私の教育改革論 ―「独立自尊」と「自由」の精神を基礎にして― 長 畑 正 道* <要約> 教育改革についてこれまでさまざまな改革案が出されたが、大きなビジョンに欠けているように 思われる。これからの教育改革は明治の教育制度の創立と大正自由教育にその範を求めるべきであ ると筆者は考えている。 明治の開国以来わが国は四十年を周期として盛衰をくり返してきた。衰退期にはモラルの退廃と 組織の共同体化による機能の喪失がみられた。このことは教育組織も例外ではない。今後の改革に あたってはモラルの退廃と組織の共同体化を防ぐ方策を必ずとり入れる必要がある。 これからの大学改革の方向として、研究中心の研究大学と新たな教養大学の創設が必要である。 研究大学では英語も公用語とし、教養大学では幅広く学び、しかもわが国の文化の精髄を身につけ られるようにする。また大部分の四年制大学は日本語で専門教育が受けられる実務大学とする。 初等・中等教育の改革は一挙に行わないで先導的試行を進めて行く。中等教育では中・高一貫校を ふやし、普通校のみでなく専門学科高校も一貫校をふやして行く。また初等教育では私立小学校の 設立を容易にし、公立校の一部はチャータースクールのように教師の自主性を中心にして学校運営 をはかるようにする。 以上のような制度面の改革だけでは不十分で、教育改革の精神的基礎として「独立自尊」と「自 由」の精神を置くべきであると考える。 〔キーワード〕組織の盛衰、独立自尊、大正自由教育、教養教育 はじめに この際、特に強調しておきたいことは、歴史 に学ぶということである。「真の改革は復古に 教育問題については誰もが一家言を有してい 始まる」といわれているが、わが国の明治維新 るといわれている。筆者は特に教育学の専門家 も王政復古にはじまり、次第に近代的改革につ ではないが、旧制の小学校、中学校、高等学校、 き進んで行った。現在教育改革が強く叫ばれ、 大学で学んだ最終から2年前の卒業である。こ 大学改革も国立大学法人化をはじめ制度的には ういった体験もふまえながら、現在進められて 大きく変革がはかられている。しかし、どのよ いる教育改革のあるべき方向について筆者なり うな教育改革を行うのか、その全体像がよく見 の試論を述べたいと思う。 えないのがいつわざる現実である。このような * Masamichi NAGAHATA 福祉心理学科(Department of Social Work and Psychology) 75 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) 状況にあっては、先に述べた歴史に学ぶという この度の敗戦はアメリカの物量に敗れたとの ことがわれわれに大きな手ががりを与えてくれ 認識が国民共通のものとなり、全力をあげて経 る。 済復興にとりくんで行った。昭和31年(1956年) には「もはや戦後ではない」と経済白書に示さ 1.明治維新以来の時代の流れ これからの教育改革の方向を歴史に学ぶには、 れ、高度経済成長が軌道にのり、わが国は貧困 から解放され、一億総中流化が実現した。そし て平成元年(1989年)がバブルのピークで、平 大きく明治維新以来の時代の流れをふり返る必 成2年(1990年)にバブルが崩壊した。平成3 要がある。 年(1991年)にはソ連邦が解体し、米ソの冷戦 の幕が閉じ、社会主義の理想は失敗に終わって 40年の周期 わが国は明治のはじめから、大凡40年を周期 として大きく変貌した。 しまった。しかし、わが国の不況は平成15年 (2003年)の現在に至っても好転せず、第二の 敗戦といわれている。この苦境から脱却するた め、政治改革、構造改革、教育改革が強く叫ば 明治維新でわが国は近代化のスタートを切っ れ、さまざまな試みがなされているが、好転の た。富国強兵をスローガンにし、日清、日露の きざしは未だ見えないというのが現状である。 戦争にも勝利をおさめ、明治40年頃には幕末の 開国以来の懸案は殆ど解決された。この間、明 治22年(1889年)に憲法発布、翌23年に第1回 社会の停滞と道徳の頽廃 明治になって以降の文明開化の進展と共に、 議会が開会され、明治27年に不平等条約の改正 わが国の道徳的な頽廃が進んで行ったことに多 が調印され、明治32年(1899年)より施行され くの人が危惧を抱くようになった。新渡戸稲造 た。 が明治32年(1899年)に英文で「武士道」と題 する著書を発刊し、わが国の実践的道徳論であ この時代の前半は大正デモクラシーの時代で った武士道が消滅しつつあることを嘆いている。 政党政治が実現した。そして大正3年(1914年) 新渡戸によると、武士道とは武士が職業におい から大正6年(1917年)の第一次世界大戦は空 て、また日常生活において守るべき道であり、 前の軍需景気をわが国にもたらし、バブルの時 武人階級の身分に伴う義務、つまり日本のノー 代であった。しかし、戦後の反動不況、大正12 ブレス・オブリージュであった。このように日 年(1923年)の関東大震災で打撃をうけ、昭和 露戦争の少し前から武士道というわが国の道徳 4年(1929年)10月24日のウォール街の株式大 。 体系は崩れつつあった(Nitobe, Ⅰ, 1899) 暴落でわが国も世界恐慌の大波にまきこまれ未 しかし、その欠陥がいよいよ目立って来たの 曾有の大不況となった。将来の展望が見出され は大正の末からであった。竹山道雄はその著 ない中、昭和6年(1931年)に満州事変に突入 「昭和の精神史」において、昔の日本人を支え し、15年戦争を戦い、昭和20年(1945年)に敗 ていた精神的体系が少しづつ崩れはじめ、大正 戦となり、明治以来の植民地をすべて失い、窮 の末から昭和のはじめにかけて、それまで抑え 乏のどん底に陥ってしまった。 こまれていた人間性の欠陥、邪悪なものがとき 放たれたと述べている(竹山、1956) 。 76 私の教育改革論 そして、第二の敗戦といわれる現在において、 病の原因は三つあり、三つしかないと述べてい 事態はより深刻である。政治家、官僚、経営者、 る。