虹 の 契 約

虹 の 契 約
旧約単篇
創世記の福音
虹 の 契 約
創世記 8 章,9 章前半
ノアの物語の後半。読んで頂いたのはその結びのピークをなす部分です。
16 節の言葉が、詩としても美しいですね。
「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き
物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
虹はもちろん、単なる物理現象です。それ自体には何の霊的な意味も神学
的意味もありません。水滴による光の屈折により人間の目には、七つの原色
の円弧として映るだけのものです。そういう意味では、ベツレヘムの星もた
だの天文学上の出来事、バプテスマの水も単なる H2O、主の晩餐のパンも炭
水化物を含む食品です。イスラエルが聖なる神との契約のしるしとして受け
とめた割礼に至っては、ほかのセム系種族も行っていた平凡な民族学的習慣
です。ただ、これらのものをヒントにして、そこに神聖なことがらを、神と
の関係を、霊の事実を人は見るかどうかです。元々、虹自体はかげろうや蜃
気楼と同じ次元の光学現象にすぎません。ところがこの場面では、箱舟を出
たノアと神の間に、七色の輪以上の美しい火花が激しく散ります。人の命と
神の慈しみについて、霊と霊の交流があった。神が虹にこめられた意味、ノ
アが信仰で受け止めた意味が、この永遠の契約のしるしでした。
前回に読んだ 7 章 12 節によると、豪雨は 40 日間続きました。大洪水はそ
の後 110 日、7 章 24 節によれば、降り始めてから 150 日の間勢いを失わなか
ったと言います。そして 151 日目に至って、ついに箱舟はアララト山系の高
地に座礁します。それが 7 月 17 日のことであったと、8 章 4 節は記録してい
ます。山々の頂が現れるまで水が退いたのは、それから 2 月半、秋の初め 10
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月 1 日でした。8 章の 1 節から朗読します。
1.神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留
め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。 2.また、深淵の源と
天の窓が閉じられたので、天からの雨は降りやみ、 3.水は地上からひいて行
った。百五十日の後には水が減って、 4.第七の月の十七日に箱舟はアララト
山の上に止まった。 5.水はますます減って第十の月になり、第十の月の一日
には山々の頂が現れた。
6.四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、 7.烏を放した。烏
は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。 8.ノア
は鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようと
した。 9.しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもと
に帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し
伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
10.更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。 11.鳩は夕方になって
ノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえてい
た。ノアは水が地上からひいたことを知った。 12.彼は更に七日待って、鳩
を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
13.ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは
箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。 14.第二の月
の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
15.神はノアに仰せになった。
16.「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさ
い。 17.すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥
も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増
えるようにしなさい。」
18.そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。 19.獣、這うもの、鳥、
地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
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ノアは 7 箇月半の箱詰めの生活から解放されて、息子や妻や嫁と共に外へ
出ました。前回 6 章 14 節以下の設計図に見たこの巨大な箱の構造が、本当に
ヘブライ語のテヴァーが表すようなただの箱だったとすれば、つまり、竜骨
のある船体構造ではない木造三階建ての箱のオバケであったという我々の理
解が正しいとすれば、そんなものが 150 日間分解せずに漂流したこと自体が、
主のなさった奇跡の御業です。これは、洪水から逃れるための人間の“避難
計画”などではあり得ないのです。しかも、その神からの指示にしても、も
しノアが、「なぜ? どうして?」と人間的に考えれば、もうその瞬間、そん
な途方もない箱を造る熱意は冷めたでしょう。でも、それをさせるものが主
なる神とノアの間にすでにあったものです。「しかし、お言葉ですから」と
言ったシモン・ペトロのことを連想させます。4 頁前のノア登場のところに
「ノアは神と共に歩んだ。」(6:9)という証言がありました。あの一言の
中には、それだけの内容を持つ交流が、この「箱」建造の背景にあったこと
が含まれていたのであります。
こうしてノアは、自分たちが神の憐れみによって生きることを許された感
謝を捧げます。それが次の場面ですが……。罪と死の支配するこの世界の中
で、なお生きることを許されている驚きを、もし私たちが知るなら、ノアの
祭壇と神の祝福が、単に古代史の挿話ではないことを実感させられます。「私
は許されて生きている!」という神聖な驚きです。
20.ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のう
ちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。 21.主は宥めの
香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い
ときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つこ
とは、二度とすまい。
22.地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
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昼も夜も、やむことはない。」
1.神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
2.地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべ
ての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねら
れる。 3.動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。
わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。 4.
ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
この 9 章 4 節がレビ記の律法の、特に異邦人の不浄と絶縁する食物規定の
根底になっています。血抜きを完全にしていない肉を食べる罪です。(レビ
7:26,27,17:10-14,19:26,申 12:16,23)
そして、恐らくご存じでしょう。“エホバの証人”の信者が輸血を拒否す
る理由にもなっています。宗教上の真剣な事柄として守っていらっしゃるの
ですから、非難したり、圧力を加えて止めさせたりできるものではありませ
んけれど、やはり、その方たちの聖書の理解が明らかにズレている……と言
うより、信仰の基本姿勢が私たちが「信仰」と呼ぶものとは違うのだと思い
ます。
血を食してはならない。注射器で血管に入れるのも血を飲むこと変わらな
い、と言うのです。モーセ律法の食物規定・清浄規定は「キリストと共に十
字架に釘づけられて廃止された」というコロサイ書(2:14)を持ち出しても、
この人たちの考えは少しも変わりません。輸血拒否者はそれ以上の論拠を持
っています。その論拠はこうです。「この『血を食すな』という戒めは、元々
モーセ律法ではない。ユダヤ人だけを律したモーセ律法が、礼拝儀式も清浄
規定も含めてすべて廃止された、というのがコロサイ書の趣旨だと解釈して
も、この創世記 9 章の規定は『モーセ律法』とは関係がない。それは全人類
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に永遠に適用される『ノア律法』―“Noachian Law”で、モーセ律法に
優先する次元的にもより高いものであり、今も厳然と生きている。その聖な
る神の掟に反抗して人の命の血を体内に取り入れるよりは、我らは死を選
ぶ。」これが「エホバの証人」の理論です。
しかし、この 4 節の言葉「ただし、肉は命である血を含んだまま食べては
ならない」に込められた主なる神の意図を、ここの文脈から冷静に考えてみ
ますと、これは人間の血を飲むことや注入することを問題にした命令として
掲げられているのではないのです。これは冒頭に「ただし」とありますよう
に、あることへの例外的特別注意事項なのです。それは、神が人にお与えに
なった全般的祝福とほとんど無制限の許容の中で、それでも人が重大なこと
に気付いて謙遜になるように、霊的“ショック信号”として人に与えられて
いるものなのです。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。」
(9:
3)つまり、青草を食べるのと同じように考えて良いのです。それはあなたた
ちの前に恐れおののくだろう(9:2)し、あなたも心を痛めて躊躇するかも
知れない。これは、そうしなければ生きられないアダムの子孫へ、「それで
も生きよ!」という許しと受け止めよ。その代わり……。これは本当は仏教
の“殺生戒”よりも厳しいもの、肉食を避けて精進する一部の仏教者の熱心
等よりもう一つ高いものであろうと思うのです。
神の憐れみとして、羊を食べ、牛を食べ、鰯と鰹とハマチを戴きながら、
それでも「この生き物の命は、私のものではない。神御自身の聖なる所有で
あるものを、恵みとして戴いているのだ」という告白を、せめて血を流し切
る度ごとに、畏れおののいて思い起こせ。言わば、霊的オブジェクト・レッ
スンです。羊や牛の屠殺の時に血を流し切る習慣自体は、多分、他の民族に
もあったでしょう。割礼と同じにです。それは古代人の経験に発する衛生の
ための配慮か、食肉の鮮度と品質を保持するための“生活の知恵”も含んで
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いたのかも知れません。けれどもノアがこの命令を命に関する霊的なショッ
ク宣言として受け止めたとき、食肉の血抜きは、霊の生き死にに関わるもの
となりました。「肉なる者よ、私の憐れみを受けつつ、せめてこの事に思い
をいたせ!」
このことは次の 10 行に、人の命の尊重を読む時に、一層はっきりとその中
心点を浮き上がらせていると思います。日本では、時々「うなぎ供養」とか
「何とか供養」の類が行われます。命あるものへのいたわりと感謝だと、言
うのですが、私には不真面目な宗教ゴッコに見えて仕方ありません。私にい
わせれば、「輸血を拒否して神の掟に服しています」とイイ気になっている
のは、結局は「うなぎ供養」の次元に留どまって、神の憐れみにも真の厳し
さにも無感覚になっているのです。
さて、血に関する厳しい命令は、本当は兄弟である人間の血を尊重するか
