1 ミクロ経済学による日本の住宅市場の分析 日本ではしばしば「マイ

ミクロ経済学による日本の住宅市場の分析
日本ではしばしば「マイホームはサラリーマンの夢」と言われる。しかし都心の土
地や住宅は高価すぎるため、多くの人々は郊外に何とか住まいを確保し、長時間の通
勤に耐えながら何十年もかけて住宅ローンを返済している。日本は人口が多く土地が
希少だからしかたがないと言う人もいるが、本当にそうだろうか。この資料では、こ
れまでに学んだミクロ経済学を活用しつつ、日本の住宅事情を分析する。
日本の住宅市場の特徴
日本の住宅は外国に比べて非常に狭いと言われることが多いが、これは必ずしも正
しくない。住宅を持家と借家に分けて一戸当たりの平均床面積を計算すると、借家は
諸外国に比べて明らかに狭隘だが、持家の床面積の差は必ずしも大きくない1。後に
解説するように、これは日本の借家が単身者向けの物件に偏っており、ファミリー向
けの賃貸住宅が少ないためである。
図表 1
住宅規模の国際比較
(A)一人当たり床面積
70
(B)一戸当たり床面積
180
(m2)
持家
(m2)
160
60
借家
140
50
120
40
100
30
80
60
20
40
10
20
0
0
日本
アメリカ
イギリス
ドイツ
フランス
日本
アメリカ
イギリス
ドイツ
フランス
(注)アメリカとイギリスは 2009 年、日本は 2008 年、フランスとドイツは 2006 年のデータによ
る。
(出所)住宅産業新聞社『2012 年版住宅データ集』173 ページ。
1
ここで言う持家や借家には集合住宅(マンションなど)も含まれている。
1
図表 2
中古住宅の年間取引数の住宅総数に対する比率
8%
7%
6%
5%
4%
3%
2%
1%
0%
日本
アメリカ
イギリス
(注)日本(2008 年)
、アメリカ(2009 年)
、イギリス(2007 年)のデータによる。
(出所)国土交通省「平成 23 年度土地に関する動向」14 ページ。
図表 3
住宅の性質の国際比較
項目
日本
アメリカ
イギリス
新築住宅に占める注文建設の比率(%)
滅失住宅の平均築後年数
72.3
27.0
28.1
66.6
80.6
(注)減失住宅とは建て替えなどの目的で意図的に取り壊された住宅を意味する。
(資料)住宅産業新聞社『2012年住宅経済データ集』、国土交通省「平成23年度土地に関する動向」。
ただし日本の持家住宅の市場にはいくつかの際立った特徴がある。第一に、日本で
は 30~40 歳代に住居を購入し、そこにずっと住みつづける人が多い。諸外国では 20
歳代で中古住宅を購入し、その後何度も買い替えてゆく人が多い。第二に、日本の戸
建住宅の中には注文建設が多く、建売住宅の比率が低い。第三に、日本の住宅の中に
は一世代のうちに取り壊されるものが多く、住宅の平均寿命がアメリカやイギリスの
1/3 から半分程度にとどまっている。
日本人の持家志向や新築志向は国民の嗜好も反映しているが、政府の住宅政策も関
係している。以下では、まず持家か借家(賃貸)かの選択に影響を与える政策につい
て考え、その後、新築住宅と中古住宅の選択に影響を与える政策について考える。
2
持家か借家か
最初に、人為的な住宅政策が行われない自由な市場において、持家と借家の比率が
どのように決定するかを考えておこう。図表 4 は、都市近郊の一地域における住宅の
貸借市場の需要曲線と供給曲線を描いたものである。この図の縦軸は借家の賃料を表
し、横軸上の原点 O からの距離が借家の数を表している。この地域の住宅の総数は
OH で、これは一定(定数)だと仮定する。
図表 4
借家の需要と供給
家
賃
a
S
E
P0
b
D
O
I
借家
H
持家
この地域は都心への通勤・通学圏内なので、家賃が下がれば住居を借りて移り住ん
できたいと考える人は多い。したがって借家の需要曲線 D は右下がりである。また、
この地域に住居を所有して居住している人は、賃料が十分に上昇すれば住まいを賃貸
しし、賃料が安い他の地域に移り住むことを考えるはずである。そこで借家の供給曲
線 S は右上がりになっている2。この図では E 点が均衡点である。家賃は P0 円、借家
2
賃料が上がっても自宅を貸し出す人は少ないと思うかも知れないが、後述するように、日
本の住宅保有者は中高年層に偏っている。定年退職した後にもとの勤務先の近くに住み続け