第一は「機能体の共同体化」、第二は「環 さらには学者、法律家、医者など、指導的立場 境への過剰適応」 、第三は「成功体験への埋没」 にある人々の道徳的頽廃が日々報じられている。 である(堺屋、1993) 。 結局、第一の敗戦においても、第二の敗戦にお いても、転落の歴史の背景に道徳的緊張の消失 がみられるのである。 機能体の共同体化 組織は一度つくられると、組織がつくられた 明治に比べ指導者の質・能力は現在のほうが 目的とは別に、構成員の組織人としての幸せを 衰えているといわざるを得ない。しかし今更 追求するという組織自体の目的をもつようにな 「武士道」を復活できるわけはない。しかし る。そして組織体が構成員共同体になってしま 「公のために最後のところで踏みとどまる強固 う。この構成員の仕合せの追求というのは、生 な自律の精神」を政治家や官僚のみでなく、経 活者としての幸せではなく、組織人の幸せ、つ 済人、医者、教育者、そしてジャーナリストに まり組織内での公平性と安住感の充実、権限の も同じく求められる。社会のそれぞれの分野で、 拡大および外部に対する格好良さなどの追求で せいぜい二割の人間がこのことを心がけるなら ある。しかも世の中から好意をもって迎えられ ば回復できないことではない。このように齋藤 る改革の形をとって共同体化が進められる。京 健はその著「転落の歴史に何を見るか」で述べ 都大学の教授任免をめぐる大学の自治の確立に ている(齋藤、2002)。これからの教育改革に 寄与したと語られる沢柳事件などはそのよい例 あたって、このことを念頭においておく必要が である(福西、1984)。沢柳政太郎は大正2年 ある。 京都大学総長に就任したが、研究業績に乏しく とも教授の地位を保障していては大学の権威が 2.組織の盛衰 失われるとして七人の教授の依願免官を求めた。 しかし教授団は教員任免に関する慣行を無視し 第一の敗戦、第二の敗戦といった転落の歴史 たとして強く反対し、沢柳はその混乱の責任を の背後に道徳の頽廃がみられたが、いま一方組 とり大正3年にその職を辞した。これ以来、人 織というものの盛衰の問題があることに注目す 事に関する教授会の自治が認められるようにな る必要がある。 った。このことは大学自治の確立といわれるが、 一定の目的をもって、その目的を達成するた めに組織がつくられる。新しい大学、新しい高 人事を組織の構成員だけで決めることは、大学 という組織体の共同体化に他ならない。 校などがそれにあたる。また文部科学省、教育 共同体化の尺度として、①年功人事、②情報 委員会、そして教職員組合も立派な組織体であ の内部秘匿(とくに不祥事や内紛などは外部か る。新しくできた組織体は当初は大きな業績を らの批判をおそれて内部で秘密に処理する)、 あげるが、一定の年月が経つと発足当初の輝き ③総花主義(集中の不能)があげられる。 がなくなりマンネリ化し、ついには滅びざるを 得なくなってしまうのはどうしてであろうか。 環境への過剰適応 それには組織の「死に至る病」が発生するから ある環境に完全に適応した組織は、環境が変 であると堺屋太一は指摘している。そしてこの 化しても改革できず、むしろ環境変化とは逆の 77 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) 方向に走ってしまう。 をはかろうとした。そのことは陸軍という組織、 海軍という組織が共同体化した端的な証拠であ 成功体験への埋没 る。このため外交により日本に有利な政戦略的 組織はどうしても成功体験に溺れやすい。成果 環境をつくり出すよりも、逆の環境に陥ってし が思わしく上がらなくなると、状況が変化して まい、第二次大戦を迎えるに至ってしまった。 いるにも拘らず、過去の成功体験に学ぼうとし このことは日本の国家指導組織に欠陥があった て、かえって傷を大きくしてしまう。 ことを示すとともに、国家的見地に立って大局 以上のように組織の死に至る病に三つの要因 があげられるが、その中でも組織の共同体化が から判断できる指導者を養成する上での教育に 失敗したことを意味している(黒野、2002) 。 一番おそろしい。新しくできた大学も最初は建 それでは戦後から第二の敗戦に至るまでの経 学の理念に輝いているが、やがてマンネリ化し 緯はどうであっただろうか。敗戦後の極度の窮 てしまう。教育改革の問題を考えて行くに当っ 乏から立ち上り、経済の再建をはかり、さらに ても、組織の死に至る病いの問題を常に念頭に 所得倍増を目ざした時期は明治維新後の発展を おいておく必要がある。 思わせるものであった。しかし、国家的指導者 の養成をはかる教育システムについては戦前と 二度の敗戦と組織の盛衰 基本的に同一であった。戦前の軍官僚の養成機 日露戦争の勝利によって明治の建軍が立派に 関であった陸軍士官学校、陸軍大学、海軍兵学 なしとげられたことが示された。しかし、新渡 校、海軍大学は消滅した。しかし文民の養成シ 戸稲造が指摘しているように日露戦争の少し前 ステムは戦後の六三三四制の学制改革はあった から武士道というわが国の道徳体系が崩れつつ ものの本質的には戦前と同じであった。官僚の あった。その一つのあらわれとして日本海海戦 養成も戦前の高等文官試験が公務員試験に名称 に大勝利した連合艦隊の旗艦であった戦艦三笠 は変ったが、その性質は何の変更もなかった。 が凱旋後間もなく明治38年(1905年)に佐世保 戦後に政党政治が復活したが、官僚から政治家 軍港で爆沈するという大事件がおこった。その に転向するのが主流となり、政党政治とはいえ 原因は水兵が艦内の弾薬庫の近くでかくれて酒 その実質は官僚による統治で、このことも戦前 盛りをし失火したためであった。さらに大正元 と本質的に同じであった。その結果、各省ばら 年(1912年)神戸港で同艦の一乗組員が上官に ばらの政策が打ち出され、国家的見地に立って 対する怨恨から火薬庫爆発を行った。しかし沈 大局から判断することができなかった。これは 没には至らなかった。かかる事故は海軍組織の 各省がそれぞれの組織の利益の極大化をはかる 腐敗のあらわれである(吉村、1979) 。 