技術面の格差が大
きく、核心技術の欠如によってコストの上昇をもたらしたことからである(木村 2010、P179)。
中国政府は、1999 年に「移動体通信産業の発展を加速することに関する若干の意見」(通称「5 号文件」
)
という国産保護の産業政策を打ち出した。内容は、携帯電話端末の生産にかかわるラインセンス制度の導入や、
中国メーカーに対する研究開発費支援、外資系企業に対する生産ライン増設の制限や、現地調達率と対生産輸
出比率の設定などであった。国産保護の産業政策を導入すると,地場メーカーが携帯電話市場に本格的に参入
し始まった(木村 2010、P180)
。
中国の地場メーカーは四つのグループに分類することができる。第 1 は通信機器メーカー出身のグループで
あり、主な企業は東信や中興(中興通訊)、華為(華為技術)がある。第 2 は家電 IT メーカー出身のグルー
プである。主な企業は TCL(TCL 移動通信)や康佳(深圳康佳通信科技)
、長虹(国虹通訊数碼)
、夏新(夏
新電子)、聯想(聯想移動通信科技)などがある。第 3 は端末事業で急成長した企業のグループである。たと
えば、電子機器の受託加工を行っていた深圳金立通信設備や携帯電話端末の流通業者であった天宇(北京天宇
朗通通信設備)などがある。第 4 はその他の無名企業のグループであり、この中には非合法な携帯電話端末(ヤ
ミ携帯)を販売する業者も多く含まれている。
中国地場メーカーが技術面に乏しかったため、携帯電話端末の開発・設計,一部分の製造も外部企業に依存
していた。一方で、市場で発展するために、地場メーカーは販売を重視する戦略をとって、販売にさまざまな
工夫を凝らした。まずは、地場メーカーは携帯電話端末の外観やメニュー画面などを中国人消費者の好みに合
わせて、製品を開発・設計するようになった。そうすると、外資系メーカーとの製品差別力を図ることができ
る。次は、大規模な広告を出すことによって、自社ブランドの認知度向上に努めたことである。最後は、販売
重視の戦略の中で、最もよく表れているのは自社販売網の構築である。地場メーカーは販売子会社を設立する
ことによって,製品の価格のコントロールと流通に対する関与の度合いも強めるようになった。メーカーの製
品は販売子会社から地区レベルの代理店に卸し、代理店を経て小売店で販売される。その中で、地場メーカー
は小売店に自社の販売促進員を派遣して、販売力を高めることもできる。そして、地場メーカーは外資系メー
カーの認知度が高くない地方の中小都市や農村市場へ販売促進員を特に送り込んだ。
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地場メーカーは技術力の不足から、携帯電話端末の開発・設計と製造では外部企業に依存したものの、販売
面ではさまざまな工夫を試みた。それまで携帯電話端末といえば、高価でビジネス・ユース向けというのが一
般的だったが、市場シェアを拡大に成功した地場メーカーは新規ユーザーの多い地方ローエンド機市場で売上
を向上させた(木村 2010、P184)。
3.2
事業環境の変化
低価格な端末市場が魅力的な市場になることで、新たな参入を招くことにもなった。新規参入企業やヤミ携
帯事業者も増えている。2003 年地場メーカーの発展はピークになって、中国の携帯事業環境の変化によって、
地場メーカーの市場シェアが下がり始めた。
事業環境が変化した要因は主に二つある。一つは、外資系メーカーの攻勢である。地場メーカーが新規ユー
ザー市場で急成長を遂げたため、外資系メーカーも同じ市場を取り込むために攻勢をかけ始めた。もともとブ
ランド力のある外資系メーカーも低所得層に対するローエンド機を販売することで、市場シェアを回復させて
いった。そして、外資系メーカーも流通チャンネルに工夫して、中小地方都市に販路を広げて、地場メーカー
と同じように小売店に販売促進員を派遣するようになった。その中で、新しい流通チャンネルも生まれた。そ
れは、通信事業者による販売チャンネルと大型の家電チェーン店、例えば国美電器や蘇寧電器の家電チェーン
店による販売通路のことである。このようになると、外資系メーカーの販売チャンネルも強化できた。
もう一つの要因は地場メーカーの相次ぐ参入と増産が競争の激化を招いた。そして,技術力の乏しい地場メ
ーカーが同じ韓国や台湾の企業に設計を外注しているから、ほとんど無差別化の製品が市場に氾濫した(木村
2010、P186)。
3.3
模索と対応
競争の激化とともに 2003 年ごろから競争の争点も変わっていった。競争の激化や買い替え需要の高まりに
よって、流行の機能を取り入れた機種をより速く、より安く開発・設計する力が問われるようになった。この
結果、地場メーカーは、これまで重視してきた販売面に加えて、開発・設計面も重視する必要性が出てきた。
まず、地場メーカーは当初韓国、台湾のデザイン企業に外注していたが、地場系のデザイン・ハウスに取引
を移し始めた。韓国のデザイン・ハウスより地場デザイン・ハウスのほうがコストを減少することができるし、
コミュニケーションがうまく行うことができるし、新製品に投入する時間も短縮させることができる。しかし、
メーカーは同じデザイン・ハウスに頼んでいるから、作った製品も似た製品になってきた。もし製品のライン
ナップの豊富化が目的ならば、すべての製品について本質的な製品差別化を図る必要はないだろう。流行のデ
ザインや機能を取り入れた携帯電話端末をいち早く取り揃えることが重要となるだろう(木村 2010、P190)
。
地場メーカーの中には、デザイン・ハウスを多用しながら、自社でも開発・設計に着手することが出てきた。
たとえば、聯想の場合はいろいろなプラットフォームを使いこなして、使いこなす技術力を高めて、独自の製
品を作れるようになった。波導やフランスメーカーの場合は、MTK(台湾)のプラットフォームを使って、
自社が開発拠点を設立することによって、自社開発・設計を強化するようになった(木村 2010、P191)。
4.おわりに
今までの検討によって、地場メーカーの発展をまとめてみよう。地場メーカーは 1999 年の産業政策をきっ
かけに参入を果たした。販売重視の戦略によって売上を伸ばして、市場シェアが 2003 年に過半以上に高まっ
た。しかし、外資系メーカーの攻勢や他の地場メーカーの新規参入によって、競争が激化していった。地場メ
ーカーは競争に対応するために、戦略の重心を開発・設計に移してきた。
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地場メーカーの成長過程から見ると、地場メーカーが成長できる要因は、政府の支援を除き、市場での位置
と販売チャンネルの強化ということだと思う。地場メーカーは日系メーカーと同じ敵である欧米大手メーカー
に最初は正面から競争するのではなく、新しい販売市場を開拓することによって、急成長に成功した。2009
年には通信事業者の再編とともに、TD-SCDMA、W-CDMA、CDMA2000 による第 3 世代サービスが始まっ
た。すべてのメーカーにとって、新しい市場が広がっている。日系メーカーは地場メーカーより技術の面で有
利性を持っているから、市場位置の明確や販売チャンネルの多様化、製品差別化を強化することに重視すべき
だろうと思う。
<参考文献リスト>
丸川知雄・安本雅典(2010)『携帯電話産業の進化プロセス――日本はなぜ孤立したのか』有斐閣
朱
カイ(2010)ODP6 「中国携帯電話通信事業者の育成、発展と現状」
木村公一郎(2010) 「中国の携帯電話端末産業――中国大手携帯電話メーカーの急成長と模索」丸川・安本『携
帯電話産業の進化プロセス――日本はなぜ孤立したのか』有斐閣
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