ヨーロッパ文化とキリスト教

ヨーロッパの歴史と文化・資料 03(参考資料・ウイキペディア)
ヨーロッパ文化とキリスト教
1. 2つのルネサンス
1-1.
カロリング・ルネサンス
カロリング朝ルネサンス(Carolingian Renaissance)とは、フランク王国(カロリング
朝)のカール大帝の頃(8 世紀~9 世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉であ
る。
小ピピンの後、カロリング朝を継いだカール大帝(シャルルマーニュ:768 年 - 814 年、
西ローマ皇帝 800 年 - 814 年)は、西ヨーロッパの大部分を支配し、一大帝国を築き上げ
た。800 年にローマ教皇から戴冠を受け、ここに形式的に西ローマ帝国が復興したとされる。
カールはキリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高めることが必要と考
え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、教育を振興した。特に古典研究を
進め、俗語化していたラテン語が純化され、ラテン語教育が盛んになった。また、各地に
教会付属の学校が開かれた。こうした文化の隆盛を「カロリング朝ルネサンス」と呼ぶこ
とがある。イングランドから招かれた神学者のアルクィンがカロリング朝ルネサンスの中
心人物として有名である。
カール大帝の後も文化振興は継続され、西フランク王国のシャルル 2 世(西フランク王
840 年-877 年、西ローマ皇帝 875 年-877 年)までに大成された。ギリシャ語文献のラテン
語訳などで活躍したエリウゲナ、歴史家のヒンクマールなどがよく知られている。この頃
になると、文化活動は王宮のみでなく各地の修道院に広まっていった。各地の修道院でラ
テン語文献の筆写が行われ、その過程で文字を統一する必要からカロリング小字体が作成
された。だが、その後はノルマン人の侵入にともなう混乱などにより文化活動は停滞期に
入った。
カロリング朝において初めて、古代ギリシャ・ローマの文化、キリスト教、ゲルマン民
族の精神が融合したと評される。ヨーロッパ統合が進む今日、カロリング朝ルネサンスが
ヨーロッパ文化の原点という評価もされている。
なお、世界遺産のアーヘン大聖堂は、カール大帝が建てた八角形の宮廷礼拝堂(805 年)
に、ゴシック様式の聖堂(1414 年)を併設したものである。
カロリング・ルネサンスの意義
カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な 2 つの要素、書記
法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大
文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された
字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックスに書き直され、著述と筆写が活発にな
1
された。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。
1-2.修道院と 12 世紀革命(12 世紀ルネサンス)
12 世紀ルネサンス(Renaissance of 12th Century)とは、ヨーロッパ中世の 12 世紀に
も、古典文化の復興と、文化の高揚が見られるとして、使われる言葉である。
14 世紀頃イタリアでルネサンスの文化運動が始まり、やがて周辺国に影響を及ぼしたと
される。また、ルネサンス以前の中世は暗黒時代とみなされ、中世とルネサンスの間に断
絶があると考えられてきた。こうした従来の中世観・ルネサンス観を相対化し、中世と近
世近代の連続性を強調し、中世の再評価を図ろうとするのが 12 世紀ルネサンス論である。
アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870-1937)
が『12 世紀ルネサンス』
(The Renaissance of the twelfth century,1927 年)の中で提唱
し、現在では様々な面から 12 世紀の文化が再評価されている。古典の文化がイスラム・ビ
ザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えた。また哲学、美術、
文学など様々な分野で新しい動きがみられた。
1-3. 12 世紀ルネサンスの諸相
①
イスラム・ビザンツの影響
シチリア王国の首都パレルモの宮廷でイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)
の文献がラテン語に翻訳された。
スペインのレコンキスタ運動の中、トレドでイスラムの医学・数学などの文献が翻訳さ
れた。
②
学問の隆盛
アベラール(1079 年-1142 年)の弁証論(唯名論)がスコラ学の基礎を作り、のちトマス・
アクィナス(1224 頃-1274 年)により大成された。
大学が各地に作られた(11 世紀末のボローニャ大学、12 世紀のパリ大学、オックスフォー
ド大学)
。
シャルトル大聖堂の附属学校では古代の自由学芸(リベラル・アーツ artes liberale 文
法、論理学、修辞学、算術、幾何、天文、音楽の 7 科目)を基盤に、プラトンの思想と聖
書の思想を統合しようとした(
「シャルトル学派」といわれる)
。
③
ロマネスク美術からゴシック美術へ