ということを意味している。各省の高級官僚が 日露戦争後第一の敗戦に至るまで日本の国策 接待されることに明け暮れ、退職後の天下りポ は国家を安全に発展させることを第一に考える ストの増設に狂奔するようになってしまった。 国家意思を形成することが遂にできなかった。 その結果、バブルの消滅と共に長期の低迷に悩 とくに陸軍と海軍とがそれぞれの軍備建設を最 まされるという第二の敗戦を迎えるに至ったの 優先に考え、陸海軍はそれぞれ最大の敵を想定 である。 しそれに備えようとした。陸軍はロシヤ(ソ連) を、海軍は米国を仮想敵国として軍備の極大化 78 以上の二つの敗戦をふまえ、これからの指導 者の養成をいかにすべきか、教育改革にあたっ 私の教育改革論 て十分考慮に入れておく必要がある。 中心であった。学生は大学予備門で外国語をみ っちり学び、外国語で行われる大学の講義を理 3.教育改革の進め方についての私案 現在、教育改革が大きな課題となり大学以下 解するのに不自由はなかった。大学卒業後、外 国へ留学しても語学で不自由しないだけでなく、 大学で教わる教育内容も国際的レベルであり、 すべての学校のあり方について変革が進められ 留学して直ちに大きな研究業績を上げることも つつある。例えば国立大学の国立大学法人化、 できた。このように考えると研究大学院大学で 公立の中高一貫校の新設、小学校の学区制の見 英語による講義が日常的であるというのは、そ 直し、などが進められている。しかし、どのよ うむつかしいことではないと思われる。このよ うな考えに基づいた改革なのか、そして将来像 うにすれば外国からの留学生も日本語の壁でつ をしっかり見据えての改革なのか、現時点では まづくこともなくなる。そして、かつての大学 明確なものは打ち出されていないように思える。 予備門になるのは四年制の教養大学ということ はじめに述べたように真の改革は復古にはじ になる。 まるといわれている。そこで私は大学改革は明 治のはじめに戻るべきである、また初等中等教 わが国の四年制大学は、当初前期二年間の一 育は大正自由教育の考え方を改めて見直すべき 般教養と後期二年間の専門教育が行われていた。 である、と考えている。勿論、明治・大正にそ しかし、その後の大学の教育課程の自由化で、 のまま戻るというのではない。教育改革の今後 一般教養の内容は四年間に分けて教えればよく、 の方向について明治・大正の考え方を改めて見 専門科目も一年次から履修できるようになった。 直して見ようということである。 このようにして一般教養はなし崩し的にうすめ られて行った。戦前においては旧制高等学校に 大学改革 現在の四年制大学は目的によって幾つかの類 おいて三年間の教養教育が行われていた。この ことについて、かつての卒業生からなつかしさ 型に分ける必要がある。さらに学部を有しない を伴ってその良さが今も語られている。しかし、 大学院大学の独立も念頭においておく必要があ 果して旧制高校でそれほど優れた教養教育が行 る。 われていたのであろうか。 ①旧制高校の教養教育の問題点 研究中心の大学である。これは結局大学院大 旧制高校の教養教育の理念はドイツの大学に 学になる。そこでの研究教育は国際水準のもの その源流が求められる。ドイツの大学において でなければならない。そしてその大学では多く は、1810年のベルリン大学の創設を起点として、 の講義が英語で行われる必要がある。そのよう 神学部の凋落とひきかえに、教養理念と大学を な大学であれば外国から優れた研究者を招き、 結びつける哲学部の興隆が顕著となった。法学 研究や教育に無理なく従事してもらえる。 部や医学部など、現実にはその大半が就職志向 明治のはじめ、帝国大学では外国人教師が教 型の学部の出身者も、教養理念を揚げて哲学部 育研究の指導を行った。当然その外国人の母国 をその顔とする大学制度の恩恵に与るようにな 語で教育が行われた。学部によって外国語は異 った。法学部や医学部で学んで、高級官僚、裁 なっていたが、医学はドイツ語、工学は英語が 判官、医師などの職業についた者は、その実態 79 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) がどうであれ、単に専門的知識や技術を身につ けるというだけでなく、学問に親しむことを通 養を確立して行く必要がある。 留学生として外国で学ぶ時、自国の文化も、 して、教養を身につけた者であるという社会的 自国の芸術も知らないという現在の状態は異常 評価を獲得することができた(野田、1997) 。 としか言いようがない。西欧の学問、西欧の芸 わが国においては、ドイツの大学の考え方を 術の真髄を知ることは大切である。しかし、そ ほぼそのままとり入れ、当初は大学予備門・大 れと同時に国文学や漢学もやはり必要である。 学、ついで旧制高校、帝国大学という形で実現 芸術も邦楽や日本舞踊や仕舞も身につけるべき されて行った。そして教養教育は主として旧制 である。また古来から文武両道といわれるよう 高校で担われた。しかし大部分の高校生は教養 に武道も身につける必要がある。結局これは、 教育に同調はしても、それを内面化してはいな 明治10年ごろまでに誕生した知識青年の姿であ かった。教養はアクセサリーのように手段的に る。長じて洋学を学んでも、子どもの頃に漢学 利用された。しかも旧制高校の教養主義は自国 や武道を叩きこまれていたので、西欧文化を吸 の文化とはほど遠い西欧中心の文化を学ぶこと 収するときに古風な教養が基礎にあるという強 に重点がおかれ、内面化がさらに困難であった。 みがあった。旧制高校の教養教育にはその基礎 (竹内、1999) 。 真剣にギリシヤ・ローマの古典を学び、さら がなかったのが大きな欠点であった。 新しい教養大学で教える必要のある領域は、 にその後の西洋哲学を自分のものにしようと悪 文科、理科、社会科学、語学、音楽、美術、武 戦苦闘し、結局は生前に一冊の著書も残すこと 道、体育という広い領域である。このようなカ ができなかった旧制一高・ドイツ語・哲学教師 リキュラムを組むことができるのは、現在の教 の岩元 禎はそのよい例といえる。