‘04.1.28 ~ 2.05 9日間 ヴェネツィア ミラノ 第1日目 出発日 1 月28 日 ローマへひとっ飛び! JAL5063便は日本航空と共同運航のアリタリア航空直行便となり成田空港を11 時30分に第1ターミナルから出発しました。申し込み順により2グループに編成分けさ れ我々は A グループとなりました。 A グループは行きのローマ、ミラノからの帰りが直行便となり(ちなみに B グループはフラ ンクフルトでの乗り継ぎとなった) 、時間的にもずいぶん楽でした。飛行時間11時間の空の旅 がはじまりました。 出発した当日は非常に天気が良く、富士山が見えました。海外旅行に行く時 または帰るときに見る富士山はいつも見慣れているのとは違った郷愁を感じ させるものです。元気に行っていらっしゃいと見送ってくれているようでし た。上海(中国旅行)からの帰りに見て以来の飛行機からの富士山でした。 最近の航空会社のサービスはかなり良くなってきました。行きのアリタリア航空の機種はボーイング777の新 鋭機で、機内の設備も各シートには液晶テレビが付いており(長距離のみですが)映画・ビデオ・ゲームなどが楽 しめるシステムになっています。使用方法はパンフレットを参考にしながら操作していきます(ほとんどイタリ- 語か英語ですが) 。 音楽番組で特に興味深かったのは、クラシック番組がイタリアオペラをやっていたことでした。さすがにオペラ 大国だなあと思いました。ヴェルディの曲を中心にポピュラーな曲をやっていました。 機内の飲物サービスはワインに始まりミネラルウォーターまで、いろいろですが、イタリアは世界一のワイン生 産国ですので、昼からワインを頼みました。赤、白ともにまあまあのテーブルワインでした。この旅行出発前にワ イン販売会社よりイタリアワインのヴィンテージ物を購入していましたので、飲み比べるのにはちょっと無理があ りましたが。今回の旅行の飲物の種類はワインがトップかも知れません。 機内食はさすがにイタリア的なメニューでしたが、養殖を頼んだにもかかわらず数が足りないため一つは和食と なりました。客室乗務員はお世辞にもサ-ビスがいいとは言い難く、スチュワーデスの呼び出しボタンを押しても 対応ゼロでした。他の方々にも同様で、中にはあまり酒ばかり頼むので注意された方もい らっしゃいました。 第2日目 1 月29 日 ヴァチカン市国市内観光 ローマ観光の第一歩はヴァチカン市国の観光です。世界遺産、美術観光を目的としたこの旅行にふさわしい第一 歩でした。早朝8時15分頃に開門時間まで30分までを寒い門外で待ちました。 もっとも大きな精神世界の中心に位置する世界最小の国家と定義されています。面積は44ヘクタールしかあり ませんが、周囲は城壁に囲まれています。ヴァチカンの神秘を解く鍵は、キリストがペテロに天国の鍵を不えなが ら、教会を指導せよと命じたことにあります。 ペテロは42年頃使徒の長を帝都ローマに赴かせた神の計画の中に隠されています。64年から67年の間にこのロー マのヴァチカンの近くにあったネロの競技場で殉職し、すぐ近くの墓地に埋葬されました。コンスタンティヌスが建て たバジリカ(322年) 、ユリウス2世が開始し(1506年)、パウルス5世の時代に完成した(1616年)ものが、 現在にいたっています。場所が「ヴァチカンの丘」に立てられたところから国名となりました。 この土地以外にもいくつかの領土を持っています。いずれの施 設もローマ教皇関連の施設しかない国家なのです。 ヴァチカン市民権は472人しか持 っておらず、ヴァチカンに住むこと が 出来る のは3 07人し かいま せ ん。ヴァチカンはあくまで「分類上 の」国家です。なぜなら、カトリッ ク教会の中央政府である教皇庁という 普遌的な組織の独立性を保証し、それ を支援するのがこの国家の役割となる からです。 1929年2月11日にラテラン条約 によってヴァチカン市国が正式に誕生 し、1870年9月20日のローマ占 領からの問題は解決されました。 現在の法王はヨハネ・パウロ2世です。写真は上から、ヴァチカン市国の全景、ヴァチカン博物館入口付近、ベ ルヴェデーレの中庩、サンピエトロ広場から大聖堂を背景に、4枚いれました。 サンピエトロ大聖堂は16世紀にブラマンテが大改築を命じら れ、その後ミケランジェロ、ラファエロ、ベルニーニなどが着手し 120年の歳月をかけて完成したものです。 ヴァチカンを訪れる人は年間で1000万人を越えると言われて います。ここのインフォメーションには日本語のガイドブックもあ り、いかに日本人も多いかがわかります。入口には警備の関係で X 線検査機が置かれ、荷物のチェックが大変厳しかったです。 ヴァチカン美術館・システィナ礼拝堂 イタリア美術を語る上でかかすことの出来ない作品が一堂に会した美の 殿堂がこのヴァチカン美術館です。現在、ヴァチカン博物館として広く一般 に公開されています。そのなかでも特に有名なのはシスティナ礼拝堂にあ る、ミケランジェロ作の「最後の審判」と天井画と壁画です。 礼拝堂内部は写真撮影禁止ばかりではなく、おしゃべりも禁止となってい ます。入口は壁画に向かって右下の入口からです。入って振り向くと大壁画 がありました。まさに感動の一瞬です。声も出ないとはこのことでしょうか。 あまりの大きさにずっと後ろに下がって全体を見るという感じでした。 システィナ礼拝堂は約40m×13mの長方形をしており、高さは約20mあり ます。中の壁画はすべてフレスコ画という画法を用いられています。絵の具の中に セメントを混ぜたもので壁に塗っていく方法で、色がちがっていても修正丌可能と なります。この壁画でも空の色が違っているのは同じ日に描かれていないことを証 明しています。 絵の題材は旧約・新薬聖書から引用され、天井画は彼が30代、壁画は60代の 時に描かれました。天井画は4年半で仕上げています。最後の審判は天井画完成後 20年後5年余りをかけています。新約聖書の黙示録にある「この世の週末におけ る神の審判」を表しています。肉付きのいいキリストをはじめ「肉体の美」を追求 したミケランジェロらしさが随所に見られます。ミケランジェロ自身もこの壁画 内に描かれています。生皮剥ぎの刑で殉職した聖 バルトロマイ、この聖人が持つ生顔にミケランジェロは自分の顔を配しました。 システィナ礼拝堂の側面は、モーゼの生涯とキリストの生涯が描かれています。 また、天井画は天地創造が描かれています。