る必要はないし、子どもが独立すると既存の住まいが大きすぎて不便になることもある。そ
のような場合、自宅を売却するか賃貸しし、生活に便利な地域のコンパクトな住宅に移り住
3
の数は OI となる。消費者余剰は aP0E、生産者余剰は P0bE、総余剰(社会的余剰)は
abE で囲まれた三角形の面積である。
住宅に関する政策の第一の例として、借り手の権利を保護する政策について考えよ
う。日本には借地借家法(しゃくちしゃっかほう)と呼ばれる法律がある。借地借家
法や過去の判例3では、借り手が社会的・経済的な弱者だと考えられ、貸し手に比べ
てその権利が強く保護されている。通常、土地や住居の賃貸借は期限を定めて契約さ
れるが、日本の伝統的な契約では借り手が契約更新の権利を事実上保証され、地主や
家主が特段の理由(家賃の長期滞納や建物の深刻な破損など)なしに契約更新を拒否
することは難しい。また、契約期間中に近隣の不動産の価格が上昇しても、更新時に
地代や賃料を十分に引き上げることが難しいことも多い。
上記の政策はもともと低所得者の生活支援を意図していたが、それと逆の効果を持
つ可能性もある。土地や建物などの不動産の賃貸借においては、貸し手と借り手の間
に深刻な情報の非対称性(情報の不完全性、テキスト 7 章)が存在する。通常、貸し
手は物件の品質を熟知しているが、借り手に関する情報は少なく、どの顧客が賃料を
滞納したり不動産を毀損したりするかを事前に見抜くことは難しい。借り手重視の保
護政策の下では借り手に落ち度があっても簡単に追い出せないので、不動産の所有者
は物件の貸し出しを躊躇するようになる。日本の場合、住宅の賃貸借の市場はある程
度機能しているが、土地の賃貸借はきわめて不調である。これはアパートやマンショ
ンに比べると、土地を貸して返ってこなかった時の損失が大きいためである。
図表 5 は、
借り手の過剰保護が住宅の賃貸借市場に与える影響を描いたものである。
過剰保護がない場合に家主が適当だと考える家賃が毎月 100,000 円だとしよう。しか
し家賃の取りはぐれや契約更新時に賃料引上げを拒否される可能性がある場合、家主
はこれらのリスク分を上乗せした家賃(たとえば 120,000 円)で契約しておく必要が
ある。したがって借り手が過剰に保護されている場合、それがない場合に比べて供給
曲線が上方向にシフトする。これは家主にとっての主観的な限界費用曲線に相当する。
借り手保護の下での均衡点は E’点である。契約上の家賃は P1 円だが、貸し手が予
想する受取額は P2 円である。借り手保護がない場合に比べると、契約上の家賃は高
くなり、貸し手が予想する受取額は低くなる。これは通常の商品やサービスに間接税
を課した場合とまったく同じである(テキスト 104~105 ページ)。
むことのメリットは大きい。ここでは住宅の総数が一定だと仮定しているが、家賃が高くな
れば自宅をアパートやマンションに建て替える人も現れるはずである。
3
判例とは裁判所の過去の判決のこと。先例としてその後の判決に一定の影響を与えるため、
法律の一部に近い役割を果たす。
4
図表 5
政策による持家バイアス
S’
家
賃
a
S
E’
P1
E
P2
d
c
b
D
O
I’
借家
I
H
持家
借り手の過剰保護がない場合の取引量が OI だったのに対し、借り手保護政策の下
での借家数は OI’である。すなわち、借家の市場が縮小し、持ち家志向が進む。この
結果から分かるように、借り手の過剰保護は借り手自身の利益を損なう可能性がある。
総余剰への影響はどうだろうか。借り手の過剰保護が行われない場合と比べると、
dEE’で囲まれた三角形の面積分の余剰は確実に減少する(死荷重)。これも間接税の
ケースと同じである。やや微妙なのは、bcE’d の平行四辺形の分である。家主が予想
以上の家賃を回収できればこれらは生産者余剰の一部になるが、その可能性は低いと
思われる。なぜならば、情報の非対称性が存在する市場において貸し手と借り手のど
ちらかの利益を優先する政策が実施された場合、テキスト 186 ページ以下で解説され
ている逆選択の問題がいっそう悪化してしまうからである。
図表 5 において供給曲線が上方向にシフトしたのは、家賃を滞納したり立ち退きを
拒否するリスクの高い悪質な借り手とそうでない良質な借り手を識別できず、貸し手
