ヒルダ・ミッシェル信徒講座Ⅲ期第6回・テキスト資料~苦しむこと/霊性の

ヒルダ・ミッシェル講座
2015 年 12 月 19 日
「キリストから学ぶ生き方」
司祭 ヨナ成成鍾
「 苦しむこと-試練・苦難 」
霊性の観点から
Ⅰ.初めに
ロシアの文豪トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi、1828-1910)が福音書を元にして書いた
『愛のあるところに、神様もある』1 という民話がある。童話『靴屋のマルティン』としても広
く知られているが、この物語は世の中に存在する試練と苦難について、私たちがどう理解すれば
いいのかについてのヒントを与えてくれる。
靴屋のマルティンは、人もよく仕事も確かな男として街の人々から愛されていた。ところが、
不幸にも妻と子どもたちを相次いで亡くし、一人ぼっちになってしまった。突然訪れた苦難と人
性の不条理に生きる望みを失い、神様を恨む日々を送るようになる。そのある日、同郷の老人か
ら“お前に読み書きができるのなら聖書を読め”と強く勧められる。ある夜、福音書を読むうち
に眠り込んでしまったマルティンの耳の後ろから、不意に声が聞こえてくる。
“マルティン、マル
ティン、明日は通りを見ていなさい。私が行くから。”イエス様の声のようだったが、姿は見えな
かった。あくる朝、マルティンはそれとなく窓の外に目をやりながら仕事をしていたが、いっこ
うにイエス様が現れる気配はなかった。その代わり目に入ったのは、体を痛めた老人スチェパー
ヌイチが雪かきの途中でくたびれ果てて佇んでいる姿だった。マルティンは“あの男にお茶でも
ごちそうしてやるか”と思い招き入れた。次にマルティンが家に招き入れたのは、寒い中を夏物
の服を着て、赤ん坊を抱いたまま震えて立っていた貧しい女性だった。彼は、朝から何も食べて
いない母親に食事を取らせ、赤ん坊をあやし、古い上着と小銭を持たせた。その次に彼が出会っ
たのは、リンゴが入った籠を持った老婆と、そのリンゴを盗もうとした少年だった。少年を警察
に連れて行くといきまく老婆をなだめ、逃げようとする少年を引き止めて老婆にあやまらせ、マ
ルティンは少年のためにそのリンゴを買ってやった。その晩、いつものように仕事を片付けて福
音書を読み始めようとしたとき、昨夜と同じように“マルティン、マルティン、私に気づかなか
ったのか”という声が聞こえてきた。さらに“あれは私なんだよ”という声と同時に、暗い片隅
からスチェパーヌイチが進み出てにっこり笑ったかと思うと、雲のように消えてしまった。また
1
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同じく“あれも私だよ”という声と同時に、赤ん坊を抱いた女性が現れ、その次に老婆とリンゴ
を持った男の子が出てきて、にっこり笑ったかと思うと、やはり消えてしまった。その不思議な
体験をしたマルティンの心は喜びで満たされた。その後、福音書を読み始めるとこう書いてあっ
た。“お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をして
いたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた … は
っきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことな
のである。”2 マルティンは、主が確かにおいでになったことをこの御言葉によって気づかされ
た。
物語は『愛のあるところに、神様もある』というタイトルが表しているように、愛の中でこ
そ神を見出すことができるということを良く伝えている。ところで、少し観点を変えると、世の
人々を象徴する登場人物にはそれぞれ試練と苦難があり、その様々な試練と苦難の中にこそ神が
おられることを表わしている同時に、試練と苦難を持っている者たちが愛を分かち合うことを通
して、互いに支え合える人として成長していく、ということを読み取ることもできる。つまり、
私たちが世の中にある様々な試練と苦難にどう対応することを神は願っているか、についての福
音書の理解を伝えていると考えられる。
そういう理解に沿って、
「キリストから学ぶ生き方」という大きなテーマのもと、苦しむこと
について霊性の観点からアプロチーする本稿では、先ず世の中に試練と苦難が存在することにつ
いての神学的な理解を得るために‘人間の苦難’と‘神の苦難’のことを取り上げる。世の存在
が苦しむことは、思弁的な働きだけでは理解できない神秘の領域であり、キリスト教の究極的な
神秘である十字架の神学につながる。そういう理解の延長線上で、苦しむことの霊性として‘観
想の霊性’‘統合の霊性’
‘暗闇の霊性’を用いて、試練と苦難が私たちをどのように救いへと導
くのかについての理解を深める。さらに‘十字架の道行(ヴィア・ドロローサ)’‘「十字架上の七
つの言葉」’
‘詩編の作成’などの具体的な実践を提案する。
Ⅱ.「苦しむこと」とは
釈迦(Gotama Siddhattha)は“人生は苦海だ”と説破したが、実際に世の中、また人の営み
の中には様々な苦しみが伴う。個人においては、病気や事故による苦難、失敗や挫折による精神
的な試練、環境の変化に伴う困難や人間関係の難しさなど、苦しみや痛みが常に付きまとう。世
界内においても、生態系の破壊による地球的な危機を始め、貧困、犯罪、差別、戦争、災害など
による苦難が止まらない。しばしば訪れる試練と苦難は、人々を迷路に入り込ませ、希望を奪い、
また肉体や精神的な苦痛やストレスを与える。それゆえ、誰であって苦難が訪れることのない穏
2
2
やかな日常生活を望むが、願う通りにはならない。むしろ、苦しみの中にいる、そういう状況の
ことを平凡だと言ってもいいかも知れない。
それでは、世の営みの中に試練と苦難があることについて、どのように理解すればよいの
か。それについて、教会はどのような見解を持っていて、聖書はどのように教えているのか。聖