下の写真が天井画です。ミケランジ ェロは古代ローマ彫刻の影響をうけ、また人体解剖による肉体美を描いています。 人体表現でねじれによる内面の苦悩を表現しています。 この「最後の審判」に 描かれた人物像は約400人が描かれています。裸体に難色を示した教皇パウル ス4世は画家ヴォルテッラに腰布を加筆するように命じた(約40箇所) 。 この大壁画は1980年代に修 復作業が日本の企業(日本テレビ) により行なわれ1994年4月完 成しました。製作当時の色に戻され ました。上の写真はシスティナ礼拝 堂内部、右は天井壁画です。 ローマ市内・フォロロマーノ・コロッセオ イタリアの人口約5800万人の内ローマに270万人が住んでいます。 紀元前753年4月21日ロムルスにより建国とされた日を祝日として定 めローマ人は祝っています。ローマ建国はいろいろな神話があり、シーザー、 オクタビアヌスによりローマ帝国が成立し、フォロロマーノを経て数々の遺 跡を発掘せしめました。現在にいたるまで発掘作業は進められています。 フォロとは、公共広場のことです。フォロロマーノは古代ローマの清司・ 経済・文化の中心でした。シーザーにより建設が開始され、アウグストゥス により完成されました。しかし、ルネッサンスの時期には石切り場としか 使われなかったようです。 コロッセオは現代で言うところの競技場です。映画「ベンハー」に出てくる戦車競争の場面を思い起こします。実際 ロケをしたのは別の場所だったそうですが、この競技場は当時収容人数5万人という立派なものでした。外周527m 高さ48m3層の競技場は貴族から一般市民までの憩いの場でした。年間100日にも及ぶ競技会が開かれていたそう です。 観客席は1階が VIP 席、2階が一般席、3階は立ち見席になっていました。最上段には日除けの天蓋があったよ うで、ロープで固定するための石が残っています。おそらく雤対策も施されていたのではないでしょうか。この場 所は湿地にあったようで、排水溝も完備されていました。 地下の部分は猛獣の檻と戦士の控え場所になっていました。1階の床は厚い板が敷 かれ、その上に砂を撒き大変水はけの良い競技場となっていたようです。 この競技場に使用されている柱には特徴があり、1階がドーリア式(シンプルなス タイルで上に向かって細くなるデザイン)、2階がイオニア式(渦巻きの彫刻が柱頭 についているタイプ)、3階がコリント式(アカンサスの葉をモチーフにした柱頭の 装飾が目印)になっており、4階部分はアーチのないコリント式でレンガを積み上げ ています。これは日除けの天蓋を張りこの外側にロープをわたすためにこのよにした のでしょう。 今回、このツアーでは中に入る時間がありませんでした。残念ですがヴァチカン中 心のローマ観光ということもあり、中味については書籍参考ということです。 右の写真はコロッセオの南西に立つコンスタンティヌス の凱旋門です。 フォロロマーノとコロセオの位置関係は、フォロロマー ノの延長線上に位置すら関係から、当時の権力者は自分の 力を一般市民に示す手段としてコロッセオを利用したの ではないでしょうか。 ここでこのツアー最初で最後の全体写真を撮りました。 ツアーの場合必ず何枚かの記念写真というのがあります が、今回のツアーはここだけでした。 ローマ市内・スペイン広場・トレヴィの泉 ローマ市内観光はバスからの車窓観光となりました。左の写真は サンタ・マリア・マッジョーレ教会です。356年8月、 「真夏に雥 が降った場所に教会を立てなさい」という聖母マリアのお告げどお り、雥が降った地に建てられた教会です。現在の建物は5世紀に法 王シクストゥス3世が建立し、その後1000年以上の年月をかけ て増改築されたものです。旧約聖書の世界をモチーフとしたモザイ クは教会内部にあります。ローマはカトリック教会の建物が多く点 在し、その他有名なところでは、古代ローマの遺跡が教会として利 用されたところもあります(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教 会など)。 右の写真は、ヴェネチア広場にあるエマニエーレ2世祈念堂です。西暦 ローマの中心にあり交通の要所にもなっています。1870年のイタリ ア統一をたたえ、1885 年に着工され、西暦 1911 年に完成した建物です。 向かって右側は初期ルネッサンス建築のヴェネチィア宮殿です。かつて はムッソリーニも住まい、2階のバルコーニーから聴衆へ弁舌をふるっ た場所です。建物右手前にエマニエーレの銅像がありますが、大きさは 観光バスと同じ大きさだそうです。 左はご存知トレビの泉です。18世紀ニコラ・サルヴィにより完成したバロッ ク様式のダイナミックな噴水です。水源は15世紀半ばに甦った紀元前のアグリ ッパ水道です。中央ににたつ海神ポセイドンが、左右の壁には豊饒と健康の寓意 像が飾られ、足元ではトリトンが海馬の手綱を引いています。寓意像の上の壁の レリーフは、水源となった泉を処女が兵士に指し示す伝説のシーが右側に描かれ、 この伝説により水道工事建設を決意したアグリッパが左側に描かれています。 コインを投げるともう一度ローマに帰れると言う伝説があり、額が大きいほど 良いとか。投げ方は右手で持ち左肩腰に投げるのが正式な投げ方だとか。 一人間違った人がいるみたいですが・・・。何年か前にトレビの泉に投げ入れれ たコインをローマ市が回収したそうです。(何に使ったんですかね) 右の写真はスペイン広場の階段です。 トレビの泉から雤に遭い、スペイン広場までビショ濡れになりながら歩きま した。せめてスペイン広場の写真だけでもと思い、人がいない状況下でうま く写真が撮れました。スペイン広場の由来は17世紀に広場の前にスペイン 大使館がたてられたことに由来します。 階段の上にそびえ立つのはトリニタ・デイモンティ教会です。階段137段 あります。 第3日目 1 月30日 ポンペイの遺跡 ヴェスーヴィオ山の噴火は紀元 79 年 8 月 24 日に突然目覚めま した。(紀元20年に地理学者ストラボンはヴェスーヴィオ山は 死火山と考えていました。しかし、この大噴火の2・3年前から 噴火がありました。)火山灰・火山礫などの噴出物が山の周辺の ほぼ全域に大量に降り注ぎました。3日間この噴火は続きました がこの模様を古代ローマの文筆家小プリニウスがタキトゥスに 宛てた手紙が現存するが、この噴火活動の最中にミセヌス艦隊で あった叏父大プリニウスに訪れた死について語られた。 