が平均的な借り手を想定して賃料を設定するからである。しかし良質な借り手にとっ
てそのような賃料は不当に高価だから、できるだけ早く賃貸住宅から卒業し、借金を
してでも自宅を購入しようとするだろう。するとリスクの高い借り手だけが賃貸住宅
の市場に残り、家賃滞納や立ち退き拒否の確率がさらに高まってしまう。その場合、
平均的な家主は P1 円未満の賃料しか回収できず、図表 5 の bcE’d の一部ないし全部が
5
失われてしまうだろう。
逆選択の問題は、不動産賃料の相場を引き上げるだけでなく、市場に供給される土
地や住宅の性質にも望ましくない影響を与える。上記のメカニズムによって借り手の
平均的なリスクが高まると、品質の良い不動産の持ち主ほど賃貸しをためらうように
なり、欠陥住宅や手入れの悪い住宅ばかりが市場に集まるようになる。これはテキス
ト 186 ページのレモン市場そのものである。
また、家主が経済的な理由から賃貸しせざるをえない場合でも、できるだけリスク
が低いと思われる借り手に貸そうとする。家主にとってリスクが低い借り主とは、信
頼できる身元保証人がおり、短期間のうちに退去する可能性が高い人である。このよ
うな条件に合致するのが大学生や単身の若年サラリーマンだが、彼らは広い住居を必
要としないから、自宅(の一部)を単身者用のアパートやマンションに建て替えるな
どして対応する必要がある。そうしたことが行われると、単身者向けの賃貸住宅だけ
が流通し、ファミリー向けの貸家の市場が消失してしまう。先に日本において借家の
面積が非常に狭いことを見たが、その背景にはこうした事情がある。
政府関係者の間でも、借り手の過剰保護が弊害を生むことは理解されている。その
ため、1992 年の借地借家法制定時に定期借地権の制度が規定され、2000 年には定期
借家権(定期建物賃貸借制度)の制度も導入された。これらの制度の下では、賃貸契
約書に明記することにより、貸主が契約終了時に更新を拒否することができる4。2007
年には事業用の定期借地権の期間が延長され、50 年の定期借地権つき分譲住宅など、
それまで存在しなかった物件の販売も可能になった。これらの法改正によって土地や
建物の有効活用は少しずつ進みつつあるが、既存の契約には適用されないため、今日
でも定期借地や定期借家の数は限られている。
次に政府による持家奨励策について考えよう。先の借地借家法にも表れているよう
に、政府の住宅政策の多くは、少なくとも見かけ上は弱者保護を意図している。政府
が経済的弱者の保護のために個別の商品やサービスの市場に介入することは基本的
に望ましくなく、個人や個々の世帯を直接支援する政策のほうが効果的である 5。し
かし不動産に関してあえてそうした介入を行うとしたら、住宅を購入する余裕のある
相対的に裕福な人々ではなく、持家に手が出ない賃貸住宅の借り手を支援するのが筋
だろう。先の借り手保護政策はそれを意図したものだが、その一方で、日本政府は持
家の購入も促進している。
多くの人々は長期のローンを組んで土地や住宅を購入するが、住宅ローンには手厚
い税額控除制度が存在する。2014 年 3 月までは、住宅ローン残高が一定額を超える場
4
賃貸住宅に住んでいる人は自宅の契約がどのようになっているかを確かめてみるとよい。
5
消費税率引き上げに伴う軽減税率導入に関する議論を思い出すこと。
6
合、入居時から 10 年間に渡り、最大で 200 万円(新築住宅や特別な認定を受けた住
居の場合は 300 万円)の税額控除を受けることができた。「所得控除」が納税額算定
の基礎となる所得額の減額を意味するのに対し、「税額控除」は計算後の税額から差
し引くため、減税効果が非常に大きい。2014 年 4 月の消費税引き上げに伴い、最大控
除額が 400 万円(新築や特別な住宅の場合は 500 万円)に引き上げられ、税額が控除
額に達しない人には現金を給付する制度も導入された。
税制に関するやや難しい問題として、持家の帰属家賃の非課税問題がある。持家の
帰属家賃とは、持家の居住者がそれを賃貸しした場合に得られていたはずの家賃収入
を意味している6。土地や住居の所有者がそれを賃貸しして所得を得ると、それに対
して所得税や住民税が課されるが、自宅として住んでいる限りは非課税である。また、
賃貸住宅に住む人は、所得税や住民税を課された後の可処分所得の中から家賃を捻出