書の証、特に福音書によると、試練と苦難は人間だけに限られたものではない。被造物全体を含
めて人間のものであり、神のものでもある。むしろ、欠け離すことのできない両者間の関係にお
いての事柄だと言える。それゆえ‘人間の苦難’と‘神の苦難’に大きく分けて、私たちにとっ
て苦しむことはどういう意味なのかについての理解を求める。
1.人間の苦難
なぜ人の営みには試練や苦難があり、特に何の罪もない人々が苦しむことをどのように理解
すればよいのかというのは、古くからの神学的な問いの一つである。福音書には、病気や死など
様々な苦難に苦しんでいる人のことと、それに苦しむ人々を救いへと導く癒し物語が数多く記さ
れている。ヨハネ福音書 9 章に記されているシロアム池で行われた盲人の癒しもその一つである。
その物語を通して、苦難についてのキリスト教の伝統的な理解を得ることができる。生まれつき
視力障害の苦しみを背負った人を見て、弟子たちはキリストに“なぜこのような苦難が彼に与え
られたのか”と質問する。それに対して、キリストは“本人が罪を犯したからでも、両親が罪を
犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである”3 と答える。これはキリストが視力
障害という苦しみに対して、その原因が何なのかということよりは、苦しみの中で救いが導きだ
されて神の業が具現される、ということに焦点をおいて語られたと読みとることができる。
生まれつき盲人の視力障害が試練と苦難を象徴することだとすると、人々が苦しみに対して
どういう姿勢を取るべきなのかが、この物語の中で明確にされる。つまり、聖書とキリスト教の
教えとは、人間の力ではどうすることもできない試練と苦難の場合、それらの苦しみがなぜある
のかというよりは、それをどのように理解して受け止めればいいのか、またどうすればそれを乗
り越えて成長の過程とし、さらに救いへと繋げられるのか、ということに比重がおかれている。
それゆえ、教会の伝統の中、多くの聖人たちも自分たちの経験に基づいて、苦難を避ける方法で
はなく、それに耐えながら乗り越えることを教えた。聖人を含め、多くの信仰の先輩たちにとっ
て試練と苦難は、本来の姿を取り戻すための浄化の過程であり、神との一体へと導いてくれる神
秘として理解されてきたからである。
1)神秘としての苦難
人の営みの中にある試練と苦難は、原因がはっきりするものもあるが、そうではないものも
3
3
ある。突然訪れてしまい、自分の力ではどうしようもない試練、なぜあるのか人間の思考力では
分かりようのない苦難の方が多いかもしれない。そういう試練と苦難の場合、それは解決すべき
問題であるよりは、むしろ深い意味が潜まれている神秘に近い。哲学者ニーチェ(Friedrich
Wilhelm Nietzsche、1844-1900)は“苦しみはそのものが問題なのではない。なんのために苦し
むのかという絶叫にも似た問いに対して、解答がないのが問題なのである”と語ったが、その通
りである。試練と苦難は、解答がはっきり定まっている数学問題とは違うため、それの原因や意
味がすぐ回答できるものではない。つまり、学問や知識という思弁的な領域を超えている。人間
に命が与えられていること自体が神秘そのものであるように、病気や死なんどの試練と苦難が訪
れることもごく自然的な営みとして神秘の領域だと言える。私たち人間は、自ら存在するもので
はなく限界を持つ被造物であるがゆえに、神秘の領域である試練と苦難について決して答えよう
がない。
ところが、その神秘の前にいる私たちに許されることがある。それは、試練と苦難が今ある
ことの意味を求め、それをどう受け止めればいいのかその知恵と勇気を願うため、神に近づくこ
とである。つまり、問いかけの対象を試練と苦難から神へと変え、神が何を私たちに求めている
のかを聴く、ということである。アメリカの神学者ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr,
1892-1971)の次の祈りは、そういう姿勢を模範的に表している。“神よ、私に変えることのでき
ないものは、それを素直に受け容れるような心の平和を、変えることのできるものは、それを変
える勇気を、そして変えられるものと変えられないものとを見分ける知恵を、この私にお与えく
ださい。”4 限界を持つ被造物である私たち人間にとって試練と苦難は、否定することも逃げるこ
ともできない人間本来の要素でもある。つまり、人間の自己アイデンティティを構成している一
つの部分なのである。それゆえ、試練と苦難というのは、解決すべき課題でも回避する問題でも
なく、勇気を持ってその中に留まり、忍耐強く生きることが求められる神秘だと言える。その神
秘に入って、神の聴きながら生きることこそが、試練と苦難に潜まれている意味や、それらが運
んでくれる救いについて知る最も確実な鍵かも知れない。
2)洗礼としての苦難
20 世紀を代表するキリスト教作家で優れた弁証家、聖公会の信徒神学者としても知られてい
る C.S ルイス(C. S. Lewis、1898-1963)は、著書『痛みの問題(The Problem of Pain)』を通し
て、人間の痛みとして試練と苦難などを解決すべき問題として捉えていた。神義論(theodicy)、
つまり神が善であるならなぜこの世に悪が存在するのかを論じる議論を取り上げて、試練と苦難
が世の中に存在することの意味や、それをどのように理解すべきなのかを見事に弁証して、世の
称賛を浴びた。ところが、そのちょうど 20 年後の 1960 年に愛する妻を亡くす深い悲しみの経験
をした後、出版した『悲しみをみつめて(A Grief Observed)』の中で、試練と苦難についての今
までの自分の姿勢についてこう書いた。“今まで私は、病気、苦痛、死、孤独という名前を持つ、
4
4
害を与えない模造品をもって遊んだことに過ぎない。”5 つまり、実際に愛する妻を亡くす苦しい