古代ローマ帝国時代の遺跡が多く残っていたプロバンス地方において、特徴的なロマネス
ク建築・彫刻が造られた。
④
文学など
騎士道物語が盛んになった。宮廷で吟遊詩人が騎士の武勲や恋愛の物語を語り伝えた。
イギリスでは 1136 頃の「ブリテン王列伝」で「アーサー王物語」がまとめられた。
フランスでは 1100 年頃「ローランの歌」
、また「トリスタンとイゾルデ」の物語がまとめ
られた。 ドイツでは 13 世紀初頭に「ニーベルンゲンの歌」がまとめられた。
⑤
教会音楽の発展が見られ、12-13 世紀にかけてポリフォニーが発達した。
2. キリスト教とヨーロッパ:建築・彫刻・音楽・絵画
2
2-1. ミサの構造
2-1-1. 最後の晩餐:キリストの死と復活
最後の晩餐は、キリスト教の新約聖書に記述されているキリストの事跡の一つ。イエス・
キリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食、またその夕食の席で起こったこ
とをいう。
1-7-2. ミサ
ミサはカトリック教会で行われる聖体祭儀のこと。司祭が執り行い信徒が参加する、カ
トリック教会で最も重要な典礼儀式である。
古代以来 1960 年代までラテン典礼におけるミサは全てラテン語で行われていたが、第 2
バチカン公会議(1962-65)以降の典礼改革により各国語で行われることになった。
「ミサ」
という名称は式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est」(Ite 行きなさい,missa est
派
遣である)というフレーズの中の語に由来している。
開祭の儀
司祭が入堂し、祭壇についてミサを開始する。会衆がいる場合、ミサの初めには「入祭
の歌」として聖歌が歌われることが多い。入祭の歌は義務ではないが、歌わない場合は入
祭唱を唱えなければならない。初めに司祭と信徒の間で挨拶が交わされ、初めの祈りが唱
えられる。次に悔い改めの祈り、
「主よ、あわれみたまえ」(キリエ)が唱えられ、待降節及
び四旬節以外の主日と祭日には「栄光唱」(グローリア)が唱えられる。
ことばの典礼
次に「ことばの典礼」といわれる部分に入る。ここでは平日には 2 つ、主日と祝日には 3
つの聖書からの部分が朗読される。それらの朗読は第一朗読、第二朗読(主日と祝日のみ)、
福音朗読といわれる。
第一朗読では通常、旧約聖書が読まれるが、復活節に限って『使徒言行録』か『ヨハネ
の黙示録』が朗読される。第二朗読は使徒の書簡主にパウロの手紙が朗読される。第一朗
読の後には、答唱詩編という先唱者と会衆による章句の繰り返しと詩編の朗読が行われる
3
が、通常のミサでは歌われることが多い。アレルヤ唱 (四旬節は詠唱)の後で行われる福音
朗読はその名前の通り、福音書が朗読される。第一朗読、第二朗読は信徒が朗読すること
が多いが、福音朗読は司祭もしくは助祭が行うことになっている。福音朗読時、会衆は起
立することになっている。現代の日本のほとんどのカトリック教会では『新共同訳聖書』
が用いられている。
福音朗読に続いて、司祭(あるいは助祭)による説教が行われる。説教では通常、その日
の福音や聖書朗読の解説がされることが多い。主日と祭日には説教の後で「信仰宣言」が
行われる。ミサの国語化以来、日本の教会は洗礼式に用いられる略式の信仰宣言を用いる
か、ごくまれに文語訳のニケア・コンスタンチノープル信条(Credo)を用いてきたが、2004
年に口語訳のニケア・コンスタンチノープル信条が司教団より公式に発表された。従来の
使徒信条を唱えることもできるが、略式の信仰宣言は廃止された。
信仰宣言に続き、そのときに応じて意向で唱える共同祈願という祈りが唱えられる。
感謝の典礼
カトリック教会、聖公会、及び一部プロテスタント
で用いられる、
「ホスチア」とも呼ばれる無発酵パン。
写真のように薄い形状をしたものがよく用いられる
が、稀に煎餅のように厚い無発酵パンを用いる教会も
ある。大きいほうは司式者用、小さい方は会衆用であ
るが、不足時は必ずしもこれによらない。ことばの典
礼が終わると、ぶどう酒と水、
「ホスチア」(聖体とな
る小麦粉を薄く焼いた食べ物)が祭壇へ準備される。
(これを奉納という。)ここから始まる「感謝の典礼」はイエスの最後の晩餐に由来するも
のとされ、ミサの中心的部分である。次に司祭によって奉献文という祈りが唱えられ、会
衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「聖なるかな(サンクトゥス)」が唱えられる。
聖変化(ラテン語 Transsubstantiatio)
次に聖体変化が行われる。ここでは司祭が、ぶどう酒とホスチアを採って、イエスが最
後の晩餐で唱えた言葉を繰り返す。これによってホスチアとぶどう酒がイエスの体と血に
変わるというのが伝統的なカトリック教会の教義であっ
た。神学用語では「実体変化」
(Transubstantiation)と
いわれ、これについては歴史上多くの議論が行われてきた
トリエント公会議によれば、
「私たちの救い主キリスト
は、パンの形色の中にささげたのが自分の真の身体である
と仰せられたので(マテオ 26 ・ 26 以下、マルコ 14 ・ 22
以下、ルカ 22 ・ 19 以下、1 コリント 11 ・ 24 以下参照)、
天主の教会は変ることなく常に信じてきたことを、この聖
なる公会議も繰返して宣言する。すなわち、パンとブドー
酒の聖別によって、パンの実体はことごとく私たちの主キ
リストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血
の実体に変化する。聖なるカトリック教会は、この変化を便宜上、適切に全実体変化と言
4
い表わしている(第 2 条)。
」
交わりの儀
福音書の中でイエスが弟子たちに教えたとされる「主の祈り」が唱えられ、司祭の祈願
に続いて「平和の挨拶」という参加者同士のあいさつが行われる。さらに「神の小羊(アニ
ュス・デイ)」の祈りが続き、司祭は聖体を裂いて一部をぶどう酒に浸す。司祭が聖体を食
べ、ぶどう酒を飲む。聖体を食べ、ぶどう酒を飲むことを聖体拝領という。司祭は続いて
聖体を会衆に配り、会衆も聖体拝領を行う。通常は聖体のみだが、場合によっては会衆も
ぶどう酒を飲むこともある。聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの
儀がおわる。この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖
体を受けて交わるという意味である。
閉祭の儀
拝領後の祈りのあと、会衆への連絡などが行われることがある。続いて司祭の祝福とミ
サからの派遣が行われる。ミサの終わりにも「閉祭の歌」として聖歌が歌われることが多
い。司祭と会衆との間に交わされる最後の交唱でミサは終わりなので、閉祭の歌そのもの
は義務ではない。
2-2.
ロマネスクの時代
2-2-1. 概説
ロマネスクとはローマ風のという意味で、 19世紀以降美術史の用語として使われるよう
になった。それ以前はロマネスクもゴシック
も中世の美術という大きなまとまりとして捉
えられていた。ロマネスク建築ではローマ時
代の建築に多く使われた半円アーチを開口部
の構造に使うことが特徴とされる。
建築
ロマネスク建築はフランスなどを中心に11世
紀以降の中世ヨーロッパで発達したもので、
主に教会堂や修道院建築である。10世紀には
カロリング朝が衰退、滅亡し、社会的に混乱
期であったが、紀元1000年を機に教会堂の復興が進められ、ロマネスク建築の教会堂が多
く建設された。
絵画・彫刻は主に建築を装飾するために作られた。
絵画
ロマネスク美術は素朴な信仰心に満ちた美術様式である。当時の絵画は文字の読めない
人々にキリスト教を教える役割を果たした。東ローマの影響を受けた教会堂の壁画のほか、
写本装飾に優れたものが見られる。
彫刻
教会堂の壁面や柱に彫刻がほどこされた。建築から独立した彫刻作品が作られることはま
だなかった。
5
2-2-2. ロマネスク建築
ロマネスク建築は、11世紀にザクセン朝神聖ローマ帝国によって西ヨーロッパの秩序が
回復した後、フランス、スペイン北部、ドイツ、イングランド、イタリアと、これらに囲
まれた地域で形成された建築である。東ヨーロッパ
などの周辺部については、わずかながらロマネスク
建築の特徴を持った教会堂が点在するが、本質的に
は西ヨーロッパで興った建築である。
ロマネスク建築の初期の発展については、カロリ
ング朝フランク王国の時代を通じて組織化された中
世キリスト教会、特に11世紀に西ヨーロッパの学問
と文化を主導する役割を担っていた修道院の活動に
よるところが大きい。ロマネスクの時代、修道院運動は全盛期を迎えており、 11世紀に設
立されたクリュニー修道院と12世紀創設のシトー会の活動は、ロマネスク建築の発展に特
に関連づけられる。12世紀後半になると、教会改革によって修道院の活動はより厳格なも
のとなり、修道院建築は簡素なものとなるが、神聖ローマ帝国の権力が解体されたことに
よる地方封主の勢力拡大とヨーロッパ全体の農業と産業の発展にともなって、世俗の支援
者たちによる拠点都市への大教会堂の建設が行われるようになった。このため地域的な差
異がたいへん大きくなり、イベリア半島やイタリア半島南部では、イスラーム芸術が入り
交じった独特の建築(シチリア王国の建築や、アンダルシアのムデハル様式)を形成し 、
12世紀後期のイル=ド=フランスは、すでにゴシック建築と呼べる段階に移行している。
ロマネスク建築初期の特徴は大きくフランスのロワ
ール川の南北で分けることができる。ロワール川以北
では、初期ビザンティン建築と同様に、教会堂の形式
としてバシリカが採用されたが、角柱に支持された分
厚い石の壁で覆われた空間が好まれ、美学的には側廊
と身廊を円柱でスクリーンのように分離し、壁面をモ
ザイクとして物質性を否定するような初期キリスト教
のバシリカとの関係性はほとんどないと言える。ロワ
ール川以南では、ヴォールト天井を備えた単廊式教会
堂が多く建設され、後に広間式教会堂と呼ばれる形式
が発展した。バシリカと単廊式ともに、カロリング朝
の時代から建設されており、建築史家によっては、 8
世紀から9世紀のカロリング朝建築をロマネスク建築
に含める場合がある[2]。
11世紀以降をロマネスクとす
る説では、それ以前のものを初期キリスト教建築、またはプレ・ロマネスク建築などと呼
ぶ。
ロマネスクという言葉は19世紀から用いられるようになったが、 19世紀の人々がどのよ
うに考えたにせよ、
「ローマ風」の言葉が意味するほど、古代ローマの建築物と深いつなが
りがあるわけではない。ロマネスク建築は、ゲルマン民族の侵入によってローマ文化が途
6
絶えてしまった地域で盛んになったのであり、初期の段階では、先行する建築物や同時期
の他文明からの影響はほとんど認められない[3]。
西ヨーロッパの建築の歴史は、メロヴィング朝フランク王国の
建築や8世紀以前のアングロ・サクソン建築について、おぼろげな