する必要があり、家賃分の所得にも課税されているが、持家を保有した場合の帰属家
賃は非課税である。持家と借家の選択に関して税制が中立であるためには、持家の帰
属家賃に課税するか、賃貸住宅の家賃を所得から控除するかのいずれかが必要になる。
しかし現状はそうなっておらず、早期に持家を購入して住み続ける方が有利である。
持家を奨励する税制の効果は借地借家権の効果と同一である。住宅ローン減税や帰
属家賃の非課税によって持家の取得・保有コストが低下することは、それを貸し出す
ことの機会費用が高まることを意味している。したがって持家の所有者はそれまでよ
り多くの家賃が得られない限り自宅を貸し出そうとしなくなり、図表 5 と同様に供給
曲線が上方向にシフトする。その結果、家賃が上昇して借家の数が減少し、社会的余
剰は減少する。それに先の逆選択の問題が加わると、賃貸住宅市場はいっそう低迷す
ることになる。
上記のような問題があるにも関わらず、政府が持家奨励策を続けているのはなぜだ
ろうか。第一の理由は、それが不況時の経済対策として効果的だからである。企業の
設備投資と並び、家計の住宅投資は景気の動向に大きな影響を与える。住宅投資が増
加すると、零細な建設業者や不動産業者が潤うだけでなく、家具や家電製品などに幅
広い派生需要が発生する。これまで不況になるたびに住宅ローン減税が強化され、好
況時にそれが十分に縮小されなかったため、減税措置がしだいに肥大化してきた。第
二に、日本ではすでにマイホーム購入が庶民の夢として定着してしまっているため、
その弊害にも関わらず、持家奨励策は国民の間で人気が高い。第三に、日本は高齢化
により中高年層の政治的影響力が強くなっているので、住宅保有者の多い中高年層の
利益を犠牲にして賃貸住宅の住人が多い若年層の利益を増進する政策は採用されに
くくなっている。
6
2011 年の日本の持家の帰属家賃は約 46.6 兆円で、GDP の約 10%を占めている。
7
持家:新築か中古か
次に、日本において中古住宅の市場が低調な理由を検討しよう。日本人は何でも新
品を好み、中古品を嫌うから中古住宅が売れないと言われることがある。これは本当
だろうか。
図表 6
中古住宅に抵抗がある理由
理由
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
比率
新築住宅の方が気持ちが良いから
中古住宅は間取りや仕様を自由に選べないから
中古住宅の方が耐震性や断熱性等の品質が低いから
中古住宅のリフォーム費用やメンテナンス費用が分からないから
抵抗はない
中古住宅の方が品質に関する情報が少ないから
中古住宅の方が保証やアフターサービスが充実していないから
中古住宅の方が価格の妥当性の判断が難しいから
中古住宅の方が住宅ローンや税制面で不利だから
その他
分からない
55.2%
32.9%
20.5%
18.4%
15.3%
14.6%
11.7%
9.8%
4.1%
1.4%
1.6%
(注)複数回答あり。
(資料)国土交通省「土地問題に関する国民の意識調査(平成23年度)」。
図表 6 は、国土交通省による中古住宅への抵抗感に関するアンケート調査の結果を
転記したものである。これを見ると、確かに「新築住宅の方が気持ちが良いから」が
過半を占め、日本人の新品好き、中古品嫌いが表れているように見える。ただし「中
古より新築の方が気持ちが良い」のは当たり前であり、それだけでは中古住宅市場が
停滞する理由にならない。また、中古住宅が新築住宅に比べて「気持ちが良くない」
ことには、後述する理由から中古住宅の手入れが不十分なことも関与している。同じ
中古品でも、日本の中古自動車の市場は諸外国並みに活発である。これは中古自動車
市場において情報の非対称性を軽減するしくみが機能しているためである。
図表 6 の二番目と三番目には、「中古住宅は間取りや仕様を自由に選べないから」
と「中古住宅の方が耐震性や断熱性等の品質が低いから」という理由が挙げられてい
る。これらのうち、「間取りや仕様を自由に選べない」のは、日本の住宅の中に特殊
な間取りや仕様の注文住宅が多く、標準的な建売住宅が少ないことと関係している。
8
日本では中古住宅市場が不活発なため、住宅の購入者はそこに生涯住むことを前提と
して自分の好みやニーズに合う住まいを建てようとする。また、後に転売する(でき
る)可能性が低いので、購入後に随時リフォームして住居の市場価値を維持しようと