経験をするようになってから、今まで持っていた試練や苦難などに関する理解がどれほど思弁的
遊戯にすぎなかったのかを告白したのである。信仰深かった彼にとっても、実際に味わう試練と
苦難というのは、教理や神学的な理論とはまるで違う痛烈な経験であった。そういう自らの深い
悲しみの経験を通して、試練と苦難についての全人的な理解が体に染み込むようになったとも言
える。そういった意味で、彼にとって愛する妻を亡くす悲しみは、新しく生まれ変わるために与
る洗礼のような出来ことだったと言える。
洗礼はギリシア語で‘バプティスマ(baptisma)’と言って“水に沈めること、浸すこと”の
意味である。つまり、古い者は死んで新しい者として生まれ変わるということを表わすサクラメ
ントとして、救いのシンボルである。その洗礼のことは福音書に三つのパタンが記されている。
一つ目は「水の洗礼」で、二つ目は「火と聖霊の洗礼」6 である。そして三つ目は「苦難の洗礼」
である。苦難の洗礼のことは、キリストがご自身の死と復活ことを三度目予告されたとき7 に用
いられた表現である。マルコ福音書 10 章によると、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが“栄光をお受
けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください”とお願い
する。それに対してキリストは“あなたがたは … このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受
ける洗礼を受けることができるか”と答える。ここでのキリストが飲む杯は苦しみの杯であり、
洗礼は受難の洗礼のことを指す。つまり、苦難の洗礼は、キリストが受けられた受難が原形にな
るものとして、後の弟子たちが使徒に生まれ変わる過程の中で受ける苦難ことである。さらにそ
の伝統を受け継いだキリスト者が日常生活の中で受ける試練と苦難が、新しく生まれ変わる洗礼
の役割を果たす、という意味として受け止められる。もし出産の苦しみが洗礼の元来的なものだ
とすると、人は誰もが苦難の洗礼に与ることを通して世に生まれることになり、人生の旅路の中
で遭遇する試練と苦難を通して、さらに生まれ変わる恵みに与るようになる。
2.神の苦難
全知全能な神は、なぜ世の中に試練と苦難が存在することを許すのか。無告の民が苦しむと
き、そもそも神はどこで何をしているのか。1986 年にノーベル平和賞を受賞したルーマニア出身
のアメリカのユダヤ人作家エリ・ヴィーゼル(Elie Wiesel、1928-)は、自らのホロコースト体験
がもとに書いた小説『夜』8 を通して、次のように答える。小説の舞台はアウシュビッツ強制収
容所となっているが、そこでの苦しみの惨酷さが生々しく表現されている。ある日、3 人が見せ
しめのため公開処刑されることになるが、その内の一人は子どもだった。子どもは体重がごく軽
いので臨終の苦しみを続けながら、生と死との間で闘っていた。それを真っ向から見つめねばな
5
6
7
8
5
らなかった人々の重い沈黙の中から“いったい、神はどこにおられるのだ”という嘆きのような
つぶやきが聞こえてくる。それに対してヴィーゼルは全く意外な答えを出す。
“どこだって。ここ
におられる。ここに、この絞首台に吊るされておられる。”つまり、神はその子どもと共に絞首台
のロープに吊るされて苦しみ、共に処刑されているというのが、ヴィーゼルの出した最後の結論
であった。
神の存在を無しに人間のことを語れないように、人間の存在を無視しては決して神のことを
語れない。もちろん“わたしはあるという者(I am that I am)”9 という神の本質が表している
ように、神はお一人でも完全成る存在ではあるが、人間が神に模られて創造されている10 ため、
神と人間の関わりは掛け離すことができない。神と人間は一つではないが、だとして別々でもな
いからである。キリストの受肉と受難が、まさにその証しである。神は独り子キリストをこの世
に送り、また十字架の死に渡すほど、世の人々を愛された。そして、今もその愛を通して関わり
続けている。人間が神の中にあり、神が人間の本質の中心としてある以上、神の存在は世の中の
人間の有り様と掛け離せない。いつ何処でもどういう状況でも二人三脚の関係であるため、試練
と苦難に関しても同じことが言える。
1)十字架の神学
キリスト教の十字架は、試練と苦難についての御旨、さらに神の苦難そのものについて語っ
ている。中世までの古典的見解として、キリストは人性において苦しんだが、神性において苦し
んだのではないとした理解があった。いわゆる、
「神の不可受苦性(impassibilitas Dei)」である
が、これに対してマルティン・ルター(Martin Luther、1483-1546)は「十字架につけられた神(Deus
crucifixus)」という表現を意図的に用いて、十字架で具現される神の愛について強調した。
“神
の栄光は他の何よりも、苦難においてはっきり現される”11 というルターの十字架論は、二十世
紀後半になって「苦しむ神」および「神の死」という神学的テーゼにおいて再発見されるように
なる。特に「苦しむ神」についての神学的な議論に貢献した著作として、現代聖公会を代表する
神学者アリスター・E. マクグラス(Alister Edgar McGrath、1953- )は、ユルゲン・モルトマン
(Jürgen Moltmann、1926- )の『十字架につけられた神』と北森嘉蔵(1916-1998)の『神の痛み
の神学』を挙げている。12
モルトマンは『十字架につけられた神』についてこう語っている。
“私はもはや単にキリスト
の十字架が人間にとって何を意味するかを問うのみならず、神の御子の十字架は、
「わが父よ」と
呼ばれた神御自身にとって何を意味するかを問うたのである。私はこの問いに対する答えを、神