がらその輪郭が描ける程度にすぎないので、カロリング朝フラン
ク王国から始まることが一般的となっている。しかしながら、シ
ャルルマーニュによって一時隆盛を誇ったカロリング朝の建築活
動は、彼の死後、9世紀末から10世紀後半にかけて衰退した[4]。
一般的に、ロマネスクの始まりは960年頃、あるいは政治的区分に
従って1000年頃とされるため、カロリンガ朝建築はロマネスク建
築に含まれないが、シャルルマーニュの時代にロマネスク建築の
特徴となる要素の萌芽が認められるため、ロマネスク以前を便宜
的にプレ・ロマネスク、あるいはプリロマネスクなどと呼ぶ[5]。
ここでも、8世紀から10世紀末までをプレ・ロマネスクとし、11世紀以降をロマネスク建築
として記述する。
2-3.ゴシック建築
2-3-1. 教会建築
ゴシック建築は、歴史的区分としては 1150 年頃から
1500 年頃までの時代を指し、フランス王国からブリテン
島、スカンディナヴィア半島、ネーデルランド、神聖ロ
ーマ帝国、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島
西部沿岸部に伝わった建築様式をいう。しかし、これら
歴史的・地理的条件が必ずしも相互に対応しないという
点や、建築の形態的・技術的要因、図像などの美術的要
因の定義づけが難しいという点で、他の建築様式に比べ
るとかなり不明瞭な枠組みであると言わざるを得ない。
特に後期ゴシックは、地方様式とも絡む複雑な現象で、
装飾や空間の構成を包括的に述べることはたいへん難し
い。
ゴシック建築は、北フランス一帯において着実に発展していた後期ロマネスク建築のい
くつかの要素を受け継ぎ、サン=ドニ修道院付属聖堂において一つの体系の中に組み込ま
れて誕生した。12 世紀中葉から、サンスやラン、パリ、そしてシャルトル、ランス、アミ
アンでは、これに倣って大規模かつ壮麗な聖堂が建てられることになった。当然、西ヨー
ロッパでは、このほかにもたくさんの建築物が建設されていたが、イル=ド=フランス地
方をはじめとするフランス王国の中心地においてのみ、初期から盛期にいたるゴシック建
築の首尾一貫した発展の状況を見ることができる。
ミラノのドゥオーモの尖塔群と飛び梁ゴシック建築が伝播した他の諸国の政治的・経済
的事情は多様で、発達や伝播の過程は複雑な様相を呈し、後期になるとこれが顕著に現れ
7
る。しかし、それでもゴシック建築が一定の建築的構成をふまえつつ流布したのは、国々
を跨いで独自の組織網を構築していた修道院の活動が大きかった。ロマネスク建築と同様
に、ゴシック建築においてもベネディクト会やシトー会の影響は大きく、13 世紀以降はド
ミニコ会、フランシスコ会などが、ゴシック建築の伝播に寄与することになった。
ゴシック建築は、尖ったアーチ(尖頭アーチ )、飛び梁(フライング・バットレス)、リ
ブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られてお
り、これらは 19 世紀のゴシック・リヴァイヴァルに
おいて過大に評価されたため、あたかもそのような
建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づける
と考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本
質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果
のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組
み合わせで構成され、各部がはっきりと分されてい
るのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。
2-3-2. 教会をつくった人:石工
石造りのものは長く残るということもあって、石工ともども歴史・技術史などに登場す
ることは多い。石による建築物・構成物として著名なものに、エジプトのピラミッド、ソ
ールズベリーのストーンヘンジ、イースター島の巨石彫刻群、アテナイのパルテノン神殿
やエピダウロスの円形劇場、ペルーのマチュピチュ、中南米ユカタン半島全域に存在する
マヤ・アステカ遺跡群、カンボジアのアンコールワット、ヨーロッパ各地の大聖堂、各所
の城砦建築などがあげられる。
ヨーロッパでは伝統的に近世までは彫刻家と石工の区別がなく、両者は同じギルド(職
業組合)に所属した。
Castle building was an entire industry for the medieval
stonemasons. When the Western Roman Empire fell,
building in dressed stone decreased in much of Western
Europe,
and
there
was
a
resulting
increase
in
timber-based construction. Stone work experienced a
resurgence in the 9th and 10th centuries in Europe, and
by the 12th century religious fervour resulted in the
construction of thousands of impressive churches and
cathedrals in stone across Western Europe.