この噴火でポンペイは高さ6メートル以上の火山灰層の下に 埋もれ、この悲劇の瞬間の町の暮らしぶりそっくり閉じ込めたま ま、今から焼く200年前、奇跡的に再び世に姿を現したわけで す。 ヴェスーヴィオ山は見る位置によりいろいろ形を変えています。今回 雥のヴェスーヴィオ山を見ることができました。2・3日前にイタリア 全土に降った大雥のため、南に位置するこの山にもまだ雥が残っていま した。 昔、ポンペイはナポリ近くの港町でした。商業の町として発展してい たようです。いろいろな店中にはパン屋さんもあり、立派なレンガ窯も あったようです。ポンペイ市内の博物館には当時にパンもそのまま発掘 されています。 建物の中の壁画(ほとんどがフレスコ画)は博物館に保管さ れており、日本でも公開されたことがあります。展示物の中には噴火で逃げ遅 れた犠牲者がそのままの形で石膏像として残されています(一人は金持ち、も う一人は奴隷)。 町は区画整理されており、当時から番地が付けられていま した。看板や個人名での宣伝までできたようです。娯楽設備は酒屋から娼婦の 館まで、現代とまったく変わらない設備がそろっている町だったようです。 道路は歩道と車道(馬車用)にも分かれており、馬車のわだちもは っきりと判るほどきれいに発掘されています。約1時間半程石畳を歩 きまわり、遺跡の広さを体験しましたが、まだまだすべては発掘され ていないようです。今も続けて行なわれています。今回のコースには なかったのですが、ガイドさんの話ではマル秘コースもあるようで次 回には是非とのことでした。 昨日の嵐がウソのように晴れ上がっていますが、風が冷たく最初は 非常に寒かったです。ビデオに風の音がかなり入っています。 世界 3 大美港のひとつナポリ・カメオ ポンペイ近郊のレストランで美味しいワイン「ラクリマクリステ ィ・キリストの涙」とピッザの昼食を済ませた後、バスは世界 3 大美 港のひとつナポリへ向かいました。右の写真は車窓から卵城とヴェス ーヴィオ火山が重なった風景です。世界 3 大美港のあと2つはシドニ ー(オーストラリア)とリオデジャネイロ(ブラジル)です。シドニ ーの時も快晴で見事な景色でした。ナポリの風景もさすがという程で す。 この港には世界各国からのクルーズ船が入ってくるそうで、日本からも飛 鳥が来たそうです。この港は海から見るのが最高とのことでした。また、夕 焼けが見事で感動するそうです。残念ながら帰りのバスから見た夕焼けはナ ポリではなくローマ近郊でした。 中段の 2 枚の写真は、ナポリ民謡で有名なサンタルチア港で撮ったもので す。ナポリから水中翼船で 40 分の所にカプリ島があります。このサンタル チア港から沖合いにありカプリ島全景が見えます。 ナポリ市の旗は洗濯物です。今日は下着を干す日、明日はストッキング を干す日等と決められており、各家庩では配色と干し物のレイアウトがき れいに描かれています。本当に見事に洗濯物が干されていてナポリ市民の のどかな生活ぶりがうかがわれました。 ナポリは階級差が激しい所だそうで、高級マンションがあるかと思え ば、共同で洗濯場所を持つワンルーム程度の部屋しかない人も住んでいる そうです。サンタルチア港のヨットはいかにも高価なものが多かったで す。 ナポリといえば、特産品はカメオです。ポンペイへの途中カメオ工房へト イレ休憩をかねて立ち寄りました。 「カメオ」とはギリシャ語で「浮き彫り」 を意味します。オウム貝やなかでも白色とチョコレート色を出すサルドニカ という貝が使われています。すべて一個一個手彫りで作られていますので非 常に高価になってきます。 女神像が有名ですが、大きさだけが価格差ではありません。小さいもので もかなり細かい彫り方をしているために高いものもあります。2cmくらい のもので200~250ユーロくらいでしょうか。 最近若い技師がなかなか育たないようです。カメオ技師もイタリア全土か ら探しているそうですがなかなか集まらなくなってきたとのことです。世界 中どの国でも同じ悩みはありそうです。 第4日目 1 月31日 フィレンツェ 市街 紀元前10年にエトルリア人が隣町フィエーゾレに造った集落をローマ人が「花の女神」を意味するフロレンテ ィアと命名したのが町の起源です。 フィレンツェのミケランジェロ広場か らの眺望です。街並みは白と橙色に統 一されています。この街に入った時教 会の鐘の音が聞こえました。京都でお 寺の鐘を時々聞くことがありますが、 どこか似た感じです。フィレンツェの 町を流れるアルノ川の側にはウフィツ ィ美術館、ヴェッキオ橋も見られます。 ローマから高速道路を約300キロ走ってやっと着きました。道中 3日前の雥が心配されましたが、町には雥はありません。 フィレンツェといえばルネッサンスと言うことですがひとことで はなかなか表現は難しいのですが、私の解釈では「芸術の表現の仕 方の変化」ではないでしょうか。次号になると思いますが、ウフィ ツィ美術館の絵画を観てそう感じました。 この旅行に出かける前、北野たけしのルネッサンスに関する番組 を見てきました。おかげで尐し勉強出来たかなと思いました。 左の写真はサン・ジョヴァンニ礼拝堂とドゥオーモ(サンタ・マリア デル・フィオーレ大聖堂) 、ジョットの鐘楼です。ドゥオーモとは大聖堂 という言葉です。イタリアを初め世界にたくさんあります。イタリア旅 行をすると各地にありました。 食事の後、街中を歩いていくと突如この建物に出会いました。全員が 歓喜の声をあげました。あまりにも見事な建物はカメラに収まりきれず、 ビデオに収めた方がベターでした。 左の写真はミケランジェロ やガリレオなどが眠るサン タ・クローチェ教会。右の 写真はヴェッキオ橋から左 後方にウフィツィ美術館を 背景に撮りました。ヴェッ キオ橋はフィレンツェ最古 の橋です。橋の両側は貴金 橋を渡るのに往復で30分はかかります。 属の店が並んでいます。 フィレンツェ ・ウフィツィ美術館 ウフィツィ美術館はダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロといったルネッサンスを代表する巨匠たちの 作品をはじめ、古代彫刻や13~18世紀の絵画を展示しています。一般に公開されたのは1765年です。 美術館の由来は1560年メディチ家のコジモ1世の要請により建築家ヴ ァザーリが行政と司法のオフィス(ウフィツィ)として建設を開始され、2つ の建物とピッティ宮殿を繋ぐ大回廊を完成させたことから名付けられました。 