の深い苦しみを知覚することに見出した。この神の苦しみは、ゴルゴダにおける御子の死と結ば
9
10
11
12
6
れており、その死のうちに啓示されている。それは限りなき愛の苦しみである。
”
13
そして、類
似の思想を北森嘉蔵からも発見できたと語り、彼の神学はルターの十字架の神学を超えたと称賛
した。
北森嘉蔵の『神の痛みの神学』は、辛さや切なさといった日本文化の悲劇的な特質を「痛み」
という神学的な要素と見なした独創的な問題意識が込められている。また、世界第二次大戦によ
る苦難と絶望の体験を背後にして著述されたものであるがゆえに、神がどれほど被造物の苦しみ
と痛みを担われているかが主な内容として述べられている。同じ時代にヒトラー独裁に抵抗した
神学者ディートリッヒ・ボンへッファー(Dietrich Bonheoffer、1906-1945)が、強制収容所の獄
房で“苦しむ神だけが助けられる”14 と歌ったように、北森嘉蔵も“痛みにおける神は、御自身
の痛みをもって我々人間の痛みを解決し給う神である”15 と述べている。神は人間の苦しみによ
って傷つき、人間の悲しみを深く悲しむ。もちろん、ここでの神の痛みや悲しみというのは、実
体としての神に痛みがあるというのではない。神の痛みは実体概念ではなくして、関係概念とし
て被造物との関わりの中で理解しなくてはならない。つまり、人間に対する神の愛の性格なので
ある。神はご自身に模られた人間が苦しむときに共に苦しまれる。今も人間のためであるよりは、
その人間と共に死なれる。それが十字架の愛である。
2)繁栄の神学
「十字架の神学」の理念に相反する「繁栄の神学(a theology of prosperity)」という教え
がある。繁栄の神学とは、十字架と復活の恵みによってもたらされる永遠の命だけではなく、こ
の世での現世利益も神によって与えられる、と信じる信仰のことである。しかも、キリスト者に
は健康面と経済面で祝福される権利があると考え、積極的な告白、奉仕、献金などを通してそれ
らが得られるという教えである。つまり、繁栄の神学というのは、人間の繁栄こそが神に対する
人間の応答であるという理解のもと、神を前に立たせてこの世の人間に繁栄をもたらせようとす
るあらゆる精神、態度、行動などを指していると言える。極めて利己主義的な教えであるがゆえ
に、共同体や隣人への配慮の部分が欠如されている繁栄の神学は、福音についての理解と行いが
浅すぎるということで、福音派キリスト者の集いである「ローザンヌ世界伝道会議(The First
International Congress on World Evangelization、ICOWE)」から、またローマカトリック教会16
からも強く批判されている。
繁栄の神学が語っているように、神に従うことによって祝福が得られる。それ自体は決して
誤りではない。更に根本的な意味において、人生のあらゆる問題に対する解決の道が福音書には
示されている。しかし、それは単なる現世利益や成功とは異なった次元での解決である。もしキ
リスト教の現世的御利益ばかりを強調すると、一つの落とし穴に陥る危険性がある。それは福音
13
14
15
16
7
とキリスト教の教えが、人生の繁栄と成功のための手段としての人生設計や処世術と何も変わら
なくなる、ということである。また一方で、天国に行ったら全ての悩みや問題が解決されること
を待ち望んで、この世の生活において苦難を耐え抜く力と希望を求める、ということもキリスト
教信仰の究極的な理由ではない。そういう理解も、本質的に御利益を求める繁栄の神学のもう一
面である。現世利益と幸福の時と場を、単に天国に移して求めていることにすぎない。キリスト
教と福音が教える第一の求めは、単なる不幸のないパラダイスというものではなく、永遠の命の
与え主である神そのものである。神と共に今を生き、神と共に永遠なる命を具現していくことで
ある。
それについて、ディートリッヒ・ボンヘッファーは著書『キリストに従う』の中で、
「安価な
恵み」と「高価な恵み」という言葉を用いて表現した。17 「安価な恵み」とは、投げ売り品のよ
うな恵みである。投げ売りされた赦し、投げ売りされた慰め、投げ売りされた聖餐のこととして、
我々が自分自身で手に入れた恵みである。それは、主に従うことなき恵みであり、十字架なき恵
みであり、生けるイエス・キリストなき恵みである。その反面「高価な恵み」とは、畑に隠され
た宝であるため、自分の持ち物を全部喜んで売り払う程の価値がある。それは、祈り求められね
ばならない賜物であり、叩かれねばならない扉である。要するに、キリストから従うように呼ば
れた招きであるがゆえに、生命をかける値打ちがある。またそうすることによって初めて生命を
贈り物として与えるゆえに恵みである。それは罪を罰するがゆえに高価であり、罪人を義とする
がゆえに恵みである。繁栄の神学が安価な恵みを与えるとすると、十字架の神学は高価な恵みを
与えるものだと言える。
Ⅲ.「苦しむこと」の霊性
人間は脳の一部だけを使い、体には運動の足りない筋肉がある。これと同じように私たちの
人間性は、眠っているか明らかになっていなかった部分が、特別な体験をすることによって命を
得る。例えば、愛に落ちったり、身籠ったり、死に直面したりするのがそうであるが、苦難もそ
ういう経験の一つである。フランスの作家レオン・ブロワ(Léon Bloy、1846-1917)が“柔弱な人
の心の中には何もない空間がある。苦難はその中に入って命を吹き込む”18 と語ったように試練
と苦難は、命の種のようなものである。試練と苦難が善だと思えないが、それが生産的であると
は言える。多くの聖書の人物や聖人たちの生涯はそれを物語っている。聖書の中から、以下のよ
うな人物を例として挙げられる。
ヘブライ聖書の中、ノアは酒に酔って裸になったことがあり、アブラハムは仕えるには老い
17
18
8
すぎた人であり、イサクはしょっちゅう妄想に走る人であり、ヤコブは嘘つきであり、ヨセフは