する動機が弱く、それが「中古住宅の方が耐震性や断熱材等の品質が低い」という評
価をもたらしている。したがって上記の二、三番目の理由は、それ自体が中古住宅市
場の不調の原因と言うよりは、中古市場の不振と相補的な(=お互いを強め合う)関
係にある問題だと考えられる。
図表 6 の四番目と六番目、八番目には、「中古住宅のリフォーム費用やメンテナン
ス費用が分からないから」、
「中古住宅の方が品質に関する情報が少ないから」、
「中古
住宅の方が価格の妥当性の判断が難しいから」という理由が並んでいる。これらはい
ずれも「売り手に比べて買い手の情報が少ない」という情報の非対称性に関するもの
である。中古住宅市場は非対称性が深刻であり、良い商品が市場に出回りにくくなる
逆選択が発生しやすい(テキスト 186 ページ)。
逆選択の問題を軽減するためには、
(i)売り手に正確な情報を開示させるしくみと、
(ii)仲介業者に買い手の利益を十分に考慮して行動させるしくみが必要である。中
古車の場合、自動車検査登録制度(いわゆる車検)や地域密着型のディーラーの存在
によってこれらの問題が軽減されている。一方、住宅に関して車検のような制度は存
在せず、物件情報も多数の仲介業者の間に分散している7。多くの人が一生のうちに
何回も買い替える自動車と比べると、不動産の取引に関しては買い手の知識や経験が
蓄積されにくく、情報の非対称性が売り手に悪用されやすい8。
中古住宅市場における情報の非対称性の影響は、先の借家のケースと同じ枠組みを
用いて分析することができる。図表 7 では横軸の OH が借家を除く住宅の総戸数を表
し、縦軸が中古住宅の売買価格を表している。情報の非対称性が存在しない時の中古
住宅の需要曲線は D、供給曲線は S であり、売買量は OI となる。
7
日本で不動産・物品賃貸業を営む企業(自営業者を含む)は 2010 年時点で 35.6 万社あり、
その過半が従業員 100 人未満の中小企業である。不動産・物品賃貸業の就業者は 149.8 万人
に上り、情報通信業の 158.9 万人に匹敵する。不動産・物品賃貸業の従業員の平均年齢は 52.3
歳で、これは農林水産業を除くすべての産業の中で突出して高い。顧客から不動産販売を依
頼された仲介業者は業界ネットワークに登録して情報を公開する義務があるが、それを行わ
ずに自分で買主を見つけて手数料を稼ごうとする業者が少なくない。なお、日本の車検制度
にも自動車整備業者の保護政策としての側面があり、手放しに評価することは適切でない。
8
テキスト 8 章の「ゲームの理論」で学ぶように、一回限りのゲームに比べると、継続的ゲ
ームにおいては参加者が協調的に行動する誘因が強くなる。旅行者目当てのレストランに比
べて地元密着型のレストランの品質や価格が優っていることが多いのはそのためである。
9
図表 7
情報の非対称性による中古住宅市場の停滞
住
宅
価
格
a
S
d
b
E
P0
P2
E’’
c
D’
O
I’
中古売買
D
H
I
持家のまま居住
一方、情報の非対称性が存在する場合、買い手は粗悪物件を掴まされる可能性を考
慮し、相当安価でないと手を出さなくなる。その結果、需要曲線が下方向にシフトし、
取引量は OI’に、売買価格は P2 円に下落する。dEE’’の総余剰が確実に失われ、abE’’d
の分の余剰の一部ないしすべても失われる可能性が高い。
上記の問題が定着すると、優良物件の持ち主は不当に低い価格でしか販売できない
中古住宅市場を嫌い、よほどのことがない限り、最初に購入した住宅に住み続けるよ
うになるだろう。両親から相続した家屋を売りに出す人も、低価格でしか販売できな
いことを知っているから、売却前にリフォームして商品価値を高める意欲が失われ、
粗悪物件ばかりが市場に集まるようになる。すると需要曲線がますます下方向にシフ
トし、売ろうとしてもなかなか買い手がつかない、安値でしか売れない、だから粗悪
品しか売りに出さないという悪循環が発生する。
なお、図表 6 の九番目には「中古住宅の方が住宅ローンや税制面で不利だから」と
いう理由が挙がっているが、これは事実である。先述したように、現行の制度の下で
は、住宅ローンを組んで新築住宅を購入した場合に 10 年間で最大 500 万円まで税額
控除を受けることができるのに対し、通常の中古住宅の場合には 400 万円までしか控
