相手のことを批判して、責めた

マ タイに よる福 音書2 2:2 3~33
「あな たの命 の支え 」
相手のことを批判して、責めたいと きに、相手を口ごもらせるた めに、わ ざと答えられ
ないような質問をすること があります 。私が小学生の時には、そ ういう姑息 な質問をする
時の常套句として、「何時何 分何十秒、 地球が何回まわったとき? 」「答えられ るもんなら
答えて見ろよ」という、と っても懐か し言い回しが 使われていて 、もうこれ は、死語だと
思っていましたら、娘が、 最近同じ言 葉を小学校から学んできま したので、 まだこの常套
句は生きているのかと、驚 かされまし た。今朝の主イエスは、ほ とんどこの 言葉と 同じよ
うな、意地悪な問いかけの 前に、立た されています。
問いかけたのは、復活を 信じない、 そして奇跡的なことの一切 を信じない 、宗教者の装
いをしながらも、世慣れし た現実主義 者、貴族階級に属していた 、宗教家と いうよりは、
神殿の宗教的権威からくる 利権 に群が る政治家たち 、と言った方 が良いよう な、サドカイ
派と呼ばれる人々でした。 そして、そ のサドカイ派のもう一つの 特徴として 、彼らは、旧
約聖書はじめの創世記から 申命記まで の、モーセが書いたと言わ れている、 いわゆるモー
セ五書のみを聖書と認め、 信じるとい う信仰的特徴を持っていま した。
この御言葉の前後では、 主イエスは ずっと論戦を張っておられ ます。 この ような、 ファ
リサイ派、ヘロデ派、サド カイ派 など の、ユダヤ教の宗教的権威 者たちが、 この時次々に
論敵として、主イエスを捕 らえて殺し にかかろうとして、逆に言 えば、主イ エスを 攻撃す
ることで、自分たちの宗教 的権威を守 るために、変わる がわる主 イエスの前 に 立ちはだか
るのです。
そして今朝のサドカイ派 の意地悪な 質問とは、 こういう質問で した。
24 節から 28 節です。「 22:24 先生、モ ーセは言っています。『ある 人が子がな くて死んだ
場合、その弟は兄嫁と結婚 して、兄の 跡継ぎをもうけねばならな い』と。 22:25 さて、 わ
たしたちのところに、七人 の兄弟がい ました。長男は妻を迎えま したが死に 、跡継ぎがな
かったので、その妻を弟に 残しました 。 22:26 次男も三男も、つ いに七人と も同じように
なりました。 22:27 最後に その女も死 にました。 22:28 すると復 活の時、そ の 女は七人の
うちのだれの妻になるので しょうか。 皆その女を妻にしたのです。」
これは、答えに窮するで あろう主イ エスを、群衆の面前にさら して、笑い ものにするた
めの質問でした。彼らはそ うやって、 この者の言葉は聞くに値し ないと、そ して自分たち
の方が主イエスより教養高 く優れてい て、聖書についてもよく知 っているで はないか、と
群集に示そうとしました。
この質問を一度お読みい ただければ 、この質問にかもし出され ている彼ら の陰気さ、意
地悪さが容易に読み取れま す。7人兄 弟がいて、長男から 順番に 死んでいく のです。そし
て、確かにモ ーセ五書の申命 記に記され ている制度なのですが、家元 を絶やさな いための、
レヴィラート婚という、長 男の妻が死 んで未亡人になってしまっ た場合、 生 き残った兄弟
が、その妻の責任を取ると いう制度が ありましたので、これで行 くと、長男 の妻が、次に
次男、次に三男、次に四男 、五男 と、 順々にその兄弟の妻として 迎えられ 、 7 回結 婚する
ことになると。そして最後 に は、 7 人 全員が死んで、その妻も死 んだとして 、復活後は 、
その妻は、果たして誰の夫 になってい る でしょうか?という、ま ったく の、 無理な作り話
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に基づく質問です。本当にこれは、リア リティーのない、知的遊戯に過ぎ ない ものであり、
悪い意味でのインテリが、 意地悪問題 として ひねり出すような質 問でした。
サドカイ派の人々は、元 々復活など 信じていませんでしたが、 もし復活な んていうこと
があるとすれば、彼らは単 純に、それ は時計の針が巻き戻されて 、死ぬ前の 、生前の状態
に戻るようなことなんだろ うと、その 程度にしか考えていません でしたので 、時計が巻き
戻されて、七人と結婚した妻 が生き返っ たら、その人は結局その際に は誰の妻に なるかと、
そういう変な、相手をウー ンと唸らせ たいがためだけの質問をし たの です。
使徒パウロは、コ リントの信徒への 手紙で、
「 キリストが 復活しなかったの なら、わたし
たちの宣教は無駄であるし、あなたがた の信仰も無駄です。」と言い 切りました が、確かに、
復活も奇跡も信じないのな ら、すべて が自分たちの常識の範疇で 起こること で、超自然的
な力などはどこにもないと いう考えな ら、神様などいなくてもい いし、信じ る必要も、祈
る必要もない、ということ に至ること ができてしまいます。実際 、サドカイ 派の人々にと