Medieval stonemasons' skills were in high demand, and members of the guild, gave
rise to three classes of stonemasons: apprentices, journeymen, and master masons.
Apprentices were indentured to their masters as the price for their training,
journeymen had a higher level of skill and could go on journeys to assist their masters,
and master masons were considered freemen who could travel as they wished to work
on the projects of the patrons. During the Renaissance, the stonemason's guild admitted
members who were not stonemasons, and eventually evolved into the Society of
8
Freemasonry; fraternal groups which observe the traditional culture of stonemasons,
but are not typically involved in modern construction projects.
A medieval stonemason would often carve a personal symbol onto their block to
differentiate their work from that of other stonemasons. This also provided a simple
‘quality assurance’ system.
2-3-3.
ゴシック彫刻(Gothic sculpture)
Gothic sculptures were born on the wall, in the middle of the 12th century in
Île-de-France, when Abbot Suger built the abbey at St.
Denis (ca. 1140), considered the first Gothic building,
and soon after the Chartres Cathedral (ca. 1145). Prior
to this there had been no sculpture tradition in
Ile-de-France so sculptors were brought in from
Burgundy.
The French ideas spread. In Germany, from 1225 at
the Cathedral in Bamberg onward, the impact can be
found everywhere. The Bamberg Cathedral had the
largest
assemblage
of
13th
century
sculpture,
culminating in 1240 with the Bamberg Rider, the first
equestrian statue in Western art since the 6th century.
In England the sculpture was more confined to tombs
and non-figurine decorations (in part because of Cistercian iconoclasm). In Italy there
was still a Classical influence, but Gothic made inroads in the sculptures of pulpits such
as the Pisa Baptistery pulpit (1269) and the Siena pulpit. A late masterwork of Italian
Gothic sculptures is the series of Scaliger Tombs in Verona (early-late 14th century).
Gothic sculpture evolved from the early stiff and
elongated style, still partly Romanesque, into a spatial
and naturalistic feel in the late 12th and early 13th
century. Influences from surviving ancient Greek and
Roman sculptures were incorporated into the treatment of
drapery, facial expression and pose. In northern Europe
the Dutch-Burgundian sculptor Claus Sluter and others
introduced naturalism and a degree of classicism at the
beginning of the 15th century which continued to develop
throughout the century so that when the change to a
classicistic Renaissance style eventually arrived it was mainly marked by a change in
architectural backgrounds and costumes, and some reduction in the complexity of
compositions.
2-4.
グレゴリオ聖歌
9
グレゴリオ聖歌は、主に 9 世紀から 10 世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住
地域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇
グレゴリウス 1 世が編纂したと広く信じられたが、現
在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合し
たものと考えられている。
グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法が成立し、
グレゴリオ聖歌は 8 つの旋法で体系づけられることと
なった。旋律の特徴としては、特徴的なインキピット
(冒頭句)や終止(カデンツ)
、メロディの中心となる
朗誦音(リサイティング・トーン)の使用、またセン
トニゼイションと呼ばれる既存のメロディを転用する
技法によって発展した音楽語法があげられる。音階は
十二音音階ではなく、ヘクサコルドと呼ばれる六音音
階が使用され、現代の全音階に含まれる音と、現在の
変ロにあたる音を使用する。グレゴリオ聖歌の旋律は
ネウマ譜を用いて記譜され、このネウマ譜が 16 世紀に
現代でも用いられる五線譜に発展した。またグレゴリオ聖歌はポリフォニーの発展に決定
的な役割を果たした。
歴史的には、教会では男性および少年合唱によって、また修道会では修道僧、修道女に
よってグレゴリオ聖歌は歌われてきた。グレゴリオ聖歌は、西方教会の各地固有の聖歌を
駆逐し、ローマカトリック教会の公式な聖歌
として、ローマ典礼に基づくミサや修道院の
聖務日課で歌われるようになった。しかし、
1960 年代の第 2 バチカン公会議以降は現地語
による典礼が奨められるようになったことを
受けて、グレゴリオ聖歌の歌唱は義務ではな
くなり、典礼音楽としてのグレゴリオ聖歌は
次第に各国語の聖歌にとってかわられている。
ただし、ローマ教皇庁の見解としては、依然としてグレゴリオ聖歌が典礼にもっともふさ
わしい音楽形態である。20 世紀には、音楽学の対象としてグレゴリオ聖歌の研究が進み、
典礼を離れた音楽としても人気を得た。
2-5.