漱石の「三 養学部では不可能でむしろ教育学部の方が適し 四郎」の広田先生のモデルではないかといわれ、 ている。これからの教養教育のモデルを今の教 広田先生のニックネームの「偉大なる暗闇」と 育学部をイメージしながら描くことで、あるべ いう尊称を岩元は学生から奉られていた(高橋、 き新しい教養大学の姿を具体化することができ 1984) 。 ると思われる。 ②新しい教養大学のあり方 現在、アメリカにおいても教養教育は必ずし 新しい教養大学とはどのような大学であるべ もうまく行っていない(Bloom,A,1987)。そ きかの具体的イメージと、これからの教養教育 れでも教養教育の重要性はくり返して強調され を支える基本理念についてここでふれておくこ ている。 とにする。 b)これからの教養教育の基本理念 a)新しい教養大学 まず、戦前の旧制高校の教養教育の歪みに思 いを致す必要がある。最大の問題点は、わが国 これからの教養教育は前述のように幅広い領 域を含む必要があるが、そもそもの基本理念は どうあるべきであろうか。 の文化に根ざさない西欧中心の教養主義は結局 明治以来の西欧文化の受容にあたって、最大 身につかなかったということである。これから の課題は自我の確立、個人の自立の問題であっ は、真剣に自分で考え、自分の問題として取り た。 くみ、社会に出てからもリーダーとしての見識 社会は個人から成り立っており、それぞれの をもって現実にたち向かって行くという真の教 個人は社会の構造、運営、将来について責任を 80 私の教育改革論 持つものとして行動していることになっている。 ろがあり、道徳に至る良心には十分な信頼性が しかしこのような意識は明治以降に西欧から輸 ない。一神教徒は自律的であるのに対して多神 入されたものであると阿部謹也は指摘している。 教徒は他律的とならざるを得ない。一神教徒の 現実の日本人の多くは、社会を構成する個人と 道徳心は自己の良心より発するのに対して、多 してよりも、「世間」の中にいる一人の人間と 神教徒の道徳心は学習と教育によって養われる。 して行動している。しかも自分が「世間」をつ 道徳は教育の成果であるというのが東北アジア くるのだという意識を持ってはいない。自分は における牢固とした信念なのである。それを早 「世間」に対して受身の立場に立っており、個 くから体系化し実質化したものが儒教である。 人の行動を最終的に判定し裁くのは「世間」だ その体系化の柱となる原理は、子孫が己の依り とみなしている。そして「世間」のルールは慣 どころとする祖先への崇拝である。 習そのものであり、何ら成文化されておらず、 儒教が朝鮮半島や日本に伝来したとき、それ 自分が「世間」の中に生きていることすら日常 は己のありかたを映す鏡のようなものであった は意識されていない(阿部、1992) 。 ので、抵抗なく受け容れることができ、儒教文 西欧において近代的個人が生まれたのは十二 化圏が成立した。このような儒教的考えが千五 世紀以降であった。絶対的な神の前で告白し、 百年の長さに亘って刷りこまれて来たので、西 自分の行動をその罪の意識に基づいて正して行 欧的自我の確立にもとづく「自由な個の自覚」、 くことによって、西欧の近代的個人が生まれた。 「自分自身を律す」ということを聞いても、空 そしていかに生きるべきかということが人生の しく響くだけで、知として理解するに過ぎず、 課題となった。このいかに生きるかということ 実感は得られないのである(加地、2001) 。 が教養の前提なのである。しかし、日本の「世 以上のように、いかに生きるべきかの問題に 間」の中で生きていくというだけであれば、西 対して、西欧的な自我の確立を通してではなく、 欧的教養は殆ど必要がない(阿部、2001) 。 東洋的な外の規範を模範として学習して行く方 現在の日本人も本当のキリスト教徒でない限 り、絶対的な神の前での告白は行ってはいない。 がわれわれに適しているとすれば、今後具体的 にどうして行けばよいであろうか。 したがって殆どの日本人は西欧的な近代的個人 この問題に関連して苅谷剛彦は「個人」と になり得ない訳である。それでは、われわれは 「自己」を分けて考える必要のあることを提唱 いかに生きるべきかの課題にどう対処すればよ している。「個人」とは社会の機能的な一単位 いのであろうか。 であるのに対して、「自己」はもっと文化的・ 加地伸行は、東北アジアという儒教文化圏で は個人の良心に依るのではなく、外的な道徳的 ありかたを学習するというのが道徳論の組み立 社会的・心理的なもので、自分という存在を自 分自身がどのように見なすかに関係している。 「個人」は選挙の時の一票の持ち主であり、ま てであるとしている。内発的でなく、外の規範 た職業人としての単位である。成人後の「個人」 を模範として学習してゆくということなのであ としての自立を目ざす時、個人への適切で適度 る(加地、2001) 。 な介入により、社会人としての能力を身につけ われわれのような多神教徒においては、神に させることは不可欠である(苅谷、2003) 。 対する畏れがあることはあっても、一神教徒ほ いま一方の「自己」は自分をどのように自分 どの絶対的なものではなく、神を畏れざるとこ として見なすかにとどまらず、道徳の担い手で 81 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) あることが避けられない。従って外の規範を模 教員の任期制が提唱され、一部の大学で実施に 範として教えて行くことが必要となる。教養の 移されている。現在のところ若年教員に限られ 基本理念は、「個人」としての能力をしっかり ている。大学教員の人事制度の改革の最重要問 身につけさせ、規範の学びを通して「自己」の 題は大学という組織の共同体化をいかに防ぐか 確立をはかることであるといえる。 にある。現在のようにある大学に助手あるいは 講師として採用されると、年功序列によって助 実務大学の特徴は研究大学と異なり、日本語 教授、教授と昇任して行く制度は共同体そのも で専門教育をうけることができる点にある。