2013~2014 年度 大船渡西ロータリークラブ会報 七福人 会 RI 会長テーマ ・・・ ン グ :それでこそロータリー 熊谷 雅也 副会長 藤原 太伸 幹 菅野富久子 例 9月第3週例会 ソ 長 事 会 記 録 会長テーマ なにげない と き 今日の瞬間を大切に テーマ ・・・ 2013年9月19日(木) ボックス :24,000円 (報告者 門田 崇 会員) 本日出席率 : 59.09% 前回修正後70.45%(メーキャップ0名) (報告者 山田喜美雄 会員) ★ 会長の時間 熊谷雅也会長 最近は自然災害のニュースが毎日のようにテレビや新聞で報道され、日本列島 全体が気が休まる暇がありません。そんな中で、誰もが楽しんだり興奮したりで きるのがスポーツの話題や音楽やコンサートの話題かと思います。 プロ野球では楽天の田中が破竹の開幕 21 連勝。また、ヤクルトのバレンティ ンが王選手のシーズン 55 本記録を抜いて、今 58 本まで記録を伸ばしている ようです。三冠王も可能性があるようで、こちらも楽しみです。彼は、カリブ 海に浮かぶオランダ領アンティルのキュラソー島ウィレムスタット出身と言 うことですが、きっとハングリー精神を持っているのでしょう。日本の野球界 で花が開いて嬉しいです。 以前卓話で話した、アフリカ大陸初の関取大砂嵐ですが、先場所、ラマダンの断食期間にもかかわらず 10 勝 5 敗で勝ち越して、エジプトに凱旋して大歓迎を受けたようです。今場所は十両に昇進して今のところ 3 勝 1 敗と勝ち越しているようです。 さて、話が変わりますが先日の大嵐の日、盛岡で平原綾香のコンサートがあり妻と二人で聴いてきました。 CDではよく聴いてましたが、やはり生で聴く感動は格別で、今も余韻に浸っています。震災後に聴いた生の コンサートは小田和正とこの平原綾香の二つですが、どちらも熱烈な追っかけのファンが全国からたくさん集 まっていました。音楽の持つ力というのは本当にすごいと思います。 歌手というと地元大船渡にも最近は大沢桃子、HAMA ちゃんこと濱守栄子などいろいろな歌手が活躍して いますが、やはりこれまで一番知名度が高く人気があるのは新沼謙治かと思います。 一昨日のNHKの「歌謡コンサート」に新沼謙治が一中の生徒たちと一緒に出るというのでチャンネルを回し ました。震災後につくった「ふるさとは今もかわらず」を歌ったのですが、これがとてもいい曲で、地味に広 がっているようです。今年の紅白にひょっとして出るのではないかと期待しています。一中の生徒のバックコ ーラスで「ふるさとは今もかわらず」を歌う紅白の新沼謙治の姿をぜひ見てみたいと思います。 ところで、大船渡では毎日 3 回防災無線を使って曲が流れます。意外と何の曲が流れているか思い出せないの ですが、みなさん覚えていますか? 朝は、 「エーデルワイス」昼は「野バラ」、そして夕方は「イエスタデイ」。 何故、大船渡で夕方にビートルズの曲が流れなければいけないのか、しかも「イエスタデイ」なのかどうもよ くわからないですね。 自分はこの 3 曲のうちとりあえず 1 曲を謙治の曲にしたらいいなと、以前から思っていて、甘竹前市長にも提 案したことがありますが実現しませんでした。曲の候補としては「嫁に来ないか」にしてはどうかなと思いま す。夕方 5 時になると「嫁に来ないか」が流れる。すると、復興支援に、余所から来ている娘が「あれ、この 曲は何の曲?」と聞きます。「この曲は、大船渡出身の新沼謙治の『嫁に来ないか』だよ」「あんたも、このま ま大船渡でいい人見つけて結婚しらいや…」と話が進む。やがて、この娘は大船渡の人とめでたく結婚・・・、 とはうまくいかないかも知れませんが、それでも話題のきっかけになります。また、新沼謙治がこれまで果た してきた業績を顕彰することにもなります。以前彼のコンサートを大船渡で開いたときに実行委員で手伝った ときがありましたが、彼の追っかけもたいへんな人数でした。 演歌歌手というのはややもすると低く評価されがちです。新沼謙治を市民としてしっかりと顕彰してあげるこ とは、後に続く若い人にとっても励みになるのではないかと思います。