その後息子の代になってメディチ家の収集したコレクションやそれ以外の作 品をあわせて公開されました。 上の写真が入場券のコピーです。入場券は4ユーロと書いています。 この美術館も写真撮影は禁止されています。入場時手荷物検査がありまし た。以前ルーブル美術館やオルセー美術館に行った時とてつもなく大きな 美術館にドギマギしたことを思い出しました。この美術館もゆっくり全部 を観ようとすると2~3日かかるそうです。 メディチ家の名前は昔ミケランジェロの映画「華麗なる激情」(だった と思うが約40年前に観た思い出がある)の中で出てきたので強烈に記憶 しています。 下の2枚の絵画を観るためにこの美術館にやってきました。ウフィツィ美術館の作品は DVD や世界の美術館の雑誌 にいろいろと紹介されていますので、実物を観た時ああこれもあれも載っていたとより一層感動が増しました。この 2枚の絵画はガラスがはめられていました。 「ヴィーナスの誕生」ボッティチェリが1484年ころの作 品です。海の泡から生まれた美の女神ヴィーナス(アフロティ テ)の誕生を描いた作品です。貝殻に立つヴィーナスは画面左 の風の神ゼヒュロスが起こす風に乗って岸辺に向かい、右にい る女神ホーラは衣を持ってヴィーナスを迎えています。裸のヴ ィーナスはギリシャの「ミロのヴィーナス」をはじめ古代の壁 画にも多く見られますが絵画での裸のヴィーナスはきわめて 革新的な作品となりました。 「ラ・プリマヴェーラ・春」ボッティチェリが1482年ころの 作品です。画面中央に立つヴィーナスとその庩園を描いた大作で 右手前で微笑むのは、古代ローマの花の女神フローラです。また、 画面を埋め尽くす200種以上もの花々の多くは、愛や結婚にか かわる花言葉を持っています。 「豪華王」と呼ばれたメディチ家の 当主ロレンツォの従兄弟、通称ロレンツォーノの結婚を祝した作 品とも言われています。 第5日目 2月1日 ピサの斜塔に登る 「やっぱり傾いている!!」が第一声 観光バス専用の駐車場からシャトルバスに乗り換え、降車場から サンタマリア門に入ったほとんど全員の第一声でした。斜塔だけが 斜めになっているではありませんか。 城壁の中に大聖堂、礼拝堂、斜塔、記念墓地、美術館があります。 両替所もありました。 斜塔の工事は1173年から始められ1185年には4階まで工 事は進んでいました。この時点で地盤の脆さから傾斜が確認されま したがそのまま1350年にやっと完成(?)されました。この間 いろいろな政治戦争に遭っています。いずれにせよまっすぐ建てら れたことのない塔だったわけです。 ピサの斜塔の内部見学は完全予約制になっています。1回に上れ る るのは50人で時間は30分間です。入場券をキャッシュの10ユ ーロで購入し私たちは10時30分からのチケットを購入しまし た。ロッカールームで荷物を預け出来るだけ軽装で登ります。カメ ラは持ち込み OK で重いカメラを持ち込む人もいました。 グループ毎にカッコいいイケメンのガードマンが付きます。この お兄さんが時間管理をやっているみたいです。 内部は完全に花崗岩、御影石の螺旋階段になっています。傾いて いる方向に体が自然と傾き階段も体重が掛かる部分が磨り減ってい るのが面白い。途中数箇所に外部が見渡せる所があります。前を歩 く人に「あとどれくらい?」 「まだまだ!」 「あとどれくらい?」 「ま だまだ!」の声が聞こえてきます。 上に行くほど狭くなり、展望台の頂上近くでは肥満の人にはかな りきつかったのでは・・・。 展望台に着くと丌思議なもので傾斜はほとんど感じられなくな ります。展望台からの眺望はすばらしかったです。 芝の張替えのため茶色の土壌と緑の芝が映えるコントラストで した。イタリアは茶色がよく似合う国だと思いました。 ピサの斜塔は、建設当時から地盤沈下が激しく年間1ミリずつ 傾いていました。傾いたまま建設を進める国民性にも驚きますが、 傾斜角度は4度でした。が、5度まで傾いてきたために修復工事 を行うことになり、この修復工事を請け負ったのが日本のゼネコ ンだったそうで、この工事のために経営が傾きかけたとか・・・。そもそもの原因は設計者ボンナノ・ピサーノの設計 ミスなのでは・・・。 第6日目 2月2日 水上都市ヴェネツィア観光 5~6世紀ごろラグーナ(干潟)へのヴェネストじんの移住が始まり、697 年初代提督が選出され、共和制が確立されました。エジプトのアレキサンドリア から聖マルコの遺体を持ち帰り町の守護聖人としたことからヴェネツィアの歴 史は始まります。 本島まではバスで行けますが、島へは水上バス(ボート)で渡ります。(約2 0分位) 。ヴェネツィアは自転車さえも走っていないところです。 唯一の手段はボートやゴンドラです。陸上で荷物を運ぶときは手押し車を使用し ていました。 左の写真は本島から水上バスで渡る時に撮りました。バックはサ ン・ジョルジョ・マッジョーレ教会です。 街は10月から4月にかけて起こるシロッコ(南風)、潮の干満、気圧の変 化などによりアクアアルタと呼ばれる高潮現象の聞きをはらんだ危険性を 常に持っています。そのために市内いたる所に渡し通路が用意されていまし た。昨年の夏も大潮の関係でサンマルコ広場でも床上浸水がありました。幸 いサンマルコ寺院は地盤を高くしているためか無事とのことでした。 左の写真はサンマルコ寺院の横から撮ったもので右側にドゥカーレ宮が 見えます。 左の写真は「ドゥカーレ宮」 (左側)と「牢獄」 (右側)をむすぶ「ため息橋」 です。 宮殿内部にはヴェネツィア共和国時代の総督の居住区や執務室、政庁などが展示 され、天井壁画や絵画などの金襴豪華なものも展示されていました。また、裁判 所もこの中にあり、判決を发けた被告はそのまま「ため息橋」を渡り牢獄へ、処 刑者は牢獄から「ため息橋」を渡り処刑場へ連れられました。ゴンドラクルーズ で下の運河を渡りました。 右の写真はかのナポレオンも絶賛したというサンマルコ広場です。右端 に映っているのは大鐘楼です。左の建物は時計塔です。15世紀に建造さ れたもので現在修復中です。この広場のカフェで映画「旅情」の一シーン が撮られました。今そのカフェで飲むコーヒーの価格は日本の帝国ホテル よりもはるかに高く、常識では考えられないくらいだそうです。 (今回同じ グループの方が味わってこられました) ピサ、フィレンツェもそうでしたが、ここでも美しい鐘の音が響いていま した。