世俗的な音楽の誕生:トルバドールとトルヴェールと吟遊詩人
2-5-1. トルバドール
トルバドゥール(Troubadour)とは、中世のオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手のこ
と。リムーザン、ギュイエンヌ( Guyenne)
、プロヴァンス、さらに、カタルーニャ、アラ
ゴン王国、イタリアで活躍した。女性のトルバドゥールはトロバイリッツ( Trobairitz)
と呼ばれる。
トルバドゥールは、12 世紀後半になると北フランスのトルヴェール(trouvères)と、ド
10
イツ側でミンネザングを歌うミンネゼンガーとして、拡散した。彼らの詩の多くは、騎士
道と宮廷の愛をテーマにしたものであった。特に、結婚した恋人を想う真実の愛の歌が有
名である。これらの中世叙情歌も騎士階級の没落とともに衰退することになった。有名な
トルバドゥールには、アルナウト・ダニエルやジャウフレ・リュデルがいる。
語源研究
「troubadour」という語とその同語族の語(trov(i)èro, イタリア語:trovatore、スペイ
ン語:trovador、カタルーニャ語:trobador)の起源については意見が分かれている。
ラテン語起源説
英語の「troubadour」は、オック語の「trobador」が古フラ
ンス語経由で入ってきたものであるが、オック語の「trobador」
は、「転回、方法」を意味するギリシャ語の「τρόπος
(tropos)
」に由来する俗ラテン語の(仮説)
「*tropāre」
(ト
ロープス)から派生した動詞「trobar」の名詞相当語句である
主格「trobaire」の斜格である、という説がある。ラテン語の
ルーツとしては他にも「turbare」
(ひっくり返る、くつがえす)
が考えられる。
「trobar」は現代フランス語の「trouver」
(見
いだす)と語源が同じである。フランス語の「trouver」は斜
格の「trouveor」あるいは「trouveur」の代わりに、主格の
「Trouvère(トルヴェール)
」になり、フランス語はオック語の斜格を取り込み、そこから
英語に入りこんだ。
「trobar」のオック語の一般的な意味は 、
「発明する」または「組み立
てる」で、それが普通に翻訳された。こうしてトルバドゥールは作品を作り、一方で joglar
(ジョングルールやミンストレル)はそうした歌を演奏するのみだった。この説は、アカ
デミー・フランセーズ、ラルース大百科事典、プティ・ロベール(フランス語辞典、Petit
Robert)によって支持されている。
ギリシャ語→ラテン語→オック語→フランス語→英語という仮説が、トルバドゥールの
詩の起源を、ラテンの古典形式あるいは中世のラテン語典礼に見いだす、たとえば Peter
Dronke や Reto Bezzola といった多くの人々に支持されていることはとくに驚くことでもな
い。
アラビア語起源説
ラテン語起源説ほど伝統的とはいえず、かつポピュラ
ーでもないもう一つの「trobar」の語源説がある。この
説を支持しているのは、María Rosa Menocal など、トル
バドゥールの起源はアラビア語のアンダルシア音楽の
中にあるという意見を持っている研究家たちである。彼
女/彼らによると、アラビア語の「tarrab」
(歌うこと)
が「trobar」の語源であるという。
この説を支持する何人かは、文化的な背景からみて、
両方の語源とも正しく、愛をテーマとするスーフィズムの宗教的音楽形式が南フランスの
アル=アンダルスから最初に外国に伝わった時、
「trobar」とアラビア語の 3 子音語根「TRB」
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の間にある音韻論的な一致の意識的かつ詩的な利用があったのではないかと主張する。さ
らに、
「見付ける」
「音楽」
「愛」
「情熱」といった概念(トルバドゥールという語と結びつ
いたぴったりの意味領域)は、スーフィズムの音楽議論で重要な役割をつとめ、トルバド
ゥールという語は一部がその反映かも知れない、アラビア語の単一の語根(WJD)と結びつ
いている。
2-5-2. トルヴェール
トルヴェール(Trouvère)は、12 世紀後半に盛んになった吟遊詩人で、11 世紀に生じた
トルバドゥールが北フランスに伝播し、変化したものである。 アーサー王物語など騎士道