虐待されたトラウマを持っていた人であり、モーセはスピーチが下手な人であった。また、ギデ
オンは不安が多い気の小さな人であり、サムソンは浮気の多いプレイボーイであり、ダニエルは
仕えるには幼すぎる人であり、ダビデは姦淫し殺人までも犯した人であり、エリヤは深刻なうつ
病を患った人であり、ヨブは破産して何もかも失った人であった。また、新約聖書に入りと、洗
礼者ヨハネは家も着る服もないホームレスであり、ペテロは気の短い性格の持ち主でキリストを
三度も裏切った卑怯な人であり、マルタは心配症の人であり、マグダラのマリアは悪霊に取りつ
かれた人であり、サマリアの女の人は何回かの離婚による傷を持っている人であり、ザアカイは
いつも一人ぼっちで身体的はコンプレックスを持っている人であり、パウロは癲癇を患っていた
人であり、ラザロは一度死んだ人であった。このように不完全で弱い人たちが試練と苦難の中で
神へと導かれ、神の恵みによって形作られ、神の業のために用いるようになったのである。そう
いった意味で、試練と苦難というのは霊性の泉だとも言える。そういう理解に準じて、苦しむこ
との霊性として‘観想の霊性’、‘統合の霊性’
‘暗闇の霊性’を取り上げる。
1.観想の霊性
ヨブ記によると、最後までヨブは試練と苦難がなぜあるのか知ることができなかった。そう
であるにも拘らず、試練の過程を通して被造物としての自分についての理解と神認識が深まるよ
うになったヨブは、謙る者として神に次のように語る。“あなたは全能であり、御旨の成就を妨
げることはできないと悟りました。… あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この
目であなたを仰ぎ見ます。”19
つまり、試練と苦難の中で自分のことを省み、自己存在の本質
を知るようになったヨブは、さらに神を見る存在までへと成長するようになったのである。ここ
で神を見るというのは、伝統的には観想(contemplatio)20 という言葉で表現されることとして、
霊性の極めの領域のことを意味する。そのように苦しむことによって、人間は自分を見るように
なり、さらに神を見るように導かれる。彼の魂の中で、第一コリントの信徒への手紙 13 章の“わ
たしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせ
て見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られてい
るようにはっきり知ることになる”21 ということが具現されたと言える。
1)自分を見る
C.S ルイスは痛みなどの試練と苦難のことを、聞こえなくなった世界を呼び覚ますための「神
のメガホン」22 だと表現した。この痛みのメガホンの激しい呼びかけを通して、多くの者は神の
19
20
21
22
9
声を聞くように導かれる。試練と苦難は、私たちがいかに弱くて無力な存在であるかを明らかに
し、私たちを神に頼り祈るように導く。つまり、試練と苦難とは、神に対して自己を明けわたす
過程だと言える。これはフランスの作家で哲学者マルセル・プルースト(Marcel Proust、1871-
1922)が“如何なることも、苦難より効果的に自分自身を理解するように手助けするものはない”
と語ったのと相通じる。23 度々、苦難は私たちに仮面を剥ぎ取って、隔たりを無くし、役割ゲー
ムを止めるように求める。つまり、ありのままの自分を見るように求めてくる。このように試練
と苦難は、それ自体の苦しみだけではなく、自分を見つめ直す苦しみと変化の辛さまでも与える。
そういった意味では、二重の苦しみを与えるもろ刃のようなものだと言える。24 試練と苦難から
逃げるか向き合うかは本人次第でるが、辛くても勇気を持ってそれに向き合うと、私たちに何か
を教え、さらに成長へと導く。
試練と苦難は、最終的には人間の観点を周囲から自分へ、ことに内面の中心へと転回させる。
自分自身のことを省察するように導き、その結果、人々との関わりや神との交わりなどを含めて、
生き方全体を見つめ直すように案内する。要するに、外から内面へと集中することによって、さ
らに内面から外へと拡大するようになる。試練と苦難によってもたらされる具体的な要素として
以下のようなことが挙げられる。自分を見るように導いてくれる試練と苦難とうのは、一つ目、
人生の目的や意味を問う絶好の機会となる。二つ目、生き方とあり方を見つめ直す機会となる。
三つ目、人間存在の本質を教えてくれる機会となる。四つ目、本当の幸いや喜びが何であるかに
気づく機会となる。そして五つ目、私たちが神に向かい、神に近づく機会となる。
2)神を見る
試練と苦難を通して、私たちは神に近づき、神を見るようになる。つまり、前述したように、
霊性の極めとして神と共に存在する、神と共に永遠なる命を生きるという状態へと導かれるよう
になる。ところが、全ての人がそうなるのではない。キリストと共に十字架にかけられた二人の
犯罪人の話はそれを象徴的に示している。ルカによる福音書 23 章にこう記されている。“人々は
イエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。… 十字架にかけ
られていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を
救ってみろ。
」すると、もう一人の方がたしなめた。
「… 我々は、自分のやったことの報いを受け
ているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、
あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエス
は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。”25
これによると、二人の犯罪人のうち一人はキリストのことを罵り、一人は救いを求め“あな