って、神様というものは、 自分たちの 生活の補強手段、補助輪の ようなもの で 、自分の自
己実現に役立つなら信じて もいいし、 自分に利益をもたらす神様 の教えなら 聞いてもいい
けれども、自分の生活や存 在が問い直 されたり、それを犠牲にし たり、それ が 根底から揺
さぶられるようなことにな る神様だっ たら、 そんな神様は御免こ うむると思 ってい た、そ
ういうスタンスでした。
けれども、彼らのこうい う冷めた考 え方を、 私たちは、他人事 だと簡単に 退けることが
できないと思います。これ は、私たち も、 もしばしば、そこに落 ち込んでし まうことのあ
りうる、考え方ではないか と思います 。どこまでも 自分目線で、 そこにうま く 合わせられ
るような神様だけを採用す る。神を論 じたり 、この聖書を読む時 も、そうや って自分本位
にそれを読んでいくという ことも起こ りえます。
この聖書の時代も、またこ の現代にお いても、サドカイ派的な自 分目線で、 神様が、自
分のニーズに合うようなか たちで解釈 され、利用されてしまう時 、その時の 神様とは、人
間に仕える神様であり、そ れは あまり にも小さい 力しか持たない 、 力がない 神様です。
けれども主イエスは言われ ました。
「あ なたたちは聖書も神の力も 知らないか ら、思い違
いをしている。」聖書 が言っていること とは、そんなにスケ ールの小さな話で はない。神様
の力とは、奇跡も復活も実 現でき ず、 あなたの自己実現の道具に されてしま うような、そ
んな小さなものではないと 。
そして主イエスは言われま した。30 節。
「復活の時には、めとることも嫁ぐこと もなく、
天使のようになるのだ。」
「めとるとかとつぐ」とい う言葉は、 人間の日常生活を表わして います。天 使はめとっ
たりとついだりしません。 恐らく天使 に は、所属する国籍や、家 計を示す 苗 字はありませ
ん。全ての天使は神様と直 接結びつい ているからです。神様以外 にはめとら れ ず、神様以
外にはとついでいくべきと ころもない 。全てのことが神様 につな がっている 。これが天使
のような神様との関係です 。つまり、 30 節の この言葉は、「復活 の時には、こ の世のあら
ゆる関係を超えて私たちは 神様と 直接 結び付くのだ」ということ ばです。 復 活のあとの世
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界は、今の私たちの世界の まったくの 延長ではなく 、それは単な る時計の巻 き戻しではな
い。そこでは、めとるとか とつぐとい う私たちの世界の日常性は 消え去って 、くっつくな
ら、すべては神様とくっつ く、そうい う世界になるのです。
さらに主イエスは、今朝のも っとも重要 な言葉である 31 節 32 節 の言葉を語ら れました。
「死者の復活については 、神があなた たち に言われた言葉を読ん だことがな いのか。
『 わた
しはアブラハムの神、イサクの 神、ヤコブの神である。』とあるのでは ないか 。神は死んだ
者の神ではなく、生きてい る者の神な のだ。」
モーセがこういっています と言って議 論をけしかけたサドカイ派 に対して、主 イエスも、
モーセに対して語られた言 葉を引用し て、復活を論証 されました 。 この「ヤ コブの神であ
る。」という「である。」と いう言葉は 、現在形の言葉です。ヤコ ブの神だっ た、という過
去形ではありません。
つまり、復活の時には、め とることも 嫁ぐこともなくなり、天使 のようにな って、神様
と直接結びつく、そうやっ て、今も生 ける神様と結び付いて、そ こで生きて 、結び付き続
けている、アブラハム、イ サク、ヤコ ブがいる。彼らは今も、生 ける神につ ながった者た
ちとして生きているとおっ しゃるので す。
ここから先は、この御言 葉が引用さ れた元の、出エジプト記 3 章に戻って 、この状況を
詳しく見て見たいのですけ れども、「ア ブラハムの神、イサクの神 、ヤコブの 神である。」
という、三つ繋がりのこの 言葉は、旧 約聖書 では、この出エジプ ト記に 3 回 出てくるだけ
の、これは、モーセに対す る 、神様に よる 特別なかたちの自己紹 介の言葉で す。
この言葉がモーセに語られ た時、炎の 中に御使いが現れて、柴が 火に燃えて いるのに、
柴が燃え尽きないというこ とが 、目の 前で 起こっていました。そ の柴の中か ら、例の神様
の言葉が聞こえたのですけ れども、こ の燃えない柴というもの自 体が、復活 の何たるかを
現しています。聖書は、地 獄のことを 、火の池とか、火と硫黄の 池などと呼 んでいますよ
うに、聖書では、火は、地 獄の象徴、 永遠の死の象徴です。しか しその火に 包まれて燃え
ていながらも、モーセが見 た柴は 燃え 尽きなかった。 つまり神様 は、 こうい うことをして
くださる方であるというメ ッセージが 、既にここにあります。
聖書が語っている、復活の 救いとは、 死を突き抜けて生きるとい う救いです 。それは、