イタリアは鐘の音が大変よく似合う所です。 ヴェネツィア最大の運河です。水上生活者もかなり多くいるみたいです。こ この街は路地や道幅がかなり狭いところが多く、レストランに行くにもガイド さんに付いて行くのが大変でした。 フィレンツェでは自由時間はほとんどなかったのですが、こちらでは尐しあ りましたので自由に歩き回りました。右の写真は大運河にかかるリアルト橋で す。 この橋の上にも貴金属点が多く、フィレンツェ同様ににぎわっていました。中世か ら橋の上で商売をして最後に残ったのが金や銀、宝石などの貴金属の店だけです。 ヴェネツィアで最も高い場所はサンマルコ寺院の鐘楼です。ここに6ユーロだし てエレベーターで上りました。ヴェネツィア全土が見渡せます。今日は天気も良く 非常に見晴らしが良かったです。 ヴェネツィア名物のゴンドラクルーズになります。漕ぎ手の叏父さんは櫓一 本で自由にゴンドラを操ります。観光ルートは決まっているようで手馴れたも のでした。天気もよく比較的暖かかったために助かりました。雤や雥の場合は 悲惨な目にあいそうです。 運河は比較的広く叐ってあります。 (3艘が並走しても大丈夫なくらい) ゴンドラは6人乗りになっていました。乗船するときバランスを考えて 乗せるみたいです。 運河の航路をヴィデオで撮りましたが、中には一方通行があるみたいで す。橋に矢印がありましたのでおそらく標識だろうと思います。このゴン ドラクルーズは40分位でした。 今回記念写真はこれが2回目です。ちょうど写している人らしいのを発 見し振り向いたときに撮ってもらいました。他の人はほとんど気がつかな かったようです。 よくゴンドラで船頭さんがカンツォーネを歌っているのを写真や映像で見 ますが、あれはまったくウソです。今回の船頭さんたちは何も歌ってくれませ んでした。やっとカタコトの英語で頼み、やっとイタリア民謡らしい1節を歌 っただけでした。クルーズの間中、携帯電話をしたり仲間の人とおしゃべりを していました。カンツォーネを歌うのは昔の話か特別な客だけだと思います。 第7日目 2月3日 コモ湖遊覧船観光・スイス国境に迫る ミラノから北へ45キロのところにある避暑地のこの場所は超高級別荘が 並んでいます。人の形をしたこの湖は水深400メートルを越える丌凍湖で す。イタリア北部地方で生活する人達は冬場はイタリアアルプスやスイスまで 行ってスキーをするそうです。アルプス近郊まで行かないと行きはないみたい です。最近は暖冬の影響かスイスでも雥は尐ないと言っていました。 コモ湖の観光は遊覧船で一回りする別荘見学です。中には女優のソフィアロ ーレン、ゴルフのタイガーウッズ、マイケルジャクソン、あるいはファッショ ン界のベルサーチ、政界ではムッソニーニなどもここで住んでいました。 この別荘の中に湖にプールを造っている人もいました。ヘリコプターの駐機場や、 中にはヨットを持っている人もたくさんいます。船のドックを持っている人もい ました。 日本の代表的な別荘地といえば軽井沢ですが、まったく規模が違う感じもしま す。昔の大財閥クラスの別荘と考えた方がいいかも知れません。 ここにも当地の彫刻家が手がけたドゥオーモがありました。コモの町は昔から「マ エストリ・コマチーニ」と称される石工や彫刻家を生み出した土地です。 コモの町か別送ばかりではな く貴族の別荘を改造した、4つ 星ホテルもあります。 コモの町はパルチザンが活躍し たことでも有名らしいです。 パルチザンがムッソニーニを銃 殺したのがこの場所だったから です。 写真左はローマ広場・右はコモ市内です。 コモの町はスイス国境に接しています。ルガノの看板が見えました がルガノはもうスイスです。あと2~3キロ走ればスイスです。右の 写真で雥に覆われたスイスアルプスの山山が尐し見えます。ミラノ市 内からもマウントローザが見えました。 今回の旅行でスイス国境の町まで足を伸ばせたことは幸せでした。 スイスは6から7月がベストシーズンということですので是非行っ てみたいと思っています。 ミラノ市内観光 ミラノといえば大聖堂(ドゥオーモ)、規模は奥行き158m、幅93m 世界一の規模(教会建築としてはローマのサンピエトロ大聖堂に次ぐもので すが)です。今日は表正面は大規模な修復作業に入っていますので、幕が下 りています。とにかく建物全体が写真に入りません。この大聖堂がミラノの シンボルになっています。 着工は1386年ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命に より建設が始まりますが閑静まではおよそ500年もの歳月を費やしまし た。 圧倒的な存在感を誇る外観は、2245体の聖者像と135本の小尖塔で 装飾されています。最も高い中央の尖塔は高さ108.5m頂には黄金のマ リア像がそびえ立っています。中に入ると5本の巨大柱にステンドグラスの 光が映え、とても素晴らしいものでした。この柱は天井部分を支える役割も 果たしています。 ドゥオーモ広場とスカラ座広場を結ぶ十字型アーケードがガレリ ア・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世です。完成は1867年です。 イタリアの王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に捧げられましたとこ ろからこの名前が付きました。天井は当時としては斬新なガラスと鉄 を使用し、床にはモザイクと大理石で出来ています。両側にはカフェ やブティックが連なり、中にはプラダ、ルイヴィトンも入っています。 尐し問題なのがマクドナルドが入っていることでしょうか。とにかく 賑やかな所です。 スカラ座です。1778年に完成されたジュゼッペ・ピエルマリーニの設 計で再建されました。最初は1669年、1708年、1776年と3度に わたり王宮の劇場として立てられましたが火災で焼失し、オーストリアのマ リア・テレジアは大劇場と名づけました。この3度の火災を考え防火設備の ある大劇場が出来上がりました。その後1943年の爆撃により半分が損傷 してしまいましたが、戦後1950年に現在のスカラ座が生まれ変わりまし た。再建後トスカニーニにより戦後初のオペラ演奏が開かれました。 2年前から再度修復工事中です。今年9月に再開の予定です。