物語を広めたフランスのクレティアン・ド・トロワは、代表的な吟遊詩人である。
トルバドゥールやトルヴェールというと一般的なイメージは、 弦楽器を背に、町から町へ
とさすらう放浪の楽師というものである。確かにそのような人々はいたのだが、彼らは ジ
ョングルールやミンストレルと呼ばれ、社会の底辺に属する男女の貧しい芸人であった。
トルバドゥールやトルヴェールは、対照的に、 貴族階級の音楽の担い手だった。こちらは
詩人兼作曲家であり、貴族階級の庇護を受けたか、しばしば自ら貴族ないしは 騎士であっ
た。トルバドゥールやトルヴェールは、貴族のために創作や演奏を行い、伝統ある宮廷文
化の一環を担っていた。その担い手には、王侯貴族だけでなく、その妃も含まれていた。
トルバドゥールやトルヴェールの歌詞は、それを生み出した社交界を自然に反映し、
「宮廷
の愛」や宗教的情熱といった理想の扱い方を軸に動いている。しかしながら、多くの場合
に見出されるのは、恋愛についての世俗的な眼差しである。
この種の音楽は、楽譜の解読をめぐってしばしば演奏様式が議論の的となる。
(とりわけ
テクストが高邁な場合には)自由なリズム法によって楽器伴奏を控えめに用いるのがよい
とする研究者がいる一方、楽器伴奏もリズムの解釈も同じように固定すべきだとする研究
者もおり、演奏界からは後者の説が支持されている(聞き手の立場からすれば、いずれに
せよ説得力があって楽しめればよいのだが)
。
2-5-3. 吟遊詩人(ジョングルール)
ジョングルール (仏 jongleur)
は主にフ
ランスにおける「大道芸人」の事。中世フラン
スに現れ、各地を遍歴して民衆文化の伝播や伝
承の担い手としての役目をはたした。現代でも
大道芸人を指す言葉として生きている。また現
代に於いてはミンストレルと共に吟遊詩人を
表す言葉として使われる事も多い。
概説
ラテン語で「道化者」を意味するジョクラト
ル joculator に起源を持つ、古フランス語の
ジョグラール jogleor に由来する。何時頃か
ら現れたか良くわかっていない。イベリア半島
へイスラム勢力が流入して来た時期に重なるために、それと結びつける説があるが、彼ら
を外国人とした記述は無い。
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一番古い記録としては 8 世紀のものが知られるが、教会から「ミサ等の集会に混じり、
音を立てたり騒いだりする」と危険視されていたようである。一方で、民衆の教会への参
加を集う方便として彼らが宣伝に用いられていた事もあった。彼らの多くは専門職として
それで生計を立てていたと思われるが、10 世紀頃には農閑期の食い扶持の稼ぎとして大道
芸を奨励する布告が現れているので、農民達も混じっていたと思われる。
また集団で各地を転々と遍歴するのが一般的であったようだが、エスタンピーなどの器
楽演奏やシャンソンなどの歌唱、ジャグリングや簡単な手品などの余興を演じるためや、
吟遊詩人のトルバドゥールやトルヴェール達に雇われてその伴奏や歌い手として宮廷に出
入りする者もおり、その中の非常に優れた者は、例えば アダン・ド・ラ・アルの様にミン
ストレルとして宮廷に仕える者も現れた。また、 マルカブリュのようにジョングルールか
らトルバドゥールに出世する者や、 ガウセルム・ファイディトの様に没落してジョングル
ールになった者も少なくなかったようである。
日本の琵琶法師などと同様に、騎士文化を反映して各地で作られたシャンソン・ド・ジ
ェスト(武勲詩)などを伝承し、中世西洋の代表的な文学作品である『ローランの歌』
、シ
ャンパーニュの宮廷に逗留していた吟遊詩人クレチアン・ド・トロワによる『聖杯の物語』
(アーサー王物語)等の形成に果たした役割は非常に大きかったと見られている。
こうして文化の担い手として大きな影響を持っていたが、一方で地位的には底辺( アウト
カースト)と見られ、物乞い達と呼ばれるなど長い間差別されていた。
13 世紀は騎士階級の没落とともに彼らの存在感が増した時期で、
『ジョングルールの黄金の
世紀』と呼ばれる程勢力を伸ばし、フランス各地に技術の向上や互助的な目的で ピュイと
呼ばれる友愛組合や音楽組合を結成し、地位の向上を図るなど積極的な活動を示した。 15
世紀頃にはそうした組合によって飛躍的に技術が向上した彼らは、それぞれの道に秀でた
演芸者、例えば演奏家や舞踏家、歌手などの専門職に分化していった。
2-6.