という問い掛け―しかも神を畏れて尊重するかということの、予告編か影
のようなものだということが、以下の 18 行から分かります。
5.また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求す
る。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間
の命を賠償として要求する。
6.人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
7.あなたたちは産めよ、増えよ
地に群がり、地に増えよ。」
8.神はノアと彼の息子たちに言われた。
9.「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 10.
あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜
や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべて
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の獣と契約を立てる。 11.わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度
と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こ
って地を滅ぼすことも決してない。」
動物の肉を食べるとき、完全に血抜きをせよ。命が神のものであることを
思い知れ、という命令は言わばヒントと前置きです。そしてノアの子孫が何
よりも、肝に銘じるべきこと、震え上がるほどのショックを得なければなら
なかったことは、「仲間の血を流す者は、神のかたちを破壊する最も恐ろし
い反逆である」(:6)ということでした。私たちは、この厳粛な神の命令が、
創世記のここまでの歴史の“結論”のように宣言されているのを見なければ
なりません。アダムの反逆……カインの流した血……レメクの復讐の歌……
洪水前夜の不法と堕落。「もうこの流血は許さない!」―それが 6 節の宣
言です。
人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって
造られたからだ。
とすると、動物を殺して食べることは、聖なる神の意志として許すが、そ
の時にせめて血を口に入れるなという 4 節の命令と、たとい熊であれ、ライ
オンであれ、人の血を流した獣は殺されるという 5 節の規定は、実際には 6
節の「仲間の人間の血を流すことは神への侮辱である」という唯一の重い命
令への、ダブル・イントロになっているのです。「肉を血のまま食べること
を主は許さない!(イントロ①)それどころか、主は獣にさえ人の血を流すこ
とは許さない!!(イントロ②)それは、神のかたちを担う兄弟の血を流すな
という一事を肝に銘じるためだ!!(歌詞の本文)
輸血を拒否するのも、シンボルとしてあながち無意味ではないかも知れま
せん。しかしそれは言うならば、イントロだけ歌って歌は歌わないのと同じ
オカシナお芝居なのです。イントロだけに徹する人は、クイズには勝てます
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けれど、カラオケは歌えない。
ここの重点はただひとつ。神のかたちであるものを抹殺すれば、自分の命
を流すだけである。これは主なる神による 2 章 27 節の再確認、再宣言です。
何より不思議なのは、これだけ恐ろしい裁きの宣言のすぐ後に 7 節からは、
命への祝福が繰り返されることです。血を流す存在となった人は、その罪へ
の裁きを宣言されたまま、憐れみを受けて生かされているのです。「洪水が
肉なる者を滅ぼすことは、あなたが地上で生きる限りは二度と起こらない。
ただし、その間にあなたはどう生きるのか?」
最後の 16 行を読み切ります。
12.更に神は言われた。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこ
しえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 13.すなわち、わたしは
雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるし
となる。14.わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15.
わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるもの
との間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて
滅ぼすことは決してない。16.雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、
神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に
心を留める。」
17.神はノアに言われた。
「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるし
である。」
「契約」―“covenant”と訳される言葉が、同等の双務契約を指すもの
ではなくて、恩恵の一方的宣言を指すことは、ヘブライ書の研究の時に述べ
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ました。ベリート
tyriB.
は神御自身による裁量ないし裁断……神自らのイニ
シャティヴによる恵みの大宣言です。「契約」の関係とは、その神の裁量の
一方的宣言に応えて服する者の信頼と従順で成り立つ関係です。とすると 12
節のお言葉はこうなります。
「ノアと家族と生き物たちよ。私はここに私自身の裁量、決定を一方的に
宣言する。この世が存続する限りこの裁量に変更は無い。その永続的裁量の
シンボルマークとして天空に“弓”を置く」虹はヘブライ語では弓と同じ「ケ
シェト」tv,q, です。
これはアダムからノアに至る、神と人間の歴史の締めくくりであります。
人は神に反抗して「血を流す者」となった。しかし、なぜか神はその人に命
を保証して、「生きよ」と宣言なさる。心ある者は、空にかかる虹を見る時
に、己が神の前にそもいかなる者であるかを、謙遜に思え。あなたは死ぬべ
き者だが、一方的に保証されて生かされている存在だ。あなたは地上で許さ
れて、目が開いて虹が見えている間に、何をなすべきか……どこへ帰るべき
かに気付け! 七色の弓は イエス・キリストの時まで、人が分かると分から
ぬとに拘わらず、ずっと変わらずそこにかかっていた。―それが創世記の
ヒントです。
(1990/08/26)
《研究者のための注》
1.ノアの「箱」(テヴァー)そのものについての観察と、私自身が記事の史実性と文学
的象徴性を、どう識別して解釈を下しているかについては、1985 年大阪聖書学院チャ
ペルでのスピーチ「ノアの箱」と、1990 年の「『神に従う人』現れる」を参照してく
ださい。
2.資料説に基づいて日数の食い違いを指摘する人もいますが、Derek Kidner は次のよう
に記事の時間的な流れを捕らえて、矛盾はないことを示しています。
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虹 の 契 約
(章説)
(出来事)
(ノア何才・何月何日)
7:11
洪水始まる。
600 才 2 月 17 日
7:12(cf.17)
40 日目までの豪雨。
600 才 3 月 26 日
7:24(cf8:3)
氾濫150日目に至る。
600 才 7 月 16 日
8:4
箱舟着地する。
600 才 7 月 17 日
8:5
山々の頂が現れる。
600 才 10 月 1 日
8:6,7
烏を放す。
600 才 11 月 10 日
8:8
鳩を放す。
600 才 11 月 17 日
8:10,11
鳩とオリーブの葉。
600 才 11 月 24 日
8:12
鳩飛び去ったままになる。
600 才 12 月 1 日
8:13
地の面が乾く。
601 才 1 月 1 日
8:14ff.
箱舟から外へ出る。
601 才 2 月 27 日
3.契約(ベリート)tyriB. に込められたヘブライ的内容については、本シリーズ、ヘブ
ライ書の福音第 18 講「新しい裁量の新しさ」と、ルカによる福音第 88 講「新しい契
約」、ガラテヤ書の福音代 11 講「アブラハムへの約束と律法」を参照してください。
4.漢字の「虹」は、蛇を表す虫偏に「貫く」意味の「工」を組み合わせて、天空を貫く
大蛇に見立てています。英語の“rainbow”は「雨弓」、ギリシャ語の《》
は「天弓」ですが、創世記が使っている
tv,q,
はまさに「弓」そのものです。人の地
上の命への一方的祝福と保証のしるしが神の「弓」であることへの興味ある観察と連
想は、Derek Kidner(Tyndale O.T.C.)の 102 頁に紹介されています。
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