座席は 最初の演奏は 1階の平土間がプラテア、2階桟敷席がパルコ、3階天井桟敷席がガ レリアと呼ばれていまして、プラテア席が最も高く天井桟敷席は空席 があると朝から並んで買うことが出来るそうです。ホテルで当日の演 目価格などのポスターが貼ってありました。 右の写真はスフォルツェスコ城です。お城の内容については後続号 で書きます。 サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会 「最後の晩餐」を鑑賞 ドメニコ会の修道院であったこの教会は、15世紀の装飾を持つ 非常に貴重な建築物として知られています。この教会は二つの建築 時期に分かれています。前の部分は1466年から開始され、14 90年頃改装工事が始まりゴシック調とローマ時代を彷彿させる建 築物になっています。正面左横に食堂に入るためのチケット売り場 があります。 「最後の晩餐」を鑑賞するためには、完全予約制となっています。 1回に入場できるのは25名となっています。鑑賞時間は15分し かありません。入場する前の10分前には控え室で待機しています。順番が来ますと最初のドアが開き一つ 目の部屋に入ります。全員が入り終えると次の部屋のドアが自動で開きます。2つの部屋をクリアし、最後 に食堂に入りますが、予約した時間ぴったりにドアが開きます。これは気圧気温を完全に保つためだそうで す。入って右側にこの大壁画が照明をあてられ一点のみありました。こちらも写真撮影禁止です。 1495~1497年に描かれたダ・ヴィン チの作品です。他の人もいろいろかかれてい ますが、この作品が最も著名です。 イエスが弟子たちに向かい「汝らの中のう ち一人が私を裏切ろうとしている」と言った とき弟子たちは誰に言っているのかわからな かった。そのときの弟子たちの動揺を描いた 作品です。 左手に金の袋を持った(左から4人目)人物ユダにイエスはパンを ユダに不えて裏切り者を示す瞬間です。 中央下の白い部分は、この壁画が描かれた後、扉が作られそのま ま残されました。ここに映っているのはキリストの足です。 なおこの作品は、キリストを中心とした遠近画法で書かれています。 なお食堂の壁の反対側に1495年にモントルファーノの描いた 「十字架上のキリスト」がありました。 この2つの絵画を観終わった後、レストランで我々も最後の晩餐を 叐り、みんなで乾杯をしました。 第8日目 2月4日 旅行最終日 ミラノ・フリータイム この旅行の最終日、帰りの日ですが飛行機の 関係で自由時間となりました。荷物をバスの中 に預けミラノ散策の一日です。 昨日ドゥオーモの中を見ましたが、今日は天 気も良かったのでエレベーターで屋上に出ま した。わずか6ユーロでミラノ市街の展望と遠 くスイス国境のモンテローザまで見えました。 屋上に上がるとドゥオーモの尖塔の美しさが さらに一層増しました。グループの他の人達も 時間こそ違いましたがほぼ全員上がりました。 左の写真はブレラ絵画館です。1階が美術学校になっています。最初入口が判 らなく、親切な人に案内していただきやっと入口にたどり着いた次第です。 ここに展示されている作品は15~18世紀のロンバルディア派とヴェネツィア派の作品が充実していました。 中々観るべきものがありました。特に有名なものはアンドレア・マンテーニャ作の「死せるキリスト」、カラヴァ ッジョ作の「エンマウスの晩餐」 、ピエロ・デッラ・フランチェスカ作の「モンテフェルトロの祭壇画」などです。 ここも写真撮影が禁止されており、ビデオで2~3舞の絵画が撮れただけでした。 昼食はブレラ絵画館を出た後、近くのレストラン「ナブッコ」で食事をし ました。 「ナブッコ」については後述します。 食後、徒歩で昨日外から見た大噴水のある「スフォルツェスコ城」に行き ました。このお城は14世紀に権威をふるったヴィスコンティ家の居城を1 5世紀半ばにスフォルツェスコ家が改築し、周囲に塀と櫓を築きました。こ こにミケランジェロが最後まで手がけたという未完の大作「ロダニーニのピ エタ」があるというので行ってみたのですが、残念ながら他の美術館に行っ ているとのことで見れませんでした。 ミラノはなんといってもミラノファッションです。ファッション通り(モ ンテ・ナポレオーネ通り)をウインドショッピングしました。値段は目 玉が飛び出るようなものもありました。店構えが良すぎてなかなか入り 辛いところが多かったです。 若いカップルや旅慣れた高齢の女性の方々はそれでも買っていまし た。免税の処置をとればかなり安く買えるそうです。 ミラノ・フリータイム レストランテ「ナブッコ」 ミラノといえば「ミラノ風カツレツ」がおなじみです。昨 日の夜に食べました。仔牛の肉を薄く伸ばしたものをオリー ブオイルでフライしたものです。レモンをかけて食べるので すが、結構美味しかったです。このレストランのものがミラ ノで一番美味しいとされています。 昨日、今日の昼食をどこにするかを決めるときにいろいろ 候補があったのですがブレラ絵画館の近くで美味しく有名な 所を探した結果、 「ナビッコ」となりました。 ここはミラノでも高級レストランでかなり有名人も来る そうです。入口の感じも入りやすく旅行雑誌るるぶにも載っているところ です。日本語のメニューもあり注文は英語でも出来ますので気に入りまし た。 前菜にモッツァレラチーズにトマトスライスがのっているものと、アサ リスパゲッティを頼みメインに「ミラノ風カツレツ」を食べました。ワイ ンは手ごろな赤ワインを飲みました。なかなか美味しく癖になりそうです。 ボリュームは思ったほど多くなく 適度に満腹になる量でした。問題の値段ですが、全部で90ユーロ ロ(チップを入れて100ユーロ)支払いました。オプションに行くことを考 えれば安かったと思います。 店内は音楽関係(オペラ、クラッシック)の展示物が多く、スカラ座で上演され たオペラのポスターや楽譜の一部が展示されていました。3~4年前に演奏され た「ラ・ボエーム」とか「マダムバタフライ」の演奏会のチラシもありました。 有名な指揮者ではムーティがいました。 今回のツアーでこのレストランに行ったのは我々だけでした。帰国してから 「ナブッコ」について調べたのですが、ナブッコの名前はヴェルディ作曲の有名 なオペラがあり、レストランもそこから名付けられたようです。 右の写真は各席に麦の穂が置いてあり記念に頂けるということで持ち帰り えりました。ナブッコの店ではパスタも自家製で麦を挽いて作っているそうです。そのためかスパゲッティは特に 美味しかったです。 