たは今日わたしと一緒に楽園にいる”という言葉の通り、その瞬間救われるようになる。同じ十
字架の苦しみの中にいるのに、一人だけが隣にいるキリストがどういう存在なのかを知り、救わ
23
24
25
10
れた。二人の外的な状況は同じだったけれども、内面的な姿勢は真反対であった。罪を犯した者
として十字架にかけられて、一人は自分を省みて悔い改めるようになり、ただ自分のことを“思
い出してください”という最も謙る姿勢を取った。一方でもう一人は、自分の観点を自分でもキ
リストでもなく、未だに犯した罪や世の噂に止めておいた。それゆえ、キリストに対して“お前
はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ”と罵ったのである。
相反する態度をとった二人の間、つまり三つの十字架の真ん中にはキリストがおられた。そ
れゆえ、苦しみの中にいた二人には、救い主であるキリストに観点を置く可能性が開かれていた
のでる。しかし、一人だけが自分の魂の目をキリストに向け、今共に苦しんでいるそのキリスト
に救いを求めた。もしかして彼は、キリストが十字架で自分と共に苦しんでいるからこそ、救い
を求めたかもしれない。今も十字架は世の真ん中に立っている。私たちはキリストを十字架にか
けた者として、下からその十字架のキリストを仰ぎ見ることも良いけれども、自分自身がキリス
トと共に十字架にかけられた者になって、試練と苦難の真ん中におられるキリストを見ることも
良いではないだろうか。
2.統合の霊性
十字架の受難と死が、復活と掛け離すことができないように、試練と苦難には喜びや感謝な
どの幸福感とセットとして理解しなくてはならない。まるで招き猫のように、苦しみは喜びや感
謝の心を呼び寄せる。試練と苦難のそういう性質は、ローマカトリックの思想家ティヤール・ド・
シャルダン(Teilhard de Chardin、1881-1955)の次の言葉からも読み取ることができる。“失敗
などの試練は、まるで剪定はさみのように私たちをより美しく鍛錬させる。苦難は私たちの内面
に命の水が流れるように道を開け、純粋な魂を自由にさせてより高くより強く花咲させる。”地質
学者として進化論に基づき宇宙の神秘について研究してきたシャルダンは、宇宙の全ての有機体
は変化を重ねながらより高潔な霊的エネルギーの形として進化する、という思想を述べた。人間
も同じく、意識的な選択、また意識せずに行われる変化によって成長すると語ったが、それは成
就だけではなく失敗によって、力だけではなく弱さによって、行いだけではなく忍耐することに
よって、成長へと導かれるというのである。26 つまり、苦痛と喜びは相反する要素であるよりは、
まるで人間の両足のように、私たちを聖なる実存である神へと導くのだと言える。
それについて、ヘンリ・ナウエン(Henry J. Nouwen、1932-1996)は著書『この杯が飲めます
か?』27 の中で、キリストの「苦難の杯」のイメージを用いて見事に表現している。前の「もう一
つの洗礼」でも取り上げたが、二人の弟子がキリストに、栄光をお受けになるときに左右に座ら
せて欲しいと頼むと、キリストは“私が飲もうとする杯を飲めるのか”28 と答える。ここで用い
26
27
28
11
られた杯は、苦難の杯のことを指すが、その中には苦難だけが入っているのではない。ナウエン
は、その杯のことを聖餐式の用いられるブドウ酒の入った杯、つまり御血に与ることとの関連で
語る。御血に用いるブドウ酒には、甘み、酸味、苦み、渋味など色んな味が含まれている。それ
と同じように、杯を飲むというのはその中にあるキリストの全て、つまり悲しみも喜びも、苦痛
も栄光も、絶望も希望も、弱さも力も、その全てを受け入れるということになる。杯の中のブド
ウ酒の味がすべて混ざっているように、苦難の杯だとしても私たちはキリストの全てを受け入れ
る、ということになる。私たちにとって試練と苦難もそういう性質を持っている。それゆえ、日
常生活や人々との関わりの中、悲しみの中には喜びが喜びの中には悲しみが混ざっている、とい
うことを識別することが求められる。そうするとき、私たちもキリストがゲッセマネで“父よ、
できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりでは
なく、御心のままに”29 と祈られた、その
b神秘を生きるようになる。
3.暗闇の霊性
試練と苦難は、教父や霊性家たちによって書かれた霊的書物に、しばしば「暗闇」や「暗夜」
などの言葉で表現される。例えば、『暗夜(Noche oscura)』は十字架の聖ヨハネ(St. Joannes de
Cruce、1542-1591)の著作のタイトルでもあって、彼の霊性の核心である。そして、マザーテレ
サ(Mother Teresa、1910-1997)は“私が聖人になることがあるなら、暗闇の聖人になることでし
ょう。この地上で暗闇に沈む人々に光りを灯すために、天国にはいないことでしょう”30 という
言葉を残し、生涯暗闇の神秘に留まり続けたことを告白した。ところが、この暗闇や暗夜という
のは、人間の魂を清めつつ神のところへと導いてくれるものでもあるため、ただの闇ではなく「輝
く暗闇」、「魂の暗夜」なのである。物理的な次元で、夜の闇も時間が立つと朝の光へと席を譲る
が、それは闇が光を招き導くというふうにも読める。つまり、闇と光は欠け離せないものである。
聖書においての「魂の暗夜」は、例えば預言者ヨナが神の使いとしてニネベに行かされる前に入
られた大きな魚の腹の中31、キリストが公生涯の前に受けられた 40 日間の荒れ野での試練32、復
活の前に入られた三日間のお墓33 などを挙げることができる。また、赤ちゃんが生まれる一連の
過程は、光へ私たちを導く「魂の暗夜」の最も神秘的な例である。
先ず注目すべき点は、赤ちゃんが世の光に会うためには 10 か月間、母親のお腹という暗闇の