現 のである。大学教員の人事制度の改革に当り、 在の四年制大学がほぼこれに当る。そして教育 上記のような直進する昇任をやめることと、イ の目的は社会にでてすぐに役立つ専門的知識技 ンブリーディング(自大学出身者を教員に採用 能の教育に重点がおかれる。したがって基礎的 すること)をできるだけおさえることが何より な研究は実務大学では行われない。 重要である。 また語学や一般教育も行われる。それも専門 年功で直進する昇任制度を改めるには、昇任 科目の理解に役立つことに重点をおくようにす する場合には他大学に移らねばならぬようにす る必要がある。実務大学では一般教育を教える ることである。同じ大学にいて講師から助教授、 教養教育の担当教員を必ずしも置く必要はない。 助教授から教授になることを中止するわけであ さきに教養教育の基本理念はいかに生きるべき る。しかし、このことがうまく行くためにはイ かという問いに対する答えであると述べた。そ ンブリーディングをできるだけ抑える必要があ れであるならば、専門科目の担当教員もその学 る。 問を通していかに生きるべきかという問に答え インブリーディングは欧米諸国では組織を腐 ているのである。そのことを学生達に伝えれば 敗させるということが常識となっている。例え 良い。どのような学問でも社会との接点をもっ ばハーバード大学経済学部の30人の正教授のう ており、社会の中でそのあり方が問われている。 ちハーバード・カレッジの出身者は4人のみで、 専門科目の担当者達がその専門的学問を通して、 他はすべて別の大学の出身者である。コロンビ いかに生きるべきかを学生達に伝えることによ ア大学化学科ではコロンビア大学出身者はゼロ って教養教育はその実をあげることができる である。これに比べ、東京大学経済学部では (阿部、2001) 。 このように実務大学のあり方を考えて行くと、 1992年の時点で101人の教授、助教授のうち88 人が東大経済学部の出身者である。ドイツでも、 そのイメージは旧制の「専門学校」と殆ど重な 学問の活性化を保つことを目的として内部昇格 っている。旧制の高等商業学校、高等工業学校、 を禁止する「同一学内招聘禁止法」という慣習 高等商船学校などがその代表的なものである。 法が存在し、候補者は昇格の都度、他大学に移 これに比べると現在の四年制大学は専門教育の らなければならない。わが国でも自大学出身者 レベルとしてみると戦前の専門学校にも及ばな の比率は30%以下に抑えるのが妥当ではないか いように思われる。将来はもっと専門教育を充 という考えもある(益田、2001) 。 実すべきであると考えられる。 大学改革の一貫として教員の人事制度を改め ることが不可欠であるが、上記の同一学内の昇 近年、大学教員の人事制度の改革の一つとして 82 格の禁止とインブリーディングの強力な抑制が 私の教育改革論 不可欠である。このような人事制度の改革を行 京高等師範学校付属中学校の同窓の親友であっ わない大学改革はまやかしに過ぎないと筆者は た。岩崎はケンブリッジ大学留学中に親友の中 考えている。しかもかかる改革を実現するため 村春二にあて手紙を送り、「英国の学校教育は、 には、全ての国公私立大学が一斉に行わなくて 個性を尊重し、自由な雰囲気により行われ居り はならない。そのためにはある強制力をもって 候。これに反し、日本の学生が教科書の詰込主 実施することが必要であろう。 義に毒され、自主的精神を喪失し居る現況に比 するに、誠にうらやましき限りと存じ候。小生 初等・中等教育の改革 初等・中等教育の改革を考える大きなヒント は大正自由教育にあると筆者は考えている。 帰国の上は、官庁の制肘を受けざる学校を起し、 理想教育に専念してみたく感じおり候。」と書 き送っている(成蹊学園六十年史、1973)。こ の考えは終生変らず、もう一人の同級生の銀行 19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ 家今村繁三と共に、往時の夢を中村春二に託し を中心に大きな新教育運動が展開され、その波 た。岩崎と今村は運営資金を出しながら中村に がアメリカから、さらに日本にも及んできた。 何の条件もつけなかった(宮川、1996) 。 そこには、旧来の注入主義に対する批判、子ど 一方、沢柳政太郎は京都大学総長を辞任した もの個性と自発性の尊重、作業主義の強調など 後、大正6年(1917年)に自らの教育理想を実 がその特長としてみられた。これは列強諸国の 現するため成城小学校を創立した。その教育理 中では厳しい国際競争が展開され、自らの能力 念として、①個性尊重の教育、②自然と親しむ、 と意欲で生活を切り開いて行ける、現実的な実 ③心情の教育(鑑賞の教育)、④科学的研究を 業人や生活人が求められて来たことを背景とし 基とする教育、とした。しかも1クラス30名の ていた。はじめヨーロッパでは中等教育の改革 小人数主義を柱に、4年生以上は学科担任制を から始まったが、新教育は次第に初等教育に重 とった。また修身科を1∼3年では設けず4年 点が移り、新教育が世界的に展開されて行った。 生から始めたり、算術を1年からではなく2年 このような改革は大正時代にわが国に導入され から始めたり、といった実験学校的な改革を行 て行くようになった(中野、1998) 。 った。このような実験・研究的姿勢は、当時よ ①初等教育の改革運動 り名の知れた小原国芳を主事に招いたり、パー 大正元年(1912年)中村春二により成蹊実務 カーストのダルトン・プラン(児童の個性や成 学校が設立され、「自研自修」による自発性の 長段階など個人差を重視した自学システム)の 教育、個性尊重の教育が始められた。また曹洞 導入で、より顕著になった。また機関誌「教育 宗の「行」の教育による「凝念法」という静座 問題研究」を発刊し、新教育の普及にも大きな による「自奮・自発」の精神修養もとり入れら 役割を果した(成城学園六十年、1977)。なお れた。 小原国芳はのち昭和4年(1929年)に玉川学園 そして大正4年(1915年)に成蹊小学校を創 設し、中等教育段階の改革原理である「自主自 を創設した。 