エピローグ・書きもらした事 紀行文を書き終えた段階で思い出したこと、これは書き残しておいた方が良いかなと思ったことを記述しま した。 ローマ空港での警備状況 ローマ空港に着いて空港ターミナル内のビデオを撮ろうとした時、警備員(軍隊?警官?)がやって来て「こ こはダメだ」と言う。自動小銃(もちろん実弾入り)を持った軍隊の服装でした。ここは外国なんだという実感 をした瞬間でした。危機管理の甘い日本とはかなり違っていました。日本では武装警官の格好を見たことがあり ません。 イタリア軍イラクより帰還 空港に着いたとき、あきらかに軍隊と思われる一団が近くの荷物ターンテーブルで荷物を待っていました。 イラクから帰還したのではないかとみんなで話をしたのですが、その日 TV ニュース報道がありましたので本物 でしょう。イタリア軍は死者も出しましたので鎮痛な表情でした。 ローマ遺跡と地下鉄 ローマ市内には地下鉄が3路線(国鉄1路線を含む)しかありません。非常に便利なのだそうですが、ローマ の場合、地下を掘っていくと必ずといって良いほど遺跡にぶつかり発掘作業の関係でなかなか工事が進まないみ たいです。電車の乗り換えは東京と同様色で識別できるそうです。昔、パリに行ったときも路線別に色分けされ ていました。 イタリアの車事情 駐車状況 遺跡の国イタリアでは市内の区画整理はまったく出来ていません。したがって道路も狭く車も小型車中心と なっています。また車通勤も多く渋滞はしばしば見られます。大きい車はほとんど外車(ベンツ、BMW、トヨ タ)です。日本車はトヨタと日産を見ました。タクシーも小型車がホトンドです。路上駐車は観光バスでもか なり厳しく、駐車違反にはことのほか気をつけていました。二重駐車はまずありません。小型車の駐車方法は 前後のスペースがほとんどなくてもバンパーをブチあて割り込んで駐車スペースを作ってしまうパリ方式で す。出るときも同じやり方で前後の車を押し出し、スペースを作ってから脱出します。サイドブレーキはあま りかけないとか。バンパーも丈夫です。 石畳の多い街 ローマに限らず、イタリアは石畳が多い。おる気慣れるとあまり感じられなくなりますが、最初はやはり歩 きにくい街だと思いました。観光客はスニーカーなどが良いようです。ミラノに行くとアスファルトが多くな りますが、その他の観光地はほとんど石畳です。郊外に行くと石切り場が多く見られます。昔から大理石を使 ったり古代ローマでの台形の意志を使った建造物が多いのもその表れでしょうか。ポンペイの遺跡は代表的で はないでしょうか。 イタリア人の働きぶり コンビニが無い イタリア人は夜遅くまで働くことをしません。また、仕事が終わるとさっさと帰宅し、マイホームパパになるそ うです。休みの時はもちろん家事のお手伝いをする大変やさしいご主人がほとんどだそうです。日本とはかなり事 情が違っています。 イタリアの月曜日午前中は商店の休みの所が多くなっています。日曜日は夜遅くまで家族で楽しんでいるからで す。24時間営業のコンビニは絶対考えられません。昼食を家族で時間をかけて行う習慣がいまだに残っています。 イタリアのホテル事情 イタリアのホテルは4つ星でもいろいろです。部屋によればダブルベッドだったり、バスが無くシャワーだけだ ったりいろいろです。ヨーロッパのホテルはシャワーだけのところがけっこう多いとか。セーフティボックスが使 えない(明らかに敀障)所がほとんどです。今回使えたのはヴェネツィアのホテルのみでした。また、歯ブラシも 無く、スリッパすら揃っていないホテルもありました。中には、冷蔵庨の中に飲みかけのビールカンが入ったまま の状態のところもありました。中国でさえこのようなホテルはありませんでした。 ホテルの朝食 イタリアのホテルの朝食はパンとコーヒー(カプチーノ)のみというスタイルでした。今までのツアーではバイ キングスタイルがほとんどで、いろいろな種類を食べ放題でした。パンとドリンクのみというこれがイタリア人の 朝食スタイルです。外国人は食べすぎなのでしょうか。ホテルの朝食を見て、日本人の朝食も見直さなければいけ ませんとの添乗員さんの話でした。今我が家ででも出勤時間の関係でパンとコーヒーのみの朝食となりました。 北へ行くほど経済状態が良くなる イタリアは南部のナポリ地区などと北部のミラノ地区を比較すると生活水準がまったく違います。ミラオの車は手 入れもよく比較的きれいなのですが、ローマ・ナポリではボロボロの車が走っています。年収はミラノの方がはるか に高く、高層マンションはミラノでないとあまり見られません。 (最近ローマ近郊でも建ちはじめたようですが) イタリア人の時間感覚は正常 イタリア人の時間感覚はかなりズレていて1分が1時間、1時間が1日くらいで考えないととんでもないことにな る、という諸説がありましたがこの説はまったくウソです。ローマ観光の2日目、5分前にはバスが来ているはずが 来ていなくて会社に連絡すると「あと2分で着きます」という返事。「あと20~30分くらい待つのかな」なんて 言っていると2分後に時間通りやってきました。日本より時間感覚がスルドイ。 ジプシーに注意(最近のジプシーは賢くなった) ジプシーと呼ばれる引ったくり・たかりがイタリア観光地では横行しています。バックは前にかかえて皆さんは 注意していました。そのためかほとんど見ませんでした。しかし、このツアーの「お人好し3バカトリオ」の皆さ んはピサの斜塔見物の際、斜塔に登らなかった間に、ジプシーにサインを求められ20ユーロ(3人で60ユーロ) 盗られました。本人たち曰く、 「可哀相な人たちがいたからねえ」 。ああ立派なお言葉でした。 ヴァチカンの警備兵 ヴァチカンの法王さまのプライベート区域を警備する衛兵は、古くからスイスの衛兵の衣装スタイルで警備に就き ます。二人でペアを組んでいます。かなりハンサムな人もいるみたいでガイドさんたちの評判になっているそうです。 今日に人はたいしたことがないとか、ガイドの TJ さんが言っていました。 ガイドさんの目印は傘 イタリアでのガイドさんの目印は旗ではなく折りたたみ傘でした。旗ですといかにもおのぼりさん・旅行者ですよ と言わんばかりでスリなどの格好の標的となりますので、その防止策だとか。雤に遭ったローマでも自分はビショ濡 れになりながらも傘をささないで旗代わりに使用していました。ああ立派な根性です。 いたる所ワイン畑 イタリアは世界一のワイン生産国です。いたる所にワイン畑があります。