3 曲のうち 1 曲を謙治の曲にすれば、 「残りの 2 曲のうち自分の曲も、いつかは…」と若いミュージシャンも頑張るかも知れません。 このアイデアに賛同していただける方は、機会あればいろいろなところで話してもらえればと思います。 ◆◆◆ 1 ガバナー事務所より 幹 報 告 ◆◆◆ ロータリー情報研究会よりの資料ロータリー情報冊子の案内が届いています。 2 気仙未来大学招致委員会より 3 臨時理事会開催のお知らせ 発会式参加への礼状が届いています。 9月24日(火)14時~ 於 西クラブ事務所 ◆◆◆ ★ 事 委 員 会 報 告 ◆◆◆ 松岡克之社会奉仕委員長 9月26日の例会は野外例会で「育みの像」 「4つのテスト碑」清掃作業です。 ◆◆◆ 本日のテーマ ◆◆◆ フリーアワー ★ 山田喜美雄会員卓話 皆さん、こんにちは 今日は、私の「卓話」ということを仰せつかりましたが 人生の諸先輩を前にしてさて、何を話そうかなと、悩みました。本来は、皆さんが 知っていそうで、実は知らない「病院の事」や「気仙苑の事」等を話そうかな、 と思いましたが、職務上、知りえたことは、たとえ、家族であっても話してはなら ない、と言う「絶対的な守秘義務」がありますので肝心な、面白い裏話ができませ んので、やめました。 今日は、自分の 57 年間の半生を話します。 ただし、57 年間をすべて話しますと、57 年かかりますので、今日は、かいつまん で、お話させていただきます。私は、末崎町門の浜で「夏の暑い日に、母が麦畑で 農作業中」に生まれました。高校までは地元で暮らしましたが、テレビの影響を受けまして「どうしても、東 京での大学生活に憧れました。貧乏な家でしたが、何とか親に頼みこんで東京の大学に進学しました」 。当然、 受験勉強のための、参考書などの類の本は買ってもらえませんでしたので、ひたすら、教科書や友人がいらな くなった参考書を貰って、自分なりに勉強しました。親は、これでやっと、高校を卒業して、働いてもらえる と、思っていたようですので、なかなか、大学に進学したい、などとは言い出せずにいました。そこで、浪人 はしない・仕送りは「一切」いらないという条件で、親を説得しました。そのため、私の大学生活は、あまり 勉強せずに、東京でまさに、生きるために、アルバイトに明け暮れた 4 年間でした。 卒業時、今から 35 年前の昭和 54 年のことです。縁ありまして、当時県議会議員のちの大船渡市長になり ました、白木澤 桂さんに相談したところ、 「木川田 典彌先生」を紹介されました。この先生は将来、ドで かいことをする先生だから、暫く先生のところで修業しなさいと言われるまま、今の勝久会の前身であります、 地ノ森クリニックに就職しました。 その 2 年後、どうしても「東京で、何か自分を鍛えてくれることに出会いたくて」と言う気持ちを抑えきれ ずに、地ノ森クリニックを辞めて、布団一つでまさしく、裸一貫で東京に出ました。当時を思い出せば、東京 に出ても、泊る所もなく、仕事のあてもなく、とにかく、今のように「宅配」システムがありませんでした。 知ってる方が多いと思いますが、当時は「ちっき」という方法がありましたので、大学生時代に住んでいた「駅」 の日本通運に布団 1 組を送り、すぐに「風呂なし」 「トイレなし」の 4 畳半一間のアパートを借りて住み始め ました。仕事のあて、は全くありませんでした。でも、若さゆえ、怖いもの知らずで、何とかなるさ気分でし た。今、思えば、若気の至りですが、一度も後悔したことはありません。すべては、いつか自分の肥やしにな ると思ってとにかく、突っ走りました。どんな、些細なことでも、自分が真剣ならば、無駄なことなど、何一 つ無い、と言うのが私の信念です。 運よく、上京後、すぐに「企業の社員研修」を受け負う会社に入りました。そこの社長がユニークな方で、 新聞広告を見て、履歴書をお送りし、面接を受けました。しかし、あまり乗り気ではなかったので、入社を断 ったのですが、電話を買うお金がなく、もちろん、携帯もなかった時代ですが、そこの社長から、毎日、御誘 いの電報が 1 週間ほど続けて届けられました。