除されない。また、中古住宅を購入する場合に比べ、新築住宅を購入する場合には住
10
宅ローンに関する公的機関の保証や支援も受けやすくなっている。このような差別的
な措置が行われている一つの理由は、新築住宅の建設に比べて中古住宅の売買の景気
浮揚効果が小さいこと、中古住宅の売買が建設業者を潤す効果を持たないためだと思
われる。
中古住宅市場の機能不全は初めて住宅を購入する人の選択肢を狭めるだけでなく、
すでに持家を保有している人にとっても問題となる。先に述べたように、個人の住宅
に対するニーズはその人の年齢や家族構成とともに変化してゆく。今日に日本では、
子育てを終えて退職した人が持家を処分して老後の生活に適した住まいに移ろうと
しても、適切な価格で迅速に売却することが難しい。また、最近は両親から土地や住
居を相続する人が多いが、これらを処分して自分のニーズに合う物件を探すことも難
しくなる。そのような場合、不便を感じながら現在の持家に住み続けるか、何とか資
金を工面して他所に移り住み、持家を空き家にしたまま放置することになる9。近年
は地方や都市近郊で空き家が増加し、社会的問題になっている。
都市近郊には大手の不動産会社が集中開発した住宅地が多く、地域ごとに住民の年
齢層が偏っている。ある地域の住民が高齢化して放棄住宅が増加すると、コミュニテ
ィー機能が低下して治安が悪化し、ますます中古住宅の買い手がつかなくなる。2008
年の「住宅・土地統計調査」によると、全国の住宅総数 5,759 万戸のうち、空き家が
747 万戸(建築中の住居を除く)となっており、空き家率はしだいに上昇している。
日本では土地や住居が希少資源だと考えられているが、同年の日本の総世帯数は
4,989 万世帯しかなく、住宅総数の約 87%に留まっている。2011 年に総人口が減少し
はじめ、世帯数も近く減少に転じると予想されているため、住居はすでに過剰である。
政府は目先の景気浮揚や集票のために新規の住宅建設を促進するのではなく、既存の
住宅の取引を活性化しつつ、老朽化した住宅の撤去やリフォーム、耐震補強を促進す
べきである。
雇用政策との類似性
資本主義社会では、商品が自由に売買されるだけでなく、土地や建物、労働といっ
た生産要素(生産活動に用いられる資源)も市場を通じて取引(売買ないし貸借)さ
れるようになる。しかしこうした生産要素の取引は国民の生活に直接的な影響を与え
るだけでなく、売り手と買い手、貸し手と借り手の間に交渉力や情報の格差がある場
合が多いため、政府による規制や保護が必要である。しかしこれまでの分析から分か
9
持家を空き家にしたまま放置する人が多いのは、適当な価格で売却することが難しく、売
却できても収入に課税されることに加え、建物を撤去すると住宅用地としての優遇措置が受
けられなくなり、固定資産税が跳ね上がるからである。
11
るように、不適切な政策によって事態がかえって悪化するという政府の失敗の可能性
は、市場の失敗の可能性と同じかそれ以上に高い。
不動産市場における政府の失敗には、労働市場における政府の失敗とよく似た性質
が認められる。第一に、不動産市場と労働市場ではそれぞれ持家の保有者と正規雇用
者が経済的な強者であり、賃貸住宅の住人と非正規雇用者が弱者である。それにも関
わらず、現行の住宅や雇用に関する法制や税制は、前者のタイプの人々を強く保護し
ている。また、前者に中高年層が多く含まれ、後者に若年層が多く含まれているため、
前者に偏った保護政策は世代間の不平等を悪化させる。第三に、現行の制度や政策は
結果的に不動産市場や労働市場の機能を低下させ、資本と労働の適材適所を阻んでい
る。持家優遇策や中古住宅市場の低迷は不動産の有効利用を阻害するだけでなく、住
宅の保有者をその土地に縛り付け、他の地域に移動して新しい仕事に就くことを難し
くするため、労働市場の流動性低下の一因にもなっている。日本の労働市場と雇用政
策の問題点に関しては後に詳しく解説する
参考資料
不動産や都市の経済分析に関しては
山崎福寿・浅田義久(2008)『都市経済学(シリーズ新エコノミクス)』日本評論社
山崎福寿(2014)『日本の都市のなにが問題か』NTT 出版
を推薦します。この資料はこれらの本を参考にしています。
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