中に留まらなくてはならない、ということである。闇の中の 10 か月間は、命の形が整えられて成
長する過程として、頭脳や感情などの機能の土台もほぼ形成される。そして、闇から光に向かっ
て生まれるが、出産はまさに試練の過程である。出産のときに母親が体験する苦しみのことを陣
29
30
31
32
33
12
痛と言うが、実は出産の苦しみは母親だけのものではない。生まれてくる赤ちゃんも苦しむとい
う見解がある。母親の細い産道を通る際、赤ちゃんは 4 枚に分かれている自分の頭蓋骨を重ね合
わせ、頭を細長く変形させて出てくる。痛みをどれほど感じるのかは明確にされていないが、強
いストレスを感じるということは推測できる。ところが、医学的にもそのストレスが赤ちゃんの
呼吸機能の成熟に必須要件になるということが明らかになっている。このように出産の際、母子
ともに感じる苦しみがなぜあるのは知らされていない神秘の領域であるが、それが命を世に送り
出し、また育むためには欠かせない過程であることは明確である。まさに、人は誰もが 10 か月間
の暗闇と痛みという試練と苦難を通して、光り輝く世界へと生まれることになる。
ヘンリー・ニューマン(John Henry Newman, 1801-1890)が“み恵みの光よ、闇に包まれてい
る私をお導きください。暗夜に、ふる里遠く離れている私をお導きください。私の歩みをお守り
ください。遠くを見せてとは、お願いいたしません。一歩さきだけで十分なのです”34
と祈った
ように、魂の暗夜は、決して抽象的な概念ではない。この世に生きる間は誰もが会い続けるもの
として、それは人間にとっては生々しい霊的体験の場であり、神にとっては救いの働きの場であ
る。
Ⅳ.「苦しむこと」の実践
1. 十字架の道行
初代教会時代からキリスト者は、キリストが歩まれた苦難の道行きを体験する伝統を守って
いた。その具体的な形の一つが「十字架の道行(The Stations of the Cross)」であるが、ラテン
語では「ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa:悲しみや苦難の道)」、または「ヴィア・クルシス(Via
Crucis:十字架の道)」と言う。十字架の道行きは、キリストの十字架は決して悲しみや苦しみだ
けではない、という聖書の証と教会の教えを体で体験しながら黙想するための営みである。
十字架の道行は、本来自由にキリストの受難を黙想するためのものであったため、そのパタ
ンが多様であった。そういう十字架の道行が、現在に見られる 14 留(station:しばらく留まる部
分)のものに定まったのは、18 世紀のローマ教皇であるクレメンス 12 世(Clemens XII、
1652-1740)
の働きによる。福音書の中でから 8 個所を、また初代教会の伝承から 6 個所を選んで、14 留を決
めたと伝わっている。そして第 2 バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum)以後、最後の
部分としてキリストの復活が加わるようになり、15 留のある十字架の道行きを用いる場合もある。
こうして十字架の道行きは、各留毎に黙想と祈りを捧げるようになったのである。
34
13
さらにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(John Paul II、1920-2005)は、より聖書に忠実であ
るために‘イエス、お倒れになる’や‘ヴェロニカ’の代わりに、‘ゲッセマニでの苦しみ’‘ペ
トロの否認’‘回心した犯罪人に天国が約束される’をテーマとした十字架の道行きを行ったと
言われる。彼の試みは、十字架の道行とういうはより自由にキリストの受難による福音の精神を
記念するために用いるものであり、形式を超えて様々な形で応用できる霊的な遺産である、とい
うことを表している。そういった意味で、実際に黙想する際には、自分の神学的な理解や教会の
置かれた状況に準じて、例えば一部だけを選んで行っても良いが、可能であれば、聖堂に赴き、
絵の前にしばらく止まりながら行うことをお勧めする。一般的な十字架の道行の 14 留は次の通り
である。
① イエス、死刑の判決を受ける。② イエス、十字架を担う。③ イエス、初めて倒れる。④ イ
エス、聖母と会う。⑤ イエス、キレネのシモンの助力を受ける。⑥ イエス、ヴェロニカの布を受
け、顔をぬぐう。⑦ イエス、再び倒れる。⑧ イエス、エルサレムの婦人を慰める。⑨ イエス、
三度倒れる。⑩ イエス、衣服をはがれる。⑪ イエス、十字架にかけられる。⑫ イエス、息を引
き取る。⑬ イエス、十字架から降ろされる。⑭ イエス、墓に納められる。
2.「十字架の七つの言葉」黙想
「十字架の道行」と共にキリストの受難を黙想するために良く用いられるのは「十字架の七
つの言葉」である。二つ共に、受苦日である聖金曜日に用いる伝統が受け継がれている。学者た
ちによると、キリストは午前 9 時に十字架につけられてから午後 3 時に息を引き取られた。この
十字架上での 6 時間の間に、十字架上のキリストは七つの言葉をお語りになった。ヨゼフ・ハイ
ドン(Franz Joseph Haydon、1732-1809)によって作曲されたことでも有名だが、七つの言葉一つ
一つは驚くべき神の救いと愛のみ業を示している。七つの言葉の中、前半の三つ目までは、午前
9 時から正午までの 3 時間の間に語られた言葉である。この後、長い沈黙が保たれてから、いよ
いよ息を引き取られるその時に、キリストは息も絶え絶えに後半の四つの言葉を叫ばれた。
「十字架の七つの言葉」を黙想する際には、苦しみの中で声を発するキリストになって、ま
たキリストから声掛けられる人として行うことをお勧めする。つまり、み言葉を対象化するので
はなく、み言葉の中に自分を入り込ませて、一人称で読んで黙想するということである。