このような新教育は私立の学校だけではなく、 律」 、 「自奮自動」が小学校段階から実践される 師範学校付属小学校でも次第に展開されて行っ ことになった。 た。 三菱財閥の四代目岩崎小弥太は中村春二と東 しかし、このような新教育運動も大正末期に 83 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) は停滞し次第に退潮して行った。この新教育運 たといえる。 動は従来の管理主義的な訓育指導に対する自治 中学校改革の例(神戸一中の場合) の強調、教師中心に対する児童中心、教育内容 神戸一中(兵庫県立第一神戸中学校)で昭和 の注入主義的、画一的教授に対する自学・自習 3年にはじまった改革の例をここでとり上げた の慫慂など、旧教育批判に貫かれた自由教育の いと思う。なお神戸一中は筆者の出身校でもあ 主張がその基本にあった。しかし教育の自由化 る。 の名にかくれて次第に左翼思想の浸透が教職員 神戸一中は明治29年(1896年)に創設され、 の間にみられるようになった。このようなこと 初代校長は札幌農学校出身の鶴崎久米一であっ から行政当局の危険視するところとなり、新教 た。「質素剛健、自重自治」をモットーとし、 育運動もその多くが初志を貫徹できず挫折して ユニークな校風をつくり上げた。大正13年 しまうことになった。また左翼の側からも、自 (1924年)に二代目の京都大学出身の池田多助 由教育は経済的にゆとりのある中産階級以上で にひきつがれた。2年後の大正15年(1926年) ないとその恩恵が受けられず、また自由教育の に卒業生、在校生有志42名(5年生10人、卒業 主張する改革も人民の側に立つ真の改革ではな 後1−3年30人、4−5年各1人)の連名によ く、ブルジョア的と批判されるようになった る建白書(図1)が池田校長あてに出された。 (中野、1998) 。いま思えば左右の全体主義的な 潮流の中で真の自由主義が滅びて行ったと思え その要旨は以下のようであった。 「中学校の教育方針は本来低学年には他律的 るのである。 に教育し、上級に至って自律的教育にまつべき ②中等教育の改革運動 もので、本校の質素剛健、自重自治の精神もこ 大正新教育運動の中で中等教育は初等教育に れと相通じている。しかるに最近は、教師は生 比べ余り目立たなかった。その理由の一つとし 徒の献言を全く排斥し、生徒の自治は行われず、 て中等教育制度の確立が初等教育に比べずっと 教師の干渉ばかりである。例えば運動会の協議 遅れたことにある。明治32年(1899年)になり、 会、応援団の行動範囲も教師の独断で決められ 中学校令、実業学校令、高等女学校令が公布さ てしまっている。本来は生徒の立案に教師は補 れた。このような中等教育の制度は戦後の新制 助の立場に立つべきものと考えられる。また高 中学校、新制高等学校の発足までずっと変らず 等学校や専門学校への受験に当っても、教師の に続いた。 欲する所に強制的に受験させられている。さら その中で大正7年(1918年)に高等学校令が に教師の生徒に対する打擲の件では、感情にか 改訂され、七年制高等学校が発足することにな られた暴力に過ぎず、教師の人格を疑わしめる った。旧制度の中・高一貫教育である。当時、 ものとなっている。ある父兄は、この頃の学校 難関であった高等学校入試を受けなくてもよい は教師の学校であって、生徒の学校ではないと ことが、世の中で歓迎された。またこの七年制 嘆いている。昔日の本来の神戸一中の姿に戻し 高等学校は成蹊高校、成城高校といった私立の て頂きたいと一同願っている。これは神戸一中 高校に多く設けられた。大正新教育の流れは私 のためだけでなく、全社会のため、その先駆と 立七年制高校の中等教育の中に入って行くこと なるものであると信じている。 」 になった。ただ七年制高校の数は少なく、中等 これを受け、昭和3年(1928年)に当時の5 教育全体へのインパクトは余り大きくはなかっ 年生が中心となり、各年級に自治会を組織し、 84 私の教育改革論 85 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) 学校生活の一方面を専ら生徒の自律によって行 とられたと主張している(堺屋、1991)。すべ いたいと申し出た。5年級の主任教員が吟味し、 てが標準化される規格主義の徹底がその特徴で 職員会の議をへて多少の修正を加え、戊辰会 ある。教育も戦前の国民学校令による初等教育 (昭和3年は戊辰の年)と名づけて実行に移さ 公営体制がずっととられて来た。医療について れた。会長は5年級 1組組長、5年級全員が も同様で、戦後は医療保険ですべての医療行為 指導会員、4年級以下が通常会員となった。教 が規格化され、画一化されてしまった。診療報 師は顧問という位置づけであった(三村、1988) 。 酬もかけ出しの研修医でも経験をつんだ教授で 池田校長は校長に就任して間もなく、英国の も全く同額である。このような状況のため、戦 イートン校、ラグビー校、新設のアボッツホル 前に設立された独自の治療を行って来た医療施 ム校等のパブリック・スクールを歴訪した。パ 設も保険診療では認められず、結局閉鎖されて ブリック・スクールでは訓育の手段としてプリ しまった(長畑、1992) 。 フェクト制という最上級生による自治制度がと このように見てくると、戦後の民主化は社会 られていることに強い印象をうけたとのことで 主義的ないし社会民主主義的な考え方が強く、 あった。戊辰会の組織は卒業生・在校生の有志 平等化は進展したが、そのため自由は抑圧され の建白書をうけ、在校の5年生と協議して、英 たといえる。1989年のベルリンの壁の崩壊、 国のパブリック・スクールのプリフェクト制を 1991年のソ連邦解体で、1917年のロシア革命以 日本にとり入れ実現したといえる。そして戊辰 来の社会主義の呪縛から解放された。これによ 会は生徒の自治に大きく貢献した。しかし、終 ってわが国もようやく大正自由主義の時代に戻 戦後占領軍の命令により解散させられるに至っ ることができたと考えられる。 