その熱意に誘われるように入社しました。 約 15 年間勤めましたが、その間に様々なことがありました。 「新入職員研修」 「管理職研修」 「外国語研修」を主に、東京証券所一部上場企業を中心に請け負いました。 自慢できることと言えば、トヨタ・日産自動車・マツダなどがこぞって、アメリカ進出のための人材育成を急 いでいた時です。その時代の流れに乗りまして、自動車メーカーに営業攻勢をかけました所、当時「日産自動 車」の全社員:6 万人いましたが、その中の 2 万人に私が作成しました、アメリカでの生活習慣・日常英語の プログラムを受講戴きました。トヨタ自動車では、1 万人・マツダでは 5 千人が受講した事が今でも私の自慢 です。当時、一人当たりの受講料が、1 年間で、10 万円でしたので、10 万円×2万人で 20 億円の契約を取 り付けました。当時の売り上げに対する、いわゆる、粗利は 5 割でしたので、10 億円程の粗利で会社に貢献 したお陰で、1 回のボーナスが、500 万円の時もありました。 その後、大阪の営業所長になりまして、5 年間、大阪で暮らしました。息子は、大阪で生まれましたので、 息子の出身地は「大阪府」となっています。この会社では、成績優秀者を毎年、6 ヶ月間の海外研修に出して いました。今から、丁度、30 年前、私が、27 歳の時、この海外研修生に選ばれました。普通の研修ではなく、 会社からの様々なルールを示されました。 一つは、絶対に、ツアーや観光会社を利用せずに、飛行機も宿泊もすべて、現地で自分でやる事がそのルール でした。 二つ目として、6 ヶ月間、どのように過ごすかは、すべて自分で決めること、でした。 私は、アメリカへ行くことを希望しました。会社から、当時のお金で、現金:3 百万円を貰って、先ず、サ ンフランシスコ行きの航空券を日本で買って、サンフランシスコ空港に着いたその時から、宿も食事もその 日・その日をどのように過ごすか、何処にどのように行くかを現地で、毎日自分で調べて、自分一人で行動す る日々が 6 ヶ月間続きました。サンフランシスコ・サンディエゴ・ロサンゼルス・ニューヨーク・ワシントン・ フロリダなど、まさにアメリカ大陸を 1 周しまして、そして最後にハワイを経由して成田に戻ってきました。 アッという間の、珍道中の 6 ヶ月間でした。このときのエピソードにつきましては、後日機会がありましたら、 ゆっくりとお話します。しかし、順風万帆な日々は、長続きしませんでした。 部下は、みんな、私より優秀な大学を出た人が殆どでしたので、会社では、常にねたまれていました。岩手の 田舎者が何で、俺達の上司なんだ、との「ひがみ」や「やっかみ」が周りから、常に聞こえてきました。 お金がなかったので、結婚式もしませんでした。それが、今でも、妻には、申し訳なく思っています。 自慢する訳ではありませんが、結婚して今年で、31年目を迎えますが、この 31 年間、妻は、1 日たりとも、 私より早くねることがありません。私より遅く起きることもありません。ゴルフが好きなので、朝、4 時に家 を出なければゴルフのスタート時間に間に合わない時にも、3 時に起きて、朝ごはんを作ってくれます。 夜、付き合いで、キャバクラなどをハシゴして、帰りが、午前様になっても、必ず、夕御飯を用意して待って いてくれます。全く、妻には頭が上がりません。この家族を自分の命をかけても守ろうと、必死に働きました。 しかし、頑張れば、頑張るほど、布団一つで、岩手から出てきて、頼る親戚も、知り合いの頼る人もいない 中で、自分の事は自分でやるしかない、と決めてようやく掴んだ地位を離したくない一方で、こんな出世競争 はもう、 「嫌だ、疲れた」と言う、自分がいました。 精神的に、追い詰められて、ある日のことです。今で も、はっきり覚えています。 それは、東京の黄色の電車で有名だった、総武線の千駄ヶ谷駅のホームから飛 び降りて線路を歩いている自分がいました。幸い電車は来ませんでしたが、 「俺は何をしているんだ」と「ハ ッと」我に返り、駅のホームに這い上がったのを昨日の事のように、覚えています。