一つ目:『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』35
二つ目:『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。』36
三つ目: イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。
あなたの子です』といわれた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母
35
36
14
です。』37
四つ目: 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、
『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。38
五つ目: この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言わ
れた。39
六つ目: イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を
引き取られた。40
七つ目: イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って
息を引き取られた。41
3.詩編の作成
修道士として毎日詩編を用いて祈る日々を送ったトーマス・マートン(Thomas Merton)は“詩
編は最も完全な祈りだ”と語った。ところが、詩編より生々しい聖書はないかもしれない。とい
うのは、詩編には個人の悩みと感激、共同体の痛みと喜び、そして神への求めなどが、少しも遠
慮することなく赤裸々に表現されているからである。二人の宗教改革者、ジャン・カルヴァン(Jean
Calvin、1509-1564)が“詩編は、人の魂のあらゆる部分をバラバラに分解する”と、またマルテ
ィン・ルター(Martin Luther)が“詩編は私の全て、私の心臓である”と告白したように、信仰者
の思いと心と行いが何も隠さずにありのまま歌われている。そのように詩編には、神を信じてき
た人々の多様な生き方と信仰理解が集まっている。また、神が彼らをどのように導いたのかが記
されている。そうであるからこそ、教会の歴史の中、毎日捧げる礼拝である聖務日課の核心たる
要素として重んじられてきた、と考えられる。
聖アウグスティヌス(St. Augustine of Hippo、354-430)が“神は、詩編を通して神ご自身
を賛美する方法を教えている”と語り、クリストフ・バルト(Christoph Barth)が“詩編はお祈り
を習う学校である”と語ったように、詩編は祈ることとは何かについて教えている。祈りの宝箱
だとも言える詩編は、私たちのあらゆる求めや様々な状況の中でも、全てを神に委ねながら祈れ
るように導いてくれる。それゆえ、自分の状況や求めに応じて、それに相応しい詩篇を用いて祈
ることをお勧めするが、特にここでは黙想の中で自ら詩編を作成し祈ることをお勧めする。自ら
詩編を書く過程を通して、神と信仰についての自分の率直な気持ちを知るようになり、またそれ
を正直に表現する方法も神から教わるようになる。そのような作成された自分の詩編で祈ると、
トーマス・マートンが語った“詩編の言葉で神を賛美すると、神のことをより良く知ることがで
37
38
39
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15
きる。より良く知るようになると神とより親しくなれる。神とより親しくなるにつれて、私たち
の本当の喜びが神の中にあることが分かるようになる”42 ということを実感するようになる。
「詩編作成の心得」
- 先ず、黙想の時間を通して、神の導きを求め、また何を書くか準備する。
- 完全に新しい詩編を書いてもよい。
- 既存の詩編の中、いくつかの単語や文書を自分の立場に合わせて書きかえてもよい。
- 自分の体験、現在の感情(怒り、嘆き、喜び、感謝、賛美など)、神と共同体(家族、社会、
自然など)についての思いなどに忠実であるように努める。
- ひとえに神と自分の関係の中での行いであるがゆえに、可能な限り正直に書く。
- 決まった形はない。自由に自分だけの詩編を書く。
- 書き上げた後は、沈黙の中でみ声に耳を傾ける。
4.祈祷文の黙想
「砂の上の足跡(FOOTPRINTS IN THE SAND)」43
-
ある夜、私は夢を見た。私は、主と共に、渚を歩いていた。暗い夜空に、これまでの私
の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、
もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は改めて足跡
に目を止めた。ところが、そこには一つの足跡しかなかった時があった。しかもそれは、私の人
生で一番辛く、悲しい時だった。それを見て心が乱れてしまった私は、直ぐ主にお尋ねした。
“主
よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは、全ての道において私と共に歩み、私を守ってく
ださる、と約束されました。それなのに、私の人生の中で一番辛い時に、足跡は一つしかなかっ
たのです。一番あなたを必要とした時に、あなたがなぜ、私を捨てられたのか、私には分かりま
せん。”すると主は、ささやかれた。
“私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決し
て捨てたりはしない。ましてや、あなたが苦しんだり、悲しんだりした時に…。足跡が一つだっ
た時は、私があなたから離れたのではなく、あなたを背負って歩いていた。それで、足跡は一つ
しか残っていないようになっている。”
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