死を避けるということでも なければ、 死なないということでもあ りません。 死を避けるの
ではなく、死に瀕して、死 を経験しな がらも、その死の業火によ って 、火の 池によっても
燃え尽きずに、守られると いうことが 、聖書が語る、復活 の力で す。
他にも、聖書が語って いることで言え ば、ダニエル書の 3 章 もそうです。そ こでは、シ
ャドラク、メシャク、アベ ドネゴの三 人が、近づいたものを簡単 に焼き殺す ほどの強い炎
が燃え立つ、窯の中に入れ られるとい う死刑を執行されながらも 、彼らは、 炎の中を自由
に歩き回り、
「火は体を損なわず、髪 の 毛も焦げてはおらず、上着も元 のまま で、火の匂い
すらなかった。」 (ダニ エル 3: 27)と言 われています。
主イエスは、「あなたたち は、聖書も神 の力も知らないから、思い 違いをして いる。」と
言われましたけれども、聖 書が語って いる、神の力とは、サドカ イ派が間違 って理解して
いるような、無理やりな天 変地異や奇 跡を起こす力ではなくて、 あるいはそ れは、単純 に
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時計の針を巻き戻すことで もなくて、 この様に、死の業火の中を 通る私たち を、その火が
燃え移らないように、神様 が守ってく ださるということです。神 様は、自分 の命よりも、
この私たちの命の方を大切 に思ってく ださっています。それゆえに 、神様は 、御子イエス・
キリストを十字架に付けて 、主イエス の命を犠牲にし、それと引 き換えにこ の私たちの命
を救ってくださいました。 これが聖書 の語っている救いであり、 神様はその 力を、私たち
の命を守り、支えるために 使ってくだ さるのです。
そしてその燃え尽きない柴 からモーセ に聞こえてきた神様の自己 紹 介が、
「 ア ブラハムの
神、イサクの神、ヤ コブの神」という 言葉でした。
「アブラハ ムの神、イサク の神、ヤコブ
の神」とは、これは、アブ ラハムや、 イサクや、あのヤコブが、 立派で、偉 く尊い人物た
ちだからこそ、神様が彼ら の神となっ たという意味の言葉ではな くて、むし ろ逆に、アブ
ラハムもイサクもヤコブも 、信仰の父 祖たちと称されはしている けれども、 その生涯は、
決して信仰者として理想的 な人生だっ たのではなくて、実際には 困難と弱さ と失敗の積み
重ねのような歩みだったと いう現実が あります 。彼らのその生涯 は、彼ら を いつもそばで
助けてくださった神様の支 え無しには 、とても成り立ちませんで した。 でも 、あの 、自分
の身を守るために妻を妹だ と偽った ア ブラハム のことも、家臣の お世話で結 婚し、晩年老
いぼれて自分の息子を取り 違えた イサ クのことも、あの兄を騙し て一人で家 出をしなけれ
ばならなかったような世話 のかかる ヤ コブさえも、彼らを救いの 源にすると いう約束 一本
によって、その弱さも失敗 も、良いと ころも悪いところも全て 含 めて、豊か に 支え、導き
抜 い て くだ さ った 神 様が 、今 や 、フ ァラ オ の 力を 恐 れて 、 とて も勝 て そう にな い と 、 500
年もの間、エジプトで奴隷 状態にあっ たイスラエルの民を率いて 、そこから 脱出されるな
ど、俄然不可能な話 だと 怖気づいてい る モーセに対して、
「 私はお前モーセの ことも、アブ
ラハムたちと全く同じよう に、守る神 だ 、いつも現在進行形で、 守り続ける 神だ 。だから
大丈夫だと」と、励まして くださった のでした。
そしてこの御言葉は、この 私たちに対 しても当てはまります。 神 様は、過去 に生きた神
様ではなく、今ここに共に いて、 いつ も現在形進行形で生きて、 私たちを支 え続けてくだ
さる神様です。この方は、 アブラハム の神でもあり、モーセの神 でもあり 、 板宿教会の神
でもあり、今ここにいる、 あなたの神 でもある。こ の神様は、神 様は私たち 一人一人の名
前も、ちゃんと知っていて くださり、 私はあなたの神であると、 あなたの名 前を呼んでく
ださる神様です。
私はあなたの神であるとい う、この現 在形の生きた神様との関係 は、ローマ 書 8 章が語
っていますように、死によ っても、ど んな力によっても、引き離 すことがで きません。私
の命は、そうやって、常に 神様によっ て守られ、永遠に支えられ る。
神様を信じ、神様と結び付 く時に、こ の復活ということと、永遠 に神様と一 緒に現在進
行形で生き続けられるとい う恵みも、 一度に、いっぺんに、私た ちに与えら れます。
「わたしはあなたの神であ る、あなた が緋の中を通るときも、私 はその日を あなたに燃
え移らせない。わたしは、 あなた命を 、いつも支え続ける 」と、 死より強い 大きな力を持
つ神様が、言ってくださる こと。 私た ちに与えられる、これ以上 に心強い 励 ましと力は、
他にありません
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