た。 こういった生徒自治の確立の動きも大正新教 育の一つのあらわれといえる。 初等・中等教育はすべての児童・生徒に関係 する問題であるので、改革には慎重さが望まれ る。全体のシステムを一気に変えるのではなく、 戦後、占領軍の指令によってわが国の教育制 少しずつ、しかしかなり思い切った転換をまず 度は大きく変えられた。教育刷新委員会がつく 一部の学校から始めて行くのが現実的である。 られ、教員の適格性が審査された。これはあく 現時点でも、学校の週休二日制に伴い、教科 までも思想・イデオロギーの適格性の審査であ 内容の削減がなされた。しかし学力低下が心配 った。また教育制度もアメリカ式に六三三四制 され、結局学習指導要領は最低限の基準である となり、中学三年まで義務教育が延長された。 と解釈が変更されようとしている。その一方、 戦後の小学校教育をよくみてみると、その基 総合的学習の時間が設けられ、現場ではどう進 本的性格は戦前・戦中の国民学校制度と余り変 めてよいか戸惑いがみられる。この時間は大正 りがないのにおどろかされる。このことは産業 新教育の合科学習とよく似ている。大正時代と 政策についても同様であったといわれている。 異なるのはこういった改革が現場の学校からで 堺屋太一によると、戦後の日本は決して自由な はなく、文部科学省から打ち出されている点に 社会ではなく、官僚主導体制による最適工業社 ある。 会で、戦前の国家総動員を支えた「昭和十六年 しかし、これからの改革の方向としては、こ 体制」ともいわれる仕組みが、戦後も一貫して のような教育内容の改革だけではなく、教育制 86 私の教育改革論 度、つまり教育の仕組みを変えて行く必要があ 近年アメリカにおいて公立学校を活性化する一 る。その中でも最大の問題点は教育委員会であ つの方法として「チャータースクール」が創ら る。とくに都道府県教育委員会は、公立の小・ れるようになった。教育委員会から出される 中・高の各学校の、教員の採用、人事、さらに 「チャーター」 (特許状)にもとづいて運営され 予算も握ってしまっている。このようなシステ る学校である。「チャータースクール」にやる ムでは官僚化はさけられず、組織は硬直し、必 気のある才能に恵まれた教師が自発的に集まっ 然的に衰退の道を辿るようになる。現にそのよ て、学力向上など独自の教育目標を定めて教育 うになってしまっている。結局、都道府県教委 委員会と契約して「チャーター」を与えられる。 の権限を分散し、下部に降ろして行く他、改革 そして公立学校の運営規制の大半から逃れる自 の道はない。しかし、これを一気にやるのは組 由を手に入れる。この趣旨に賛同した親たちが 織の崩壊を招くので、一部の学校から始めて行 子どもを入学させる。契約通り目標が達成され くのが現実的である。 。 れば契約は更新される(Nathan, J, 1996) ①初等教育の改革の方向 また「教育バウチャー」の制度も1970年頃か 初等教育では私立の小学校をもっと気軽につ ら始まっている。学校当局が親に対して子ども くれるようにすべきである。せめて戦前の小学 が学校教育を受けるために要する経費に見合う 校令の自由さに戻すべきと思う。小学校令で学 「証票」 (バウチャー)を交付し、親はこの証票 齢児童を市町村立尋常小学校に就学させる義務 を自主的に選択した学校(公立および私立)に が保護者に課せられていたが、その第三十六条 提出する。学校はこの証票を教育当局に提出し で「但し市長村長の認可を受け家庭又はその他 定められた金額の交付をうけ学校の運営費にあ に於て尋常小学校の教科を修めしむることを てる。このようにすれば公立・私立いずれの学 得」とされていた。公立学校以外に家庭でも私 校も自由に選べるようになる。 立学校でも小学校の教科を学ばせればよかった 上述のようにすれば多様な学校が設立され、 のである。このような背景があったので、黒柳 お互いが競争し、教育の質の向上がはかられる 徹子の「窓ぎわのトットちゃん」に描かれた、 と思われる。 古電車の車体を教室に使えるような自由な「ト ②中等教育の改革の方向 モエ学園小学校」が存在し得たわけである(黒 最近、公立高等学校の学区制の廃止や、公立 柳、1984)。因みに現時点においても小学校設 の中・高一貫校の設立など少しずつ改革が進ん 置基準は定められていない。ずっと以前から幼 でいる。旧制の中学校は五年制であったが、こ 稚園設置基準は定められており、私立幼稚園は の体制であれば生徒による自治が上級生の指導 戦後になって数多くつくられた。こういったこ の下に可能となり、教師の生徒指導への不必要 とは私立小学校の設置が原則として許可されな な介入を防ぐことができた。したがって中・高 いことにつながっている。 を六年制の中等教育機関として旧制の五年制中 公立小学校の学区制が一部緩和され、ある程 学のようにして行く必要がある。 度自由に小学校を選んで児童を通学させられる また教員の人事権も教育委員会より校長に大 ようになりはじめた。しかし、それだけでは不 幅にゆだねる必要がある。各校ごとに校長を中 十分で、特色のある小学校が設置できる制度が 心として明確な教育理念をかかげ、それに賛同 必要である。 する生徒を募集するようにする。さらに校長の 87 東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004) 任期をもっと長くする必要がある。公立高校の の開国以来、富国強兵を目標に外面的な近代化 校長は、現在は役所の管理職と同じ考え方で任 は著しく進んだ。今次の大戦の敗北という大き 命され、しかも年功序列で4−5年という短い な失敗はあったが、戦後の経済復興に成功し、 任期である。校長が独自のスクールカラーを打 それなりの成果が得られた。しかし戦後の発展 ち出すには10年以上、場合によっては20年は必 にもかかわらず、何か欠けたものがあるのが痛 要であろう。このようにして多様な中等教育の 感される。それにくらべ、明治の先覚者たちは 学校をつくり、教育の責任はできるだけ現場に 何か私たちにないものを持っていたように思わ ゆだね、教育委員会の役割は裏方に徹すべきで れる。