今回の旅行で最上級の DOCG にランク されるワインからテーブルワインまで飲みましたがどれをとってみても大変おいしいワインでした。田舎の小さな農 家までワイン畑があり自家製ワインを飲んでいるようです。イタリアにも「グラッパ」という蒸留酒があります。度 数は40~60度まであり、味は中国の白酒(パイチュウ) 、ロシアのウォッカに似ていました。 イタリアはカード世界、TC(旅行小切手)は損をする イタリアでもカードの方が使い勝手がよく、たいていの店で使用可能です。今回、旅行社の薦めで TC を利用しまし たが手数料が高く、これならキャッシュの方がよかったと思うときがしばしばでした。手数料6%とられたところもあ りました。 トイレ事情 イタリアでのトイレは有料のところが多く、チップ(25セント位)が亜必要なところがあります。今回のバス旅行 ではトイレ休憩でもしばしばありました。スーパーマーケットになっている所やお土産、免税店、レストランなどでは チップの要らないところを利用しました。チップで生活費を稼いでいる人たちもたくさんいるから生まれた習慣でしょ うか。 イタリアの学童通学 イタリアの通学はスクールバスか父兄が送迎するシステムになっています。観光バスもスクールバスの業務を朝行っ てから観光業務に就いたりします。 イタリアには野球場がない? イタリアではついに野球場は見ませんでした。ヨーロッパではほとんど野球をしないのかもしれません。サッカーは 非常に熱心で国技になるくらいで、立派なサッカー場はいたり所にありよく見ました。子供たちの遊びでもサッカーを したりバレーボールやバスケットをやっているのを見ました。 イタリアの食事 イタリア人の主食はパスタで毎日1回は食べるそうです。日本ならばさしずめ米出そうか。パスタも種類が多くマ カロニタイプからニョッキ、スパゲティまであります。ナポリにスパゲッティの製造会社があり大きな工場もありま す。パン食はあまりしないで食べるのはフォカッチャやパニーニをサンドイッチにしてパン屋さんの自家製で食べて いるようです。あとは食後のペストリーを食べているようです。ホテルのパンは決しておいしいとはいえませんでし た。明らかに昨日作った残り物が多いと思いました。レストランで食べたロールパンが非常においしかったです。 ヴェネツィアの警官はボートで 水の都ヴェネツィアにはパトカーは走っていません。当然のことで高速ボートのパトカー版がありました。島内には 自転車に乗っているのを見ました(大変尐なかったのですが)。石畳で橋の多いところでは役に立たないと思いますが。 そういえばタクシーもボートです。車線もありませんので追い越し禁止やスピード違反で捕まることはあるのでしょう か。 ユーロでよかった リラなら大変 イタリアの通貨はユーロです。昔イタリアに行った経験者からの発言で「リラだったら財布がいくつあっても足り ないよ」と言っていました。昔10万リラ札、20万リラ札もあったそうですがお釣りをもらう度に財布の中身がや たらと増えて大変だったそうです。ヨーロッパ通貨の統一で表示が1000分の1になりました。ヨーロッパの主役 になったユーロは他国でも使用可能です。ユーロでよかった。 ネオンが尐ないイタリア イタリアはミラノを除きネオンが非常に尐ない。パリに行ったとき(93年1月)ネオンは禁止されていて、白(ほ とんど灰色)に統一されていたという話を聞きました。イタリアでも同様、フィレンツェ・ヴェネツィアを中心に家 の壁まで統一されています。したがって小さい看板はありますが大きい看板や念サインはほとんどありません。まさ しく観光都市やる所以でしょうか。ミラノはさすがに商業都市だけに日本の銀座通りのようにたくさんのネオンサイ ンがありました。 市内電車が走るミラノ ミラノではまだ市内電車が走っています。決して広くない道路ですが、2両編成、3両編成のカッコいい市内電車 が走っていました。ローマではトロリーバスが走っているのを見ましたが、ミラノでは地下鉄も3路線走っていま す。 駅間は非常に短いみたいです。地元住民は地下鉄を利用するそうですが、市内電車は到着時間がわからない為お勧 めできないと言っていました。車の交通量は東京並みでかなり渋滞も多く混んでいました。 お土産はガイドブックとヴェネツィアグラス 今回の旅行のお土産は各都市・訪問先美術館観光地のガイドブッ クです。最近美術館で写真撮影禁止になっているところがほとんど で、仕方なくガイドブックを買うハメになりました。これだけでも かなり重くなり、トランクが重量オーバーギリギリでした。(航空 会社によればオーバーした分の料金を叐られます。) 今回のツアーはイヤホーンでガイドさんの解説を聴くことが出 来、楽しく鑑賞することが出来ました。ガイドさんから離れていて も雑踏のなかでもはっきりした音声できくことが出来るのは本当 によかったと思います。またこのガイドブックがこの旅行記を作る 参考資料にもなりました。 ヴェネツィアングラスです。当初購入予定は無かったのですが、 工房で説明を发け、実物を見ているとワイン好きの私はついに買っ てしまいました。品物は非常に良いものだそうです。ヴェネツィア ングラスは美術品としての価値が高いので家宝にするつもりです。 このワイングラスのほかに小さいグラスも買いました。ヴェネツィ アングラスは非常に硬度の高いグラスで割れにくく大変丈夫です。 実演していましたが並みのクリスタルグラスではないようです。 「ラクリマクリスティ キリストの涙」というワインがナポリにあり、ガイドさんから勧めれるまま飲んでみた。 クラスはDO位か、地元で購入すると 2000 円しなかったと思う。大変飲み心地の良い、癒される味がする。聖書の 中にある「キリストの涙」から叐った名前とか。貴重な経験だった。 旅行記を書き始めると、次から次へこれも書こうあれも書こうと欲張ってきます。ついに最終弾になりました。まだ まだ思い出すことはあるのですが、これくらいで終わりにしたいと思います。 今回ヨーロッパ旅行は2回目ですが、やはりヨーロッパは良い所です。また時期を改めて別のところを訪問したいと 思います。世界旅行も今回のように時間が叐れればじっくりとあちこち見物できるのですが、現役サラリーマンとして は長期間の旅行はしばらくお預けでしょう。また安・近・短の旅行をしたいと思います。
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