国際ゴシック様式の登場
2-6-1. 教会を飾るステンドグラス
ステンドグラス(stained glass)は、エ字形の断面を持つ鉛のリムを用いて着色ガラス
の小片を結合し、絵や模様を表現したもの。ガ
ラスに金属酸化物を混入することで着色して
いる。教会堂や西洋館の窓の装飾に多く用いら
れる。外部からの透過光で見るため、人の目に
非常に美しく写る。装飾を否定するモダニズム
建築全盛の時期になるとあまり用いられなく
なったが、今日では再びステンドグラスが見直
され、公共建築、住宅、教会などに採用されて
いる。ガラス工芸として、ランプの傘などにも
用いられる。
古代404年に再建されたイスタンブルの聖ソフ
ィア寺院では着色されていない板ガラスを窓に用いていた。一方、500年前後に完成した同
地区の寺院にはステンドグラスの跡が残っている。当時のガラスはフェニキア人から伝わ
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った吹きざお製法を発展させたローマンガラスである。
中世破片の形で残る最も古いステンドグラスは、フラ
ンク王国のカール大帝の支配下にあったロルシュ修道
院(ドイツヘッセン州)で見つかっている。修道院は764
年創建だが、ステンドグラス自体は9世紀のものだと推
定されている。ステンドグラスにはキリスト像が描かれ
ていた。原型を留める最古のステンドグラスは、ドイツ
南部バイエルン州に位置するアウクスブルク大聖堂に
残る。ダニエルをはじめとする5人の預言者を描いたス
テンドグラスは12世紀初頭の作品だと考えられている。
その後、ステンドグラスはフランスにおいて発展して
いく。12世紀頃になるとロマネスク美術に続いてゴシッ
ク美術が北フランスからおこり、建築技術の向上が見ら
れた。飛梁の発明により天井は高く壁は薄くなり、大きな窓が可能になった。ゴシック様
式を採用した教会堂の窓には彩色の施されたステンドグラスが使用されるようになり、教
会堂は光のあふれる空間となった。
12世紀の代表的なステンドグラスは、パリの南西 90kmに位置するシャルトル大聖堂のも
のである。176ものステンドグラスを誇る。「美しきガラス窓の聖母」
、「薔薇のステンドグ
ラス」など多数、青と赤の色彩が特徴的である。着色に使われた金属酸化物が不純物を含
んでいること、ガラスの表面が平面ではないことから、複雑で微妙な色彩をかもし出して
いる。
イングランドでは、1220年から1472年にかけて建設されたヨーク大聖堂(York Minster)
が最大級である。10万枚以上のガラス片を用いた200m2近いステンドグラスが残る。
ローマ帝国以後、ガラスの製造は沈滞していたが、ステンドグラスの興隆とともに、
ガラス製造にも革新が起こった。 1291年に海軍国家となって繁栄し始めたヴェネツィアが
ムラーノにガラス工場を集積。ローマンガラスの質を高めた。今日でもヴェネツィアン・
グラスとして知られている。ステンドグラスと並び、ガラス器の製造も盛んになっていっ
た。
2-6-2. 国際ゴシック様式
国際ゴシック(こくさい-)は、ゴシック美術の末期に、教皇
庁や宮廷を中心に幻想的で細密な絵画が流行した状況に対して、
ヨーロッパ共通のスタイルが成立したとして、名づけられたもの。
国際ゴシック様式とも。元々は19世紀フランスの美術史家がルネ
サンスのルーツはフランスにあると主張するために使い始めた
言葉のようである(Louis Courajod 1841-1896年)
。
国際ゴシックは、一般にシエナ派の活動がきっかけで広まった
とされることが多い。シエナ派は、北方のゴシック様式とイタリ
アのジョットらの芸術を融合し、繊細な宗教画を描いた。中でも
マルティーニ(1285年? - 1344年)はシエナ市庁舎壁画の聖母像(1315年)や受胎告知(1333
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年)を描き、また1340年からアヴィニョンに招かれて、当時ここに
置かれていた教皇庁新宮殿建設の仕事に従事した。アヴィニョンの
教皇庁には各国から多くの画家が訪れており、活発な交流が行われ
た。やがて14世紀後半から15世紀にかけて、ヨーロッパ各国の宮廷
(北フランス、フランドル、プラハ、カタルーニャなど)やアヴィ
ニョン教皇庁を中心に、共通した様式の絵画が流行するようになっ
た。特にプラハは神聖ローマ帝国皇帝のカール4世(1347年 - 1378
年)の本拠として、整備が進められた。
2-5-3. シモーネ・マルティーニ
シモーネ・マルティーニ(Simone Martini, 1284年頃 - 1344年)はイタリア、ゴシック
期の画家。国際ゴシックの先駆けを作ったといわれる。
イタリア中部のシエナ出身。ゴシック期のシエナ派の代表的な画家であり、イタリアの
ゴシック絵画のもっとも典型的な様式を示
す作品を残した。世代的には、フィレンツェ
のチマブーエや、シエナのドゥッチョ・ディ・
ブオニンセーニャの後継者にあたる。(シエ
ナは15世紀には衰退したものの、14世紀当時
はルネサンスのフィレンツェと並ぶ、美術の
中心地であった)
シモーネは、ナポリやアッシジでも制作し
1340年頃にはイタリアを離れて、当時教皇庁
のあった南フランスのアヴィニョンへ移り、
教皇庁宮殿などの仕事をした。
ウフィツィ美術館にある代表作『受胎告知』は、伝統的な金地の背景を用いているが、
人物は現実的な三次元空間のなかに存在するように表現され、聖母や天使の着衣や肉体表
現にも自然味が現われている。
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