福沢諭吉は明治33年(1900年)に自ら慶 ある。 應塾の修身要領を定め、その第一条に「吾党の また中・高一貫校は現在のところ普通科高校 男女は、独立自尊の主義を以て修身処生の要領 が中心である。しかし専門学科高校(大部分は となし、之を服膺して人たるの本分を全うすべ 職業高校)も中・高一貫教育にすることも試み きものなり。」と掲げた(慶應義塾七十五年史、 るべきである。戦前の実業学校は五年制で、み 1932) 。 っちりと技術教育が行われ中堅技術者の養成に また夏目漱石は大正3年(1914年)に「自己 大きく貢献した。もし六年制の専門学科高校で 本位」を提唱した。漱石は英国に留学し英文学 教育が行われるようになれば、現在の五年制の を研究したが、英国人に伍して研究することに 高等専門学校にひけをとらない教育が行われる 大きな劣等感を抱いた。しかし「自己本位」と であろう。現在、評価が余りよくない職業高校 いう考え方に立てば自己の立脚点を固めること の活性化にもつながると思われる。 ができるという考えに到達した。それまで呆然 自失していた自分が「自己本位」という言葉を 4.これからの教育改革の精神的基礎 明治のはじめから、わが国は四十年ごとに大 きな盛衰をくり返してきた。衰退期にはモラル の退廃と組織の共同体化が進展した。現在、第 自分の手に握ってから大変強くなり、彼ら何者 ぞという気概が湧いてきたとのべている(漱石 全集第十一巻、1966)。今、私達に最も欠けて いるのはこの気概ではないかと思われる。 明治以来、欧米のさまざまな文化を導入し、 二の敗戦を迎え、国としての構造改革が強く求 欧米人同様われわれも自我の確立ができたと思 められている。教育改革もその一つであるが、 っているが、果してそうなのであろうか。真の これまで主として外面的な制度面の改革しか論 自我の確立には神の前で罪の告白を続けなけれ じられてこなかった。しかし、これからの教育 ばならない。しかし、大部分の日本人にとって 改革には精神的基礎が何よりも重要である。た それは不可能である。しかし諭吉や漱石はそれ だ、この問題は複雑で、筆者の手に余る大きな なりに自己の確立をとげているように思われる。 課題である。しかし、教育の専門家ではない外 それは彼等が幼い頃から身につけていた漢学の 部の者の方が、かえってよく見えることもあろ 素養を基礎にして自己をつくり上げたからだと うかと思われる。ここで一つの試論を述べたい。 思われる。加地が述べているように(加地、 教育の精神的基礎は人格の確立にあると思わ 2001)、われわれは個人の内心の良心に依るの れる。しかも、このことは明治のはじめから欧 ではなく、外の規範を模範として学習して行く 米の文化が導入されて以来の課題である。明治 ことで「独立自尊」や「自己本位」の生き方を 88 私の教育改革論 確立して行く他はないと思われる。 さらに戦後になって忘れられていた価値に 「自由」の問題がある。戦後になって平等は達 成されたが、これは画一化を背景としたもので あった。また江藤 淳も指摘しているように言 語空間も閉ざされ自由ではなかった(江藤、 1989)。経済も例外ではなく、教育についても 画一的で自由はなかった。むしろ戦前大正時代 にこそ教育に自由があった。 以上述べたことから、これからの教育改革の 精神的基礎として、「独立自尊」と「自由」を 置くべきであると思うのである。 苅谷剛彦(2003):なぜ教育論争は不毛なのか (中公新書ラクレ88).中央公論社. 慶應義塾七十五年史(1932).慶應義塾. 黒野 耐(2002):日本を滅ぼした国防方針(文 春新書247) .文藝春秋. 黒柳徹子(1984):窓ぎわのトットちゃん(講談 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Nathan, J. (1996) : Charter schools. Jossey-Bass Inc., California(大沼安史訳:チャータースクー ル.一光社,1997) . 夏目漱石(1914):私の個人主義.漱石全集第十 一巻.岩波書店,1966,431-463頁. 〈文献〉 阿部謹也(1992):西洋中世の愛と人格―「世間」 論序説.朝日新聞社. 阿部謹也(2001):日本人はいかに生きるべきか. 朝日新聞社. Bloom, A.(1987):The closing of the American mind. Simon & Shuster Inc., New York(菅野盾 樹訳:アメリカン・マインドの終焉―文化と教 育の危機.みすず書房,1988)。 江藤 淳(1989):閉ざされた言語空間.文藝春 秋. 福西信行(1984):沢柳事件と大学自治.石川松 太郎他編:講座日本教育史第二巻.第一法規出 版,284-307頁. 加地伸行(2001):<教養>は死んだか―日本人 の古典・道徳・宗教(PHP新書181).PHP研究 所. Nitobe, I. (1899):Bushido. The Leeds and Biddle Co., Philadelphia(奈良本辰也訳:武士道.三 笠書房,1993) . 野田宣雄(1997):ドイツ教養市民層の歴史(講 談社学術文庫1263) .講談社. 堺屋太一(1991):日本とは何か.講談社. 堺屋太一(1993):組織の盛衰.PHP研究所. 齋藤 健(2002):転落の歴史に何を見るか―奉 天会戦からノモンハン事件へ(ちくま新書337). 筑摩書房. 成城学園六十年(1977).成城学園. 成蹊学園六十年史(1973).成蹊学園. 高橋英夫(1984):偉大なる暗闇―師岩元 禎と 弟子たち.新潮社. 竹内 洋(1999):学歴貴族の栄光と挫折(日本 の近代12).中央公論社. 竹山道雄(1956):昭和の精神史.新潮社. 吉村 昭(1979):陸奥爆沈(新潮文庫).新潮社. 89
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