自分の生きる意味を見失 ってしまったのです。それからは、殆ど、週に 1 冊のペースで本を読みまくり、何か自分の心の支えになるこ とを探しまくりました。 「生きるとは」 ・ 「人生とは」 ・ 「人間は、どうして働かなければならないのか」とい った本、具体的には、松下幸之助・本田宗一郎・歴史の本など、手当たりしだいに読み漁りました。 また、禅寺で、座禅を組んで、自分を見つめ直すこともしました。そして、たどり着いたのが日本に古来か ら伝わる「合氣道」の道場に通って、心身統一を身につけようとしたりしました。ここでいう、「合氣道」の 氣と言う漢字は、このロータリアンの阿部英氣さんの「氣」です。普段、気という漢字はカタカナの「メ」を 中に書きますが、この「メ」は「〆る」とも読みますので、あまり好ましくありません。 「氣」は中に閉じ込めて〆るものではなく、四方八方・宇宙に向けて、飛び散る「さま」が表現される「米」 という漢字に似ている、阿部英氣さんの「氣」が正しいと教わりました。ですから、昨年に、この大船渡西ロ ータリークラブの会員名簿を見た時に、阿部さんのご両親が、この意味を知っていて付けたのであれば、素晴 らしいお名前だ、と感心した次第です。この「氣」についてお話します。 私達の「日常生活の中には」氣に関する言葉がたくさん、あります「元気、勇気、活気、陽気、根気」など・・ また、 「気を吐く、気持がよい、気が入る、やる気がある」など、これらは、良い氣です。これらの反対語と して、弱気、陰気、内気、気にかかる、気を抜く、気が緩む、気に障る」などがあります。 「病いをしても、病気になるな」という、言葉があります。体の故障、すなわち病い、は仕方ない事ですが、 氣まで病むと弱気になり、生命力を衰えさせ、治る病いも長引かせたり、悪化させてしまいます。 そこで教わったのが、 「身に病いあれど、心、必ずしも病まず」という氣慨が必要だと云う事です。 また、人間には、 「心」と「身体」があります。 「こころ」は、色もなく、匂いもなく、形もなく、自由自在 に飛んでいます。 「身体」は、色もあり、匂いもあり、形もあり、動きに制約があります。 この「こころ」と「身体」は、車の両輪のようなものですから、バランスよく「一つになって、動かなければ なりません」また、 「こころ」と「身体」は氷山の一角に例えられます。目に見える部分は、氷山のほんの一 角であり、大部分は、水面下に隠れています。私達が「自分の力」と思っているものは、実は「氷山の一角」 の目に見える部分に過ぎないということを教わりました。「こころとからだを一つに統一して、使った時にそ の人の、本当の力が発揮されることも教わりました。それを、自分の日常生活や仕事に生かすことも教わりま した。目標を決めたら、常に、その物事をなし終えて、成功した姿を、完了形でイメージして物事に当たるこ とや常に、プラスの言葉・プラスの考え方で積極的な人生を送る、あるいは、仕事を進めるとい言う、事を教 わり、そこから自分の人生が変わりました。 「なせば成る、成さねばならぬ、何事も」と同じ発想です。 一生に、一度の人生、どうせなら、楽しく、自分の氣持ちに正直に、プラスの言葉を使い、プラスの人生を送 りたい、といつも自分の心に言い聞かせています。 結びになりますが、この「医療・福祉の業界」に 20 年近く、携わっていますが、正直言いまして、老後は 出来ることなら「病院の世話にも、施設の世話にもならずに、一生を終えたいものです。 それが、PPK/GNPです。PPKは、ピンピンころりです。GNPは、元気に、にっこり、ぽっくり、で す。そして、今、また、縁ありまして、生まれ育った大船渡に昨年、戻ってきましたが、私は「医療・福祉の プロ」の自覚がありますので、これからも、自分を必要としてくれるところがあれば、世界中、何処でも行き ます。妻には、既に話していまして、好きなようにどうぞ、と言われています。 ご清聴有難うございました。
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